大学側が漸く陣形を整えて、着々として、積極的に攻勢に出始めたのに対し、革新団の抵抗は、末期症状を呈して悲壮に、激越に、そして絶望的になったのは、あたかもパリ・コミューンが、パリのペール・ラシェーズに拠って最後の抵抗を試みた前後の情景を連想させる。
九月一日、新理事体制発足の日以来、彼らは矢来俱楽部、八千代俱楽部その他を会場として、連日連夜の如く演説会を開いた。もはや天野学長推挙では魅力を欠き、学生がついて来ず、気勢があがらなくなったので、その看板をいつの間にか撤し、主力を校規の改正、理事制の打破に置き換えた。そして高田・市島・田中唯一郎に特に激しく人身攻撃・慢罵を集注した。毎回、演説会場付近には、体育部の学生数人が提燈を携えて立ち、今や街頭の通行者に見境なく呼びかけ、誘行して、全く大学の問題には関係がない一般人に多くの迷惑をかけるのも意に介しなかったのだから、況んや大学の職員へとなると憎しみも深い。五日の夜、用務員小野喜平は大学構内においていきなり革新団に投げ飛ばされ、学生課長茂木剛三郎は、高等予科の壁に貼ってある革新団の檄文・張札を剝がしているところを、紛争の主謀者として処分が予定されている山本開作、川本円次郎ほか数名の者に発見されて、革新団本部へ拉致され、散散に暴行を加えられた。教授武田豊四郎はインド哲学者で、普段から稍々エキセントリックな点のある学者だったが、永井らの解職を以て早稲田大学建学の本旨に背く暴挙とし、「此際理事諸氏が速に引責辞職して、罪を満天下に謝」すべしという進言書を送達してきた(『早稲田大学紛擾秘史』第三冊)。
これら大学へというより、特に理事への反感・敵意の細大となき諸潮流が合一して、クライマックスに達したのが、九月十一日、早稲田劇場を借りての演説会である。興業物の掛かっているのを一晩中止させたのは、莫大の費用も要したろうが、恐らく劇場側が革新派の威勢に恐れをなして応じたものと思われる。劇場だから、俱楽部などと違い、一千を超える聴衆を集めた。入口には革命を象徴する赤旗を交叉して、新作の革命歌を高唱し、活気というより寧ろ殺気満堂の裡に、手島喜兵衛が開会の辞を述べたが、演説と弁士は次の如くであった。
花田の演説が終ると西岡竹次郎は左の決議文を朗読した。
吾人は早稲田大学現理事を辞職せしめ且つ坂本三郎、市島謙吉、田中唯一郎の三氏が早稲田大学との関係を絶対に絶つに至る迄同盟休校す。右決議す。 (同書第四冊)
こうして満場の会衆をしてストライキに共感せしめ、この決議を坂本・田中穂積・塩沢・金子・安部・中島各理事および市島・田中唯一郎前理事のところへ伝達すべく、一隊三十人ずつ六隊を編成し、隊員は胸間に大きな白薔薇の徽章を飾り、各隊大提燈を押し立て、河野安通志が指揮して合唱する校歌に送られて出発した。彼らの帰るを待つ間、会場では三人の弁士が演説を続け、原口竹次郎の演説中に、当夜臨監した警視庁の方面監察官正力松太郎と石橋・西岡らが何か顔を寄せて密議し、西岡が突然、これより会場を大学構内に移そうと提議し、夜は午後九時半で普通の興業物ならそろそろハネになる時間から、会衆は正力方面監察官、石橋・伊藤・佐藤・原口・河野・西岡らが先導をなして、怒濤の押し寄せる如く大学へ向って行進した。
その二十分前、柴田徳次郎(後の国士館大学総長)が突然学生課に来て、望月嘉三郎学生課主任に対し、「自分が学生時代なれば、今度の学長問題の如き関係者六、七名を暗殺したり。然からざれば問題は解決せず」(同書第七冊)と激語して、容易に引きとらないので、ひそかにその挙動を怪しんでいたところ、これは全く防備の策を採らしめぬ時間稼ぎで、見る見る早稲田劇場から一千の群衆が雪崩を打って殺到し来たり、まだ開放せられていた予科正門から、何らの抵抗、何らの障害を受けず闖入し、大講堂の扉の鍵が破損していたのを押し破って容易にこれを占領した。その時幹事前田多蔵、庶務課主任川口潔ら五、六人が大講堂階下の講師室に詰めていたが、多勢に無勢、拱手傍観の外なく、床板を踏み鳴らし、校歌また革命歌を狂呼大喚する狂暴に任すの外なかった。
しかし、いつものことながら、学生の全部が騒動の渦中に投じたのではなかった。例えば、尾崎士郎と同級生だった大塚有章が、「学校当局の意図はけしからんとは思いつつも、折角興味が出てきた図書館通いを中止してまで反対運動に投ずる気にもなれなかった」(『未完の旅路』第一巻九一頁)と言って、騒動を横眼に図書館通いに精を出したり、後の早稲田大学総長大浜信泉が、「大正六年の大学騒動のときなどは、武州御嶽の神官の家にたてこもって、法律書と首っぴきになっていた」(『総長十二年の歩み』三〇四―三〇五頁)りしたように、大学から遠く離れて勉学に励む学生がいたことも見逃せない。
だが遂に、早稲田大学は数日間、暴徒学生に占領せられるという事態が生じた。
「早稲田騒動」の上り坂はここまでである。しかしこれで終ったのでなく、二十二日に授業が開始されるまで、まだ下り坂があり、こと、外は牛込警察署・警視庁・内務省との交渉が複雑を極め、また内にしては、一一五三―一一五四頁に後述する寄宿舎問題をはじめとして、制度や校規の変改や人事の出入りが多岐多端に渉っている。
すなわち、内で大学側の対応策が漸く整備してくるに随い、問題は寧ろ大学を占領した暴動学生、これを背後で操った石橋湛山、或いは明らかにその場に姿を現してくる警視庁方面監察官正力松太郎、その背後に控うる「大物」という謎の内務大臣後藤新平などの言動に転移してくる。幸い、天野派の総帥と自ら言っている石橋は、「天野為之伝」「大正六年の早稲田騒動」「思い出の断片」の三篇の回想でこれを取り扱っているから、その一部を転載して、その後の推移を眺め、なお二、三の問題点について考察を加えよう。その方が、大学側から観察するより、遙かに簡明になるであろう。尤も、間々補注や解説を加えるのは大学史の立場として当然である。先ず「大正六年の早稲田騒動」から取り上げよう。
九月十一日の夜、我々は早稲田劇場で、高田派弾劾演説会を開いた。会場は立錐の余地なく学生で満ちた。相次ぐ演説と校歌の合唱とは、時間の進むに従って満堂を興奮させた。ここに思いがけない事件が起った。それはこの演説会が終った瞬間、これも興奮せる一人の若き校友が、諸君、これから大講堂に行って、更に演説を続けようと叫んだことからである。声に応じて、満場の学生は立ち上り、校歌を合唱しながら一せいに大学構内に乗り込んだ。そして大講堂に侵入して、主催者無しの演説会を開いた。それは勢いにあおられて、とっさの間に起った事で、止めようにも、どうにもならなかった。しかし、さすがに学生の連中で、秩序は至って整然として、乱暴のごときはいささかも行われなかった。
(『石橋湛山全集』第一五巻 二五六―二五七頁)
あれを「整然」と見るか乱暴と見るかはもとより主観の問題であるが、少くとも既述の如き状態だったので、例えば三十人六隊が提燈を掲げて校歌を高唱しながら出かけた如きは幾分秩序があったかもしれない。しかし、各隊が新旧理事宅を訪問した際の当人或いは夫人や家族との会見記録が一々残っているが、その詰問・放言は無礼・狼藉を極め、決して礼節ある大学生の態度とは受け取れない。それに明らかに自らも「侵入」という文字を用いている。大学側の責任者何人かは事態を憂慮して詰めていたのに、その留守番に相談もせず、許可も受けず、暴徒学生が大挙して雪崩れこんだのは、明らかに不法であり、法治国の常識外に逸脱したものであり、そして警視庁の正力方面監察官が石橋首領と肩を並べて先頭に立って来たに至っては、少くとも外見上明らかに官憲との馴れ合い、苟合・妥協の上の挙とより外に、見ようはあるまい。
ただその夜、大学の事務室等に宿直していた事務員と、たまたま残っていた理事の一部の人たちはこのあり様に驚いた。そして内部から窓を破って逃げ出すという騒ぎを演じたために、かえって硝子などを破損した。のみならず、私が報告を受けて驚いたのは、右の結果、大学構内には理事はもちろん、一人の職員もいなくなったことである。このため侵入者たる我々は期せずして大学内の警備の責任を負わされたことになり、やむを得ず、要所要所に立ち番を立て、あるいは構内の巡視を行うに至った。学生の中には、こういう事に、よく気のつく者がいた。当時高田派では、暴徒が大学を占領したと、我々を非難したが、実際は右の通りで、占領したのではなく、占領させられたのであった。 (同書同巻 二五七頁)
この記述も、まるまる間違ってはおらず、若干の根拠のあることは、前節の記述と照合すれば分る。何と解し批判するかは、人それぞれによって違うので、部下から報告を受けたと言って判断している石橋の見るところは、或いはこの解釈通りだったのであろう。
前にも述べた如く、九月十一日夜の演説会が、こんな騒ぎになろうとは、我々の全く予期しなかったことであったし、また決して望むところでもなかった。しかし勢いというものはひどいもので、その夜大講堂で熱し切った学生の興奮状態を見ていた理工科の一教授は、石が逆に流れるとは、この事かと思ったとあとで私に語っていた。この勢いは一、二の者が声をからしたとて止め得るものではない。我々は、こうして幾日間であったか、大講堂の建物を本部として、心ならずも大学を占領した。その間大学当局から退去の要求も受けなかった。しかし退去の要求は受けなかったが、その代りに警視庁が、我々首謀者を逮捕に来るという風説が飛んだ。これは恐らく大学側から出た風説で、また実際かれらは我々の逮捕を要求していたのかも知れない。我々の方からは、大学当局に連絡を求めていたのだし、もともと知らない仲でもないのだから、交渉は幾らでも出来たのだが、大学当局は大隈邸に立て籠って門戸を閉し、我々を暴徒と称して、交渉に応じようとはしなかった。
(同書同巻 二五七頁)
知らない仲でないのなら「侵入」の前に話し合いをすべきで、「侵入」してしまって既成事実を作ってから交渉を呼び掛けるのは、外土を占領してから談判を始める外交上の常套手段である。
しかし警視庁の態度は、はなはだ慎重で、大学内の事は大学内で治めてもらいたい、警察が干渉することは好ましくない、という方針で終始した。後に読売新聞社長として名を成した正力松太郎氏が、当時警視庁の監察官で、この事件に当っていた。私も、その折正力氏に面会したが、その態度はすこぶる丁寧で、我々を威嚇するが如きそぶりは些かもなかった。近ごろ正力氏に会って聞いた所によれば、大隈邸には三百人もの巡査をひそめて置いたのだそうだが、氏はこれを使わなかった。早稲田の学生には感謝してもらってもよいよ、という氏の話しであった。 (同書同巻 二五七―二五八頁)
正力の伝記『伝記正力松太郎』は御手洗辰雄によって書かれた。それによると、ひたすらに大学の自治を重んじたので、自分の落度は皆無なばかりか、寧ろその執った公明の態度を誇るが如く、力説している。御手洗は老練な政治記者で、殊に政界の裏面通なるは、夙に城北隠士の名に隠れた有名な評論があり、また政変や自民党の総裁選挙のたびに、その情景放送のテレビ解説をしていたから、人は皆これを知っている。しかし、慶応を出て報知新聞社に入ると政友会担当の記者になり、有名な憲政会嫌い、大隈嫌いであったから、彼が正力の態度を擁護する記述をそのまま信用するわけにはいかぬ。殊に正力はよく、自分の手許には「早稲田騒動」に関する秘密資料が多数ある、いつの日か公開する時が来るであろうと言っていたが、遂にその機を得ることがなかった。尤も一説には、それは関東大震災で焼尽して、断片の廃紙も残存するものは何もなかったとも言われている。
ところがかような警視庁の態度は、大学当局から見ると、はなはだ奇怪に映じたらしい。政府はそのころ寺内(正毅)内閣で、内務大臣は後藤新平男であった。そこでこの騒動を後藤が利用しようとしているとか、背後には山県有朋、伊東巳代治等の魔手が動いているとか、我々の思いもかけない風説が盛んにばらまかれた。三木武吉君が、我々の大学占領中突然私を尋ねて来て、やはり後藤男うんぬんの風説を伝えて、善処を促してくれたこともあった。
(『石橋湛山全集』第一五巻 二五八頁)
官憲が天野派と連絡のあったことは、いや天野派が官憲をできるだけ利用しようとしたことは、前記の東京府庁の文書抑留、それを受けた松浦局長の言明でも分る。殊に直接その衝に当った坂本三郎の「鉄函録」は、元の内務官僚の威光を以て、名義上の早稲田大学学長が牛込警察署長、警視総監、そして後藤内相に論判した記録で、それを読むと、いかなる反大学の立場にいる者も、官憲の「大きな魔の手」が暗黙の問に動いていたという疑念を感ぜずにはいられない。浮田和民が『太陽』に載せた「早稲田大学紛擾の真相及其の根本問題」(大正六年十月発行第二三巻第一二号)で、政府の手が動いていることを暗示して、同誌の上品な読者を驚かせたが、キリスト教に由来する公正な人格者浮田が無責任な放言をする筈がないとして、天下一般の読者はこれを信じ込んだのである。
しかし我々としては、善処したいにも、その方法が無かった。前にも述べた通り、大学当局は全然我々と連絡する意志を示さず、退去の要求さえしてこないのだから、我々は占領した大学を引き渡す相手を失った形に陥っていた。のみならず我々は、大学の民主化、天野学長の留任、免職教授の復職、放校学生の復学等を要求し、その書面も提出しているのであるから、それに何とか返事をもらわない限り、たとえ間違って起った事とはいえ、今さら無意味に大学構内から引き上げる訳にはいかない。いわんや逮捕するなどと脅かされては若者ぞろいの我々にはいよいよ引き上げにくい。しかるに大学側は、連日大隈邸に集って評議をこらしているらしいが、一向何の手も打ってこない。けだし、あちらも困っていたのであろう。しかし、こちらも実は、日を重ねるに従って疲れては来るし、秩序の維持にも困難を増す、費用もかさむ、誠に困っていたのである。
(『石橋湛山全集』第一五巻 二五八頁)
この「間違って起った」を「起こした」とすれば、この通りであろう。何の手も打たぬというより、天野派学生の暴虎馮河の勢いに、牆壁を築けば牆壁を破られ、窓戸を鎖せば窓戸を吹き飛ばされそうな状態で手も足も出せなかったのは、既述の通りである。
ところが何日目であったか、情報が入って来た。それは大隈侯邸における評定の結果は、事態到底収拾すべからざるにつき、断然廃校に決するに至ったというのであった。これはどれほど真実であったかわからない。しかし真に廃校と決定されたとすれば、我々の立場は無い。何となれば、我々は学校を改善しようとして戦っているのに、その我々の運動が、学校をつぶす結果を生んだのでは、理非はとにかく、学生にも、校友にも、世間にも、申し訳がない。私は、この時つくづく私学と官学との差が意外の点にあることを発見した。明治四十二年新聞記者として私が実見した一ツ橋高商事件は、公平に見て、学生と教授との主張に十分の道理があったとは思えない。しかるに、それにもかかわらず、文部省は、かれらのストライキに会って惨敗した。これは考えて見れば、官立学校は文部省の一存で、その存廃を決し得ないからであった。もし文部省が、わがままを学生や教授がそう言い張るなら、その学校をつぶすと発表し、これにどこからも横ヤリの出る懸念がなかったら、一ツ橋騒動も早大騒動と同様の落着を見たかも知れない。しかるに私学は、その経営者が廃校と決すれば、これを阻止する力はどこにもない。我々は、ここに無条件降伏を余儀なくされた。しかし本当の事をいうと、この降伏は、実は我々の力が、その時全く尽きていたから行われたのであった。大学占領以来は、警備に当る学生に対し、握り飯のたき出しをしていたが、そういう費用の出場所も無かった。また、いわば寄り集りの学生を率いて、何時までもこんな事を続けていたら、内部崩壊を来たす危険もあった。どうしてこの結末をつけるかと、ひそかに私は苦心していたところに、前記の報道が入ったので、これを機会に、はやる同志を説得し、この処置に出たわけであった。西岡竹次郎君などは、大いにこれに不満であった。つまり我々は大学当局の持久戦(実際には、かれらの無策から起ったことであろうが)に負けたのである。 (同書同巻 二五八―二五九頁)
大隈側の資料を調査してみても、侯爵総長が、政治よりも教育の方が大切であると言って虎の子のようにし、山県の政治勢力に対してもこれ一つが誇りであり、あの世で西郷に会った時、こと、学校では「おはん」に負けたと南洲翁が兜を脱ぐだろうと自他ともに評価していた大学を、自らの手で潰すと考えていたという痕跡は、全くない。いかに学生騒ぎが激烈を極めても、また重患が未だ全く恢復せず臥床中であると言っても、大隈はそんな弱気になる性格ではない。彼は明治十四年に乱臣賊子の待遇を受けたクーデターでも挫折せぬ不死身であり、不倒翁である。しかし世間には、大隈が未だ健康になっておらず、このままの状態が長く続けば早稲田大学は潰れるのではないかという流説があり、学生はそれを信じぬにしてもその心配をした。石橋の晩年、親しくこの点を叩いたところ、今度は大隈家の発意という言葉を使うことは避け、「大学は潰れるかもしれぬ。潰しちゃ大変だ。責任が重いので、遮二無二旗を捲いた」と言った。
我々はかく決定すると共に、野間五造、昆田文次郎等の先輩校友に、改めて今後の調停を依頼し、学内を清掃して引き払った。野間氏はその際大学にやって来て、今後の事は自分たちで一切引き受けるからと、学生を集めて演説をした。しかし大学当局は、昆田氏や野間氏の尽力にかかわらず、結局免職教授と放校学生との復学は許さず、かつ天野博士の名を早稲田大学の一切の歴史から削り去った。今でも早稲田大学には、天野博士の写真が一枚もかかっていない。あと始末で一番苦労したのは、放校された六名の学生の処置であった。しかし、幸いにしてこれは、主として昆田文次郎氏の尽力で、他の私立大学に転学せしめ、あるいは就職の世話をした。後年小説家として大いに売り出した尾崎士郎君もその一人で、同君は東洋経済新報社に引き取った。昆田氏は当時古河財閥の大番頭で、温厚篤実の実業人であった。私は今でも、同氏のこの時の厚意に深く感謝しているものである。大正六年の早稲田騒動は、以上のごとくして、改革派たる我々の敗北に帰した。その最も大なる理由は、前にも述べた通り、天野博士に全く早稲田大学の学長たる意志が無かったことにあった。もし博士にその野心があったら、我々は確かに勝ったに違いなく、また騒動もあんなに長くは続かなかったであろう。 (同書同巻 二五九―二六〇頁)
天野に大学学長になる意志がなかったかどうかは、そう簡単には言い切れない。大隈内閣が潰れて高田が文相を辞すると、天野学長が、或いは高田宛、理事会宛に、学長辞任の意志を通達したのは文書の写しが残っており、口頭で述べたこともしばしばだったと記録せられているから、蝸牛の角の如く、出したり引っ込めたりしていたのが実情である。その辞任も、一期のみで退いたとあっては世間態が悪い、自分は肥満しているから健康を辞任理由にしてくれなどと、言うことが細微に亘っている。この時点では学長への意欲を全く絶っていたこともあったと思える。ただし俄然、校友大会を二、三日後に控えて、学長秘書佐藤が、学長の承認があったのか、或いはその意向を推察したのか、または学長とは全く関係なしに動き出したのか、石橋を訪問して手応えがあったのを契機に、校友、代議士、弁護士、新聞記者の間を縫うて暗躍を始めた結果は、天野は高田・坪内との緘黙密約を破り、脱線して「万一自分が当選するならば、自分は粉骨砕身して其任に当る」という演説となり、高田を国府津に単独訪問して学長留任の助力を頼んだあたりから以後、自分の辞意を漏らしたのは、世間的に謙遜した辞令に過ぎず、その意志は全くなかったと前言を翻して傍人を驚かしめ、大隈総長の懇諭にも叛き、再三踪跡を晦まして、自分の学長就任に有利な条件を作り上げようと画策したあたりの言動は、どうしても、学長野心が初めから全くなかった人とは思えない。ただしこの「意志」を「ヴィジョン」と易えるなら、それは皆無で、天野に不足したものは、「意志」にあらず、学識にあらず、大学の前途に対する夢で、これが彼を徹底的に敗北せしめた主原因であろう。
この騒動で最後まで疑問となるのは、彼らの運動を支えた資金とともに、背後勢力の正体の問題である。坪内の手稿には、これに関して、左の如く記述されている。
余程以前から、ある巨大な黒い手が、此事件の起るとすぐ、天井から糸を垂れて、頻に傀儡を操つてゐるらしいといふ異様な噂がいづこともなく聞えたことがあつたが、余り政治小説めくと思つて、十中九人までが聞流してしまつた。が、擁護運動がだんだん大規模となるにつれ、又其運動費の頗る巨額なるべきことの想像せられざるを得ないところから、何処にか、何等かの、大分大頭の、頗る有力な後援者が伏在してゐねば勘定が合はぬといふ評判が高くなつた。今度の事件には政治的背景が在るといふ噂が立つた。さうして其理由としては、某元老の大隈侯を評した末に「彼れは却て与し易し、憲政会恐るるに足らず、只恐るべきは早稲田大学なり。今日までの彼の校の発展は是非に及ばず。此上拡張せしむるは国家の禍機を助長するに外ならざれば、須らく其糧道を絶つの法を講ぜざるべからず」といつた事や、某大臣が曾て大隈侯を、早稲田大学によつて国家の患害となるが如き思想教育を施すの故に、「国賊」と罵つたといふ事や、最近の総選挙応援運動以来、我校の、政府及び反対党側から、特に嫉忌せらるるに至つた事や、或は又、天野派の某教授の現任某大臣と昵近である事や、天野学長秘書の佐藤正氏が其昔前記大臣の邸に久しく書生でゐたといふ事等が言ひ触らされてゐた。
(「自分の観たる我校の紛擾顚末」『早稲田大学史記要』昭和五十一年三月発行第九巻 資料六〇―六一頁)
某元老が山県有朋であり、某大臣が後藤新平であることは、注釈を必要としないであろう。
ところが、石橋湛山はこう記している。
この騒動は、何せよ六月末から九月末まで続き、随分多くの人が動いて、花々しかったので、さぞかし金が掛かったろうと想像された。前に記したごとく、我々の背後に、大隈侯の勢力をくじかんとする政治的隠謀が潜んでいるという風評の流布されたのも、一は、この資金がどこから出たかの疑いに根ざしたようであった。しかし、事実は、ほとんど金は使っていなかったというてよい。事件の最初は、全くお互いの手前弁当で動いていた。学生も、もちろん同様であった。しかし問題が段々混雑し、皆の集る事務所を必要としたり、多数の手紙を出したり、印刷物を作ったり、集会或は演説会をしばしば催さねばならなくなるにつれ、まんざら資金が無くては困るようになった。そこで三浦銕太郎氏とも話し合い、浅川栄次郎君に相談をもちかけた。浅川君は、当時早稲田大学の商科の教授であったが、この騒動には少しも関係しなかった。しかし天野博士の女婿であり、かつ近親中には金持ちもあったから、何とか心配してくれるであろうという見当であった。同君としては迷惑の話しであったに相違ない。しかし同君は快く引受けて、数日中に私の希望しただけ調達してくれた。……私は当時の記録を一切焼いてしまったので、その金額ははっきりしなかったが、最近同君に確めて千円であることを知った。また同君の話しで、その後もう一度千円出してもらったこともわかった。それから事件が終りに近づいたころ、私から頼んだのではなかったが、天野博士が五百円(と思う)出してくれた。約三ヵ月に亘る運動に、特に他から出してもらった資金は、以上の二千五百円だけであった。だから印刷物等も全校友に送るだけの費用がなく、運動上不利を被ったことを覚えている。後藤新平から金が出たの何のというのは、全く根も葉もない流説にすぎなかった。もっとも佐藤正君は、出身が宮城県で、後藤新平男とは、かねて親交があったらしい。我々の運動と後藤男とを結びつけて世間で風評した一つの理由であったかも知れない。しかし佐藤君が後藤男に動かされていたなどという事実は、もちろん絶対になかった。我々は飽くまで早稲田大学の改革を目指して闘ったのであって、全く無邪気なものであった。 (『石橋湛山全集』第一五巻 二六〇―二六一頁)
資金がこれだけで、あの前後四ヵ月に亘る闘争ができたと石橋は本当に信じていたのかと疑問に思われるが、それは後に実地の経済知識で軍部をも傾聴させた石橋とも思えない。大学側の資料にはこうある。
天野一派の運動費中今略ぼ出処の明かとなれるは
一金一万四千円(三回にて) 小池国三
一金二千円 橋本良蔵
(是は天野博士にして学長に留任し、佐藤秘書亦依然留まる時は大学新工事の請負を托することを条件として支出せしめたるものなりとも云ふ)
計金一万六千円
右収入に対して支出せる処のもの三万円余なりと云ふ。果して然る時は支出金三万円余に対して、運動費出処の明かなるものは金一万六千円のみ。差引金一万四千円余は、知らず何れの方面より供給せられたるか。
(『早稲田大学紛擾秘史』第四冊)
なるほど証券業界の傑物小池国三なら当時の財界の一勢力、それに佐藤秘書が大学新工事の相談をかけて金を引き出したとすれば、一応辻褄の合う話である。そうした金だと、自分らが攻撃した大学会計の紊乱を自分らが行うことになるので、出所を明らかにできず、親分後藤新平が投げ出してくれたなどと、一時の方便で言ったかもしれぬ。小池国三の名はこの大学騒動と関連して記録中に散見されるので、彼がこの騒擾資金に一枚絡んでいることは恐らく間違いあるまい。二千円を提供した橋本良蔵は、九一三頁に述べた如く、早稲田の校友ながら後藤と同郷の縁で鉄道院に迎えられ、この時調査課に勤務する現役で、佐藤とも同郷であり、佐藤の鉄道院時代の同僚でもあって、殊に仲が良かった。
最後に、この「憲政会と政友会の政治的利害の問題とも絡んだ複雑怪奇な事件」(田中征男『近代日本の私立大学における大学自治の一齣――早稲田大学改革運動(一九一六~一七年)について――』五頁)に、後藤内相の手がどれだけ動いていたかであるが、坂本三郎の「鉄函録」などには、後藤干与の事実を推測し得べきことが記録されているけれども、内相の事件介入の噂が漸く世上に流れ始めると、『東京日日新聞』(大正六年九月二十一日号)は次の如き談話を掲載している。
早大問題をぢつと睨みつつ/後藤内相は語つた/斯んな時こそ大隈さんの拳だ/信常君が学長たらんとする/野心からだといふではないか。
早大の紛擾は募り募つて遂に血を見るに至つた。それは別問題とするも、其紛擾の対照として様々の噂の主人公たる後藤内相はこの問題を如何に見てゐるか。内相は「実に大正学界の一大恨事だ」と冒頭し顰蹙しつつ語る。吾輩は管轄外なので教育方面の立場から言議することは出来ないかも知れぬが、問題が斯くまで拡がつて来れば保安警察といふ立場から彼是言ふことは出来る。又一個人として批評を加へることも出来よう。由来早大問題の起りといふものを聞くに、元は高田、天野両君の争ひでもなければ、単なる改革の叫びでもない。実に大隈信常君が学長たらんとする野心に発したものだといふことではないか。又一説によれば、高田君は今日も猶学長たらんとの希望を抱いてるといふことで、之は或る筋から直接耳にした所である。然るに世上動もすれば、吾輩が陰にあつて佐藤某を使嗾し連れて天野博士を煽動して運動費まで給してゐるかの如く伝ふる者がある。成る程佐藤某は吾輩の医専時代から世話した男であるが、此の男を使嗾するほどの物好きでもなければ、吾輩には又それほどの財力の余裕もなく、以ての外の流言である。早大は抑自治の学園ではないか。夫が一校の悶着を片附け得ずに当局に縋り附くといふことが既に根本から間違つてゐるし、保証人や父兄を呼んで学生を諭して貰はうなどと云ふ手段も、自治の学園として為し得べきことではない。大隈侯の拳の権威は斯る場合の為に存在するのではないか。彼等は何事も侯の「鶴の一声」によつて解決すべきである。侯とても既に新聞を読み得る容体にありと言へば、此問題を知らぬ訳はなからう。侯は総長として学校から俸給を貰つてゐるといふ話であるが、その事に対しても侯は此際何とか「鶴の一声」を掛けねばならぬ義務がある筈だ。吾輩としては今後斯る騒擾が無い限り、或は学校から依頼が無い限りは、静かに傍観してゐる考へであるが、十九日の如き血祭騒ぎ〔早大革新団演説の弥次殴打事件〕があれば、容赦なく警察権を行使して最も厳正なる取締を為す方針である。
大学側の資料には、大隈信常が学長たらんとする野心を包蔵していたとの記録は、全く出てこない。恐らくこういう偽情報は、古くから後藤家の書生であった佐藤正が提供したものであろう。
何れにしても、後藤が天野派の糸を引いているとの噂は大隈総長の確信するところとなり、天野の学苑よりの永久>追放の決定的要因となったことは、市島の次の記載によって明らかである。
侯が高田に語る所に徴するに、侯の天野を嫌ふは主として後藤に通じたる政治的関係にあること明かなり。往年鳩山の逐はれたるも政治的変節に在り。侯の如き政治本位の人に此の感情の痛切なるは怪むに足らず。 (『酒前茶後録』巻七)
台風一過の早稲田大学は、さすがに落莫の感を免れなかった。誇りとしていた三尊が今や大学と絶縁したばかりか、伊藤重治郎・井上忻治・原口竹次郎・宮島綱男・永井柳太郎の五教授は馘首され、また波多野精一・大山郁夫・浅川栄次郎の三教授、服部嘉香・村岡典嗣・北昤吉の三講師は辞職して早稲田から去っていった。これらの諸教授・講師は、主として、東京専門学校が早稲田大学になる頃から学苑が育成した英材揃いであり、或いは大学が資を給して海外留学せしめた者もあり、遠からず学苑を担って立つ中堅の有力学者であったが、それが大挙して脱け出たのだから、学苑当局はその補充に窮した。とは言っても、休講を続けるわけにはいかないので、当局は伊藤の交通論には河津暹を、井上の刑法総論には草野豹一郎を、原口の宗教学には帆足理一郎を、宮島の保険論には粟津清亮を、大山の政治哲学には五来欣造を、官・私学両方面からそれぞれ招き、波多野の西洋哲学史には石原謙を、浅川の商業政策には小林行昌を、服部・村岡の英語には若手教師を、北の哲学概論には翌々年に留学帰りの杉森孝次郎を充てて、急場をしのいだ。このように、「講座の補充は曲りなりに片が附い」た(二宮清徳「革命後の早大教授」『大学評論』大正七年四月発行第二巻第四号七一頁)が、世間は早稲田の後任人事を見て、「一大覚醒を得た事は事実だが、其損害も亦甚しいものがある」として、「今日の早稲田程萎靡沈滞してゐる時代はな」い(天城生「早稲田便り」『青年』大正七年三月発行第六巻第三号一〇八―一一〇頁)との論評を、一部で下した。
そこで、その寒々とした学問薄弱の欠陥は、三年後に新大学令に切り換える時に最も痛切に現れ、官立大学から多数の学者を招聘し、また地方に埋もれている校友の中から篤学の士を物色して、迎えざるを得なかった。中には、台湾の台北中学校から招き寄せた繁野政瑠(天来)の如き偉材があり、数年ならずしてミルトンの研究家として大いに世に顕れるが、英語力抜群で、第二の増田藤之助として学生の信望を集めた。
しかし考えてみれば、大学騒動は、まるまるの損失のみで何ら得るところがなかったわけではなく、早稲田的学風を多少とも広く天下に拡散する機会ともなった。中世の教学の唯一の吹き寄せ場となっていたコンスタンティノープルが、トルコ人の砲撃によって空しく崩壊し、図書館を死守した学僧達が、手に手にギリシア・ローマの典籍を抱えてヨーロッパの中原に散ったのが、ルネッサンスの繚乱たる文化を満開せしめる原因となったのに、幾分譬え得る点もある。
この時早稲田学苑を去った一番の大物は、哲学者の波多野精一である。東京帝大の大学院を出る時提出したドイツ文の「スピノザ研究」は、「当時こんなに着実な哲学史の原典研究は稀で、殊にドイツ文論文は空前であった」とは石原謙の記すところである(松村克己・小原国芳編『追憶の波多野精一先生』三頁)が、あまりに年が若いので、ケーベルの審査により文学博士の学位を受けたのは五年後であったと言われる。学窓を出ると東京専門学校の講師に迎えられ、東京帝大と早稲田大学との両方から海外留学の誘いを受け、恩師植村正久の勧めで早稲田の留学生として海外に研鑽したが、ヨーロッパにも学ぶことはあまりないと豪語して、すぐ帰国したと言われる。早稲田ではカントやスピノザなどを取り上げて、十七年間に亘りいろいろな講義を受け持ったが、殊に西洋哲学史は学界の注目を集め、早稲田の学問を天下に重からしめた。石橋からも恩賜館組からも相談を受けたことから、この碩学がいかに教職員・学生・校友から尊信を受けていたかが分るが、騒動の終末期に田辺元に宛てた書翰(大正六年九月十七日付)において、
今や精神的に全く死滅し残るは虚偽の魂あるのみに候。精神を新にして復活するに非ずば存在の意義なく否其の存在は却つて罪悪に候。小生は衣食の為めここに留る事が小生にとりては精神的自殺を意味するを悟り熟慮の後、昨日辞表を提出し全く浪人の身と相成り候。 (『波多野精一全集』第六巻 一五頁)
と喟然として嘆じて、かねてから屢次迎えを受け、そのたびに断っていた京都帝大に移り、西田哲学と並んで波多野宗教哲学を完成した。
京都帝大には既に内田銀蔵と藤井健治郎が早稲田から行っている。内田が日本経済史を学問として大成したのは京都帝大においてだが、それは東京専門学校在学中から講じて、ほぼ体系をなしていたものであった。藤井は倫理学専攻で、波多野と同じく東京帝大出ながら、卒業すると直ちに東京専門学校で教壇に立ち、本学苑から留学したが、杉森孝次郎の留学と引換えに京都に譲られたのであった。校紛の噴煙がなかなか収まらないのを洛北の空から遙かに心配気に見守っていたこの内田・藤井両教授は、京都の校友会を召集して、谷村一太郎、下村正太郎、中川太一郎、河原林象三、前田彦明、江口照文らと連名で、左の長文の電文を打ってきた。
最近の形勢憂慮に堪えず、学生に対する告訴を取消さるるを今後の解決の為め先づ第一緊要と認む。直ちに措置を執られたし。革新団には速に校舎を退出し鎮静する様警告を発し置けり。 (『早稲田大学紛擾秘史』第四冊)
全国の校友会から寄せられた電報文は数十通に及んでいるが、大学が暴行学生を告訴したとの報を見て、これは教育の道に背くと言って自省を促したのに、他に類のない真実の憂慮を見る。
文学科の英材、村岡典嗣は広島高師に去り、その後東北帝大の教授に転じた。官立出、すなわち文学士でもなく、且つ学位を持たない身ながら、東北帝大の文化史学第一講座を担当し、日本思想史という学科目を最初に開講した。彼は文化史学の方法としての文献学の確立、日本思想史学創唱という二点で、新しい学問分野を開拓した。今日思想史学上において津田左右吉と並び称せられている彼は、奇しくも昭和十五年の津田受難の後を承けて、本学苑に再び出講して、その穴を埋めたのである。
私立大学の方を顧みると、商科教授宮島綱男は恐らく砂川雄峻の招きであろう、関西大学に迎えられて、あたかも高田早苗が早稲田大学におけるが如き経営の才を発揮し、文学科の服部嘉香もここに教鞭を執って、長年の苦心の後、今日では関西の名門校たる地位まで引き上げるに有力の因をなした。学問上の早稲田コロニーができたと言っては勿論言い過ぎであろう。しかしこの騒動がなかったら、早稲田の学問がかくの如く東西の官私の大学に根分けせられて花を開く機会は、よし来るとしても、遙かに後れたであろう。
因みに上記以外の退任した教員のその後の動向を記しておこう。伊藤重治郎は山下汽船の調査部長、原口竹次郎は東洋経済新報社へ、永井柳太郎は傷心を癒すために欧米視察に出かけ、大山郁夫は大阪朝日新聞社に論説委員として赴任したが、大正九年には早稲田に復帰した。浅川栄次郎は三菱合資会社に入り、昭和十六年に早実の理事長、翌年に校長となり、そして奇しくも、騒動以来袂を分かっていた大学と早実とが昭和三十八年に系属関係となる際に、その覚書に調印する当事者となった。なお、高田派と天野派との衝突の前面に立った両秘書、橘静二は『大学及大学生』を創刊して主筆となり、後アメリカに渡り、佐藤正は中野正剛主筆の東方時論社に入社し、後代議士となった。
この騒動があった年に大隈重信は数え八十歳を迎えた。これを耳にされた大正天皇は、八十歳を祝して一月下旬に天盃と鳩杖を下賜され、五月六日、大隈はその拝受の喜びを分かち合うために校友四千余名を招いて園遊会を開いた。春季校友幹事会の席上、秋には早稲田大学三十五周年記念式典と時を同じくして、大隈の八十歳を祝し、且つ記念品を贈呈することが決議されたのであったが、校紛が勃発し、更には八月二十日、大隈が軽井沢の別荘から帰京してすぐ胆石を再発したので、その機会がなかなか摑めなかった。一時大隈の容態は悪化して生命すら危ぶまれたものの、十月上旬には恢復し、国府津へ転地療養できるまでになった。そこで、その翌月に開かれた臨時校友幹事会で、十二月十六日に臨時全国校友大会を開催し、大隈一族を芝の紅葉館に招待して祝賀寿宴を設けることが決議された。
当日は、あたかも大隈の八十歳と病気恢復を祝福するかの如き晴天に恵まれ、全国から千五百人ほどの校友が出席して大隈を祝った。校友を代表する代表者理事平沼淑郎らの祝辞があった後、これに応えて大隈は、
私はまだ将来を有つて居る。大なる希望を有つて居る。大なる理想を有つて居るのである。……帝国の大なる使命を実行するのは前途まだ遠い。我々は大いに働かなければならぬ。何でも身心を健全にして、之から先き大いに働くべきである。所が私は此の八月突然病気になつた。……吾輩が病気の為に死に垂たる時に早稲田大学も病気に罹つたのである。……所が校友諸君なり学校関係の諸君が外から療治せずに、内から之れを療治して、老生と均しく学校は回復したやうである。此の大なる経験に依つて学校の将来の基礎は却つて固くなると私は思ふ。……吾輩は如何に死の運命が来らうとも、執着にも百二十五までも二百までも生きて働かうと思ふ。前途は甚だ遠い。私は老生たることを諸君の前に自白する。老生ならば、跡へ代つて若い者が働くと云ふことになる。諸君は自己の為に、国家の為に、三十五年の歴史を有つて居る早稲田大学の為にどうか協力して、愈々其の生命を長くすることを努めて貰ひたいと思ふのである。
(『早稲田学報』大正七年一月発行第二七五号 六―九頁)
と挨拶を述べた。
なお、右の臨時全国校友大会の前日、十二月十五日には、維持員会において、学苑の「会計調査報告」が承認され、『早稲田学報』に掲載するよう決定されたことを付言しておきたい。既に、学苑が早稲田大学と改称後間もなく、高田に基金私消その他の不正ありとして、鳩山・天野より大隈に弾劾が行われた(八九二頁参照)のをはじめとして、会計の紊乱は紛争の最中に反高田派の常に口にしてきたところであり、これが「早大改革を旗印として有力なる運動を起すべき計画」を起すべき理由として新聞社関係に投書され、『万朝報』と『中央新聞』とがそれを記事としたことは、九〇三―九〇四頁に説述した如くである。従って、会計の不正の事実無根であることを立証しなければ、「早稲田騒動」に完全に終止符を打つのは不可能であるから、祝賀寿宴に先立って、この報告が承認されたことには、大きな意味があると言わなければならない。報告には、次のような序言が付せられている。
昨年本大学に発生せし事件は、其原因の何たるを問はず、教育上の不祥事たるや言を須たず、就中其会計状態につきて種々の風説を生ぜしは、実に遺憾の極たりしなり。生等曩に推されて会計の事に当るや、専ら意を此に留め、爾来数月慎重なる調査を加へたるに、世間一部の士が想像するが如き紊乱の形跡あるを認めず、此に数項に分ちて調査の結果を略記し、校友各位並に本大学同情者諸賢に報告す。希くは諸君明察を垂れて、益々本大学発展の為に深大の同情と援助とを賜らんことを。
会計監督三枝守富 宮川銕次郎
(『早稲田学報』大正七年二月発行第二七六号 三頁)
右に見られるように日付は翌年二月十日となっているが、大正六年十二月十五日の維持員会に提出されたものと全く同文であり、更に後者には基金管理委員長渋沢栄一、同委員中野武営、森村市左衛門が、「事実相違ナキコトヲ認」めて署名捺印しているが、『早稲田学報』に発表されたものは、基金管理委員会の証明の日付は大正七年二月十五日で、委員には安田善三郎、大橋新太郎、村井吉兵衛、原富太郎の名が更に加えられている。なお市島は、『酒前茶後録』巻五の大正七年二月十八日の項に、
早大理事宮田脩大学の会計調査報告愈々発表に迄進みたりとて一部を齎らし来り云々の挨拶を為す。此調査報告とは昨年学校騒動の折天野派が余等を中傷し、学校の経済を余等が攪乱しつつあるなど、根もなき事を言ひ触らし、それが為めに余等を傷けたるのみならず、延て学校の信用迄害したる其の根本を仔細に調査し、寸毫瑕疵なき事を現任当事者並に渋沢・中野等の管理委〔員〕副署保証したる報告書にて、来月の学報に掲げ、校友並に基金寄附者其他学校関係者一同に配布の筈なりと云ふ。勿論根も葉もなきことを無責任に言ひ立てたることなれば、余等の寃は必らずしも此般の報告書を俟つて雪ぐまでもなきことながら、盲千人の世の中、誤解者もあるべきにより、此報告雪寃の為無用なりとす可らず。唯だワカリ切つたる調査が半歳もかかり、漸く今日発表まで進みたりと云ふは如何にも気長の事にて、余等の迷惑は此上なき事なり。最初の報告書には伊藤正会計課長時代其の会計方が二万円を私費したること、並に出版部と学校の関係なども附帯しありたり。二万円の問題は田中唯の寃を雪ぐ為めに必要あり、出版部の事亦鮮明になし置くの必要あれども、斯るは寧ろ余波に渉るとてこれを省く事となりたりと云ふ。兎に角此の報告の発表と共に余等を誣ひたる天野一派は顔色を失ふこととなる次第にて、彼の騒動が全く無意義なりしこと愈々晰然たるに至るべし。
と記して、この間の事情を明らかにしている。
さて、創立三十五周年祝典は本来ならば大正六年十月に行うべきものであったが、その年は騒動後の整理や大隈総長の八十寿宴に追われて、これを実施することができなかった。そこで翌七年十月二十六日より、新生早稲田の将来の夢を託された平沼淑郎新学長の就任式と、森村豊明会の寄附金で新築された応用化学実験室「豊明館」の開館式とを兼ねて、一年遅れの創立三十五周年記念祝典が挙行されることになったのである。今回は提燈行列こそなかったが、中央校友大会、記念講演会、水陸運動会、功績者墓参等が例の如く行われ、十一月三日の温交会を以て祝典の行事がめでたく結ばれた。