早稲田名物の擬国会は、大正に入ってからも毎年続けられた。その最初のものは、大正二年三月三日に開催された第二十五期早稲田議会で、『早稲田学報』(大正二年三月発行第二一七号)は、「殊に本年の開会は其の内容の充実を図り、飽まで研究態度を発揮することに努めた」(一五頁)と報じているが、『早稲田生活』の記すところによれば、「全然面目を一新し、世俗の茶番狂言的な型を避けて、学術的な地味な議会とし……、招聘名士の如きも、その議題に関して特に研究したことのある人以外は、校友と雖も招かなかつた。内閣は嘗つて陋劣にして浅薄な野心家があつて、その椅子を争つたといふ莫迦げた経験からして、這度からは全部教授を以て組織することとした」(三〇頁)のである。小汀利得は、左の如く当時を偲んでいる。
ぼくは急進党に属し、宣言書などを徹夜で書き上げたりしたものだ。ちなみにぼくの大学二年の時〔大正二年〕の早稲田議会内閣の顔ぶれは次のようなものであった。総理大臣(高田早苗)、内務大臣(副島義一)、外務大臣(永井柳太郎)、大蔵大臣(田中穂積)、陸軍大臣(服部文四郎)、海軍大臣(安部磯雄)、司法大臣(坂本三郎)、文部大臣(山崎直三)、農商務大臣(平沼淑郎)、逓信大臣(伊藤重治郎)。議長は塩沢昌貞、独立党は大隈重信、天野為之、浮田和民、犬養毅、田川大吉郎、後藤新平といった大物がそろい、ぼくは急進党約百人のうち第三部長を勤めていた。
塩沢議長や、高田総理が壇上からなにか発言すると、二十二、三歳前後の生意気ざかりだから、われわれは急進党席からやおら立ち上がって「総理大臣ならびに議長の発言ははなはだ不穏当と思われるので撤回することを望みます」とかなんとか大きなことを言って反論したものである。当時のおもな議題は、憲法論では天皇機関説のほか「満鉄租借権放棄に関する建議案」、「官制中改正に関する建議案」、「国有鉄道払い下げに関する建議案」、その他外交、経済、社会問題、時事問題を大まじめで論議し、その内容は学内ばかりでなく、大新聞にも報道され、社会的にも大いに人気を博したものである。
(『ぼくは憎まれっ子』 五一―五二頁)
以後、大正三年三月十五日(内閣総理大臣浮田和民)、四年三月十四日(同天野為之)、五年三月十二日(同天野為之)と回を重ねたが、試みに大正三年の第二十六期議会を見ると、『早稲田学報』第二三〇号(大正三年四月発行)の記録するところは次の如くである。
此の日朝来の雨天にも拘はらず開会前より続々詰めかけ、傍聴者堂に溢る。午前九時開会。見渡す議場の主なる顔触れは、
の諸氏にて、内閣は保守党内閣と聞ゆ。やがて堂を振ふ拍手の間に塩沢議長着席。開会を宣したる後、田中大蔵大臣欠席、臨時兼任の服部農商務大臣代りて財政方針に関する演説あり。次いで外交に関する質問に対して永井外務大臣の答弁、海軍問題に関する質問に対する山崎海軍大臣の答弁ありて議事日程に入り、政府の提出に係る地租条例改正案の附議せらるるや、日程変更の緊急動議あり。動議成立して、急進党の提出に係る「衆議院議員選挙法改正法律案」討議に上り、提出者目賀田実君の説明演説あり。三、四の討議ありたる後ち校友三浦銕太郎君の賛成演説、校友三木武吉君の反対演説ありて正午休憩。午後一時開会。議案の討議に先立ち浮田総理大臣の施政方針に関する演説あり。終つて衆議院議員選挙法改正法律案の討議に移り、賛否の論議盛んに起りたる後ち、討論終決の動議成立して採決の結果、独立党之に賛し、賛成者多数、議案は遂に通過したり。
政府提出に係る地租条例中改正法律案を始め諸議案は議長指名の委員に附托せんとの緊急動議成立して委員附托となり、引続き討議に移らんとする際、永井外務大臣選挙法案に就き閣僚と意見を異にし内閣を辞し在野党となる。急進党提出に係る「航路補助廃止に関する建議案」の討議に移り、賛否の論議盛んに闘はされたる後ち、伊藤逓信大臣の演説あり。討議終結の結果少数にて否決せらる。
次いで反対党より政府不信任の決議案提出せられ、将に竜驤虎搏の討議に入らんとする刹那、詔勅一下、議会は解散せられたり。時に午後六時。
第二十六議会を重ぬるに至りたる早稲田議会も、其の間多少の消長あり。一時会勢幾何か浮足になり、例へば内閣班列の如き衆の競ふ所にして、弁論研磨の壇場反つて之を閑却するやの気勢なきにしもあらざりしが、昨年来会勢の利導・救治を図り、内閣は総て教授・講師を以て組織することとし、学生は努めて問題を考量・研究して、之れが討議に資する様に奨励・勧誘したる結果、今回の早稲田議会は真面目に落付きて、議場の討論亦傾聴に値ひする者少からざりしは吾人の喜ぶ所なり。
(一九頁)
ところが、大正六年三月二十五日の第二十九期議会以後は、首相は学長がこれに当るけれども、閣僚は学生より選ばれることになり、『早稲田学報』(大正六年五月発行第二六七号)は「往年の学生内閣制度を復活」したもの(一五頁)と記しているが、翌年四月十四日の第三十期議会の記事には、
本大学の擬国会は既に三十年の歴史を閲し、初期の擬国会以来吾早稲田の壇場に熱弁を振ひし人々の多くは、今や帝国政界の中心人物として日比谷の原頭に飛躍し居れり。故に本大学の擬国会は徒らに一種の芝居として形式のみを真似るを以て能事とするものに非ず、真に政治科の実地演習として溷濁せる帝国政界に対する一種の刺激と皮肉と諷刺とを与へ、吾が議会の若き政治家はやがては帝国政界の将星として真に国政を爕理せんとするの意気と抱負とを抱懐して場に蒞めるなり。即ち其組織の如きは他校に見るが如きとは稍々其選を異にし、吾早稲田議会は政治科のみを以て組織し、大学部と専門部とが両派に分れ年年交代にて内閣及び政府与党と政府反対党とを組織し、両部有志を以て第三党を組織することとなり居れり。本年は専門部政府側にて、大学部在野党たり。 (同誌大正七年五月発行第二七九号 一八頁)
と、大学部と専門部との構成上の役割が明らかにされている。ただ首相平沼淑郎、議長塩沢昌貞以外に、中村進午が外務大臣に、信夫淳平と安部磯雄とが独立党院内総理に名を連ねていて、前年よりも学生以外の参加が増加しているのが看取される。
擬国会は、大正七―八年度以降は、学生研究会(一〇三九頁参照)として、八年二月十六日、九年二月二十九日、十年二月十一日と毎年開催されたが、十年十一月二十七日第三十四回を以てその歴史を一応閉じている。また大学部政治経済学科の学科課程中の「国会演習」も、大学令に即した政治経済学部の学科配当からは姿を消したのである。
尤も、大正十五年十二月四日には専門部政治経済科主催により、また昭和四年十二月十日には、政治経済学部および専門部政治経済科共同主催により、討論会方式による「所謂オックスフォード大学式議会」が開催されているが、擬国会が、往年のように早稲田名物の年中行事として復活するには至らなかった。
大学部法学科および専門部法律科の学科課程には、大正に入ってからも「法学実習及訴訟演習」が掲げられているが、『早稲田学報』には、大正時代前半を通じて、擬裁判についての記録は残っていない。尤も、後年の法学部長中村宗雄が、昭和二年に発表した随想の中に、大正六年に卒業した中村の在学中、法科では、「模擬裁判の方が華々しく一般の呼び物となり、討論会の方は、何となく影が薄かった」(『茶涯学人』二頁)との記述が見られるところからすれば、実際に中絶せられた時期はもう少し後であったのかもしれない。なお中村は、更に続けて、「故あって、擬国会と模擬裁判〔は〕共に中絶せられ、討論会が法律科の唯一の年中行事となったのであるが、其の後法学会が設立せられ、模擬裁判は訴訟演習として復活せられ」た(三頁)と記しているが、大正十年十一月十二日、「法学部の訴訟演習は久しく中絶の姿なりしが、今年新たに復活」したとの記事が、『早稲田学報』(大正十年十二月発行第三二二号六頁)に発見される。
他方、法科討論会については、当時は「連合討論会などと云うのは全く開かれず、校内討論会のみであった」(『茶涯学人』二頁)が、大正元年には十一月八日に懸賞討論会が開催されているものの、大正二年にはその記録が見られない。そして、大正三年十一月一日、「法理の探究に資するの目的を以て法学科全員を包含する」(『早稲田学報』大正四年三月発行第二四一号一五頁)早稲田法学会が「創立」(「復活」と言った方が正しいであろう。なお、今日早稲田大学法学会では、大正十一年を創立年としている)せられ、その事業として、当該学年には懸賞討論会が三回開催されているが、次学年からは毎年一回ないし二回に減少している。また大正六―七年度には開催の記録が見られないが、
〔筆者は、〕其の頃問題となった電車賃値上に伴う旧回数券の効力問題に付き、当時新進帰朝の遊佐博士出題の討論問題で、一等賞を頂戴した。これに気を良くして、其の翌年判検事登用試験の受験資格を得べく、大学院に在学したので、之れを幸い、亦もや一等賞をせしめんと草野先生出題の連続犯に関する問題に付き、大いに研究して出場した処、其の場になって寺尾先生から、会議の結果だとて、大学院学生は欠格とすると宣告せられ、併かし折角調べたので可愛そう(?)だから出演だけはさせるとて、一等賞は現在の同僚教授高井君の頭上に落ちた。現在、専門部法律科教務主任の外岡君や現弁護士の毛受〔信雄〕君などが一等賞を獲たとか、二等賞になったとかいうのはそれから後のことである。 (『茶涯学人』 二頁)
との中村宗雄の回想中にある大学院在学中の討論会は、この年度に相当すると推定されるから、「早稲田騒動」の後遺症で、『早稲田学報』が記録を怠ったのかもしれない。
科外講義は、大正に入っても引続き多数行われ、学生を啓蒙するところが大きかった。
第四十八表に掲げる科外講義のこの時期の特徴は、やはり第一次世界大戦による時局が反映していることである。ヨーロッパ・中国に関するもの、アジアを論じたもの、そして国防・外交・資源等、早稲田の講義は敏感に時の赴くところを感知し、それに反応している。また大戦を機に世界の舞台に脚光を浴びた日本が、将来の構想として更に飛躍の一歩を進めるには、機械文明の発達を当然考えねばならなかった。科外講義に多く理工系のものが見られるのも、その過渡期における一つの様相を示しているものと思われる。
なお、『早稲田学報』および「早稲田大学報告」に記録されている科外講義中には、原則として数回連続の、特別講義と称する講義が発見される。これには、ある特定の科を対象としたものもあり、或いはプラグマティズムの代表的哲学者ジョン・デューイなど、著名の士の来日に際し、全学生を対象に講演を乞うたものもあり、さまざまであるが、左に一括して表にまとめておく。
最後に、学苑の公式報告には科外講義ならびに特別講義の中に加えられていないが、この両者の何れかに包含されて然るべきと看做されるものに、米国カーネギー財団から派遣された日米交換教授ハミルトン・ライト・メビーが、大正二年一月二十二日、同二十九日、二月五日、同十二日、同十四日の五回に亘り、"American Ideals, Characters and Life"と題して行った、概論から民族の背景、教育、文学などまでに及ぶ広汎な連続講演、英国ウェストミンスター寺院の長老バーナード・ヴォーンが同年二月十八日、品格を論じた講演、シカゴ大学社会学教授チャールズ・ヘンダーソンが同年三月八日に「現時の社会問題」と題して行った講演、学苑図書館のゴルドン文庫にその名を遺しているゴルドン夫人が四年四月二十四日、五月一日、同十五日の三日に亘って『西遊記』を論じた講演、或いは、メビーとの交換教授としてアメリカに渡り、帰国した新渡戸稲造が、六年十一月二日、十二月四日、翌年一月二十九日、二月十二日の四回に分けて行った「近世に於ける殖民政策」の講演などがあるのを、付記しておこう。学生達は正規の講義だけでは得られない幅広い知識をこれらの講義や講演から吸収して、彼らの視野を一層拡げたのであった。
高田学長の宿願が結実して、明治四十三年学苑に発足した校外教育部については、四九六頁以下に詳述したところであるが、通信教育と巡回教育とは大正に入っても引続き活発な活動を展開している。通信教育は、専ら出版部をしてこれに当らせ、毎年の「早稲田大学報告」でも、講義録の出版状況と校外生数の報告がなされている。一方、出版部の夏期講習会は、校外教育部の事業に吸収されて以来、校外教育部の活動報告の中に「中央講習会」としてその開催が報告されている。
講習会は、必ずしも校外教育部規則第五条(四九八頁参照)に定められたように、毎年、春期、夏期、秋期、冬期のすべてに開催されたわけでなく、次第に夏期に集中して、東京と地方との両者で実施されることになってきている。
大正二年について特筆すべきは、中央夏期講習会が午前と夜間とに分けて毎日六時間ずつ実施されたことであるが、『早稲田学報』第二二二号(大正二年八月発行)には左の如く記録されている。
本年の校外教育部中央夏期講習会は、予報の通り、七月二十日より、一週間開催せり。初日は工手学校卒業式日なれば、午前の部を臨時に十四教室を会場とし、午前八時、高田学長開会の辞を兼ねて一場の演説あり。その要旨は、今日の如き日進月歩の時代には、何人も常に適当なる機会を利用して新知識を収得し、時勢に後れざるを急務とす。是れ本大学が他に率先して、大学教育普及事業を経営せる所以にして、欧米先進国の既に此点に力を注ぎつつあるものと揆を一にす。幸に各所に講習会の開催を見、年々盛況に向ひつつあるは、本大学の本懐とする所にして、教育界に裨補する所亦少なからざるべしと信ず。殊に此中央講習会にありては、平生眼によつてのみ学びつつある校外生諸君が親しく大学に来り、直接教授・講師の口より耳に聴くの練習をなさしむる意味もあり、旁斯る講習会の時々各所に開かるるは、独学者、教育家等には勿論、一般市民にも必要ありと論結せられたり。それより毎日午前は八時より十一時迄、夜間は六時より九時迄、大講堂に於て次の講習順序にて何等の故障なく終了せり。
簿記実習の用意(吉田教授)。農村問題(田中博士)。貸借の法律関係(横田博十)。英語(横地第四中学校教諭)。速算術一斑(神尾教授)。土耳古の将来(長瀬ドクトル)。実業子弟の学術独習に就て(前橋教授)。ベルグソン哲学の精神(金子教授)。田園と都市(横井博士)。金融論(井上博士)。作文の話(五十嵐教授)。放電の現象に就て(氏家教授)。日米交通の沿革(中村博士)。最近教育界の趨勢(中島教授)。
右の中横井博士と田中博士の農村都市に関しては、国民刻下の問題として皆耳を傾け、思想上最新のベルグソン哲学と、科学最近の放電実験(恩賜館講義室にて行へり)とは相対照して、深き印象を一般聴者に与へたるが如く、その他時局に触れたる問題多かりしかば、炎暑を厭はず、四百十三名の聴講者は大抵昼夜兼修せり。而して本年は五名の婦人聴講生を見受けたり。二十五日午前七時より特に大隈伯の講演を請ひたるに、約四十五分間に亘りて有益なる訓話ありたり。その要旨は今日は世界的競争の時代にして、立ち後れたる日本は、東洋の一大強国として、欧米各国と対立せざるべからざる責任あり。而して欧米各国民は白人種にして基督教を奉じ、他の異人種、異宗教徒を雌伏せずんば已まざるの状態あり。此時に当つて日本は之に同化し対抗するの実力を涵養せざるべからずとして、結局学問はその実力を養ふ根柢なれば、常に撓まず修養に力め、世界的競争に打勝つ国民たれと訓えられたり。
二十四日は午前十一時より、理工科機械その他の設備を聴講者に縦覧せしめ、開会中午前八時より午後四時迄は図書館の図書閲覧をも許し、研究に便宜を与へたり。尚ほ本年は諒闇中のこととて、茶話会其他の催ほしを一切廃したるは、聴講者一同の諒とせらるる所なるべし。 (一八頁)
また十月には、創立三十周年記念祝典行事の一つとして、校外教育大講演会が開催されたことは、既述(六八六―六八七頁)の如くである。
越えて大正三年四月五日には、大阪市土佐堀大阪青年会館において校外教育大講演会が開かれている。これは大阪市における校外生出身者および有志者の発起により、同地方の校外生相互の親交と校友の連絡を計るのを目的とし、校友諸先輩の賛同を得て今回初めて開催されたもので、開会前本学苑からは高田俊雄出版部主事および土屋詮教編集主任の両名が同地に出張し、開会の準備を行った。当日は例年になく朝来非常な冷気を覚え、正午頃よりは霙さえ降り出すという悪天候にも拘らず、定刻には参会者実に七百余名を数うる盛会を呈した。校友金沢種次郎の開会の辞に次いで、土屋編集主任が「校外教育に就いて」一言し、後、教授伊藤重治郎が「商業及交通の発達より起る諸問題」の題下に、京都大学教授藤井健治郎が「新時代の経済と道徳」について、最後に教授浮田和民が「輿論政治と群集心理」の演題で、それぞれ熱弁を揮った。終って高田出版部主事は、外遊出発直前の高田学長よりの「告辞」を朗読して大喝采裡に閉会した。大阪市においてこのような学術講演会を開催するのをあやぶむ向きも一部にあったが、市民多数の参加を得て盛会裡に終了したことは、明治四十三年七月の講習会(五〇四頁参照)とともに、従来稀に見るところであったと言われた。
夏期講習会は連年中央と地方とで開催されたが、大正三年の中央講習会には総理大臣大隈が訓話を行い、また五年のそれには文部大臣高田が「世界大戦と教育」と題する講話を担当しているなどを見れば、校外教育に対する大学の熱意がいかに大きかったかを知ることができるであろう。また六年夏には、学苑が大きな危機に見舞われたにも拘らず、地方各地での講習会は合計十五ヵ所を数えているのである。
最後に、「未曾有の盛況」と誇られた大正八年の講習会は、朝鮮(ただし朝鮮京城では大正四年にも実施されているから、この年が最初ではない)にまで及ぶものであったが、その記録を「早稲田大学第舟六回報告(自大正七年九月一日至同八年八月卅一日)」(『早稲田学報』大正八年十一月発行第二九七号)から転記しておこう。
本大学教育普及事業の一として例年開催し来れる中央及び地方夏期講習会は本年は未曾有の盛況にして、即ち中央は十日間本大学講堂に開催、会員の数九百を算し、又地方は十六県及び朝鮮に於て三十箇所に亘り左記の如く開催せり。
中央夏期講習会〈本大学講堂〉(七・二一~三〇))
地方講習会(開催順))
(二八頁)
早稲田大学の校外教育の中で、通信教育は屢述の如くこれを出版部に担当させたのであったが、明治が大正に替る時期において、修業年限一年半の政治経済、法律、文学、商業の四講義録、ならびに二年の中学講義録が、それぞれ毎月二回刊行されており、大学令に基づく改正学則が認可された大正九年三月に及んでも、その数に変化はなかった。尤も、校外生の総数は明治四十五年の三三、四九六名より大正八年の八八、八〇五名へと二・六五倍の激増を見せ、中でも中学科は三・〇五倍、商業科は二・八一倍と高い増加率を示している。
なお、大正五年十月に公にされた「早稲田大学第舟三回報告(自大正四年九一月日至同五年八月卅一日)」(『早稲田学報』大正五年十月発行第二六〇号)には、
明治四十三年五月雑誌『早稲田講演』(毎月一回発行)を創刊し、主として本大学科外講義を収録したるが、大正五年二月に至り之を数回の刊行物に改めたり。又同時に名誉学長高田博士の発起に依り、部内に大隈総長を団長に推戴する大日本青年修養団を設立し、其事業として大日本青年講習録を発刊し、以て校外教育部の機関に充てたり。 (二四頁)
と、注目すべき変化が記載されている。
既述の如く、高田は大正四年八月に文部大臣として入閣したが、翌九月十五日には、内務大臣一木喜徳郎と連名で、「〔青年〕団体員ヲシテ忠孝ノ本義ヲ体シ、品性ノ向上ヲ図リ、体力ヲ増進シ、実際生活ニ適切ナル知能ヲ研キ、剛健勤勉克ク国家ノ進運ヲ扶持スルノ精神ト素質トヲ養成セシムルハ刻下最モ緊切ノ事ニ属ス」るので、「地方当局者ハ須ク此ニ留意シ、地方実際ノ情況ニ応シ、最モ適実ナル指導ヲ与へ、以テ団体ヲシテ健全ナル発達ヲ遂ケシメムコトヲ期スヘシ」との内務省・文部省訓令を発している。そしてこの訓令に基づいて、各地青年団員の「知識・道徳の指導機関」および「連絡」機関として、大隈首相を団長とする「大日本青年修養団」が翌大正五年三月組織され、講習録の発行を学苑の出版部が、講演会の開催を校外教育部が、それぞれ担当すると発表されたのであった。
大日本青年修養団は出版部内に置かれ、常務委員には校外教育部幹事・出版部編輯長青柳篤恒が任命され、機関誌『大日本青年講習録』は毎月一回発行、一ヵ年修了、月謝二十五銭と定められ、その第一号が四月十五日に発行された。しかし、大隈と高田の熱意を以てしても、地方青年の都市移動の趨勢を阻止できず、その上、十月には大隈内閣は挂冠することとなり、この新企画は挫折し、翌年の「早稲田大学報告」には全然触れられていないという結果に終った。
出版部が財政危機打開のために、学苑から分離・独立し、明治三十九年以降は匿名組合として、高田が経営上の全責任を荷い、その結果頽勢の挽回に成功したことは、前編第十七章に説述したところであるが、この経緯は少数の当事者以外には知られず、その結果、「早稲田騒動」に際しては、出版部は高田派の伏魔殿として、高田攻撃の好個の話柄となった。高田は、この苦い経験に鑑み、将来再び世人の誤解を招くことのないよう組織を変更することがぜひとも必要であると痛感し、校規が改正され、新役員が決定するのを待って、大正七年十月、株式組織に変更を大学に申請した。かくて同年十二月、維持員会の承認を経て、同十九日創立総会を開催、新会社の取締役部長に選任された高田は、左記の契約を大学と締結した。
契約書
明治三十九年七月十八日早稲田大学維持員会ノ決議及ビ同日締結ノ契約ニ基キ早稲田大学出版部ガ高田早苗ノ経営ニ帰シタル以来右ノ決議、契約及ビ其精神ニ基キ大学及ビ出版部ノ間ニ左記ノ事項ヲ実行シ来リタリ
一、出版部ハ早稲田大学出版部ノ名称ヲ用ヒ一般図書及ビ早稲田大学ノ教科書ヲ発行スル以外ニ校外生ヲ募集シテ講義録ヲ頒布シ校外生ノ通信試験ニ及第セルモノニハ大学ノ名ヲ以テ卒業証ヲ授ケ修了者ニハ修業証ヲ授ケ其成績優等ノモノニハ賞状賞品ヲ授ケタリ
二、大学ニ於テハ前記ノ卒業者、修業者ノ校内入学ニ際シ特ニ束脩金納附ヲ免除シ卒業者ハ中学校卒業生ト同等ノ学力アルモノト見做シ中学校卒業生ト同等ノ試験ヲ課シテ入学ヲ許可シ大正八年マデハ専門部講義録ノ卒業者ニ限リ当該学科専門部ノ上級編入試験ヲ許可スル事トナシ校規ノ許ス範囲ニ於テ校外生募集ノ便宜ヲ与ヘタリ
三、出版部ニ於テハ契約ニ基キ毎年純益金ノ百分ノ二十ヲ大学ニ納附シテ其経費ヲ助ケタリ
今回出版部ハ其組織ヲ変更シテ資本金十万円ノ株式会社トナスニ当リ大学ニ於テハ大正七年十二月十日ノ維持員会決議ニ基キ之ヲ承認シタルヲ以テ従来ノ契約ヲ廃シ改メテ左記ノ事項ヲ契約ス
一、大学ニ於テハ株式会社早稲田大学出版部ノ名称ヲ用ヒテ従来ノ如ク講義録、教科書、一般図書ノ発行販売及ビ其附属事業ヲ営ムヲ会社ニ許ス事
二、大学ニ於テハ校規ノ許ス範囲ニ於テ校外生募集ノ便宜ヲ会社ニ与へ大学ノ名ヲ以テ卒業証、修業証、賞状、賞品ヲ授クルコトヲ許シ且ツ卒業者、修業者ノ校内入学ニ際シテハ従来与へ来レル特別ノ便宜ヲ与フル事但シ専門部上級編入試験ハ大正八年マデニ限ル事
三、会社ハ額面金三万円払込済ノ株式ヲ大学ニ提供シテ純益百分ノ二十ヲ納附セル従来ノ契約ニ換フル事
四、会社ハ大学ノ学長及ビ理事一名ヲ相談役トナス事
五、会社ニ於テ大学ノ信用ヲ毀損スル如キ出版物ヲ発行シタル場合ニハ大学ハ会社ヲシテ早稲田大学出版部ノ名称ヲ変更セシムルヲ得ベキ事
六、此契約ニ記載セザル事項ニ就テハ契約ノ精神ニ基キ相互ニ便宜ヲ図リ適当ノ処置ヲナスベキ事
右ノ契約ヲ締結シ本書二通ヲ作リ各一通ヲ所持スルモノ也
大正七年十二月十九日 財団法人早稲田大学代表者 理事 学長 平沼淑郎印
株式会社早稲田大学出版部代表者 取締役部長 高田早苗印
(早稲田大学出版部所蔵)
出版部は翌八年一月から株式会社として開業したが、初代の役員として部長高田早苗・主幹市島謙吉・種村宗八・高田俊雄が取締役に、田中唯一郎・小久江成一が監査役に就任し、大隈信常・平沼淑郎・田中穂積が相談役を、坪内雄蔵が編輯顧問を依嘱された。
匿名組合時代の出版部について、種村宗八は、「出版部の経済を維持し、若干の利益を挙げたのは主として予約書であつた」(『早稲田大学出版部の沿革と早稲田大学との関係』一二頁)と記している。講義録中には、漢訳政法理財科、高等国民教育、青年講習録の如く、赤字に終始した短命のものもあって、校外生数の増加も出版部経済を大いに潤すには至らず、単行図書も毎年の刊行数が少い年には十数種に止まり、収益は僅少に過ぎなかった中で、最も出版部財政に貢献したのは、予約出版物、なかんずく四十五冊の『漢籍国字解全書』であった。