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第五編 「早稲田騒動」

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第十六章 財団法人の組織と運営の変遷

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一 大正四年の校規改正

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 いわゆる「早稲田騒動」について以上その展開を跡づけたが、現象的には、財団法人早稲田大学の最高役員の地位をめぐっての争いであったことは否定できない。従って、前諸章における説述の理解を容易にするためには、学苑の校規につき、また役員の異動につき、若干の補足が必要である。ここに敢えて若干の重複を厭うことなく、第四編第十四章第一節に引続き、校規改正の経緯と学苑運営の中枢部の変動につき、本章で叙述することにしたのは、それ故である。

 既述の如く、明治四十四年五月、校規第二十二条により、総長および学長は、財団法人役員としての最初の任期が満了したので、同月三十日の維持員会は、引続き大隈重信を総長に、高田早苗を学長に推薦することに決し、同時に校規第十九条を修正して、理事の定員を二名または三名に増員し、学長のほか、維持員天野為之、同市島謙吉を理事に推薦することを決議した。「校規に対し此の修正を施せしは、学校経営の局面次第に開展するに随ひ、校務亦た一層の繁多を加へ来りしが為め、直接学長を助けて事を処弁する機関を備ふるの必要を認めたるに因る」(『創立三十年紀念早稲田大学創業録』一六九頁)というのがその説明である。総長・学長・理事は、この後も校規に従い任期満了ごとに改選されたが、大隈は大正十一年その死に至るまで大学の統理者たる総長に引続き推戴され、高田は大正四年八月文部大臣就任により辞任するまで学長を続け、天野・市島も任期満了後重任されて同月まで理事の要職にあり、会計監督と称する監事は、市島の理事就任後、四十四年以来維持員三枝守富・田原栄の二人がその任に当り、任期二ヵ年満了ごとに重任され、同一陣容が維持された。維持員十五名の中、浮田和民・鈴木喜三郎・塩沢昌貞金子馬治坂本三郎田中穂積島村滝太郎田中唯一郎の八名の有期維持員は大正二年五月に最初の任期五年が満了し、九日に改選の結果全員重任されたが、高田・天野・市島・坪内・田原・大隈信常・三枝の七名の終身維持員は、田原の死去に伴い、四年六月二十五日、浮田がその後任に選出され、同時に浮田および辞任した島村の後任として中村進午中島半次郎が有期維持員に選出されるという変化があった。

 さて、高田学長は、第二次大隈内閣の内閣改造に伴い、一木喜徳郎の後任として四年八月十日に文部大臣に就任するに当り、その前日九日に学長辞任を表明したが、高田の入閣を機として、校規の改正をはじめ機構整備、幹部人事の大幅な異動が行われることになった。すなわち、八月十四日、臨時維持員会が開かれて、校規および職務規定を改正するとともに、新たに名誉教職員規定が制定された。校規の改正は、第七条の維持員数を十五名より十八名以内に増員し、また有期維持員数をそれに応じて増加するとともに、第十九条の理事二名または三名を四名以内に改めるものであり、職務規定の改正中最も重要なのは、「毎週一回理事会ヲ開キ教務、庶務、会計、教職員ノ任免、其他校務ヲ決定シ学長ノ名ニ於テ之ヲ行フ」とする条文が新たに設けられたことである。また新制定の名誉教職員規定は左の如きものであった。

第一条 本大学の事業に従事し特殊の功労ある人を以て早稲田大学名誉教職員と為す。

第二条 早稲田大学名誉教職員は維持員会の決議を以て推薦す。

第三条 早稲田大学名誉教職員に対して本大学は其在職中と同一の礼遇を為す。

(『早稲田学報』大正四年十月発行第二四八号 二頁)

 以上の結果、この日の維持員会で決定された人事の異動は次の通りである。

一、理事天野為之ヲ学長トナスコト。

二、理事高田早苗、同市島謙吉、教授坪内雄蔵ノ辞任ヲ認ムルコト。

三、前学長高田早苗ヲ名誉学長、教授坪内雄蔵ヲ名誉教授、理事市島謙吉ヲ名誉理事トナスコト。

四、理事三名ヲ四名トナシ、新ニ維持員塩沢昌貞、同田中穂積、同田中唯一郎ヲ理事トナスコト。

五、維持員十五名ヲ十八名トシ、新ニ理工科々長阪田貞一、高等予科長事務取扱安部磯雄、早稲田中学校幹事増子喜一郎ヲ維持員トナスコト。

六、副幹事前田多蔵、理工科経営主任中村康之助ヲ幹事トナスコト。 (同誌大正四年九月発行第二四七号 二頁)

 高田、市島、坪内の理事または教授辞任、ならびに天野の学長就任の経緯は既述したので、あらためて繰り返さないが、天野の学長就任が首脳部のいわば譲歩的措置であったことと、理事を増員し、「理事会の権限を改め、すべて合議制とし、其の決定を学長の名を以て行ふことに改めたること」(市島春城『雙魚洞日載』巻四十)が、天野の権限抑制の意味を持つものであったこととを、再び指摘しておきたい。この結果、この年八月現在の学苑主脳部ならびに名誉教職員は、左の如くであった。

(「早稲田大学第卅二回報告自大正三年九月一日至同四年八月卅一日」 『早稲田学報』大正四年十月発行第二四八号 四頁、六頁)

 なお、基金部長・図書館長・校外教育部長として市島謙吉の名が右に見られるが、「隠退せるも、学校の嘱托により当分」(『雙魚洞日載』巻四十)その地位に就いていたのである。

 本部の事務機構の変遷については、前編四二〇―四二一頁に明治末までにつき概説したが、大正二年一月、伊藤正および桑田豊蔵の辞任後、三月一日、大学本部事務分掌を改定し、庶務課、教務課、会計課、学生監督部、学長秘書の五に分ち、各部課に主任を置き、幹事、副幹事管掌の下におのおのその主務を処理させることになり、庶務課川口潔、教務課中村芳雄、会計課高橋三郎、学生監督部永田碩次郎(病中代理南晴耕)がその主任として名を挙げられている(『早稲田学報』大正二年四月発行第二一八号七頁)。大正三年一月、学生監督部が学生課と改称せられたことは、学苑学生の意向を反映したものと見て差支えなかろうが、永田は前年五月に死去したので、望月嘉三郎がその主任を命ぜられた。なお、「早稲田大学第卅一回報告自大正二年九月一日至同三年八月卅一日」(同誌大正三年十月発行第二三六号)には、橘静二が学長秘書として本部の幹部職員中に名を列ねている(五頁)。

 また、高田の入閣に伴って生じた学苑の新体制に、明治三十年以降、学苑の事務機構の中枢部にあって、学苑の経営を切りまわしてきた田中唯一郎が、理事に就任したことが注目される。田中は慶応三年生れの埼玉県人で、明治二十二年邦語政治科・英語兼修科を卒業し、改進党員として、またジャーナリストとして活躍する傍ら、東京専門学校出版部編輯員、更に寄宿舎舎長として学苑に貢献するところがあったが、三十年東京専門学校事務長に就任、更に三十三年には市島の後を承けて幹事となり、後述の如く「早稲田騒動」の責を負って大正六年理事を辞するまで、学苑運営の裏方として、毀誉褒貶の焦点に立っていたと言ってもよい。田中が八年名誉理事に推薦せられたにも拘らず、直ちにこれを辞したのは、田中の献身的努力に対する坊間の無理解への無言の抗議と見るべきであり、十年再び名誉理事の推薦があった際には受諾したが、半年余り後に病歿した。『田中唯一郎君追憶録』に見られる高田早苗の左の如き想い出は、高田が田中の功績をいかに高く評価していたかを証するものである。

我輩が始めて田中君を学校に用ゐたのは、講義録の編輯に関してである。其時の月給は僅に七円であつた。其後寄宿舎の学生を監督する必要があるといふところから、遂に田中君を推薦して寄宿舎の舎監としたが、当時の舎生には増田義一君、円城寺清君、桑田豊蔵君等の豪傑が居たのであるから、田中舎監も随分統御に苦しんだ様子であつたが、大に努力して結局好評を得るやうになり、其間に又大分修養を積んだやうであつた。明治二十七年に至り我輩は田中君を市島幹事の下に事務長として推薦し、三十三年には市島君に代つて幹事になつたのである。其頃が我輩が始めて大学計画を立てた時であるから、早稲田大学発展の歴史に於いて、最も重要なる時機に其事務の中心人物となつた次第である。爾来大正六年早稲田大学の騒擾の時まで長い間幹事として、又暫くは理事として、学校の為めに尽された田中君の功蹟は、何人も認めざるを得ざるものであるが、特に我輩は其事蹟を良く知つて居るのである。田中君は早稲田大学の幹事として我輩の下に立つて事務を鞅掌したのみならず、基金募集といふが如き臨時の仕事に当つて熱心に奔走された。基金募集は明治三十三年から計画した早稲田大学建設の場合、四十年から計画した理工科増設、即ち第二期拡張の場合、及び大隈内閣当時に計画せられた御大典記念事業等であるが、其執れの場合に於いても、田中君は渾身の精力を注いで、東京に、地方に、募集に尽力したのであつた。……

早稲田大学の幹事といふ職は局外からは何のこともなささうに思はれるかも知れないけれども、何にしても三百人以上の教授・講師、二百人近くの職員、一万有余の学生を包擁する大団体の支配人であるから、其繁劇なることは予想の外である。斯る劇職を長らく奉じて居たので、君の健康も随分害されたに相違ない。我輩の常に田中君に感服して居たことは、其責任を重んずるといふ一事である。田中君は自分の責任を未だ嘗つて回避したことがないばかりでなく、学長たる我輩の矢面に立つて幹部に対する攻撃は自ら之を背負ひ、なるべく学長を傷けないやうに、終始心掛けて呉れたものであつた。斯る性格であつたから、田中君は頗る勇気のある人であつて、場合に依つては、先輩に対しても猥りに膝を屈しない、たとへ勢力家の言でも、御無理御尤もでは通さないといふところがたしかにあつたのである。斯ういふ風であつたから、長い間に田中君は一部の人々の怨府となつた傾があつたやうに思はれる。此等が原因になつて、早稲田大学騒擾の場合に於いて最も多く攻撃の的となつたのである。尤も其以前より、田中君が漸次一部の人の恨を買ふに至つたことに早く我輩も気付いて、物質的に不遇なる学校の幹事といふ如き職務に生涯を終る必要もなからうから、寧ろ実業界に転じては如何、学校としては一日もなかるべからざる人であるけれども、君の前途を考慮する時は、報酬少く労苦大なる幹事の職に老後まで君を止めるのは、我輩としても忍び難いところであると語つたことがある。此話を聞いて田中君は兎に角一応勘考するとのことであつたが、数日の後我輩に、毎朝矢来の宅を出でて左へ学校に出勤するものを、俄に右に方向を転ずるは堪へ難いところであるから、今暫く此儘に置かれたいといふ答であつたから、我輩も止を得ず其志に任せたのであつた。

更に田中君の功蹟と考へられるところは、早稲田大学関係の実業方面に於ける事業である。我輩が止を得ざる行掛りから日清生命を創立した当時に於いても、其主任者としては池田竜一君を選んだのであるけれども、池田君を助けて創立の局に当らしめ、社運の発展に非常なる労苦を致した者は田中君であつた。又ユニヴァシティ・プレスが必要だといふ見地から、日清印刷を創立した時も、田中君・小久江君をして其事に当らしめ、遂に今日の如き堅実なる会社の基礎が出来た次第である。田中君が早稲田大学を退いた後に、大隈侯爵はいたく同君の前途を懸念せられて、何かの援助を与へんとの考から、支那方面の事業が適当だと云ふので、日華窯業株式会社を経営せしめ、結局田中君は其社長となつた。君は実業方面に於いても確に活躍し得る人であつたが、日華窯業の社長に就任後僅に数年にして世を捐つるに至り、実業方面に其真骨頭を示す機会のなかつたのは寔に遺憾なことであつた。 (四―八頁)

 大正四年以後、校規改正は大正六年まで行われていない。この間、校規とは直接関係がないが、大正四年九月二十五日の維持員会において、従来の理工科助教が助教授と改称され、それまでの教授・講師の下に位置された。ただし助教授はこの時理工科のみに置かれたものである。名称の変更によって、助教授が直ちに教務補助的な性格を完全に脱皮したとは断言しにくいが、翌五年二月二十七日の維持員会で、「理工科講師にして専任者は之を助教授とすること」と報告されているところから見れば、大正七年の校規改正で、助教授が一応講師の上位に置かれているのは、必ずしも実状を反映しないものではなかったろう。しかし、何れにせよ、現行の教授・助教授・講師制が各学部で実施されるのは、大正十二年以降のことである。

 また、同じく四年九月二十五日の維持員会において、高田名誉学長は、その調査に係わる早稲田大学学制改革案について述べ、それを天野新学長に引き継ぐことにした。この改革案は、高田が既に欧米漫遊以前より企図していたものであり、帰国後は、主として高等師範部長中島半次郎が他の一、二の教職員の助力を得て推進し、高等予科より研究科に至るまでの学科課程ならびに教授方針、試験の改正等を調査していたものであったが、新学長の下に、十一月二十五日の維持員会は、これを承けて新たに学制調査会を組織することを決定し、金子馬治田中穂積中村進午中島半次郎・中村康之助・浮田和民・前田多蔵・安部磯雄阪田貞一塩沢昌貞の十名を委員に挙げて、その主査を塩沢・中島両教授に委嘱した。学制調査会は、同年十一月二十九日と十二月十三日に会合を持ち、調査研究を続けた。七一四頁に一言した『早稲田大学学制調査参考案』(学籍課保管)は、恐らくこの会の調査熟議の成果を示すものと察せられる。

二 紛擾中の維持員会

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 大正六年、第十三章に前述した紛争白熱化最中に開催された六月二十二日の維持員会では、『自大正五年九月至大正十二年五月維持員会議事録』によれば、天野学長のほか高田、坪内、市島など十三維持員出席の上、「高田維持員ニ学制改革案ノ立案ヲ委任スルノ件」が決議され、八月中を期限とすることを高田が承認したとのみ記されているが、坪内の記すところによれば、

天野博士は、任期満了を機として、今期限りにて学長を辞すべきことを正式に発表し、他の三理事も同じく辞意を表明せり。同時に維持員会は制度改正の立案を高田博士に依嘱し、其改正の成れる上にて、学長及び理事を選定すべきことを決議せり。

(「自分の観たる我校の紛擾顚末」 『早稲田大学史記要』昭和五十一年三月発行第九巻 資料四七頁)

すなわち、天野は同年八月三十一日を以て退任する旨を表明し、同時に、学長復帰を辞退した高田に対しては校規改正の立案と実施を委嘱することが決定したのであった。そこで高田は、九〇七頁に記したように、六月二十四日の教授・講師慰労会において、改革案担当につき抱負を述べてその任に当り、以後、校規の改正作業は随時維持員会で継続研究された。その後天野が辞意を翻し、紛争が深刻化する経緯は既述したところであるが、七月十日の維持員会では、「高田維持員立案ノ校規改正一部ノ承認ノ件」ならびに「天野氏再選ノ件」が可決され、次いで、七月十三日の維持員会では、校規に関し、維持員の数を四十名以内とすることが可決された。ところが三日後の十六日の維持員会では、天野学長より「理事は学長の指名にしたい」との提議があり、天野の構想自体に不審の念を維持員が懐くに至ったのは九一六―九一七頁に既述の如くである。

 尤も、怱々の中に作成されたと推定されるこの前後の維持員会の記録は、内容が簡単にすぎて要領を得ないものが少くないのみならず、維持員の氏名捺印を欠くというような、形式的に不備なものも六回に及んでいる。或いは、原記録は両派の何れかに利害関係の深い何者かによって破棄され、後日急遽一応体裁を整えられたものが今日残されているのではあるまいかとの疑惑さえ懐かせられるのである。

 何れにしても、九二二頁に述べたように、七月に次から次へと学苑幹部が辞表を提出するに及んでは、大隈総長も自ら紛擾解決に乗り出さざるを得なくなったが、なかなか効を奏せず、八月十八日の「軽井沢会議」で漸く最後の決断を下すことになった。すなわち、来たる九月以後は当分学長を置かず、総長統裁の下に理事七名以内を置き校務を処理するという内議が、総長の承認を得て定められたのである。これと前後して、高田は八月十五日の維持員会において、今回の紛擾を匡救し得ない責任を感ずる旨を開陳し、終身維持員の辞任および名誉学長の称号を辞退したいと表明し、二十二日の維持員会で正式に同意された。

 八月二十五日の維持員会は「軽井沢会議」の決定に基づき紛擾に最終的な決着をつけるものであった。『自大正五年九月至大正十二年五月維持員会議事録』は、理事田中唯一郎の辞任を承認、図書館長事務嘱託市島謙吉の辞任を許可した後、維持員坪内より緊急動議が提出されて、左の事項がこの日に決定されたことを記録している。

一、七月十日天野学長及ビ三理事ヲ新校規改定迄留任セシムトノ決議ハ之ヲ取消ス。

二、本年九月一日以後理事六名ヲ以テ大隈総長統裁ノ下ニ校務ヲ執ルコト。

三、事務規程第二章事務分掌規程改正ノ件。

一、事務分掌規程第五条中学長秘書ノ四字ヲ刪除ス。

二、第七条ノ分掌事項ヲ第六条中ノ庶務課ニ移ス。

右ノ改正ハ大正六年九月一日ヨリ実施ス。

四、投票ニ依リ左ノ理事六名ヲ選挙シ当選ヲ承諾セリ。

 金子馬治坂本三郎安部磯雄中島半次郎田中穂積塩沢昌貞

そして、議事未了につき九月一日に継続開会することとし、校規に従い登記すべき四名の理事の人名もその時決定することにした。右議事録には以上の決議に何らの条件も記されていないが、この日には、九三五頁以降に詳述した調停作業が一方において試みられていたので、『早稲田大学紛擾秘史』第三冊によれば、右は「万一調停破裂の時の用意として」決議され、密封せられてあったのである。もし九四六頁記載の、坂本が松浦局長に示したものがこの議事録であったとすれば、坂本が松浦を納得させる上に払った苦心は想像に難くない。さて、調停は結局成立しなかったので、ここに天野学長は任期満了とともに退任することが確定し、八月三十一日の任期満了以後の新体制として、当分学長を置かず、大隈総長統裁の下に新たに理事制を布くこととなったわけである。二十七日、各維持員集合し、二十五日の維持員会決議通り、九月一日以降理事制への移行を確認するとともに、理事の担当事務は、庶務を坂本三郎、会計を田中穂積、教務を塩沢昌貞金子馬治安部磯雄(高等予科)、図書館事務監督を中島半次郎と決定した。

 八月三十一日には、学長天野為之、理事塩沢昌貞田中穂積が任期満了となり、理事田中唯一郎も同日任期満了を待たずに辞任したので、九月三日に何れも所轄登記所において退任の登記を行った。

 なお、前頁に記した如く「学長秘書」が「事務分掌規程」第五条中より刪除されたのは、天野学長就任後、五年十二月に学長秘書に就任した佐藤正が、既にしばしば触れるところがあったような本紛争中に演じた役割に対する批判の声がいかに高かったかを反映するものであるのを、蛇足ながら付記しておこう。

三 過渡期の体制

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 一時は混乱の極を極めた「早稲田騒動」のさなかに、大学派の間で最終的な意思統一が行われ、漸く収束の曙光が現れるのに伴い、校規の一部を改正し、紛擾を処理するための新首脳部が形成されることになった。すなわち、従来の校規によれば、学苑の代表者は学長以外には存在しないのであるが、当分の間学長を置かず理事制を採ることにしたため、校規の一部改正が必要となった。九月一日の維持員会の左の如き決定は、こうした新事態に即応するためのものであった。

一、早稲田大学校規中第五章第十九条理事「四名以内」トアルヲ「七名以内」ト改ム。

二、同校規第五章第二十条第一項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ。

学長ノ欠ケタルトキ又ハ事故ニヨリ校務ヲ執ルコト能ハザルトキハ他ノ理事ノ互選ヲ以テ定メタル理事其職務ヲ行フ。

三、本年八月二十五日維持員会決議中「九月一日以後理事六名ヲ以テ校務ヲ執ル」トアル六名中四名ハ、校規第十九条ニ従ヒ、四名ヲ文部省ニ届出デ、且ツ法人理事変更登記ヲナシ、他ノ二名ハ校規変更認可後届出及登記ヲナスコト。

四、前項ノ四名ハ塩沢昌貞田中穂積坂本三郎金子馬治ノ四名トシ、坂本三郎ヲ学長トス。

(『自大正五年九月至大正十二年五月維持員会議事録』)

 九四四頁以降に詳述した如く、新当局にとって、「一の暗礁ともいふべくして、当事者をして就任匆々心を痛めしめたるは、文部省が果して速に校規の一部改正に認可を与ふるや否といふに在」った(『早稲田大学紛擾秘史』第三冊)。そこで、ともかく右の第一、二項の改正が認可されるまでは、従来の校規に従い、本大学代表者としての学長を手続上置かなければならないので、学長の名義は年長者の坂本三郎が襲うよう新理事が申し合せていたのを、維持員会で正式に決定したのである。これに伴い、同日付で、天野学長の後任として理事坂本三郎を本学代表者とする変更願および校規変更認可願を文部大臣に出願した。新理事六名中坂本・塩沢・田中(穂)・金子については、改正前の校規に基づき、九月一日付財団法人早稲田大学理事に就任の件を三日に所轄登記所に申請、登記を完了し、他の中島・安部二理事の登記は、改正校規の認可次第手続することにした。本学代表者変更願と校規の変更願は何れも九月七日付で認可された。右の陣容はあくまでも「早稲田騒動」の収拾に伴う暫定的なものであり、坂本三郎の学長就任も全く手続上やむを得ざる形式的措置であった。従って、改正校規が認可されるや、十二日には、学長・理事・維持員坂本、理事・維持員田中(穂)・塩沢・金子・安部・中島は直ちに辞表を提出し、また、維持員坪内・市島・浮田・田中(唯)も辞表を提出した。これらは二十六日の維持員会で承認された。

 九月二十六日の維持員会は、八月三十一日で任期満了となった大隈総長を引続き総長として推戴することを決議し、次いで、十五日の評議員会、十七日の教授会およびその後の詮衡過程での推薦に基づいて、新維持員と新理事とを選出した。改正校規による理事制を骨子とした新幹部の陣容はこれで整ったわけである。すなわち、維持員については、終身維持員高田早苗の後任に渋沢栄一が、同坪内雄蔵市島謙吉浮田和民の後任に森村市左衛門・中野武営・豊川良平が、有期維持員阪田貞一中村進午増子喜一郎の後任に平沼淑郎・宮田脩・内ヶ崎作三郎が、同塩沢昌貞田中穂積金子馬治安部磯雄の後任に松平頼寿・内藤久寛・昆田文次郎・宮川銕次郎が、同坂本三郎中島半次郎の後任に吉田東伍・徳永重康が、それぞれ選出された。理事は維持員辞職とともにその資格を消滅したため、新たに、平沼淑郎内ヶ崎作三郎・徳永重康・宮田脩・吉田東伍が選出され、互選の結果、平沼が代表者理事となった。そして当分学長を置かず、改正校規第二十条に従い、平沼が学長の職務を行うことに決定したのである。また、理事の担当事務は左の如く決定された。

庶務、会計 平沼淑郎 会計 宮田脩 教務 徳永重康 教務 内ヶ崎作三郎

図書館事務 吉田東伍 (『早稲田学報』大正六年十月発行 第二七二号 三頁)

 同時に、田原の歿後、四年九月に会計監督に就任した増子喜一郎が六年七月に辞任したので、宮川維持員がその後を襲った。新理事五名は、二十六日付を以て財団法人早稲田大学理事に就任した旨の登記を所轄登記所で二十九日に完了した。ただし、吉田東伍は翌年一月二十二日に急逝したが、後任の理事の補充は行わなかった。また、代表者理事に互選され、本学代表者となった平沼理事の代表者認可願も、直ちに文部大臣に出願され、十月十五日付の認可書が二十四日に東京府経由送達された。なお、前学長天野為之は、十月九日付で教授会議員および講師の辞任届を、更に二十六日付で終身維持員の辞任願を提出し、維持員会は十一月二日にその承認決議を行った。天野は、ここにおいて、創立以来三十余年間親しんできた本学苑との関係を断つことになったのである。翌七年七月十九日の維持員会は、天野に対し、六年九月に遡って終身年金二千円を贈ることを決議して、東京専門学校創設以来の「勲績」に報いることにした。尤も、この間渋沢栄一と中野武営が天野の学苑復帰のために種々奔走したが、「今に於て寛恕するは自分の面目を再び潰すものなり」(『酒前茶後録』巻七)とて、大隈総長の断乎拒否するところとなり、名誉学長または名誉教授の称号を与えることすら、大隈は肯じなかった。

 新理事五名は、十月早々、『早稲田学報』(第二七二号)に連名で「就職の辞」を寄せて、「早稲田騒動」という「我が大学の運命は寸前暗黒の観を呈し」た直後に理事としての重任を担う、責任の大なることを痛感するとともに、「過渡期に於ける至難の任務を全うせしめられんことを」広く校友に訴えた(二頁)。これに対する形で、同誌も同号に「新維持員諸氏を迎ふ」を掲げて、各人の寸評を記し、「諸氏が大隈総長の下にありて本大学の新進路を開拓せられんことを希望す」(一五頁)と、その就任を歓迎し、激励の辞を贈った。

四 大正七年の校規改正および創立三十五周年記念祝典

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 平沼を代表者理事とする新幹部は、新たな校規改正までその重責を担うものとされていた。九月一日の校規一部改正は「早稲田騒動」収拾の具体的な現れであったが、新たな校規改正は、騒動後の事態に対処して、財団法人としての機構をより一層確固たるものに整備することを目的としたものであった。その改正作業には、翌七年九月二日の認可まで、ほぼ一年が費された。

 先ず、六年十月一日、維持員会は「早稲田大学校規改定調査委員会規程」を設け、維持員会、教授会、評議員会より各七名の改定調査委員を選出することにした。この結果選出された二十一名の委員は左の通りである。

(「早稲田大学第卅五回報告(自大正六年九月一日至同七年八月卅一日)」 『早稲田学報』大正七年十月発行第二八四号 二頁)

 校規改定調査委員会の第一回会合は十一月二十八日に開かれ、会長に渋沢、副会長に中野、幹事に平沼が選出された。維持員会は、理事会より提出されていた改定草案を、翌七年二月二十八日、三月十四日、四月十日に討議・修正・決議して、改定調査委員会に付議した。調査委員会は五月二十一日以降六月十四日までに四回の会合を行い、審議を議了して直ちに維持員会に回付した。維持員会は同月十八日に改定案を可決・確定し、十九日付で東京府を経由して文部大臣に校規変更願を提出したところ、九月二日付で認可せられた。

 平沼代表者理事は、九月十一日の始業式演説において、左の如く改定校規に言及している。

此校規は早稲田大学の憲法である。其編成に就いては私共は駑鈍に鞭つて力を尽したのであるが、決して理想的ではないと云ふ批評があるかも知らぬが、しかし我早稲田大学の過去の歴史に照し、又早稲田大学の将来を考へて、先づ是が理想的に近いものであると思つて居る。よし此校規が理想的の者であつたとしても、之を運用して行く上に於ては、前にも屢々述べた如く、学生諸君が奮発努力勉励して己の本分を尽して行かなければ必ず欠点を生ずる。私共は此校規の運用を完全ならしめんことを期して居るけれども、肝腎の学生諸君が奮発努力勉励しないと如何なる理想的の校規があつても功を奏し難いものである。故に校規の運用は実力を要する。法其物よりも人其者が肝腎である。それで此新校規が実施致されると、私共、即ち今幹部を組織して居ります者は新なる幹部と更迭するのである。新幹部の採られる所の方針は私が今言つた事と決して変ることはなからうと思ふ。即ち諸君の教育に重きを置く、諸君の人格を養成し、諸君をして学術研究の方針に向つて努力せしめる、斯う云ふ点は何人が局に立つとも異論のないことである。又諸君の身体を重んじ衛生を重ぜしめると云ふ点に就ても、何人も争ふべからざることである。だから新校規をして光輝あらしめると云ふことは、即ち学生の奮発・努力・勉励に与つて力あることと覚悟をして貰ひたい。さもなければ折角の憲法も光を失ふことになる。況んや新大学令が発表になると益々以て諸君の覚悟が必要である。諸君の奮発・努力・勉励が今日よりもより以上に増大しなければならぬ。かくして我早稲田大学が専門学校令の支配を免れて、真に大学と云ふものになるに至りましたならば、私共は勿論のこと、諸君と雖も蓋し喜びに堪へぬことだらうと思ふ。願くは諸君と共に尽力し、奮発し、勉励して、此機運に達しようではありませぬか。かくあつてこそ我早稲田大学の大学たる所以が発揮せらるるであらうと思ふ。 (『早稲田学報』第二八四号 四―五頁)

 右に言う「理想的に近いもの」という語の中に、「早稲田騒動」という学苑にとって未曾有の紛擾の後を承けて、一年に亘って校規の改正作業を進めてきた首脳陣の感慨がまざまざと読み取れるであろう。翌十二日午後五時より、都下の各新聞社および通信社を永楽町の永楽俱楽部に招待し、平沼代表者理事をはじめ各理事列席の上、平沼より改正校規の趣旨を説明し、新校規を公表した。新校規は左の通りである。

財団法人早稲田大学校規

第一章 総則

第一条 本財団法人ハ早稲田大学ト称ス。

第二条 本大学ハ各種専門学術ノ教授及研究ヲ目的トス。

第三条 本大学事務所ハ東京府豊多摩郡戸塚町大字下戸塚六百四十七番地ニ設置ス。

第二章 資産

第四条 本大学ノ資産ハ別冊財産目録ニ掲載ス。

第五条 本大学資産ノ管理、使用及処分ハ維持員会ノ決議ニ依リ理事之ヲ行フ。

第六条 本大学解散ノ場合ニハ、残余ノ資産中設立者ノ寄附ニ係ル土地ハ設立者又ハ其家督相続人ニ帰属シ、其他ノ資産ハ類似ノ目的ノ為ニ処分ス。

第三章 維持員及維持員会

第七条 本大学ニ維持員二十五名ヲ置ク。

第八条 維持員ヲ分チテ終身維持員及有期維持員トス。

第九条 終身維持員ハ左ノ二種ヨリ成ル。

一、設立者又ハ其家督相続人、若シクハ其代表者 一名

二、本大学総長ノ推薦シタル者 五名

第十条 有期維持員ハ左ノ二種ヨリ成ル。

一、評議員会ニ於テ評議員中ヨリ選出シタル者 十四名

但内七名ハ第六十七条第二号ノ評議員中ヨリ選出スルモノトス。

二、功労者及寄附者中ヨリ維持員会ノ推薦シタル者 五名

第十一条 有期維持員ノ任期ハ三箇年トス。

第十二条 維持員ノ資格ハ左記ノ事由ニ依リテ消滅ス。

但評議員中ヨリ選出セラレタル者ハ、任期内ト雖モ評議員ノ資格消滅スルトキハ退任スルモノトス。

一、任期満了

二、死亡

三、禁治産、準禁治産、破産

四、辞職

五、除名

第十三条 維持員ノ除名ハ他ノ維持員五分ノ四以上ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス。

第十四条 維持員ノ補欠ハ第九条及第十条ニ依リ之ヲ行フ。

第十五条 有期維持員補欠ノ場合ニ於ケル後任者ノ任期ハ前任者ノ任期ニ依ル。

第十六条 維持員会ハ維持員ヲ以テ組織シ、本大学ニ関スル重要ナル事件ヲ決定ス。

第十七条 維持員会ハ定時維持員会及臨時維持員会ノ二種トス。

第十八条 定時維持員会ハ毎月一回学長之ヲ招集ス。

第十九条 臨時維持員会ハ学長ニ於テ必要ト認メタルトキ、又ハ維持員五名以上ノ請求アリタルトキ学長之ヲ招集ス。

第二十条 維持員会ハ維持員ノ互選ヲ以テ会長・副会長各一名ヲ置ク。

第二十一条 会長ハ議事ヲ整理ス。会長事故アルトキハ副会長之ヲ代理ス。

第二十二条 維持員会ヲ招集スルニハ、定時維持員会ハ少クトモ五日以前ニ、臨時維持員会ハ少クトモ二日以前ニ、会議ノ目的タル事項ヲ通知スベシ。

但出席全員ノ同意アルトキハ予メ通知セザル事項ヲ附議スルコトヲ得。

第二十三条 維持員会ハ維持員三分ノ一以上出席スルニ非ザレバ開会スルコトヲ得ズ。

第二十四条 維持員会ノ決議ハ出席維持員ノ過半数ニ依ル。

第四章 総長、理事、監事

第二十五条 本大学ニ総長・理事・監事ヲ置ク。

第二十六条 総長ハ維持員会之ヲ推薦シ、本大学ノ最高統率者トス。

第二十七条 理事ハ五名以内トシ、維持員ノ互選ヲ以テ之ヲ定ム。

第二十八条 理事ハ維持員会ノ決議ニ基キ一切ノ経営ニ任ズ。

第二十九条 維持員会ノ決議ヲ以テ理事中一名ヲ学長トシ、本大学ノ代表者トス。

第三十条 学長欠ケタルトキ、又ハ事故ニヨリ職務ヲ行フコト能ハザルトキハ、他ノ理事ノ互選ヲ以テ定メタル理事之ヲ代理ス。

第三十一条 監事ハ二名トシ、維持員ノ互選ヲ以テ之ヲ定メ、会計監督ト称ス。

第三十二条 監事ハ維持員会ノ決議ヲ以テ定メタル会計規定ニ依リ会計ノ検査ヲ行フ。

第三十三条 理事及監事ノ在職期限ハ三箇年トス。

但有期維持員中ヨリ選挙セラレタル理事及監事ハ、在職期限内ト雖モ維持員ノ資格消滅ト共ニ退職スルモノトス。

第三十四条 理事及監事ノ資格消滅ハ第十二条及第十三条ノ規定ヲ準用ス。

第三十五条 理事及監事補欠ノ場合ニ於ケル後任者ノ在職期限ハ前任者ノ在職期限ニ依ル。

第五章 計算

第三十六条 本大学ノ予算及決算ハ維持員会ノ決議ヲ以テ之ヲ定ム。

第三十七条 本大学ノ会計ハ維持員会ノ決議ヲ以テ定メタル会計規定ニ依リ之ヲ処理ス。

第六章 教授、助教授、講師及教授会

第三十八条 本大学ニ教授・助教授及講師ヲ置ク。

第三十九条 教授・助教授及講師ハ学科ノ教授及研究ニ従事シ、学生ノ指導ニ任ズ。

第四十条 教授及助教授ノ任命並ニ講師ノ嘱託ハ維持員会ノ決議ヲ以テ定メタル規定ニ依リ学長之ヲ行フ。

第四十一条 教授・助教授及講師ハ左ノ七科部ニ分属ス。

但他ノ科部ニ兼属スルコトヲ得。

一、大学部政治経済学科及専門部政治経済科

二、大学部法学科及専門部法律科

三、大学部文学科

四、大学部商科

五、大学部理工科

六、高等師範部

七、高等予科

第四十二条 各科部ニ科長・部長各一名ヲ置ク。

第四十三条 各科部長ハ其科部所属ノ教授会ニ於テ互選シタル候補者二名中ヨリ維持員会ノ決議ヲ経テ学長之ヲ任命ス。

第四十四条 各科部長ハ維持員会ニ出席シテ意見ヲ陳述スルコトヲ得。

第四十五条 科長・部長ノ在職期限ハ三箇年トス。

但補欠ノ場合ニ於ケル後任者ノ在職期限ハ前任者ノ在職期限ニ依ル。

第四十六条 教授及助教授ノ解職ハ維持員会ノ決議ヲ以テ学長之ヲ行フ。

但此場合ニ於ケル維持員会ノ決議ハ第十三条ノ規定ヲ準用ス。

第四十七条 本大学ハ第四十一条規定ノ科部ニ分チテ教授会ヲ置ク。

第四十八条 教授会ハ各科部ノ教授ヲ以テ組織ス。

第四十九条 教授会ハ左記ノ事項ヲ決議ス。

一、教授及研究ニ関スル件

二、学生ノ指導訓練ニ関スル件

三、其他学長又ハ維持員会ヨリ諮問セラレタル件

第五十条 教授会ハ第四十三条ニ依リ科部長候補者ヲ互選ス。

第五十一条 教授会ハ第六十七条第二号ニ依リ各科部五名宛ノ評議員ヲ互選ス。

第五十二条 教授会ハ専門学科ニ就キテ部会ヲ開クコトヲ得。

第五十三条 教授会ハ学長ノ承認ヲ経テ科長又ハ部長之ヲ招集ス。

第五十四条 教授会ノ議事ハ科長又ハ部長之ヲ整理ス。

第五十五条 学長ハ必要ト認ムルトキハ各科部聯合教授会ヲ招集スルコトヲ得。

第五十六条 聯合教授会ハ開会毎ニ出席教授ノ互選ヲ以テ議長ヲ定ム。

第五十七条 教授会ハ所属教授ノ三分ノ一以上、聯合教授会ハ聯合各科部教授ノ四分ノ一以上出席スルニ非ザレバ開会スルコ

トヲ得ズ。

第五十八条 教授会及聯合教授会ノ決議ハ第二十四条ノ規定ヲ準用ス。

第五十九条 維持員ハ教授会及聯合教授会ニ出席シテ意見ヲ陳述スルコトヲ得。

第六十条 教授会ハ他科部教授並ニ助教授・講師ノ出席ヲ求メテ其意見ヲ聴取スルコトヲ得。

第六十一条 教授会及聯合教授会ノ決議ハ維持員会ニ於テ之ヲ決定ス。

第七章 図書館長及附属学校長

第六十二条 本大学ニ図書館及附属学校ヲ置ク。

第六十三条 図書館ニ館長、附属学校ニ校長各一名ヲ置キ、維持員会ノ決議ニ依リ学長之ヲ任免ス。

第六十四条 図書館長及附属学校長ハ維持員会ノ決議ニ基キ所管ノ事務ヲ処理ス。

第六十五条 図書館長及附属学校長ノ在職期限ハ三箇年トス。

第八章 評議員及評議員会

第六十六条 本大学ニ評議員ヲ置ク。

第六十七条 評議員ハ左ノ四種トシ、学長之ヲ嘱託ス。

一、総長及維持員会ニ於テ本大学関係者中ヨリ推薦シタル者 三十五名

二、教授会ニ於テ教授中ヨリ選出シタル者 三十五名

三、中央校友会ニ於テ其会員中ヨリ選出シタル者 二十名

四、地方校友会ニ於テ其会員中ヨリ選出シタル者 若干名

第六十八条 評議員ノ任期ハ三箇年トス。

第六十九条 評議員会ハ評議員ヲ以テ組織ス。

第七十条 評議員会ハ毎年一回学長之ヲ招集ス。

但学長ニ於テ必要ト認メタルトキ、又ハ評議員四分ノ一以上ノ請求アリタルトキハ臨時会ヲ開クコトヲ得。

第七十一条 評議員会ハ評議員四分ノ一以上出席スルニ非ザレバ開会スルコトヲ得ズ。

第七十二条 評議員会ハ評議員ノ互選ヲ以テ会長・副会長各一名ヲ置ク。

第七十三条 会長ハ評議員会ノ議事ヲ整理ス。会長事故アルトキハ副会長之ヲ代理ス。

第七十四条 評議員会ハ第十条第一号ニ依リ維持員ヲ選出ス。

第七十五条 維持員ハ評議員会ニ出席シテ意見ヲ陳述スルコトヲ得。

第七十六条 学長ハ毎年ノ学事及会計状況ヲ評議員会ニ報告シテ其承認ヲ求ムルコトヲ要ス。

第七十七条 評議員会ハ其決議ヲ以テ意見ヲ維持員会ニ提出スルコトヲ得。

第七十八条 評議員ノ補欠ハ第六十七条ニ依リ之ヲ行フ。

但便宜之ヲ延期スルコトヲ得。

第七十九条 第十二条・第十三条・第十五条・第二十二条及第二十四条ノ規定ハ之ヲ評議員及評議員会ニ準用ス。

第九章 校規ノ改定

第八十条 本校規ハ維持員五分ノ四以上ノ同意ニ依リ主務官庁ノ認可ヲ経テ之ヲ改定スルコトヲ得。

附則

第一条 本校規ニ於テ設立者ト称スルハ侯爵大隈重信トス。

第二条 本校規ニ総長トアルハ本校規実施ノ際ニ於テハ現在ノ総長ヲ指ス。

第三条 本校規ニ維持員会トアルハ、本校規実施ノ際ニ於テハ現在維持員会ヲ指ス。

現在維持員ハ本校規ニ依リ維持員会ノ成立ヲ告グルト共ニ退任スルモノトス。

第四条 本校規第六章ニ教授・助教授及講師トアルハ、本校規実施ノ際ニ於テハ現在ノ教授・助教授及講師ヲ指ス。

第五条 現在評議員タル者現行校規ニヨリ其資格消滅セザル問ハ引続キ評議員タルモノトス。

(同誌大正七年九月発行第二八三号 三―六頁)

 なお、新校規の改正認可願が出された直後の六月二十九日に、維持員会は教授会規定を左の如く改正した。

教授会規定

第一条 教授会ハ各科部教授ヲ以テ之ヲ組織ス。

第二条 教授ノ部属ハ学長之ヲ定ム。

第三条 教授会ノ議事ハ科長・部長之ヲ整理ス。

第四条 学長ハ教授ノ方針、教則ノ改正等教務ニ関スル重要ノ事項ニ付キ議案ヲ教授会ニ提出シ、其審議ヲ求ム。

第五条 教授会ハ校規ノ定ムル所ニ依リ選挙及推薦ヲ行フ。

第六条 教授会ハ教務ニ関スル発案ヲ為スヲ得。

第七条 教授会ノ決議ハ学長之ヲ実行ス。 (同誌大正七年八月発行第二八二号 四頁)

 新校規に基づき、十月一日には評議員会において校規第十条第一項による有期維持員選挙が行われ、左の十四名が選出された。

(同誌第二八四号 五頁)

次いで三日の維持員会は、校規第十条第二項による功労者および寄附者中より左の有期維持員五名を推薦した。

また同日、維持員会において、平沼代表者理事から、校規第九条第二項に基づき左の五名の終身維持員が大隈総長より推薦せられた旨の報告があった。

 なお、校規第九条第一項による終身維持員として、大隈信常が就任した。ここにおいて、新校規による維持員二十五名全員が確定し、新しい維持員会が成立した。これに伴い、旧理事および旧維持員全員が辞任した。

 十月八日、新校規による最初の維持員会が開かれ、左の諸項が満場異議なく可決された。

一、大隈信常氏を維持員会会長と為す件。(副会長は当分の内之を置かず。)

二、侯爵大隈重信氏を総長に推戴する件。

三、伯爵松平頼寿、平沼淑郎浅野応輔塩沢昌貞田中穂積五氏を理事と為す件。

四、平沼淑郎氏を学長と為す件。

五、三枝守富、宮田脩二氏を会計監督(監事)と為す件。

六、維持員会定日を毎月八日午後三時と為す件。但休日に当る時は之を繰下ぐる事。 (同誌同号 六頁)

 なお、新校規による新幹部の右の如き決定までの内面の事情を、同年九月六日付の市島の手記により窺っておこう。

早大校規改正後の新幹部に学長となるべき適任者を得ざるにより、已むなく、これ迄の行がかり代表者となり居し平沼淑郎を学長に推すこと丈は定まりたるが、さて誰れを理事とするやは難問題に属し、これが為めにわれわれも二回迄高田邸に会して凝議する所ありたり。平沼が学長就職を諾する条件として、塩沢昌貞田中穂積を理事に挙げよと申出たるが動機となり、二回の高田邸会議に於て切に両人に就任を勧誘せしが、両人とも容易に応ぜず。二回目の会議後には大隈侯へ両人を伴ひ、余等も参列して、侯より懇到なる勧告もありたるが、尚両人肯んぜざる色あり。止むなく箇々に対し勧告をつづけたる結果、塩沢先づ諾し、田中穂積は昨日漸く諾するに至りたるよし、今朝高田より報を受く。実は幹部に此両人を欠きては、設令高田・坪内維持員に復帰するとしても、相呼応する理事無けんば幾んど復帰も意味を為さず。……学校の前途も黯澹たる次第也。両人の漸く就任を諾したるは学校のため慶すべき事也。 (『酒前茶後録』巻七)

 さて、維持員会開催の翌十月九日、新理事五名は所轄裁判所で登記を完了した。また、本学代表者となった理事平沼の学長就任の認可願が同日付で文部大臣に提出され、十一月二十七日付認可された。なお、理事・学長平沼以外の四理事の分担事務は、松平(庶務)、塩沢・浅野(教務)、田中(庶務、会計)と定められた。かくして、一年間に亘る学長空席が解消し、新校規による平沼の学長就任式は十月二十六日に挙行された。学長就任式は創立三十五周年記念祝典のプログラムに組み入れて行われたのであり、祝典の全容は、「早稲田大学第卅六回報告(正年九一自大七月日至同八年八月卅一日)」(『早稲田学報』大正八年十一月発行第二九七号)に左の如く報ぜられている。

創立三十五年記念祝典大正六年度に於て行ふべかりしも事情の為め延期となりし本大学創立三十五年記念祝典を大正七年十月二十六日より同三十一日に至る六日間に亘り挙行せり。

第一日 学長就任式 十月二十六日中央校庭にて挙行。

第二日 式典及開館式 十月二十七日講堂に於て、式典並に森村豊明会の寄附に係る応用化学実験室開館式を挙行す。

第三日 記念講演 十月二十八日中央校庭に於て、記念講演を開き、左記諸氏講演。

戦時と戦後 文学博士 沢柳政太郎 科学と工業 工学博士 古市公威

戦後東洋に於ける国語問題 文学博士 上田万年 経済上の二大問題 法学博士 男爵 阪谷芳郎

第三日 校友大会 十月二十八日午後五時より上野精養軒に於て中央校友大会を開く。

第四日 水上大運動会 十月二十九日隅田川上流に開催。

第五日 功績者墓参 十月三十日、創立以来本大学の為めに力を致されたる物故功績者に対し記念式挙行の事を告ぐると共に其英霊を慰ぐさめんが為め、中央、地方共に香花を手向け墓参を為せり。

第六日 陸上大運動会 十月三十一日戸塚本大学運動場に於て挙行せり。 (三頁)

 なお、終身維持員中野武営は選出直後の十月八日に死去し、その後任に森村市左衛門が大隈総長の推薦により大正八年一月に就任し、五月十六日に死去した有期維持員宮川銕次郎の後任には、浦辺襄夫が七月六日に就任した。この間、三月八日の維持員会は、「早稲田騒動」の渦中に名誉学長を辞退した終身維持員高田早苗を再び名誉学長に推すことを決議した。また同日、前理事田中唯一郎を名誉理事に推薦したが、田中は直ちにこれを辞退した。かくして、大正八年八月三十一日現在の学苑役員ならびに名誉教職員は左の通りとなった。

(同誌同号 五頁、七頁)