この大正六年七月六日の校友大会は、「早稲田騒動」の諸種の原因を湊合した震源となり、この月中は、この校友大会の余震と見ることができる。先ず同月十日の臨時維持員会においては、正式議事録には「高田維持員ハ天野学長及ビ三理事ハ新校規改定ノ日迄留任セシムトノ件ヲ演べ異議ナク可決セリ」とのみ記録されているが、坪内逍遙の手記には次の如く記されている。
七月十日の維持員会は高田前学長の改正校規案の報告にはじまり、先づ其調査委員の件に議し及んだ。天野学長は現在の維持員数が十八名であるのに相当するやうに、教授会からも、評議員からも、十八名づつの委員を出すやうにしたいと提議した。それに従ふと、合計五十四人といふ多人数となる訳だから、種々異議が出て、つまり教授会と評議員会から各十人宛と定め、維持員からは、番外として原案説明のため、立案者と他に二人位を列席させることに決した。
(「自分の観たる我校の紛擾顚末」 『早稲田大学史記要』第九巻 資料五五頁)
大体の空気を言うと、高田案は、恩賜館組のデモクラティック・ベイシスの要求も加味しながら、極端に流れず、実行可能の案として賛成者が多かったが、天野学長が頑として反対し、自家の改革案を提出したのである。坪内によれば、この案は提出者の心事を疑わしむるものであり、坂本三郎維持員の法律専門家的立場から見ると、早稲田大学が解散しない限り、天野案の如き改正は不可能なのである。坂本説の一節を引こう。
校規を民本主義の下に改正せんとする意見の如きは、甚しき誤謬に陥れるものと思ふのである。それ故に、余は先づ校規の性質から御話して、其誤謬を匡さんと思ふ。財団法人たる早稲田大学の校規は、大学の目的・組織及び其行動等を規定したるものにして、大学の根本規定である。喩へて言へば、国家の憲法とも同視すべき大切のものにして、容易に変更すべからざることは、論を俟たない。而して早稲田大学にては之を校規と称すれども、法律上では之を寄附行為と云ふ。寄附行為は之を変更することを得ざるを以て原則とし、仮令其規定が社会の進歩に伴はずして、甚だ不便の規定となりたりとも、之を変更することが出来ない。加之ならず、寄附行為に規定したる方法にては、当初の目的を達すること不能となりたる場合と雖も、又同一である故に、其結果、法人の目的を達することが出来ない場合は、唯解散の一途あるのみである。謂はば、融通の利かない頑固性のものである。此点が商事会社又は社団法人と異る処にして、特に注意を要する訳である。商事会社又は社団法人は、総会の決議又は社員四分の三の同意を以てすれば、如何様にも定款を変更することが出来るのである。
(同誌同巻 資料五七―五八頁)
すなわち、早稲田大学を潰す以外には実施のできぬ空想案として、天野案は葬り去られた。後のことだが、石橋湛山の耳に、事態がこの有様では早稲田大学を潰すと大隈侯が言ったとの情報が入り、そうなると自分らの社会的責任が大きいから、騒擾を終熄させるの外なかったと、石橋は述べている(九五八頁参照)。しかるに大隈側の資料には、侯が大学を潰すと発言した事実は全く見られない。坂本が天野案を批判したのが廻り廻って伝わり、意外の効を奏したのであろう。坪内手記はまた言う。
十三日の維持員会に於ける天野学長の終身維持員廃止及び教授会並に評議員から各十八名を出したいといふ提議は、以上種々の反対説の為に、成立たなかつたが、尚十六日には同氏から「理事は学長の指名にしたい」といふ提議が出た。校規に拠ると、理事は維持員会の選挙とするのが定款である。学長はもと理事の一人たるに過ぎないのであるから、法理上、定款上、学長が其同僚を指名して就職さする権能はなかるべきである。而して此理由によつて、此提議もまた成立たなかつた。
(同誌同巻 資料五九頁)
蓋し理事は二名または三名であったが、高田が文相として学長を去るに当り、後継として天野の手腕では心細いし、不馴れで分らぬこともあるだろうと気遣い、既述の如く、更に一人増やして四名以内とした。すなわち、学長以外は塩沢昌貞・田中穂積・田中唯一郎で、教授二人、職員一人から成り立っている。しかし在任二年半、この三人は漸く天野の意に従わず、殊に田中唯一郎は明治三十年代初頭の鳩山邸の碁会陰謀(八九四頁参照)以来、天野への監視の眼が厳しいので、理事は自家の腹心を以てせざれば学長抱負の十分なる遂行は不可能であるのを痛感し、そのために天野学長自らの選任説を唱えたのである。
なお、天野が「終身維持員制」を廃止する案を提議したのは、大学創立以来の功労者を推挙している終身維持員を廃することによって、大隈の養子信常と夫人縁戚の三枝守富との大隈勢力を締め出そうという意図である。また天野案に「学長に、維持員会に諮る〔こと〕なくして理事を指名するの専権を与ふること」(『早稲田大学紛擾秘史』第三冊)とあるのは、天野派のための有力教授永井柳太郎と伊藤重治郎ならば専断を以て任じても、有為の少壮教授だから、比較的摩擦の少いのを見越して、その挙に出ようとする底意が見えすいて、直ちに否決せられた。
これと前後して、天野派の少壮血気組が、新聞雑誌を利用できる限り利用して、大学への悪口雑言・罵詈讒謗をほしいままにし、一般人の持つ大学のイメージを破壊すること大なるを憂い、紛擾の顚末を公にして弁駁防護しようというので、評議員中にはその原稿まで製作した者もあったが、それでは却って紛糾を大きくする、暫く隠忍すべしという自重論が大勢を制して、事態の推移を眺めることにした。
しかしこの前後から騒擾は性質を一転して、単なる言論上の抗争でなく、ややもすれば過激な実際行動に出ずる兆を現してきた。もしこれをフランス大革命を例にとって説明することが許されるならば、初めは自由・平等・博愛の三色旗に象徴された理想問題・思想問題・政治問題であったが、末期に及ぶに随い、血で血を洗う酷毒の権力争いとなり、暴力のために暴力を振い、殺戮のために殺戮を嗜む恐怖時代に暴走し、遂にローラン女史をして、断頭台上に「ああ自由よ! 汝の名においていかに多くの罪悪が行われたかよ!」と叫ばしむるに至った。「ああ大学改革よ!汝の名においていかに多くの乱暴狼藉が行われたかよ!」だ。
「早稲田騒動」は、建学精神擁護、よりよき学長の推戴から、まるでワッショイ、ワッショイと、祭礼における御輿かつぎに似てきた面もある。
ここで今までの経過を締めくくってみると、そもそも大学側(坪内・市島の長老、浮田・安部の同志社出の幹部、塩沢・田中穂積・田中唯一郎の三理事、プロテスタンツの一部)が高田の学長復帰を希望したところ、現学長秘書の佐藤正は天野を担いで、先ず『東洋経済新報』の石橋湛山に急を訴えて援助を求め、既に早稲田大学も東京大学出身学長よりも自校出の先輩から学長を選ぶべき時機に来ているとの考えの石橋は、高田復帰はどうあっても阻止せねばならぬと、これに反対のため立ち上がって同志に呼び掛けている中に、いつの間にか、学校経営には高田より劣ると自分でも認める天野の擁立に豹変していき、その石橋が頭目として率いる党与の抗争目標が、単なる高田排撃から、頑強に高田に執着する大学当局そのものに転移し、つまり天野擁立派対早稲田大学の対立の形に変ってきた。天野擁立派が攻勢で、大学が守勢となり、天野派の新聞政策によってしきりに大学の腐敗・堕落を中外に宣伝するに対しては、大学派も再三対抗の文案まで作成したが、今の勢いでは相手の火勢を煽るばかりだと忠告する向きがあって、依然静観の態度を続けた。
ここで問題となるのは、学生が何れを支持するかである。大学当局は、努めて学生をこの大渦に捲き込むことを避ける態度を取った。しかし校友大会に初めて出席した新卒業生の大勢は、会場の攪乱者に顰蹙しつつも、高田の復帰により追われようとする形の天野に先ず同情したことは事実である。彼らは、高田と天野の大学運営の手腕にどれだけの違いがあるかも知らなければ、それが大学の今日までの発展にどう作用してきたかの歴史も、皆目心得ていなかったのだ。在校生も同じことで、この段階において、画然たる色分けはつかなかったが、どちらかと言えば、天野の立場は気の毒だと単純に思うくらいの程度であった。
その学生に向って逸速く網を打ったのは西岡竹次郎(大五専法)である。後に型破りの代議士として、また長崎県知事として知られた彼は、この頃『青年雄弁』という煽動的な雑誌を主宰しており、その誌上で、天野派としての活動を展開しに掛かっていた。もともと青年雑誌で、日頃から学生の弁舌投稿を集めていた関係から、六月二十九日の夕刻、矢来俱楽部に学生・校友の有志の会を開催した。集まるもの二十名、天野留任に対しては両派に分れて激論が沸騰したが、結局、天野擁立が勝ちを制し、校友から西岡竹次郎・吉永半平(大五専法)・芦沢夏雄(大六専政)の三人、学生からは武谷甚太郎・尾崎士郎の二人が委員に挙げられた。
後年「早稲田騒動」を描いた小説『人生劇場』の作者が関係してくるのは、これが最初である。早熟の彼は中学五年の時、雑誌『雄弁』への投稿が本欄に採用せられて以来、この方面に興味を深くし、上京して早稲田の政治経済学科の予科に入ると、小雑誌なる『青年雄弁』には同人待遇を以て迎えられていた。もしこの縁がなかったら、彼がこの騒擾の犠牲となって大学を退学する(九四九頁参照)こともなく、従って映画、テレビの題材となって後々の早稲田学生のみならず、一般社会人の血をも湧かせた名作『人生劇場』も生れなかったかもしれない。
尾崎はまた早くから左翼思想に傾倒し、大逆事件後で最も逼塞窮迫していた時代の、平民社残党の堺利彦・高畠素之・山川均の経営していた売文社に出入りし、殊に高畠の眷顧を蒙ること厚かった。尾崎には高畠的過激性とセンチメンタリズムがあり、高畠からの知識注入による平民社的旧社会主義と、折からのロシア革命による運動方法の片影とが、彼によって「早稲田騒動」に持ち込まれた。日露戦争後の錦輝館での有名な赤旗事件以来、赤旗を振ることは厳禁であったが、民本主義とロシア革命の影響でやや禁が緩み、やがて「早稲田騒動」にも「R.W.(レヴォルーション・ワセダ)」と染め出した赤旗が作られて、盛んに振り廻されることになる。恐らく赤旗事件以後、若き血を煽動した最初の赤旗だったであろう。
ただ彼らの困ったことには、夏休みが来て学生が休暇に入り、早稲田界隈はひっそりとして学生の影を絶った。その時新たなる現象が起った。大学をめぐる数戸の洋服屋の店頭から、角帽が全部買われていったのである。青年雄弁社の編集で思いついた窮余の一策で、街にごろごろしている無頼漢や車夫・浮浪者にそれをかぶせ、当時は学生も着物姿の者が過半であったので、ここに角帽をかぶっただけの偽装速成の早稲田大学生の一群が現れ、西岡の糾合した東京居残りの僅かな早大生の先導によって、彼らが盛んに示威行列を行った。たまに本物の早大生の姿を路上に見かけると、走り寄ってこれを呼び留め、天野派への参加を強要し、断る者には暴行を加え、ナイフで傷つけた例があるのは、多分この偽装大学生の仕業だったとしか考えようがない。彼らは矢来俱楽部その他の小集会場においてしばしば演説会を催し、高田へは勿論のこと、それを支持する諸教授・大学当局に、攻撃・悪罵・讒謗の限りを尽してやまなかった。
高田前学長が輿望を担って短時日ながら心血を注いで作り上げた新校規は、前に引用した坪内手記の語る如く、七月十日以来維持員会で審議に付せられ、「新校規改定までは、学長以下理事共現状のまま引続き留任のこと」とある中で学長留任だけは異論が多かったが、大学の平和を図るためという高田の意見で、不承不承これに落ち着いた。その他はきわめて妥当にして実行的なる上、プロテスタンツの意見も半ば以上取り入れ、目下世上を風靡している吉野民本主義にもほのかに呼応しているとして頗る好評であったのに、天野の修正案はみな破れるという状態だった。それ故、かかる大学攪乱者は直ちに処分すべしという強硬論が日に日に強硬になる一方、八月末の任期満了まで待ってその時点で再任させなければそれでよいとする穏和論も強く、市島・浮田・塩沢・田中穂積・田中唯一郎・坂本・金子・安部・中島半次郎の九維持員は七月十六日の維持員会がすむと大隈邸を訪問し、総長自ら天野に辞職を勧告するの外なしと現下の形勢を訴え、ことここに至らしめたのは自分らの責任として浮田はその日のうちに辞表を出し、翌十七日、他の八名も結束してこれに続き、坪内もまた辞表を出した。
これらの辞表の中で、浮田が既に十二日付を以て認めていたもののみが、何らかの偶然により、大隈の筐底に秘められるところとなり、最近大隈家より学苑に寄贈されて、大学史編集所に保管されてあるが、それには次の如く記されている。
辞職願
陳者私事近時早稲田大学々長天野為之君の行動に関し其意を得ざるもの多く向後同君指導の下に教員又維持員たること能はざるを自覚仕候間此際御解任の御沙汰なし被下候様奉願候 敬白
七月十二日 浮田和民印
早稲田大学総長侯爵大隈重信殿
早稲田大学名誉学長高田早苗殿
他の者の辞表も、天野学長の下では任務を遂行し難いことを理由とするものであったに違いない。
このような事態の推移を憂慮して、憲政会所属代議士会は降旗元太郎・武市彰一・関和知を代表として調停に立とうとし、七月二十日に天野学長を、二十一日に大隈総長を、二十二日に高田前学長を歴訪した。
一方、七月六日の校友大会で天野会長が多数と宣告したのにより、その幹事及評議員選挙法がほぼ成案を得たので、それを付議するため、七月二十五日に臨時校友大会を開くことを、天野は校友会長の権限により決定した。これに対しては、先の七月六日の大会でさえあの通りの混乱に陥ったのに、この騒擾の最中に、さして急を要するとも思えない規約審議のために臨時校友大会を開くのは、猛火に油を注ぐが如き無謀、且つ危険として、諸方の識者こぞって反対し、殊に今まで中立の態度を執ってきた三木武吉が、単身天野邸に馳せつけて思い止まりを切言しても、容易に肯くところがなかった。そこで二十一日夜、村井五郎・大橋誠一・浅川保平の三人が校友会規則(大正三年改正)第六条第二項を根拠として論詰するに及び、漸く断念した。
七月十八日、西岡竹次郎一派は矢来俱楽部に会合して、
一、天野学長の再任を期すること。
一、学制改革は民本的基礎の上に置くこと。
一、疑惑を受けたる者の殲滅を期すること。 (『早稲田大学紛擾秘史』第三冊)
の三項を決議し、三人の実行委員は大隈・高田のもとに陳情した。しかしこの頃から形勢は漸く天野派に不利となる傾向があるので、永井柳太郎は、両派の調停に立つと称して左の案を作成し、大隈総長、大隈信常および天野学長のもとに提出した。
一、高田博士起草の新校規は、先づ之を評議員及教授より選出したる委員を以て組織せる調査会に諮詢し、其会の要求したる修正は出来得る限り之を採用する誠意を以て、維持員会其決定権を有する事。
二、新校規に基きて新学長の選挙せらるる迄、天野博士学長たる事。
三、理事は維持員中より学長之を推薦し、維持員会の承認を求め、維持員会は無記名投票に依り其認否を決する事。
(永井柳太郎『学長問題と余』 一四頁)
しかし、これは天野のかねがねの思惑をオブラートに包んで幾らか飲み易いようにしただけだから、その意図がすぐ看破され、問題にもならなかった。更に永井は七月二十三日、天野に勧めて単身国府津の静養先に高田を訪わしめて、直談判の機会を作った。天野が自分の再任を「已に確定の事実であるが、自分と共に事に当るべき理事は、自分の指名に任されたし」(『早稲田大学紛擾秘史』第三冊)と切り出したのは、前々からの天野の強い要求だったとしても、校規に厳然たる規定があるのだから、高田の一存でどうなるものでもない。高田は、天野が大学内の形勢をあまりに甘く見ていることに一驚を喫した。あれほど堅く注意しておいたにも拘らず、校友大会において約を破って自己の学長就任を公表したのも同然の結果を招いたのが紛擾の基になったのに、それを大会会長の責任者でありながら、制止しなかったばかりか、却って煽動したのだ。それ以来、しばしば新聞記事を利用して、大学の権威と信用を損じたこと多大なのであるから、「最早君に対する前約と云ふものは、爾来の君の行動に依て取消されてある。然るに今尚再任を口にするなど全く夢を見て居るのではないか」と自省を求むるところがあった。高田はこの日、天野に内心憤怒したものの、天野が「今日は昔しの書生時代に返り、全く書生風に打解けて話がしたい」と切り出したので、話も長引くと予想して食事も用意したのに、天野は箸も取らずに蒼惶として帰ってしまった。しかし事態がこのように紛糾していくについては、責に任ぜざるべからずとして、高田は七月二十四日国府津より帰京すると、終身維持員と名誉学長を返上して、早稲田大学とは無関係になろうとしたのであるが、大隈は彼を慰諭して辞意を受けつけなかった。
しかし考えてみれば、七月十六日の浮田を筆頭に、十七日には維持員および教授の連袂辞職の申し出があり、坪内の辞表も出ているし、そしてまた今、高田も辞意を洩らすに至っては、事態は究極に近い。それらの辞意をみな承認すれば、大早稲田は幹部の大半を失って、がらんどうになる。大隈は、既に高田と坪内の辞意表明があるのだから、天野にも一旦辞表を提出させ、その上で徐ろに解決を計るにしかずとして、二十四日、天野を大隈邸に招致し、懇談の形式で高田および坪内とともに、一応辞表を出す意志はないかと尋ねた。天野は一考してと答えて辞したので、大隈は追っかけて、政界より早速整爾、実業界より昆田文次郎、出版界より増田義一の三校友長老を選び、三人から天野に辞職を勧告してくれと依頼した。しかし三人とも天野とはそれほど親交がないので、この勧告が容れられぬことを気遣い、天野と最も昵懇な東京市助役の宮川銕次郎を煩わすことにした。折から維持員会も、天野学長に対して何らかの決着を着けねばならぬ予定の日が来たので、その前に一応本人に面会して懇談する方が親切だとして、共々に天野の行く先を捜索したのに、踪跡を晦まして全く行方不明であった。そして二十七日に至り、天野から辞職勧告拒絶の封書が大隈の手許に届いた。
石橋と三浦銕太郎の「問題の一般的経過」によれば、天野の大隈に対する返事の全文は次の如くである。
粛啓仕候。時下益御安泰の段恐悦至極に奉存候。然者去七月二十四日拝顔の際御懇篤なる高諭に接し感激の至に奉存候。就ては早速奉答可仕の処、此際小生退隠は小生一身に関するのみならず、早稲田大学の利害に少なからざる影響を及ぼす者と確信仕候為、深思熟慮不覚時日を経過致し、拝答の期日遷延仕候段、何卒御海恕の程俯して奉願候。
早稲田大学は閣下が高庇に依り創立以来益々向上発展致し遂に今日あるに至候事、国家の為慶賀の至りに奉存候へ共、歳月の久しき幾多の情弊を生じ、改善廓清を要する者少なからざる様被存候事、遺憾の次第に奉存候。小生魯鈍と雖、右廓清改善の為に聊か本大学に尽すは小生の使命なるが如く感ぜられ、又校友の中にも之を以て小生が閣下に対し国家に対し逭るべからざる職分なりと為し候者頗る多数なる様相覚候。蓋し根本改良を要する件に就ては他日を以て可申上候へども、此事たるや心ある校友等の常に憂慮措かざる所以に有之、小生の自ら揣らず敢て之を正さんと決心致し、再選の場合には之を辞せずと断言致候事は、全く此意味の外無之候。
然るに最近高田博士其他の諸氏閣下に辞表を提出し、或は辞意を洩候趣被仰聞、又是等諸氏は小生学長を辞し候はば辞意を翻さんとの意思に有之候由、是に就て閣下は小生に辞任を勧告被遊且名誉学長たらしめんと優渥なる高諭に接し、小生たる者誠に恐懼感佩の至に奉存候。唯夫れ校規改正の事たる、維持員会之を決し、評議員会及教授会有志亦之を賛し、今や進行の中途にあり、而して新校規一たび行はれ新学長の定まる迄、小生を現職に置かんとの維持員会の決定有之候処、今に及んで小生去らずんば諸氏職を辞すとの説を為す者あるは、如何なる根拠に基くや、小生の甚惑ふ所に御座候。要するに閣下の高訓は感佩の至りなりと雖も、此場合に生自ら辞表を提出して隠退すべき公明なる理由を見出す能はざるを遺憾とすると共に、小生の職責上為すに忍びざる所に有之候。
今や早稲田大学は改革発展の機運に際会致候様被存候。此場合一身を挺して之に当るは小生の熱望に御座候。若し学長として之を為す能はざる時は、或は校友として、或は国民として、広く満天下の智識ある校友等と協心戮力し、素志を貫徹せずんば止まざる覚悟に御座候。斯くして早稲田大学の進転を期して閣下の洪恩に酬ひ、君国の為めに尽す存念に御座候。願くは言辞の蕪雑を咎め賜はず、微衷の在る所を御諒察被下候様、伏して奉悃願候。恐惶頓首。
大正六年七月二十七日 天野為之
総長 大隈侯爵閣下 (『早大学長問題顚末書』 A二四―A二六頁)
言や必ずしも悪からず。しかしプロテスタンツ、大隈夫人銅像事件、浮田教授放言問題、高等予科の二年への延長を教授会に諮問せずして入学案内に印刷したことなど、学長としてたび重なる不手際に自分から辞表を提出したものが、ここで開き直ってこの大抱負を述べるのは、いささかドン・キホーテの感がある。殊に、自分が辞表を出せば、高田・坪内・市島が一旦出した辞表を引っ込めてまた返り咲く魂胆だとは、恐らくは天野自身の考えではなく、周囲の策士の入れ知恵であろう。これにはもとより大隈は激怒した。これを示された大学幹部も、何故自ら大隈を訪ねてその封書を手渡すなり、或いは陳述しなかったのかと、その傲岸不遜を責めた。これで天野自ら決定的に不利を招いた形になり、学長復帰の手掛りのない絶望状態に自ら落ち込んだものと言える。
第一、経済的に見ても、大隈は大学の発起者であり、また土地建物を提供した最大の寄附者である。その後江湖に広く基金を募集するに当っても、明治初期の資本主義発芽期に大隈が久しく大蔵卿として実業界に勢力を張り、その因縁と地盤があったために岩崎・三井・渋沢・森村の如き巨大財主が真っ先に動き、そして現在は大隈が日本一の人気男たるために江湖は喜んで寄附に応じたのであって、もし大隈がいなかったら、いかに高田・坪内・天野が先頭に立って遊説しても、それまでに集まった寄附高の三分の一の成績も上げられなかったであろう。早稲田大学で大隈に背いたら手も足も出なくなることは、天野が熟知していた筈のことであった。
天野欠席の中に開かれた七月二十七日の維持員会では、天野学長に対する断然たる処分案が強く主張せられたが、任期まであと一ヵ月の辛抱だから、それまで待とうという温和説も出されたところ、たまたま、法理上において解職処分に疑義があると三木代議士より連絡があった。この三木説に対して坂本三郎は、法律専門の立場からの解釈で差支えなしとの意見を述べた。結局、定款に規定のない学長解職は不法行為と認められて登記所がその取消しを受理せぬ惧れありとして、大勢は三木説に傾き、天野学長処分論は一頓挫を来たした。
この間プロテスタンツは、高田の復帰が中止となったので、不満ながら天野の下で沈黙を守っていたところ、七月六日校友大会の天野の行動を見て、同夜大山・武田・村岡・宮島・北・服部・橘の七人が会合し、大山の発議で、
一、天野学長の校友会席上の議決法不可なる事。
一、学長秘書佐藤正が校友会に於て自分〔大山〕の腕をつかまへるが如き乱暴をなせし事。
一、天野学長の背後に官憲の力ありと推察せらるる事。 (『早稲田大学紛擾秘史』第三冊)
の三理由により、あくまでも天野学長排斥の目的の貫徹が主張されたが、これに反対したのは北一人であった。その後、井上・寺尾の両人がひそかに天野派に通じたりとの徳操問題を契機に、遂にプロテスタンツは二派に分裂し、大山・宮島・村岡・服部・橘・野村堅の六人を残して、井上・寺尾・武田・北・金子従次の五人は脱退して天野支持に回った。
しかし、何月何日に誰々がどこを訪問し、または会を開いてどうしたというような記述は、何度繰り返してもいたずらに筆墨の倦怠を来たすだけである。攻防ともに、それほど多数の大小さまざまな会合が持たれた。これを要約して芝居にたとえると、六月は序幕で、築地精養軒の校友大会紛擾がクライマックスであり、七月は中幕(上)で、天野が大隈の辞表提出勧告を断ったことが一番ショッキングな山場である。八月は中幕(下)で、これで救い難い不利に陥った天野派が、あの手この手とあらゆる手段を通じて最も闘争的に、且つ死に物狂いに反撃してきた時である。
八月二日、築地精養軒で全国評議員会が開かれ、天野学長、塩沢、両田中の四理事が出席して、左記四十一名の顔触れが集まった。
(『早稲田大学紛擾秘史』第三冊)
席上、天野学長は、在京評議員十六名の要求によりこの会を開いたが、自分の一身上に関する討議が多いだろうから遠慮すると述べて退席し、三理事に向っても遠慮然るべしとして退席を督促した。さて、早速・昆田・増田三評議員は共同で、大隈総長より依頼された天野辞職勧告の顚末を述べ、続いて、高田名誉学長から大隈総長に提出された長文の辞職理由書を読み上げた。それは、天野は一日も学長職に留まるべからずと、高田にしては激烈な弾劾的口吻を帯びている。
斎藤隆夫(明二七邦語行政科)と若林成昭(明二六邦語法津科)とが峻烈に高田の言い分に反対した。実は、この評議員四十一名のうち天野派は十人とおらず、それも多くは大学を憂慮する温和派だが、この斎藤・若林の二人だけは違う。エールに学んだ学者肌の斎藤は二・二六事件後に軍部を糾弾したので知られるに至る、あの辛辣で鋭利な舌鋒で、この席でも皮肉冷罵混じりにじわじわ詰め寄せてきた。また若林は東京弁護士会の重鎮で、断獄的論理と舌剣とも言うべき鋭利の弁には、答える方でたじたじとなることもあった。この二人は、華麗な弁を以て天下に鳴る永井柳太郎と自ら天野派の総帥と称する石橋湛山とともに、いわば寄せ手の四天王だった。二人は大学の萎靡・沈滞、当局の腐敗・堕落、制度の旧式と停滞を異口同音に攻め立てた。それが有効でなかったとは言わない。しかし、高田に心を寄せる大学派には三十年の実績がものを言う強味があった。これが後に至って勝敗の分岐点となる。
この全国評議員会の前夜、運動部有志の名を以て、「血を吐いて稲門一万の学徒に檄す」と題する印刷物が、神楽坂・若松町界隈において通行人にばらまかれ、また電柱や壁にビラが貼り巡らされ、更に二日の当日になると、運動部有志団主催の下に五十余人が集合して、左の決議文を作成した。
一、天野学長の留任を期す。
一、学長の権限に於て十分手腕を揮はしむる事。
一、大学をして民本主義に就かしむる事。
一、不正漢の辞職を期す。 (同書同冊)
その上、その十五人の実行委員が精養軒に押しかけ、この決議文を朗読しようと会場に闖入したが、これは阻止せられた。
また原口竹次郎・武田豊四郎の両名は、プロテスタンツの態度を表明すと称して、評議員会会場に入ろうとして妨げられた。若林はこれらの形勢を誇張して、今や場外、天野留任を求むる者三百人が待機していると叫んで、評議員を威嚇し、却って反感を買った。
さて、この全国評議員会において学長問題調停委員に挙げられた五人のうち、砂川・小川・平田・山田の四人は、八月三日、左の調停案を高田および維持員に示した。
一、天野学長は直ちに辞職して罪を大隈総長に謝する事。
一、右天野学長の辞職申出に対しては、大隈総長は八月末任期満了迄留任すべき事を天野学長に勧告する事。
一、八月末天野学長辞任の上は名誉学長の礼遇を与ふる事。 (同書同冊)
大学派は委員の労を多とし、解決を右の四人に一任した。砂川・平田両委員は訴訟の用務があって急遽大阪に帰り、小川委員が翌日東京ステーション・ホテルにおいて若林・宮川と会見し、別に三浦とも会って右の調停案を提示したところ、三人とも不同意を表したので、天野には示さず、撤回した。
砂川雄峻は鷗渡会以来の大先輩で、大阪弁護士会の大長老である。四日夜、大阪ホテルで開かれた臨時校友大会で、上京中親しく聞賭したところを述べて、形勢は大学派に非常に有利であった。だが突如、少壮弁護士の一団が「天野学長の再選を期す」との決議文を読み上げ、遂にこれが可決を見るに至った。これは、砂川と平田の急遽の帰阪とともに天野派が小山温を特派し、日頃砂川に圧迫感を持っていた少壮弁護士を使嗾して、この挙に出しめたものと言われるが、地方校友会が天野支持を表明した嚆矢である。ここにおいて砂川は直ちに学長問題調停委員を辞し、学苑は、高田・天野・市島とともに鷗渡会のメンバーであった有力な、地方における援護者を失うことになった。
学長問題調停委員は、砂川が抜けた後は、松平・小川・平田・山田の四人となった。天野派の校友・学生は、八月五日、矢来俱楽部において愛校正義会を結成し、軽井沢に避暑中の大隈総長に決議文を送った。頗る長文だからここに引用しないが、それは次の決議で結んでいる。
一、天野博士の留任を期す。
一、公明なる学制改革の断行を期す。
一、疑惑を受けたる輩の殲滅を期す。 (同書同冊)
なおこの会は、学生吉積富夫を東北および北海道に派遣して、青森・函館・小樽・札幌・旭川各地の校友会に天野擁立を声明するよう勧説した。
第一調停案に失敗した四調停委員は、やがて第二調停案を作成した。
一、天野学長其他の理事三名は七月十日維持員会の決議の通、大正六年八月三十一日、任期満了と共に再選する事。
但し学長は病気引籠り、学長代理を置き其事務を執らしむる事(外に秘密条件として学長は時期を見て辞任する事の一項を附す)。
二、田中唯一郎は再選後直ちに辞任、名誉取扱とする事。
三、校規改正は七月十日、十三日、十六日の維持員会の決議に基き進行する事。
但し内外騒擾、局面動揺して事を行るに便ならざる間は改正実行を延期する事あるべし。
四、右和議成立の上は天野博士は大隈総長に面謁し前日の非礼を誠意を以て謝する事。
五、学長秘書を廃する事(外に秘密条件として橘静二を辞職せしむる事の一項を附す)。
六、委員は前数項実行の責に任ずる事。
七、学長問題に関し此の覚書に明記せざる事項は総て評議員会委員の処置に一任する事。
八、右和解条件の趣旨及実行に関し意見の一致を欠きたる時は、評議員会委員の裁断に服従する事。 (同書同冊)
これは第一調停よりももっと曖昧で、何となく明朗を欠く。天野は受諾に難色を示した。高田は、提出中の辞職願が聴許せられずにそのままになっているのを、或いはこれが紛糾の因となっていることもあろうかと考え、この際、名誉学長も終身維持員も一切なげうって大学との関係を絶つために、再び辞職願を出した。軽井沢の静養先でこれの伝達を受けた大隈総長は、使者田中唯一郎にこう語ったと、記録せられている。すなわち、「調停の成らざるは遺憾の次第なれども、高田博士は第一の功労者にして大学の柱石なり。其高田博士が一切の職を拋ちて大学と絶縁するは千秋の恨事なり。さまでにせずとも他に方法もあるべしとて、帰て宥めよ」(同書同冊)。
早稲田大学と全面的絶縁を表明した辞表を高田が提出したとの情報を得ると、即日、すなわち八月十日、天野は小川為次郎を呼んで評議員一同の集会開催を求め、十二日には東京ステーション・ホテルに会して、天野学長自ら、第二調停案に対する修正案を提示した。
一、第一項の天野学長は八月三十一日任期満了と共に再選せられたる上、但書を削除して、病気引籠もなさず学長代理も置かず、又時機を見ての辞任もなさず、引続き学長たる事。
一、第三項の内外騒擾、局面動揺して事を行るに便ならざる間改正実行を延期すると云ふ但書を削除する事。
一、第五項の学長秘書(佐藤正)は依然存置する事。
一、第七項及八項は両項とも削除し、評議員会委員の権限を縮少する事。 (『早稲田大学紛擾秘史』第三冊)
これは恐らく天野の包蔵する希望・野心を、最も率直に、最も赤裸々に表明したもので、初めから分っていたことであり、調停案としては取り上げられる筈がない。委員は十三日、天野派の宮川銕次郎を介して天野に再考を申し込んだが、頑として一歩も譲歩しないので、翌十四日、松平以下四人の委員は、東京ステーション・ホテルに天野と最後の会見をして、遂に交渉打切りを宣明し、そしてその四人の委員は、到底微力の及ぶところでないとして辞表を提出した。
こうして調停は暗礁に乗り上げた。維持員会ではあくまで高田学長復帰の要求が強かったが、高田は二回も辞表を出したのでその要求を断乎として受けず、遂に総長親裁を乞うため、八月十七日、左記の十二名が軽井沢に集まった。
実に軽井沢まで重鎮会議の座を移したのは、早大の歴史中でも稀なことであろう。
翌十八日の会議では、先ず高田より、今一度調停案を作り直して交渉しては如何との発言があったが、市島はその必要なしと反対し、他の人々も市島説に賛成したので、次に高田の進退問題に移り、浮田から最も熱烈な高田復帰説が出された。しかし高田は一切の役職辞任を堅く執って動かず、遂にそれは承認せざるを得なくなった。更に市島の直話によれば、
扨今後如何にするかと云ふ事については予て内議を凝らして居つた案の如くに、七人の理事が今後の衝に当り、当分学長を置かずして総長統裁の下に、万端を処理すると云ふ議が侯爵の御同意もあつて其事に決した。侯爵には軽井沢に避暑中に於ても非常に心配せられて、どうしても此紛擾の機会を一期として、大に学校を立て直ほさねばならぬと云ふ意気を持て居られた。而して云はるるには、自分は五十年来国家の艱難に遭遇して、其艱難に打ち勝て来た者である。之しきの事何かあらん。且つ自分は名誉職なるも、三十五年来相当の力を傾注し来つたと信じて居る。此上は更に一層の力を傾尽するは勿論である。若し弥々大学を攪乱する者ありとすれば、一刀両断の下にそれ等攪乱者を芟除して廓清を図らざるべからずと宣言せられ、今後の方針は是に於て初めて確立する事になつた。 (同書第五冊)
ここで、大学側に残る記録を見ると、天野派の策動はいよいよ兇暴となり、「黄白を散じ酒食を饗して、新聞記者を買収し、教授連を買収し、校友を買収し、学生を買収し、果ては無頼の青年迄をも買収して策応対戦しつつある」(同書第三冊)とあるが、苟も現学長天野為之を擁立するに果してこのことがあったか、あったとすればどの程度であったか、暫く疑を存しておく。この記事で確証の残っているのは、既述の如く「無頼の青年」に角帽をかぶらせ、学生を装わせて気勢をあげたということばかりである。しかし体育部の一部学生が暴行を加えたのは事実の如く、高等予科生池田倉吉・加藤幸一郎の二人が「再試験の請願をなさんとして各元級生の賛同を求むる為書面を郵送した」のを、天野学長反対の運動をしたものと臆断して殴打し(八月十八日)、校友高木貞雄が反天野派の行動があったとて電話で呼び出されて、山口英男・山本開作ら数人が神楽坂の旗亭で鉄拳制裁を加えた(八月二十日頃)などは、名前が明確に記録せられている事件である。
大隈総長は八月二十日、軽井沢より帰京し、その日は至極元気であったが、翌二十一日に発病してにわかに胸部に疼痛を感じた。胆石症であるが、まだ別に気にかけるほどの重態ではなく、翌二十二日には維持員会が開かれて、高田の辞任が公式に承認せられた。ただ、浮田のみは、あくまで高田辞職に反対してきた関係上、この日は欠席し、理事・維持員・教授一切を辞すべき旨を申し出た。かくて九月以後の学校行政は、浮田が欠けて、坂本・田中穂積・塩沢・金子・安部・中島の六人で担当することになった。
しかし雷獣が天から落下してきたにも比すべき衝撃は、二十三日、大隈の容態が急変し、二十四日の新聞がその危篤を報じたことである。百二十五歳説を唱えた元気な老人も、二ヵ年半に亘る総理大臣の激職が身体にこたえ、疲れがここで一度にどっと出たのである。学苑関係者としては、暫く鳴りをひそめてその快癒を祈念し、事態を静観すべきであったが、大隈の重態を知らぬ福井の校友会は二十一日、「学長問題は大隈総長閣下の裁断に依り速に円満の解決あらん事を望む」と決議し、在京校友四十余名は二十二日早稲田俱楽部に会合して、同じく「吾人は母校学長問題に関し大隈総長の裁決に俟つ」と決議した。しかも八月は旬日にして尽き、天野学長の任期は満了しようとしている。二十五日には定時維持員会を開いて何らかの決着を着ける積りであったが、突然の総長発病で、両三日の維持員会延期説が持ち上がった。しかし坂本維持員は、
此度の問題は侯爵を苦しめたる事少なからず、或は発病の一原因をなすにあらずやと新聞紙にも書かれ、世間の人にも噂さるる位なれば、予定の通維持員会を開き将来の方針を確定する事が、侯爵の意志に副ふのみならず、二十五日の会は極めて大切なるものなれば、侯爵の御病気軽快なれば勿論開会するを可とし、万一不幸の事あらば猶更開会するを可とす。
(『早稲田大学紛擾秘史』第三冊)
と切論した。加えて大隈家の嗣子信常維持員からも、延期しては却って不利になる惧れがあるとして、二十五日開会の希望が申し出された。
天野派もまた二十五日の維持員会の重大性を認め、二十二日に『早大学長問題顚末書』を作って、全国の校友に配布した。署名者は三浦銕太郎・石橋湛山・斎藤隆夫・若林成昭・伊藤重治郎・井上忻治・武田豊四郎・北昤吉であった。二十三日には、早大運動部有志の名を以て、脅迫状とおぼしき文書が、維持員一同に発せられた。その中に、天野再任を勧告し、「貴下若し吾曹が建言を無視せる決議をせらるるに於ては、吾曹は大学永遠の為に貴下を敵として起つの止むを得ざる可きを通告するの光栄を有す」(同書同冊)云々の脅し文句がある。更には、校友・学生と「無頼の青年」とからなる一団が、市島・金子・塩沢・両田中・安部・中島の維持員に向い、この維持員会に欠席もしくは天野処分意見を翻すよう勧告し、二十四日の夜には、運動部と記した提燈を掲げた二十余名の一団が、各維持員宅を、中には二、三度も訪問して、示威を試みた。
いよいよ二十五日の当日が来た。今回の紛議の渦中に投ずるを好まずとして七月二十七日維持員を辞任した中村進午・阪田貞一・増子喜一郎、大学と絶縁した高田・浮田の他にも、大隈信常・鈴木喜三郎、および無論渦中の主人公天野を除いて、坪内・市島・三枝・坂本・塩沢・両田中・金子・安部・中島の各維持員は朝より登校して、午後一時の開会を待っていた。
これより前二十四日、松平康国・牧野謙次郎両教授は、総長の重患中、この紛議を重ねるを座視する能わずとして、調停を買って出た。松平康国は、ミシガン大学への留学から帰国後、夙に明治二十四年以来、学苑に漢学のみならず、西洋史を講じ、学苑における教壇生活は昭和十八年まで五十一年余に及ぶことになる碩学であり、また牧野謙次郎は、松平の推挙で学苑に聘されたのは松平よりも十年遅かったが、松平よりも一歳の年長で、大隈の知遇を受け、後に大正十二年、文学部に支那文学専攻開設の際の中核であり、松平とともに大東文化学院の創立に参加した後、昭和四年より同十二年病歿の際まで学苑高等師範部長の任にあった鴻儒である。その調停案は問題を、
(甲) 高田、天野共に去る案
(乙) 高田、天野共に留まる案
の二つに絞り、あらかじめ天野に示して決定を促したところ、天野は二十五日午前九時に確答を約したが、その時刻になって乙案に異議なしと答えたので、二人はこれを維持員会に提示し、この線に沿って調停の緒を見出すべきことを勧告した。市島はこれに答えて、「学長問題は留任・不留任の問題なるに、今留任とするときは当方の主張は全く潰れる次第なれば万々忍ぶべからざるも、重患なる総長の憂慮を思へば少しも早く紛擾を治めたいと云ふ考より、大譲歩を以て大体両君の提案に同意すべし」(松平康国手記・牧野謙次郎追補『学長問題調停交渉始末』一一―一二頁)と述べた。ただし、八月十八日の軽井沢会議で天野学長の処分が既に決定しているのであるから、乙案を呑むとなれば、一応は大隈総長の允諾を求める必要がある。そこで松平と牧野とは、市島・金子・安部三維持員の同伴を得て大隈邸に到り、嗣子信常に諮ると、総長は激怒しているから、天野留任を聞いたならば病勢に障る危険があるので、責任を以て同意いたしかねるとの返事であった。しかしこの危急の場合、総長に対し何とも申し訳ないが、維持員として自分達で責任を負って同意しようという市島の言で、松平・牧野の二教授は面目が立ったことに感激し、改めて左の調停案を作成した。
一、大隈総長病中に付、天野博士は書面を以て陳謝の意を表すること。
二、天野学長は再び学長に選挙せられ、新校規改定の日辞任すること。
三、九月一日以後の理事は追て維持員会之を定む。
四、新校規実施の第一次選挙に於ては、高田博士及び天野博士は学長候補者に立たず、又選挙せらるるも其当選を辞すること。
(同書 一五―一六頁)
両教授は、二十五日の夜、天野学長を訪うて案を示し、確認を求めたところ、学長は快く異議なき旨を答えたので、維持員会は、二十六日に恩賜館において調印することを決定した。この時、両教授は天野学長に向って円満の解決を得たのを祝い喜んだところ、「斯う解決してしまふと一部の者から怨まれるが仕方がない」(同書一七―一八頁)と言って、天野は調停の労を謝した。時に夜は深更に及んで午前一時を過ぎていた。
二十六日、調印委員として金子・安部の両維持員に松平・牧野両教授も参加して、天野学長の登校を待っていると、午前九時半過ぎに天野が現れ、恩賜館の三階でいよいよ調印の時を迎えた。ところがこの段になって、四人には甚だ意外にも、天野はおもむろに修正案を取り出したのである。すなわち、修正案第二項に「新校規改定の日辞任すること」とあるのを、「新校規改定せられ之に依り新学長選挙せられたる時辞任すること」(同書一九頁)と直されている。
調印委員は協議の結果、「此一条は字句の相違に非ず、問題の意義を変ずることとなるゆえ今更修正し難」いと言うと、「それでは困る。一寸外へ往つて来るから相談し玉へ」(同書一九頁)と言ったまま行方を晦まして、正午になっても戻らず、方々電話で捜したが一向に踪跡が知れない。漸く午後四時になって天野学長の自宅から電話があり、委員の来駕を望むとのことである。四人はその型はずれの無礼を怒りはしたものの、しかし何よりも調停が第一なので、学長宅に出頭すると、石橋湛山、原口竹次郎、その他顔を知らぬ数人が額を集めて、何ごとか凝議しているところであった。
天野は、先ず松平と牧野とには一顧もくれず、金子と安部の両委員に、「君等は予定の決議を実行したら宜からう(是は調停を破り開戦するの意なり)。一体維持員会が自覚して、自分の方から交渉する筈である(是は維持員会が屈服すると云ふ意と調停者を除外するの意なり)」と言い、その次に松平・牧野の両教授には、「我輩は初から新学長の選挙まで留任すると云ふ主張であるのに、改定の日と云ふ文言では、さうはならぬ」(同書二一頁)と主張する。四人も原案を主張して譲らぬので、開けかかった妥協の道はまたしても閉ざされ、松平と牧野とはこの問題から手を引くことを申し出、四人は憤然として天野家を去って、また収拾の方途が失われた。一体何が天野をそう居直らせたのか。
翌二十七日、天野派としては石橋・斎藤・若林などと並んで最も戦闘的・反大学的な伊藤が、突然松平宅を訪ねてきた。不思議と思い引見してみると、伊藤は次のように滔々と天野宅での内幕をぶちまけた。
此調停の破れた原因は実際自分が修正を天野博士に勧めた為で、二十五日の夜半に両君が天野博士の宅から御帰りの後、天野博士は自分に電話を以て、我輩は専断であつたが今調停者に同意の決答をしたと報告せられました。其れより他の幕僚と博士の宅に会合しました処、原口、石橋、佐藤の三氏は維持員の決議通にさせて開戦する方が利益であると主張し、自分は折角此まで運んだものであるから調停を成立させた方が宜いとの意見で、竟に衆議がさう云ふ風に定まり、博士の話された条項に拠つて案文を作らうとして、石橋氏が筆を執つて書き始めやうとすると、博士は案は此に在ると云つて出して示されました。其れは両君の原稿です。博士は妙な方で、此時までは私共にも原案を見せなかつたのであります。そこで自分は第二条を見ると、「校規改定の日」とありましたから、是れでは学長の選挙を他派の人に遣らせることとなつて不利益であるから、「学長の選挙を終りたる日」と修正なさいと勧め、貴君方の原稿の欄外に此文句を書き加へたのは石橋氏です。但し自分は博士に、此修正を主張して見て結局先方が譲歩しなければ、枉げて原案に従ふのが紳士の徳義であるから、左様なさいと云ふ事を附言して置きましたのに、博士が往き過ぎた結果、取返の附かなくなつたのは残念に思ひます。そこで自分は、将来学校の問題に関係することは一切止めることに致し、専心授業に力を尽す覚悟であることを御承知下されたい。 (同書 二三―二四頁)
この告白をまともに受け取れば、天野支持のつっかい棒の一本が外れたような観を呈するわけだが、必ずしもそう断言もできない。二十五日、維持員会は調停失敗の際の用意として、九月一日以後の善後策を次の如く決定してあった。
一、天野学長は八月末任期満了と共に再任せしめざる事。
一、当分学長を置かず、総長直裁の下に理事制度にて校務を処理する事。
一、理事には坂本三郎、田中穂積、塩沢昌貞、金子馬治、安部磯雄、中島半次郎の六氏を推挙する事。
一、市島図書館長嘱托及田中唯一郎理事の辞任を認容する事。
一、橘静二の嘱托を解除の事。 (『早稲田大学紛擾秘史』第三冊)
そして二十六日不調に終ったので、右の通り決行することとなった。この頃から校友の風向きが一変してきた。天野擁護派の運動に愛想をつかし、殊に大隈総長の勧告に背いた不遜に怒りを爆発させたので、水谷武(演劇の竹紫で水谷八重子の義兄)・深沢政介・宮本昌常ら、校友二百四十九人の大多数が結束して、天野擁護派に対抗するため、維持員会に「生等は天野博士の留任を希望せず」と表明し、長文の理由書を送った。
勿論、天野派も事態を袖手傍観するわけはない。八月の末からその運動は激烈になったが、末期症状の絶望的様相は掩い隠すべくもない。八月二十六日には、早稲田俱楽部で有志校友十四、五名が集まり、瀬端善一郎を座長に推し、
一、大隈侯の病気見舞を校友会名を以てすること。
一、学生をして大学の紛議に関与せしむるは不可なるに付、天野学長名を以て警告を与ふること。
(『早稲田大学紛擾秘史』第三冊)
との決議をした。同日、一方では富士見軒に純粋の天野派校友八十名が集まり、気勢をあげた。先ず大隈侯の病気見舞に代表者を送る決議をして、斎藤・瀬端・平野英一郎の三名が選ばれた。次いで若林・三浦・伊藤らの演説があり、左の決議をして、中野正剛・平松市蔵・河野安通志・菊地茂ほか十一人が委員に選ばれ、晩餐の後八時に散会した。
一、早大の行政を一新するに足る新校規を制定すること。
一、天野学長再任を期す。
一、新校規改定の為調査委員を設くること。其委員は維持員会、教授会、評議員会の三団体より十名乃至十五名宛の同数委員を選ぶこと。 (同書同冊)
翌二十七日には、石橋湛山が、運動部有志団、愛校正義会、その他の代表を馬場下の北隆館に召集して何事かを議し、同日夜には江戸川清風亭に学生ら三十余名が集まって、金子・安部両教授の出席を求め、松平・牧野両教授調停破裂について質問を発した。二十八日には、若林・石橋・中野・河野・岸田常吉・山田末吉ほか二、三人が早稲田俱楽部で会食しているところへ、たまたま大学の用で坂本が行き合せたので、これを擁して応接室に連れ込み、包囲して漫罵を加え、酒気を帯びている者は威嚇し、次いでやって来た田中唯一郎も腕を把って恐喝せられた。二十九日には、天野が学長就任まで校長をしていた早稲田実業学校の出身者で稲園正義会という組織が結成されて、矢来俱楽部で演説会を開き、運動部有志団その他数十名が隊伍を組み、高張提燈を掲げ、校歌を高唱して演説会場に押し寄せ、決議文を会場前に掲示した。
天野派の極力狙ったのは学生の誘致だったが、休暇中はその数が少くて、予期したほどの気勢があがらなかった。しかし八月末になると、ぼつぼつ帰省学生が上京し始めたので、東京駅や上野駅に待ち受け、『早大学長問題顚末書』と題する刷り物を頒布して仲間に引き入れようと誘引した。体育部は端艇部(部長塩沢)を除いて早くから有志団を組織し、事務所を北隆館に設けていたが、ここでそれを大学前の互球俱楽部に移し、次第に仲間を集めて革新団と称し、前に一言した「R. W.(レヴォルーション・ワセダ)」と染め出した赤旗数旒を掲げ、入口に檄文を張り出し、数名の学生が見張っていて大学正門を出入りする学生に呼び掛けては、「この革新団に加入せよ」と誘い、漸く不穏の空気が都の西北に漲ってきた。
八月三十一日! 問題になっている天野学長の任期はまさにこの日を以て切れる。各維持員は集合して、去る二十五日に決定した新体制に則り、断々乎として学長なしに理事制度を以て学校行政を処理することとした。実に、東京専門学校時代以降の校長、明治四十年以後の学長という冠冕のない初めての合議制である。
最初の仕事として、田中穂積・塩沢昌貞が起草し、維持員坪内雄蔵・大隈信常・市島謙吉・塩沢昌貞・田中穂積・金子馬治・坂本三郎・安部磯雄・中島半次郎・三枝守富・田中唯一郎の十一人が署名した『学長問題経過概要』に、金子の執筆した左の「宣示」を共に印刷して一冊子となし、全国の校友と在学生の父兄に発送して、新涼九月以降の新学年において執るべき方針を宣明した。
宣示
過去の内紛を治め、大隈総長統裁の下に、新に選出せられたる理事に依て、校務一切を処理せしめんとするに当り、本大学は現下の方針に関して特に下の如く宣言す。
惟ふに今日は大学当事者、教授、講師竝に学生は特に校規の振粛を図るべき最も重大なる時機に属す。大学経営の問題と純粋教育事業とは、能ふ限り厳格に区別せらるるを要す。本大学教授・講師・学生は暫く大学経営の問題より離れて、専心学術の研鑽と品性の陶冶とに尽瘁すべく、是れ本大学万全の策なり。故に教授・講師及学生は毅然として自己の本分を守りて動かず、粛然として本大学の教旨たる学問の独立を全うせんことを期すべし。苟も校規を紊り大学の平和を破らんとするが如き者あらば、本大学は特に大学の攪乱者、破壊者を以て目すべきこと実に已むを得ざる也。
大学の経営及教育の刷新に関しては、本大学従来の方針を変ぜず、愈々積極的進路を取らんことを期す。即ち一面大学の規模をますます拡張し振粛すると共に、他面愈々学制改革と教授法刷新とに努力して、以て本大学建設の精神を全うせんことを期す。殊に時勢に鑑み教育の本旨に遵ひ、弥々学術の研鑽に力を致すべきは勿論なりと雖も、品性の陶冶、人物の養成は、実に本大学が取るべき最も重要なる方針なりとす。
時勢の進運に応じ大学の規模に準じて、本大学の校規を改正し、以て大学の基礎を万全にすべきは、是亦目下の急務なり。則ち新に理事に任命せられたる者をして、最も慎重なる態度を取り、奮励努力特に此の事業を完成せしめんことを期す。
大正六年九月一日 早稲田大学
(二一―二二頁)
この九月一日、教授・講師全員にも新理事の就任挨拶状を発送し、一層の自粛奮起を促した。それぞれの手順を終って維持員会を開き、坪内長老を座長に推して、坂本から校規改正に伴う事業十二ヵ条を説明し、特に左の発言のあったのはきわめて重要であった。
倩々革新団一派の運動を見るに、第一着として理事制度を破壊せんとする計画なること明かなれば、本日之を議決し文部省に提出さるるとするも許可迄には数日を要すべく、殊に之に対する反対運動猛烈なれば、或は長きに渉ることなきを保せず。而して校規に依れば大学の代表者は学長に限り、又維持員会の召集も学長の権能に属し、他の方法を以て之に代へるの規定なし。故に若し理事制度の認可久しきに弥て決せざる時は、其間は所謂無政府状態となり、校務一切の進行を見ること能はざるに至るべし。依て不得已現校規に従ひ一時学長を置くの外ない。而して弥々校規一部の改正が認可となりたる時直に学長を辞さしめて理事制に移らしむるを可とす。 (『早稲田大学紛擾秘史』第三冊)
これは重大且つきわめて至当の注意なので、大隈信常から、発言した責任上坂本自身を名義上の学長に推す動議が出され、全理事がこれに賛成した。坂本の手記「鉄函録」を見ると、「一時とは云へ学長の任や重し、余は之を汚すに忍びず」(同書第六冊)と、強く辞退したとある。
なるほど坂本の前身は渋谷三郎という名で、既述(第一巻九二六頁)の如く、樋口一葉の許婚者であり、このほど一葉の日記が出版されてそれを知った学生は、授業時間にしきりに冷かした。それに奇行の多い人として聞え、学長にはいささか軽き傾きがあり、不向きの点がないではない。しかし彼は、私学出としては珍しく、東京帝大出エリートに伍して内務畑の出世街道を歩み、一応その目標の県知事になった。早稲田出としては二人目である。当事の県知事は、内閣の代るたびに首をすげ代えられ、「浮草稼業」と言われたが、また「良二千石」の別名もあって、これ以上の階段は内務次官と内務大臣の椅子があるのみである。これは早稲田出としては容易に望めないので、官界を去って母校の教授に帰り咲いた。前章に述べた如く、七月六日の校友大会で、天野の秘書の佐藤が「我々の背後には大物が控えているのを知らんか」と大山郁夫を威嚇したのは、内務大臣の後藤新平を意味するものと推測せられたが、この頃になると、その魔の影は単なる噂だけでなくひしひしと迫ってきて、大学派としては、まだ一向に正体の明確でない無気味な影をも相手として取り組まねばならぬ恰好になってきた。幸い坂本は、内務官僚としてその方面に潜勢力を持ち、早稲田としては掛替えのない有力先輩で、この対抗者たるに持ってこいの適任者であるとの確信が自分にもあり、遂に勧められるままにこの難局打開を引き受けたのである。
首領なき新早稲田の理事政治は、現行校規には実施に当って差し当り若干の不備があるのを発見して、左の如く修正を施した。
一、現行校規中
第七条理事四人以内とあるを七人以内に改むること。
第十条第二項を学長の欠けたる時は、又は事故の為め其職務を執ること能はざる時は、理事の互選を以て選ばれたる理事其職務を行ふと改むること。
一、改正校規認可までは現行校規に依つて理事は四人となし、坂本三郎、田中穂積、塩沢昌貞、金子馬治就任し、改正校規認可の上は安部磯雄、中島半次郎追加就任のこと。
また学生課に命じ、天野一派の使嗾を受けて不穏行動に出た左記十五名の学生に対し、来る九月五日午前九時を期し、父兄および保証人同伴にて出頭すべき旨、書面または電報を以て通告させた。
ただ、この新理事体制で唯一の心痛事となったのは、文部省が果して速かに校規の一部改正に認可を与えてくれるかどうかである。文部省の専門学務局長松浦鎮次郎に対しては、かねて塩沢昌貞が親交があるので、あらかじめ八月二十八日に訪ねて陳情した上で、九月一日、校規の一部改正を決議して、即時東京府知事を経由し、文部省に認可申請の手続をとった。九月四日、塩沢は再度松浦局長を訪うて、一日も早く認可ありたいと懇談したが、この時初めて知ったのは、既に書類提出後まる三日経っているのに、それがまだ東京府から文部省に回送せられて来ていないことである。これには錯愕を禁じ得なかった塩沢は、早速大学に引き返して委細を報告した。官界内部の事情を知り尽した名義上の学長坂本の頭にはすぐ鋭敏に響いてきたものがあり、川口潔庶務課主任を帯同して、その頃はまだ使用の珍しかった自動車を飛ばして、府知事井上友一に面会を求めたが、不在である。幸い校友磯田外茂雄が学務課にいたので、その手を煩わして、認可申請書類の行方を探索させたところ、発送係の手に停滞していることが発見せられ、磯田の督励により漸く文部省に届けられることになった。更に調べてみると、八月二十八日に塩沢が文部省を訪問したことを逸速く探知すると、機敏にも若林・石橋・中野・河野が同道して文部省を訪ねていることが判明した。若林は前述した東京弁護士会の顔きき、悍馬の如き中野も東京朝日新聞社出身である。いかなる手を打ったか、推察に難くない。
坂本が松浦局長を訪ねたところ、先日塩沢が訪問した時には親交もあるから心を開いて懇談したのに、今度は言を左右にして素直に応ずる色がない。相手側の早手回しと言うか、深謀遠慮の作戦計画と言うか、その慧敏狡智は、官界の事情に疎い早稲田大学当局を上回るものあること数等である。幸いにして、こちら側も、こうしたこともあろうかと予想して配したかと思うが如き法律の専門家が学長で、官界の手口は表裏ともに知り尽している。役人の常套手段は直ちに看破して、提起される支障に流るるが如く対応して、乗ぜらるる隙を与えなかった。その消息は坂本自身が書き残している手記「鉄函録」の一節を引いて、当時、いわゆる「有力者の力」「官界の魔手」がいかに伸びていたかの一斑を偲ぼう。
余も続て文部省に赴き松浦局長に面会して委細を話しつつある内に、申請書が廻はつて来た。同局長は申請書を取調べた後種種の疑問を発した。其大略は八月二十五日に理事の決定を為し、九月一日の継続会に於て学長の選挙及校規の一部改正を決定したとのことなるも、果して其通り法律上の手続が履行されたるや否や不明である、又現行校規は如何なるものであるか承知せずとのことであつて、直に認可を為す気色が見へない。幸ひ余は現行校規を持参せるを以て之を示し、百方弁解に力めた。結局然らば決議録の原本を見たいとのことであつた。余は決議録は校内に蔵し置くものにて外部に携帯を許さない。けれども不審とあらば示すことは異議ない。局長は元より当方の心得の為めにのみ一見する次第なれば、是非示して貰ひたいとのことであつた。余は帰校の上直に持参すべしと約して立去つた。思ふに局長は一方の反対者より種々の陳情を聞き、多少不安の念を抱き居るを以て特に斯る取調を為すものと信じた。帰校してからも局長より電話があつて、二十五日の維持員会を召集すべく通知を発した人の誰であるかも知りたいとのことであつた。依て余は其命令通り取揃へ〔たが、〕召集通知書及八月二十五日と九月一日の決議録には継続臨時維持員会と表記してあつた為め、局長は質問して曰く、一日は八月二十五日の継続会とすれば、臨時会といふことを得ざるにあらずやと詰寄つた。余は毎月二十五日の定時会以外は之を臨時会といふのである、けれども之は名称丈のことにして性質は二十五日の継続会なれば、継続臨時維持員会と表示したるに過ぎずと答へた。幸にして此答に依り疑問は解けたらしく見へて、尚種々の難問ありたれども遂に之を解くことを得た。最後に大体之れで宜しからんと信ず、但し決議録の写しは参考の為差出し〔て〕呉れとの事であつたから之を承諾し、なるべく速に認可あらんことを重て請求して帰つた。実に最初の勢にては継続会若しくは臨時会等の名目は撤回し、単に維持員会と為し訂正の上出して呉れとのことであつたが、斯くする時は更に地方庁を経由することとなり、認可迄には多数の日子を費すことと為り甚しき手違を生ずるを以て、極力之が弁解に力めて事なきを得た。其際に於ける余の苦心は殆ど筆紙の尽し得る限りではなかつ〔たので〕、文部省の門を出て初めてホツト一息を為した位である。玆に尚一の記すべきことがある。従来の維持員会に於ては議事極めて平穏にして、何等苦情等の起りしことなきに依るべしと雖も、決議録及議事録の如きは極めて簡単に調製せられ、法律上より云へば論議すべき点甚だ多かりし。余が就職以来は此点に注意し、時に依りては八ケ間敷程正確に決議録若しくは議事録の調製を為し、稍々面目を改めたる感ありと自信して居つた。八月三十一日迄は佐藤秘書が職務として之が調製の任に当り、従来の遣口を知悉し居るを以て維持員会の決議録等が不整頓なることを見越し、扨てこそ文部省に向て種々の悪罵を為さしめ、大学より提出したる申請書の不認可を企画したるならんと思惟す。故に若し決議録にして不整頓ならんか、或は不幸の運命に陥りしやも知るべからず。是余の心私かに愉快とする所であつた。尤も五教授の解職が新聞紙に掲載せらるることあらば、文部省に於て如何なる雲行を呈すべきか此点は多少憂慮の跡を残した。帰校の後文部省に於ける顚末を同僚に話し愁眉を開いた。
(『早稲田大学紛擾秘史』第六冊)
文部省が大学側の認可申請に難色を示したのには、五日の午後、天野擁護派の校友・学生有志団、体育部、愛校正義会、改革期成同盟などの学生諸団体の代表が文部省を訪問し、岡田良平文相や松浦局長に面会して、大学から来るべき申請は虚偽の文書だから不認可されたしと陳情し、続いて七日正午にも学生十五名が文部省に出頭し、そのうち中村義麿・池田兵二・茂木久平の三人が総代となってやはり不認可を陳情するなど、極力妨碍したのが、一因をなしているであろう。だから、或いは小さな、社会的勢力の薄弱な学苑であったら、この時認可は与えられず、大学は潰滅したかもしれぬ。また実際に、長州藩閥の政治的勢力は、現政府(寺内首相・後藤内相)の手を通じて、病中の大隈を一層苦しめるため、早稲田大学を滅亡せしめようとの陰謀を画策しているとの噂も、無気味に流れた。その真偽は、今日からは究めようもない。たとえそうした陰謀があっても、取潰しに会うには、早稲田大学はあまりにも偉大になりすぎていた。もしこれが潰されるようなことがあるとしたら、日本の輿論が許さず、世界も黙ってはいない。そして、病める大隈は、彼らのいかなる魔手も到底一指も触るるを許さぬみんなの「大隈さん」であり、世界の「カウント・オークマ」であった。世上の道聴塗説に上った如き山県有朋のオールマイティに近い隠然たる大御所的権力を以てしても、後藤蛮爵と言われた断行力に富む内務大臣の勢望を以てしても、到底如何ともし難いだけの磐石不動の基礎ができていたから、遂に左の認可書が下ってきたのである。
財団法人早稲田大学 理事 学長 坂本三郎
大正六年九月一日附其学校に於て坂本三郎を学長として就任せしむるの件認可す
大正六年九月七日 文部大臣 岡田良平
この一片の紙切れは、眠れる虎の髯を撫でてこれを目覚めしむるほどの力があり、今まで歯痒いほど受身に出ていた早稲田新内閣は、同日校規改正もまた認可されたので、予定通り坂本・金子・塩沢・田中の四理事に新たに安部・中島の二人を補充し、五教授馘首に断然たる結着を着けた。
永井柳太郎 は背後に後藤新平男を擁して気息を官憲に通ぜる疑あり。且つ表面的運動には多く加はらざりしかど、天野派幕僚中の謀士として、自己包蔵の野心を満たさんが為、天野博士を使嗾し、大学の攪乱より進で破壊を企てたる者。
伊藤重治郎 原口竹次郎 ……伊藤は永井と同じく野心を包蔵するが故に、原口は天野一派に籠蓋されたるが為めに同派の闘士として、常に陣頭に立ち露骨なる運動をなしたる者なれば、天野派の走狗として大学の攪乱より進で破壊を企てたるの事実明白なる者。
井上忻治 初めはプロテスタンツに左袒して後ち天野博士の旗下に走り、遂に密接なる関係を結びたる者。
宮島綱男 プロテスタンツ一派の熱心なる宣伝者として、銅像問題を始め当事者反抗の気勢を煽揚し、遂に今次紛議の禍根を培ひたる一人者。 (同書第三冊)
これは、正式文書にしては少々調子が卑俗だが、ともかく大学側が各自の解職理由書として記録するところである。
井上・宮島の二人は解職を受くべき理由なしとして書類を突き返した。永井は理事会の査問を要求して自ら弁明しようとしたが、大学側が応ぜず、知人平野英一郎・小森一則が当局者を歴訪して復職を運動しても、こと成らずして、自ら『学長問題と余』と題した印刷物を公にし、他にまた小山東助・平野英一郎・井芹継志の三人は『永井君の寃を雪ぐ』のパンフレットを配付した。永井はもともと学生時代から大隈・高田の特別の眷顧を受けて、今日の隆々たる地位を築いただけに、今ここで大隈から突き放された状態になったのは、心外でもあり、顧みて茫然としたでもあろう。宮島綱男に対しては、プロテスタンツの同志大山郁夫・村岡典嗣・服部嘉香の三人がその理由なしとして同情辞任を申し出た。『大山郁夫伝』は、
大山が学生として早稲田に入学してから十七年、講師となってから十二年、早稲田は大山にとって、なにものにもかえがたい魂の故郷であった。だが同志の一人を見殺しにするに忍びず、早稲田を去った大山は、万感胸にあふるるものがあったにちがいない。大山は高田の愛弟子だったにかかわらず、つねに純理に立って動かず、母校の官僚化に反対して、建学の理想に殉じた。彼等少壮教授団の改革案は、きわめて純粋なものだったにかかわらず、欲せずして高田・天野の勢力争いの渦中にまきこまれ、改革案は紙屑同様に葬られてしまった。 (七七―七八頁)
と記している。一波動いて万波これに従うの形で、このような同情辞任が続出すれば、教授・講師陣は崩壊に近い形になるのではないかと心配せられたが、さすがにそこまでは手が回っておらず、翌月波多野精一と天野の女婿浅川栄次郎とが、更に翌年北昤吉が辞職した以外は、微動だにしなかった。
最後に不穏学生に対してだが、前記呼び出したうち四人は態度を改めたものの、残る十一人は五日午後三時に結集して、中には父兄と称して革新団を伴い、また政友会の御用紙で狂的に反早稲田色の強い『中央新聞』の記者を同道して現れ、田中・安部両理事の懇諭にも断然たる反抗の態度を採り、中村義麿が代表となって、「遠方なる父兄に対して召電を発せるが為、郷里の父兄は驚きて発病せる者もあり、是人道問題なりと叫び、除名退学は覚悟の上のことなり、若し退学処分にでも行ひたらんには、鉄拳は理事頭上に下るべし」(『早稲田大学紛擾秘史』第三冊)と威嚇を加える始末に、もはや施すべき策もなく、七日の午後九時、退学届を出すべき旨を通告したところ、それに応じて来校したのは吉積富夫(専政三年)・沼田鉄蔵(大商三年)・尾崎士郎(大政一年)・尾崎孝吉(大商三年)の四人、沢田実(専政一年)は保証人が代理して手続を取った。他日、『人生劇場』と題する著作を刊行して、昭和文壇に一異作を遺した尾崎士郎は、この自発退学組の一人だったのである。しかし、吉積富夫および尾崎孝吉は、何れも大正七年に卒業しているところを見れば、情状酌量の余地があったのであろう。そして、中村義麿(大商二年)・山本開作(大商一年)・池田兵二(専政二年)・神谷富蔵(専政一年)・川本円次郎(専政一年)・坂本旗吉(高等予科)の六名は、音沙汰がないので退学処分にした。
これは、初めて学校側から天野派に積極的挑戦をした形となり、彼らを刺戟し、憤激せしめたことは掩えない。しかし三木武吉・比佐昌平・清水留三郎・粟山博の率いる校友の一団は、大学擁護を叫び、革新団に対抗すべく立ち上がった。右の中、三木武吉(明三七邦語法津科)は言うまでもなく後年の政界の名士で、後に首相になり得る声望がありながら、自分は野人でその器に生れついていないと言って、鳩山内閣を作った陰の人。粟山博(明四五大政)も後に代議士となって活躍するに至るが、その前に憲政会の院外団員だった時、衆議院の傍聴席から議場をめがけて六尺余りの青大将を投げ込んで有名となる。大学派はこの頃から漸く地歩を固め、来たる十月二十日の大学創立記念日を出発点として、校規改正に着手すべきことを九月四日に発表した。この改正は、問題になりだしてから日が経っている。ここで新憲法の制定にかかるのは、断々乎として、天野学長末期に醞醸された諸問題に撥乱解紛の意気を以て当ることの宣示でもある。理工科の中川常蔵・西岡達郎・田治多蔵・金子従次の四人に解職を通告し、天野学長当時以来の懸案を処理したのも、その現れである。そして後述の如く、九月二十六日の維持員会において坂本学長以下の旧幹部の辞任が承認され、新維持員と新理事が選出されて、紛争後の学苑を再建すべき新体制が確立されたのである。