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第五編 「早稲田騒動」

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第十章 天野第二代学長の登場

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一 孤立主義タイプの肥前人

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 高田が去り、天野が後を襲う。これ、あたかも春過ぎて夏巡り、〓鳥南に還って鴻雁北より渡り来る如く、きわめて自然で、きわめて妥当で、寧ろ必然でさえある。

 第二次大隈内閣の思いがけぬ成立は、総長が総理大臣になったことで、こんな大学は空前絶後どこにも例があるまいという誇りを学生に感ぜしめた以外には、直接影響は殆どない。しかし今度は、学長という大学の首を引き抜いていって文部大臣に据えたのだから、先のような冠を脱いだだけとは違って、大学の生命にも関する筈だが、後は新学長で埋めて、別の首をつないだ傷痕も見えぬほど坐りがよかった。さすがは早稲田だ、持ち駒に不足はない、これが他の大学だったら、ひと悶着、ひと動揺ありそうなところだが、貧乏ゆるぎもしなかったと、いわゆる三尊の交誼が一身同体というほど緊密で学層の厚いのが、今更のように讃えられた。

 しかし仔細に点検すると、腑に落ちぬことがあると言えば、確かにある。高田前学長は文部大臣に就任するに当り、学校に辞表を出し、学長を辞任したのが大正四年八月九日である。それから五日後の十四日に総長邸で会議が開かれ、新情勢に応じて、校規と職務規定の改正が議せられた。その決定については改めて九七三―九七四頁に後述するが、そのうち、高田を名誉学長に推薦するのは当然であるし、坪内の固い辞意は翻し難いので、これを早稲田で初めての名誉教授に推薦することも、異論の出よう筈がない。また高田も半ばそうだが、天野・坪内が主として教授の方に当ったのに対し、高田を助けて事務を分担して大きな貢献をし、合せて四尊とも言わるる市島謙吉も従来の理事を辞退したので、名誉理事とすることにも反対はなかった。

 ただ、従来の二名または三名の理事を四名以内と改め、天野の他に塩沢昌貞田中穂積田中唯一郎を選んだ。この方面の分担を独りで背負って立っていたとも言うべき市島謙吉が辞めたとすると、大学本位に見てこういう人選になること当然であるかもしれぬが、しかしこれらは何れも高田学長体制の支柱となっていた人々である。今までは高田学長体制即早稲田であったのだが、学長が替るについては、天野腹心の理事が一人加わるべきではないかと思われるが、これには、「不本意ながら此場合其器にあらざる天野を推すこと已むを得ず。然しながら同時に理事組織を改め、兼而画せしごとく、三人の理事、教務・財務・庶務をそれぞれ分担し、相当の権能を持し、学長の我儘を制すべし。理事の決心次第にて、天野にても格別の弊なからん」(『雙魚堂日載』巻四十)という、市島の遠謀深慮が秘められていたのであった。

 また維持員も、今まで十五名のところを十八名に増加したのだが、その顔触れを見ると、これまた天野の腹心とも言うべき者が一人も入っておらぬ。殆どが後に言うところの高田派である。天野新学長はこの席に臨んで討議に加わりながら、どうして自分の不利について防衛する措置を講じなかったのだろうか。これを基点にして観察すると、高田は、天野を自分の後釜として学長に据えることに不安を感じ、将来起きるべきトラブル、或いは分裂に対して、若干予防線を考慮したと見えるに反し、その点、天野は全く無考慮ではなかったか。

 しかし、もしその時大学幹部の中の誰と誰とが天野の腹心で、理事その他の役職に据えることをみんなが広く認める人物がいただろうかと思い返してみると、殆ど一人の面影も思い浮かんでこぬ。この人だったら天野のためを計り、天野体制を盤石ならしむるというような頼もしい人物は、天野の側近にはもとより、大学にはいなかったように思われる。この孤立的なのは、彼の性癖であるとともに、恐らく生国肥前の風でもあろう。彼は唐津の小笠原家の藩医の家に生れ、大隈の生れた佐賀とは藩を別にするが、肥前国人として共通な郷土癖もないわけではない。しかし有明海と唐津湾を抱く肥前の国には、二つの違った型の人物が目立つ。一つは大隈重信が代表で、来る者は拒まず去る者は追わず、千客万来、敢えて拒否しないで、仕事も人と共同、或いは人任せで行う。大隈が字を書かず、署名まですべて人任せにしたのが極端な例だ。その反対に、全く孤立して、すべて自分の手で弁ずる。分担の仕事に厳重に区画を施し、その範囲外の人の領分には自分から一切口出ししない代り、自分の受持には、これまた厳しく一言の容喙も許さぬという流儀がある。この代表は大隈の同輩の大木喬任で、彼は一切薩長に阿らず、自分で着々と出世して、伊藤、西園寺などでなくてはなれぬ枢密院議長にまでなった。まるで元老の格だが、それは彼の孤立主義によって築き上げた地盤だ。天野為之は、後者のタイプの肥前人ではなかったか。

二 仲間はずれの存在

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 ここに今更、天野新学長の経歴を一々洗おうとするのではないが、彼が高田早苗坪内逍遙などと大学の同級であったのは、世人みなこれを知る。しかし不思議なことに、彼の思い出を語り残している人は、同時代の大学生仲間に殆どいない。一番見やすい例は、例の坪内逍遙の『当世書生気質』という小説である。それは当時の大学寄宿生をモデルにしたので、小町田粲爾が高田早苗、西瓜を拳骨で破る桐山が三宅雪嶺、……などとそのモデルの噂は当時から世間に高く、晩年に逍遙自身もタネ明しをしている。後に東京専門学校創立に参画して、高田・坪内と並び稲門の旧呼称牛門の三尊と言われるほどの仲なら、学生時代にも何とか話題となるべき交渉がありそうなものだが、その痕跡は見当らない。三宅雪嶺の『大学今昔譚』その他にも、当時のいろいろな人物の名が思い出話に出てくる中に、ここでも天野の名は一度も出てこぬ。高田早苗は、天野は孤立的超然主義で、どの同窓生とも親しみが薄く、自分らが晩成会という結社を作った時、入れてくれと申し込んできたのは異例のことで驚いたが、喜んで迎え入れて、小野梓の鷗渡会にも一緒に誘ったと語っている。しかし力説しているのは、天野の孤立性である。鷗渡会のメンバーが小野梓の感化を蒙ったことは甚大で、その点は『天野為之』(浅川栄次郎・西田長寿共著)にも特筆してある。しかし、天野自身が小野をどう考えていたかは分らぬ。厳密に言えば小野の直門とは言えない坪内逍遙でさえ、『自由太刀余波鋭鋒』というシェイクスピアの処女訳を小野の経営した東洋館から出版した際に、眷恋として小野を慕う思い出を述べている。その他鷗渡会の会員で、小野への感謝の気持を何らかの形で披瀝していない者はない。ただ天野一人が別なのである。彼の名声を作った『経済原論』の第四版に、その著作の動機・経過を述べる際、それを依嘱したのが小野梓だったことを書いていて、感恩の意を表明するに最も好機会と思われる回顧的文章を書いている。恐らくこれを読む者の十人が十人、ここに小野梓への言及を発見することを期待するであろう。しかし実際は一言もそれに及んでおらぬのである。

 彼を以て早稲田の三尊または四尊と併称する者があることによって知られるように、天野は学苑の発展に協力してきた。少くとも傍目にはそう見える。高田の政治学、坪内の文学に対して、天野の経済学の名声は、他の二人に比して何の劣るところもない。三田の福沢一派の経済学、同志社のラーネッド(Dwight Whitney Learned)の経済学に対し、早稲田の天野の経済学とも言うべき特色ある学問を作り上げた。久保田明光の筆によってそれを概括すれば、

〔天野の経済学は、〕往々巷間に叫ばれたように徹底した自由放任思想とはいささか異なるところがあって、英国古典学派経済理論を正しく理解しようと努力し、その祖アダム・スミスにあってもけっして手離しの放任論ではなく、ただ「この学派の末流には或は奔逸して中正を失して」極端な放任論に陥っている者もあるが、「公正着実なる」J・S・ミルが出でてその誤謬が是正せられたとして、結局ミルを高く評価している。彼がのちにミルの『経済学原理』(ただし抄録本)を補訳して『高等経済原論』(明治二四年)と題して公けにしたのも、けっして偶然ではなかったのである。天野の経済学上の功績としては、そのようにしてわが国に正しく古典学派の経済理論を紹介したばかりでなく、早くも明治二〇年代にはコッサの名著『経済学研究指針』の英訳(Luigi Cossa, Guide to the Study of Political Economy, 1880)を通じて科学としての経済学の研究方法や経済学の歴史を講述していること、さらに明治三〇年(一八九七年)には、今日でもしばしば顧みられるジョン・ネヴィル・ケインズの名著『経済学の範囲と方法』(J. Neville Keynes, The Scope and Method of Political Economy, 1890)を『経済学研究法』として訳出〔本書第一巻七〇五頁参照〕して、わが国における本格的な経済学研究の気運をもたらしたことを挙げなければならない。 (『近代日本の社会科学と早稲田大学』 一二六―一二七頁)

すなわち、学者としての任は、教授としての任とともに、十二分に果したと言うべきであろう。

 しかし専門学校創立以来の、前途多難の学校を盛り立てるのに、高田と坪内と市島は骨を削るほどの苦労をしているが、殆ど一心同体的緊密を持すると他の目には映る天野は、経営の件にはごく短期間を除いて接触しておらぬ。基金募集に地方廻りを要求すると、決して拒みはせず、するだけのことは立派にしている。しかし進んで積極的には決して動かない。文句をつける余地はなく、苦情を言うべき隙はない。しかしどこか同志的な積極的気魄を欠き、肌に一枚革衣を着たような疎隔感が、よそ目には見えないにせよ、実際には存在した。専門学校から大学に昇格する時、高田・坪内・市島は、目の色も変るほど躍起になったが、天野の心はそれと一緒に燃えてはおらぬ。しかし科長となった商科を早稲田のドル箱にしたのだから、するべきことはして、他から誹議される弱点は見せぬ。これは高田・坪内・市島には不満だったが、どこにと言って注文をつけるべき余地はなかった。明哲・保身で、自分を弁護するだけに十分に堅固なる防壁はいつでも築いているのである。しかし学生の心は正直だから、一部で何となく不満を感じていた痕跡はある。石を懐に入れて温められるような関係では、学生はいつまでも黙っておらぬ。これを示すに適当な一景が思い出される。

 それは大正二年の春である。早稲田では恒例によって、新たに入学してきた予科生の歓迎会を大隈庭園で行って、催し物の余興に先立ち、各科の有志先輩が立って、交々、激励や希望や警告や経験の演説をした。いつもなら、中学を巣立ったばかりの若い予科学生は、その場の空気に呑まれて、先輩に伍して演説などする者のあったためしがない。しかしこの時は珍しく新入生が一人演壇に現れて、自分は「豊田大誓である」と名告った。彼は、家が僧侶で、早くから『中学世界』『雄弁』などの諸雑誌に論文を投じて、仲間にはかなり広く名の知られた青年(のち宗教評論家)であった。彼は演説の主旨として、「現代青年はまことの指導者を求めて彷徨している。昔、アラビアの賢者が真昼間、提燈をつけて物を捜しているようなので、傍の者が何をしているのかと聞いたら、自分は本当の指導者が見つからないので、こうして昼間も提燈を消さないで求め歩いていると言った。我々現代青年の心は、まさにこの賢者と同じであります」と述べ、一息入れて次の文句に移ろうとした時、場内の各方面から嵐の如き憤激の声が起った。「大隈総長は如何」「高田学長は如何」という声に続いて、「坪内博士は如何」「塩沢博士は如何」「浮田博士は如何」「安部予科長は如何」等々と、当時の早稲田学生に人気の高かった多くの花形教授の名前が矢継ぎ早に叫ばれ、とうとう壇上の弁士を立ち往生させてしまった。しかしその時、不思議なことに、「天野博士は如何」という叫び声は遂に挙がらなかった。

 これは偶然かもしれぬ。或いは聞き落しでなかったとは言えない。これを以てすべてを推すことは慎しまねばならぬ。しかし取りようによっては、天野新学長は、学者としては立派であり、一局部を守らせては完全な仕事のできる人材であるが、学苑の統率者としては人間の幅を欠き、学長として学苑を治めてゆくには、どこか不適当なところのある人という危惧を感ぜしめるところはないであろうか。

 この新学長になってからの成果を見よう。

三 御大典記念事業

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 天野新学長が手始めの大仕事は、御大典記念事業である。尤もこれは大正四年九月十五日の理事会で決められ、同二十二日にその資金募集の組織を定め、市島謙吉を委員長として総額三十万円を有志に広く公募することにしたもので、二十日の天野の就任式に前後しており、天野新学長時代になって起案されたものではない。これは何れかと言えば高田好みの案である。天野は、早稲田がこれ以上発展するのは危険だ、ここで守勢に廻るべきだとの意見を、内心抱いていた。しかし、高田がせっかく乗り気になっているものを表面きって反対するほどの積極性はない。自分も賛成したのだから、無論責任は免れ難いし、また責任を免れる気もなかったが、進んで乗り出す気にはなっておらぬ。

 御大典とは、その翌々月に控えた大正天皇の即位式であったこと、断る要もない。この即位記念事業として聞えているのは、五万円余を投じた東京高等商業学校の図書館建設ぐらいで、他校では、記念樹を植える程度以外に、派手な行事があったという噂を聞かない。しかし早稲田は、皇太子時代に特別に行啓があり、大隈が在野の時から特に信任が厚いという関係があり、そしてその大隈が今や首相として、また昨日まで学長だった高田が文相として、明治時代はもとより、日本歴史始まって以来の大規模の崇厳華麗な即位式が行われるのだから、その記念事業を起すのは当然であろう。

 次にこの御大典記念事業に関する書類を一括して掲げておく。

御即位大典紀念事業計画趣旨

今や聖上御即位の大典挙行に方り、玆に恭しく早稲田大学が皇恩に負ふ所を考ふるに、曩に理工科創設の新事業を完了するを得たりしは、主として 先帝陛下の優渥なる恩賜に由れり。而して是実に本大学が其大学としての面目を大成するに至れる肇基なり。加ふるに 今上陛下も亦其東宮に在らせらるるの日破格の寵臨を本大学に賜はり、校運之が為に大に揚れり。本大学の皇恩に負ふ所寔に深大なりと謂ざるべからず。按ふに本大学の、上は此深大なる皇恩に答へ奉り、下は満天下同情者の芳志に酬ゆる道は、一に益々校基を鞏くし、諸般の設備を充実し、以て大学たるの名実を完成し、弥々優秀なる人材の陶冶に尽瘁するにあらんのみ。

本大学は創立以来三十三年を経て外観較整備せるが如しと雖も、其内容に至りては未だ創業期を過ぎざるもの少なしとなさず。是等諸般の改善及び充実は徐々の企画に俟たざるべからずと雖も、特に急施を要するものは研究機関の設備なり。蓋し研究機関は大学の生命にして、真に大学たるの実を挙げ得るや否やは、職として此機関の備不備に由る故に、本大学が明治三十四年東京専門学校の規模を改め、早稲田大学の創業に著手するの初めに当り、先づ図書館の拡張を計り、次で明治四十一年第二期拡張計画を立つるに当りても、亦其恩賜紀念館の一部に研究室を設け、既往十有余年間研究機関の整備一日と雖も之を閑却したるにあらず。然れども施設改善を要する事業頻りに多くして、資金の供給容易に之に伴はざるが為に、比較的多額の資金を要する研究機関の整備は特に困難を極め、今日に至る迄力を此方面に効す能はざりしを遺憾とす。然るに今や時勢の進運は、本大学が研究の整備拡張に躊躇するを許さず、本大学にして学界に於ける其権威を発揚すると共に、更に大に国家教育に活躍せんと欲せば、一刻も早く之が整備を計らざるべからず。本大学が如上の必要を感ずること甚だ切なるの時、闔校数百の教職員及び万余の校友も亦本大学に提議して曰く、国家稀有の盛典を祝するの為の紀念として、本大学も亦須らく一の不朽事業を起すべきなり。而してそは大学制度の眼目たる研究機関の新設に優るものあるべからず。惟るに聖旨を体し皇恩に報ひ奉るの道も亦之より大なるはあらじと。是に於て乎本大学は意を決して敢て此事業に従ふに至れり。而して本大学の先づ企画せんと欲する所は、其研究諸室の建築なり。之と密接の関係ある図書閲覧室及び書庫の改造拡張なり。図書及び標本類の新購入なり。其他は之を他日の経営に俟たんとす。然るも尚如上の実施に要する経費は優に三十万円に上るべし。而して其幾部分は、之を本大学縁故者の出資に依らんことを期すと雖も、広く江湖篤志家の援助をも仰がざれば、其目的を達せんこと甚だ難し。切に冀はくは大方の諸士本大学の聖旨に報ひ国家に尽さんとする微衷を諒とし、此大学組織完成の事業に深大有力なる賛助を賜はらんことを。若し夫れ、研究機関に関する細説、工事、設計、予算書、及資金募集規定等は具して此冊子に附載すと云ふ。

大正四年十月

〈資金募集規定〉

一、御即位大典を紀念せん為め、早稲田大学は左の事業の完成を期し、経営資金を募集す。

一、紀念事業左の如し。

研究機関の設備

(一)各学科研究室の新設

(二)恩賜館内研究室の増設

(三)図書館閲覧室の改築及書庫の増築

一、右工事設計並予算は別紙に具す。

一、募集総額を金三十万円とす。

一、募集期間は大正四年十一月より向ふ二ケ年とす。

一、資金寄附の方法は一時及年賦とす。

但し、年賦は最長期限を三ケ年とす。

一、資金寄附者は申込証に金額並に納付の方法を記し、署名捺印して申込を為すものとす。

一、寄附金払込は本大学又は本大学指定の銀行に払込むものとす。

一、募集資金は本大学基金管理委員に供托し、基金規程に依り支出す。

一、基金の払込を受けたる時は直ちに受領証を寄附者に送付す。

一、募集費は前例に依り本大学経常費より支出し、募集資金は全部事業に充つ。

一、募集金額竝氏名は毎月早稲田学報に掲載し、寄附者に送付す。

但し、毎年一回収支の報告をなすものとす。

一、応募者には紀念章を贈呈し、且適当なる方法を以て其芳志を表彰す。

〈設計並ニ予算ノ概要〉

各学科研究室新設並に附帯工事

総経費 三〇〇、〇〇〇円

説明の便宜上、此計画を二部に区分し、一を御大典紀念研究室の計画とし、他を其附帯工事計画とす。

第一 紀念研究室建設

現在の図書館は書庫を除くの外凡て他に移転し、其跡に図書館及研究室を新築し、恩賜紀念館の左翼を増築し、別に特殊研究室の一部をも設けんとする計画なり。工事の大要を述ぶれば、現在の図書館書庫を稍拡張したる上、凡て五層とし、此書庫を中心として三層の研究室及閲覧室を新築し、此等は凡て鉄筋コンクリートの耐火構造とす。其工事概算左の如し。

一、書庫増築及研究室等新築

此延坪一千七十二坪

工費 一二四、〇〇〇円

恩賜紀念館の左翼増設は、在来の建物に傚ひ、煉瓦造三階建とす。其工費概算左の如し。

二、恩賜紀念館増築

此延坪百六十五坪

工費 三〇、〇〇〇円

特殊研究室は、理工科特殊の図書室・研究室等を増設する見込にして、其工費概算左の如し。

三、特殊研究室等増築

此延坪二百九十坪

工費 三〇、〇〇〇円

以上は研究室、図書閲覧室、及書庫等の建築にして、之に必要なる設備及其費用左の如し。

四、研究室内部設備、図書、標本等

設備費 八六、〇〇〇円

以上研究室建設に要する費用合計金二七〇、〇〇〇円なりとす。

第二 附帯工事

研究室の建設の為、場所の関係上、他の建築物の位置変更、又は改築を必要とするものあり。此等は、前記第一の基本計画遂行上、当然為さざるを得ざる事に属す。其重なる工事及工費の概算左の如し。

五、現在の図書館其他三棟、移転及改築等

工費 二六、〇〇〇円

六、門の移転、道路の変更、其他雑工事

工費 四、〇〇〇円

以上附帯工事費合計金三〇、〇〇〇円なりとす。

(『早稲田学報』大正四年十一月発行第二四九号 六―七頁)

 更に「早稲田大学第卅三回報告自大正四年九月一日至同五年八月卅一日」(『早稲田学報』大正五年十月発行第二六〇号)によれば、

尚本事業は最初資金総額金三十万円の予定なりしも、後ち森村豊明会より応用化学科建設費の特別寄附ありたるを以て、更に之れが新設を本紀念事業の一に加へ其経営を拡張することに決し、従て研究室の完備構内建物の整理等多額の経費を要することとなりたるに依り、大正五年五月二十三日大隈総長邸に於ける実業家招待会の席上に於て募集総額を金五十万円以上に改め之を発表したり。本事業の進行に付建築設計委員を市島謙吉(委員長)、大沢一郎、金子馬治、吉田享二、田中穂積田中唯一郎中村進午中島半次郎、中村康之助、内藤多仲山本忠興増子喜一郎、間瀬直一、安部磯雄阪田貞一佐藤功一、湯浅吉郎、塩沢昌貞の諸氏に、又応用化学科特別委員を田中唯一郎、中村康之助、山本忠興佐藤功一、諸葛小弥太の諸氏に嘱託せり。 (二頁)

 なお御即位大典記念事業資金は、大正七年八月三十一日現在で、申込額六十三万二千六百八円七十八銭(実収額四十六万八千八百二十四円七十二銭)に達し、これに同日現在の第一期および第二期基金の申込額九十九万四千四百八円二十六銭六厘(実収額七十四万四百八十九円十一銭六厘)を合算すれば、百六十二万七千十七円二銭六厘(実収額百二十万九千三百十三円八十三銭六厘)に上る浄財が江湖の寄附するところとなり、これにより学苑は「建築物及諸設備ニ於テモ面目ヲ一新スルヲ得タ」(『早稲田叢誌』大正八年三月発行第一集三五九頁)のであった。

 この計画趣旨には、第三図のような「早稲田大学御大典紀念事業建築配置図」が添えられている。

第三図 御大典記念事業建築配置図(案)

A 高等予科教室(二階)

A' 同右移転の位置

B 高等予科教室(三階)

B' 同右移転の位置

C 図書閲覧室

C' 同右移転の位置

D 書庫

E 商品陳列館

E' 同右移転の位置

F 新築研究室(三階)

G 恩賜記念館増築

H 建築学科研究室増築

I 電気工学科実験室増築

J 水力実験室増築

K 高等予科門

K' 同右移転の位置

第四図 恩賜記念館内面図

一階平面図

二階平面図

三階平面図

(『早稲田学報』大正七年三月発行第二七七号 五頁)

 右の実施については、『早稲田学報』第二五〇号(大正四年十二月発行)に第一―四期に亘る工程が詳細に示されているが、例えばBやFのように全然実現しなかったものがあったり、移転の位置に変更があったりしたばかりでなく、大正九年六月という竣工予定も、大幅の遅延を余儀なくされた。すなわち、高等予科教室(かつての大学部商科教室)が現在の一号館の位置に移動したほか、教室二棟と図書館閲覧室の移動が行われたのをはじめとして、大正七年三月には、煉瓦造三階建百九十八坪二合七勺の恩賜記念館左翼増築工事が完成し、第四図に掲げるように、恩賜記念館は総建坪五百二十坪二勺となったが、第三図のH、Ⅰ、Jは計画通りには実現されず、大正十一年四月に先ずJ、すなわち水力実験室が計画案におけるHの北側に建設され、次いでHとIが同十五年九月までにその水力実験室の増築という形で竣工した。かくて、H、Ⅰ、Jは最終的には一棟として完成したのである。図書館整備工事に至っては、計画が全面的に変更され、第三巻に詳述する如く、大正十四年十月、全く面目を一新した新図書館として御大典記念事業の掉尾を飾った。また、森村豊明会寄附金により計画に追加された応用化学実験室は、右の水力実験室の東側の位置に、それより早く大正七年九月に竣成し、十月二十七日の創立三十五周年祝典当日に開館式が挙行された。

 因に「早稲田大学第卅四回報告(自大正五年九月一日至同六年八月卅一日)」(『早稲田学報』大正六年十月発行第二七二号)は、大正六年八月末において、

本大学の現在敷地は運動場を併せて一万九千百九十四坪六合七勺にして、外に穴八幡下、下戸塚、小石川、国分寺、軽井沢等に所有地四万二百六十八坪八勺あり、之を合算するときは五万九千四百六十二坪七合五勺に及べり。尚本大学現在建物は棟数七十二棟、此建坪三千六百十坪、総延坪六千四百八十二坪に達せり。 (三頁)

と記述しているが、大正四年ならびに五年において、校舎敷地と運動場間の土地が学苑の所有地に編入されたことは、それぞれの年の「早稲田大学報告」に掲げられた左の記事によって知り得られる。

大正四年六月二十日、本大学敷地及運動場の間に介在せる大隈家、麴町銀行、鈴木三吉所有に係る土地総坪数三千三百坪五合六勺を新に購入し、将来発展の素地を造る為め、予め地形の整理を為すことの計画を立てたり。

(同誌大正四年十月発行第二四八号 三頁)

本大学敷地及運動場の間に介在せる坪谷善四郎氏所有の土地九百二十七坪及下戸塚字松原所在小川重次郎、同重吉両氏所有の土地一千七百八十六坪、合計二千七百十三坪を新に購入し、又運動場整理の為め、相馬永胤氏所有の土地九百坪と本大学所有の土地九百坪の交換を行ひ、大正五年四月、各其手続を完了せり。 (同誌大正五年十月発行第二六〇号 三頁)

四 学生の募金参加

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 早稲田が大掛りに江湖に向って資金を募集するのは、大学昇格の時の準備以来これで三回目である。今その特徴を概括すると、この面においても盟学慶応義塾と甚だ対蹠的である。福沢の門下から犬養、尾崎の二人の「憲政の神」の如き政界の逸材も出ることは出たが、最も著しいのは財界方面における卒業生の目覚しい活躍で、明治初期の実業家人傑伝を読んでみると、横浜の貿易商人にあらざれば、多くは慶応出の俊才である。従って慶応は、自校出身の限られた数の財界人に話を持ち込めば比較的円滑に資金が得られ、学校を拡張し充実するに多くの困難を感じておらぬ風がある。その点で後進の早稲田は卒業生の財界への進出に後手を取り、久しい間その方面が「不毛の地」になっていて、所期の収穫を収め得ず、資金集めにはいつでも苦労した。

 ただ大隈は、維新政府において大蔵業務を担当し、明治の財界大御所渋沢栄一はかつて自分の下僚として相親しんだ経験があり、また三井と並んで財界を二分する岩崎(三菱)は大隈の援助者なので、この両面からの便宜はあった。それにしても、目標とする先が慶応の如く自校出身者に限られているのではなく、莫然とした不特定大衆で、民間に存し、全国に拡まった大隈の人気に広く訴えねばならなかったので、零細の金を数多く集める必要があった。

 それに大学としては、日本で最大はもとより世界でも指折りの多数学生を収容したので、その卒業生を校友として持つことの多い点では、断然、他の大学を圧する。慶応のような大財閥をなす校友に乏しい代りに、数でこなす便宜がある。殊に、この御大典記念事業では、初めて、卒業生以外に、学生間に各学科・各学年で委員を設けて、募金に当らせた。現在では到底考えられないことだが、恐らくこれは学生自身から申し出たことであったろう。そこで学生の出身家庭の父母兄弟から、友人知己の末梢神経にまで、この募金趣旨が徹底し、浸潤していった跡がある。

 ここで思い出されるのはピョートル・クロポトキンのことである。クロポトキンは、亡命地のスイスで雑誌を興そうとすると、どこの印刷屋からも断られた。窮余の一策に街頭に向って資金の募集に掛かったら、忽ちにして集まって、印刷機一式を購入でき、予期通りに機関誌を刊行し得た。クロポトキンはその時の喜びを語って、集まった金には手の切れるような札ビラは一枚もなく、みんな汗と脂で汚れた銅貨と銀貨ばかりだったのが嬉しかったと言っている。早稲田大学の御大典記念も、従来と違って、学生の家庭の祖父母や兄姉が零細な金を喜捨してきたのが特色だった。

 新学長としての天野丸の進水は、まことに上乗だった。