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第五編 「早稲田騒動」

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第四章 教壇の新風

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一 教員陣容の交替期

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 明治四十年代から大正初年にかけて、学苑の教員陣、なかんずく文科の教授・講師に見られた刷新は、歴史的にきわめて重要な意義を持つ。早稲田の文科は、他校に見られない顕著な特質を具えていたから、既に第一回卒業生より金子馬治紀淑雄、永井一孝、第二回より島村滝太郎中島半次郎など、後年学苑の教授陣の中核を形成する英才が早くから教員として起用されていた。これは、政治科の第一回卒業生の中からは学苑の教壇に立った者が一名もなく、第二回卒業生も、法科の第一回卒業生と同じく、二名を講師陣に送ったが大成するに至らず、また法科の第二回卒業生からは学苑の教壇には一人も迎えられなかったのと、対比せらるべきであろう。

 今試みに、初めて教授・講師の別が明らかにせられた明治四十四年の教員(本書第十八表参照)について見れば、政治科の教授三十三名中、学苑出身者は八名、法科の教授二十一名中、学苑出身者は七名、文科の教授は三十一名中、学苑出身者は八名を数えている。これを当該科出身者のみに限定すれば、それぞれ六、一、五名で、文科の比率は殆ど政治科に匹敵するが、講師について見れば、学苑の当該科出身者は、政治科十九名中一名、法科十五名中二名に比して、文科では三十六名中十名と、他を圧している。他方、創設後日の浅い商科と理工科では、当該科出身者が教員中に全く発見できないのは怪しむに足りない。ところが大正六年になると、全学科の教員(本書第三十二表参照)につき、教授九十名中、学苑出身者三十一名(うち、文科出身者十二名)、講師百五名中二十四名(うち、文科出身者十七名)、助教授(理工科のみ)十名中七名(すべて理工科出身者)と、学苑出身者の占める割合がかなり増加していることが知られる。今日、我が国の主要大学においては、国立、私立を問わず、母校出身者の教員中に占める比率は、欧米に比べてかなり高く、学苑にあってもまた、寧ろ高すぎるのではないかと反省させられるが、何れにしても、学苑では二十世紀に入ると、学苑出身者の母校の教壇における活躍が著しくなり、中で最も先鞭をつけたのが文科であるのは、争うことのできない事実である。

二 在野学者の起用

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 文科の場合、母校出身者の起用が顕著であったのとならんで、学歴を問題とせず、在野の遺賢の起用に最も積極的であったのを、特筆せねばならないであろう。創設後四年、増田藤之助を教壇に迎えたことは、第一巻に既述したところであるが、三十四年より学苑の人となった吉田東伍もまた独学の逸材であった。吉田の前身は、新潟の微々たる小学校教師に過ぎない。彼は、当時歴史学界一方の雄であった田口卯吉(鼎軒)が、雑誌『史海』に次々と発表して天下を聳動しつつあった新説に鋭い批判を加えて、田口に認められた篤学の士であり、また優れた史観の持主であった。のち彼は上京して同郷の市島謙吉宅に寄寓し、『日韓古史断』執筆の傍ら、読売新聞社員として、同紙上に田口論文の批判を「落後生」の名で発表した。それは、或いは真ッ向から反対し、或いは側面からその不備を衝き、遺漏を補うものであった。このような吉田の完膚なきまでの攻撃に、さすがの田口をしても応接に暇なきに至らしめた。こうした学識が認められて学苑に迎えられ、史学科の基礎を据えるために活躍したのである。尤も当時は、早稲田学内での仕事よりも寧ろ外に向っての著書刊行で天下に名を拡めたので、その『日韓古史断』『徳川政教考』『維新史八講』などの著書は、今日もなお価値を失わぬものである。更に驚異とせられたのは、独力『大日本地名辞書』を編纂したことで、今日といえども、これを超す著書は出ていない。「うちの村の小さな稲荷様の由来まで出ている」と言って、地方出の学生が喜び、また誇りとしたものである。また、晩年に執筆した『庄園制度之大要』は、我が国荘園研究の端緒を開いたもので、その後長い間日本荘園研究の王座を占めたと評価されている。

 英作文・英文法では、菅野徳助、宮井安吉、岸本能武太が、文学科、高等師範部および高等予科を通して、三羽烏の観をなしたが、宮井は東大の選科、岸本は同志社で、歴たる出身校の背景を負うのに対し、最も学生に人気があった菅野は、正規の学歴を欠く異才であった。宮井が厳格なというよりも、官学臭が強くて、その英作文は素焼きの煉瓦を積み上げたように趣が乏しく、その得意とする英文法は分析が煩雑・微細で記憶しにくかったのに対し、菅野の英文は、春郊の若草のように柔撓自在で匂が高く、学生の作文に朱を加えながら時々に語る英文法の断片は、いかにも暗示的であった。彼は、三十歳を越してアメリカの中学から大学に学び、後にはアメリカの大学生に英文法を講ずるまでに至った実験談を挾んで、学生を喜ばせ、殊にシェイクスピアの蘊蓄が深いのも、学生から尊敬を払われる魅力となった。著書は訳註『悲劇オセロ』一巻しか残っていないが、坪内逍遙の苦心のオセロ訳の塁を摩するものだとの批評さえあった。特にことシェイクスピアに関しては自ら高く持するところがあって、人に下らぬ東大の市河三喜、沢村寅次郎などの語学者が、一目を措いて高く評価している。

 桂五十郎(湖村)も学校歴なきものと世間一般から思われ、我が創立三十周年祝典に本学苑出身者の全著作の展覧会を催した中に、湖村の名著『漢籍解題』や『荀子国字解』(漢籍国字解全書)などが並んでいるのに来観者はみな奇異の目を見張り、「桂さんも早稲田出なのかなあ」と口々に疑いを挾んだ。実は彼は、郷里の信州にいる頃から一家をなした高名な学者であった。のち志を立てて学苑の専修英語科に学び、二十五年卒業したが、三十五年抜擢せられて講師となり、三十九年には高等師範部国語漢文科の教務委員に列したのであった。彼の名を成すに早稲田の習学は何物も加えていない意味では、独学者だが、しかし立派な早稲田の卒業生ではある。まことに講義の面白い先生で、新学期の始まるたびに、長く伸ばした顎鬚を撫し、「皆さんは既に荘子はお読みでげすかな」と問いかけるのからして、塵外の仙士の風があった。会心の名文に出会うと、例えば大河の説明には両手をひるがえして「ター、タッ、タッ」と浪が流れて行くのを身ぶり手ぶりで形容して、学生を倦ましめなかった。

三 新学内勢力の結成

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 吉野作造といえば、東大で政治科が独立してから最初の学生で、早くから音に聞えた秀才である。学問の大御所穂積陳重が、学生の卒業論文の課題を皆に割りふる時、へーゲルの法哲学に至って「こりゃあ、非常に難しいから引っ込めよう」と言うのを、「先生、僕がやってみましょう」と自ら進んで引き受け、あの難解の原文を縦横に読み破って「へーゲルの法哲学」一篇を完成したが、審査官も感心して、直ちに有斐閣から出版せられていよいよ有名になった。

 当時、東大の銀時計の卒業といえば、諸官省から引く手あまたで、就職の奔走など全く無用なのだが、吉野は自分の修得した学問を大学で教えることに熱意を感じ、穂積に相談すると、「そうか、それなら早稲田がよかろう。高田君に通じておくから、これを持って訪ねてみたまえ」と言って、紹介状を書いて渡した。これで吉野は、自分の勤め口はもう決まったような思いで、早稲田に高田早苗を訪ねると、これはまた意外にも剣もほろうの挨拶で、「我が早稲田大学は、たとえ瘦せたり、枯れたりといえども、大学出たてホヤホヤの未成品を講師に挙げもちいねばならぬほど、貧弱ではござらぬ」と嘯いた。この報告を受けた穂積が、「そんな筈はない。わしから電話で話して諒解を得てある。それでは、もう一度話すから、君は御足労でも、再度の訪問をしてみるがいい」と言うのを、誇り高き吉野は断って、折から中国に口があったから袁世凱総統の家庭教師として赴任した。これは学生に面接すること数多い高田が、穂積から話があったのを度忘れしたか、何かと思い違えたためかだと言われている。

 この挿話で見ると、明治三十年代末には、東京帝国大学は、誰でもいいのでなく第一級の優秀卒業生を選んで早稲田に送るほど要心するようになっており、早稲田ではまた先方の言うままには受けつけず、それを拒絶するほどの自尊心を持つに至っていたことが分る。この頃文科では、自校生え抜きの英才達を次から次へと教壇に立たせて、東大から招聘した逸材としては、煙山専太郎、遠藤隆吉以後には、ドイツ文学の山岸光宣ひとりが数えられるだけとなった。

 明治四十年代に初めて学苑の教壇に立ったフランス文学の吉江喬松(明三八大文)、ロシア文学の片上伸(明三九大文)は、最初は何れも英文学の講義を受け持っている。日高只一(明三八大文)は四十一年から高等予科に英語を受け持ったが、文科での講義は横山有策(明三八大文)の方が大正五年以降で早かった。哲学科では杉森孝次郎(明三九大文)、武田豊四郎(明三八大文)、関与三郎(明三九大文)に続いて、原口竹次郎(明三八大文)も大正二年には起用されている。また、同じく大正二年からは、会津八一(明三九大文)も講師の中に名を列ね英文学を担当している。他方、史学科では、西村真次(明三八文学部)が学苑に戻ったのは大正七年に及んでからであった。なお、高等師範部では、五十嵐力(明二八文学部)、永井一孝(明二六文学部)に続いて、山口剛(明三八高師)が大正元年に学科配当表に姿を現している。これらの母校出身の新鋭の中で、特に行政面で文科に貢献した人々について次に略述しておこう。

 吉江喬松は、大正五年より八年までフランスに遊び、帰国後学苑仏蘭西文学専攻の初代主任教授として活躍、また文学部長(昭和五年)、更に理事(昭和十三年)として行政面にも貢献するところが大きかったが、五十九歳を以て病歿した。その業績については、愛弟子根津憲三が左の如く記している。

フランス留学をおえて帰国してからは、主として学究的活動に徹し、その研究態度も社会的・科学的要素が重視されている。これはフランス人のもつ理性的気質の影響とも思われるが、しかし、これによって従来の自然観照に見られる鋭い共感力・洞察力が失われたわけではない。むしろ、彼の学究・批評家としてのユニークな点は、科学的・社会的立場と、直感的な洞察力とのみごとな結合にあるといってよかろう。文学作品の冷徹な理解と、天与の直感力による把握とが彼の学者としての魅力となっているのであろう。 (『日本近代文学大事典』第三巻 四六八―四六九頁)

 片上伸は、吉江よりも一年早く大正四年より七年までロシアに留学、ロシア革命の最中に帰国、学苑露西亜文学専攻の初代主任教授となり、更に十二年には文学部長に嘱任されたが、不幸な事件により十三年学苑を去り、ロシアを再訪した後、昭和三年四十四歳で鬼籍に入った。大宅壮一は、片上を次のように批評している。

氏は常に一段高いところからものを言つてゐる人である。少くとも自分は一段高いところにゐるといふ自負心をいつも失はなかつた人である。氏は各時代の諸種の流れを観測し、分析し、解説し、批判し、排斥し、讃美し、弁護して来たけれど、決して一度も、孰れの流れにも、身を投じなかつた人である。言ひ換へるならば、氏は常に「文壇測候所長」の職にあつたのである。氏の文壇に於ける功績も、我々後進が氏に対して感じる不満も、すべてこの比喩を通じて説明することが出来る。

(「片上伸論」 『新潮』昭和三年四月発行第二五年第四号 一五―一六頁)

 五十嵐力は、三十三年より教壇に立ち、その著『文章講話』(三十八年刊、四十二年増補して『新文章講話』と改称)や『新国文学史』(四十五年刊)は洛陽の紙価を高めたが、文学部に国文学専攻が設置されると主任教授となり、また大正十三年には文学部長に就任した。更に『純正国語読本』十巻(昭和四年刊)の編集により、旧制中学の国語教育の改善にも情熱を燃やしたが、終戦後の混乱期に七十二歳の生涯を終えた。

低級批評から高級批評に、外在批評から内在批評に、国語・国文の学を高め、その類なき美しさを現代読者の胸にひびかせ、内外の視聴をそばだたせた。 (『紺碧の空なほ青く』 四四一―四四二頁)

とは門下の逸足岡一男の記すところである。

 大正八―昭和十五年に哲学科の教務主任の地位にあったのは関与三郎である。関は杉森孝次郎石橋湛山とともに、彼自身が「時流に卓立する自由人」と評した田中喜一(王堂)のプラグマティズムに強い影響を受け、ドイツ的観念論哲学が主流であった我が国において、フランス実証主義の一角を死守した。

関は深い学殖を蔵しながらも、その知的廉直性から、多くの労作は残さなかった。しかし数少ない業績のうちにも、彼の科学的知見の閃きは充分に看取できる。何よりもまず、早稲田大学文学部の社会学専攻の創始者としての彼の功績は大きい。

(『近代日本の社会科学と早稲田大学』 三九一頁)

と武田良三は評しているが、著書のない碩学は戦争末期に六十二歳を以てその生涯を閉じている。

 西村真次は、昭和五年から史学科の教務主任に就任しているが、学苑に迎えられることが遅かったのは、卒業直後は酔夢の筆名により文学作品を以て世に知られていたからである。大正七年に学苑に迎えられて以来、昭和十八年に六十四歳で病歿するまでの四半世紀間に上梓した、著書の数の多さと領域の広さとには、目を瞠らざるを得ない。京口元吉の筆を以てすれば、

西村は、早稲田の文学部を出て自学・自修して、早稲田史学の先達の一人となった珍らしい存在であり、その業績をもって学界に重きをなしたばかりではなく、『大和時代』以下の名著をもって、若き学徒に、歴史研究を男子一生の事業としても悔なきものと、感奮・興起させた功績は大きい。 (同書 四二四頁)

のである。

 日高只一が文科でその存在を認められたのは、以上に記述した誰に比べても後年になってからであり、早くから英米演劇に関心を懐いていた日高に教授の地位が与えられたのは、大正十一年のことであった。しかし、昭和十五―二十一年には文学部長、十九―二十一年には理事を兼ね、七十五歳で天寿を全うしている。すなわち、大内義一の記す如く、日高は、

特に優れた能弁家であったわけでもなく、あるいは出色の魅力的な講義を行なって、強い印象を学生に与えたわけでもない。学問の上でたしかにパイオニアであったが、才筆をふるわれて後世に長く残るような業績を残されたわけでもない。記憶に残るような功績をあげられたのは、坪内の最初のお弟子さんとして、逍遙の築かれた伝統を忠実に守り、後進に誤りなく伝えたことにある。 (『紺碧の空なほ青く』 四四三頁)

と言うべきであろう。

四 政治経済・法両学科の新陳代謝

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 教授・講師陣に新陳代謝が行われたのは、文学科ばかりではなく、創立以来の政治経済・法両学科にも新風は吹いたのである。

 今明治三十四年七月の東京専門学校政学部および法学部の講師陣と、四十四年七月の早稲田大学政治経済学科および法学科の教授・講師陣とを比較してみると、前者それぞれ四十四および五十二名の顔触れのうち、後者それぞれの教授・講師合計五十二および三十六名中に引続き見られるのは、政治経済学科では十四、法学科では十七名であり、旧人は何れにあっても減少しているのが知られるのである。

 前巻でも触れたように、塩沢昌貞は三十五年帰国後直ちに講師に任ぜられたが、三十七年以降、或いは教務主任として、或いは科長として、更には学部長として、昭和十八年定年退職まで、学長および総長在任の前後四年半を除き、名実ともに「早稲田の政治科」の指揮者であった。そのきわめて慎重な性格により、遂に生涯、代表作と誇る著書を残すことがなかったが、明治末に創立せられた社会政策学会の主要会員として、また学士院会員として、学界に重きをなすと同時に、博識を以て鳴る大隈の経済知識の供給源であり、「大隈さんの知恵袋」と坊間で呼ばれていた。

私も、なんどか、博士との対談に、その学識の深さに驚かされたことがある。訥々として吃りがちな弁舌ではあったが、語りだせば底止するところを知らざるの概があった。 (高橋誠一郎『経済学わが師わが友』 七四頁)

というような評価を塩沢に下した碩学の数は、少数に止まらないのである。

 煙山専太郎は、塩沢と殆ど同時に学苑の講師に就任し、塩沢よりも十年近くも長く政治経済学科の教壇に立ち、同時にまた文科の西洋史専攻の中心的存在であった。煙山は岩手県出身で、東京帝国大学で哲学を学び、有賀長雄の推薦により爾来学苑と半世紀をともにすることになったが、その処女作がもたらした波紋については、既に五一〇―五一一頁に関説したところである。煙山はいささかも辺幅を飾らず、権力を憎み、正義は常に弱者とともにあると信じていた。

人間的なものへの豊かな愛情と熾烈なる学問的関心。現実の要請にたいする敏感にして冷徹なる対応。その折々の権威的なる政治的、社会的また思想的流風にたいする強靱な批評性もしくは抵抗性。宗教的、ヘーゲル的、マルクス的、ナチス的また神州日本的等々、およそ歴史発展の必然法則が存するとし、それを探究するといい、あるいはそれを論証せんとするところの、一切の決定論的「哲学的」歴史体系への本能的背馳。特殊なるものの即物的理解とその人類的規模における有機的綜合による無体系的体系。 (小林正之「煙山専太郎先生の回想」 『史観』昭和二十九年八月発行第四二冊 七六頁)

とは、煙山の薫陶を受けた門下生によって描かれた煙山史学の特性である。

 明治三十六年よりは、青柳篤恒(明三六英語政治科、三八大政)が起用された。学苑の清国留学生部の責任者としての青柳については前に詳述したが、その前半生は、「義務教育すら終へ兼ねた程澪汀の酸苦を嘗めたもの」(為藤五郎編『大正新立志伝』八一頁)であった。青柳は十代の頃から中国語を学び、僅か二十歳で既に陸軍大学校教授兼外国語学校講師に任ぜられたが、正規の教育を受ける必要を痛感して学苑に入学、一方に学生の身分でありながら、学苑にあってもまた「支那語」の授業を担当した。高田早苗は、青柳について、

世間に類の少ない支那語の達人であつて、支那語の大家たる宮島大八君の教を受け、往年支那の学者が公使館附で来た折に、直接其教を長く受けた為に、君の支那語は啻に流暢であるのみならず、頗る文雅であると言はれた。されば大隈伯も私も、支那から御客さんのあるごとに、此人に通訳の労を取つてもらひ、又支那学生と我々との中間に立つて、いろいろ肝煎つてもらひ、頗る便利を得たのである。 (『半峰昔ばなし』 三九九―四〇〇頁)

と語っているが、大正二年には有賀長雄とともに袁世凱の顧問に就任したので、その存在は中国で広く知られるところとなった。青柳は校外教育部にも、はじめ幹事、後に部長として尽瘁し、また出版部の発展に貢献するところが大きかったが、流麗な極東外交史その他の講義は、学苑名物の一つと言われた。

 大山郁夫(明三八大政)は、卒業の翌年から学苑に迎えられたが、最初は高等予科の、四十一年よりは商科の英語の授業を担当したのであり、政治経済学科に戻ったのは、四十三年に始まるアメリカおよびドイツへの留学から帰国後の大正三年であった。政治経済学科では国家学原理、政治学史、政治哲学、原書研究などの主要学科を担当したが、「早稲田騒動」の後、一度学苑を去ることになる。この第一回の政治経済学科教授時代に大山は、吉野作造と並ぶ大正デモクラシーの闘将として、『新小説』や『中央公論』誌上などで論壇にデビューするのであるが、

〔大山〕の帰国後数年間の言論活動の跡をたどってみると、その間に与って力あったものは、欧米学界から吸収した国家理論よりは、むしろ留学生活中にえた欧米のデモクラティックな国家生活にかんする体験であったと言ってもよかろう。……そこには、近代デモクラシーの下において国家権力にたいする自由な市民生活の防塞たる役割を担うところの、歴史と伝統をもつ西欧の都市共同生活への憬れにも似た発想が強く感じられる。

(松本三之介『近代日本の政治と人間――その思想史的考察――』 一七七頁)

と評されている。

 大山と同級生の永井柳太郎(明三八大政)が三年半のオックスフォード留学(最後の一年半のみ学苑留学生)より帰国したのは四十二年晩秋であるが、永井は直ちに植民政策の講義担当を命ぜられた。中保与作の筆になる『永井柳太郎

(同書編纂会編)には、

〔永井は〕当時における欧洲最新の知識を傾けた。清新味の溢る講義ぶり、その朗々たる演説口調は、忽ち全学生を魅惑し、大学全体のうわさのタネとなった。「おい、今度、英国から帰った永井という教授の講義を聞いたか。なに、まだ聞かない?馬鹿だナ。ぜひ一度聞いてみろ。全く素ばらしいぞ」というようなことが口々に伝えられると、永井の講義には、法学科や文学科の学生までが押しかけた。まだ、永井が姿を見せない前に、すでに教室の入口には、「満員締切」の貼紙が出される始末である。永井の人気は、かつての高田の憲法論、坪内のシェクスピア講読をも凌ぐのであった。……永井に比べられたのは、これも声望隆々として学内を圧し、論壇でも縦横に健筆を揮った大山郁夫だけであった。 (八八―八九頁)

と記されている。雄弁術に長じた永井は教授在任中、既に政界に志し、大正六年四月金沢で政友会の領袖中橋徳五郎と総選挙に一騎討を演じて惜敗したが、更に「早稲田騒動」の渦中の人となり、学界を捨てて、政界に身を投じ、昭和七年斎藤実内閣の拓務大臣に就任したのをはじめとして、第一次近衛内閣の逓信大臣、阿部信行内閣の逓信・鉄道大臣として、学苑出身の政治家中最もその名を世に知られたが、終戦の前年の師走に六十三歳を以て病歿した。

 服部文四郎(明三五英語政治科)は、卒業後私費により渡米してプリンストン大学に入学、三十九年hP・Dの学位を得た後、学苑留学生に推薦され、更にヨーロッパ諸国に遊び、四十一年秋帰国、政治経済学科で貨幣論を講じた。服部は教授在職中、東京商業会議所書記長、全国商業会議所連合会理事、ジャパン・タイムス社社長などを兼ね、我が国経済の実際に精通していることを以て自ら誇りとしていた。服部は、同じく首席で一年後に卒業した伊藤重治郎とともに「英語政治科掉尾の傑作」(『早稲田生活』四一七頁)と称せられたが、学苑への貢献は、昭和二年から十九年までの専門部政治経済科長の時代に最も大きかったと言うべきであり、大隈精神の祖述を志した服部の「模範国民論」は同科における異色ある講義科目であった。

 法学科の場合、既述の如く、初代科長は小山温であった。小山はそもそも東京帝国大学英法科卒業の司法官であり、学苑教授を兼ねている中に代議士にも当選している。明治四十三年からは、中村進午が小山の後を襲い、学苑出身の寺尾元彦(明三九大法)が科長に就任したのは、大正十年に至ってからであった。すなわち、本巻の時期全部を通じて、法学科は学苑出身者を科長として迎えることがなかったのである。寺尾の先輩井上忻治(明三八大法)が「早稲田騒動」を機に学苑を去り、後輩中川挺三(明四四大法)が病に倒れるなどの不幸も、法学科の東大依存を、他学科以上に長引かせる結果を生んだのである。

 この時期の法学科においては、国際法学者中村進午の貢献を忘れることができないであろう。中村は、東京帝国大学卒業後直ちに学苑の講師となり、三年後学習院教授として留学した。帰国後高等商業学校教授を兼ねたが、七博士の一人として日露開戦を主張し、ポーツマス条約批准反対の上奏により非職を命ぜられてその名を轟かせた。翌年、東京高等商業学校(後の東京商科大学)教授に復帰した後、多くの大学に出講したが、特に学苑においては法学科長としてその育成・強化に力を注ぎ、他方、教室では軽妙・酒脱な講義によって、六十九歳の生涯を終えるまで学生を魅了した。その愛蔵書中、江戸時代の和漢書八千数百冊は学苑に遺贈され、中村進午文庫として図書館に保管されている。

 学苑での教育に専念した副島義一は、中村進午よりも三歳以上年長であるが、帝国大学では同級生であり、中村よりも五年遅く、学苑の留学生としてベルリン大学で憲法および行政法を学んだ。副島の学風は、中村吉三郎により、

小野梓によって拓かれた科学的憲法学の正統を継承していた者は、実に東京専門学校講師副島義一であった。従来、後年のいわゆる天皇機関説問題で一木喜徳郎―美濃部達吉の線があまりにもあざやかに浮出されたせいか、穂積八束―上杉慎吉批判の科学的憲法学の日本における学説史的系譜から、早稲田学派は、とかく抹殺されがちであったが、むしろこの系譜の筆頭には、まず小野梓の「国憲汎論」があるべきで、また、「副島の憲法」も忘れらるべきものではなかろう。

(『近代日本の社会科学と早稲田大学』 三二六頁)

と論評されているが、大正初期に孫文の同志黄興に招かれて中国に渡り、政治顧問として活躍した副島は、大正九年に代議士に当選するなど、政界にも関心が深く、昭和六年、南京国民政府顧問に就任することになり、学苑を去った。

 後の総長大浜信泉は、寺尾元彦、中村万吉および遊佐慶夫を「早稲田大学法科の三元老」と呼び、「この三博士こそは、早稲田大学生え抜きの専任教授であつたと同時に、早稲田大学法科の基礎を築くに最も貢献の大きかつた人々だからである」(『社会経済史学』昭和十七年八月発行第一二巻第五号九二頁)と述べている。学苑の教壇にその姿を初めて見せたのは、寺尾が明治四十一年、中村万吉が大正三年、遊佐が同五年である。

 寺尾元彦はやや晩学で、首席で卒業した時既に二十七歳に近かったが、早くも四十一年には学苑の教壇に迎えられ、ベルリンに学んで帰国後、大正四年より商法の講座を担当した。大正九年法学部教務主任就任後は、名実ともに学苑の法学教育の中心として重きをなした。昭和十七年法学部長寺尾の長逝に際して、田中穂積総長が読んだ弔辞の中の左の如き讃詞は、決して過褒ではないのである。

前後三十有四年ノ長キニ亘リ終始一貫倦ムヲ知ラズ、吾法学部ヲシテ今日アラシメタルモノ実ニ君ノ努力ニ帰ス。其功労正ニ特筆大書スベキモノアリ。思フニ君ハ天禀ノ学才ニ加フルニ絶倫ノ努力ト熾烈ナル責任感ヲ以テ吾邦法学界ニ重キヲナシ、独リ斯界ノ権威タルノミナラズ、又教育家トシテ当代得難キノ重器タリ。曩ニ講堂ニ於テ病ニ倒レ、静養数ケ月ニシテ、病少シク怠ルヤ周囲ノ忠言ヲ排シ、日々教壇ニ立チテ、青年学徒ヲ導キ後進学者ニ実践範ヲ示シ、精励度ニ過ギ終ニ再ビ起タザルニ至ル、又以テ君ノ人ト為リヲ知ルベキナリ。 (『早稲田学報』昭和十七年七月発行第五六九号 一三頁)

 中村万吉は異色ある経歴の持主で、学苑では哲学を学び、三十九年卒業後操觚界に身を投じたが、志を立てて更に東京帝国大学法科大学に入り、四十五年卒業、大正三年学苑講師となり、エール大学、ベルン大学などに留学、大正七年十月教授に嘱任された。一時東京市会議員に出馬したこともあったが、晩年は昭和五年東伏見に中村学寮を設立して、三十余名の学生と起居を共にし、また同十年、付属早稲田専門学校長として勤労学徒の訓育に当るなど、労働法研究の先覚者として、研究および教育に専念した。

その法学者としての学問的態度に〔は〕異色があり、単なる概念法学、純論理法学の天地に跼蹐しないで、文化科学の一部門として、高く且つ広き立場に於て之れを眺むるの態度に終始せられた。

(『早稲田大学法学部会誌』昭和十四年二月発行第七号 一八七頁)

とは、中村宗雄が五十五歳で世を去った中村万吉を偲んで記したその学風である。

 遊佐慶夫は、四十四年学苑の専門部法律科を卒業したので、三人の中では最も後輩である。大正五年、ベルリン、ロンドン、ベルンへの遊学から帰国後、学苑の教壇に立ち、大正八年には、当時我が国では殆ど未開拓の信託法制の研究により、三人の中では最も早く法学博士の学位を授けられ、また大正九年専門部法律科教務主任として、寺尾とともに「早稲田の法科」運営の専任を分ち合った時には、漸く三十一歳に過ぎなかった。遊佐は、五十五歳十ヵ月で生涯を終えたが、「日本資本主義が金融独占段階へと新たな展開をはたすにあたって、その一翼を担うものとして要請されていた信託法の制定〔大正十一年〕に、なみなみならぬ寄与を果」した(『近代日本の社会科学と早稲田大学』三三七頁)点において、その業績は高く評価されている。

五 商科教員陣の整備

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 既述の如く、商科開設に当り、天野の片腕として迎えられたのは横井時冬であったが、横井は三十九年、年歯四十六歳で病歿したので、商科の教壇から学生に与えた感銘は、田中穂積に比べると、非常に大きかったとは言い得ない。商科開設の当初においては、田中穂積の主力は寧ろ政治経済学科に注がれていたと思われるが、商科の責任者となるに伴い、田中の比重は次第に商科に移り、後年総長に就任した後にあっても、昭和十三年度まで、商学部に経済学原理を講ずることを大きな楽しみとしていた。

 さて商科の場合、新設当時招かれた教員陣の中には、後の学長平沼淑郎がまず第一に数えられる。平沼は元治元年現岡山県津山に生れ、明治十七年東京大学文学部卒業、市立大阪商業学校(現大阪市立大学)校長、大阪市助役などを経て、三十七年九月より学苑の人となり、翌年より西洋商業史を担当、三十九年からは内外商業史ならびに経済史を講述した。大正七年より十年まで学長として「早稲田騒動」後の学苑を平静に導き、同十二年よりは、昭和十三年急逝に至るまでの約十五年間、商学部長として衆望を負った。また昭和五年創立の社会経済史学会にあっては、その初代理事代表に選ばれて学界に重きをなした。

博士は、自らの行ひを他に強ゆるがごときは、努めて避け、その春風駘蕩たる人格的感化を以て、指導の要蹄とされた。かかる博士の感化が如何に偉大であつたかは、その薫陶に浴した商学部全卒業生が協力一致して、校舎を新築して、博士の貢献を記念せんとする熱誠となつて表はれ、極めて短期間に約三十数万円の巨額に上る寄附金を献呈したことによつても判明される。

(『早稲田学報』昭和十三年九月発行第五二三号 二〇頁)

とは、北沢新次郎が追想するところである。

 商科新設の際から終戦の前年まで、商業学の中心的存在であり、専門部商科が設置されてからは、初代教務主任、次いで科長に就任したのは小林行昌である。小林は東京高等商業学校専攻部の卒業生であるが、平沼の推薦により三十七年講師として学苑に招かれ、四十四年教授に嘱任された。

小林の学問の領域は、極めて広く、商業関係の諸学科の殆ど全部を覆うていたのであった。すなわち商業算術にはじまり、商業英語、商業売買論、関税論、ないし外国為替論等の諸学科にわたり、何れもその学問の先駆者ないし開拓者として、精深なる研究を行い、それらの著作は、学界において基準的な書物としての評価をうけ、まさに洛陽の紙価を高からしめたのであった。特に関税論ならびに外国為替論は、その後、外国貿易論或いは国際経済論の名の下に行われている研究の端緒をなしたところの先駆的の業績であった。……彼はわが早稲田大学商学部の草創期を支えた恩人であると同時に、より広くわが国商業学界の重鎮であった。 (『紺碧の空なほ青く』 五八―五九頁)

とは、小林の教えを親しく受けた末高信の記すところである。

 同じく東京高等商業学校専攻部で小林よりは四年の後輩であった吉田良三が早稲田で教鞭を執ったのは、小林よりも二年早かった。我が国における近代簿記・会計学の開拓者である吉田は学苑の留学生として欧米に遊んだが、帰国後大正七年には、母校の教授に迎えられて学苑を去っている。また学苑出身者では、伊藤重治郎(明三六英語政治科)が四十一年より交通を、宮島綱男(明四一大商)が大正元年より保険を、浅川栄次郎(明四一大商)が同二年より商業経営及実践を担当したが、これら三人とも「早稲田騒動」後の学園に止まることなく、商科の教員として貢献した期間は十年に達しなかった。他方、後年の商学部長北沢新次郎(明四三大商)は、大正四年より学苑の教壇に立ち、高等予科に商業通論その他を講じ、翌年からは大学部商科で商業経営学を担当しているのが注目される。

 商科は、職業教育を標榜したのであったから、英語教育の充実には、他科以上に心を用いた。高杉滝蔵が学苑に聘されたのは明治三十五年であるが、遅くとも三十八年には商科の英語(会話?)を担当している。高杉は、アメリカのノースウェスタンおよびデポウの両大学に学び、東北訛りの強い日本語よりも、寧ろ英語の方が流暢であった。安部磯雄の後を承けて野球部長としても信望を集めたが、母校出身者以上に早稲田精神を謳歌する点でも異色があった。英会話のほかに文学部のラテン語まで担当し、授業時間の多いのを苦にしないのでは、商業算術の神尾錠吉と双璧をなすもので、昭和初年に至るまで、毎週三十時間を超すことが珍しくなかった。

 明治から昭和の我が国英語学史に不滅の足跡を残した武信由太郎と勝俣銓吉郎も、それぞれ、三十八年および三十九年から学苑の教員陣で異彩を放った。武信は札幌農学校の卒業生で、明治三十年頭本元貞と『ジャパン・タイムス』を創刊、また三十一年には勝俣と『英語青年』を発刊した。武信の高弟伊地知純正は、「先生の母校である札幌農学校のヤリ方と吾々最初の商科のヤリ方とが、何等か相通ず所があると語られて、非常に満足らしく見受けられた」(『早稲田学報』昭和五年五月発行第四二三号五四頁)と記しているが、『武信和英大辞典』(大正七年刊)の編纂など、多忙な毎日を送りながら、学苑の黒板に英語の名文を書いて学生を敬服させる授業を、昭和五年、六十六年の生涯を終るまで、継続した。勝俣銓吉郎は小学校中退後、国民英学会卒業という、全く変則的な学歴の所有者であるが、武信の推挙により学苑に迎えられ、最初は高等予科、後には商科をはじめとして各科で、昭和十八年定年に至るまで英作文を担当し、また『英和活用大辞典』(昭和十四年刊)などの名著を刊行した。勝俣は生活費を極端に切りつめて、我が国の英学史に関する資料の蒐集に充てたが、その洋学関係文献は、図書館の「洋学文庫」中に収められて、学苑の誇りとするところのものである。

 戦後商学部長に就任した伊地知純正(明四〇大商)は、四十二年四月より先ず高等予科で英作文を教えたが、大正三年九月からは商科で会話を担当し、「早稲田騒動」後には、商科の英作文を、武信、勝俣とともに担任している。

六 理工科の新鋭

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 学苑の理工科出身の俊英中には、助教の名の下に実験その他の教務補助者として、卒業後も引続き学苑に留まる者があったが、九七八頁に後述する如く、助教は大正四年九月、助教授と改称されることとなった。この改正後の数ヵ月間に助教授に任ぜられたのは、市川繁弥(大二電気)、大沢一郎(大三建築)、金子従次(明四五機械)、辻井真(大三機械)、坪内信(大三電気)、堤秀夫(大二電気)、野村堅(大二採鉱)、間瀬直一(大二建築)、阪田貞治(明四五機械)の九名であり、そのすべてが学苑出身者である。

 専門学校令下の大学の終末期においては、理工科の助教授の数は十八名と倍増しており、大正四年秋の教授数十八、講師数三十一が、大正九年春にはそれぞれ二十四、三十八に増加したよりは、遙かに大きな比率で増大していることは、理工科にあっても、新鮮な血が教員陣に注入されようとしている徴候と見て差支えないであろう。大正四年の九名中、阪田は大正五年末急逝し、金子は後述する大正六年の理工科の紛騒に際して解任され、理工科第一回卒業生は教員陣から姿を消した。第二回卒業生の中では、後年の理事市川は教室を去り、堤と野村とが学苑卒業生として最初の教授に任命されている。野村は終戦後間もなく昭和二十一年にその生涯を終えたが、堤は八十六歳の長寿に恵まれ、理工学部長、大学院理工学研究科委員長、理事等を歴任したほか、早稲田中学校長の地位にも就いた。

先生の本来の専門は電気工学であり、母校から東北大学理学部に派遣され、科学者としての研鑽を積まれた。この為先生の電気工学は極めて理論的背景が深く、前にも述べたように、研究テーマの提起が単なる労作に期待されるものでなく、常にその背後にある未知の世界と、我々が教科書で習得したと思った現象も全く別の視野から鋭く観察し直された全く独創的なものが多かった。従って先生の研究は常に創造的であり、講義も非常に示唆に富む格調高いものばかりで、我々は解らぬ乍らも最高レベルの学問を窺知する喜びに浸ることが出来た。 (『紺碧の空なほ青く』 四八八頁)

とは、門下生の石塚喜雄の記すところである。

 大正九年四月の理工科助教授中には、藤井鹿三郎および今和次郎の二名が、学苑卒業生以外に発見される。学苑卒業生以外が助教授全数中に占める割合は、大正六年二月には十二名中四名、同十一月には十二名中三名、七年三月には十三名中三名、八年一月には十八名中三名と、決して多数とは言えず、また顔触れに殆ど変化が見られないにせよ、六年以降常に何名かが発見できることは、他よりの優秀な血を交えるのを忘れないよう、当時の理工科当局が留意していた証と看做して誤りではなかろう。

 なお、九年四月の助教授中には、山ノ内弘(大三機械)、川原田政太郎(大四電気)、黒川兼三郎(大五電気)、師岡秀麿(大六機械)、鈴木徳蔵(大六機械)、大隅菊次郎(大七電気)、今井兼次(大八建築)など、藤井や今とともに後年理工学部において活躍する若い研究者の名が発見されることを付記しておこう。

七 専門学校令下の大学の留学生

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 学苑が、早稲田大学への昇格を前にして、留学生の海外派遣を敢行したことは、既に前巻に説述した如くである。そして、坂本三郎金子馬治田中穂積島村滝太郎塩沢昌貞と、何れも学苑卒業生が東京専門学校時代にはそれに選ばれたのであった。

 大学昇格後の学苑は、財政が豊かであったとは言えないにも拘らず、次表に見られる如く、引続き留学生を連年海外に送っている。

第二十七表 早稲田大学派遣留学生表(明治三十五年九月―大正九年三月)

(庶務部文書課保管『早稲田大学留学生名簿 留学生証明書交附原簿 庶務課』等による)

右の表の中で*印を付してあるのは、既に海外留学中の者に対して、学苑がその留学生に任命した日時を記載したのであり、また**印は、職員の自費留学に対して大学が旅費補助を行った場合である。なお†印は、そもそも竹内明太郎により海外に派遣されたのであったが、帰国直前に至り学苑留学生の資格を与えられたことを示すものである。

 本表によって知られるように、学苑では、殊に明治末期においては、自校卒業生以外の者をかなり多く海外に送っており、決して偏狭な純血主義を志していたわけではなかった。ただ他校出身者の場合、帰国後必ずしも長く早稲田の教壇にとどまらない例が一再ならず生じたことが、次第に留学者の圧倒的多数を早稲田卒業生が占める傾向へと導くに至ったものと見て誤りではないであろう。