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第四編 早稲田大学開校

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第三章 早稲田大学開校

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一 その準備

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 明治三十五年二月八日の貴族院予算会議で、後に第一次桂内閣の文部大臣になった久保田譲は、学制改革について次のような演説をした。

此本年に於て学政を改革を致されたならば、本員が先刻希望して述べた所の程度組織に於ける所の大学と云ふものに認めて、我々も賛成を致すのでありますから、之を成立の暁に其主意を以て、成立致すことを希望するのであります。それから又此経費の多端な時であり、数千の学生と云ふ者が高等の教育を受ける途がないと云ふので、甚困つて居るときでありますからして、旁々私立学校で二、三の専門学校は是亦大学と認めて宜しいのであらうと思ふ。例えば三田に在る所の慶応義塾、早稲田に在る所の専門学校、小石川に在る所の女子大学、其他二、三の法律学校は矢張大学の程度と認めて、大学に準じて特典を与へることの出来る学校もあらうと思ふ。さう云ふやうに致したならば、大学の全国に配置する所の区域等も略々定つて、遠い将来は分りませぬが、五、六年、十年位は、それで以て大学の配置も足りるであらうと思ふ。

(『大日本帝国議会誌』第五巻 一二七八頁)

 すなわち久保田は、有力な二、三の私立学校を大学に昇格せしめ、官立大学の欠を補い、向学青年の希望を満たしたいと提言したのである。ところで第一巻に記した如く、我が学苑は、既に三十三年二月七日の臨時評議員会で大学部設置を決議し、これに伴う資金の募集運動を逸速く展開し、久保田が如上の提言を行った三十五年には、翌三月校名改称・学則変更の件を文部省に出願し、七月十二日の社員会および評議員会では、「来ル十月、本校創立二十週年記念会及大学開校式ヲ行フコトヲ決定ス」(『早稲田大学沿革略』第一)と定めた。

 大学昇格はもとより本校自体の願望であったが、また別に校友達の永年に亘る希望でもあった。私立学校では学校と校友とはまさに表裏一体をなすものであり、かかる世紀の祭典を祝う行事は、独り学校のみがなすべきことではなく、全校友と喜びを分ち合うのが当然であった。そこで七月十六日、すなわち東京専門学校第十九回得業証書授与式の翌日、東京芝公園内の紅葉館で定例の校友大会が催されるのを機会に、来たる十月早稲田大学開校式ならびに記念祝賀会を催しこれとともに全国の校友に檄してその大会を東京に開くことを提言し、更に式典のための準備委員十五名を校友会側からも指名することに決した。九月二日、文部省より東京専門学校を早稲田大学と改称する件が認可されたことは、前にも記したように前巻に既述した通りである。

 なお、これに伴い、

明治二十六年司法省告示第九十一号中東京専門学校ハ明治三十五年九月二日私立早稲田大学ト改称セリ

明治三十五年十二月十三日 司法大臣 男爵 清浦奎吾

(『法令全書』明治三十五年告示)

との「司法省告示第八十七号」が発せられた。これは、二十六年十二月十四日「司法省告示第九十一号」の判検事登用試験受験資格付与の指定学校の名称変更にほかならない。

 そこで校友会側でも九月九日に神田今川小路の玉川亭に第一回準備委員会を開いて協議したが、更に学校側とも具体的に打合せをする必要が生じたので、越えて十五日に第二回委員会を開催することを定めて散会した。この間新学年の授業が開始されたが、その初めの日十五日には学生一同を大講堂に集め、高田学監は東京専門学校から早稲田大学に改称したことに関しての学校当局の方針と、学生への訓示を次の三点にまとめて述べた。

 第一点は設備についてであり、「設備は尚ほ甚だ不完全にして、講堂・教室の建築を完了することも未だ急に望むべからず。……然れども此不完全なる点は重もに有形上の事に限り、無形上の事に関しては強ち諸君をして不完全の感を抱かしめざらんことを期し、殊に諸君が研学の一大利器たる図書館、閲覧室は工事日ならずして竣成すべければ、諸君が日常研鑽の上に於ては、諸君は必らずしも慊らぬ思を為さざるべし」と不完全な点を学生に釈明しつつ、現在進行中の建造物の意義を強調した。

 第二点は開校式祝典の予告であり、第三点は教育方針に関するもので、各部の方針について詳細に訓示した。すなわち大学部には、「大学組織に在りては総べて諸君が自主的に研究することと為さざれば、大学の大学たる所以は毫も存せず。……大学部の諸君は、諸講師を参考者とし必らず自から修養し自から研究するの覚悟を以て事に従はざるべからず」と自主的研鑽を要望し、専門部には、「東京専門学校が早稲田大学と改称し新たに大学部を置きたるに就ては、或は専門部の組織を以て変則的となれりと思惟する者あらんとの恐あ〔り〕。然れどもこは大なる誤にして、若し強ゐて正則変則の事を言ふとすれば、邦語を以て学問を研究せずして外国語を以て学問を研究するこそ却て変則と謂ふべく、今日の如く既に充分邦語を以て政・法・経済の諸科目を研究し得る日に於ては、邦語を以て学問を研究したればとて、決して変則呼ばはりすべからざるなり。……尤も広く研鑽し普ねく攻究する上に於て外国語の力に須つべきは勿論なれば、専門部に於ても、特に英語の課目を置き、英語を理解する途だけは予ねて設備しあれば、若し強ゐて大学部と専門部との優劣を求むれば、只だ第二外国語たる英語以外の仏・独・清語等の点のみに在るべし」と専門部における邦語教育の特質を述べ、且つ外国語教育の必要を付言した。また一部の専門部学生には、「専門部中の文学部は遠からず高等師範部と改称せんとす。此処を卒業したる者は中学校等に教鞭を執るの資格を得る者なれば、同部の諸君は、将来に於ける我が活動的国民を養成すべき大任を負へる者なり。故に成るべく死学問を為さざることに留意し、活潑飛躍の国民を養成することを以て其天職を為さざるべからず」と高等師範部と改称される日の近いことを語り、生きた学問を追究せんことを請い、更に高等予科には、「高等予科の諸君に対して注意すべきは、言ふまでもなく同科は早稲田大学に入る唯一の階梯たる者なれば、早稲田大学の成功すると否とは、一に同科諸君の肩頭に在りと謂ふも過言にあらざるべく、諸君は自から顧みて其責任の重大なるを思ひ、必らず孜々学に勉めざるべからざるなり。而して高等予科の修学期間を三年と為さずして一年半と為したるに就ては、或は消極的の組織なるかの如くに思惟する者あらんも、こは大なる誤りにして、徒らに岐多くして羊を亡ふが如きことを為すよりも、寧ろ簡略にして要を得たる組織を選び、以て緊要科目のみを授けなば、其結果は決して三年の長日月を費す者に劣らざるべしと信ずるなり」と今後の本学苑の盛衰の鍵を握るものであることを諭すとともに、修業年限を一年半とした所以を説明した。最後に全学生に、「将来此学校の責任は益々大なるべく、之れが学生たる諸君も亦た益々奮励以て我校の名誉と一身の発達を期せざるべからず。他の学校に対して反抗的態度を取り、軋轢擠排の風を生ずることは、毫厘も之れあるべからざるも、互に相競争して業に励み術を磨くことは、大に之を望まざるべからず。大学部の諸君は東京帝国大学・京都帝国大学、文学部の諸君は高等師範学校、専門部の諸君は他の私立法律経済専攻学校の学生に対し、高等予科の諸君は高等学校の学生に対し、それぞれ優るとも劣るなきことを期するに至らんこと窃かに切望に堪へざる所なり」と鼓舞した(『早稲田学報』明治三十五年九月発行第七四号「早稲田記事」四六三―四六五頁)。

 これを承けてその夜玉川亭で学校ならびに校友会の打合せ会が行われ、本校からは鳩山校長、高田学監、坪内、市島、および田中幹事、校友会からは斎藤和太郎、並木覚太郎、永井一孝、中島半次郎、細野繁荘、田村三治、五十嵐力が出席し、記念会および開校式の順序方法、十月二十一日の創立記念日(その後、十月二十日が創立記念日と考えられるに至ったが、更に再び十月二十一日に改められた経緯については、第三巻に記述する)を十九日に繰り上げて式典・提燈行列を実施すること、二十日および二十一日の二日に亘って学術大演説会を開催し、二十日には校友祝宴会を開催すること、更に、大隈以下の功労者に肖像画を贈呈し、記念葉書を製作して来賓に頒布すること、本学苑史たる紀念録を編纂すること等を決定するとともに各種準備委員を選定した。因に紀念録編纂委員には、山沢俊夫、昆田文次郎、坪谷善四郎、円城寺清中島半次郎が挙げられたが、実際に筆を執ったのは、山本利喜雄(主任)、五十嵐力、種村宗八、永持徳一、佐藤三郎、水口鹿太郎であった。

二 開校式

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 著名な神社仏閣の前に門前町ができるように、有名校の周囲にも学校町が形成される。茗荷畠を指呼のうちに見た我が校の周辺にも、いつしか屋並が建ち始め、幾つかの町が造成されて行った。鶴巻・戸塚・馬場下・喜久井町から弁天・矢来・天神・山吹町など、多少なりとも学苑の恩恵を受けないものはなかった。それらの町民は学苑と常に悲喜を共にし、特に創設者大隈とは、父子に似た関係さえ感じていた。このことは、山吹町より鶴巻町を経て戸塚村に達する早稲田新道一キロメートル弱の開通式を開校式と同時に行い、大隈はこれに招待されて「今回の新道は大学道といひても然るべく」と挨拶している(『報知新聞』明治三十五年十月二十日号)ことからも察せられる。東京専門学校が大学に昇格することは、付近の町民にとっては学苑関係者と同様に大きな喜びであった。それは将来町々の繁栄を招来する有形無形の利益が約束されるからでもあったろう。それ故に各戸はこぞって国旗を掲げて祝意を表し、わけて矢来・鶴巻両町は大国旗を交叉し、馬場下・喜久井町には緑門を設け、特に神楽坂下には紅白の縁を取った大行燈に「早稲田大学開校式」と大書したものを街頭に掲げ、さながら祭礼を思わせるものがあった。

 先記したように、十月二十一日の我が学苑の創立記念日を、今回は創立二十周年を記念するとともに、早稲田大学開校式を挙げるため、できるだけ多くの人々を集めんとし、その臨席の便を計って十九日の日曜日に繰り上げた。ところが前々日の十七日は大雨、十八日は細雨で、この日の挙式については大いに天候が懸念されていたが、幸いにして記念式当日は、一天隈なく晴れ渡り、一片の雲もなく、学苑を包む杜は、常緑の木々の間に黄金を鏤めたような楓櫨の装いも美々しく、今日の良き日を寿ぐかの如き情景を呈した。既にして中央校庭には七千人を収容できる約八百坪の大天幕が張られ、その内部の中央に一段高く演壇が設けられて両側に棕櫚と竹の大盆栽を置き、来賓、講師、校友および学生の席を準備した。更に本校の正面には大緑門を作り、その上に「粛邀」の二字を金文字で表した額を飾り、門の両側の生垣は紅白の幔幕で覆い、晴れの装いをこらした。

 当日は午後一時開式の予定であったが、午砲響く頃から来校する者が多く、門外は忽ち車馬を以て埋め尽された。定刻三十分前先ず第一鐘を合図に学生が入場し、以下左記の順序で式が進められた。

 先ず校長鳩山和夫は、エール大学名誉法学博士の礼服・礼帽を身につけて壇上に登り、大隈伯および同夫人が我が校を保護援助した功績を讃え、次いで高田・天野・坪内三博士の功労に敬意を表し、最後に我が学苑が社会の同情と理解を得てますます健全な発達を遂げんことを願って降壇する。次いで高田学監が登壇して創立以来の歴史を述べ、更に組織を変更して大学とする理由として、次の如く内外の事情を説明した。

一は学校内部の事情よりして大学組織の止むを得ないと云ふ事、他の一は外部の事情よりして大学組織の止むを得ないと云ふ事である。内部の事情とは如何なる事かと申しますれば、邦語のみを以て専門学を修める事にしますると、中学卒業生を其儘収容して之を教授しても敢て不都合を感じない訳でありますが、学の蘊奥を究めんと欲するものは、只其国の国語のみを以て学問をなして足れりと云ふ訳のものではない。少なくとも一国若くは二、三ケ国の外国語を修め、外国の書物を渉猟すると云ふ必要がある。此事をさせますには、是非共中学を卒業した者に向つて、多少の準備をさせなければならぬ。専門学を修めるに至るまでに、多少の階梯を踏ませなければならぬ。尤も従来と雖も、英語政治科の方は全く階梯を履ませない訳ではありませぬが、半年若くは今少しの時間を与へまして準備をさせたのでありまして、どうもそれでは十分の結果を得られない。少なく共一年半の準備をなさしめるを要する。依て高等予科と名付けて大学に入るの準備をさせる仕組を立てる事に致しました。……此外に外部の事情に刺激されました理由が一つあります。夫は如何なる事であるかと申しますると、今日中学の数は年々歳々増加して、従つて其卒業生も殖へて参つたが、此卒業生が往つて学ぶに所が少ないと云ふのが、諸君の多数が御承知である通り今日の状態である。国家の高等教育に対する設備は、種々の事情よりして今日はまだ不完全であると云ふ実況、此高等教育を修めんと欲する中学卒業生の数は年々増加して、而して是等は年々歳々高等学校の門を窺つて入る事を得ず、遂に方向に迷うと云ふ姿で、此有様は到底見過す事の出来ない実況でありますから、私立学校ではありまするが、聊か力を爰に致して国家教育の御手伝ひをしたいと云ふのが、即ち此大学組織の止むを得ない外部の事情であります。

すなわち内部の事情とは、学問の精髄を究めるにはその前提として外国語の修得を必要とするが、今回大学部への階梯として設置せられた高等予科でこれを履習せしめることにしたということであり、外部の事情とは、増加する中学卒業生を受け入れるためということである。続いて、高田は本大学の特色を次のように指摘した。

一は組織の上の特色である。それは何でもない事でありまして、成るべく科目を少なくすると云ふ事、就中、学年限を短かくすると云ふ事である。殊に大学に這入るまでの階梯の道、所謂高等予科、即ち政府の学校で申しますれば、高等学校に当るものの時間を短縮するを、一の特色として試みる積りである。……今一つ特色として成るべく左様ありたしと希望しますは、如何なる事であると申しますると、学理と実際の密着とでも称す可き事である。即ち我々は此学校を成るべく実用大学たらしめたいと云ふ考を持つて居ります。

すなわち、組織上高等予科を短期(一年半)とし、内容上実用的学問を主とすることを宣言して、実用的学問を修めた学生は模範的国民となるだろうと述べた。これは東京専門学校創立以来の目的であったのを、更に早稲田大学の目的としようというものであるが、

二十世紀の陣頭に立ちまする人物は、実用的人物であらねばならぬ、英雄豪傑は実用的英雄豪傑でなければならぬと、斯様に私共は信じて居る者である。左れば此学校よりして将来出づべき所の人々は、成るべく第一流の人物となつて、而して国家の需要を充すやうにありたいと考へます。即ち遠大の思想を抱く人の数多出でん事を希望します。彼の疎大なる考を持つ所の者、実用に遠い人間の出る事は、我々の決して好まざる所である。 (『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』 一五―二二頁)

と、実用的であり、且つ遠大な思想を持つ人間を以て、二十世紀において期待される人間像と規定したのであった。

 次いで大隈重信が登壇し、本学苑二十年の歴史の重みを聴衆者に言い伝えるとともに、「学問の独立」について、

之は二十年前に突然考へたと云ふ次第ではない。従来吾輩は一の素論を持つて居つたのである。即ち国民の意志が、常に政府の意見と同一になると云ふ事はないのである。或場合に於ては政府の意見と国民の意志と背馳する事もある。若し此教育と云ふものが、一の勢力の下に支配されて居れば、或は国家の目的を誤つ事がありはしないか、之は一の杞憂である。併乍らあらゆる勢力から離れて学問が独立すると云ふ事は、或は国家に貢献する上に於て大なる利益ではあるまいか。殊に此の如き学校が盛んになれば、自から官立・公立の学校にも多少切磋琢磨の利益を与へはしないかと考へたのである。

(同書 二五―二六頁)

と説明し、それを国家生存に有益と看做すという確固たる見解を披露し、更に異国文化の摂取の手段たる外国語からの独立という一面をも付加した。そして小野梓を追懐した、「小野君をして席に列せしめたならば」の一語により、聞く者をして涙を催させた。また二十年間の苦労を共にした高田・天野・坪内の努力が今日の盛姿を実現せしめたと述べ、大学の繁栄には更なる寄附金の必要なことを強調しつつ、これまでの基金寄附者の厚意に感謝した。

 続いて校友総代山沢俊夫、文部大臣菊池大麓の祝詞(松村茂助文書課長代読)があり、何れも恒例の麗辞に終ったが、日本銀行総裁山本達雄は、世界経済の現況を説き、東洋ならびに日本の経済界の傾向を論じ、実業界の進展の急務であることに言及し、そのためには心身共に強靱な人材を多く必要とするが、そうした人材は大学教育によって育成されなければならないと結び、専門的な立場から学校教育の意義を論じて余すところがなかった。

 次いで元帝国大学総長加藤弘之が立ち、欧米諸大学の創立の由来を述べ、早稲田大学は今文科大学および法科大学という形をとったが、将来理科および医科などを併設した総合大学にまで発展するようにとの希望を述べて降壇した。

 最後に侯爵伊藤博文が特に大隈の招待を受けて出席したとして祝辞を述べている。かつては大隈の政敵として陰に陽に圧迫を加えた彼が、今や大隈畢生の事業の一つである大学の開校式に、特に駕を枉げて出席し祝詞を述べるという心境の変化は、一体何によるものなのか。前章に説述した我が国政界の勢力圏の変遷も考慮に入れなければならないであろう。しかしそれはともかくとして、伊藤は本学苑の敬服すべき点として、次のように三点をあげた。

当校の隆盛を致したのは、其基礎を鞏固にするに就て、学校の経済其宜きを得たといふ事が与つて大いに力のあつたものと存じまする。今や経済上の関係は、国家に於ても教育・社会に於ても官民共に最も注意を要する時と存じます。教育に就ては、極手短にいへば、成るべく無用な費用を省いて、有効なる教育を施さねばならぬと云ふ事は、官民共に深く注意を加へて往かなければならぬ所と信じます。而して本校の如きは二十年来一厘一毛の官費を仰がずして、其隆盛を致すと同時に、絶へず怠らず改良を加へ、終に今日の盛大を見るに至り、益々基礎の鞏固となり行くは、実に人をして一驚を喫せしむるに足る者があると信じます。……

又之と同時に東京専門学校の教育は、従来営業的に流れて居ないと云ふ事を確かに認める。其設備と申し、其経済の基礎と申し、私立学校中に於て甚だ稀に見る所と存じます。之は大いに世上の教育に従事する人々が参考に供するに足るものがあると認める。

次に一言すべきは、此東京専門学校を以て政党拡張の具となさんとするものの如く誤り見たるものが多いと云ふ一事であります。これは大隈伯爵の識量を誤認したものと認める。大隈伯爵は政治・教育共に熱心であるが、素より政治と教育の別を知つて居られる。学校教育の事業は之を政治の外に置き、教育機関を濫用して党勢拡張の具とするの策は、断じて取られなかつた事は明かに認める。これは世の中の具眼の人は分つて居るか知らぬが、多くは之を誤解して居つた。

(同書 五〇―五一頁)

そして我が学苑に対して、学問のための学問ではなく、社会へ目を向けて研究するよう希望して祝辞を結んだ。塩沢の言によれば、「その当時老侯はよく笑つて、『伊藤もとうとう降参して懺悔演説をしたよ』と言はれたものであつた」(「非常時に際し大隈老侯を憶ふ」『早稲田政治経済学雑誌』昭和十三年十月発行第六一号八頁)というが、君子は豹変すというも、まことに鮮かな変化である。伊藤の引出しに一役を買ったのは高田であるが、この相談を受けて「出来る丈け遣つて見よ」と異論を唱えぬのみか、大いに彼を激励した大隈も流石である。この間の事情を高田は次のように述べている。

私は或時伊藤侯を訪問して、早稲田学園の過去二十年間の経営の苦心や、たとひ一個の私立学校に過ぎないとしても、少くとも国家の教育に相当な手伝をしたに相違ないから、一臂の力を添へて頂きたいと話込んだのである。元来、明治年間の歴史其物が証明する如くに、大隈伯と伊藤侯とは、伯が明治十四年に辞職する時迄同功一体の人と言つてもよい位な親密な関係であつた。そして此両偉人と井上侯とは、築地の梁山泊に立籠つて守旧主義や保守主義の人々と闘つて、明治の新天地を開いたと言つてよいのであるから、一たび私が行つて話をすると、伊藤侯は案外に打解けた態度を取られ、懇ろに大隈伯の近情を問はれたのみならず、大隈伯の教育事業には窃かに敬服して居るといふ言葉さへ洩らされ、其事に二十年関係して居るといふ廉で、私の熱心をも認められた結果、自分は貧乏だから沢山な金を出せないが、とにかく真先きに帳面へ付けようといふ事で、即座に五百円といふ寄附をされたのである。そこで私は味を占めて此の開校式の前に又伊藤侯を訪問して、「是非当日祝典に臨んで祝辞を演べて下さい」と言つた処、それも快く承諾されたのである。 (『半峰昔ばなし』 三八四―三八五頁)

 伊藤が、過去二十年間、東京専門学校に加えた有形無形の圧力を知っている人々は、伊藤の祝辞を聞いて感慨一入深いものがあったに相違ない。政治家肌の高田は、「学校教育の事業は之を政治の外に置き、教育機関を濫用して党勢拡張の具とするの策は、断じて取られなかつた」と大隈の姿勢を高く評価した伊藤の言葉を聞き、「此の演説は将来早稲田大学の歩むべき道を拡めた様な感じがしたのであつて、世間の誤解は之が為に解けたと言つても宜しい」と大いに喜んでいる(同書三八七頁)。これに対し経理で苦労した市島は、「公は本校を評して、私学は多く営業的であるが、此学校はそれとは選を異にしていると頌し、私学の最も困難とするは経済の料理である、よくも百難を凌いでここに至つた。畢竟経済の料理宜しきを得たからで、これは官学の及びもつかぬ事で、よろしく学ぶべき事だと喝破された。流石に伊藤公は慧眼で、学校の経営家が最も困しみ、言つて貰ひたいと思ふ所へ云ひ及んだ。私などは此演説を聴いて欣喜の情を禁じ得無つた」(『随筆早稲田』四八頁)と、感激している。聞く人によってさまざまであるが、列席の人達にそれぞれ深い感銘を与えたのは事実である。こうして以上の祝辞の後、鳩山は再び登壇して謝辞を述べ、午後四時半に無事式を終えた。直ちに来賓・講師・校友千余名が相前後して大隈邸(現在の大隈会館)の園遊会に向い、数奇をこらした庭園を散策し、大隈が丹精をこめて作った菊花を眺めつつ、盛大な立食の饗応を楽しんだ。当時在学していた後年の常務理事林癸未夫は、大隈と伊藤が「手と手をつながんばかりに肩をならべて、楽しげに談笑しながら〔式典会場から〕邸内に歩いて行」った姿を眺めた際の昂奮を、「学生生活の思ひ出」(『早稲田大学政治経済学部学友会々誌』昭和十四年一月発行第四号三七―三八頁)中に想起している。

三 祝賀行列

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 大隈邸の園遊会が終ると、鳩山校長、高田学監をはじめ講師、校友は運動場に馳けつけ、既に出発の準備を整えていた学生達に加わり、延々四キロにも及ぶ世紀の大提燈行列が始まった。この行列は初め炬火を掲げる筈であったが、火災の危険を慮って提燈行列に改めたもので、尤も慶応義塾ではこれより十年程前に炬火行列に代えて、カンテラ行進を行っているが、この種の行列は、我が国では最初の試みであった。『万朝報』は、明治三十七年二月八日号で、対露宣戦布告前に行われた佐世保における提燈行列が「皮切」であったと報じているが、これが事実最初であるというなら、それより一年有半前に行われた我が学苑の提燈行列の方が、皮切りであると言わなければなるまい。それにしても暮るるに早い秋の夜空に、紅地に白く「早稲田大学」と染め抜いた数千のほおずき提燈が、或いは高く或いは低く乱舞し、光の列を流したのはまさに偉観であったろう。病後で行列には加われなかった市島が、この報を受けて矢も楯もたまらず、九段坂下に佇立し、折から暗い夜空に煌々と反映する人の波を望見して「歓喜の感に打たれて涙ぐましくなり、一時は茫然自失した位であつた」(『随筆早稲田』四九頁)と述べているのも、決して大げさな感慨ではなさそうである。

 この五千余名の行進の総指揮者は安部磯雄であった。第一陣は中学校(「部長」坪内)・実業学校(同天野)、第二陣は高等予科(同田中唯一郎)、第三陣は政治経済学科(同高田)、第四陣は法学科(同鈴木喜三郎)、第五陣は文学科(同浮田和民)、第六陣は講師・校友(同鳩山)という六つの部隊から成り、各隊の先頭には楽隊がつけられた。

 各隊は、手に手に提燈を掲げ、このために新たに作られた行進歌を、いわゆる「四百余州」と言われる「元冦の役」のメロディーに乗せて声高らかに歌いながら、都の西北から、目抜き通りを縫って皇居前まで行進して行った。

煌々五千の炬火は 城西の天を燬き

今ぞ立ち出づる 早稲田の健児隊

東洋君子の国に 真個の学徒あり

学の独立を 屹然標榜し

主義は活動進取 学理と応用と

校気忽ちに 天下を風靡して

進む二十の秋を 重ねし心地よさ

名実備はれり 早稲田の大学と

時は聖代秋は 今正に闌に

星火天にあり 炬火亦地に満てり

来れ有為の徒 理想の火を掲げ

いざや声揚げて 世界に呼号せん

五千の若人が斉唱のどよめきに、町並の人達も歓呼してこれを迎え、これを見送るのであった。地元の鶴巻、山吹、弁天、喜久井、馬場下の各町も、朝から花車を引き回し、爆竹の音を響かせて祝意を表し、夜は軒ごとに行燈をともして共に喜び、沿道の商店もそれぞれ趣向をこらした歓迎陣を張った。その一、二の例をあげると、小川町通りを通過する時、各書店は店名を記した提燈を持ちながら「早稲田万歳」と唱え、新石町の二六新報社前では、「早稲田大学万歳」と大書した四間大の掛行燈に、国旗と珠燈を飾付け、社の楼上では社長以下社員が桃色の手巾を振って一行を歓迎した。また、この行進を一目見ようとした観客も非常に多く、万世橋より押し寄せた見物客は、馬車鉄道線路を塞いだために、馬車は一行の通過まで停止せざるを得なかった(『報知新聞』明治三十五年十月二十一日号)。このような沿道の熱烈な歓迎は、いたく学生を感激させた。

 一行が二重橋前に到着したのが午後九時半で、鳩山校長を中心に皇居に向って整列し、万歳を三唱して解散し、ここに無事第一日の幕を閉じたのであった。

四 校友大会

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 開校式の翌二十日午後五時から帝国ホテルで全国校友大会が開かれた。会する者三百名。定刻先ず校友会幹事総代斎藤和太郎が開会の辞を述べ、感謝頌表ならびに肖像油絵を、大隈重信南部英麿前島密鳩山和夫高田早苗天野為之坪内雄蔵の七名に、感謝頌表を、秀島家良田原栄小川為次郎市島謙吉山田一郎砂川雄峻平田譲衛、今井鉄太郎の八名にそれぞれ贈呈した。

 これに対し大隈重信は感謝の意を表したが、その中で、「創立以来の得業生、所謂今日の校友会と云ふ者が、此の大学の保護者となり、十分に力を致せば、此の大学は愈々盛んになる」と校友を鼓吹するとともに、「校友会諸君は大学に対しては決して講師諸君に譲らない所の間接の責任がある」と校友会の責務をも述べることを忘れず、更に「縁の下の力持をして私は力んで居る」と自己の立場を明らかにした後に、大隈らしく、大講堂ないしは校友会館の建設という遠大な構想を披瀝した。

将来は此の早稲田村が段々発達して一の学校区となり、学校区が出来れば自から俱楽部も出来、校友会の大会なども此の如きホテルでやらずして、校友会の大いなる俱楽部の建物の中でやる様にして、そうして数百人、数千人の人が集まり、又た昨日の如き大いなる儀式の時には、何万人と云ふ人が集まるやうになりたいと思ふ。さう云ふ時にはそれを入れる所の大いなる建物も出来るに相違ないと私は信ずるのである。 (『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』 七四―七五頁)

 これに続いて感謝頌表ならびに肖像油絵を受けた前島密以下数氏は交々立って簡単ながら感謝の意を表し、また講師を代表して今村信行が挨拶を述べた。かくて主客共に歓を尽して散会したのは午後九時を過ぎていた。

 翌二十一日午後三時芝公園紅葉館で校友招待会を開いた。これは早稲田大学開校ならびに東京専門学校創立二十周年の記念祝典が挙行されると聞き、全国各地から急遽上京した校友が二百数十名にも及んだので、遠来の誠意・熱情に報いんがため、学苑および在京校友が主となり、これらの人達を招待したのであった。当日参会した人数は五十七名、これに主催者側四十一名を加えて、合計九十八名であった。学監高田早苗が簡単に開会の挨拶を述べ、これに応えて来賓代表砂川雄峻が感謝の意を表したが、主客共に胸襟を開いて相談じ、互いに献酬し、夜の更けるのを忘れての交歓は、午後十一時まで続いた。

五 記念講演会

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 十月二十日および二十一日の両日、校友記念学芸大演説会を早稲田大学構内なる開校式場に開いた。演説者および演題についてのみ述べると、二十日の分は、

早稲田大学と立憲政治 校長 法学博士 鳩山和夫 学問の応用 講師 法学博士 天野為之

学生諸君に告ぐ 講師 法学博士 有賀長雄 破産の原因 講師 法学士 松岡義正

日本の新聞事業 校友 斎藤和太郎 経済思想の養成 校友 森田勇次郎

十三年前の寄宿舎 校友 宮川銕次郎 小農民の苦痛 校友 円城寺清

全国入学者の一便法 校友 西川太次郎

二十一日の分は、

早稲田大学の未来 学監 講師 法学博士 高田早苗 忍耐と成功 講師 文学博士 村上専精

古今東西人情同一意 講師 今村信行 富籤勧業を論ず 講師 文学士 土子金四郎

私法上より兌換券の性質を論ず 講師 法学博士 志田鉀太郎 早稲田の二十年 校友 黒川九馬

早稲田大学の本領 校友 田川大吉郎 経済界より見たる早稲田大学 校友 増田義一

単一税の利害如何 校友 牧内元太郎 教育上より見たる普魯西の勃興 校友 中島半次郎

数理の思想 校友 上島長久 (『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』 八五―八六頁)

であった。この学芸演説会は、増田義一円城寺清、羽田智証の三校友委員が斡旋したものである。この演題から分るように、学問ないし大学論は言うに及ばず、政治・経済・社会問題、はては入学案内と内容は多彩を極めたが、決してお祭り騒ぎの講演会ではなかった。演説会は午後一時開会、午後六時閉会、聴衆は両日共に二千名を超え、静粛に傾聴しながらも、拍手喝采を忘れなかったと記録されている。

 さて早稲田大学は、「帝国文化の開発に貢献すべきは、独り官立学校に限るべきにあらず。私立学校も、亦大に其貢献に与かるべき」(『教育時論』明治三十五年十月二十五日発行第六三一号四一頁)との官学・私学並立論、および、「我国運の進歩は既に十年以前より私立大学の設立を要求せり」(『読売新聞』明治三十五年十月十九日号)との私立大学設置要望論という時代思潮を背景として、開校したのであり、「学問の独立の為めに之を賀す可し。人民の勢力の為めに之を賀すべし」(『報知新聞』明治三十五年十月二十日号)と、教育界のみならず一般社会からも、並々ならぬ関心と歓喜を以て迎えられた。すなわち、東京専門学校創立以来「学問の独立」をモットーとして鋭意研鑽してきた我が学苑は、遂に「早稲田の学風は天下を動かせり。其の成績は既に社会に認識せられたり」(『太陽』明治三十五年十二月発行第八巻第一五号三八頁)と、その学問的成果を認められるとともに、「看よや、創立以来二十年の日月、社会は如何に彼れを冷遇し、如何に虐待せしか。然れども其の万難の中に端座して、隠然の光明を眺めたるは此の校なり」(『太平洋』明治三十五年十月二十日発行第三巻第四二号一二五頁)と、本学苑に対する絶え間なき圧迫に屈することなく建学の精神を持続してきたことが評価されたのであった。しかし、このような世評は、ただ単に讃辞を呈して終れりとしているのではなく、期待と要望とを託していることを看過してはなるまい。例えば『六合雑誌』第二六三号(明治三十五年十一月発行)は、次の如く要望した。

帝国大学は文部の統一教育てふ覊絆に束縛せられて、多少自由の発達を為し得ざるの観あれども、早稲田大学は何等の束縛も情実もなきことなれば、教育上新機軸を出すに於ては恰好の地位に在るのである。世人が早稲田大学に嘱望するのも玆にあり、亦早稲田大学が将来大なる発達を為すのも玆に在りと言ふて差支はあるまいと思ふ。 (九頁)

官立と私立の拠って立つところの基盤の相違を認識した上で、官立では成し得ないことを私立で成就するのを期待したのである。これは、先に大学部を発足させた慶応義塾とともに早稲田大学が歩むべき道であるが、『読売新聞』が「エールとハーヴァトの対立して米国の大学教育を発達せしむる如く、余輩は三田大学、早稲田大学に向て各自特有の学風を発揮する」(明治三十五年十月十九日号)よう要望している如く、慶応義塾とも異った道とすれば、前人未到の道なき道を発見して進むことが、社会により我が学苑に課せられた課題となったわけである。