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第四編 早稲田大学開校

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第九章 清韓留学生と学苑

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一 清国留学生部の特設

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 学苑では、明治三十二年以来、清国留学生を受け入れ、その教育に当ってきたが、三十八年七月、特設機関として清国留学生部を設けることを内外に表明した。それは、清国政府が推し進める教育政策の変化に伴って留日学生が急増して行く事態に呼応した措置であった。

 そこで、先ず清国に目を向けなければならない。西太后政府が義和団事件(一八九九―一九〇一年)に対処を誤ったことは、欧米列強、それに日本による半植民地状況を一層熾烈なものにしてしまった。ために西太后は、国内外の自らに向う非難を緩和し、併せて清室の延命を策する必要に迫られ、かつて自ら打倒した戊戌変法の改革路線を継承する旨を言明し、その改革政策の一環として対日留学生派遣政策の強化・発展を図らんとした。清国政府は、目指す変法の成否が教育の近代化に左右されると判断し、教育制度の改革を最重要課題の一つとして群臣に諮った。管学大臣の張百熙・栄慶、湖広総督張之洞らは、それに応じて日本の教育制度などを勘案し、一九〇四年(明治三十七)一月、意見を連署奏進した。これが裁可を得て頒行されたのが「奏定学堂章程」である。ここに、旧来の科挙を軸に編成されていた教育体系が根本的に改められ、代って国民教育と実業教育の体系化を眼目とした、西欧近代的な新学制の制定を見ることになった。しかし、新学制という器はできたものの、それを十全的に運用すべき教員・学堂等の内容を直ちに充たすことは容易でなく、字義通り新学制が実施されるまでには、なおかなりの時間と経費が必要であった。そうした状態の中にあって、しかもなお教育の近代化改革は焦眉の急であったので、清国政府は普通教育(日本の中学程度)を日本留学によって補うことを、当面の便法として採用するに至った。その上、一九〇五年九月を期して科挙の全廃が予定され、次いで実行されたので、立身の道が学堂出身者に限られることを意味するに至り、留日学生の急増を誘い出す大きな刺戟剤となったし、更に日露戦争によって、優勢西欧・劣弱アジアというこれまで不動と思われた図式が微小にもせよ揺れ動いたことが、清国学生の来日に拍車をかけたのも言うまでもない。実にこの年は、次年と並んで清国留学生来日のピークであった。この間の有様を清国留学生部教務主任の青柳篤恒(明三八大政)講師は、「再び支那留学生問題に就て(続)」において次のように描いている。

学堂開かれ、昨日の科挙に代はりたりといへども、門戸狭隘、路径険阻、之を攀づる尤も難く、動もすれば徒らに学堂門前に低徊佇立して風雪の艱ます所とならむのみ。左りとて此儘に登竜門前を素通りせんか、一身の栄誉何に依つてか之を求めん。是に於て乎、無数有為学生は互ひに約束したらむが如く「右向け右へ」の歩調正しく、学堂門前を辞し、針路直ちに東を指さし、千里の遠きも何かあらん、潮の如く北は天津、南は上海、日本通ひの便船ある毎に、乗込まむとしては、他人に機先を制せられ、満員となりては断わられ断わられ、便船二、三杯目にヤットコサにて船室の一隅に跼蹐するを厭ふ余裕もなく、東京へ東京へと詰めかけ来るなり。見よ支那学生の東航せんとするに急なる、東京各学校の学期、学年にも一向お構ひなく、学年の中途にて入学拒絶に遇ふも顧みず、一時一刻も早く東京に乗り込まむと熱中するの実状を。

(『東京朝日新聞』明治三十八年十一月十三日号)

 本来清国政府が施すべき普通教育を日本に赴いて受けるこのような特殊な留学生は、その数八千とも一万とも言われ、速成を期する者が多くを占めていた。これに対応する形で、日本では東京を中心にまさに特殊な、留日学生のための速成教育機関の簇生林立が目立ち、そしてこれら速成学校の間に、「A校において一か年でおしえるといえば、B校では八か月でおしえる、C校では半か年で、という風に、競争的傾向」(さねとうけいしゅう『増補中国人日本留学史』八三頁)が生れるまでに至った。これらは、「学店」「学商」と留日学生から軽蔑されていて、極端な例に属しようが、三十七年に法政大学が特設した法政速成科ですら、「中国人留学生の大量受入れ」は、当時直面していた「法政大学の経営難を一時的にふき払った」(『法政大学八十年史』五三頁)と言われるように、一般に速成学生の教育は、私立学校等の経営を大いに潤すところがあったのは否定できない。留日学生が増加するにつれて、このような射利を目的にする速成教育の弊害も、比例して酷くなって行ったことは言うまでもない。本学苑では、三十五年秋、数名の清国留学生が学苑当局に向って速成科の設置を懇請したのに対し、これを謝絶したことによっても首肯されるように、速成教育を拒否する立場を堅持していた。因に、法政速成科は、この留学生達が転じて法政大学総理梅謙次郎に請願して容れられたものである(『新民叢報』明治三十七年二月発行第四六・四七・四八号「学界時評」一頁)。こうした立場を執る学苑の中でも、青柳は特に清国留学生教育界の悪弊を先見し憂慮する人士の一人であった。

 青柳は、既に「明治三十六年も早や暮れなんとする師走の末つ方……一夜、高田学監を目白の邸に訪ひ、齎らせる清国留学生教育に関する建白書を呈」していた。そしてこの「建白書」こそ、「実に清国留学生部創設の動機」となったものだという(『早稲田学報』明治四十年十一月発行第一五三号三一頁)。とすれば、青柳は、清国留学生部特設の提唱者であり、そこにおける基本的な教育理念、或いは指導方針といったものも、彼の清国留学生教育観、つまりその集約としての「建白書」に基づくところ大であったと言えるだろう。ただ現在、この「建白書」を目賭し得ないのは遺憾この上もないが、恐らくその基調をなしていたであろう教育の指標については、青柳が『東京朝日新聞』(明治三十八年七月十七日号)に投じた「支那留学生問題」を一瞥することで補えよう。

頃者都下数多屈指の諸黌、支那学生を収容教育するの施設をなすもの鮮なからず。多くは皆著名教育家の設立に係り、渠等を誘導する熱心に、渠等を迪訓する認真・的切、満悦の至りなり。而かも渡来学生の数一たび多きを加ふるや、諸黌に与ふるに一種の刺激を以てし、有体に云へば近来少しく濫教育の嫌ひなきにしもあらず。余の緘黙言はざらむと欲するも能はざる所以の者、実に玆に在りて存す。支那学生にして我邦に遊学する者、動もすれば速成を主とし、渠等の教育に与れる我邦先輩にして尚且速成の必要を説く者あり。是れ余不敏断じて解す能はざる所のものなり。請ふ少しく気を下して清国の未来を推考せよ。夫れ清国は清国人の清国なり。清国子弟の教育は、早晩清国人自ら之を為さざるべからず。惟だ其れ清国人躬親から其子弟を教育することを得、学問の独立是に於て乎在り、国民教育の大本是に於て乎存す。渠等清国留学生多くは皆速成を主とし、外に在りて螢雪の功を積むこと僅に一年半歳、其得る処幾何もなく、芽出度業成り卒業証書を握りて揚々帰郷の途に就くとも、子弟の教育は独り親から之に当るべくもあらず、依然外国教師の力に是れ頼る。夫れ然り、所謂学問の独立なるもの那辺に在る。清国国民教育の大精神なるもの何れの日にか之を求めむ。是れ余不肖が区々の微衷、清国子弟の為めに、清国の前途の為めに、日清両国和親の為めに、将た東方の大局の為めに、一たび思を致す毎に常に長大息して憂へざるを得ざる所也〓。清国今や奏定学堂章程成り、統一せる学制を満天下に普及せんとす。其教師を需むるに急なるや固より宜なり。……苟くも日清両国廟堂の諸公、及び在野敢為の有志、清国の為め、日本の為め百年不変の大策を画せんと欲せば、渠等我邦在留の清国留学生をして速成を主とするを止め、十年二十年気永に腰落付けて新学の研鑽是れ努め、完全有用の人材たるを期図せしむるに如くはなきなり。

 青柳は、当時の清国留学生教育界を見渡して、その主流を占めていた速成教育が、実は「濫教育」以外の何ものでもないと憤慨を禁じ得ず、速成教育の即時停止すべきことを訴えずにはおられなかった。このような速成教育の是正という視点が、先の「建白書」にあっても主たる骨子を成していたに違いなく、とすれば、青柳の視点の根抵に、「支那留学生問題なるものは、啻に清国の問題にあらず、又た日本の問題なり。啻に教育界の問題のみにあらず、又た日清両国の前途に関せる国際間至大の問題なり」という認識が横たわっていたことに注意を払っておかなければなるまい。かかる認識に支えられていた青柳の清国留学生教育観は、清国留学生部の教育に一定の傾斜をもたらさずにはおかなかった。この傾斜については後述するところがあろう。

 さて、青柳の「建白書」はその後、高田学監をして、学苑では「支那の学生が……始終三十人四十人の人は来て居るけれども、併しながら学校が特別の準備をして此人達を教育したと云ふのでない。外の学校で語学や普通学を習つた人が自然と此学校へ来られて、さうして……日本人同様の教育を受けて居たと云ふ訳である。学校の方では此人達に対して特別の設備は一切しなかつた。……所が、時勢は中々さう云ふ事を何時までも許さないので、今日で三千とか四千とか云ふ多数な学生が段々支那からやつて来る。又大局の上から考へても多少余裕があれば支那人教育に手を出すことは、教育を以て任ずる者の一の義務であると云ふことになつて来た」と判断させ、「清国留学生部を開くことに極め」させるに至った(『早稲田学報』明治三十八年九月発行第一二二号二頁)のであるが、清国留学生部の開設を決意した学苑当局は、三十八年三月末から約七十日に亘って、高田と青柳とをあらかじめ清国の教育事情視察の途に上らせた。

清国留学生部なるものを開き、早稲田大学位な程度の学校に今後支那学生を入れる主義を取ることになれば、学生の集まるは言ふを待たぬ。此頃は一便船毎に沢山来るのであるから、学生の集まると云ふことは、之は言ふを待たぬ話だ。態々支那まで出掛けて往つて学生を募集する必要は毫末も認めない。然し苟くも此清国の学生を預つて教育をすると云ふ事になつて見れば、学校の当局者が支那と云ふ所はどう云ふ所であらう、支那の風俗・人情は凡そどんなものだらう、学生を送る所の先輩は如何なる考を持つて居るだらう、と云ふ位な事を研究して置かぬ、見て置かぬ、聞いて置かぬと云ふ事であつた日には、確とした方針が立たぬ。其見当を立てる為めには、玄関口で御免蒙つても先づ支那大陸の漫遊位はして置かなければならぬ。

(同誌同号 二頁)

とは、高田学監が清国の教育事情視察の目的について語るところである。約言すれば、この視察は、近く開設する清国留学生部における教育方針の確定に資せんとするためのものであった。高田・青柳は、三月三十日上海に着港して六月十日に大連を出港するまで、福州・蘇州・杭州・南京・漢口・武昌・長沙・天津・北京などの主要都市を巡歴し、これら各地の学堂を視察する一方、管学大臣の張百熙をはじめ中央・地方官界、教育界の要路にある多くの人士と面談の機会を持ち、種々意見を交換した。その中でも直隷総督袁世凱と湖広総督張之洞との面談は殊に有益であったもののようである。なお、これらの視察・面談に際し、『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』を贈呈して学苑の紹介も忘れなかったことを付け加えておこう。こうした視察と面談を通じて得られた一定の見通しに基づいて、帰国後高田は、清国留学生部の組織・編成を青柳に委ねた。これを承けた青柳は、当時本学苑に留学していた李士偉(明四一推選)を牛込原町の菫館なる寓居に訪ねて意見を仰ぎ、成案を得たという(市島謙吉『随筆早稲田』六二頁)。かくして、清国留学生部を開設する目途を立てた学苑当局は、その制度の大綱を、「早稲田大学規則一覧」(『早稲田学報』明治三十八年七月発行臨時増刊第一二〇号)中に「第十二章 清国留学生部章程」として、左の如く発表した。

清国留学生部章程

第一節 総則

第一条 早稲田大学清国留学生部、特為清国留学生教授日本語・普通各学・政法理財学、以及師範教育与実業教育而設。

第二条 本部設有予科・本科・研究科。

第三条 予科、修業年限為一年、専教日本語及普通各学、以為予備進習本科地歩。

第四条 本科、設有政法理財科・師範科・以及商科三門、俾本部予科畢業者及学有日本語・普通各学之素而程度相符者方准入学肄業。其修業年限訂為二年。

第五条 清国留学生有意進本大学大学部肄業者、必須本部予科畢業後再行専教日本語与英語両科、又在本大学〓設高等予科畢業者、或学有日本語・英語与普通各学之素而程度相符者方准其進大学部肄業。

第二節 学科課程及教授時数

第六条 本部予科学科課程及毎一礼拝教授時数、開列於左。

第五表 清国留学生部予科課程表(明治三十八―三十九年度)

前開英語一科、有意進本大学大学部者、必須学習。而有意進本部本科者、学与不学聴学生便。

第七条 本部本科学科課程及毎一礼拝教授時数、開列於左。

第六表 清国留学生部本科課程表(明治三十八―三十九年度)

政法理財科

前開英語一科、学与不学聴学生便。

師範科

物理化学科

博物学科

歴史地理科

商科

(七四―八〇頁)

 要するに清国留学生部の目的は師範教育と実業教育を施すことに置かれ、日本語・普通学・政法理財学等を教授するために、予科(一年制)・本科(二年制)・研究科(一年制)が設けられた。予科は、本科進学の階梯として日本語および普通学を講授する。本科には、政法理財科・師範科(物理化学科・博物学科・歴史地理科)・商科の三専科が併置され、予科卒業生およびこれに相当する学力を有する者に入学が認められた。更に、清国留学生部から大学部に進学する道が開かれていて、資格は、予科卒業後再び日本語・英語を修めた者、高等予科の卒業生、もしくは日本語および普通学の学力が相応と認められる者に限られていた。注目されるのは、師範科に物理化学科を設けたことである。それは、市島謙吉が指摘している通り、「階段教室を建築し、実験室をも併せ設け」るなどして、実質的な「理化に関する講座を設けたのも之れが嚆矢」(『随筆早稲田』六三頁)と言っても必ずしも過言ではないものであった。しかもこの物理化学科は、最も多くの卒業生を輩出することになり、清国留学生部の際立った特長の一つとなった。因に、大学部に理工科が開設されたのは四十二年九月である。初年度の予科(本科はまだ開かれていない)の教授に当る陣容は、左の如くである。

第七表 清国留学生部予科講師および担当科目(明治三十八―三十九年度)

(『第二十四回自明治三十八年九月至明治三十九年八月早稲田大学報告』 二七―二八頁)

 清国留学生部の特設を提唱した青柳は、教務主任の重責を担う。また、若き日の津田左右吉が日本語の講師に起用されたことが興味を惹く。開設に向けて一連の準備を進める学苑当局は、留日学生の修学の便を慮り、「同部寄宿舎一棟(二百八十八坪五合)を設け、尚日本学生の為に設けありし学寮を清国留学生部第二寄宿舎に充て」る(『第二十三回自明治三十七年九月至明治三十八年八月早稲田大学報告』二頁)など、寄宿舎をも完備した。六百名という留日学生を、速成ではなく、少くとも予科・本科の三年、もしくは研究科を加えて四年間の一貫教育を目指そうとする清国留学生部にとって、寄宿舎の設備は欠くべからざるものであった。と言うのは、当時本学苑に入学したものの、交通の便が良くないために、東京法学院(中央大学の前身)に転じた曹汝霖のような例(『一生之回憶』一六頁)も少からず生ずることが予想されたからである。こうした諸々の準備万端が整って、清国留学生部はいよいよ九月の新学期を期して開設を待つばかりとなった。

 ところで、清国留学生部が特設に際して標榜し、またその教育の基本的な理念となった速成教育の是正という指標は、一体いかなる意味内容を含んでいたであろうか。前述した通り、高田・青柳らが清国へ教育視察に赴いたのは、特設しようとする清国留学生部の教育方針を確定するためであったが、その結果、高田が述べるように、「清国の教育事情から、先づ教員を養成すると云ふことが最も急務であると云ふ所から依頼を受けましたので、夫れが為めに清国留学生部と云ふものを開」く(『早稲田学報』明治四十三年八月発行第一八六号二頁)成算を得、またその教育内容も、青柳が述べる如く、「其当時の清国に合うやうに拵へ」る(同誌明治四十二年八月発行第一七四号一〇頁)ことができたという。ということは、畢竟、清国留学生部は、清国政府がその教育行政を補完するものとして立てた、対日留学政策の路線に沿って設置されたことを意味する。換言すれば、清国留学生部の速成是正の教育は、清国政府が推進して行く教育改革の、しかもその発進段階における普通教育および教員養成を含めた教育行政を一部肩代りするものに他ならなかった。速成是正の教育指標が、このように清国政府の教育行政を補完・肩代りするものであったことは、看過し得ない重要な意味を含んでいた。高田は、清国旅行の途次四月十七日、上海の東亜同文書院(院長根津一)に招かれて講演した時、「速成ヲ期ス可ラズ」という小題に触れて、

速ト成ト両立セザルノミナラズ危険多シ。支那ノ先輩ガ在日本ノ留学生ニ関シ憂ヘラルル点ハ、多クコレニ起因ス(敬上ノ心少キコト、自由・革命等ノコト)。政・法・経済等ノ学ニ至ツテ殊ニ危険多シ。或程度マデ学問スレバ危険ナシ(学バズンバ危険無キモ、時勢ハ之ヲ許サズ。深ク学バシムルニ若カズ)。日本ノ洋行生モ、其昔速成時代ニハ急激ノ議論ヲ唱ヘタリ。今ハ何人モ、秩序的進歩(高キニ登ルハ卑キヨリ、遠ニ至ルハ近キヨリス)ノ義理ヲ解ス。 (『同文書院ニ於ケル演説・要領』)

との考えを披瀝した。その「在日本ノ留学生ニ関シ憂ヘラルル」「支那ノ先輩」の一人である湖広総督張之洞は、高田学監との面談において、日本に留学生を派遣すると「危険思想」、すなわち反清革命思想を身につけてしまうことに憂悶止まるなきを訴えた。事実、この頃は、東京で数多の留日学生が参加して中国革命同盟会が成立する前夜であった。張之洞の憂患について高田は、「其れが心配なら、成るべく長く留学させるが宜しいのである。往年我日本から欧米へ留学した人々に就て見ても、深く学問した人は共和主義などにかぶれる者は無かつたが、然うでない者の中には随分危激な議論を帰朝後にした者もある」(『半峰昔ばなし』四一九頁)と、速成是正の教育は清国政府の革命派対策にとっても有効な処方である旨対答した。清国留学生部の速成是正の教育は、清国政府の教育行政の肩代りであったことと連関して、このようにその革命思想対策の代行という性格をも帯びるものであった。のみならず、これらを包括する形で更に見逃せないのは、青柳が「支那人教育と日米独間の国際的競争」において、

支那の新帝国は新教育を以て之が立脚の基礎となさざる可からず。支那の新帝国は新教育を受けたる支那青年に頼りて建設せられざる可からず。支那新帝国の建設者たるべき支那青年を教育するの任に当るの国家は、文明の翼賛者として名誉ある光栄を有する者にして、其任に当りし国民は、必らずや数年を俟たずして根拠ある勢力を支那の大陸に扶植するを得るなる可し。我日本の支那人教育は、果して此理想の下に此抱負を以て此事業の数年後支那に於ける真価値を認識し、以て経営せられたりしか、又経営せられつつあるか。抑も又天然的に占有せる地の利に因り、支那新帝国を建設すべき準備をなすべく東渡し来る支那青年を収容し、単に器械的に科学を授くるといふの外何等の理想なく定見なく、之が教育の任に当りしには非るなきか。我が駐清林〔権助〕公使閣下は東邦協会に演説して曰く、「一万てふ多数の学生を一時に委托する清国も清国なれども、之を引受けたる日本も亦日本なり」と。敢て問ふ、公使閣下は一人の支那青年を多く養成するは、日本の勢力を一歩支那大陸に進むる所以の大計たるを認識せられざるか。(傍点原付)

(『外交時報』明治四十一年一月発行第一一巻第一二二号 六九―七〇頁)

と記しているように、清国留日学生に対する教育が、日本の対中国進出にとって多大の利益をもたらすべきものと評価されていたことである。青柳のかかる発想は、大隈・高田ら学苑首脳陣に共通して窺える「支那保全」論的な認識に基づいていたことは言うまでもない。これは、清国留学生部における教育の在り様をも規定しないわけにはいかなかった。

二 清国留学生の修学環境

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 初秋とはいえ残熱なお続く九月十一日、清国留学生部は始業式を挙げた。しかし、この祝事に際して、活動も漸く軌道に乗ろうかという十二月四日に一斉休校が待ち構えているのを予想した者があったろうか。このストライキは、いわゆる「清国留学生取締規則」反対運動に一連する行動であった。

 清国政府は、一方で留日学生の派遣を中国の近代化のために必須の政策として推進しなければならなかったが、他方それら留日学生が反清革命運動に趨ることを極度に警戒しなければならないという、いわば二律背反に追い込まれていた。一九〇三年、法政・軍事を学んだ留日学生が帰国後革命的言動を弄するのを憂慮していた清国政府は、湖広総督張之洞にそうした留日学生の政治活動を規制する法案の作成を命じた。これに対して張之洞は、直ちに国内的な対策として「約束游学生章程」等を奏進しながら、在日留学生に対する規制についても内田康哉駐清公使と商量を重ね、留日卒業生に官吏任用の特別待遇を与えることを交換条件にして、「規則」による取締りを実施する約諾を取り付けた。けれども日本政府は、この「規則」が学問の自由を侵すものであることから、ただ一片の書面を以て通達し、表見を糊塗するに止めざるを得なかった。その後、在日留学生界は一九〇五年になると、「各省の学生みな学生会有り。会中多くは一の機関誌をつくる。誌は革命をいわざるを恥となす」(鄒魯「中国同盟会」『辛亥革命』第二冊三頁)と言われる状況に立ち至った。加えて、八月二十日には、これまで中国各地に分立活動していた革命諸勢力の興中会・華興会・光復会等が、孫文を中心に東京で大同団結を果し、中国革命同盟会が結成されるに及んだ。反清革命団体の結集は清国政府の耳目をそばだたしめ、しかもその同盟会の中心となる活動メンバーが前述したように多くの留日学生であったことは、清国政府を大いに刺戟せしめずにはおかなかった。まさに、清国政府にとって由々しき事態が出来したというわけである。従来からも清国政府は、留日学生の動静を把握すべく種々対策に腐心していたが、かかる事態を迎えては、日本政府に対して先の張・内田約定の完全実施を強硬に督促する他なかった。これに日本政府が対応し、その結果、十一月二日付で文部省令第十九号「清国人ヲ入学セシムル公私立学校ニ関スル規定」(全十五条)が公布された。これは表面、営利学校と堕落留学生の取締りをその旨意とするものの如くであったが、その実、木場文部次官がこの公布の意図を説明して、「留学生中革命派に属する者多く、此等は慥かに今回の省令によりて大打撃を蒙りたるに相違なく」云々(『読売新聞』明治三十八年十二月十五日号)と漏らしているように、留日学生(特に私費生)の革命活動の取締りを真の狙いとしていたことは否めなかった。この文部省令が「清国留学生取締規則」と呼ばれる所以である。

 「清国留学生取締規則」に基づいて、十一月二十六日、学苑をはじめ清国留学生の教育に携わる各校では、「本月二十九日までに、各留学生は、原籍・現住所・年齢・学歴を届け出づべし。もしその期間内に届け出でざるものは不利益のことあるべし」という強迫まがいの掲示が貼り出された。こうして文字通り「取締」の対象にさらされることになった留日学生達は、神田駿河台の清国留学生会館で総会を開いて対策を鳩首凝議し、そして、全体学生の名において楊枢駐日公使に質問状を送り、また文部省に疑を質すなど、対応を図った。しかし、駐日公使・文部省の回答が不得要領であったため、留日学生達は十二月四日、清国留学生部をはじめとする各校で、一斉休校を決議するに至った。次いで七日、『東京朝日新聞』に「支那人は放縦卑劣」の論説が掲載されるや、翌八日、法政大学に留学する陳天華は、留日学生の結束と奮起を促し、併せて革命の成就を念じながら、「留学生にしてみな放縦卑劣であったならば、中国はほんとうに亡びるのである。……わが同胞が一刻もこの言葉を忘れず、この四字を除き去るよう努力」すべきことを願い(島田虔次『中国革命の先駆者たち』七〇頁)、清国留学生会館幹事長の楊度(明四四推選)に宛てて「絶命書」を郵送して、大森海岸に身を投げた。陳天華の自殺は留日学生に大きな影響を及ぼし、この直後から「清国留学生取締規則」に抗議して退学・帰国する学生が現れ始めた。このように推移する事態の中で一斉休校から一週間を経た十一日、清国留学生部では、高田学監の名で次のような「訓示」がなされた。

清国留学生取締規則ニ関スル今回ノ紛擾ハ、余ノ最モ遺憾トスル所ナリ。コノ事ヤ当面文部省ニ対スル問題ニシテ、直接我早稲田大学ニ関スルモノニ非ズト雖、為メニ諸子ノ休学久ニ弥ル事実アリテハ、延イテ諸子ガ学業ノ進歩ニ影響ヲ及スコト少カラズ。コレ余ガ訓示ヲ為スノ已ムヲ得ザル所以ナリ。惟フニ、今回ノ事タル留学生諸子ノ誤解ニ基クコト少カラズ。文部省ノ省令ナルモノ其内容ノ当否ハ暫ク措キ、大体ニ於テ其本意ノアル所ヲ察スルニ、寧ロ留学生諸子ヲ保護スルノ趣旨ニ出デ、敢テ干渉・拘束ヲ旨トスルモノニアラザルガ如シ。而シテ文部省自身亦前日特ニ説明書ヲ発シテ其精神ノアル所ヲ明カニセリ。然カモ諸子ニシテ尚ホコレヲ疑フモノアルハ、余ノ解スル能ハザル所ナリ。文部省令ノ目的保護ニアツテ干渉ニ非ズトスルモ、諸子ノ地位ヨリ之ヲ観察シテ不便トスルノ条項、或ハ之レ無キニアラザラン。諸子ニシテコレガ訂正ヲ求ムルノ意ヲ致スハ、必ズシモ不可ナラズ。然レドモ其手続・方法ハ穏当着実ナルヲ要ス。同盟シテ学業ヲ罷メ、省令ノ撤去ヲ強請スルガ如キニ至リテハ頗ル当ヲ得ザル行為ニシテ、余ガ諸子ノ為メニ取ラザル所ナリ。故ニ余ハ諸子ガ教育上ノ管理者トシテ、諸子ガ一日モ早ク学ニ就カンコトヲ勧告セザルヲ得ズ。諸子ニ就学ヲ勧告シ、コレガ励行ヲ計ルハ、余ノ諸子ニ対スル当然ノ責務ナリト信ズ。啻ニ諸子ニ対スル責務ナルノミナラズ、又諸子ノ父兄諸子ノ国家ニ対スル責務ナリト思惟ス。諸子ガ翻然直ニ余ノ勧告ニ随ハンコトヲ切望セザルベカラズ。諸子ニシテ若シ尚ホ疑惑ノ存スルアラバ、来リテ余ニ説明ヲ求メヨ。余必ズ悦ンデ其労ヲ取ラン。要ハ諸子ガ速ニ余ノ勧告ニ随ヒ、専心学ニ就クノ一事ニアリ。我早稲田大学ハ、諸子ノミヲ教育スルガ為ニ設ケラレタルニアラズ。然カモ一旦清国留学生部ヲ開始セル以上、設立ノ当時ニ公示セル高遠ノ目的ヲ貫徹シ、諸子ノ成業ヲ見ンコトヲ望ム情切ナリ。我早稲田学園ノ徒ハ、支那学生ト日本学生トニ論ナク、超然時流ニ卓越スル大理想ナカル可ラズ。諸子望ラクハ、深思・熟慮幸ニ方向ヲ誤ル勿ランコトヲ。 (『早稲田学報』明治三十九年一月発行第一二八号 六一頁)

 高田が、清国政府の要請によって日本政府文部省の施行した「清国留学生取締規則」を積極的に支持する以上、高田の訓示は、清国留学生部の学生に一片の説得力すら持ち得なかったものの如くである。その後、留日学生は陸続と集団帰国を図り、日中両国各方面の説得工作も空しく、また楊度が反対運動の主力拠点たる清国留学生会館の幹事長を辞めて運動から脱落し、これに曾鯤化が代るとともに副幹事長に張継(大二推選)が選任されるなど、事態は輻輳し日を逐って混迷の度を深めて行った。後に、袁世凱の帝制化促進運動に楊度が、一方孫文を助けて倒袁闘争が展開されたのに張継が、それぞれ力あったことと暗合するようである。ところが、孫文が、集団帰国は同盟会員が清国政府に一網打尽にされる懼れあり、得策でないと、法政大学留学生の汪兆銘に打電したことから、事態は一転して解決に向った(呉玉章『辛亥革命』八〇―八一頁)。汪兆銘は孫文の指示に従って留学界維持会を組織して復校を呼び掛け、三十九年一月一日に開かれた総会では、同十三日から復校することを決議するに及んだ。そして、既に帰国していた学生の中からも復校する者も現れるなど、問題を含みながらも再び以前の活況に立ち戻った。けれども、帰国して二度と日本の土を踏むまいとの意を固くした学生達は、上海に中国公学を設立し、外国人教習を招いて自らの修学の続行と新人才の教育とに傾注した。この中国公学には、中国近代史上に屹立する二つの栄誉が与えられる。一つは、中国人自身の手になる最初の近代的な私立学校であることに対して、今一つは、五・四文化革命の指導者胡適を最初の学生として送り出したことに対して。ただし、我々がこのような事実を前にして特に銘記しなければならないのは、中国公学が、清国政府および日本政府が共同で当った留日学生に対する弾圧の産物に他ならなかったということである。

 ところで、「清国留学生取締規則」反対運動が大規模に展開したのに反し、日本側では一般社会は勿論、学生といえども殆ど見るべきほどの関心を示さず、終始傍観するばかりであった。こうした留日学生に対する日本の学生を含めた社会一般の無関心が、受手の側からすれば冷遇と同義であったことは言うまでもない。更に言えば、この冷遇は、清国留学生の来日を支えている日中関係の構造と密着して表出するものであった。その構造とは、古代以来の中国優位の日中関係が、日清戦争の結果、日本が曲りなりにも列強の一員となる資格を得たことによって初めて日本優位のそれに逆転した新たな構造を指す。この新たな日中関係の構造の出現は、よく言われるように、日本に中国蔑視の風潮を伴った。例えば、二十九年に来日した「使館留学生」、つまり最初の留日学生十三名のうち四名は、二、三週間で帰国してしまったが、その主たる理由は、「日本の子どもからチャンチャン坊主チャンチャン坊主といってひやかされたがため」であったと言われる(『増補中国人日本留学史』三八頁)。最初の留日学生が遭遇したこの経験は、以後来日する学生が味わい、そして耐えねばならない苦渋を、象徴的に暗示していた。島崎藤村は、『新生』の中で、フランス留学生の岸本と京大助教授の高瀬に託して次のように言っている。

「ひどいものですな」と岸本が言った。「パリにあるわれわれの位置は、ちょうど東京の神田あたりにあるシナの留学生の位置ですね。よくわたしはそんなことを思いますよ。これではホームシックにもかかるはずだと思いますよ。今になって考えると、あんなにシナの留学生なぞを冷遇するのは間違っていましたね。」「神田辺を歩いてる時分にはそうも思いませんでしたがなあ。ヨーロッパへ来て見てそれがわかりました」と高瀬も言った。「あの連中だってシナのほうではみんな相当なところから来てる青年なんでしょう。その人たちが旅人扱いにされて、相応な金をつかって、しかもみじめな思いをするかと思うと、実際気の毒になりますね。金をつかって、みじめな思いをするほどいやなものはありませんね。わたしが国を出て来る時に、『ヨーロッパへ行ってみると、自分らは出世したのか落魄しているのかわからない』と言った人もありましたっけ。」思わず岸本はシナ留学生に事寄せて、国を出る時には想像もつかなかったような苦い経験を、日ごろの忍耐と憤慨とを漏らそうとした。 (『島崎藤村全集』第一五巻 一五六―一五七頁)

 清国留日学生を囲繞する日本社会の冷遇風潮は、欧米先進列強に対しては後進日本、後進中国(アジア)に対しては先進日本という、日本の対外関係に見られる二重構造から産み出されていたことが知られる。しかも、日本の社会一般の冷遇は日常的な風土となっていたため、「清国留学生取締規則」のような政治的な抑圧よりも一層深刻でさえあったろう。かかる冷遇の風土は、当然ながら留日学生の生活に対する真正な理解に導く筈はなかったし、本学苑の留学生も、その無理解から免れ得るものではなかった。その一例として、『冒険世界』第二巻第二号(明治四十二年二月発行)に載せられた、正体不明の「早稲田健児団総代」の署名になる「淫風早稲田を亡ぼさんとす」と題する投稿が挙げられよう。いわゆる魔窟征伐は、この時のみには限られず、また清国留学生のみを目の敵とするものでもなかったが、少くともこの投稿は全編、「清国留学生! その名やよし。その実や醜悪也。今、早稲田に八百の清人ありと註せらる。而かも留学生らしきは何割。否な何分なりや。元来彼らは淫猥なる民族なり。孔子の国に生れながら、鼻もちのならぬ奴輩なり。海を越へて、足、東海姫子の国を踏むと同時に覚ゆる日本語は、『オカミさん』や『ムスメさん』や『ベッピン』なんどの語のみ。……彼らは淫慾の前には頗る金ばなれよかりき。……金で面をはれば何事をも否まざるは日本人なりと速解せり。而して其の獣性を発揮して女を要求せり。これぞ早稲田が亡びんとする第一歩也」(五八頁)という、清国留学生に向けた誹謗の語で満たされていたのであった。

 このような政治的な抑圧、社会的な冷遇と無理解の中で、多くの留日学生がなおこれに耐えて修学して行くについて、何がそれを支える力となったのか。今日、予科の学生が卒業するに際して学苑当局から請われて記した詩文・画等を集めた『鴻跡帖』が本学図書館に保存されており、これによってその大様を窺うことができる。それは概して言えば、劉生麗(明四〇予科)が「今の時に生れ、今の世に処し、祖国の孱弱を思っては肝腸俱に裂け、列強の欺凌を視ては髪目皆張る」というように、欧米列強の圧迫下に喘ぐ中国の現実認識と、その現実を打開する主体者として自らを規定せんとする意識であった。これをいま少しく具体的に言えば、一つには藝邰氏(明三九予科)の七絶に、

国際に当に収むべき治外の権は、

須らく知るべし、政法に師傅有るを。

我れ今斯の鳩澤を吸うを得て、

乾坤を操縦して、転旋を妙にせん。

というように、自ら欧米列強に押しつけられた不平等条約を撤廃して、中国の国際政治的地位を高める任に当らんとする気宇であり、また一つには、李士烱(明四〇予科)が、

此こに来たる、江戸海の浜、

学未だ成らず、涙巾を搵す。

故国の山河、恙無きや否や、

衆生誰れか度らん国の維新を。

と言って、満州族の清朝を打倒する志士として自己を規定する志気であったとされる。また師範科を志した学徒としては、高国瑛(明三九予科)のように、「東〔日本〕に到るの後、其の国勢の進歩を観るに一として諸れが教育に基づかざるは無し。……冀わくは、一知半解を獲て以て帰り、我が国人を誘かんとす」という意志、つまり、中国の国内的・国際的な現状の打開に教育を通じて参加したいとする意志が、修学を支える最大公約数的な力となっていたと見て大過ないであろう。武田泰淳は、小品「学生生活」の中で、「学生と言うよりは立派な社会人で、商人的な打算、軍人的な武勇、遊び人的な色慾、政治家的な弁論を身につけ、かしこきも、おろかなるも、いりみだれて打ち騒いでいたので、その生活はすさまじいものがあった」「民国初年の留学生の不可解な生活」について、それは「結局、中国のすさまじさであり、その底の知れぬ深さ、不可解さも、彼等を追いまくる祖国の現実そのもののもたらすところであった」(『武田泰淳全集』第一巻五〇頁)と鋭く剔抉している。民国初年の留日学生の生活の「すさまじさ」は、民国誕生前夜の留日学生にも共通していたと目されよう。

 さて、一斉休校が終息して間もない二月一日、清末から民国初めにかけて活躍した革命派の著名な政治家である宋教仁の顔が、清国留学生部の予科の教室に現れ始めた。幸いに彼は『我之歴史』という日記を残しており、清国留学生部学生の修学の過程を垣間見る上で一助となる。宋教仁は、一九〇四年、黄興・陳天華らと滅満・興漢をスローガンにした華興会を組織し、その革命蜂起が失敗したため、日本に亡命を図った。亡命後は、同盟会の結成に奔走し、その機関誌『民報』の論説委員として健筆を振い、またその経理をも担当していた。しかし次第に、民報社を辞めて陸軍を学びたいと考えるようになり(一月十二日)、このことを友人の李和生・呉紹先らに相談したところ、早稲田大学に入って法政を学ぶべきことを勧められた(一月十六日)。この勧めが宋教仁を動かし、民報社を退いた(一月二十六日)彼は、下戸塚村二百六十八番地、本学苑の裏手に当る瀛州依処に下宿を定め(一月二十七日)、三十一日には清国留学生部に赴いて入学手続を済ませ、翌二月一日から通学することになった。宋教仁が属したのは予科の壬班であったが、その時間割は左の如くであった。

 この二月一日、宋教仁は「果して良く実行できるかどうか判らないが」と断わりながらも、日課を定めて勉学に励むことを決意した。それによれば、平日は、午前六時半起床、朝食。七時から新聞を閲読。八時から読書。九時登校、午後五時下校。六時に夕食をとった後、散歩や静座に時間を割き、七時から翻訳・著作にかかり、八時からは授業の予習・復習、十時からは学術書を読み、日記をつけたのち十時半就寝。日曜日は、午前中は外出して知人を訪問、午後は読書、六時以降は平日に同じ。このような日課に従って日を送っていた宋教仁も、二月十五日には時計が止ったために寝過ごし、大幅に遅刻してしまった。これが余程こたえたものか、「噫、自分は到頭堕落してしまったか」と自責の言葉でその日記を塡めている。こうした失策をも混じえた修学生活が過ぎる中で、二十二日から二十六日に亘って前期試験を迎えた。因に、試験日程は左の通りである。

このうち体操は、折悪しく雨天のため中止になり、三月五日に補行された。この試験に備えて準備怠りなかった宋教仁ではあったが、博物学では二つの花の名を、日語では七字を誤り、地理の五題のうち一題を失敗してしまった。

 前期試験が済み、三月一日から後期の授業が開始された。予科に在籍する宋教仁は、以前から念じていた英語の学修を特別予科に赴いて併せて受講することにし、変更があった壬班の時間割、特別予科の英語、それに自修の日課をやはり表にして修学に備えた。

 宋教仁は、このような日課表の他にも遺忘に備えるために、記憶し難い事柄を紙片に書きつけて壁に貼っていたという。彼の下宿のそんなに広くはないだろう一室に置かれた机案の周囲がそこはかとなく想像されよう。三月十六日、宋教仁は大隈総長の「清国留学生の覚悟」と題する講演を聴いたが、この前後神経衰弱に陥り、学校を休むことしばしばであった。ところで、学生の最も顕著な特性の一つとして、批判精神の横溢していることが挙げられるだろう。そしてその批判の舌口は、教師に向けられること少くない。宋教仁とて例に漏れず、一夕、ある料理店で友人と酒盃を傾けながら、予科の日本語の教師を肴にして、文法をないがしろにした教授法を批判している(六月四日)。七月に入ると、二日から六日にかけて卒業試験という関門が待っていた。そして試験の緊張から解放された七日、宋教仁は友人と連れ立って浅草に出かけ、花屋敷や遊戯場等で遊びに興じた。また九日にも上野公園で憩いの一時を過ごし、精神的にも幾らか安定を回復したことであろう(その後宋教仁は、予科を卒業して特別予科に籍を置いたものの如くであるが、同盟会の活動に専心して行き、中退してしまった)。

 かくて初年度の学年暦を滞りなく終えた清国留学生部では、七月二十日、第一回卒業式が挙行された。その模様は、『早稲田学報』第一三七号(明治三十九年八月発行)に次のように伝えられている。

午前八時四十五分、学生入場。九時、来賓・講師・職員入場。青柳主事、開会を告げ、鳩山校長、卒業生三百二十七名に卒業証書を授与し、次に優等生胡文浜に賞状を授与し、祝詞を朗読す。次いで高田学監の訓示演説ありて、懇々学生前途の覚悟に就いて訓諭する所あり。終つて卒業生総代胡文浜答辞を陳べ、最後に楊〔枢〕公使の演説ありて式を終る。時に午前十時半。

(六二頁)

 第一回の予科卒業生三百二十七名が誕生したので、いよいよ本科が開かれることになった。既に紹介したように、本科には、当初の計画では政法理財科・師範科(物理化学科・博物学科・歴史地理科)・商科の各科が設けられることになっていたわけであるが、学苑当局は、これまでの「予科一年の経験に徴し、これら志望者は、本邦学生と同一の教育を授くるを以て却て便益なるを認め、当初の方針を改め、予科修了後直に本校専門部各科に入学せしめ、大学部志望者には特別予備科に於て英語及日本語の補習を為さしめたる後、高等予科を経由して大学部に入らしむる事とせり」(『第二十四回自明治三十八年九月至明治三十九年八月早稲田大学報告』三頁)と、組織を一部改正した。この結果、清国留学生部の本科には師範科が設けられるのみとなり、いわば内容が師範教育に一本化されることになったのである。

三 清国留学生部の閉部

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 清国政府は、一九〇六年(明治三十九)四月、学部(日本の文部省に当る)を通じ、自今毎年八月、海外留学を終えて帰国した学生に課試して、任官の道を開くことを言明した。そしてこの年の考課には百名近くが受験したが、その大半を日本留学生が占めていた。にも拘らず、及第した首席五名はアメリカ留学生で、日本留学生はすべて失格するという始末であった(『増補中国人日本留学史』八五―八六頁)。この結果をめぐって、大量の学生を送っている対日留学政策が、清国政府内で論議を呼んだことは勿論、日本にあっても速成教育に対する批判が起った。学部の考課と前後して、学部はまた八月七日、官費・自費を問わず師範・政法を学ぶ留日速成学生の派遣を停止すべく、「通行各省限制游学並推広各項学堂電」を各省に向けて電告した。この指示の狙いは、留日学生の普通科・師範科の修業年限を三年以上に延長する一方で、国内の中学堂や師範学堂・法政学堂を増設して、これらの普通課程の物理・化学・博物学・世界地理・世界史・政法学等の主要科目については、外国人教習を招聘して教育内容の充実を図ることに置かれていた。かかる電告による指示は、青柳が指摘するように、「海外に出て普通教育を受けるものが次第に減少をして来る代りに、普通教育を学び終つた者が高等専門の学を修めると云ふ方に次第に殖へて来る」状況、換言すれば、「清国に於ける普通教育機関が一つ殖へれば、日本に於て支那留学生の為に特設してある普通教育機関が一つ減る」という状況を当然導いて行くものであった。青柳はこうした状況を、「清国は清国人の清国なり。清国の国民教育を清国自身で遣るやうになつたといふ事は、日本、殊に創立以来極端なる速成を排斥することを以て標榜したる我早稲田大学の尤も希望する所であります」(『早稲田学報』明治四十一年八月発行第一六二号二三頁)と受け止め歓迎した。しかしながら、学部の電告の内容からすれば、清国留学生部さえも速成教育機関と判定されてしまうのは明らかであろう。この意味で、学部の電告は、清国留学生部の死命を制するものであった。ただ、清国政府の教育行政の肩代りを以て任じていた清国留学生部当局では、かかる新事態が出現する動向を逸速く、しかも的確に捉えることができたため、既に四月には具体的な対策が打ち出され、その内容は、『早稲田学報』第一四七号(明治四十年五月発行)に掲載されるところとなった。それによれば、「今回章程を改訂し、新渡来者の為めに三年卒業の普通科を、普通科卒業者の為めに三年卒業の優級師範科を特設」することにしたと言い、続いて「本年九月開始の新学年より適用する」学科課程表を掲げている。一九二頁に後述する如く、優級師範科は結局授業を実施しなかったのであるから、ここでは省略に付し、普通科のみの課程表と当該年度の清国留学生部担当教員表を示せば左の如くである。

第八表 清国留学生部普通科課程表(明治四十―四十一年度)

(五三頁)

第九表 清国留学生部普通科講師および担当科目(明治四十―四十一年度)

(『第二十六回自明治四十年九月至明治四十一年八月早稲田大学報告』 二八頁)

 この改正の主眼は、従来の予科一年、本科二年という制度を、三年制の普通科と、更に三年制の優級師範科に改めたところにあった。これは、普通科・師範科の留学年限を三年以上に延長し、速成留学を停止せんとした清国政府学部の電告の意向に沿うべき改正であったこと、もはや贅言を要しまい。因に普通科は、「日本語及ビ中学程度ノ普通学ヲ教授ス」るもので、本学苑に学ばんとする清国留学生にとって、優級師範科への進学は無論、専門部への進学と、高等予科を経た上で大学部へ進むための階梯とされていた(「学則変更」書類東京都公文書館所蔵『明治四十年文書類纂第一種私立学校第五』所収)。しかしながら、如上の改正による新課程を実施するに当り、改正以前から在学していた本科二年度生八百名については、「旧章程の儘変更を加へず卒業せしむ」(『早稲田学報』第一四七号五三頁)としたことは、若干問題を後に残してしまった。

 四十一年七月十二日、旧課程による本科第一回生の卒業式が行われた。この卒業生達は、三十八年に予科に入学して以来三星霜を労した学生で、百八十四名を数えた(明治四十一年十一月調『早稲田大学校友会会員名簿』による)。予科入学時の総数は七百六十二名であったが、一年後に予科を終えたのが三百十六名、このうち、専門部へ進学した者は八十六名、特別予科を経て高等予科へ進学した者が三十六名、本科師範科に進んだ者が二百二十名(物理化学科百十四名、博物学科五十名、歴史地理科五十六名)であった。師範科では、第一年度を及第した者が百九十三名、落第者五名、中退者二十二名となり(『早稲田学報』第一六二号二四頁)、そして第二年度及第、つまり全課程を修了した者が、前記の如く百八十四名に及んだわけである。これら百八十四名の旧課程による卒業生は、二年制の師範科を終えたわけであり、師範科の留学年限を三年以上とした学部の電告が既に発せられている時、旧課程を修了したことは、帰国後の将来の進路が遮閉されてしまうことを意味するものであった。そこでこれら本科卒業生の多くは、やむなく清国留学生部当局に一年間の補習科の開設を連署して請願するに及んだ。この請願は、学苑当局の歓迎するところとなり、青柳から次のような確答がなされた。

諸君は自から希望して、更に一ケ年補習科を開いて貰ひたいと云ふ志願者を見るに至つた。之は更に喜ばしい現象であると思ふ。卒業生百八十二名の中、もう一年補習科を開いて貰ひたい、開いて呉れれば夫れに這入りたい、と申込んだものが百二、三十名あります。百八十二名の中百二、三十名、幾らか減るとしても先づ百以上ある。が是又、物理化学・博物・歴史地理、此三つに分れて教育をせられるのである。此現象は取も直さず長い間の教育、長期教育と云ふものは有効なるものである、一年や半年ではいけない、どうしても三年四年やらなければいけない、と云ふことを学生諸君が自から覚られた。長期教育の価値を自覚せられたのである。自分の学ばれたサイエンスに就いて興味を感じたものである。即ち、本校の教育の効果が漸く明かになつたと言ふべきものであつて、私は特に爰に之を御報告することを以て、光栄とする所のものであります。

(同誌同号 二四頁)

かくして開設された補習科とは、四十年の規則改正で廃止された旧課程の研究科を復活したものに他ならない。この補習科も、翌年七月、八十名が得業してその役割を全うして閉じられた。

 清国政府の対日留学政策は、速成学生の派遣を停止せんとした学部の電告によって質的な転換が遂げられたと言える。そしてこの影響は、清国留学生部にあっては、先ず規則改正を迫る形で波及したが、更に質的な波紋を投げかけずにはおかぬものであった。この質的な影響について、青柳は次のように説明している。

一昨年〔明治四十年〕の夏から秋の交、彼の安徽巡撫恩銘が革命党徐錫麟と云ふ人の為に暗殺せられた。其時分から、我国に渡つて来る清国の学生の数は、次第に減少して来た。勿論、減少した所の学生と申しますのは、特別に清国学生の為めに設けてある機関に這入つて来る学生の御話でありまして、日本の学生と共に螢雪の労を積む者、例へば早稲田大学で申せば、大学部・専門部等に於て日本の学生と共に勉強しやうと云ふ所の者は、決して減少した訳ではありませぬ。却つて之れは前より殖へて来た。……早稲田大学の統計を以て申しますれば、一昨年即ち四十年度に於きましては、我早稲田大学の学園に於て螢雪の労を積んで居る清国学生の総数は一〇一五名で、留学生部の学生は八五〇名、大学部・専門部で日本の学生と共に勉強して居る清国学生は一六五名でありました。之れが一昨年、最も支那学生の多い時である。それが、留学生部に於て学生の数が減つて来たと同時に、大学部・専門部の方に膨脹して来た。昨年即ち四十一年度の統計によりますると、全体の数は八八九名で、其内留学生部の方は三九四名、大学〔部〕・専門部及び高等予科に居る所の日本学生と共に勉強して居る学生の数は、四九五名となつて居る。此方は余程殖へて居ります。それが本年はどうなつたかと云ふと、此大勢が愈々押進んで参りまして、全体の数が八二三名、昨年よりも六〇人ばかりの減少だが、其内訳は非常に異なつて参りまして、留学生部の学生は僅かに二四二名で、大学部・専門部の方は五三一名であります。 (同誌明治四十二年八月発行第一七四号 一〇―一一頁)

 言うまでもなく、こうした傾向は留日学生界の一般的な趨勢であった。この傾向とは、要するに清国学生の赴日留学が、速成学生中心の量的に優れた特徴から、高等専門学徒を中心とした質的に優れた特徴へ移行して行く傾向に他ならない。そもそも清国留学生部は、留日学生の量的に優れた特徴を背景に設置されていたわけで、ここにその存続を左右する新局面を迎えた以上、学苑当局は何らかの対策を講ずるよう強いられるに至った。そこで学苑当局は、四十二年秋、青柳を清国に派遣し、清国政府当局の要路者に、直接その教育方針および清国留学生部の在り方などに亘って意見を打診させた。青柳がこの渡清について語るところを聴こう。

私は、総長・学長の御命令を受けまして、北京に教育視察の為め参りました。我早稲田大学に於ける現在の清国留学生教育の制度は、四年前の清国教育状態に当嵌まるやうに出来て居る。此制度が、果して今日の清国の状態にも当嵌るや否や、之は疑問である。私は北京に参り、学部の張之洞閣下を始めとして主もなる人に接して細に御意見を伺つた結果、清国に於ては師範学堂・中学堂・小学堂の設備も追々出来たことであるから、特別の機関を設けて教育されると云ふことは、之れから以後は必ずしも必要はない、日本の学生と同じ様に教育を施して貰ひたいと云ふことで、之れを総長・学長に復命した。

(同誌同号 一一頁)

 清国留学生部は、清国政府の教育改革が一定の軌道に乗るまでの暫定特設機関として出発したもので、清国政府の教育行政の一部肩代りという使命がその存続の支えとなっていた。従って、清国政府の教育改革が所期の成果を挙げて行くのに伴って、その使命は減退して行くべき筈のものであった。勿論このことは、清国留学生部を特設するに際して既に学苑当局者の想到するところとなってはいたが、ここに青柳の復命を受けたことによって凝議した結果、清国留学生部を「近未来に於いて閉ぢる」時期が到来したとの判断を下した。次いで四十三年七月五日に催された得業式に臨んだ高田は、

昨今に至りましては、段々清国に於ける新教育の設備も整つて参り、殊に普通教育の範囲に於いては、他を煩はさぬで殆んど清国自から之れを与へることが出来ると云ふ誠に喜ぶべき有様になりましたので、それと同時に、此早稲田大学、他の学校に於きましても、留学生部を特設して特に清国人のみを教へると云ふ必要がなくなりました。就きまして此度の普通科卒業の五十三名〔四十七名の誤り〕と云ふものを最後と致し、留学生部を閉鎖しますことになりました。併ながら、之れで以て清国学生の教育を早稲田大学が全然今後やらぬと云ふことになつた訳ではありませぬ。現在でも四百七十五名と云ふ清国学生が居ります。尤もそれは今年卒業したものも含んで居りますが、此人々は、日本の学生と同じ制度の下に同じ級にあつて、頻りに螢雪の労を積んで居ります。其成績も甚だ見るべきものがあります。 (同誌明治四十三年八月発行第一八六号 二頁)

と、新課程の普通科第一回生を送り出すのを最後に、三十八年九月開設このかた五春秋の成跡を残した清国留学生部を閉鎖することを明らかにした。蛇足を加えるならば、新課程の優級師範科は、活動する暇なく閉部に従ったわけである。ところで、高田の説明によれば、卒業する普通科第一回生を除く留日学生は、この時点で既にすべて日本人学生と同じ制度の下で共学しているとされ、普通科の第二回生と第三回生が入学していなかったことが知られる。事実、このことは、四十二―四十三年度の『学科配当表』の清国留学生部の欄に、普通科の第三学年の課程表をのみ載せていることからも肯ける。四十一、二年に新入生の受入れを停止したのは、清国政府学部の電告にその理由が求められるだろう。四十一年の新入生受入停止を決断した時点を捉えてみると、青柳の渡清がこの翌年に行われており、いわば清国留学生部の事実上の閉鎖と看做すことができよう。

 高田が右に述べた如く、清国留学生部閉部の後も、学苑在学中国留学生は、四十四年夏二〇七名、四十五年夏一六六名、大正二年夏八四名、三年夏一六八名と、或る程度の数を維持し、二年七月一日の維持員会では、「支那留学生の本大学大学部に学ばんがため高等予科に入学を希望し来るもの多きも、その学力我が中学校卒業生と同一ならざるため修学上不便尠からざるにより、高等予科に入学を許可する以前に六ケ月の予備科を履修せしめん」として、支那留学生予備科の設置さえ議決されているのである(文書課保管『自大正元年九月至大正五年六月維持員会議事録』)。

 さて、清国留学生部の教育は、清国政府の教育改革の発進段階における教育行政の補完を目指すものであったわけであるが、このことに関連して、本学苑出身者がその教育改革の進展に占めた役割、ないし位置といったものを、「清国校友近時の発展」の紹介するところによって一瞥してみたい。

教育界に於ける本大学出身者の勢力に至つては、是亦仲々に偉大なものがある。北京に各分科大学が出来た。法政科大学の学長は林棨君(明三七邦語政治科)で、君は学部参事官を兼ねてをる。商科大学の学長は権量君(明三五政治科准校友)である。其他北洋師範学堂の校長李士偉君(明四一推選)、京師法政学堂の教務長江庸君(明三九高師)、北洋師範学堂教務長梁志宸君(同上)、北京の商科大学教習陸夢熊君(明四〇大商)、同王治昌君(明四二大商)、北京法律学堂教習張孝移君(明三九専政)、同汪燨芝君(明四一専政)、北洋法政学堂教務長籍忠寅君(〔不詳〕)、北京宗室覚羅八旗高等学堂監学永元君(明四一清留歴史地理)、同教習徳啓君(同、物理化学)、同教習崇文君(同上)、同教習兼監学栄生君(同、博物)、広東高等工業学堂の校長王邁常君(明四三政治科准校友)、広東高等工業学堂教務長張孝曾君(明四一清留物理化学)、浙江全浙師範学堂教習朱宗呂君(同上)、同教務長楊乃康君(同、博物)、同陳簋君(同上)、同張宗緒君(同上)、北洋法政学堂教習劉同彬君(同、歴史地理)等、中央及地方各省の優級初級の師範学堂、法政学堂、商業学堂、工業学堂、高等学堂、巡警学堂、中学堂などに校長、教頭、又は教師となつて新教育の普及に努力して居る人人は、迚も枚挙するに遑がない。此頃又、清国留学生部博物学科を四十一年に卒業した常順君が視学官に任命された。

(『早稲田学報』明治四十四年二月発行第一九二号 九―一〇頁)

 この紹介文には誤りが目立つので然るべき訂正を加えたが、なお教育界に活躍の跡を示した学苑出身者ということで若干補足すれば、楊度が一九一一年清朝最期の袁世凱内閣の学部副大臣の席を占めたことが挙げられ、学苑理工科の第一回卒業生の首席を占めた陳有豊(明四五機械)が、後に江蘇第一高等工業学校長に任じたことも挙げられるべきであろう。清国留学生部出身者としては、北京大学歴史系主任で中国史研究者として知られる朱希祖(明四一歴史地理)、哲学者で中国科学院中南分院副院長に就いた杜国庠(明四三普通科)らも忘れてはならないだろう。また、葛祖蘭(明四一物理化学)には、一九一九年の刊行以来、屢次版を重ねて迎えられた『自修適用日語漢訳読本』の著作があり、それは、留日学生のための日本語学習書として一九〇〇年に出版されて以往多大の恩恵を与え来たった、唐宝鍔・戢翼翬共著の『東語正規』の後を十分承け継いだものであった。留日学生の修学に貢献した日本語学習書が相次いで学苑出身者の手になったことは注目に値しよう。

 最後に、これら「枚挙するに遑がない」ほどの「新教育の普及に努力して居る人々」を輩出した本学苑、別けても師範教育を専一にした清国留学生部における教育の特質に目を向けて、清国留学生部の軌跡を総括したい。学苑当局者に清国留学生部を特設せしめたのは「支那保全」論に基づく判断であり、それが速成是正を標榜した教育の在り方を規定したことについては既に述べたところである。清国留学生部に学ぶ学生達も、その教育姿勢に現れた「支那保全」論的な傾斜を鋭敏に感得していた。そうした学生の一人である柳仁雟(明三九予科)は、

夫れ大学専科の設は、吾が国をして弱を転じて強となさしめんと欲するものに非ざらんや。吾が国、弱を転じて強となれば、即ち清と日とは並びに一州に雄たりて、西欧の覇権も始めて其の勢力範囲を拡張するを致さざらん。而るに政学を恃んで之れが抵制となすべし。否ざれば、則ち列強の逼処すること、隙を伺い機に乗ぜん。既に吾が国に於ては瓜分豆剖の憂有りて、日本に於ても亦た将に利ならざる所有らんとす。臂折れれば則ち手廃れ、唇亡われれば則ち歯寒し。此れ往牒の名言にして、伯爵の深く懼れる所の者なり。……仁雟、無似なるも願わくば、知る所学ぶ所の者を挙げて、以て吾が国の政界に推行し、即だ此れ仰いで伯爵に報ぜんことを。其れ吾が危敗の国政に益有りて、伯爵の盛期に負かざるに庶幾からん。 (『鴻跡帖』)

と言っている。このような意識を学生に植えつけることが、まさしく清国留学生部の教育の狙いであった。清国留学生部の卒業生の中に、柳仁雟が抱いたような意識がかなり多く見受けられることからすれば、その教育の目的は一応達成されたかと考えられる。言うまでもなく、かかる教育の成果とは、「支那保全」論に即応するもので、留日学生の利益よりも清国政府の利益を、更にそれよりも日本の国益を優先させる成果であった。しかし、例えば藍鼎中(明四〇予科)のように、

或之れに問いて曰く、吾が国、近年日本に留学する者万人を下らず、将来の中東〔日〕関係は決して浅鮮に非ざらんも、設或他日、大隈伯元帥となり、高田学監大将となり、青柳主師・二十講師輔となって其の国人を率いて来攻すれば、中華は将に之れを如何せんや、と。即ち之れに答えて曰く、鼎中は、柔弱不武と雖も亦た必ず不屈不撓、尽力竭力以て之れを殺退し、百千万世後の史を読む者をして、是れ固より一の最も日本に学んで能く其の家法を失わざる者なりと曰わしめば、則ち日本帝国の光栄は如何ぞや。 (同書)

と言って、中国の主体性を凝視した上で断乎清国留学生部当局者に対決せんとする姿勢を打ち出している者のあることも無視すべきではないであろう。また、大学部政治経済学科に学んで安部磯雄の経済学に影響を受け、後一九二一年陳独秀らと中国共産党を創設した李大釗が、一九一五年(大正四)十二月、第三革命が起って帰国したために第二学年の中途にして退学のやむなきに及んだものの、二十一箇条要求を産み出すに至る論理を捉えて、既に在学中に発表した「国情」という論説(『甲寅』一九一四年一一月発行第一巻第四号所載)で有賀長雄を批判し、更にまた、「大アジア主義と新アジア主義」(『国民雑誌』一九一九年二月発行第一巻第二号所載)で浮田和民批判を展開していたことを付記しておこう。

四 韓国留学生と擬国会事件

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 李朝朝鮮は、一八九六年(明治二十九)一月一日、建陽と建元するとともに太陽暦を採用し、断髪令を発布した。このことは、清国の正朔を奉じてその属国に位置していた朝鮮が、その覊絆から脱せんとした意志の宣明であり、事実、翌年の十月十二日には国号を大韓国と改め、王号も皇帝と改められるに至った。ここに独立国としての韓国が誕生したのである。

 学苑における韓国留学生に対する教育の基本的な姿勢は、概ね日露戦争を分水嶺にした「朝鮮魂」の涵養から「日本魂」のそれといった振幅を辿ったと言えるであろう。

 「朝鮮の学生をして多く我国に留学せしむるは、……泰西に留学する一人の費用を以てせば、少くも五人の留学生を日本に派遣せしむるを得て、而して其効力は敢て差な」く、「これ朝鮮人の利益也」とする視角から朝鮮留学生の教育を論ずる「朝鮮の顧問と朝鮮学生」(『中央時論』明治二十八年八月発行第一五号)は、

彼等の学ぶべき科目は何乎。夫れ新創中興の朝鮮が、尤も要する所は何ぞ。政治・法律の学なり財政の学なり医学・理化学なり。就中法律・経済の発達を要する也。理化学技術上の学術は、他国人を雇傭して利用するも差支なきも、政治・法律の事に至ては、国に其識ある人あるに非ずんば、国の組織を固ふるを得ず。且又現今我国に在留するの学生は、多く此等の希望に向つて渡航したるに似たり。即ち他日の施政者たるもの、文明の木鐸として民間を誘導すべきもの等の身分あるもののみ。然らば彼等の学ぶべきものは政治学なり、法律学なり、或は経済の学たる可きは、復た多言を俟たざる也。日本語をして、法律・経済・政治の学を教授するの外に、彼れ学生の頭脳に注入すべき必要事は、曰く日本魂の感化是なり。日本魂の感化によりて、彼等を日本党たらしめんとに非ず。日本魂の思想に附着する、忠君愛国の微妙なる精神は、日本人とすれば日本魂となり、朝鮮人とすれば朝鮮魂と為る。日本を惟り尊ぶの念慮のみなるは、同時に清国を尊とむ念ある所以、露国を尊ぶ念ある所以なり。朝鮮魂なるものの発達あるに及びて、初めて朝鮮独立の事完ふするを得。此朝鮮魂の必要なりとの事は、在留彼れ学生も、亦之を主張するものあり。而して此思想を発達せしむるは、一に如何に我国民が、忠君愛国の教育を受くるかを知らしむるに在り。 (三頁)

との主張を明らかにしている。これを要するに、留学生を朝鮮の独立・中興の大業を完遂すべき責任を担う主体と看做し、このことから政治・経済・法律が留学生にとって必須の学問とされ、またそれらの修学に併せて、独立達成の精神的基盤たる「朝鮮魂」の涵養が不可欠であるのを訴えることによって、従来の朝鮮留学生教育の「失態」を告発したのであった。その「失態」は、他でもなく従来朝鮮留学生に対する教育の中心的な役割を果して来たが、その「学風、農・商を養ふに適当にして、経世の大人物を作るに不向きなる」慶応義塾に半ば向けられていたものの如くである(同誌同号四頁)。このように「朝鮮魂」を涵養すべきことが特に建陽建元を数ヵ月後に控えた時点において強調されたことは、既に日程に上っている朝鮮独立という政治的事態に対する即応を図ったものであったことが窺われる。学苑の朝鮮留学生に対する教育姿勢はその基底において明治政府の対朝鮮政策を優位に置いていたが、これは、明治政府の採用する政策に歩調を合せることを意味していた。四十二年七月六日の閣議において、「半島ニ於ケル我実力ヲ確立スル為最確実ナル方法」として、「韓国ヲ併合シ之ヲ帝国版図ノ一部トナス」方針が決定され(『日本外交年表竝主要文書』上巻三一五頁)、やがて「併合の時機到来」して四十三年八月二十二日のいわゆる日韓併合が成った。かかる事態を前にして、「独立国と独立国とが斯くの如き方法にて合併した事実は、……世界の歴史上今回が嚆矢ではないかと思ふ」学苑の総長大隈重信は、「朝鮮人には如斯して日本魂を吹込むべし」(『実業之日本』明治四十三年九月十五日発行第一三巻第一九号)なる論説において、

今度我国に併合して、隣国に対する恐怖の念より離れ、文明政治の下に立ちて生命財産の安固を保障せらるるに至り、内外共に安心して業務に就くを得、更に生活も改良せられ、教育も普及して、働いただけ富も地位も進歩するものといふ事になれば、彼等の人種的本能も初て発露し、今日の性格は必ず一変するに相違ない。其一変するに臨みて日本魂を吹込む事に努めたら、朝鮮人も同化されて日本人となるを得べしと信ずるのである。 (一五頁)

と述べるに及んで、日本人に同化さるべき「日本魂」の涵養が朝鮮留学生の教育にも適用されるところとなったことが知られる。

 このように「朝鮮魂」から「日本魂」という徴標の変化によって窺われる学苑における基本的な教育姿勢の推移のなかで結成された日韓学生俱楽部が前者の徴標と密接し、また擬国会事件が後者のそれを背景に発生したものであったと言えよう。

 日韓学生俱楽部は、『早稲田学報』第三号(明治三十年五月発行)の「早稲田記事」によれば、「本校学生の重なる人々は本校の朝鮮留学生諸氏と相謀り、彼我の国情を調査し且つ其交誼を厚ふし以て他日の用に供せんとの目的にて昨年日韓倶楽部を組織」したものであるという。従って、その創設は二十九年のことに属し、「爾来会を重ぬる十数回にして其結果は甚だ良好なり」と言われ、更に「これ実に愛すべきのことなり、予輩は其の永続して益々盛ならんことを熱望す」と歓迎されている(七六頁)。因にその活動の模様を第十七回例会に窺えば、次の如くである。

五月二十九日午后一時より牛込赤城神社内清風亭に於て開く。会するもの遠藤隆夫、松岡忠美、南部三郎、橋本金治、森了一、井上雅二、岡本形吉、野溝伝一郎、依田正三、村松忠雄、篠崎昇之助、洪奭鉉、安明善、李寅植、鄭寅昭、劉文相、朴太緒、慎順晟其他の諸士殆ど三十名許、先づ幹事の紹介により講師松平康国氏は支那形勢の一斑を論じ、次に村松忠雄氏朝鮮事情を述べ、続いて鄭寅昭氏起ちて悲愴なる韓人の境遇を訴へて一座を感動せしめ、最後に講師浮田和民氏は亜細亜の将来てふ有益なる談話を為し、其れより茶菓を喫しつつ、談歓歎語の後ち散会したるは黄昏に近かりき。

(同誌明治三十一年六月発行第一六号 七四頁)

日韓学生俱楽部は、学苑の「朝鮮魂」涵養を掲げる教育姿勢の上に成立していたと考えられるが、三十七年五月三十一日の閣議決定の「該国政治ノ靡爛セル、人心ノ腐敗セル、到底永ク其独立ヲ支持スル能ハサルハ明瞭ナルヲ以テ……進ンテ国防外交財政等ニ関シ一層確実且ツ適切ナル締約及設備ヲ成就シ、以テ該国ニ対スル保護ノ実権ヲ確立」すべき方針(『日本外交年表竝主要文書』上巻二二四―二二五頁)を一つの端緒として、学苑が「日本魂」涵養の教育姿勢に傾斜して行くのに伴い、その存在意義が喪失されてしまうほかなかった。

 次に四十年三月に発生した擬国会事件は、大学部政治経済学科学生の田淵豊吉が擬国会の議案として提案した「韓国皇帝を華族に列するの可否」が、韓国留学生の一斉退学により表明せられた非難を招いた事件である。事件の概要は、『大韓留学生学報』第二号(光武一一年四月発行)所載の「咄々怪事(早稲田大学在学生一斉退学)」に、次のように記されている。

現今早稲田大学に在学する本国学生は都合十六名であるが、去〔三〕月二十七日に一斉に聯名退学した。その事由を記すに、早稲田大学の擬国会は……学生輩の一時の討論会ではあるが、門戸を拡張して党派を各々樹て、政界の名士と教員中の堪うべき人を延請して会頭及び党首として推戴し、議案を提出討論し、これによって国会の事実を演習して憲政の本義を暁解せしめるものである。今年も三月三十一日を期して擬国会を設行するに際し、各々党首を延請して議案を提出したところ、その中の急進党に属する田淵豊吉という狂悖学生の議案(殖民政策に関する建議)中に我が皇室の尊厳を冒瀆する文句が有り、我が帝国の臣民としては口敢えて道わざる、目敢えて視ざる文字を排列した。在学中の我が学生諸人は一見して激昂し、即時学監高田に厳峻談弁して該掲示を撤去せしめ、更に議案提出者に相当処罰(学校規定中最厳罰として黜校)することを迫請し、高田の所答が審思した後裁答するとのことであったため無数論難したが已むを得ず明日の再談を約して回帰の後、翌朝某氏の家に斉集して善後策を議した。万一該校において吾人の要求を容れざる場合には、田淵なる者とは義として同に学べないのみならず、かくの如き学校に学籍を置くことは吾人の敢えて為す能わざることである。且つ吾人の力量未だ及ばず、これを欲すと雖も、做すこと能わざれば、則ち一斉に退学して廉耻を全くした後、更に他途を取るに如かずとして各々牢定し、即時、李亨雨(政治経済科)崔南善(歴史地理科)両氏をして総代に定めて派送して更に高田と談弁せしめたところ、説往説来二時間に及ぶも、高田の所言は、「既に田淵を招致して懲戒を加えたので黜学までは承従し難し。余が本校の凡百を主務すれば、則ち余が全校を代表して諸君に謝罪するので、六千余の学生を代表して過失を自服することは決して軽微ではないのであるから諸君も熄怒されたい」と言うのみ。強行に弁論するも畢竟求める所の容れられないのを知り、更に両辺の意思を確定した後、一斉退学するに及んだのである。(原漢韓混淆文) (九四―九五頁)

 こうして一斉退学という事態に突入したのであるが、その後の動きと事件収束の経緯については、同誌同号の「早稲田大学事件の後報」に、

早稲田大学事件は、……在東京の学生がこの報を一聞して感憤に勝えずして即時監督庁に斉集し、好方便を討議したが、万口一声にこの事はたとい早稲田在学生の遭う所ではあるが、しかし吾等が晏然と上学することの義において可ならざれば、則ちこの事件が落着するまで一斉退学し毎日会合せんとして、毎日監督部内に臨時会を開き、或は該校に斉進し、或は総代を専送して厳峻な処置を要求した所、本〔四〕月二日に至って早稲田大学職員陸軍工兵少佐金子昌明が該校の総代となって麴町区警察署長某と巡査部長室小太郎と会中に来到して、諸君の求める所の如く田淵は黜学させ、また本校の監督の不厳なる罪を謝す、として仍即に帰去したことを以て該事件は略々決着した貌様である。(原漢韓混淆文) (九七―九八頁)

と、田淵豊吉の退学処分と学苑当局の謝罪を以て事件の解決が見られたと報ぜられている。しかし、事件は韓国にも報道され、また「本件ヲ頗ル重大視シ」た韓国政府当局では、「参政以下国務大臣一同」が四月五日韓国統監伊藤博文を訪ねて「若シ事実ナラバ相当ノ処分ヲ為サムコトヲ要求」するに及んだ。伊藤統監はそこで、「排日思想ノ当国上下ヲ風靡セル今日ニ当リ斯ノ如キ不謹慎ナル挙動ニ出ズルハ日韓両国ノ交誼ヲ害スルコト尠ナカラズ就テハ此際文部大臣ヨリ重ナル学校長ニ対シ此ノ如キ不穏ナル言論ヲ慎ムベキ旨諭示アル様取計ハレ度シ」と要請しなければならなかった(「早稲田大学生討論会ニ於テ韓国皇帝ヲ華族ニ列スル可否問題提出ニ就キ韓国留学生激昂ニ関スル件」外務省記録文書旧記録『各国ヨリ本邦ヘノ留学生関係雑件』韓国ノ部所収)。尤も、この年七月二十四日に調印された第三次日韓協約によって「韓国政府ハ施政改善ニ関シ統監ノ指導ヲ受クルコト」(『日本外交年表竝主要文書』上巻二七六頁)となり、韓国の名義上の独立も形骸化されて事実上日韓一帝化が成立し、更に日韓併合に際して、韓国皇帝が王族として天皇に下属せしめられたのを勘案すれば、田淵豊吉が提示した「韓国皇帝を華族に列するの可否」なる議案は、明治政府の描く日韓併合を予見したものであったと言えよう。因に記せば、該事件のために退学処分された筈の田淵豊吉は、四十一年の卒業生に名を列ねている(明治四十一年十一月調『早稲田大学校友会会員名簿』)が、他方、該事件において韓国留学生の「総代」として一斉退学を指導した崔南善はこの後退学し、韓国の衰退が文化的後進性に因るとの顧慮から、「伝来の国民小説の醇化、整理、国語辞典の編纂、海外事情文物の紹介等を目的として『新文館』という印刷所と『朝鮮光文会』という出版社を設立し、『少年』『アイドル・ボーイ』『赤いチョゴリ』などを発刊し」て(『韓国留学生運動史――早稲田大学〓〓同窓会七〇年史――』三九頁)、朝鮮の文化的近代化を牽引する啓蒙活動に邁進したのであった。

 ところで、学苑の擬国会は、張徳秀(大五大政)の活躍の場という面も持っていた。貧農の出自ということもあって、韓国留学生の「誰れとも接することなく、日本人の商店で丁稚奉公をしながら苦学し」ていた(『仁村金性洙伝』七八頁)張徳秀は、雄弁の才に恵まれ、学苑の雄弁会員として大正元年十二月八日、大講堂で開かれた懸賞演説大会にあって、内ヶ崎作三郎永井柳太郎両教授を選者とする午後の部で「大正と廃娼」を熱弁して三等に入賞するなど華々しく活躍した。その異才ぶりは擬国会の場でも遺憾なく示され、第二十七期、第二十八期の早稲田議会に、張徳秀は前者では急進党の院内副総理として、後者では自由党の院内総理として参加している。そしてその言動が群を抜いていたのであろう、永井柳太郎は、彼の将来には大いに嘱望するところがあると言った。この張徳秀を弟のようにいたわり、自尊心を傷つけないように心遣いながら、できるだけ助けたのは、のち一九三二年(昭和七)、普成専門学校(高麗大学校の前身)の校長に任じ、解放後一九五一年(昭和二十六)、第二代の副大統に就いた金性洙(大三大政)であったと言われる。

 日本の併韓後、韓国は再び朝鮮と改称され、そして総督府の武断政治に支配されるところとなったことは周知の通りであるが、その朝鮮支配政策は同化主義を根底的理念とするものであった。同化主義は、四十四年八月二十四日に制定公布された「朝鮮教育令」に、「教育ハ教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キ忠良ナル国民ヲ育成スルコトヲ本義ト」し(第二条)、「時勢及民度ニ適合セシムルコトヲ期ス」(第三条)とされ、しかも、その教育には、同年八月普通学校教監に向けてなされた関屋貞学務局長の訓示に、「徒らに高遠に走り社会の実際と遠ざかる如きは寧ろ教育ある遊民を作る所以にして深く戒めざるべからず。要は実用に適する人物を作るにあり」(高橋浜吉『朝鮮教育史考』三六五頁に引用)とある如く、また事実、「教育令」には大学に関する規定を欠き、専門学校以下の教育も、例えば「向うの中学校の卒業生は、丁度日本の高等小学校の卒業生と同じ」(吉野作造『中国・朝鮮論』平凡社「東洋文庫」版一六一頁)と言われて、内地のそれに比して著しく低く抑えられていたように、差別を基底に置いた「忠良ナル国民」の創出を目標としていた。加えて留日修学も、四十四年八月一日より施行されていた「特ニ内地留学ヲ必要トスル学術技芸ヲ履習セシムル為」のみに制限する「朝鮮総督府留学生規定」によって、大きな制約を受けるものとなったのである。ために、吉野作造が言うように、「支那の留学生諸君の中には、帝大その他高等の諸学校に学んで居る者が割合に多いけれども、朝鮮の諸君には極めて少い」現象を呈したわけである。それは、「朝鮮には、進んで高等教育を受ける便宜が有りませぬ」と言われる状況と、「日本にでも留学しようという考を懐く者があると、当局の方では手心を以て出来るだけこれを止める」という「関門」があるためであった(同前)。こうした「非常な不便」を設けたのは、留日修学を選ぶ動機が、一般に、学苑に入学した玄相允の留学の動機、すなわち、「日本人の横暴が日ごとに苛酷になって行くのに痛憤し、日本人の覊絆を脱するには、日本人を制圧するに足る学識がなければならない、という決意を固めて当の日本へ渡」った(『新東亜』一九七〇年一月発行第六五号附録『韓国近代人物百人選』二六七頁)というような、朝鮮独立の志士たらんことを動機とすることへの警戒であったのに他ならない。しかし、鈴木茂三郎(大四専政)が「思い出のいろいろ」の中で、

私の在学中の行事に創立三十年記念の祝典があり、提燈行列や歴史展がおこなわれた。当時は早稲田の提燈行列に対して慶応のカンテラ行列、これが早慶のよびものになっていた。歴史展は、明治から大正にかけて大きな政治上の出来ごとを歴史的に展示するわけだが、同窓生の朝鮮の朴珥圭君が頑強に反対した。朴君のいうところは、日韓に関する日本の歴史的発展は我々にとっては屈辱の歴史にすぎないというのである。私はこの時はじめて深刻な帝国主義の爪あとを見せられたように思った。

(『早稲田学報』昭和四十一年十一月発行第七六六号 九頁)

と記しているように、植民地朝鮮の独立回復のために必死に修学を重ねている留学生も、学苑に散見されたのである。こうした留学生の中から、一九一九年(大正八)の三・一独立運動の宣言文起草者として崔南善が、また、その起爆剤の役割を果した東京留学生の二・八独立宣言の起草者として、この一連の運動の過程で大学部文学科哲学科を中退した李光洙が、輩出したことに特に注意を払っておきたい。それにしても、大正六年十一月、朝鮮総督府が、学苑文学科史学及社会学科三学年の玄相允、同科哲学科二学年の李光洙に対して、崔南善の弟でこの年同科哲学科を卒業した後年の学苑の名誉博士崔斗善(一九六三―五年国務総理。学苑韓国同窓会長)および同科英文学科三学年の金輿済とともに、「学業優等品行方正を褒賞する」総督府賞金を与えている(同誌大正六年十二月発行第二七四号四頁)のは、まさに皮肉としか言いようがない。

五 朝鮮留学生と二・八独立宣言

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 亡国という現実を背にして笈を負い内地留学を選ぶことのできた学生達が目にした内地の政治・社会の現実には、朝鮮とは比較を絶した自由が保証されていた。内地に留学した「其ノ熾烈ノ程度手段ノ差異ハアルモ何レモ朝鮮民族ノ独立ヲ希望セザルハナキ」学生達には、「相互ノ間ニ相団結シテ定期又ハ臨時ニ集会ヲ催シ、且ツ相督励シテ新聞・雑誌ヲ購読シ、世界ノ大勢、国際関係ヲ研究」することが一定の範囲内で許容されていた。従って、彼ら留学生の「智識ハ広ク、其ノ態度モ一般内地人二比シ真剣ノ覚悟ヲ有スルモノ」となったのは、蓋し当然であった(『在日朝鮮人関係資料集成』第一巻八五頁)。学苑の朝鮮留学生について見ると、アメリカ人フィッシャーを会長に戴く在東京朝鮮基督教青年会は、「名ヲ宗教・学術ノ講演等二仮リテ不穏ノ談論ヲ試ム」結社の一つであるが、その副会長兼議事部委員長に李光洙(甲号)が、書記に宋継白(甲号)が、幹事に白南薫(甲号)が、議事部委員に玄相允(甲号)が、教育部委員に高志英(甲号)が、司薦部委員に崔斗善(甲号)が、親接部委員に閔丙世(乙号)がそれぞれ当って、幹部指導者として活躍していた。そしてまた、「相互ノ徳、智、体ノ発達及学術ノ研究、意思ノ疏通ヲ図ルノ目的ヲ以テ」組織された、全朝鮮規模の内地留学学生団体である朝鮮留学生学友会では、「常ニ排日的記事多ク発売頒布禁止処分ニ付セラレシコト一再ニ止マラ」ない機関誌『学之光』を発行していた(同書同巻八八頁)が、その編輯部長として崔八鏞(甲号)が活動し、閔丙世・高志英らもその評議員として参画していたことが知られる(同書同巻六六―六七頁)。因に、甲号・乙号というのは、反日思想を抱懐する人物を取り締まるために日本政府当局が認定した「要視察朝鮮人」で、甲号指定者には通常五名の、乙号指定者には三名の尾行監視がつけられ、その日常の挙措、立話の末にまで及ぶ言動のすべてが監視されるのであった。

 さて、「朝鮮留学生ノ排日思想ハ併合以来断絶スルコトナク、諸種ノ会合ニ於テ国権回復ヲ叫ビ」続けていたが、その「多クハ空論ニ傾キ、彼等ノ思想上真ニ独立ヲ企図シ之ガ実行方法ヲ研究スルガ如キノ事実ナ」きに近かったと言われている(『現代史資料』(26)「朝鮮(二)」二〇頁)が、模索されていた「国権回復」の「実行方法」は、「大正三年日独開戦以来ハ著シク此ノ思想ヲ硬化セシメタルノ観アリ」と観測され、更に大正七年「十一月初旬欧州大戦休戦ノ報伝ハリ、加フルニ米国大統領自由、平等、民族自決等ヲ宣言セルモノ喧伝セラルルヤ、彼等ハ現在ヲ以テ独立運動ノ好機ナリト叫」ぶに至って、理論的基盤を獲得することができたものの如くであった。

 内地留学生の運動の昂揚と、それの一定方向への牽引とには、学苑の大学部文学科哲学科在籍の李光洙の行動と指導とを無視できない。李光洙は第一次大戦の休戦を北京で聞いたが、その頃の北京には五・四運動前夜の国権回復運動が展開し、パリの講和会議で完全な独立が回復できるであろうとの期待も合わさって、熱狂的な空気がみなぎっていた。この影響を少からず受けて、李光洙は朝鮮独立運動決起の意を固くしたのである。中国代表がパリ講和会議へ出発した後、李光洙は京城(ソウル)に帰り、早速、中央学校の教師をしている玄相允を訪ねて独立運動について相諮り、玄相允の師である普成高等普通学校長の崔麟を介して、当時民族宗教として一大勢力を有していた天道教の教主孫秉熙を動かすことによって、天道教を中核体にした独立運動を駆動すべき計画が得られた。ここに、やがて三・一独立運動として朝鮮全土を覆う亡国回復運動の種子が播かれたのである。こうして李光洙は十一月末に東京に戻り、学苑専門部政治経済科に在学する崔八鏞と、決起に当る同志の人選を進め、崔八鏞により、大学部法学科生の宋継白の外に、白寛洙(正則英語学校生)・金度演(慶大生)・徐椿(元高師生)・尹昌錫(青山学院生)・李琮根(東洋大生)・崔謹愚・金尚徳を得るのに成功した。同志十名(のちに金喆寿が加わり、十一名)は、「朝鮮青年独立団」を結成し、「独立宣言書」「決議文」「民族大会召集請願書」の起草を決定し、既に『無情』『開拓者』などの小説作品を以て文名を馳せていた李光洙がその起草に当り、また、海外に訴えるためにその英訳文をも作成した。この頃、崔八鏞は同志一決の見解として、宣言発表後、同志一同の逮捕に及べば、朝鮮独立の熱望が世界に伝わらなくなる恐れが生ずるとして、李光洙上海派送の意見を伝え、李光洙はこれを諾して上海に向った。崔八鏞らはまた、崔麟はじめ宋鎮禹・玄相允・崔南善らの朝鮮における独立運動指導者に東京の運動の委細を伝知するために、宋継白を京城に派遣した。宋継白は「独立宣言書」を、学苑の角帽(一説に学生服)に縫い込んで祖国に渡ったという。上海に到着した李光洙は、埠頭で偶然にも日本に向わんとしていた旧知の張徳秀と際会し、李光洙は旅費の残金を張徳秀に与え互いに鼓舞するという一幕も見られた。張徳秀は、上海に亡命した志士の新韓青年党の一員として日本に派送されるところであった。

 そして、周到な準備が進められるうちに、「独立宣言」発表を予定していた大正八年二月八日になった。この日、東京の朝鮮基督教青年会館の一階講堂では、午後二時から朝鮮留学生学友会の総会が開かれた。ところが、学友会長の白南奎の開会宣言が了るか了らぬかに崔八鏞が突如立ち上がって「緊急動議」と叫びながら壇上に駆け上がり、「朝鮮青年独立団を発足させよう」と興奮しながら提議し、次いで白寛洙が、「朝鮮独立青年団は、我が二千万民族を代表して正義と自由の勝利を得た世界万邦の前に独立を期成せんことを宣言する」に始まる「独立宣言書」を朗読し始めた。その時会場にいた刑事が解散命令を宣告し、警官隊が乱入して乱闘の後、数十人の留学生を逮捕、即日起訴した。「独立宣言」主謀者で上海に在る李光洙と、帰鮮中のため不起訴になった崔謹愚とを除く九名は、崔八鏞・徐椿・白寛洙・尹昌錫・金度演・金喆寿の六名に禁錮九ヵ月、李琮根・宋継白・金尚徳の三名に禁錮七ヵ月十五日の刑が六月二十六日に確定した。

 二月八日以降、東京の朝鮮留学生は、祖国の独立運動に参加するため大挙帰国し、それぞれ出身郷里における運動の指導者として活躍を続け、高宗の葬儀が行われる三月一日を期して計画された三・一独立運動の中核を形成した。その三・一独立宣言は、孫秉熙・崔麟・権東鎮・呉世昌・崔南善らの協議の結果を、前述した如く崔南善が執筆したものである。しかもそれは、二・八独立宣言書を見ていた崔南善により、「表現の順序において、二・八独立宣言書にしたがって作成されたものと推測される」(金成植著・金学鉉訳『抗日韓国学生運動史』六二頁)のであった。三・一独立運動の渦中、総督陸軍大将長谷川好道が更迭され、後任者として海軍大将斎藤実が赴任した。同時に総督府の官制に改正が加えられて、総督には、武官のみならず文官にも就任の道を開き、憲兵警察を普通警察に変更し、また、教育面についても「内鮮一体」「一視同仁」主義が強調され、内地に準拠した教育の改革が図られた。従って、内地留学に関しても、「従前の留学生規程は手続等煩雑にして、往々朝鮮学生の内地渡航を束縛するものなりとの批難あり」との省察から、大正九年十一月「朝鮮総督府留学生規程」を廃し、「彼等の内地遊学を全く自由ならしめ、又従来朝鮮留学生と称呼したりしを在内地朝鮮学生と改めた」(『在日朝鮮人関係資料集成』第一巻三〇〇頁)。このような武断支配から文化支配へと日本政府の対朝鮮支配政策に大きな変更を余儀なくさせた原由として、三・一独立運動の起爆剤の役割を果した二・八独立宣言のインパクトを認めないわけにいかない。

 李丙燾の回顧するところによれば、三・一独立運動で投獄された玄相允の消息が学苑に伝えられると、「西洋史の大家である煙山専太郎先生は、直ちに五百円と慰労の言葉を玄相允のいる西大門刑務所に届けられた。先生は『早稲田学会』において、『昨年度の卒業生のなかで、玄相允という者は独立運動をしていて、たとえ今は獄苦にあるとはいえ、学生の時から責任感と義務感が際立って群を抜いた立派な学生であった』と讃辞をおくっていた」(『中央』一九七五年三月発行第八四号二九一頁)という。