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第四編 早稲田大学開校

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第二十一章 明治天皇と大隈重信

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一 大逆事件

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 俗にたとえる鳳凰舞い、騏驎現るとも言うべき聖代も、永遠なる能わない。終焉の近づく靴音は、日露戦争の帳尻合せをせねばならぬいわゆる戦後経営の緊縮に入った明治四十年代から聞えだした。足軽から出でて位人臣を極めた今太閣の伊藤博文も、空しくハルビン駅頭に響いた銃声に生命を落して、世を挙げて錯愕し、殊に大隈は終生のライヴァル、腹心の友を失うて感慨無量だった。四十四年の白(米)二十銭の大暴騰は庶民の竈を脅かし、家を失うて浮浪に陥り、東京の下町に道に穴を掘って一枚の新聞紙を焚いて中を温め、それに入って寝る者が相次いだ。そういう中に軍部は二個師団増設を企図し、帷幄上奏権を濫用して内閣を脅したが、遂に大正の初頭に西園寺内閣を倒すに至り、その前後から何事か変事の起きそうな悪い予感を漠然と持たぬ者はなかった。

 社会主義者で政府の目の上の瘤だった幸徳秋水は、アメリカの同志に迎えられ、滞留している中に無政府主義に急傾斜し、帰来、急激なる直接行動論を唱えた。年始葉書に、

爆弾の飛ぶよと見てし初夢は

千代田の松の雪折れの音

の歌を刷って同志ばかりか、山県筆頭元老、宮中へも送り、雲の上を震駭させたのは、少しいたずらが過ぎた。大逆事件の口火はこれによって点ぜられたという。明治四十三年の初夏、幸徳秋水は静養執筆中の相州湯河原温泉で捕えられ、連累者は全国に亘って疾風迅雷の素早さで引致・羅織せられた。罪は、その年の秋に予定せられた岡山大演習に行幸の天皇を途中に擁して爆弾を投げるという計画で、事前に発覚したとの噂が流れ、全国民は魂の底から寒気立つ思いをした。翌四十四年一月十八日にその判決の言い渡しがあり、二十四人に死刑の宣告が下った。半ばは広大無辺の聖恩による特赦によって無期懲役となったものの、残る十二人はその恩典に浴し得ぬ大逆罪だというので、遂に絞首刑は一月二十四日と翌日に亘って執行せられた。

 早稲田大学はこれまで何となく社会主義の醞醸地のように思われ、事実、それを信奉して幸徳の平民社に出入りした者は、教授にも学生にもいた。しかし前記の二十四人の中には、早稲田の関係者は一人も加わっておらぬ。元来この大逆事件は、火のない所から大火事を起して見せたトリックなのだから、早稲田関係者を連累に引っ掛けようとすれば幾らでもその手があったのに、殊更にそれを避けたかに見えるのはいかなる原因か。大学をこの事件に巻き込んでは、騒然たる世の物議をかもして、却って藪蛇となるのを警戒したのかどうか微妙なところである。

 これ以来、社会主義は口にするも禁絶となり、学校でこれを講ずることは、文部省が厳しく差し止めた。しかし安部磯雄が有志学生のため大学の教室外でこれを講じていたことは既記の通りで、つまり早稲田ではこの学問的法燈を細々たりながらも燃やし続け、守り通した。

二 明治天皇崩御

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 幸徳一味が死刑になった翌年の夏休みに入ってからである。大学にはきわめて少数の学生しか人影は見えず、ひっそりとした校庭には稚雀が餌をあさり、踏まれる危険のなくなった日陰では、蘩蔞が青く萌え出していた。

 その七月二十日は、密雲、都の北を圧しながら雨にはならず、雲の絶え間絶え間からは、梅雨明け近い眩しい日光が射してきて、まことに蒸し暑い日であった。それをつんざくように、号外売りの鈴の音が街々の惰気を醒した。日露戦争以来、絶えて久しい号外なので、何事だろうと手ん手に買ってみると明治天皇御不例! 国民みんな青天に霹靂を聞くような意外さを感じた。十日前の東京帝国大学卒業式に行還幸された馬車を沿道の人はみんな見て知っている。しかし実際は、日露戦争の心配で天皇には不眠の夜が続いて疲労が甚だしく、尿中の蛋白質の増加に側近は早くから等しく心配していたということである。

 政府は時々刻々の容態の変化を、脈搏から熱度、時々ガスを御発散あらせらるということまで逐一発表した。余計なことをすると山県が苦りきるのを、首相の西園寺は、国民も心配を共にすべきだと言って、元老の差し出口などに頓着しなかった。宮城前の砂利の上には、炎天下を物ともせず多くの赤子が土下座して祈念するのが、一種の懐愴で壮厳な気さえ漂わせていた。老若男女、一切の国民の姿がそこにあった。山伏の姿など殊に注目を惹いた。ただその赤子の中には、一人の学生の姿も見出せなかった。早稲田はもとよりだが、帝大、学習院生も!

 七月三十日、遂に崩御、それが市中に知れ渡ったのは正午頃であったが、晴れ渡ったカンカン日和が急に飆風を起して、木立は唸り、土石は舞い、砂利を逆さに揚げるような音を立てて猛打乱撃の大雷雨が襲うた。まるで『平家物語』にでも書かれているような凄まじい天変地異が起きること二時間。敗軍の兵の退く如く急におさまると、またカンカン日和に戻り、猛雨の間ひっそりと音をひそめていた油蟬やみんみん蟬が急にまた騒ぎ立てた。

 即日、新帝践祚。同時に元号が変る。地方に夏休みで帰っている学生から東京への友人の便りには「明治から大正に亘る永い間御無沙汰した」という名文句も見えた。

 九月十三日斂葬。皇居前の広場には学生も参列し、道を隔てて左側が帝大、学習院、一高、高工、高商その他の官立学校生、右側が早稲田、慶応が筆頭で、他の諸大学が続いた。学生の次には一般奉送者の席が設けられていた。

 明治天皇の崩御とともに、その高徳を偲ぶ幾多の記事が新聞・雑誌に現れ、殊に大正元年初頭の諸雑誌が競うて追悼号を出したのは偉観であった。

三 天皇からの嫌われ者

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 新聞・雑誌では、何と言っても、我らの総長大隈が第一の人気者である。何しろ明治維新から新政府に迎えられて、明治天皇に仕えた年月が長い。伊藤博文、山県有朋などの後年の長州閥の寵児は先輩が多くて、参議に取り立てられるのが大隈より数年遅れている。尤も明治十四年の政変で失脚後は、天皇に親近すること、到底山県に及ばぬ。彼はニコライ二世の戴冠式に参列して、その神秘・荘厳なるに打たれ、日本の皇室もかくありたいものと考えて、帰来、専制ロシアの風を容れて宮中と国民とを努めて隔絶しようとし、諸方から反対を受けつつも、隠忍してその意を通すに若干成功した。そこでこの際天皇のことについて、濫りに語るを慎しむ態度を採ったから、記者として近寄り難い。これとは反対に、大隈は、大新聞も小新聞も、高級雑誌も通俗雑誌も、相手を選ばず、求めに従って多々ますます弁ずるので、彼の明治天皇に関する追憶談は、まさに巷に氾濫するの状を呈した。

 宮廷派は、大隈は明治天皇の嫌われ者だったという噂を隠密の間に流して、これに歯止めをかけた。大隈側近は、その流言の言われなさを主張し、弁駁するところがあった。開き直って大隈は果して明治天皇の嫌われ者であったかと聞いたら、そうだと断言できる証人はどこにもいない。あったかもしらぬが、その時は皆死んでいた。実はそういう噂が早くから流れていたことは確かである。明治十年代初頭に、大隈の雉子橋邸へ行幸があった。天皇は重臣の邸を順々に歴訪されたので、行幸を受ける方は一代の光栄とし、天機を奉伺するにあらゆる工夫を尽したものだが、大隈はその頃権勢一世を掩う豪華さを反映して、折から寒さに向う時だったので、金の火鉢に金の火箸を添えて、あらゆる供奉の者にまで差し出した。天皇これを見て竜顔をひそめ、「大隈は贅沢が過ぎる」との叱責があって、爾来、眷寵を失したという噂は天下に拡がっていた。しかしこれはどこまでの事実か。天皇側近の小知恵者が、大隈の評判を落すために作為した無根の事実だったかどうか、今日としては判ずる由もない。徳富蘇峰の『大正政局史論』は、彼の汗牛充棟も啻ならざる著作のうちの名編の一つだが、彼の大隈反感が極度に達した時の著作なので、満面に毒気を吐きかけている。その中に、大隈の雉子橋邸は珊瑚を叩きつぶした粉を壁に塗り込めて光沢を出しているのが、天皇の目に留まって、若干天機を損じた事実があったようなことを書いている。金の火鉢は噓にしても、幾らか類似の事実はあったのかもしれぬ。それを思えば、ここにこの編の結論として、明治天皇と大隈重信の交渉を一瞥しておくのも無用ではないであろう。

 大隈が京都御所に出仕していた頃というから、何れ維新後あまり間のない時であろう。彼が長崎から召されて、パークスとの論争に大いに手腕を発揮し、中外にその才腕を認められてからのことに違いない。一日、当番になって、宮中の宿直に当っていた。深更に及んで、こくりこくりと居眠りをしていると、着けていた烏帽子の纓(紐)が、擁していた火鉢の中に垂れて、火がついたのも知らずにいた。気がついてみると、焼けて、火は顎に及ぼうとしている。あわてて消し止めたが、困ったのは後始末である。纓は、軍服の肩章と同じく、位階勲等を表示するので、特に主上から賜わることになっており、勝手に付け替えることはできない。再下付を乞うのには、何れ定まった方式があるのだろうが、新参者の大隈はそれを心得ぬ。やむなくそのままで朝の天機伺に出ると、天皇にはすぐに目に留めて、機嫌うるわしく「大隈に代りの纓を取らせよ」と仰せられた。

 話はこれだけだが、大隈は晩年まで、左右に好んでこの話をして聞かせている。天皇の外祖父で、新政府の有力な発言者中山忠能は、意地悪で人をいじめるのを以て快とした。もしこの失態が先に彼の目にでも留まったら、「貴公ら地下からの成上り者は、宮中礼法を御存知あるまいが」と言って、油を搾られずにはすまない。ところが、これで何事もなく、めでたく鳧がついた。この話の中に、外藩から取り立てられた大隈が早くから天朝の認識を受けて、しかも君臣のいかにもなごやかな関係であったことが窺われて、微笑ましい。

 明治九年、天皇には早く国法制度研究の志があり、トッドの『イギリス議会政治論』を有栖川宮に渡して、これを基に研究して、草案を作って差し出せとの仰せがあった。有栖川宮はこの書を大隈に授けたらしい。この衝に当るのに大隈が適任と認められたからであろうし、天皇に異議があったとは考えられない。

 明治十一年、大久保の横死後、伊藤博文は長州勢力補強のため、大久保に睨まれて遠くロンドンに左遷とも放逐ともつかず外遊していた井上馨を呼び戻した。これは独断の処置だったので、明治天皇には宸怒を発し、誰の許可を得てしたかと、糾責最も厳しかった。伊藤は這々の体で恐懼して御前を下り、大隈に乞うて天皇への執り成しを依頼し、大隈の伏奏で天皇も漸く機嫌を直されている。この頃までは、伊藤よりも大隈への親任が遙かに大きかったことが分る。事実において西南戦争後、長州は薩摩をへたに刺戟すると何事をなすか分らぬ無鉄砲さを恐れ、薩摩はまた長州がいかなる狡知を弄して、不利を計るかもしれないのを警戒し、反目のうちにも、互いにある点で親和する傾向が見えた。この藩閥連合は新たに一種の幕府的勢力になるかもしれぬのを恐れ、その防止策に、有栖川宮も岩倉も、それとなく大隈を援護する風が著しくあった。その背後の控えには明治天皇の目がある。

 以上は、本書第一巻に詳記したことで、つまり大隈への信頼が最も厚かったことを読者に記憶を呼び戻してもらうために、要約して繰り返したのである。しかし宮廷では天皇の側近に次第に反大隈はおろか、憎悪大隈の雰囲気が醞醸されつつあったことにも確証がある。

四 大隈の反対者

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 その陰謀の画策者は主として土佐と肥後である。

 維新の功藩は薩長土肥と言われ、事実それで間違いなく、明治政府の人材の登用は大体その順序で構成されている。しかるに鳥羽・伏見の天下分け目の一戦で一発の鉄砲も撃っていない肥前が、後から出てきたくせに、外交と財政の咽喉首を押えてのさばり出て、土佐勢力をあるかないかの薄弱なものにしてしまった。この不満を代表したのが佐佐木高行(のち侯爵)、田中光顕(のち伯爵)、細川潤次郎(のち男爵)で、彼らは終始一貫宮廷に勢力を張り、表向きの政治には関与するところはないが、天皇の側近にいて隠然たる支配力を持つこと、昔の中国の宦官のようであった。

 もう一つの焦点は肥後の熊本で、順当にゆけば薩長土肥の肥は佐賀の肥前でなく、熊本の肥後であるべきところであった。肥前が勤王とも佐幕ともつかぬ曖昧な態度を持して動かぬ時、長岡監物や宮部鼎蔵その他多くの志士が決起して、幾多の生命を失い、幾斗の血漿を流している。しかしいよいよ維新の体制が成ると、今まで後輩視していた佐賀に後れを取って、油揚を鳶にさらわれた格好であった。しかし熊本は中央政府には何らの勢力も占めなかった代り、井上毅と元田永孚が天皇側近に不抜の勢力を布き、ここは宦官的勢力として土佐以上であった。

 この高知派と熊本派は別に連合したわけではないが、同じく天皇周辺から、専ら佐賀を仮想敵とすることでは一致した。佐賀という中にも、やや隠者めいた副島種臣と、自己を守るので他に干渉せぬ大木喬任とは問題でない。目の敵は、八面六臂我が物顔に振る舞って憚るところのない大隈一個が焦点である。殊に元田永孚に至っては、マニア的な大隈嫌いであった。彼も横井小楠門下で、非上毅とともに五郎・十郎と並び称された秀才だったが、小楠の共和政治に傾倒した進歩的学風は享けず、偏執的な西洋嫌いとなって、その目標を森有礼と大隈重信の二人に絞った。森有礼が憲法発布の朝暴漢の兇刃に倒れたのは、もとより元田の直接的差金ではない。しかし間接的には全く関係なしとは言えない。その如く、明治天皇の大隈嫌いの噂を何となく天下に浸潤させたのも、彼の差金が大いに与るところがある。なにしろ伊藤博文でさえ、上奏のたびに、勅裁に添えられたる聖諭を見ると、何者か玉座の近くに潜んで助言する者あるが如きを覚え、さぐって元田永孚なるを知ったというほど、背後の力が大きい。大隈はそれから目の敵にされたのだ。不利なることは明白である。

 しかし明治十四年の政変までは、天皇の大隈に対する信任の厚さは動かない。大隈が憲法案を、重臣・参議の討議を経ず、ひそかに直奏を願い出でたのは、そもそも天皇の信頼の、他の参議よりは特別に厚いという自信があったればこそである。事は漏れ、大隈が天皇に扈従して北海道行幸に出でた留守に、その勢力転覆の陰謀は成された。これは、新時代の潮流に沿うて流転し得ぬ薩摩が、伊藤・井上に飽き足らぬ長州の不平分子と苟合し、二人をサーベルの力で嚇して、大隈との仲を引き裂き、その力をも合せて大隈の追い落しを計画したものである。聡明なる明治天皇がこれら画策が見えぬほど節穴の目の持主であろうか。北海道から還幸の途中、東京に生じた政変の詳報は、櫛の歯をひく如く、伝えられてくる。天皇は新聞を見て、「他の参議協同して大隈を排斥せんとするなりと推察したまふ」(『明治天皇紀』第五五三八―五三九頁)とあり、未だ大隈を疑う気配もあらせられない。

 しかるに還幸後、侍講元田永孚を召して諮詢せられると、彼は満面の敵意を含めて奏上している。

〔大隈は〕同僚に謀らずして私論を内奏す。若し之れを嘉納あらせられんか、衆論沸騰し危禍忽ち到らん。願はくは速かに之れを黜けたまはんことを。且重信の財政を執るや、不正の行為少からずとの世評あるは、聖明夙に聞知したまふところ、今日仮令其の私論を斥けたまはずとも、既に財務に関するの罪軽からず、謹みて聖鑑を垂れたまはんことを希ふと。

(同書第五 五三九頁)

 まるで私怨を以て公事を判じ、大隈を弾劾するに等しい。しかるに天皇のこれに対する返答は、柳に風の受け流しで、「該事件はさまで憂ふべき問題にあらず」(同書第五五三九―五四〇頁)と、てんで取り上げようとせられない。結局、十四年の政変の陰謀は、その圧力を以て天皇に迫り、無理無態に大隈追放の勅裁を拗じ取るに成功するが、天皇は最後まで「薩長出身の参議相結合して大隈を斥けんとするにはあらずやとの叡感あらせられ」、大隈の非を明らかにする証拠を求められると、岩倉右大臣は「若し薩長出身の参議に対して疑念あらせられなば、内閣破裂の外なし」(同書第五五四三―五四四頁)と、威嚇するが如き態度で迫って来る。こうして大隈の追放はやっと聴許になったが、大隈もこれまでの功臣だから、辞職勧告には然るべき人を派して道を悉すべく聖諭あり、伊藤博文と西郷従道がその任に当ったことは、本書第一巻に既述したところである。すなわち明治十四年の政変までは、明治天皇の大隈への信寵は他の何人に対してよりも厚く、そしてこの追放には、薩長の当事者以外、元田永孚の毒手が動いていることが分る。

 しかしその後五、七年を出でず、薩長の功臣と同じく伯爵を賜わり、黒田・松方両内閣の外務大臣、そして遂には薩長以外の最初の組閣なる大隈・板垣両名への大命降下となっている。「大隈嫌い」が本当なら、そういうことがあり得ようか。或いは、嫌いは嫌いでも、私情と国事とは分離して事を処したのともとれるが、それだったら明治天皇の雅量のいよいよ大なるを証し、つまり「嫌い」の念のなかったのと同じである。

五 大隈の帯びたスティグマ

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 ただ、第一次大隈内閣崩壊の自発直撃弾となった尾崎行雄文相の、いわゆる共和演説だけは、ひどく天皇の不興を買った。国体が天皇独裁の形を執っているのだから、たとえ万々一の仮定でも「日本が共和国であって、大統領を選挙する政治組織であるとすれば」の一言は、天皇の癇触を害すること甚大だったのは、その大隈首相を召しての下問の言辞によっても察せられる。

 しかし人事の交錯は、たとえ王者といえども、その好き嫌いによって左右はできない。西園寺公望と近衛篤麿は公卿出の両英才である。西園寺は、天皇幼時の、いわゆるお遊び相手として親近感があった。近衛は歳が若くて、そういう接近の機会がなかったが、しかし臣下としては第一の天皇家に近い家柄で、おまけに気宇宏達、華冑の出にして英雄豪傑の風を帯びていた。この近衛を天皇は、冷々淡々として情熱に乏しいが聡明無比の西園寺とともに、愛重せられること甚だしかった。いや、或いは近衛に対する眷寵の方が大きかったかと思われる跡もある。そして西園寺は、自ら忠狂と称して天皇に奴隷的に近い態度を執る伊藤に近く、近衛が、天皇の「嫌いな」という噂の広く流れている大隈に接近するのは、夙に天皇の耳目にも反映していることであった。

 近衛が健在だったら、「近い将来の総理大臣だから、今から傷のつかぬように用心させなければならぬ」との天皇の勅諚のあった近衛内閣もでき、大隈の地位も変ったものであったろう。思いがけなく日露戦争の直前、アクティノミコーゼと称する世界に何人というほど罹病者の稀な難病に罹って、四十の若さを以て突然死亡したので、野に虎嘯した大隈はいよいよ政権からも遠のき、天皇との距離も拡がった。しかし、明治天皇から恩賜金三万円の御下賜を受けているのは、他の大学に例のないことで、流説の如く天皇が「大隈嫌い」であったら、到底望めなかったであろう。

 この恩賜金御下賜の裏に秘話が存在していることは三〇二頁に既述した如くである。すなわち、伊藤が政友会総裁を辞し、大隈が憲政党総理を辞して、二人とも身軽になると、政治に依って生じた恩讐はいつしか薄らいで、元来が最も馬の合う旧友が恋しくなり、二人の間には昔のような親密な往訪が始まった。何が二人を疎隔させたのかを反省してみると、常に煮え湯を飲まされて来たのは大隈である。鉄道の敷設を最初は二人の共同企画として進めたのに、輿論がやかましくなると、伊藤はそれを大隈の肩に投げかけて、自分は岩倉使節について洋行して世の非難を避けた。大隈の広量は、あの時は俺が伊藤を逃がしてやったのだと語っている。明治十四年の政変の時も、薩摩の武力に威嚇されて盟約を裏切ったのは伊藤・井上で、火の粉をかぶったのは大隈である。大隈の広量は、そのため立憲制約束の詔勅が下ったのだと、これを大目に見て、敢えて伊藤を咎めていない。条約改正の時も、伊藤は大隈案を全面に亘って支持の約束をしておきながら、『タイムズ』に内容を素っ破抜かれて輿論が沸騰してくると、いつの間にか反対派に回り、遂に大隈の隻脚は爆弾で吹ッ飛ぶに至った。大隈・板垣の最初の政党内閣が誕生した時も、伊藤はそれを天皇に奏請した責任者でありながら、輿論がやかましくなると、清国に遊んで、身に及ぶ責任を回避している。そこで伊藤は、考えてみれば寝ざめがよくないので、大隈の一番喜ぶことを考えたのが、早稲田大学に恩賜金の斡旋をすることだった。これは世の等しく認めているところである。確かにこれは、あの時の早稲田としては何より喜んだことであり、創立以来、付帯して全くは消滅するには至っていなかった「大隈の私学校」の悪評の痕跡は、これできれいに払拭せられた。天皇陛下も功績を認めて功労の褒賞金を賜うたのだとあれば、どんなに深いstigmaをも洗い落す硝酸の役目をする。天皇側近の重臣達が振りまいた「お上は大隈嫌い」の煙幕も、これで悉皆、晴れ渡ったことになる。

六 皇太子の大隈びいき

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 明治天皇の「大隈嫌い」の噂の真相は、今から、いやその当時でも究める手段のないことだったが、皇太子、後の大正天皇の大隈贔屓は、早くからこれまた世に伝わって、隠れもない事実だった。天皇の嫌いな者を皇太子が内々好かれるということも絶無とは言えない。ただし天皇がお嫌いと分っている者を、皇太子が反対に贔屓されるということは、常識では考えられない。

 明治四十五年の春、皇太子は異例にも早稲田大学へ行啓された。この異例なことを大学では無上の光栄とし、当局は府内の新聞の第一面に、

告早稲田大学校友諸君

皇太子殿下来十七日本大学行啓御内定に付当日午後二時迄御来校奉迎相成度候也

五月十五日 早稲田大学

(『時事新報』明治四十五年五月十六日号)

という広告を出すほど、全学苑を挙げて歓迎した。大学部の学生を制服姿で揃えることは難しいので、金ボタンの予科生が、鶴巻町をはじめ沿道の街々の両側に整列した。在学中の一年志願兵少尉が幾人か礼服で出て来て指揮刀を抜いて号令をかけ、粛然・整然として少しの乱れも見せなかった。いわゆる予備将校が、早稲田にはこんなにも在学するのかと目を見張る向きもあるほどであった。この光景も、天皇が帝国大学卒業式に行幸される時の、学生の畏れ奉る式の冷厳な尊崇に凍てつくような感じの伴う出迎えとは、全く違って、どこか大衆的賑やかさのこもったものであった。帝大の天皇奉迎がゴシック式なら、早稲田の皇太子奉迎はバロック式とも言えた。

 市島は行啓の際の次のような揷話を書き残している。

学長に謁見を賜ふに先だち、殿下は波多野侍従職を召され、学長に如何なる挨拶を為すべきやと御問あり。波多野は如才なく言下に、幸に大隈伯ここに在り、それこそ大隈に御問あるこそよからんと言上せるに、如何にもとて伯に御下問あり。伯は得たり賢しと謹むで、「三十年来人才教育の功労小なりとせず、尚今後一層努力せよ」と仰せ下さらば感奮致すべしと申上げたるに、殿下は其通り学長に御挨拶なりたりと伯は密かに語らる。 (『雙魚堂日載』巻十三)

 この皇太子の践祚早々、哲人三宅雪嶺は新帝の将来について、「新帝は御聡明無比である。そのために却ってやり損なわれることもあろうが、政治が新味を帯びてくることは確かである。大隈伯への御信任が厚いが、或いは大隈伯が返り咲いて、内閣をつくるような事態が生じないとも限らぬ」と言ったが、大隈は政権を離れて十五年、今は憲政本党総理をも辞して、早稲田大学総長として教育に専心し、政治については閑雲野鶴の状態であるから、そんな日が来ようとは世間一般思わず、早稲田当事者にもそれを考えた者は全くなかった。

 しかし大正三年の春には思いもかけず大隈内閣が出現したのだから、この哲人の一語が予言的意味を持ったことを、今更のように痛感せざるはなかった。