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第四編 早稲田大学開校

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第二十章 三つの学外事業

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一 文芸協会の設立

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 大学の誇るべきは各学科の協力にあり、一科を立てて特殊扱いすることは必ずしも至当でない。しかし時によって稀有の人物が出で、稀有の手腕を発揮し、その教える科をして天下に重からしめる例がある。例えばヘーゲルを見よ。彼がその宏大な哲学体系を開陳し始めるやイェーナ大学の名声とみに全欧の学界に重く、また「読まざる書なく、評伝せざる文人なし」と言われたゲオルク・ブランデスが開講すると、コペンハーゲン大学に世界の目が集まった。我が学界にもそうした例は間々あり、西田哲学、河上のマルキシズム講座が並び興ると、京都の声価とみに増し、本多光太郎博士の金属学によって、仙台が忽ち海外にまで名を知られるに至った。

 早稲田大学にも、そのような例が前後二度ある。前にしては、明治四十年代の文科で、小説の自然主義と新劇運動とがここに興って、早稲田文科は広く文界の指導者たり、後にしては大正デモクラシーが大山郁夫北沢新次郎らに率いられ、東大の吉野作造と呼応して、早稲田を新思潮の発源地たらしめた。

 文芸協会は、島村抱月が留学帰国土産として興したところである。一〇二―一〇三頁に説述した如く、文学・演劇を中心に広く文化的大運動を始める膨大な計画であったが、結局完全に実現したのは『早稲田文学』の再刊のみに終ったとさえ言えないことはない。しかし文芸協会と言えば、今日、雑誌『早稲田文学』を思い浮かべる者は一人もなく、演劇研究所の設立による俳優の養成と新芸術の振興とによって評価せられている。島村抱月は、学者に似合わぬプラン・メーカーで、大規模に計画は立てたものの、実現と持続には精力と耐久性を欠き、結局はその師坪内逍遙の、生れつき飯より好きな芝居愛好と、半世紀をシェイクスピア研究に捧げて倦まぬ執念深さとが、十分とは行かなかったが、その効を収めた。

 すなわち演劇の上演は協会設立当時両三回試み、最も有名なのは明治四十年秋、本郷座における第二回興行であろう。「ハムレット」五幕および杉谷代水作「大極殿」と逍遙作「新曲浦島」が出し物だった。これが夏目漱石の小説『三四郎』の中に材料として取り入れられている。

此ハムレットは動作が全く軽快で、心持が好い。舞台の上を大に動いて、又大いに動かせる。能掛りの入鹿とは大変趣を異にしてゐる。ことに、ある時、ある場合に、舞台の真中に立って、手を拡げて見たり、空を睨んで見たりするときは、観客の眼中に外のものは一切入り込む余地のない位強烈な刺激を与へる。其代り台詞は日本語である。西洋語を日本語に訳した日本語である。口調には抑揚がある。節奏もある。ある所は能弁過ぎると思はれる位流暢に出る。文章も立派である。それでゐて、気が乗らない。三四郎はハムレットがもう少し日本人じみた事を言って呉れれば好いと思った。御母さん、それぢゃ御父さんに済まないぢゃありませんかと言ひさうな所で、急にアポロ抔を引合に出して、呑気に遣って仕舞ふ。

(『漱石全集』第四巻 二九二頁)

 漱石と逍遙とは、ある間隔を置いて互いに通じ合っている敬友同志の仲である。『朝日新聞』の小説に書けば、読者が文芸協会の存在とその仕事を認めてくれる足しになるだろうという意図の下に、すなわち、ある厚意で小説に取り扱ったのである。しかしこれを頂点として、文芸協会の仕事は次第に行き詰まって、遂に四十二年以降逍遙個人が引き受け、四十四年には会長に就任することになった。

二 逍遙の個人事業

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 逍遙は一言一行、決して等閑にせぬ人である。そして生れながらの演劇好きであった。折から昔の人の言い伝えた定命を過ぎた数え五十一歳。文芸協会を引き受けるほどなら、これに自分の一切を賭けようという勇猛心が湧いてきた。明治四十二年の春である。逍遙は先ず、小型な学校の形をとる演劇研究所の設立を思い立った。その第一歩として、自邸を建設敷地として無償で提供することを申し出た。いわゆる家も屋敷もおっぽり出した背水の陣である。

 思い立つとすぐにも実行に着手せねばやまぬ逍遙の性急な気質から、旧屋は取りこわして研究所の新築に着手し、それの完成せぬうちから研究所生の募集に掛かったのである。四月中旬には試験を施し、厳選の結果、第一期生男女二十一名の生徒を得た。何れも熱心な演劇の志望者で、中には数名の早稲田の学生も交じっていた。研究所建物の竣工を待たず、清風亭その他を借りて授業を始めるという気の早さで、文芸協会演芸部演劇研究科の規定は左の通りである。

一、本会演芸部内に演劇研究科を置き、部員及一般志望者をして演劇に関する技芸及学理を研究せしむ。

一、研究科修了年限を二ケ年とす。

一、研究科目は次表〔五九二頁参照〕の如し。

一、学期は毎年五月を以て始まり翌年四月を以て終る。

一、学費は入科の際束修金三円及月謝金三円宛として、出席の有無に拘らず之を徴収す。

一、一般入科志望者は左の諸資格に就て試験を受くべし。

学力(中学又は高等女学校卒業程度。但、此種の学校の卒業証書を有するものは学力試験を要せず)

容姿(舞台的表情に適する者)

音声(音量及音質に欠点なき者)

天禀(表情模擬の天分を有する者)

健康(強壮にして事に堪ふる者)

操行(品性高く志操鞏固なる者)

一、入科志望者は府下在住の確実なる保証人と連署して本会事務所宛願書及履歴書を差出すべし。

一、入科志望者に対しては幹事会の詮衡を経て仮入科を許し、一定期間に漸次其資格を試験して入科の許否を決す。

但し、仮入科中は学費金二円(一ケ月)とす。

一、研究科生は本会の許可証を得ずして公開の演技に加はるを得ず。

一、本会は研究科に対して終了後の責任を負はず。

一、操行・学芸其他に対して本会の面目を汚し又は前途成業の望無しと認めらるるものは除名す。

一、本科指導講師は左の如し。

坪内雄蔵 伊原敏郎 東儀季治

土肥庸元 金子馬治 島村滝太郎

(『早稲田学報』明治四十二年四月発行第一七〇号 一九頁)

課程表)

 その学科の配置であるが、逍遙自らシェイクスピア『ハムレット』を講じ、他に実際心理学という名目で稟賦性の研究、朗読法、実演を受け持った。また芸術哲学は金子筑水、英語対話に近世劇としてイプセンの『人形の家』を島村抱月が講じた。他に伊原青々園の歌舞伎史、東儀鉄笛の声楽と動作写生、土肥春曙の朗読法と実演、松居真玄(松葉)の発声法と実演研究、藤間嘉舞八と坪内大造の日本舞踊、歌舞伎座の立師市川升六の擬闘(立廻り)、小早川精太郎と坪内大造の能狂言などが教科であった。しかし何と言っても眼目は、坪内逍遙金子筑水島村抱月三人の文科の首脳教授が事に当ることで、これが世の注目を惹かずにはおかなかった。

 既に前期文芸協会も、無論早稲田と関係ある仕事と思われていたが、ここに至って、実に早稲田大学の分身なるかの如くに世間から錯覚せられ、まさにそれは早稲田大学の分校の如く世間から思われながら出発したのである。事実、早稲田に学籍を置きながら、二股かけて、演劇研究所にも入っている学生が三分の一を占めて、主勢力をなしていたのだ。この中に、後年、演劇学で名をなした学苑教授・文学博士の河竹繁俊と、新国劇を作った劇壇の巨材沢田正二郎がいた。

 しかし研究所は、勿論早稲田と違った点もあった。数人の女子学生がいて、成人男女が膝を接して受ける授業だから、風紀の乱れを警戒して、殊更に厳格にした。山川浦路は学習院女学部から来たので、院長の乃木希典が名代のやかまし屋だから、そこから河原乞食の真似をする者が出たのは華族の学校として皇室とも連絡のある母校の名誉を汚す者として、退所させようとするのを、新聞記者が「坪内博士の仕事に認識不足も甚だしい」と抗議して、乃木院長を説得したという話も伝わっている。真偽の程は分らない。しかし外間からもそれだけの行儀よさと権威を持った機関として認められていた。

 ただ厄介なのは、各方面から寄り集りの研究生の学力が不揃いな点で、いやしくも教育を施そうというには多大の不便があった。後年名をなす松井須磨子などは、郷国信州の不完全な裁縫塾の出で、女学校教育を受けておらず、そのため特に英語の力が薄弱で、シェイクスピアでは単語の読みにも片仮名をつけ、授業についていくには仲間の手助けを借りねばならぬことが多かった。しかし勝気で、頑張り屋で、後に世評を受けた通りの猛烈女性だったので、歯を食いしばるようにして、辛抱して、どうにかこうにかついて来た。

 堅気の家庭からは、学問として演劇を研究するのは諒とする、しかしうちの子は役者の真似をさせられては困るという抗議が、学苑へも研究所へも来た。そのため坪内逍遙も、団十郎張りの科白・身振りで世に聞えたシェイクスピアの講義を大学では控え目にして学問一辺倒に片寄せ、大いに特色を失ったことも争われない。これはプラスであったかマイナスであったか分らず、とにかく大学としては研究所の授業方針との間に一定の厳格な境界線があることを宣伝して、世間の誤解と非難を免れようとした。

 こうした精進努力の結果始業以来十ヵ月を経て内試演会を催すまでとなり、目を刮して見るべきものがあった。その試演は左の如くで、成績は上乗、腕に覚えができたのであり、従来の古い芝居の型から脱却した新型の演劇人の誕生を見たのである。

第一回(明治四十三年三月二十七日) 「ハムレット」(逍遙訳、第三幕全部、土肥春曙指導)、「ヴェニスの商人」(逍遙訳、法廷の場、東儀鉄笛指導)、「デビッド・ガアリック三場」(松居松葉訳ならびに指導)

第二回(同五月二十九日) 「空想」(ロスタン原作、土肥翻案、東儀指導)

第三回(同七月十日) 「鎬木秀子」(イプセン作、土肥翻案ならびに指導)、「孤島の兄弟」(松居翻案ならびに指導)

第四回(同十一月五日) 逍遙邸庭園の一角を利用して野外劇「棺の傍」(成瀬無極原作、松居指導)、「噂のひろまり」(グレゴリ夫人原作、松居翻案ならびに指導)

その他舞踊、能狂言、擬闘など。ただし、試演は多く研究所の六間に二間の舞台に紅白の幕を張り巡らし、扮装もしない素稽古に近いもので、見る人も十名に達しない内部の人に限られていた。しかし錐は囊中に隠されても、鋒芒は外に現れる。玄人仲間には、「あそこの研究生はまんざら捨てたものではないぞ」との噂が立った。

 小山内薫と左団次の組んだ自由劇場は、一足先んじて、イプセン作・森鷗外訳の「ボルクマン」を演じ、ここに新劇の夜は明けた。文壇も文学青年もこぞって讃嘆の声を上げて惜しまなかった。しかしそれは最も新しき内容の劇を、旧派の俳優たる左団次が演じ、女役も歌舞伎の伝統で女形が演じた不自然があった。新しき酒を古き革囊に盛ったのである。文芸協会の研究生は、新しき酒を新しき革囊に盛るのには自分らが出場するのでなくてはとの、技癢の感に堪えなかった。

三 空前の前景気

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 明治四十四年六月第一期生卒業。

 あたかもよし、その前の三月に新築なった帝国劇場は、五月下旬の五日ないし一週間の出し物を、文芸協会に交渉して来たのである。逍遙訳の「ハムレット」演出でこれに応ずることで契約は成立し、帝劇は二千円の出演料を支払ってくれることが決まった。まことに華々しい文芸協会の世間的出陣だったのである。一たびこの報が伝わると、ただに演劇界・文芸界のみでなく、天下を挙げてこの快挙に湧き立ったと言ってよい。その盛んな景況は、その場に立ち合った者でなくては到底想像も及ぶまい。

 帝国劇場は、日本で最初の国家的劇場である。諸外国では王立劇場・国際劇場があって、貴賓・国賓をここに迎え、オペラなり演劇なり、その国の持つ最高の総合芸術を観覧に供する。日露戦争に大勝して、世界の一等国に伍した日本が、そのような文化設備を欠くのは国辱として、財界の大御所渋沢栄一などが首脳となり、財界・政界・文化界の総力を結集して、いわば準国家的設備として建設したのである。そしてその檜舞台が、明治新文壇の開拓者で、劇界最高の学問的研究者で、文学博士(その頃はまだ数が少くて敬重せられた)の坪内逍遙が生涯を賭しての仕事なる研究所で二ヵ年手塩にかけて育て上げた研究生に、提供されたのである。贔屓筋や、旦那連の後援者や、花柳界など、旧式演劇に伴う弊害からは全く無垢な学生上がりのフレッシュマン俳優が、その舞台を踏むのだ。これが一世の評判にならぬ筈がなかった。

 奇態な現象には、壮士芝居はこの頃沈滞期に落ちて意気消沈の形であったが、この尻馬に乗って急に息を吹き返し、田舎回りの小さな座でも、全国言い合せたように、開幕前に一席ぶって、「坪内先生の文芸協会」の話をし、自分らもその同じ傾向にある劇革新の道を歩む者だと宣伝してやまなかった。その弁口には必ず早稲田大学の話を付け加えた。地方では、まだ大学というものからは御光が射すように有難がり、偉いもののように思っていた。文芸協会の門出は、期せずして早稲田の名を地方の隅々にまで徹底させる媒介となった。

 後にも先にもこれほど世から期待を受けた事業はめったにない。森鷗外は、一年後、『中央公論』第二七年第四号(明治四十五年四月発行)に寄せた「坪内逍遙君」という一文の中で言っている。

坪内君が住宅に舞台を構へて舞や劇を興行せられると聞いた時、僕はヲルテエルのやうだと思つた。それから劇場を興されると聞いた時、僕はワグネルのやうだと思つた。但し坪内君は王侯の助力を藉らずに遣られるから、えらい。

(『鷗外全集』第二六巻 四三二頁)

これは、往年の没理想の論敵が多少冷かし気味で言った点もあるが、しかし官歴に終止した鷗外などには、到底望んでもできないことなので、本音も交じっている。

 しかしこれは、嵐の大河に向って新艤装の小舟を漕ぎ出すようなものである。世間の評判が高く、あまり期待が大きいので、その調子に乗って研究生が有頂天になり、思い上がることを警戒し、逍遙は「『ハムレット』の公演に先きだちて――第一期研究所生に告ぐ――」という一文(『逍遙選集』第一二巻所収)を発表した。熱誠と真摯に満ち、思いやりの細かなことで、恐らく逍遙の汗牛充棟も只ならざる著作のうち、最高の位置を占める、光輝を放つような名編である。東大の美学専攻で漱石門下の阿部次郎は、元来、逍遙に好意を寄せる立場の人でない。逍遙の文化史観などはボザンケの美学史も正確に読めておらず、その文から新しき事実に教えられるところはある、しかし新しき見方で教わるところはないとけなしながら、「坪内博士」の中では、この一文に言及して、明治年間、他に二つとない涙のこぼれるような有難い文章だと次のように言っている。

坪内先生は文壇の先輩中厳格な意味で最も事業に堪へる人の様に思はれる。森先生の吏才は先生の器用な性質を証明するのみで、先生自身が吏務を以て自分の事業とする自覚を持つてゐられるとは思ひ難い。道義的自覚と道義的精神の充溢とを背景として、天職と云ふ様な高尚な意味に於て事業をするに堪へる人は恐く坪内先生を除いて外にあるまいと思はれる。俳優養成所(?)卒業生に告る辞の如きは読んで涙のこぼれるほど貴いものであつた。

(『中央公論』明治四十五年四月発行第二七年第四号 二〇四―二〇五頁)

さすがに哲学的素養を積んだ人の言葉だけに、これはまことに勘所を押えた名批評である。

四 公演の波紋

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 文芸協会の「ハムレット」公演は、当然のことながら毀誉褒貶さまざまであった。通がりを一つも言わぬ一般人の見方の最高代表として、徳富蘆花の批評がある。蘆花は芝居というものを久しく見たことがなかったが、ハムレット役の土肥春曙が小学校時代の友達なので、それが懐かしさに夫妻同道で見に行った。一別したのは西南戦争の翌年で、それ以来会っておらぬのである。

其れからかけ違つて君に逢はざること三十三年。三十四年目に帝国座の舞台で丁抹の王子として君を見るのである。興味は一幕毎に加はつて行く。オフィリヤは可憐であつた。劇中劇の幕の終、ハムレットの狂喜が殊に好かつた。諫言の場もハムレットの出来は好かつた。矢張王妃が強過ぎた。ポロニアスは手に入つたもの。ホラシオは間がぬけた。オフィリヤの狂態になつての出は凄くて好かつた。墓場で墓掘の歌ふ声が実に好く、仕ぐさも軽妙であつた〔これは万口等しく好評を極めたのである〕。要するに帝国劇場は荘麗なもの、沙翁劇は真面目で案外面白いものであつた。

(『みゝずのたはこと』 五九二―五九三頁)

 この蘆花の批評を以て一般人の考えを最高水準に表現したものとすれば、最高知識人・最高学者の厳正な立場から容赦せずに批評したのは夏目漱石である。この前『三四郎』の中では、同じ「ハムレット」でも試演ではあるし、且つ小説の材料として使うのだから、漱石も一般人の見地に立って述べたが、今度は坪内逍遙が身命を賭しての仕事だし、それに同じ「ハムレット」の上演を二度批評するので、一歩も仮借しなかった。漱石の「坪内博士とハムレット」は『東京朝日新聞』の六月五日号と六日号との二回に亘り掲載せられた論文で、その主意は、台本に用いた「坪内博士の訳は忠実の模範とも評すべき鄭重なもの」だが、しかしそれと日本人との間には三百年の時間的距離があり、またイギリスとの空間的距離もある。だから、原作そのままに押しつけようとするのが無理で、「博士はただ忠実なる沙翁の翻訳者として任ずる代りに、公演を断念するか、又は公演を遂行するために、不忠実なる沙翁の翻案者となるか、二つのうち一つを選ぶべきであつた」(『漱石全集』第一一巻二八七―二八八頁)――一口に言えば、イギリスだってシェイクスピア劇をそのまま演ずるのは稀有のことで、時代の好みに添い、観衆の好みに合うように、勝手に剪栽する。文芸協会の「ハムレット」も、もっと日本の現代人の好みに合うように工夫すべきだったというところにある。この一言は逍遙にも心肝に徹してこたえた。そこで次回からは、漱石への招待状は最終日の席を送って、批評が公演途中で新聞に出るのを防ぐ用意をしたのだと、漱石未亡人が語っている(尤も漱石は、ハムレット評も、そこを配慮して、芝居が終了してから公にするのだと自ら断っているので、夫人の言との間に多少の思い違いがある)。

 紛々たる諸批評のうち、若き学生達の心を代表したのは、KN生の「帝国劇場の『ハムレット』」(『文章世界』明治四十四年六月発行第六巻第八号)だろう。これはその前年、早稲田の文科予科に入った学生、野中賢三の筆になる。彼は、同誌の投書家で最も出色の活躍をした一人で、上京して早稲田の予科生になるとともに、同誌の訪問記者に採用され、「早稲田文科の一日」とか「早稲田文科の諸教授」とか、さまざまな文章を書いた中の一つである。

絣を着、袴を佩いた若き我等の仲間と共に、私は息を凝らして舞台を瞶めてゐた。 (五八頁)

彼は、ハムレットが亡霊を追う時の一句「草葉に螢の光はうすれて、はや、暁の風ぞ吹き初むる」を転用して、それからこう書いている。

おお長かりし吾等が夜は明けようとする。日本よ! 極東の芸術家よ! 暗に倦んぜし汝が瞳に、汝が面に、やがて曙の光は漲り入らうぞ、暁の風は吹き渉らうぞ。「土肥さんはうまいね、確に成功に近い。」「あれだけのハムレットの信友として、ホレーシオは眠つてるね、解釈が足りないんぢやないか。」「扮装はアービンクの型だね。」「クローディヤスは、何だか支那人……関羽見たいな気がするが――意味のありさうな矛盾だぜ。」「ほら、あすこに小山内薫がゐる。あすこに――饗庭篁村、何だか些と面白い対照だな。」青年の群は、眼と耳と頭とを出来るだけ、敏捷に働かして、此新らしく生じた劇壇の運動を直視してゐるのだ。……私は廊下へ出て、嬉しいやうな淋しいやうな気分を抱きながら、騒然と群るる人込みの中を意味もなく歩き廻つてゐたが、不図芸者らしい二人の女の立噺をしてゐる傍を通つた。「さつぱりつまらないわね、妾もう帰らうかと思つてよ。」「さうね――」此会話を夢のやうに聞き流して、少し歩いた時、坪内博士に会つた。博士は如何にも浮かぬ顔色をしながら、人の中へ紛れ込んだ――おお、老いたる博士の此貴き努力よ! と思つた時、私の耳には先刻の女の会話が甦つて来た。呪はれたる彼等が眼よ、此博士の君のために、吾等が芸術のために、縫はれたる汝等の瞼の開くるは何時だらう。

(五八―五九頁)

 早稲田の学生の気持は、大体こんなものだったに違いない。坪内博士が「浮かぬ顔」をして人の中へ紛れ込んだとは、まさに入神の筆、一句にしてその心事を活現した鋭い観察である。実は、あらかじめ逍遙の心配した通り、できばえは予想よりも遙かに悪かったのだ。彼は、ズブの素人の研究生を手とり足とりして教えた。オフィーリア狂乱の場を演ずるには、自分で巣鴨の癲狂院を数ヵ月訪ね、収容の狂女を観察したことが、逍遙の日記に見える。そして研究所に帰って、振りをつけるのが真に迫って、みんな先生自身発狂されたのではないかと思って、ぞーッとした感じに打たれた。それほどまでにしても、その効果は思ったほどに舞台に現れなかったのだ。無理はない、この俳優達はみんな素人なのだ。その代り旧式な弊風に染んでおらぬから、それを払拭する手数は省けたろう。しかし素人を狩り集めて、二年やそこいらの訓練で、帝劇の檜舞台を踏ますというのが、土台無理な話なのだ。

 逍遙と小山内薫とは、離れながら互いに好意を持ち合った仲だったが、この時は自由劇場と文芸協会と、新劇の旗上げで競り合う形になった。左団次と組んで、旧式俳優の熟練と巧者とを十分に利用し得ても、事一たび、女形を用いる点を衝かれると、小山内は目をつぶって黙り込むのを常とした。文芸協会は女優を養成したので、その点は時代に添うたが、素人を二年ばかりの仕込みで舞台に駆り出した無理を指摘されると、逍遙は渋い顔をするの外なかった。

 それにしては興行成績は上乗で、全七日毎日八分通りの入りがあったのだ。帝劇は約束した二千円を払ってくれ、これなら結構、今後もやり続けて行けるという自信がついた。内田魯庵が、これは世間が坪内君の情熱にヒプノタイズ(催眠術にかかる)されたのだと言ったのは、適評である。大阪・名古屋の地方興行は、東京より更に大きな成功を収めた。両地とも社会的に重きをなす校友の援助が目覚しかった。坪内自ら、「新演劇の将来」の望みは東京より関西にかけられると漏らしている。校友はこれを、一文芸協会の仕事、或いは坪内の仕事というより、早稲田大学の主力の一角が、珍しく寄附金集め以外のことで出動して来たように歓迎したのだ。『大阪朝日新聞』は明治四十四年七月一日号に「坪内博士の事業」と題する社説を掲げ、

坪内雄蔵君日本にては光り輝く文学博士の学位を戴き、国家的演劇を作るの大願望を以て、早稲田の学林中に崛起し、産を傾けて芸術家を養成し、国劇の大改良を為さんとするは至極面白きことなり。

と言っている。校友の多い早稲田関係の仕事だったから、その成功だったとも言える。

五 「マグダ」突如上演禁止

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 坪内家の邸宅の大半を売却してその資に当てた試演場が新たにでき上がり、その落成式に、島村抱月訳の「人形の家」と、逍遙が日露戦争の時発表した「新楽劇論」以来の宿願なる舞踊劇「寒山拾得」と「お七吉三」と「鉢かつぎ姫」とを試演して見せた。舞踊はその芸が完成の域に達して渾然たる芸術をなしているのが嘆称され、「人形の家」は松井須磨子が新劇女優たる力量を漸く円熟せしめて、そのノラが感嘆せられた。

 秋の帝劇における第二回公演は「オセロ」の予定であったが、劇場側からの申し出で、「人形の家」を上演することになった。これは世間的にも予想以上の成功を博し、「醒めたる女性」「婦人問題」の声が噴湧して、騒然として天下はその是非の論に明け暮れした。実は第一回の「ハムレット」も逍遙のシェイクスピア執着を古いとなして、青年達は初めから近代劇の上演を嘱望していたのだ。その方が、素のままに近い姿で演出できて、劇的訓練が少くてすむから、容易でもある。ただ日本に在来ない型の芝居なので、そこに懸念があり心配があるのを、松井須磨子はみごとに克服し、乗り越えた。「新しい女」に適合した新女優現るの声は、期せずして、秋田雨雀、楠山正雄などの新批評家からも、饗庭篁村、関根黙庵、山崎楽堂などの旧批評家からも、同時に起ったのが注目せられる。これには訳者である島村抱月の、手とり足とりの細かな指導が大いに与るところがあった。

 第三回はこの成功に乗じ、翌四十五年五月になって、同じくズーデルマン作・島村抱月訳の「ハイマート(故郷)」が「マグダ」という題で有楽座で演ぜられ、評判になったことは、「人形の家」の時を遙かに超すものがあった。

 しかるに十日間の興行の打上げ後五日目に、思いがけずも警視庁から、今後の上演禁止の通達に接した。あまりの評判なので、内務・文部の役人が大挙して見物し、その結果、警保局長古賀廉造も一見して、前後の幕におけるマグダの行動は、本邦古来の道徳に反し、家庭の良風に反する、それにこの作の内容は教育勅語の御趣旨に背くというのが、禁止の理由であった。今日は多くの意味を持たぬ教育勅語が、終戦前まではオールマイティで、それに齟齬するとすれば、是非の論なく、どんな無理無体も甘受せねばならぬ暴圧時代だったのだ。文芸協会は、順風満帆で乗り出した船の檣頭から、迅雷の一撃に遭ったようなものである。既に大阪公演も確定していた時だから、これが禁止となっては、まだ基礎の脆弱な協会は壊滅もしかねない。

 輿論は沸騰したと言うより、熔発したと言うのが近い。浮田和民、内田魯庵、上司小剣などがこもごも筆を執って、当局の没分暁を攻撃してやまなかった。これは早稲田の人、または大学或いは抱月に近い人である。計らずも官僚対野党、東大対早稲田の対立の如き観を呈したが、しかしこの時は輿論の大部分が協会援護のために立ち上った。姉崎正治建部遯吾、吉田熊治、中島徳蔵、得能文、江木衷などの東大系学者も珍しく筆を執って論戦に加わった。中には、教育勅語を持ち出した大倫理学者もないではなかったが、大部分は当局の「分らなさすぎる」のを攻撃した。

 島村抱月は直ちに古賀警保局長と内務次官床次竹二郎を訪ね、直談判をしたところ、終幕、マグダが親の命に背く部分の改訂を条件として、上演解禁の許諾を意外に易々と降ろしてくれ、おまけに「須磨子の妙技、抹殺するに忍びざるものあり」という意味のお世辞までくっつけたのは、察するに輿論の火の手が思いの外に大きく揚がったのに腰を抜かし、どこかで妥協して収めたいと、例の事なかれ主義の官僚的習気が出たのかもしれない。藪をつついて蜂の巣をこわし、群蜂に襲われてびっくり仰天している田吾作で、当局を諷刺する漫画が出た。

 改訂すると今度は、同情者の新時代人達がこぞって文芸協会の屈服を非難した。改訂と言っても、マグダの行為を打ち消すような言葉を書き加えたのである。そこで逍遙が「いやな人は改訂で付加した所は見ないがよろしい。早く座席を立ってくれれば、下足番がこまなくて喜ぶだろう」と、あの謹厳な人にしては珍しく皮肉で応酬した。この劇を以て大阪と京都の公演も終り、名古屋に来たが、どうしてだか、ここは甚だしい不入りであった。官僚教育家の暗い手が回ったものと察せられる。そこへ思いがけぬ明治天皇不例の号外が出たので、後援者と協議し、三日で中止して東京へ引き揚げた。

 文芸協会の盛況は「マグダ」公演を以て絶頂とし、その後は衰運の道をひた向きに急いで、遂に大正二年七月には崩壊する。解散までに、まだショーのYou Never Can Tellを「二十世紀」と改題した松居松葉訳、同じく松葉訳の『アルト・ハイデルベルヒ』を改題した「思い出」、最後にシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」を上演しているのであるが、要するにそれは強弩の余勢で、たとえ興行的に成功したものがあったにしても、大きな社会的意味は持たぬから、ここには縷説せぬ。

六 大学の受けた損害

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 文芸協会が衰勢から分裂、分裂から遂に破滅へと、秋日のように急速に落ち込んで行った原因は明らかである。ことは松井須磨子から発した。

 ノラ、続いてマグダで、一躍日本一の新劇女優に押し上げられた須磨子の名声を、岡焼き半分、からかい半分、協会の先輩の男優達、土肥春曙や東儀鉄笛がよく無駄口を叩いてからかった。殊に東儀はどこかに道楽者の風を帯び、厳格なる研究所内としては度の過ぎることがよくあった。抱月にしてみると、須磨子はやっと育て上げた鶯一羽である。それを汚されたり、傷めつけられたりしてはたまらないので、自然それをかばう立場に回り、ここに東儀と島村の間に溝が生じた。「東儀君、須磨子にちょっかいを出すのはやめてくれたまえ。君が手を出すと彼女には子供ができるかもしれない。しかし僕が手を貸す分には頭ができる」と抱月が言ったというゴシップが新聞に伝わった。抱月という人は学者肌の紳士、生一本な、安倍能成の批評を借りれば、まことに正直な人である。しかし表向きに声を荒らげて、ぴしゃりと東儀の悪ふざけを遮断するような高圧的態度に出られる人でない。陰で一人、やきもきしながら須磨子をかばっているうちに、いつか恋愛関係が生じた。いわゆるPity is akin to loveである。須磨子は世に知らるる通りの、一筋繩ではゆかぬ強かな悍馬、彼女の方から、自分の名声を守り、築くには、抱月を擒にするのが最良策と打算して、積極的に仕掛けた穽に、抱月は知らずして落ち込んだのだと見る人が多い。両者の性格から割り出した結論は、そうならざるを得ない。「『柔和、堅忍、抑制、冷静の人』であつた島村の心をかき乱した責任は、寧ろ須磨子にあつたと見てよからう」(河竹繁俊柳田泉坪内逍遙』五二九頁)。

 そのうちに、正直な抱月は一人胸にたたんでおけなくて、その心境を歌や対話劇に託して発表しだした。

或る時は二十の心或時は、四十の心われ狂ほしく

ともすればかたくななりし我心、四十二にして微塵となりしか (『抱月全集』第八巻 九七頁)

これらの歌および明らかに自分の心境の打ち明けと見らるる対話劇『影と影』などの発表されたのを見て、「あれあれ、島村先生にしては変だな」とは、逸速く学生達が気付いて騒ぎ出したところであった。逍遙はもとよりもっと前から察しがついていたに違いない。「島村の詩を読む、島村妻来」と、彼の『日記』には簡単に記されている(大正元年九月六日)。しかしこの一行の記述の裏には、嵐の襲う気配がひそんでいる。

 そのくらいだから、島村当人の苦悶・懊悩は狂死せんばかりの激しいものであったろう。抱月の玄関にいた音楽書生中山晋平の書き記しているところを見ると、抱月は二階で溜息をつきながら「坪内さんにすまない」と独り言を繰り返した。また深夜一人でふらふらと家をさまよい出るので、晋平が心配して後をつけてみると、戸山ヶ原に通ずる鉄路を前にして、じっと考え込んでいるのであった。また時には「泡鳴はえらい。その主張を勇敢に実行した」とも独り言することがあった。半獣主義提唱の泡鳴はその頃妻を離別し、新しき愛人遠藤晴子を連れて、臆面もなく知人を訪問するので、みんな面くらっていた。抱月には轢死の決断もつかなければ泡鳴の厚顔無恥もなく、いたずらに逡巡するTo be, or not to be, that is the question的苦悶があるばかりであった。

 高田早苗は、島村の才能を最も高く買い、自分の後継の早稲田大学学長には、ひそかに彼を胸中に置いていたとも言われる。島村の告白を聞いて深く同情し、関西の旅に連れ出した。こうした冷却期を置いて、あきらめでもしてくれればと、一縷の希望をかけたのである。逍遙も須磨子をじかに呼んだ。『日記』に「昨夜小林正〔須磨子の本名〕を招きて諭す」(大正元年十二月七日)とある。島村が養子で養家への義理のあること、その他の錯綜した事情を話して聞かせると、よく納得して、「思い切りました」とこの時はっきり約束して帰ったと伝わっている。

 その後の事情は錯雑を極めているが、大学史には格別関係しない。ただ校友は、年次の古い卒業生は坪内を支持し、いわゆる近代文学になってからの新しい卒業生は島村を支持して両派に分れ、最も親しい師弟が相背いて、まさに血で血を洗うとも言うべき「お家騒動」の様相を呈してきた。これから数年後に起る、日本学校史最大の紛擾とも言うべき「早稲田騒動」の前哨線をなすかの観がある。高田・坪内の計らいで、全面的に若き時代の抱月を立てる方策に逆らわず、ひとえに抱月を生かすことを計って大正二年に生れたのが芸術座で、これから大正七年晩秋流感に倒れるまで五年余の新劇運動は、言わば抱月の孤軍奮闘であった。

 抱月は早稲田大学の文科を去った。欠けたのはただ一人である。しかし文科の生みの親の逍遙は既に大御所的存在で、中心は抱月であったから、後は腑を抜かれて浮き上がった魚のように生気のない文科となった。

 「これで須磨子は、学者としての島村先生を殺してしまった。ひどいことをしやがる」と学生達は口々に罵って、良師に別れるのを痛惜した。それほど抱月が学生達の間に持った信望は偉大であったのだ。美学を受け持つ後任としては紀淑雄が来た。抱月より一年前の第一回の文科卒業生、女子美術学校の校長だから必ずしも不適任ではあるまい。しかし「物質の暗黒と冷たさが、光と温かさによって打ち克たれた時、そこに美がある」という式の口述筆記である。それがボザンケの『美学史』の拙劣な直訳だと悟った学生達は、遂にその教室をボイコットした。

 美学は抱月の生命である。一座を率いて地方興行に出る時も、「これだけは何とかして大成させたい」と言ってその草案や参考書から目を離さなかった。従って、その教場に説いた美学は、まるで掌上に物をころがすように手に入ったもので、おまけに自然主義を潜って来た彼の学説は、西洋の諸説の祖述と違い、著しく独特の色彩を帯びたものになりかかっていた。「知識ある批評」において彼は言う、「要するに美学は批評のために区々たる尺度を給するよりも、寧ろ文芸の宇宙人生に於ける地位を明めんとするものである」(『抱月全集』第一巻三六九頁)。また大正元年、抱月が早稲田の教壇に立った最後の講義の内容を伝える「美学未定稿」の一節に言う。

美学の応用学としての意義は……、従属的、条件的、不必然的程度に於て確実であるが、それだけでは美学の全部としては価値の少ないものである。少なくとも吾人の研究としては、更に他の意義を要する。即ち美学は価値学である。人生に於ける美的現象の意義、換言すれば美といふ価値現象と他の価値現象との関係、従つて人生の帰趨に対する美の地位の研究でなくてはならない。この意味に於いて美学は人生学の一である。 (同書第三巻 二六一頁)

 古往今来、美学に「人生学の一」という偉大な課題を負わせた例はない。そこを展望した学問の新領域は、遂に収穫を見るはおろか、開拓の鋤を入れただけで見捨てられねばならなかった。文芸協会の新劇運動は、確かに早稲田大学歴史の属性を豊かにし、それに光彩と円光を添えている。しかし大学の産んだ最上の学者の一人を蹉跌せしめて、その学問の完成を無残にも挫折させたマイナスは否定し難い。

七 大日本文明協会

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 大隈重信の夢想或いは志向の究極が東西文明の調和にあったことは、「未完成又未了のまま後に残され」た最後の著述がその名を冠するのを見ても明らかである。そしてそれを端的に実現に移したのは、実に「大日本文明協会」(大正十四年に「財団法人文明協会」となる)の設立であった。「明治四十一年四月三日呱々の声を挙げ」たと、『財団法人文明協会三十年誌』の「はしがき」にあるところを見れば、日露戦争の大勝に日本の世界的地位が往日と一変したのに促されて創立せられたので、その前に完成した『開国五十年史』などと、同じ線上において評価すべき企画であろう。実はこれも早稲田大学に直結している事業ではない。しかし、その総長自らが会長として身を乗り出しての計画であり、その評議員として名を列ねているのは、七人の東京帝国大学教授(井上哲次郎、石川千代松、和田垣謙三、上田万年、松井直吉、真野文二、元良勇次郎)、東京高等師範学校長(嘉納治五郎)、雑誌主幹(『日本及日本人』の三宅雪嶺)で、我が大学から名を列ねている教授は三人(高田早苗坪内雄蔵浮田和民)に過ぎないから、数から言えば劣勢だが、しかし編集長は浮田和民で、そして末期にこれを継承した宮島新三郎は、特に才子を以て聞えた英文科の新鋭。早稲田中心に会が運営せられているのを見ても、早稲田大学と関係することは、もとより次に説く南極探険の比ではない。

 ただ、地道な文化事業で、「第一次事業として四十一年十月より向ふ三ケ年を期し菊版五十巻三万余頁の編纂並に翻訳書を刊行」することを以て出発した。それは、東京専門学校が学問の独立を標榜して設立せられても、実際にすぐ実現したのは、専門教育を外国語によらず専ら日本語を用いて始めたのと、頗る外観を等しうする。学問の独立は、その背後に、政府の御用学問、外来の宣伝学問(キリスト教伝道に関する神学などが一例)、その他一切の桎梏・束縛を脱した、自由な日本の学問の建設大成にあった如く、文明協会が翻訳を仕事とするというのも、これを以て国民知識の世界的標準への到達、遂には東西文明の融合・統一という大念願があった。

 三宅雪嶺は、大隈内閣の時、文明協会の記念講演に「翻訳書を卑しむ勿れ」と題して、今、一科専門の学を離れ、大隈首相ほど博識の士はめったにない、しかしこれは、青年時代に長崎で習い、また教えたオランダ語や英語によって吸収せられた量はきわめて少く、大部分が翻訳書によって得られたのである、翻訳によったからとて軽蔑する理由は少しもなく、今日、仏教は日本が一ばん研究が進んで、豊富な知識を持っているが、それは往昔の中国の翻訳によって勉強したのである、梵語から仏典を漢訳するに当り初めて翻訳という語ができたくらいに、それは文化的大事業であった、その仏典を自家薬籠中のものとした日本は、仏典を研究し、それを生かして信仰として行動に現すにおいて、移入の労を執った中国、または本国のサンスクリット語を用いるインド人などとは比較にならぬ高段階にある、これは翻訳を活用した最好の例だと言って、この事業を意義づけた。

 最初の出版は『欧米人之日本観』で上・中・下三冊、各冊みな千ページを超す大冊である。先ず上編には、マルコ・ポーロの日本観に続いて、種子島に漂着したピントの日本紀行、フランシスコ・ザヴィエルの日本書簡や『日本西教史』に現れたる日本観から、ウィリアム・アダムズ(三浦按針)の書簡、ケンプェルの日本観(その他目ぼしい文献にはみな言及し、節訳せられている。ただそれらにも劣らず重要なシーボルトの『日本』のみが脱漏しているのが不思議である)、ツンベルグ、チチング、ゴローニンとつないで、ペリーの記述に及び、開国前来朝の諸家から王政維新より日露戦役終末に至るまでの諸家(リンカーン大統領の国務長官退任後、明治三年に来日したシーワド、同十三年来日の第十八代大統領だったグラントをはじめ、ディクソン、ラフカディオ・ヘルン、ロシアのニコライ師、フェノロサ、リギョール、ルヴォンら)みな伝記を略述し、その日本観の特質を述べて概説し、その著書中から中心と思われる章を訳出している。これは学苑教授煙山専太郎の編纂・執筆になり、当時の学界でこの仕事に当れるのは、この人を除いては他に容易に捜し出せまい。中編は「日清戦役と日露戦役に於ける欧米人の日本に対する観察の比較」を中心とし、材料の按配は大隈自身の指揮を仰いで、国際事情専門の研究家・学苑講師巽来治郎の執筆、下編は「日露戦争の終局に於ける欧米人の観察」「欧米人観察の変調」「最近に於ける彼等の観察」の三章より成り、巽を翼けて、大学を出でて三年目の大山郁夫が翻訳を担当している。この伏竜が初めて世に広くその片鱗断甲を示したのはこの時である。しかし、この書の凡例にはただ「早稲田大学講師大山氏」とのみ書いて郁夫の名を入れていないところ、卒業後四年目の彼はまだ全身を雲間に隠現させるに至るには遠かった。以上の如くこの書についてやや詳細に内容或いは組織を略説したのは、これが文明協会四十年に亘る全二百五十五巻の翻訳書の傾向、選述の苦心、纂訳者の選定に、いかに細心の注意を払ったかを偲ばせるものがあるからである。

 初巻に序した浮田和民の序文を掲げる。

大日本文明協会の目的は最近欧米の最も健全なる思想を代表せる名著を訳述・解説し、以てわが邦人をして世界文化の潮流に接触せしめんと欲するに在り。凡そ一国の文明はその国民中に偉大なる天才ありて大発見・大発明を為すと同時に、一般人民に於て文化の趣味を解し、高尚なる欲望を有し、是等天才の事業を要求するの境遇を作為せざる可からず。後者は実に前者の必要条件なりとす。蓋し一般人民の知識浅薄・趣味劣等なるときは、凡庸の才ある者能く社会の欲求を満足せしむることを得べく、敢て天才の出で来るを要せざればなり。故に多数人民の知識を増進し、その品性の向上を希図することは実に天才の現出を促がし、また社会一般の発達を全うせしむる所以なり。之を為すの道は、常に一国学問の独立を保持すると同時に外国の進歩に注目し、世界の文化に親接するより急なるはなし。而して此事たるや決して一時の政略たるに止まる可からざるなり。凡そ人類は何程進歩したりとも一国土・一民族だけの文化にてはその進歩を永久に維持すること能はざるものなり。故に本会の事業の如きは、単に一時文化の過渡期に於てのみ必要なる暫存的事業にあらざることを知る可し。本会の目的を遂行せんとするに当り、先づ告白せざる可からざる種々の困難ありて存せり。第一の困難は版権同盟規約の在るありて、外国の著者及び出版会社と交渉を要求すること是なり。第二の困難は翻訳すべき名著の選択及び翻訳者の任定是なり。第三の困難は翻訳の方法及びその文体如何に在り。本会は評議員及び一般識者の意見に従ひ、従来の翻訳書と異にして、原著の文字を直訳するの方法を改め、成るべく原著の意義を正解したる上、自由に之を邦文に言ひ表はすの方針を採用せり。且つ名著の選択若くは編纂の題目は之を評議員に詢り、各翻訳者は悉く斯道の達人を網羅したれば、先づ本会の主張を貫徹するに於て遺憾なきに近からんか。而してその実際の如何は本巻以下の続出によりて自ら証明せらる可きを期待せり。 (一―四頁)

 なお、明治末までに出た第一期全五十一巻は次の如くである。

第一次刊行書目(自明治四十一年至明治四十五年)巻数五十一 総頁約三万一千頁)

(『財団法人文明協会三十年誌』 一六―一七頁)

 試みにその二、三を摘出してみると、トインビーの『英国産業革新論』がある。「インダストリアル・レヴォリューション」に対して、今や経済史学の術語として定着している「産業革命」の訳語が普及する以前で、「産業革新論」とあり、その後何種類もの邦訳が現れたが、これが我が国における最初の訳書である。ウェルズの『第二十世紀予想論』は、中に「サムライの国」の理想郷があるので有名な『モダン・ユートピア』。日露戦争中に出たが、英学者仲間が注目したのは、第一次大戦の中頃になってからのことである。『米国の対東外交』の著者フォスターは、アメリカの対日平和条約締結の立役者ダレスの岳父で、有名な日米交渉の外交史家。更にローリエの『比較文学史』は、この名を冠して現れた日本最初の書籍である。坪内逍遙が明治二十年代の初頭、英語科の学生に「比照文学」としてポスネットの原著を講義したのは、学苑の図書館から当時の学生紀淑雄の筆記が発見せられて確証せられたが、爾来、早稲田にも文壇にもこの新学は消滅してしまった。ところが、終戦後より、年を加えるごとに隆盛になって、今や文壇・学界の中心題目となり、この学の盛んなこと、日本が世界一だとも言われるが、文明協会は六十五年の先を見通した如く、第一期刊行書にこの書を加えている。誰がその先見の明に服しない者があろうか。

 更に特筆しておくのは、さすがに文明協会は大隈と早稲田協力の仕事だから、みな原著者に交渉して翻訳権を得た。これ、出版条約加盟国としては当然のことだが、当時日本は極東僻遠の国で、外国出版界の視野外にあったから、この点は全くルーズで、現に文部省で訳したフランス人ワグネルの名著『単純生活』が無断翻訳を摘発される醜態を演じたに比すれば、民間の仕事ながら、遙かに紳士的であった。

 しかしこういう逸話もある。当時、早稲田大学で初めてタイプライターを買い入れ、学校でただ一人の婦人職員として、タイピストを雇い入れた。文明協会の翻訳権交渉の依頼状は彼女が打ち、同一の文面コピーで、ただ書名の箇所をあけて、そこに希望の書名をペンで記入して依頼する例であった。エール大学教授朝河貫一博士の注意で、これは非常に失礼であることが分り、爾後はそのたびに新しくタイプを打って、同一コピーの使用は止めることになった。因に、タイピストが事務室に現れると、創立以来初めての珍事だったので、各科の物好き学生が「女が来たそうな、それ見にゆけ」と言って彼女の事務を執る窓口に大挙殺到することが、月余に亘って続いたものである。

 文明協会の仕事は、大正末期から昭和初期にかけては、講演とパンフレットの出版で、ユニヴァーシティー・エクステンションに性質を変えていくが、大隈会長の死後は、大学と縁が切れてはしまわないものの、漸く疎遠・稀薄になっていった。

八 白瀬中尉の南極探険

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 白瀬矗中尉の南極探険と言わなくても、明治時代、南極探険と言えば、白瀬中尉の壮挙がただ一回あるきりで、我が古今の歴史を顧みても、第二次大戦後昭和三十一年に第一次南極観測船宗谷が出かけるまで他に例のない、輝かしいものであった。ただし中心の白瀬中尉も、その乗組員も、我が学苑とは全く関係なく、その意味で、これを大学史に入れるべきか否かには若干の疑問が起る。しかし後援会長は我が大隈重信であり、その援助がなかったら決して行われなかった仕事で、そして我が大学の有志学生も応援に奔走している。政府は全く顧みず、各界も殆ど冷淡で見向きもしなかった時、早稲田の力添えで出発できた点、やはり他の官学と異る気風をはっきりさせ得ると思うので、略叙してこの百年史に付載する。

 この企画は白瀬中尉独自で立てられたもので、当初においては早稲田とも関係はなかった。彼は早くから南極探険の夢想を抱き、特進将校の中尉となるまで、北辺各地に転戦し、勤務し、特に自ら寒地に耐える訓練をして、これなら大丈夫耐えられるという自信をつけた上で、企画を進めた。それからの彼はまさに南極に憑かれた鬼であった。

 計画の相談を先ず持ちかけた相手は『探検世界』の発行者であった。今は地球上、探険などという余地は殆どなくなったが、明治の末期にはまだそういう雑誌の成り立つ夢が残っていたのである。しかしこんな大きな仕事を、資力の乏しい、大して勢力もない一雑誌社に話を持ち込んだところに、白瀬のいかに世間事情にうとい人であったかが窺われる。主幹の村上俊蔵(濁浪)はその事情を述べて固く辞したのに、彼の執拗な懇請黙止し難く、『報知新聞』に交渉して断られ、更に『朝日新聞』に持ち込んで、やはり話に乗ってもらえなかった。

 白瀬は人を介して大隈を訪ね、懇請して、南極探険後援会の会長たることを乞うた。来たる者は拒まぬ主義の大隈も、その困難を予想して、二つ返事では承諾を与えなかった。それを白瀬は熱心に説く。世界を通じて北極探険は着着と進んでいる。しかるに南極は、探険が着手されたままで放擲せられている。一九〇九年(明治四十二)、白瀬の思い立つより一年前、有名なシャクルトンが極地九十七マイルの地点まで到着して、そのまま足踏み状態になっている。この際これ以上を幾らかでも日本の手で進めることは、日露戦争後の日本の国力伸長に有終の美を添えるもので、学術上にも貢献するところの大きい所以を説くと、折から「世界づいて」いた大隈の気持は大いに動き、二の足を踏んでいた後援会長を承知した。この一諾により、白瀬南極探険はどうにか出発に漕ぎつけることになるのである。

 大隈はすぐ諸新聞を招き、趣旨を説明して、理解と同情を乞うた。直ちに呼応して立ったのは先に断った『朝日新聞』で、今度は義金募集を引き受けてくれた。この義金集めには早稲田の学生・校友も助力を惜しまず、その中で特筆すべきは三田・稲門野球戦が戸塚グラウンドで行われたことである。久し振りのセミ早慶戦というのが満都好球家を集め、早慶戦ファンにはこの上もなく懐かしくて面白い試合だった。両軍死力を尽して戦いながら、遂に同点に終ったのもよい。日本人チーム同志の試合としては初めてのその入場料はみんな、探険隊の費用に寄附された。

 金の見通しがついて早速起るのは船の問題である。いろいろ物色した結果、北門守備に当る郡司大尉の手にある第二報效丸を、これも大隈が交渉して買い入れることができた。しかし傍の目から見ても、この募金は、大隈と『朝日新聞』を後ろ楯に控えたにしては、蹌踉蹣跚として、成果を上げたと言うには遠い。第一、政府と学者が冷然として一顧も与えなかったことは、ここに声を大にして特筆大書しておかなくてはならない。

 出発の日は、白瀬中尉が十一月中(明治四十三年)を望み、後援会一同もそれに賛成したが、『朝日新聞』だけは、幹部がなお入念の用意を調え、年が明けてからを主張して譲らない。遂に朝日が、集まった義金を交付してこの仕事から手を引いてしまったのは、この事業の前途を暗くした。中には、これでこの大事業は頓挫するだろうと、悲観しあきらめた者も少くない。しかし、準備は着々と進められ、第二報效丸は石川島造船所に入れて修理を終り、東郷平八郎大将から改めて「開南丸」の名が与えられ、十一月二十六日、一同二十余名(うちアイヌ人二名)の探険隊員を大隈邸に招いて壮行会が開かれた。更に二十八日、芝浦埋立地で一般国民の送別会が開かれ、来会者は三万と当時の記録にある。もしこれが事実なら、まさに今日のプロ野球の入場者と比較しても、驚異すべき人数である。

九 ボロ船の出発

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 当時の新聞記事から拾って、国民の反応を見よう。朝日が応援を断ってからは、『東京日日新聞』(今の毎日新聞)の方が同情を以て報道している。先ず「南極探検隊は行けり」と題して次の如く書き出している。

明治四十三年十一月二十八日こは吾が日本国民が記念して忘る可からざるの日也。東洋のペアリーたらんとする吾が陸軍中尉白瀬矗一行が極南の地点を突破すべく品海湾頭を発したる日は是れ也。而も此日や偉人マゼランが太平洋を横断したるの日にして彼我共に記憶の綱を手繰る可く十分の因縁あり。 (『東京日日新聞』明治四十三年十一月二十九日号)

 当時の習慣として、先ず隊員一行は遙かに皇居を拝して、陛下に奏上する形式を執っている。

当日午前七時夜来出帆の用意に一睡だもせざる総隊員二十七名は、歩武粛々朝靄深き丸の内二重橋に伺候し、隊長白瀬矗先づ列を離れて一行が意のある所を恐惶 天聴に聞え上ぐ。

臣白瀬矗誠惶誠惶頓首百拝して 今上陛下の闕下に伏奏し奉る臣矗玆に今日を期し南極探検の途に就かんとし今や一行の部下を率ゐて 今上陛下の闕下を辞するに当り一は以て鴻大無辺なる聖恩を謹謝し奉り一は以て臣等一行の素志を貫徹せんことを誓ひ奉らんとす 今上陛下克く臣等の微衷を嘉納し給はらんことを誠惶誠惶頓首百拝して白す

臣陸軍輜重兵中尉従七位勲六等 白瀬矗

悲愴なる一言一句は彼等が腸に沁みて低回去り難きものの如く二度三度宮城を伏拝みて涕泣頰を伝ふ也。然れども彼等が胸裡亦限り無き誇りと一死以て成敗を期する決意とは眉宇の間に閃くを見る。

決然一行歩を一転して芝浦なる送別会場に向ふ。天幕をもて造れる同式壇の柱には青葉湿やかに打薫り紅白の幔幕は潮風に翻れり。式場には大隈後援会長を始め大木伯、目賀田男、伊沢修二、頭山満、桜井熊太郎、三宅博士等熱情に富める朝野の紳士はフロツクコートに前南禅寺管長大徹禅師は袈裟衣に身を固めて粛然控ふ。埋立の広場には各大中小学生、実業団等所狭き迄に押寄せて万歳の声四方に湧く。其数無慮三万人と註せられぬ。

斯くて村上濁浪の開会の辞に依つて送別会は開かる。薬学校幹事飯森博士は三井所清造氏と探検隊の前途を祝福し次で幾多熱誠の士は腕を扼し拳を振うて此壮挙が徒事に非らざるを説く。口角より迸り出づる一句一節皆同情の泪なり。此時後援会長大隈伯は起つて、此壮挙や有史以来未曾有の大遠征にして今日迄探検と称するの挙多々あるべしと雖も斯の如く学術的・世界的而も千古未開の極南の地を探ぐるは未だ之れ有るを聞かず、且や此壮挙が我が青年学生に対して与ふるの力は甚大なる者あり、

其昔、封建時代にては板一枚下は地獄と海の危険を頻りに説くと雖も、陸に在りても死す者あり、自ら死を計つて世を去るもあり、何ぞそれ恐るるに足らんと、卓を叩いて教ふ。

斯くて軍服厳めしき白瀬中尉が式壇に立つや、拍手急霰の如く万歳の声湧くが如し。既にして沈着なる同中尉の挨拶終りて船長野村直吉起ち、学術担任者武田輝太郎現はれ、同情の声何時尽くべくもあらず。三宅博士の突飛なる演説あり。女王イサベラ然たる嘉悦孝子の演説あり。時針は刻一刻と出帆に近付き来る此時、俄然立ちて氷刀三尺剣を舞したるもの木崎正道あり。

彼れ亦此一行を送らんとして来り詩を吟じ舞ふ。

趙氏連城壁。由来天下伝。送君南極行。明月満全船。

午後三時半全く式を終る。数万の群集入り乱れて潮の寄するが如く、万歳歓呼の声相和して風浪の激するが如し。白瀬中尉は悠揚として海岸に歩を移す。此時、中尉の家族やす子(四十七)を始め長女ふみ子(二十)次女ふね子〔たけ子〕(十七)は黒木棉の紋付に濃紫の袴を穿ち、末子猛〔雄〕(四歳)は水兵帽に白き胸掛を懸けて見送りの友に抱かれ歩み行く。其無邪気なる態度と今正に海波数千里、前人未踏の境に旅立たんとする父中尉が胸中と相照し相比べ見ては、鬼の如き勇夫も必ずや一滴の涙を濺ぎしならん。

見よ、暮靄煙の如く罩めたる此所芝浦の海岸には紅旗翻り、長旗揺ぎ今や眠りに入らんとする海の女神も為めに驚き何時静まる可くも非ず。万歳の声水に谺して騒然たり。斯かる裡に一行を乗せたる伝馬船は送別の船に取囲まれて海上遙るけき白塗の開南丸へと向ひたり。噫吾がペアリーは今や品海を隔れて遠く南方の彼方に疾走しつつあるなり。行けよ行け! 吾ペアリーよ。 (同紙 同日号)

 この出発は勇壮であった。しかしこれを見送った朝日の記者が「国民は騎虎の勢いで白瀬中尉を無理矢理に追い立てる格好で南極に出発させたが、あんなボロ船で、まさに死地に追い込んだようなものだ。南極の港口に着くまでに破損してしまうのが落ちではないか」と述べているのが耳に入った。そうなると勇壮より寧ろ悲壮であり、更に悲惨であった。

十 戦後南極観測の基盤となる

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 探険隊は出発したが、後続の募金は絶やすわけにいかぬ。既に出発までに食い込みが一万円を超えていたし、費用の追加を請求してくることは避けられない。しかし一般民衆は、出発したらそれでいいものと思って、金の集まりがパタリと途絶えたのには、後援会も焦慮した。こういうことは小学生の方が却って好奇心と興味を燃やしてくれ易い。そこで開南丸出発の日の状況を撮った映画に外国探険隊の幻燈を交えて、全国の小学校を巡回させた。小学生は当時漸く流行しだした映画には夢中になる。慈善団や孤児院などがその興行で資金を集めている例に倣ったのである。更に大隈は議会に南極探険補助の建議案を提出した。四十四年三月二十一日、この案は衆議院を通過したので、その五万三千円の下付を政府に求めたのだが、折から第二次桂内閣である。そんな文化費など鐚一文も下げ渡してくれる筈がない。

 五月に入って探険隊から飛電が届いた。三月十二日、南緯七十四度十六分まで達したが、前路を結氷に閉じ込められて、それ以上前進できなくなったから、やむなく引き返すことにしたというのだが、隊員一行はコールマン島を眼前に見る所まで行ったのだ。かつてシャクルトンが無限の感慨を以て眺めた未開地域が眼前に展望され、濃霧・暴風・激浪・厳寒に悩まされ、それが収まると氷山の涯に極光が見られた。遂に南極を目の前に望んだのだ。

 しかし氷盤に船が接触して無気味な音を立て、以後状況は進捗せず、極地の自然力の偉大さに手も足も出ないので、三月十四日引き返し、来たるべき秋の解氷期まで待って再挙を図るためにシドニーに後退して、おもむろに時機の到来を待つことにした。その間野村ほか一名が帰国して現地の詳しい事情を説明し、何よりも後金の補充の急迫を訴えた。一行は、船をシドニー船渠に入れ、郊外で天幕を張って英気を養っているので、病人は一人もいない状況が詳しく分った。大隈は帰った隊員の労を犒い、殺しにやったに等しいという冷酷な批評も受けたにしては思いの外の収穫があったことを賞讃した。そして再挙のための募金運動が開始せられた。

 学苑の雄弁会の学生達は、総長を支持して五月十九日(明治四十四年)、大隈銅像の前に演説会を開き、「早稲田大学学生は、白瀬中尉一行をしてその目的を遂行せしめんがために、政府および国民に向ってあくまで援助せられんことを要求する」と決議した。後援会はあらためて神田錦輝館に事務所を置き、今まで一人だった書記を二名にして常駐して事務を執らせた。

 再度開いた演説会では、二人の隊員が持ち帰ったペンギン鳥を剝製にしたのを全員に見せた。この愛嬌のある珍鳥の実物が東京人の目に入ったのは、これが初めてである。この頃になると、各私立大学も参加して応援してくれた。しかし人気が盛んなのに比し、募金の実は挙がらぬので、大隈は華族会館に都下の富豪を招いて義金の寄附を訴え、無論、自分が率先して少からぬ金を醵出した。

 再度の壮挙では、故障なく三万余マイルの航海を続け、南緯八十度五分の地点まで達するを得た。ビスコー湾方面からエドワード七世州に上陸し、アレキサンドラ山脈の探険に成功した。前人未到の処女地域であった。明治四十五年一月二十八日のことである。なおこの到達地点については、新聞の報じているところと後の諸書の記述にはそれぞれ若干の違いがあり、何れを正確とも定め難い。しかし当時命名した開南湾と大隈湾とは、今日外国製海図に明確にその名が刻されている。

 南極はそろそろ寒期が始まるので、三月二十三日ニュージーランドのウェリントン港まで引き返した。同情のない外務省は、外国で違法行為でも犯しているように、早く引き返させよと矢の催促である。膏薬貼りに修繕した古船だから、途中、大洋の風濤に揉まれ、命からがらの状態で、しかし一同元気に房州館山に着いたのは六月十八日、品川湾に回航し、待ち構える人々によって元の芝浦埋立地に大歓迎を受けたのは六月二十日。実に足掛け三年、正味一年八ヵ月に亘る大航海、大探険である。

 皇太子(後の大正天皇)はその年五月、早稲田大学に行啓になった時、途中で連絡に帰還した二人の隊員のもたらした南極からの諸蒐集・諸標本を異常の興味を以て台覧になり、殊にペンギン鳥には思わず微笑して興味を持たれた因縁か、探険隊の実写映画を見たいとの仰せがあったのには、政府・官界から冷酷な待遇はおろか全く無視せられた探険隊も、心和らぐ思いをした。当時としては宮中で認められるということは最上の光栄で、且つ国民的信用を博する宣伝にもなった。M・パテー商会の田泉技師が後援会長大隈の依頼で第二次探険隊に同行・撮影した映写時間約十五分のこの映画は、帰着一週間後の六月二十五日に皇孫の諸殿下も一緒に上覧になった(現在、学苑の図書館に保存されている)。皇太子に拝謁して御礼を言上した大隈を通して、探険隊に五百円の御下賜金があった。その翌月、明治天皇の崩御とともに践祚せられて天皇(大正)の位に即かれると、翌大正二年、新政の初めに、後援会の三年に亘る苦心と努力に対し、金二千五百円の御下賜があった。この一点を見ても、新天皇の眷顧がいかに大隈の上に厚かったかが、よく分る。探険の学術方面の記録は『南極記』の附録が委曲を尽している。これは大隈が編纂せしめて出版したものであり、またこの探険によって生じた借財についても、大隈がその返済に当った。

 その後日本は、南極について完全に忘却し、無視した。白瀬中尉の後を継承して探険を試みることは、もとより個人の力で叶うことでないし、大隈のように有力な後援のできる巨人はもういなかった。政府は依然として全くの無関心である。

 第二次大戦後、南極探険と学術研究に最初の目を向けたのはイギリスである。そして、一九五七―八年(昭和三十二―三)の国際地球観測年を南極探険の新出発とし、イギリス、アメリカ、ソ連、アルゼンティン、オーストラリア、ベルギー、チリ、フランス、ニュージーランド、ノルウェー、南アフリカ、日本の十二の国民が、この白氷大陸の科学的研究のためネットワークを組むことになった。敗戦で世界の憎まれ者になって悄気返っていた日本は、政府の認めた仕事としては実績皆無なので、この参加は認められなくても文句は言えないところであったが、幸いにして白瀬中尉の立てた氷原の日章旗は、存外有力に世界的認識を受けていて、加入が認められた。そして一九六一年(昭和三十六)、南極地は科学的研究にのみ開放され、領土侵略的または軍事的使用は一切認めぬという決議がなされた。既得の地上権は放棄を強要はしないが、継続期不明の長期使用の新要求には応じないことになっている。

 政府は白瀬中尉と大隈後援会長の業績の上に新規探険事業を組んだが、もし先人の遺業にいささかたりとも感謝の気持があるとすれば、せめて観測船の船名にでも、白瀬の遺功を顕彰する道が考えられないものかと、久しきに亘り遺憾とせられていたところ、漸く昭和五十六年春、五十八年就航予定の新観測船を「白瀬」と命名するよう決定した旨発表され、往年の白瀬の血のにじむような思い出を持つ識者の胸のつかえが治まるに至ったのである。