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第四編 早稲田大学開校

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第五章 大学商科の出発

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一 素町人の学問

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 絢爛たる明治ロマンティシズムの満開期、大陸では六十倍も国土の広いロシアを対手に、日本は国運を賭して戦っている。史家は、近代になって初めての黄白人種の正面衝突だと意義づけた。その時早稲田キャンパスの一隅に建った新築校舎の教室では、およそ学問の連想からは遠い算盤玉をパチパチとはじく音が聞えだした。商科が開講したのである。大学商科を名告ったのは日本でこれが最初である。先の文科といい、今また商科といい、早稲田は学部の新設置に初物食いが好きである。

 東京開成学校が東京大学となった時、理・法・文の三科を置いて、その他に及ばなかったのは、当時の学生は藩士の出身者が主要を占め、士族たることを高き誇りとして懐持する階級の子弟であった故である。士農工商の職業的差別の因襲は明治になっても未だ牢固として抜けず、素町人のための商科や百姓のための農科は当局も設けないのを異とせず、世間も当り前のこととした。

 しかるに身分の高下から言えば農と商との中間にある工科が、最初から理学部の科目として含まれているのが疑問になるが、これのみは別格扱いの習慣が久しい前からできていた。すなわち薩摩藩の軍艦建造、水戸藩の大砲鋳造、また蘭学者の舎密学(化学)の翻訳紹介などにより、幕府時代からのこの学問は士分に接近し、殊に明治になってからの鉄道敷設、燈台建造など、文明的な大工事は政府でなくては手がけられないので、勢い原始的な鋸を使い、鉋をかけ、手斧を振う大工仕事とは截然区別をつけて考えられていたから、政府でも早く工部省を設け、農商務省の設置に先んじ、政治家として切れ者の第一人者伊藤博文の工部卿在任中、十一年、工部大学校を開設するに及んだ。それは、イギリス帰りの彼の腹心、山尾庸三らの建言を容れたものではあった。東京大学は後にこの工部大学校を併合し、理学部内の工科を独立させて工学部を作ったのである。

 しかし数年ならずして、農は国の大本という建前から農科が置かれたものの、同格扱いにして赤門構内には入れられず(農科は広大なる実習用田畑山林などを要するので、事実、一緒の収容は無理でもあったろう)、遠く離れて、昔は幕府の猟場または馬匹の放牧場だった駒場の、広漠たる林野の中に建設された。この時に及んでも商科の開設は未だ考えられず、僅かに森有礼が、商業教育のゆるがせにすべからざるを痛感して、明治八年私費を以て商法講習所という教育機関を作ったのがあったばかり、それが東京府、農商務省とさまざまの手を経て、東京大学開創より十年遅れてやっと二十年に高等商業学校にまで漕ぎ着けた。大正九年に遂に大学の名を冠するに至っても、他の国立大学とは孤立し、隔離した形をとって今日にまで及んでいる。

 顧みて我が早稲田大学はどうであったか。設立者の大隈重信は士族の生れでありながら、幼少から不思議に族籍を誇りとしていない。青年時代、長崎に出ては、若干の和蘭語の知識を利器として、当時は冒険家・山師の一種と見られて、温良なる市民と海千山千の老猾なる当時の貿易商人の間にしきりに出入りして、外人との折衝・仲介に当り、士・商間の身分的間隔など全く無視するどころか、両刀を携える身で商才あるを恥とせず、商機を摑んでは商人達を

利益させている。

 明治新政府に召されては、長崎でいささか腕に覚えのある外人相手を「外交」とし、縦横に駆使した商才を「財政」として、政治家としての手腕を縦横に発揮した。廃藩置県後、食禄を失った士族で衣食の道を商に求める者が滔々として多数を占めたのは、今後の国家的機運は商に向って動くと観察したからで、それが失敗していたずらに「士族の商法」という言葉を残すに止まったのは、事に馴れず、用うる道を誤ったためで、天下の大勢が商に赴くのが見込み違いだったわけではない。大隈はこの経過を廟堂から肌身に感じて観察した。そして、この勘どころをさえ掌握しておけば政治権力から離れることはないと自覚し、在朝時代いかに政府の異動があっても、大蔵の場からは決して動かなかった。

 明治十四年の政変に中央政府から失脚した彼は、孤立して援なく、今度こそ窮地に落ちたものと天下を挙げて思ったのに、すぐ不倒翁の如く立ち直って、片手に改進党を組織し、片手に東京専門学校を創設したのは、あたかもマホメットのコーランと剣の如くである。これには、かつて台湾征討と西南戦争に大隈の導きで海運の衝に当って天下に大をなした三菱の支援があった。反対派の誹誘のような事実は、薩長政府が血眼になり全力を挙げて摘発に努めても何の証拠も上がってこず、その経緯は今日も不明のままだが、とにかく岩崎が味方でなかったなら、廟堂失脚後の大隈の活動はあり得なかったことは、何人もこれを否定しない。その他に大隈は、まだ早稲田が一寒村の時、安価な土地を買い占め、日露戦争以後になると二万三千坪を擁し、横山源之助の「都市地主」の示すところによれば、二万坪以上を所有する東京の大地主四十二人中の、第二十九番目に列している(『横山源之助全集』第三巻三九四頁)。これが、平沼専蔵のような辛辣なる金貸から高利を借りながらも、学校のやりくりがついた基盤であった。かつての莫逆の友であり、中途政情の変化で別離した井上馨と大隈重信が、大正政変に際して第二次大隈内閣の出現する直前に会合して、井上が開口一番、「どうだ、その後ちっとは金がたまったか」と聞くと、大隈は頭を振って、「相変らずの売り食いだ」と答えて洒然たるものがあったのは有名な話だ。その食いつなぎの資源はこの土地であった。

 この大隈の設立した早稲田学苑が、天野経済学を以て天下に重きをなしたのは当然で、また商科の設立に着目したのも早い。もともと早稲田に入って来る学生が、初めのうちは東京大学と同じく士族出もかなり多かったが、年々平民が急増し、ここに「素町人」のための学問の要望が起るのは当然であったろう。

二 明治商業教育の変遷

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 岡田庄四郎によって商学科設立が提案されたのは、夙に明治二十四年七月二十一日の校友大会においてであった。彼は明治十八年政治経済学科の卒業生で、郷里の松本市に帰来し、商業会議所に就職(のち書記長)していたから、毎日執る事務によって、その必要を身を以て感じたのであろう。その前年の二十三年に文学科が創設せられたのに刺戟を受けた点もあると思えるが、その文学科とても、できたばかりでまだ羽翼が整わず、行く先が案ぜられていた当時故、この提案に多くの賛成者を得るには至らなかった。翌二十五年七月にもまた評議員会で商業科新設の件を議するところがあった。二十五年五月発行の第二次『中央学術雑誌』第一号には「商業科設置」として、

東京専門学校に於ては、来る九月より商業科を増設せらるるやの説ありて、現に大隈、天野、家永等の諸講師専ら斡旋尽力中なりと云ふ。開設の上は、定めて他の諸科と並んで私立商業大学の光彩を放たん。 (五五頁)

と記され、既に計画が進行中であるかの如くに伝えられているが、商業大学の語の現れたのは我が国では或いはこれが初めてで、少くとも具体性を帯びたものとしては他に前例がないと思われる。ところが『早稲田大学沿革略』第一には、二十五年七月十一日大隈邸で開かれた評議員会で「商業科新設ノ件」が議せられたが、同月十五日の臨時評議員会では「前項ノ議見合セニ決」せられたと記されている。そこで同年八月の第二次『中央学術雑誌』第四号でも、

商業科を置くの説は前々より之ありて、委員を挙げて調査中なりしが、去月十五日評議員会に於て否決せりと。(五六頁)

と報じたのであった。

 何れにしても斯く一旦明確に否決された商業科設立は、明治三十四年七月に三たび議題として採り上げられる。すなわち『早稲田大学沿革略』第一の七月十三日の条に、「大隈伯爵邸ニ評議員例会ヲ開ク……坪谷善四郎商学大学部ヲ設クルノ議ヲ提出シ討論ノ結果更ニ調査ヲナスコトト定ム」とあり、翌三十五年二月の条には「是月、新ニ商科ヲ設クルコトヲ決議ス」とあり、これに至って「商科大学」の設立が正式に決定されたのである。

 つまり商科の設立は、早く明治二十四年に初提唱が起り、明治三十五年に決定を見たと言えば、実に十年半の歳月を要している。学内に拒絶反応があって、文学科設立の時の如く平滑に進捗していないのは、民学早稲田にも、どこか商学は士君子の歯せざるところという蔑視観念が稀薄ながらも低迷していて、絶無だったとは言えないからである。そのスプリングボードを踏み切らせたのは、世潮急替の影響とも言える。戦争は新時代を産む母というのはきわめて通り一遍の常識で、明治七年の台湾征討、十年の西南戦争は相次いで我が全社会の激変、特に経済界の波動を呼んで、封建の旧態を打破して資本主義の基礎を築いた。そして二十七、八年の日清戦争において国内資本の大集注はピークに達し、この大勝の表面を華々しく戦ったのは軍人だが、裏面に縁の下の力持ちとして戦費を負担し、御用商人を活躍させて後顧の憂いなからしめたのは財界であること、何人の目にも顕著であった。語を換えれば、算盤の力であり、封建時代には職業として社会の最下位に見下げられた素町人の偉大なる貢献である。実業教育の奨励は、内閣制になってからの初代文部大臣森有礼をはじめとして井上毅に至るまで熱心に叱咜鼓舞したところなので、俄然、日清戦争後、積水の堤を決する如く盛んになる傾向にあった。

 明治になってからの、丁稚制度を止揚した新しい実業教育は、福沢諭吉が維新の際ウェーランドの経済学を講じたのに始まるのだが、しかしこれは一般の文化教育の範疇に属するものであり、商業教育を特に明確にしたものとは言えない。その福沢とともに、明六社文化運動の双軸をなした森有礼が私費を割き、「一般商業教育の目的」を以て、明治八年八月、東京尾張町に開設した商法講習所に、その嚆矢の印は帰せざるべからずとは、我が学苑の天野為之塩沢昌貞共同執筆の「商業教育」に説くところである(『開国五十年史』上巻八三三頁)。

 この講習所が幾変遷をなし、転々として、遂に東京府、農商務省から、文部省の手に渡って、二十年十月、高等商業学校と改名するに至り、「我邦唯一の高等商業教育機関にして、爾後益々発展の機運に向へり」(同書上巻八三九頁)とある。言葉を換えれば、日本の商業教育の心棒はこの学校にあり、他はその幹を這い上がって生長した蔓の観がある。

 しかも、商人に学問はいらぬという民間信念は根強く、商業教育は遅々として進まぬので、政府は躍起となって地方地方に応じ、尋常小学校卒業生と高等小学校卒業生とを各別に修養する甲種と乙種の商業学校を設けることを奨励した。これは全国に歓迎せられて、明治三十二年には二十八校であったのが、二十世紀の第一年の三十四年には一躍三十台を跳び超えて四十一校に上り、日露戦争の始まった三十七年には六十二校に達した。この趨勢は早稲田商科の出現の背景をなす関係を持つので、記憶に留めることが必要である。

明治二十年政府が高等商業学校を開始して、高等商業教育の施設稍々緒に就き、明治二十六年以来盛んに中等及び簡易商業教育普及を奨励したるは、自ら時運の然らしめたる所にして、一般の人心漸く国民経済発達の重要を了知し来りたるの結果に外ならず。随つて商業の地位次第に上進したるのみならず、金銭上の収益も大に、且つ社会に於ける勢力も次第に加はりしを以て、官吏其他の職業に従事せる有為の人士にして、往々商業界に投ずるもの少からず、青年亦多く之に向ふの状を呈せり。特に日清戦役以来勃興し来れる内外商業の発展は、益々完全なる商業教育を有せる人材を要するに至りたるを以て、高等商業教育の設備は益々其急を告ぐるに及べり。故に従来唯一の高等教育の機関たりし東京高等商業学校の如きは、入学志願者の数年年増加し、毎年志願者一千名を超ゆれども、其入学を許可せしもの僅に其一割五分前後に過ぎざるの有様なりき。是に於て政府は明治三十四年四月神戸商業学校を改めて高等商業学校となし、又同時に大阪市立の大阪商業学校も其課程を改めて高等商業学校と改称せり。次いで明治三十八年二月政府は山口高等学校の組織を変更して高等商業学校となし、又同年三月長崎に高等商業学校を創設するに至れり。高等商業学校の入学程度は尋常中学卒業以上とし、在学年限は予科一年、本科三年、都合四箇年にして其業を卒るものとす。以上大阪市市立の高等商業学校を除くの外は、皆文部大臣の直轄に属せり。斯くの如く校数は増加したれども、入学志願者の数は年々増加し、尚ほ未だ僅に其半数だも収容すること能はざるなり。即ち明治三十八年度に於ける入学志願者と入学許可者との割合は、東京高等商業学校は一千六百五十六人に対する三百九十四人、神戸高等商業学校は五百七十八人に対する一百二十四人、長崎高等商業学校は四百三十七人に対する一百十三人、山口高等商業学校は二百五十人に対する一百一人なりとす。 (同書上巻 八四四―八四五頁)

 してみると、日露戦争時における官学の高等商業志望者数は東京から山口までの四校で二千九百二十一人に上り、試験及第者は七百三十二人で、四人に一人の狭き門である。今や天下私学の魁首と自負する早稲田大学たるもの、駱駝が針の目をくぐるにも類する就学難を拱手傍観できようか。明治二十四年一点の火種は落ちたが、その後、僅かに一抹の白煙を揚げながら、ぷすぷすと燻り続けたのが、漸く一団の火炎となって燃え上がる時が来たのだ。一つには、最初の提案者が松本市商業会議所書記であったのに反し、最後の提案者坪谷善四郎は、本学苑卒業後、夙に操觚界に名声を馳せて、当時日本一の大出版社博文館の第二編集局長となり、『内外豪商列伝』その他の著作を通じて、商業鼓吹者として名を知られた校友で、その坪谷が外から梃入れしたものであるが故に、特に有力だったであろう。

 実は早稲田は大学に商科を設置する前に、大学商科の先駆的一面さえ具有していた早稲田実業学校(創立時一年間は三年制で、早稲田実業中学と称した)を学苑直結のものとして創設した。初代校長大隈英麿の後を天野為之が継ぎ、明治三十五年十月以降、昭和十三年三月に残するまで、早稲田大学学長就任時の三年数ヵ月間を別として、校長の職にあった。明治三十五年に改称した際には、修業年限は予科一年・本科四年の計五年間、入学資格は十四歳以上、高等小学校卒業または中学校二年修了程度で、いわば甲種商業学校より更に高等な商業学校であった。しかし明治三十六年の専門学校令制定に伴って、三十七年四月、商業学校規程に基づき修業年限は本科三年、入学資格は年齢十四歳以上で、中学校第二年修了または高等小学校卒業程度と改正され、本科卒業生のために専攻科二年が置かれた。本科・専攻科合せて計五年間において、「甲種商業学校よりは稍々高く、高等商業学校其他商科大学などよりは稍々低いと云ふ、即ち其中間に位して居る」(『早稲田大成会々報』明治三十八年七月発行第三号九七頁)程度の教育を実施しようというのが、天野校長の意図であった。

 これを仮に大黒天の像にたとえると、真ん中に打出の小槌を振って立つ本尊は早稲田大学の如く、「右に俵を踏んまえて」が坪内雄蔵を中核とした早稲田中学校(二十九年創立以来、校長は大隈英麿であったが、修身を担当した教頭坪内雄蔵の生徒に及ぼした感化が絶大であった。坪内が校長に就任したのは明治三十五年であるが、翌年末病気のため辞任した)に当り、「左に俵を踏んまえて」が早稲田実業学校に当ると言えよう。早稲田中学は創立いくばくもなく、第一高等学校入学率が最高を占める名門となり、後年第四回生の中から一時に三人の大臣、二人の将官を出して、天下を驚かせた。坪内はかくの如き知名人を養成したことを誇りとする世俗人ではなかったが、しかし必ずしもこれを以て恥辱とはしなかったこと、言うまでもない。その他、早慶戦の応援団長として勇名を轟かせた弥次将軍吉岡信敬、声帯模写という語を発明した古川郁郎(ロッパ)、インテリ力士笠置山(年寄名秀ノ山)の仲村勘治などのような変り種もまた、早稲田中学の卒業生である。早稲田実業では、天野校長の見識として、商業一辺倒に陥らず、これからの商人は常識として必ず兼修しておくべきだとして、姉妹学科の工業大意・農業大意も教えた。これが、一応甲種商業学校に準拠しながらも実業学校の名を冠した所以で、これまた、期年ならず府下第一流の実業学校として頭角を抽んで、一般の評価の重さは、兄弟校早稲田中学に劣らぬところまで到達した。ここから巣立った実業界の人材は一々僂指し難いほど多数に上るうち、政界に進出した松永東や高瀬荘太郎をはじめ、画壇の天才、夢二式美人画で名高い竹久茂次郎(夢二)や独立美術協会の林武が異彩で、最近では、野球選手として世界的猛打者の盛名を謳われた王貞治が出ている。以て校風がいかに幅があって自由で活気横溢なるかを想望すべきであろう。

 今も語り伝えらるる有名な揷話がある。二十世紀とともに政界には一大変動が起り、桂内閣が誕生するに及んで、維新の元勲内閣時代は去り、少壮内閣の時代が来たと言われた。どの内閣も九鼎大呂より重しとするは実業界なること、当時も現代も変りはない。しかし伊藤博文や井上馨や松方正義や大隈重信には、実業界に用事があればこれを呼びつけて相談するより寧ろ命ずる貫禄があった。若き桂はその威重を欠き、宴会を開いて金傑を招集し、一人一人にニコリと笑って見せて、ポンと肩を叩いて用向きを切り出すのが例で、世はこれをニコポン主義の新語で呼んだ。

 こういう社会的・政治的背景を控えて商業の重んぜられること泰山の如く、それが反映して、この道の最高学府なる高等商業学校を大学に昇格する案は、しばしば討議に上って、そのたびに故障が出て実現に至らず、折衷案として、本科卒業生に更に二年の専攻科を設け、それを修了した者には商学士の称号を許し、努めて商業大学へ向っての格上げ運動を怠らなかった。それで漸く帝国議会でも問題になり、日露戦争の大勝で多くの財閥男爵が出現するのと並行して、遂に商科大学の建議案が議会を通過したのは、実に明治四十年のことである。早稲田はそれに四年先んじ、日露間の危機が漸く切迫する明治三十五年七月に、例年の如く「学生募集」の広告を出して、それに「商科大学」の新しき一項が加わっている。これ、日本に「商科大学」の実現を告げる最初の声であった。広告には注を加えて曰く、「本校は学識ある実業家養成の目的を以て、来三十七年九月より本大学部内に新に商科を開設す。修業年限を三ケ年とし、高等予科卒業生を入学せしむ」(「早稲田大学規則一覧」『早稲田学報』明治三十五年七月発行臨時増刊第七〇号表紙の三)と。

 ここに再び、『開国五十年史』に天野為之塩沢昌貞の共同執筆した「商業教育」により、その衝に当った責任者の説くところを聞こう。

此時に当り、私立早稲田大学は社会の状勢既に商科大学の設立を要し、其開設の期熟せるを察し、明治三十六年四月より商科大学部の開設を決行せり。即ち其開設の旨意に曰く、「現時学識ある者は実業に遠ざかり、実業に働く者は学識を欠くの傾向あるを以て、此二者の調和を計り、高等の学識ある実業家を出さん事を目的とするに在り」と。而して同科の課程は予科一年半、本科三年にして、開設の期来るや、其入学者の数は七百七十三人の多きに及び、其翌年に至つては一千三百一人の多数に達せり。而して爾来年々其入学者の数は遙かに他学科を凌駕せり。以て如何に高等商業教育が社会に重視せらるるに至りしかを見るべく、又近時に於ける人心の如何に実業に趨りつつあるかを卜すべきなり。 (上巻 八四六頁)

 こうして開校した商科の当時の学科課程とその講師は、第十五表および十六表に他の各学科のそれと合せて掲げてあるので、参照されたい。また、商科の入学資格は大学部の他の科と同じである。なお、私学では学苑のほか、明治大学でも三十七年に商学部の本科が授業を開始しているが、予科の開始は恐らく前年九月で、学苑よりも数ヵ月後と推察される。また日本大学では学苑よりも一年後、更に専修学校ではその翌年に、大学部商科が開設されている。

 明治三十七年九月十八日。この日は商科大学第一回始業式が行われた記念すべき日であった。午後一時に、一ヵ年半の高等予科の課程を終了したおよそ七百名の学生が大講堂に集まり、大隈重信、高田学監、天野商科長その他の教職員が列席する中で式は開始された。先ず天野商科長が立って商科開設の理由を述べ、学生総代斎藤朋之丞が答辞を朗読した後、来賓土子金四郎は「商科大学の本領」について、また法学博士添田寿一が「軍国の商民」について演説し、最後に大隈が一場の訓示演説を行って式を閉じた。

三 百番でも上位成績

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 大学商科の開設は、確かに時好に投じた。『中学世界』第六巻第一三号(明治三十六年十月発行)の「諸学校入学成功録」という記事は、その中に「実業教育の傾向」なる一章を設け、次のような面白い記述を載せている。

この四月頃なりしと思ふ。早稲田大学が高等予科生徒を募集した処、応募者無慮八百名、入校者すら六百名を超えたといふ話である。商科大学といふ名義が浮薄なる学生社会の歓迎する所となつたでもあらう。けれども、実業教育を受けたい、今まで政治・法律をのみ学ぶ者だと思つて居つた連中も、玆に商業学を学ぶものと覚つて来た現象であらう。早稲田大学学監法学博士高田早苗君が、先度或人に話したといふを聞くに、「早稲田大学で使つて居る給仕が総て十人ある。其等給仕を、只遊ばして置くのも可哀想だといふので、何か望みに応じて教へてやらうと、先づ彼等の将来の希望を聞いて見た。処が、十人の中一人丈け将来教員になりたいといつた計り、残り九人は会社若しくは銀行へ這入りたいといふので、多数の希望に任せ、簿記、商業要項、作文、算術など重に実業的の学科を教へる事とした。どうも近頃は実業一点張りになつた」と。右は事実上、実業教育が如何に目下の流行になつて居るかを証拠立つるものである。而して実業とはいふ者の、其中に商業学が特に目立つて居る。

(二〇九頁)

 そして高等商業学校が「近年如何に世人の歓迎を受けて居るやを証せんが為め」、東京高等工業学校と札幌農学校の、五年間の応募者、試験合格者、入学比率を並べて挙げているが、その中、早稲田大学高等予科の出発した明治三十四年の表を対比すると、左の如くである。

入学志望者 入学者 入学者の割合

東京高商 一、三六四 三〇七 〇・二三

東京高工 五六二 一五八 〇・二八

札幌農学 二七六 一四八 〇・五三 (同誌同号 二〇九―二一〇頁)

 すなわち高商は二割三分で、四・四人の受験者に一人しか通過せず、高工は二割八分で、約三・六人に一人の合格者を出し、札幌農学校は五割三分で、二人に一人以上が合格している割合になっている。それを早稲田の商科は、中学の卒業生なら無試験開放を謳ったのだから、高商のあぶれは全部と言わざるまでも大半がなだれ込んで来る水路が開け、更にその上、上級学校など及びもつかぬ高嶺の花としてあきらめていた学生達も、無試験ならというので、大挙してこの門に集まってきた。早稲田大学が明治から大正にかけて学生・生徒数で多数を誇った基礎は、実に商科の開設にある。

 その代り玉石混交で、多数の中には素晴らしい秀才も交る代り、平均成績中以下の学生も集まったこと掩うべくもなく、世上、こういう噂が流れた。ある他校の学生が、友人なる早稲田の商科学生に向って進級試験は何番だったかと聞いた。当時はどこの学校でも成績順に貼り出したものである。「僕は百番だった」と、昂然として言うので、不審そうな顔をしたら、「いや、よかったよ、上乗なのだ」と答えたので、度胆を抜かれた。なるほど七百名を超える同級生なら、百番は恥ずるに足らぬ上位の席次だが、大抵の学校なら、百番は人前で語れまい。これは開設当時の早稲田商科を彷彿させる揷話である。

四 商科と外交官

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 早稲田に大学部商科が開設せられたのが、いかに多くの地方学生の興味を惹いたか、当時の『中学世界』の学校案内欄の学生の質問と記者の応答を見ると、一端が推察できる。例えば、予科生が漸く第一期修学を完了したばかりの明治三十六年九月に、こういう問答が載っている。

問 早稲田大学商科卒業生は、外交官の試験を受くる丈けの学力有之候哉。

答 外交官とならんとせば、如何なる学校を選ぶべきやに付き、前号に縷々陳述いたし置候間御覧被下度候。早稲田の商科大学は、今年初めて予科を募集せしにて、其卒業生は三年の後にあらざれば見られ不申、随つて其学力の如何も予定いたし難く候。先づ前号に述べた通りの方針にて進み候方得策かと存候。

(『中学世界』明治三十六年九月発行第六巻第一一号 二一〇頁)

 その翌月は、「諸学校入学成功録」に「再び高等商業学校に就て」の記事を掲げ、新しく生れる神戸の高商について、「記者の見る所を以てすれば、両校共入学後四年を経て卒業するのであるから、其卒業後の学力には大差ないだらう」と言い、それに続いて左の如く言っている。

或は早稲田大学卒業生と高等商業卒業生と何れが外交官試験に及第するかと質さるる向もあるが、記者が第十号にていつた通りの次第であるから、今後は知らず、過去の歴史は明かに高等商業の方優れりと思ふのである。

(同誌第六巻第一三号 二〇七頁)

 実はこの外交官試験については、早稲田大学商科の設立主旨や学生募集の記事に一度も見えていない。しかし、東京専門学校時代から我が学苑は必ずしも外交官と無縁ではなく、二十三年英語普通科卒の信夫淳平は試験及第の先頭を切って、夙に令名を馳せたものの、いささか偏狭な学者肌で公使たるに適せず、途中足を洗って専ら研究に没頭し、外交史を一科の学として盛り上げたのは彼の功と言われる。また埴原正直は英語政治科の三十年卒で、排日問題の真最中、アメリカ大使に抜擢せられたのだから、外務省がいかに彼を重んじたかが分る。或いは、早稲田出だから殊更にこの難局に当らせてやれという継子扱いであったかもしれぬ。アメリヵの傍若無人の申し出に対し、有名なgraveconsequencesの一喝を以てこれに応じ、内外を錯愕させたのは、猛虎一嘯して山月高しの観があり、腰抜けとか英米追随とかと言って、我が国民を歯ぎしりさせた外交官の中で、さすがに早稲田出だと痛快がられた。また、ブラジル大使林久治郎は英語政治科三十六年卒、オランダ公使(後にブラジル大使)桑島主計は大学部政治経済学科三十九年卒で、我が学統に外交関係の学問もまた決して軽んぜられていないのを証したが、それらはすべて政治科の出身で、一般的な国際的知識以外に特別に外交関係の教科を受けたのでなく、寧ろ彼ら個人の自修によってこの難関突破に成功したのである。しかし商科卒業生校友名簿を見ると、第一回から「商業部」生二百余名に次いで、別に「外交部」というのがあって十二名の卒業生を出しており、第三回卒業生に至るまでその部が存続して、第四回から消滅している。してみると、外交官志望の学生のため、商科の本科が開始された時には商科の中に外交部を置いていたことが明らかである。それが、商科の予科生を募集した趣意書には事前に何らの記述もないところから推して、或いは、これら外部の一般雑誌の記事に暗示せられ、入学後に設けたのかとも思われる。初めから重きを置かれていなかったことは確かであり、三回にして消滅しているのは、志望者が増えるどころか、しまいには七人に減っている始末で、つまり不振のあまりに消滅したのだ。

 序でにその『中学世界』所載の質問の特色あるのをもう一つ例示すれば、次のようなのがある。

問 米国にて実業家にならんには官立高等商業学校を卒業するがよいか、早稲田商科大学、慶応義塾、法科大学のいづれを卒業するがよいか。

答 実業家といふのは、商業家の積りであらうと思ふが、商業の成功は、出身学校の如何よりは、その人の技倆如何によることが多いから、いづれの学校でもよいから、商業に関する学術を修養さへすればよろしい。米国で一旗あげやうといふには、いふまでもなく、語学の修養は、此等学校の課程以外、十二分にやつて置かねばならぬことを覚悟したまへ。

(明治三十六年十二月発行第六巻第一六号 二二六頁)

日本で初めての我が大学商科は、開設早々からこのように高商、慶応、或いは帝国大学法科とほぼ同一のものとしての注意を、地方学生から払われていたことが、これで分る。

 予科の構成は他科と大差なく、従ってその第一期修了後は、他科への変更が許された。ただし政・法・文から商科への転学は、商科からこの三科への転学に比べて容易であったと伝えられている。

五 アンヴェルス学風

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 いよいよ大学として出発するに当り、商科には他の諸科に見られぬ著しい特色があった。ベルギーのアンヴェルスの高等商業学校を模範としてこれに倣おうとした点である。

 顧みれば、東京専門学校創設の際、大隈が青年時代にフルベッキから教えられたジェファソンの高風を慕って、彼が一方に政党を作り、他方に大学を建てたのに幾分でも倣おうとした事実はある。しかしジェファソンの大学がヴァージニア大学であったことには特に留意した風なく、寧ろ将来の希望として遙かにイギリスのオックスフォード大学などを夢みていた跡はあるが、無論、それは竜を描いて蚯蚓にも類しない話で、手近かの慶応義塾と東京大学を真似ようとするのがせいぜいであった。文学科の設立においても、主任の坪内雄蔵が特にモデル校として念頭に置いたところは、国内には勿論なく、海外にも見出されない。

 しかるに商科設立の場合にのみ、範を遠くベルギーに求めた痕の歴然たること、全く異例である。或いは他の政治・文学などの場合は、その教授の歴史が長く、欧米各大学の設備が概して一様に整うているので、先ず何処といってモデル校を挙ぐるに苦しむが、中には学科によって、優れた伝統を持つ学校を指摘できよう。ところが、広く商業一般の学問となると漠然としていて、commerceを独立させている先進の好例は、アンヴェルスの学校以外にたやすく思い浮かばなかったのであろう。

 早稲田商科が模範として目指したアンヴェルスの商科大学というのは、正しき名はInstitut Supérieur de Commerce d'Anversで、ヨーロッパでは夙に類例の珍しい高等の商業教育の名門として聞えている。それを、どういう路線から早稲田商科が手本として選んだか、その指示・媒介がいかにしてなされたかは、興味ある題目で、恐らくその研究は将来を俟たねばならぬ。猪谷善一が『早稲田商学』第二四一号(昭和四十九年三月発行)に寄せた「ベルギー・アンヴェルス商科大学と日本」はこの道における好論文で、将来の研究のための津梁たるに十分であるから、それを参考にしながらその経緯を窺うことにしよう。

 早稲田の商科長には、勿論、我が経済学界の重鎮たる天野為之が就くものと万人が認め、事実その通りになった。彼がその下に特に注目して聘したのは横井時冬で、恐らく横井の献策が商科成立の発端的基礎を作ったのであろう。

 横井時冬は明治十九年、すなわち東京専門学校第三回の法律学科卒業生。その席次は半ばであるが、孜々と努めた日本法制史の研究は、夙に校内外の注目を集めていた。高等商業学校が新たに発足するに当り、校長の矢野二郎は、貿易史の研究には一個の天才児、菅沼貞風を捜してくるとともに、その相棒として着目したのが横井であるのを知らば、彼が早稲田の学窓にある際から常凡の才でなかったことが分る。

 菅沼貞風は九州平戸に生れ、少年にして郡役所に勤め、官嘱によって厖然たる『平戸貿易志』を完成したのは、実に十八歳の時である。日本にまとまった貿易史・商業史の先例のない時、この少年にして、この大著ある、まことに驚絶の外はない。十八歳、旧藩主松浦家の抜擢推薦を受けて東京に遊学し、東京大学に設けられた古典講習科漢書課に入り、卒業論文として不朽の『大日本商業史』を提出したのは二十三歳の時である。総論の冒頭に「日本には商業の歴史なし。其之を研究して稍や連絡を得せしむるものは、恐くは余が此大日本商業史を始とするならん」との抱負を述べて、自負するところが大きい。たまたま高等商業学校が発足するに当り、校長矢野二郎は奇傑を好むの士だから、先ずこれに着目して、講師に迎えたのだ。しかしながら貞風は、まさに天馬の空を行くが如き英才、尋常の繩墨を以て羈束し難きを知り、傍らに配したのが横井時冬である。その性質は篤実、孜々として倦まぬ研究方法が、両々相俟って、貞風の短とするところを補って余りあり、且つその長所を発揮するにもまた刺戟となるを思うたからである。両者互いに相得て、共に教壇に立ち、共に図書室に研鑽を積んだ。しかるに三上参次が言っている如く、

去にし明治二十一年の冬なり。文部省の高等商業学校、新たに内国商業史取調係を横井君を挙げ、文学士土子金四郎、菅沼貞風の二君と共に、専ら其事に与らしめたり。然るに幾ならずして、土子君は留学の為めに欧米に出発せられ、菅沼君は南洋諸島に計画するところありてまた渡航せられしが、不幸にしてマニラに病没せられぬ。それより後は横井君独り発奮して事に当り、商業学校もまた保護を与へられし……。 (「跋文」 横井時冬『日本商業史』 一頁)

という次第で、横井のみが高商に残り、いわば僚友菅沼貞風が璞のままで残した「日本商業史」という新学問に、足らざるを加え、余れるを削り、彫琢して一科の学問として完成の域に達せしめた。創始者は菅沼、大成者は横井、これを疑う者はない。

 横井の高商にあること十余年、その学校に根が生えて、全くそこの人となり切っていたが、母校早稲田に商科が新設され、恩師天野から三顧の礼を尽されては、もとよりこれに背くわけにはゆかぬ。しかし長きに亘る高商との旧縁も絶ち難いので、専任教授としての関係は残したまま、母校に帰って天野の片腕となって重きをなし、その建策が多く用いられたので、アンヴェルス商業学校に範を採るの一事も、恐らく横井の提案に与ること、多大だったろうと推定せられている。

 と言うのは、実は本家本元の高商が先ず、アンヴェルスと密接な関係を持っていたのだ。二十三年、村瀬春雄・永富雄吉の二学生が高商を中途退校して、共にアンヴェルスに学んだのが最初で、帰って高商の教壇に立ち、それからは、同校の卒業生・在学生で、後を追うてアンヴェルスに学んだ者が幾人かあり、その中で一番の異色は飯田旗郎(旗軒)である。硯友社同人に近づき、世間には翻訳小説家として聞え、その中ゾラの『巴里』は時の首相西園寺の序文を載せておりながら、内務省が発売禁止として、世の視聴をそば立てた。この飯田の学んだ学校として、アンヴェルスの商科大学は、最も広く一般に知られた。彼も母校で教えた。その他にもさまざまな交渉があり、アンヴェルス学風は深く高商に浸透している。その頃、高商の人となり切っている観のあった横井が、その学統知識を、この創業の際に母校に注入しなかった筈がない。

 その上、当時この方面の教師といえば高商出身者以外には人がなく、簿記の吉田良三、商業英語の小林行昌などが招かれて、早稲田商科開設に当って中軸的貢献者となっている。なお猪谷の研究によれば、東京高商・神戸高商のカリキュラムと、早稲田商科のそれとは、殆ど変りはない。強いて言えば、早稲田のは専門科目がより多岐に細分化されているのに対し、第二外国語は、東商の七ヵ国語、神商の四ヵ国語に対して、早稲田は三ヵ国語になっている。

 それに商科第二回の首席卒業浅川栄次郎は、後に天野為之の女婿となる人だが、早く留学の命に接し、ドイツの諸大学に学んだ後、アンヴェルスにも暫く学籍を置いた。早稲田商科創業の時には、彼は入学したばかりの学生だったから関係ないが、帰国して教鞭を執るに当って、また幾分か、その学風を追加し濃厚にするところがあった。