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第四編 早稲田大学開校

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第十一章 大隈銅像と早稲田校歌

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一 地方中学生の感想

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 早稲田大学のみならず、どこの学校でも記念祭があって、年々創立日を祝い、五年目、十年目を期して大祭典を行う。しかし、明治四十年十月に数日に亘って行われた早稲田大学二十五周年祝典祭は、あたかも日露戦争大勝の後を承けて我が国勢の最も隆々たる絶頂に行われ、今まで政界に馳駆した我が国としては最大の政治家が、自ら政党総理を辞して大学総長になったという稀有の事態があり、付帯して総長の銅像の除幕式、校歌の制定などがあって、独り早稲田百年の歴史に空前絶後たるのみならず、全日本の大学史においても稀有のこととして特記に値する。

 思うに日本の銅像の歴史は、明治二十一年、長の大村益次郎の踔厲の風容先ず九段に再現し、これに対抗する意味を持ってかどうか、明治三十年、薩の西郷南洲の偉容が上野から四辺を俯瞰した。大村の時は恐らく批評はなかったが、西郷銅像に関しては、論壇の飛将軍高山樗牛が「西郷南洲の銅像を評す」(『太陽』明治三十二年一月二十日発行第五巻第二号)でこれを捉えて、美学的・社会教育的その他諸方面からの批評を試みた。今日も一誦するに足る名文である。彼は、自由の女神の像やネルソン像に比して形のあまりに矮小なるを難じ(その後にたくさん建った諸銅像が、西郷のより更に小型なのだから、日本ではこれ以上は望めまい)、上野が西郷と無関係の故に建設地の不当を責め、しかし、その風貌は村夫子で、陸軍大将の制服でないのを賞揚した(ただし、西郷は服装のけじめの正しい人で、人に会うには必ず制服でなければ羽織袴を着けるのが例であったから、西郷夫人はこれに甚だ不満で、郷土鹿児島に建ったのは陸軍大将の正装像である)。

 その他、南朝の忠臣楠木正成像は皇居前に、近代陸軍建設の英材川上操六大将像は九段に、伊藤博文像は神戸の諏訪山公園に建つなど、数個の例はあったが、まだ銅像が比較的珍しい時代に、しかも現存の人としては伊藤博文に次いでの第二例だったので、大隈の銅像建設は大いに世の注目を惹いた。その除幕順序などは後記するが、ここでは、樗牛が西郷像を評した標準に照らして考量を加えれば、どうなるか考えてみよう。

 早稲田大学キャンパスの中が選ばれたのだから、地の選定には遺憾がない。これに反し、大勲位の正装であるのは、在野政治家または早稲田大学総長としての一般的イメージに背くものである。これが社会に与える影響はどうだろう。それには、諸名士の言説よりも、地方青年の声を聞く方が純粋であろう。蓋し、彼らは中学に在りて、遙かに早稲田を望み、入学はして来なかったかもしらぬが、憧憬の情を持っていたこと、確かだからである。『中学世界』(明治四十一年二月発行第一一巻第二号)の投書に、左の一文が第一等賞に選ばれているのを見よ。「暗示ある二銅像」と題して、岐阜県の青年梧声が投じたものである。

吾人は永く記念さるべき二種の人物像を新に見るを得たり。一は即ち早稲田学苑に建てられたる伯大隈氏の銅像にして、他は即ち霞ケ関に設けられたる故の伯爵陸奥氏の銅像なり。大隈氏は自ら其銅像を呼んで墓碑となし、平生の快活豪放百二十五歳存命説を固持して動かざるに似ず、其生前既に銅像を以て自己の過去を記念せらるるを見て、胸中何事か人生の極秘に接触したるが如く、除幕式の翌日、芝の一旗亭に開かれたる早稲田校友会の席上に於ても、語銅像に及んで日頃の楽観放胆に似ざるものありしと聞く。曾て伊藤氏の銅像が、幇間者流に依て楠公墓碑と相並んで建立せられしに比せば、建立を発起したる人々も、建立せられし場所も、共に其人其所を得たりと見るべく、又其時に於ても必ずしも宜しきを失せりと云ふべからず。唯だ未来あるを以て自ら任じ、過去を冷視するを以て唯一の自負とせる老伯に取ては過去の記念とのみ目せらるる銅像の建立を見て、幾分か日頃の自負心を害せられしを拒む能はざらんも、世人は銅像あるが故に伯の未来を疑ふものに非らず。即ち早稲田学苑中の立像や、伯の所謂過去を記念する墓碑に非ずして、実に未来を指導せんとする曠野中の蛇の杖火の柱也。既に蛇の杖火柱也、銅像自身に於て大なる暗示あり、垂訓あり、光彩あり。伯に対する毀誉褒貶は今に於て之を定む可らずとするも、伯の半生を通じて貫徹せる政治家気質は実に此銅像に依て限なく記念され、且一世を指導せずんば已ず。人若し我邦に平民的政治家の気質を代表せる者ありやと問ば、伯は正しく其第一人なりと答ふべく、此点に於て伯の特種なる人格は永世不朽なるを得べし。智能や、弁舌や、才芸や、意力や、経綸や、其一を以て之を伯に擬すれば、天下伯と比肩する者蓋し少しとなさず。而も其平民的なるに至つては、我政史の中未だ殆んど其類例を見ず。伯の嘗て朝に立つ、尚一箇の梁山泊を構へて自ら其頭たり。一朝野に降るや、客に備ふるの食膳日に三百、門を開く終日、談論二六時を通じて倦まず。其門に入るもの上王侯より下匹夫匹婦に至る。此れ豈専制の大気中に生育せる貴族的政治家の夢想だにする能はざる所に非ずや。而して更らに伯に驚嘆すべきは、客の一度伯が眼界に入る、其如何に微細なるものも深く伯の脳裡に印刻し、年を経て忘るることなき其記憶なり。人或は之を伯が天品と云はんも、尚周到なる工夫修養の此辺に存ずる無きを保すべからず。夫れ政治家に尊むべきは、宏量大度にして、よく群心に献酬する能力に外ならず。然るに、我邦政治家の態度を見るに、彼等の多くは門を閉ぢて客を謝し、交友と利益あるものの外は決して其に近かしめず。而もこれを以て自ら高しとなすが如き風あり。此風潮の中に立つて独り大隈氏あり。大に門戸を開て客を入るるのみならず又其来る者に対して大に同情し、大に注意し、大に談ず。其人を忘れざるの美徳の如き、蓋し何人に対しても伯が自ら進んで興味を与へ且つ感ずる平生の注意に出ず。伯の名が独り世界的声名を専らにする所以、畢竟此群心献酬の能力に於て欧米政治家の流を汲める所あるに出づるのみ。若し伯の美徳の中より凡べてを取去るも、尚此美徳の存ずる間は以て伯の偉人を推称し得べきなり。 (一五二―一五四頁)

 後に、この傍らに大隈伯夫人の銅像を併立しようとしたことが、大学紛騒の一端となったとしても、この時この銅像の建設には何らの錯誤もなく、ただに大学内部のみならず、世を挙げて賛成同意せられたことは、ここに特に注意を促しておかねばならぬ。

二 製作者

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 製作の企画から除幕式に及び、それに付帯する一切の事務完了の経緯を記せば次の如くである。銅像そのものについては、学苑当局が独力で、既に東京専門学校時代末期から、準備を開始したのであった。先ず作者として小倉惣次郎が選ばれた。模写についてはいかに現実の人物を有りのままに再現するかを要点とし、特にこれを形体と精神の二方面から活写して、見る者万人をなるほどとうなずかせるのは容易なことでない。この点、製作者は、特に性格が一番よく現れている顔面の模写に多くの工夫を費した。今彼の苦心談の一齣を『早稲田学報』第一五三号(明治四十年十一月発行)所載の記事から拾ってみよう。

どんな顔でも其の模写には同程度の労苦を感ずるといふ訳のものではない。即ち、顔にも依りけりで、模写し易いのもあれば、模写し憎くいのもあります。概して、顔面の曲線に凹凸が多ければ模写し易く、少なければ模写し憎くい。凹凸の少ない顔といへば、つまり美顔なのですから、美婦人の顔や稚子の顔などは、最も骨の折れるもので、外国人の顔や醜男子の顔などは、却て容易なのであります。然らば、大隈伯の顔は如何?といひますに、実に以て凹凸に富んだ曲線だらけですな。顴骨あたりの曲線、前額骨あたりの曲線、と来ては頗る見事なもので、この二大曲線は、伯の顔面の幹線であつて、誰の眼にも際立つて映ずる曲線でせう。次ぎは頤骨あたりの曲線ですが、これも非凡の曲度を有しています。鼻は、まあ世間並みで、あまり高くもなし低くくもなしですが、鼻筋が、少し歪んで右だつたか左だつたか孰れかの一方へ斜になつてゐます。が先づ良い鼻の部で、耳も、伊藤公の程に馬鹿に大きくなくつて、先づ良い耳の部です。しかし口が大きくて、眼が小さい。殊に伯の眼と来ては天下の絶品でせうな。鉄血宰相ビスマルクの眼も、亦天下の絶品だつたさうですが、鉄血翁のは、大きくて鋭どかつた。それに対して、隻脚翁のは、小さくて鋭どい。大小の差こそはあれ、その自然に備つた偉光に於ては、東西の両大関として、竜虎の睨み合ひをなすものではありますまいか。これを要するに、伯の顔には特色が多い。特色が多いだけに、模写は容易でした。がただ、東の大関といふ眼には、大に骨が折れました。殊に、あの瞼の辺には入念の細工を要したのです。

(一四―一五頁)

 かくして明治三十四年に小倉によりイタリア産の油土による塑像原型が完成し、直ちに帝国技芸員鈴木長吉の手に移され、その努力によって三十六年十一月鋳造が完了し、学苑の応接室に安置された。高さ約二メートル、重さ推定百二十キログラム。鈴木の鋳像の苦心談も『早稲田学報』の同じ号に見えているから、要点を抜粋しておこう。

多くの銅像に、わが家の関係したるにも拘らず、未だ嘗て、此回の「大隈伯の立像」ほどに、出来栄えの見事なるものを得たることなし。ただにわれらのみならず、同業者間にも一般世間にも、さる風評ありと聞く。……

鋳型を作るに就ても、普通は神奈川及び川口あたりに産する、砂交りの粘土を用ふれども、これにて作りたる鋳型は、窩にて焼きたる後ならでは、溶銅の高熱に堪え得ず、よし堪え得るも、其の一部が溶銅を弾発して、鋳型の用をなさざること屢々あり。故にわが家にては、仏蘭西に産する黄色の砂を用ふ。この砂一升は我邦に来りて米一升よりも高価なるが、高価なるだけ有効なるは勿論にして、そのままにては浜の真砂の如く、ザラザラなれど、一度撒水すれば「テンコ」の如く粘質となり、乾燥するに及んで、至極適度の硬度を保つに至る。されば、窩に掛くるの手数もなく、且つ雑多の煩労が省かれて、而も良果を収め得。伯の銅像の鋳型はこの仏蘭西産の砂にて製したるなり。またこの鋳型に溶銅を流し込むことに就ては、多年練習の結果によりて了得したる技巧を要し、溶銅の温度、及び溶銅の密度に関しては、実に不可言の苦心を要す。但し、鋳型を三分して、頭型・胴型・脚型とせば、鋳造は非常に容易となり、従てその費用も非常に低廉とはなれど、斯る方法に成れる銅像は、後年その継目よりして、姿勢に変動を生ずる憂なきにあらず。これを聞かれて、伯爵夫人は「あな!、すさまじや荒野に寂しくたてる首なし地蔵のやうになりましたらんには、こよなき不祥ならずや。さらぬだに、五体を三つ切りになすなどとは、後生のほども思ひやられて、いと怖し」といはれしかば、われは全身一双型となしぬ。 (一二―一四頁)

三 銅像建設

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 明治四十年一月三十日午後三時から麴町富士見軒で春季校友大会が開催され、大隈伯、鳩山校長、高田学監もこれに参席した。天津、大連、安東、カナダ、韓国から帰国した校友諸氏の歓迎を兼ねた集会で、地方から上京した校友も加え、参会者実に百数十名に達する盛会であった。余興、議事、大隈伯の演説があった後に、高田学監は来会者一同に相談したきことがあると称し、次の如く提議した。

丁度吾早稲田大学が、大学計画を立てしより本年の十月が満七年となり、大学も改称以来満五年となる。而して東京専門学校創立以来満二十五年に当れり。大学組織後今日に至り先づ予定の計画も成功して一時期を成したることなれば、余り大した御祭りも、金がなくては出来ませぬから、極く質素な一つの記念会を催したい。

夫から今一ツ御相談をしたいのは、丁度此場合に創立者大隈伯爵の銅像を建設したい。御承知の通り伯爵の銅像は先年既に学校で鋳造して置きましたから、学校から出しますが、此建設はなかなか手の掛ることでありますから、此校友会で建設をしたらどうであらうかと思ひます。又伯爵も本年七十の高齢に達せられ、天皇陛下より御盃を賜はつたそうです。世俗の意味から申せば、所謂古来稀なりと云ふて、天盃まで賜はると云ふ一時期であります。尤も伯爵は百二十五歳迄生きて御居でになるそうですから、尚遼遠なる前途を祝するの意味を以て、此際伯爵の古稀の御祝を兼ね、学校の創立二十五年と云ふ時期を祝して、伯爵の銅像を建設したい。而して其建設の事業は、校友会で引受けると云ふことに致したいと思ひます。

(『早稲田学報』明治四十年三月発行第一四五号 四九頁)

 右のように、創立二十五周年と大隈の古稀を記念して、大隈銅像の建設が提議されるや、満場拍手を以てこれを容れ、十五名の委員に付託して解散した。鋳造ずみの銅像に台石をつけて校庭に建設する作業は、教職員・校友・学生達の醵金によって着々として行われたが、その事務的な運営は、主として校友によって運ばれた。「大隈伯爵銅像建設ニ関スル報告」がその経過を記しているので、左に掲げておこう。

(一) 事務

一、明治四十年一月三十日麴町区富士見町富士見軒ニ催セル春期校友会大会ニ於テ、本年ハ恰モ我早稲田大学創立二十五年ニ相当シ、且本大学ノ恩人タル大隈伯爵七十ノ高齢ニ達セラレ天盃ヲ賜ハリタル折ナレバ、校友一同ハ此目出度機会ニ於テ、予テ大学ニテ鋳造シタル伯爵ノ銅像ヲ大学ノ広庭ニ建設シ、永ク伯爵ノ徳ヲ頌表セントノ議ヲ決シ、会長ノ指名ヲ以テ左ノ十五氏ヲ其委員ニ嘱託セリ。

市島謙吉 山沢俊夫 昆田文次郎 坪谷善四郎 坂本三郎 田中唯一郎

塩沢昌貞 円城寺清 増田義一 金子馬治 羽田智証 伊藤正

西江二郎 名取夏司 白松孝次郎

一、同年四月十六日牛込区赤城清風亭ニ於テ銅像建設委員会ヲ開キ左ノ事項ヲ決議ス。

一、委員長ニ市島謙吉氏ヲ挙ゲ、常務委員四名ヲ置クコト。但常務委員ハ委員長ノ指名ニ任スルコト。

一、校友ノ醵出額ハ一名金二円以上金十円以内ノコト。

一、学生ノ醵出額ハ一名金二十銭以上金五十銭以内ノコト。

一、募集経費予算ハ金五百円トス。

一、醵出額金取扱期日ハ七月三十一日限トス。

一、同月委員長ノ指名ニ依リ左ノ四名ニ常務委員ヲ嘱託ス。

昆田文次郎 増田義一 金子馬治 伊藤正

一、同年五月二十五日ヨリ資金募集ニ着手シ、同三十日校友全員ニ大資金寄附ニ関スル勧誘状ヲ発送ス。

一、同年五月中、銅像台座ノ設計ヲ工学士安岡勝也氏ニ依嘱シ、全部花崗石ヲ以テ築造スルコトトシ、同月二十七日石工栗原源蔵氏ヲシテ工費金三千五百円ヲ以テ工事ヲ請負ハシメ、六月一日起工ス。又銅像台座ニ箝入セシ額面ハ、撰文ヲ大学ニ依託シ、日下部鳴鶴氏之ヲ揮毫シ、銅工鈴木長吉氏ヲシテ之ヲ鋳造セシム。而シテ銅像ノ身長ハ六尺五寸ニシテ、台座ハ地上一丈五尺五寸ナリ。

一、同年十月十五日銅像台座全部竣工ヲ告ゲタリ。

(二) 会計

銅像建設費ハ目下尚ホ未払ニ属スル計算アリテ、未ダ収支決算額ヲ報告スルヲ得ズ。依テ玆ニハ最近即チ十一月二日ニ於ケル収支現計表並ニ寄附者ノ芳名ヲ掲グルコトトナシ、決算報告ハ記念品購入費決算ト共ニ次号ニ掲載スルコトトナセリ。而シテ本表ハ別項銅像建設委員長ノ報告ト現計ノ日ヲ異ニスル為メ、其計数ニ於テ符合セザルモノトス。

収入之部

一、金五千六百六十三円九十二銭也 応募総額

内訳

金四千九百四十四円八十銭也 本校教職員校友 一千五百五十七名分

金四百七十円八十銭也 本校学生及校外生 一千六百三十三名分

金四十円三十五銭也 早稲田実業学校教職員学生 百七十一名分

金二百七円九十七銭也 早稲田中学校教職員学生 七百十八名分

支出之部

一、金四千九百八十七円八十六銭六厘也 諸費

内訳

金三千五百円也 銅像建設請負費

金七百十七円也 同上附属工事費

金六百二十七円七十九銭一厘也 通信費及雑費

金八十四円六十二銭五厘也 募集費

金五十八円四十五銭也 謝儀

金六百七十六円五銭四厘也 銀行預金及現金

(『早稲田学報』明治四十年十一月発行第一五三号 附録一―二頁)

 かくして大学正門高等予科教室の左斜めの中央大広場に、丈余の花崗石を二重に積み上げて台座とし、等身大の大礼服に装いをこらした立像を安置し、台座の左右に二個の階段を設け、銅像の下には広い演壇を作った。これについて、『半峰昔ばなし』の中に左のような市島の言が引用されている。

あの銅像の前に石造の演壇が築かれてゐるのは、万余の在学生を前面に置き、それに対して演説を為すためであつて、種々大切な場合に幾多名流の演説があつたことは云ふまでもなく、大正天皇の東宮に在らせられた折、学校が台臨の栄を得た時に大隈故総長の先導で、此の石壇に立せられ満校の教職員学徒に謁を賜ふたこともある。 (四六二―四六三頁)

また銅像の前面には銅版に次の如き牧野謙次郎起草の頌詞が彫り込まれていた。

明治四十年十月、我早稲田大学創業二十五年、設筵挙賀、而総長大隈伯爵、亦齢躋七十。於是校友胥議捐賀、為建銅像紀其徳也。銘曰、

戯偉大学。維伯総長、聿育英才、廿五星霜。規模既大、教養既昌。如禾之培如玉之蔵、収穫不爽。内実外光、潤我邦国、覃照四方。昊天曰眷、載錫百祥。吉人君子、眉寿無疆。鋳銅建像、干彼高岡。匪曰金堅一匪日形昻。中心所敬、靡物無彰。朝夕瞻仰、永矢弗忘。 (『早稲田学報』第一五三号 五〇頁)

 銅像除幕式は明治四十年十月二十日午前十時から中央広場で行われた。式場は銅像前の大広場に張られた大天幕内。周囲に紅白の幔幕を引き巡らし、天井には無数の万国旗を吊す。銅像は白布を以て蔽われ、その台座前面に設けられた演壇の左右には棕櫚竹の大鉢を具え、式場の四囲には大学部・高等予科・実業・中学等の学生席を作る。創立二十五周年を祝う式を兼ねたため、大学付近の民家はことごとく紅白の幕を張って祝意を表し、正門前には例によって「早稲田大学創立二十五年祝典」との額を掲げた大アーチを作り、その上に大国旗を交叉してこれを飾った。学生達は午前八時頃から参集し、内外の貴賓および校友達も車馬を駆致して雲集し、九時半にはさしも広大な式場もこの人達で満たされ、その数およそ一万五千名と言われた。十時少し前、当日の主賓である大隈伯・同夫人はじめ嗣子信常および光子夫人ならびに熊子夫人が入場し、所定の席につく。この外、除幕を行う大隈の令孫とよ子も保母に抱かれて老夫人の傍らに侍す。午前十時三十分、突如として嚠喨な陸軍軍楽隊の吹奏が起り、これを合図に厳粛な式が始まった。先ず校友増田義一が立って、本日の司会者を早稲田大学評議員会長・男爵前島密に委嘱することを諮り、満場拍手を以てこれに応えたから、これを受けた前島は、大隈伯銅像除幕式を挙行する旨を宣し、次に第一陣として銅像建設委員長市島謙吉の登壇を促した。市島は建設経過と会計報告を行ったが、その中で次のような点が強調されている。

其設計に就きまして細いことを申上ぐるは一切省きまするが、一つ申述ぶべき事があるのであります。夫れは御覧の通り、此壇上は一種の形を取りましたのであります。即ち伯爵銅像の台下に演壇を取付けることが決定致しました。これは多少意味のあることでありまして、長く伯爵の其面前に立つて演説をすると云ふ方から考へましたので、此壇は長く之を神聖に保たなければならぬ、其壇を造るのは詰り伯爵の銅像の下にあるのが尤も適当であると云ふことから致しまして、御覧の通り壇を築くに至つたのであります。一寸申落しましたが、本年此早稲田大学が二十五年の祝典を挙げまする時は、恰も大隈総長の七十歳の齢に達せられたる目出度い時でありますから、旁々之を以て此建設の機会と致したのであります。尚ほ又銅像を造るに就きまして校友会の一の決定は、斯様な計画をなすに就いては諸方から資を投ずる人が沢山あるであらうが、之れは一切謝絶して、校友会の力を以て造るが宜からうと云ふことであつたのであります。勿論之れは校友会以外の本校の学生、中学・実業学校の職員・校友・学生と云ふものも悉く包含する訳でありますが、兎に角他人を混へずに、此早稲田の学園に遊ぶ者の力にのみ依頼して、之を造らうと決定したのであります。 (同誌同号 五一―五二頁)

 市島の報告が終ると再び荘重な吹奏が始まり、楽の音につれて侍女や一族につき添われた愛孫とよ子が登壇し、銅像を覆った白い幕の一方の綱を引くと、幕はさっと落ち、凛然たる大隈の英姿が参会者の眼前に現れ、壇上の老伯と奇しき対照をなし、一瞬の静寂の後、感極まった学生達の万雷の拍手は大天幕を揺るがすばかりであった。除幕式は感激と祝意とのうちにめでたく終了し、引続いて校友会総代小河滋次郎が登壇して式辞を朗読した。

我早稲田大学総長伯爵大隈重信君閣下の銅像成るを告げ、本日を以て光栄ある除幕の式典を挙ぐるに際し、玆に我早稲田大学校友並に学生一同に代り、聊か鄙言を献ぜんと欲す。顧みれば明治の始年百事渾沌、上下共に嚮ふ所を知らず。政府頻りに官学を起して以て国民の教導に努めたりと雖も、其の設備未だ完からず。又往々にして情弊に陥るの憾あり。閣下雄才卓識を以て夙に維新の皇謨を翼賛し、国家の元勲として済世の志一日も熄むべからず。以為く今にして国民を教育せずんば革新の大業は成るべからず。而して教育を興すの道は先づ学問の独立を致すに在りと。此に於てか奮然蹶起し、自ら資を捐てて新進の賢才を指導し、明治十五年初めて一大私立学校を設立す。東京専門学校則是なり。爾来星霜玆に二十有五年、厄難迫害時に交々臻ると雖、閣下の剛邁にして熱誠なる、公私繁劇の間と雖も曾て一日も学校を忘れず、群才を鼓舞し、子弟を誘掖し、紛を解き、難を排し、孜々として倦む所を知らず。其結果校運駸々として日に伸び月に張り、明治三十五年遂に大学組織となし、早稲田大学と称するに至れり。今や卒業の子弟殆んど六千余人、皆世に出でて国家有用の材となり、而して現在の学生又八千余人の多きに及ぶ、豈又盛ならずや。思ふに閣下は啻に我校の生命たるのみならず、能く学問の独立を完うし、国家富強の基を樹て、更に我教育社会に新精神を扶植し、新紀元を開きたるものにして、其顕著なる偉績は深く国民の脳裡に印象し、永く現代と後世とに感謝せらるべきを信ず。我等何の幸福か、親く教を閣下英風の下に受く。今や創立二十五年の祝典に際し、偉績を欽胆して感激已む能はず。依て一同相謀り、謹で閣下の銅像を校内に建設し、一は以て校友学生景仰の微意を表し、一は国民に代りて閣下の国家教育に対する偉勲を感謝するの微衷を表せんと欲す。玆に除幕の式典に臨み、蕪辞を陳べて以て式辞に代ふ。 (同誌同号 五二―五三頁)

 次に学長高田早苗が登壇し、謹厳な態度で左の如く祝辞を述べた。

諸君、此度我早稲田大学校友会の発起に依りまして、六千有余の校友諸君及び大学・中学・実業学校八千余の学生の協心同力に依つて此銅像を建設することになりましたに就きまして、私は此銅像の建設せられたる場所である早稲田大学を代表いたしまして一言喜びの情を述べやうと思ひます。即ち第一に申さなければならぬことは、早稲田大学が諸君の厚き志に因つて建設せられた大隈伯の銅像を鄭重に保管致し、長なへに其神聖を保つと云ふことを表明しなければならぬことであります。思ふに世間に於て銅像建設の挙と云ふものは必らずしも少ない訳ではないのであります。併ながら、一学園の校友・学生が相集まつて其創立者の銅像を建てる、而かも其創立者の現在せられる時に当つて之れを建設する、啻に現在せられるのみならず、矍鑠として其銅像の許に立つて演説せられると云ふ健康を保つて居らるるの時に当つて之れを建設するといふが如きは、蓋し世間に比類なきことと思ふのであります。諸君の此美なる善なる行動に就いては、本校の恩人・創立者たる大隈伯も必らず嘉納せられることと私は信ずるのであります。早稲田大学が此銅像を得ましたに就きましては、諸君の厚意に因りて此大学に一大美観を添へたと云ふことは申す迄もない。啻に美観を添へたに止まらぬ、即ち本校の創立者の儼然たる銅像、此銅像を朝々暮々学生が仰ぐと云ふよりして生じまする所の教育上の効果は実に至大のものであると云ふことを私は深く信じて疑はぬのであります。……只余計なことのやうでありますが一言申して置きたいことがある。それは外の事では無いが、此像の服装に就きまして多少の議論がある。即ちフロクコートを可とする人もあれば和服を可とする人もあると云ふやうな次第で、多少の註文が世間にあるやうに伝へ聞くのであります。斯る場合に種々の注文の出ると云ふことは決して怪しむに足らぬのでありますから、夫れに対して一々弁駁ケ間敷きことを試みる必要はないのでありますが、併ながら其批評なるものは何れも好意的の批評である。成るべくは左様にあつて欲しかつた、伯爵の真相を現はすには寧ろ此方が適当ではなかつたかと云ふ、好意的の批評であつて見ると云ふと、此点に於て聊か愚見を述べまして、成るべくは意見を異にせられる所の諸君にも御同意を願ひたいと存じますのである。私の愚見とは如何なることであるかと申しますると、申すまでもなく我大隈伯は維新の大業を翼賛し、憲政の扶植に尽力せられたる国家の元勲である。爾来多くは野に在り、時として政府反対の地位に立たれると云ふ境遇であられるのでありますが、立憲制の要議と致して、朝に立つて政治を執るのも、野に立つて政府に反対するのも、何れも君国の為めである。政府にして陛下の政府であるならば、其政府に反対するものも陛下の御為の反対党である。陛下の政府党、陛下の反対党、ヒズ・マヂエステース・ガバーメント、ヒズ・マヂエステース・オツポジシヨンと云ふことは、立憲制の要議として屢々伝へ聞く所であります。果して然らば、朝に在ると野に在るとを問はず、我大隈伯は陛下の功臣である。麒麟閣上に其名を列すべき一人であるのである。果して然りとせば、陛下に咫尺し奉る所の大礼の服に依つて此像を現はすと云ふことも、必ずしも不可なる事ではなからうと信ずるのであります。

終りに臨んで一言申添へて置きますることは、これは寧ろ校友会を代表すると云ふ地位よりしてでありますが、此銅像を建てると云ふことに就きまして、先刻市島委員長より御話もありました通り、校友及び学生打寄つて一手で建てたのである。而して其一手と云ふ意味は、寧ろ謙遜的の意味であると云ふことに御聴取を願ひたいのであります。大隈伯の交際の広き、治ねく天下に渉つて居る、殆んど世界的である。其知遇を辱じけなうして居られる所の人は、此学校以外に多数居るのである。其方方の中には、折角銅像建設の挙があるならば、我々にも一片の通知をして呉れそうなものである、我々にも其事に協力させそうなものであると云ふ御考のあるのは、決して無理からぬことである。併ながら我々の考へる所に依ると、大隈伯は無論教育界のみに御関係のある御方ではない。即ち、政治界にも実業界にも社交界にも関係の広い方でありまするが故に、銅像建設の挙と云ふものは元より此場合に限るのではない。他日其方面方面に依つて、多くの大隈伯の銅像の建設せられると云ふことは明かであると言はなければならぬ。今日の挙は只早稲田大学と云ふ私的範囲の一部に於て銅像を建設したのである。早稲田大学の広庭に校友・学生が其恩人を紀念する為に私に建つた銅像であると云ふことを御諒知を願ひたいと思ふのであります。随て我々は他日政治界又は実業界其他総ての社交の範囲に於て、遙かに大々的設計に因つて大隈伯の銅像の建設せられんことを将来に向つて希望する次第であります。 (同誌同号 五三―五四頁)

 最後に、当日の主賓たる大隈が悠揚迫らざる態度で謝辞を述べた。

諸君、今日は銅像除幕式に於て校友総代小河君、高田学長が其顚末を報告された其式に臨んで、殊に自分の銅像の前に立つて諸君に謝意を述べることは、殆んど感謝を表するの言葉に迷ふのである。殊に予の親愛する職員及び早稲田中学・実業学校の多数の校友・学生諸君に向つて衷心感謝の意を表します。併しながら同時に余の功績を喋々せられたのは自ら顧みるに衷心甚だ恥しい次第であります。決して斯の如き紀念的の像を以て徳を表はすと云ふ如き徳を予は決して有たぬのである。甚だ不徳不才、常に世と反抗して自ら顧み過ち多きを知るのである。それにも拘らず我親愛なる一万数千の学生・校友諸君が斯の如き荘厳なる儀式を設けて予の微功を表彰せらるると云ふことは、予の終生忘れ能はざる喜びである。人生はまことに短いものである。世界に千歳の家なく、如何なる英雄、如何なる豪傑、富者たりとも千歳の家なし、人類は新陳代謝するものである。然るに学校と云ふ如き一の団体は、之は永久的のものである。永久の生命を有つて居る団体である。将来に発達すべき永久的の性質を有つて居るものであると信ずる。斯の如き将来に希望を有つて居る学園に予の銅像を立てらるると云ふ事は、学校団体と云ふ有機的団体の細胞に過ぎぬものを斯の如き偉大なる儀式を以て迎へられると云ふことは、頗る恥づる次第である。併しながら凡そ斯の如き公けの団体には表彰が必要である、又学校の威厳を保つ為に装飾が必要である、学校の創立に関係したと云ふことを以て学校の威厳的装飾として爰に立つたのであると、私は言葉を設けて自ら満足する外はない。学校は永久的のものとは云へ、其方法宜しきを失せば衰運に陥らぬとは云へない。然るに学校の所謂困難時代の事を此銅像の為に想ひ浮べて困難に堪へると云ふ利益があるかも知らぬと思ふ。此位の考へを有つて私は自ら満足する外はない。吾人の国家に対し世界に対する任務は愈々大なりと信ずるのである。此の如き国民的大責任は此教育社会が負ふべきものである。若し此銅像を社会的に造ると云へば、私は絶対的に御断り致さうと思ふ。全体私は斯の如き儀式的の事は嫌ひである。私は一介の書生、半生の武士である。平たく云へば田舎武士である。維新の大業には先輩の後に従つて少しく働いたと云ふことを以て、無限の君寵に浴して居る。陛下の恩寵に浴したのである。此所の銅像にある礼服は朝廷の御儀式国際上に関係を有て居る。英国皇帝、独逸皇帝、仏蘭西大統領、露西亜皇帝、澳太利皇帝、其他帝王・大統領と云ふ方から国際上の関係から勲章を賜つたのである。私は無論平民主義を喜ぶのである。併ながら絶対的の社会党・社会主義などと云ふものは取らない。私は如何なる人の前に向つても、或る場合には礼服を着て剣を帯びて勲章を帯びて臨むのである。即ち、ユニホームは日本国民の徳性の優れた所を表すのであると思ふ。近来の武士的精神と云ふ言葉も此中に這入つて居る。さうして一方の事実は平民的行為である。此二つのものが調和すれば国は盛んになる、国運は発達する。社会が予の像を立てると云ふことは決してあるまい。生きて居る前に斯ふ云ふものを立てる事はあるまいが、若しありとすれば断然御断りをする。平たく言へば、早稲田大学は一家族である。家族の事であるから喜んで御受をした。だから之は終生忘れぬと云ふのである。儀式などはどうでもよい。決して功名心、名誉心は好まないなど云ふやうな偽善的の事は言はない。真に名誉とする。深く感謝の意を表します。 (同誌同号 五四―五五頁)

 かくして大隈の演説が終ると、前島密は再び壇上に立ち、その発声で万歳を三唱して、式は午前十一時半滞りなく終った。式後貴賓とその夫人とは大隈伯邸に、校友および来賓は商科教室で、それぞれ昼食の餐応に接し、引続いて午後行われる創立二十五周年記念祝典までの間、図書館陳列場および高等予科各教室に陳列した学生の絵画展覧会を随意観覧した。

 ところで、世人が偉大なる平民として私淑した大隈の銅像が、大礼服に身を固めているのに疑義を持ち、これに反対する声もないではなかった。その最も代表的なのは三宅雪嶺で、彼は『早稲田学報』記者に、「早稲田の大平民」なる題下に語って曰く、

勲一等伯爵は今や隻脚翁を飾るに足らず。贅疣のみ。寧ろ無きに若かず。隻脚翁が現在の冠は、無位無爵にある也。然り、伯は、伯爵あつての、平民にあらず。さるを何者の巧言ぞ、早稲田伯とは面白し。早稲田伯は、早稲田の華族にあらず、早稲田の大平民のみ。而かも毎に早稲田伯と謂ふ。早稲田の名に雅致あるが故なり。伯、一朝この田圃に住むや、この田圃は忽ち何よりも名誉ある名勝となれり。若夫れ、伯、無爵にして蒼々たる一匹夫ならんか、其の奥床しさは幾層倍ならむぞ。嗚呼!「伯爵」は最早なんでもなし。人も「勲一等」には最早重きを置かざるべし。かくて世は、歳月を経る毎に伯を大平民として尊敬するに至るべし。雖然、伯自身には何所にともなく、貴族的の臭気あらざるか?、雖然亦た平民的の芬気なきにあらず。われは此の馥郁たる平民的芬気が、今後ますます其の度を強めんことを希ひ、且つ其の大平民としての余香が、後世永く滅せざらんことを望む。

今や早稲田大学創立紀念二十五年祝典に際し、同校庭内に於て、伯の銅像除幕式行はると謂ふ、真に時宜を得たる一大慶事たらずや。されど聞く所に由れば、伯の銅像は、大礼服を着し勲章を佩せる姿を擬せるものなりとか、また是れに対して、或は怪訝の念を惹起せる者ありとか。既に述べたる如く、伯の後生涯中最も紀念に値するは、閣臣としての伯にあらず、また政党主領としての伯にあらず、実に大平民としての伯なるにあらずや。然らば伯の紀念的銅像を製るには、須らく大平民としての伯を、標象するに勉むべき也、断じて勲一等伯爵の正装を以て、標象すべからざる也。東叡山に於ける大西郷の銅像は、紛々者流の批難を蒙りしこと屢々なりき。而も事実に於ては、彷彿として南洲翁の襟懐を、追慕せしむるに余あらずや。毫もその服装の粗末なるを妨げず、却て無くては協はぬものたるを覚えしむ。彼若し陸軍大将の正装ならんか、南洲翁独特の高風を想起せしむるに由なかるべし。また兜を戴けるビスマルク公の銅像は夥多あれども、これらは総べて平服のまま大なる犬を連れたる姿のもの(グルニバルドに在り)には、其の性格描写の点に於て、及ばざること遠し。夫れ陸軍大将西郷隆盛、鉄血宰相ビスマルクの銅像に於てすら既に然り、况んや大平民たる伯の銅像に、勲一等伯爵の正装を以てすべけんや。遮莫、早稲田大学は、田圃の名を以て、直ちに其の冠となす。然るに他の大学は、皆壮巌なる校名を選び、或は「日本大学」或は「中央大学」、或は「東洋大学」と称し居れり。是等に比すれば「早稲田」の名頗る平凡なりと謂はざる可からず。而かも其名最も平凡なる早稲田大学は、其の実最も盛大にして、其の名最も壮大なる東洋大学は、其の実最も微弱なりとかや。蓋し早稲田大学は、今後はいざ知らず、現今に於ては平民的大学として勃興せるにはあらずや。果して然らば、この平民的大学の校庭に、和服若しくはフロックコートを着し、杖を手頼りに覚束なく屹立せる、大平民の銅像あらば奈何。(傍点原付)

(同誌同号 一〇―一一頁)

と。昭和七年、第三巻に後述する如く、五十周年記念事業の一端として大隈の平服の銅像が製作されてキャンパスの中央に置かれることとなり、大礼服の銅像は大隈講堂の廊下に移されるに至ったのは、雪嶺の批判が是認せられたと言うべきであろうか。

四 校歌の経緯

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 二十五周年祝典祭の序幕として大隈総長の銅像除幕式が行われたのに次いで特記しておかねばならぬのは、この時早稲田大学校歌の制定をみたことである。銅像が大学の一焦点とすれば、校歌は漾蕩として早稲田の雰囲気を日本国中に、いや海外までも拡げる役目をした。

 それが無二の傑作であることは、天下また異論がない。一時は、日本三大カレッジ・ソングの第一として並称せられていたが、今や他の二歌は消え去っても、「都の西北」は不朽の生命を保って、早稲田人の寄るところ、ただにスポーツの場のみならず、結婚式場・宴会場でもこれを聞く。文化人として聞えたフランス文学研究の耆宿辰野隆は「到底人の手で作ったものではない。躓いて拾いあてたとでも評すべき天衣無縫の趣がある」と讃嘆してやまなかった。

 校歌の制定せられたもの、恐らく早稲田が最初ではあるまい。聞くところによると、昭憲皇太后の若年の作なる勧学の歌「金剛石もみがかずば」は、華族女学校に与えられ、同校ではこれを校歌としていたという。そして文部省は、修身・国語双方の教科書に載せて学童に教えさせたが、胸に響くところなき歌は、帝王の威、官権の力を以てしても、消滅を防ぐことはできなかった。これに反して第一高等学校の校歌ではなく、各寮で作る寮歌、例えば「鳴呼玉杯に花受けて」やボート部の「墨堤花に月そそぐ」などは、全国の学生が愛誦し、軍隊内にまで歌われていた。島村抱月は平常から高くこれを評価して措かなかった。

 校歌制定の主動者は坪内逍遙島村抱月の二人で、初めは学生の間から募集する企画であった。その広告は、明治三十九年十月発行の『早稲田学報』(第一四〇号)と、十一月発行の『早稲田文学』(第一一号)に載っている。この名作の起因をなす歴史的文献だから、全文をここに転載しておこう。

早稲田大学校歌募集

本大学は今回左の条項によりて校歌を募集す。

一、校歌の目的は之れを本大学の諸儀式、学生の諸会合等に於いて歌はしめんとするにあり。

一、校歌を分ちて第一校歌、第二校歌の二種とす。

一、第一校歌は荘重、典雅、壮快、感奮、雄大などいふ語の何れかを以て形容し得べき声調なるを要す。

一、第二校歌は嬉戯、笑謔或は軽快、活潑の声調なるを要す。

一、第一、第二校歌何れも長さは一篇凡そ二、三解前後たるべく、一解の長さは凡そ七、八行以下たるべし。而して各解単独に歌ふもおのづから一歌を成すが如き歌体たるを望む。要するに余りに長く煩はしくして歌ふに適せざるを嫌ふ。

一、前項の外、律格・句法は全く自由なり。ただ合唱・朗吟に適するを貴ぶ。

一、文体また雅文体たると俗言体たるとを問はず。

一、歌ふ所の感想も作歌者の自由たるは勿論なれども、第一校歌は如何なる点に於いてか特に本大学に関せざるべからず。第二校歌は広く学生生活に関するものなるも不可なし。

一、本大学が在来の校歌類に鑑みて希望する所を言へば、

(1) 校歌は簡浄・緊切を主とするが故に叙事の句は概して不利なるに似たり。本大学の地形を叙し歴史を讃するに多くの語句を費すが如きは其の例なり。

(2) 譬喩を多く用ひたるものまた妙ならざることあり。

(3) 抽象的に抱負・主義などを叙したるもの、亦妙ならざること多し。

(4) 振仮名と漢字と併せ書せざれば其の意を解し難きが如き語句を用ふるも、亦た歌ふものとしては不得策なり。

(5) 要するに、本大学の生命又は本大学に関する愛慕の情又は此等より生ずる本大学の誇り、祝福等、凡て直裁の真味に触れんことを望む。

(6) 以上は主として第一校歌に関するものなるが、第二校歌は取材範囲一層広かるべく、早稲田に於ける学窓生活の楽しき苦しき将た可笑しき節々、若しくは広く人生に於ける青年時代、学生時代に関する愛惜・歓喜等の情を軽快・洒脱の調を以て歌ふも可なるべし。要は、野卑の弊なくして、以て学生の会合の席にも、屋外の集散・送迎等にも、歌ひ興ずるを得るものならむことを要す。

(7) 毎解の末に、リフレーンを用ひて、同一の句を反覆するが如きは、歌ふ歌として最も必要の用意なるに似たり。

(8) 尚下に欧羅巴に於ける同種類の歌より二、三の例を挙ぐれば、英のイートン学校の歌の首解、

Time ever flowing bids us be going,

Dear mother Eton, far from thee,

Hearts growing older, love never colder,

Never forgotten shalt thou be.

右の句中Hearts growing以下はリフレーンにして、以下の解の後にも之れを反覆す。また同じく英の大学生の歌として知られたるものの首解、

The undergraduate roams the town

(As he did in the days gone by),

With cap dishevelled, and scanty gown,

Though he runs the risk of the proctor's frown,

And the bulldog's jibe, as he hunts him down

(As he did in the days gone by).

の如きは、軽快なるものの例なり。また校歌にはあらざるも、一般英国人が故郷を去るときなどに愛唱するホーム、スヰート、ホームの如きは、歌ふ歌として、最も体を得たるものと信ずるが故に、参考のため之れをも其の首解を挙げんに、

Mid pleasures and palaces, tho' we may roam,

Be it e'er so humble, there's no place like home!

A charm from the skies seems to hallow us there,

Which, seek thro' the world, is ne'er met with elsewhere.

Home! Home! Sweet, sweet home!

There's no place like home!

There's no place like home!

一、当選歌は第一校歌一篇、第二校歌一篇にして、之れに対し本大学より各金二十五円宛の謝儀を贈る。

一、第一回応募期限を来十一月三十日限りとす。

一、当選歌は必らずしも集まれるものの中にて最佳作を取るにあらず。本大学が認めて校歌とするに足ると信ずるの域に達せざるものは取らず。

一、されば第一回応募中に当選歌なきときは、更に第二回募集をなすべし。

一、応募者は第一校歌を選ぶも第二校歌を選ぶも、若しくは両者を併せ提出するも、自由たるべし。

一、当選歌は音楽家に嘱して別に曲譜を作らしむ。されど作歌者にして併せて曲譜を附するものあるは妨げず。

一、本大学は校歌選定員若干名を選びて、之れに応募歌の選定を嘱托す。

一、第一回選定の結果は、募集期限後二ケ月以内に早稲田学報紙上に於いて発表すべし。

一、歌稿は明晰なる字体を以て書写し、漢字には振仮名を附するを要す。

一、本大学は歌稿の選に当らざるものを返送するの義務を負はず。

一、歌稿は必らず東京市牛込区早稲田大学庶務課宛にて送附すべし。且つ封皮に「校歌応募」と記入するを可とす。

明治三十九年九月 日 早稲田大学

(『早稲田学報』第一四〇号 前五―六頁)

 この準備として学内に講演会があり、高田早苗島村抱月が立って主旨や応募心得を語った。高田早苗は、応募の希望を有する学生は勿論、そうでない者も、この大学建学の根本精神を知るために、特に小野梓の著作と伝記、また『天下の記者 一名山田一郎君言行録』などを一読することを希望して退席した。後を承けて立った島村抱月は、「せっかく高田学長の話ではあったが、諸君がそんなことに係わっていたら、先ずその作は失敗だ」と言って、それから述べたことは、この主意書の(1)から(5)まで述べたところに相当するから、これは島村抱月の執筆にかかることが分る。思うに当時の早稲田の文科のように、全国から集まった詩人の卵を多く擁していた例は、どこにもあるまい。『文庫』と『明星』の両雑誌が盛んに詩歌趣味を鼓吹して、「詩を作るより田を作れ」と言われたいわば無用の業を憧憬し、志望する青年が多く、それに一般雑誌の『中学世界』までこれに呼応し、ここには後に政界に出て大臣になった投書家も数名いるが、彼らでさえ、詩をあげつらい、詩人を論じ、そして詩を作った。それらの中の多くの者が、早稲田に入って来たのである。そこで抱月は恐らく彼らに望みを嘱し、その中から完璧とまではゆかずとも、望みに近いものが得られると期待したに違いない。

 遺憾ながらそれは全く裏切られて、締切の十一月三十日までに第一・第二校歌合せて二十三編の応募があり、各二編ずつ比較的優等のものがあったとはいうものの、希望する域に達した、これはと思うものは一編もなかった。そこで、広告の約束に従い、四十年四月発行の『早稲田学報』(第一四六号)に、ほぼ同様の「早稲田大学校歌再募集」の広告を載せ、応募期限を来たる五月三十一日限りとして、再募集に望みをかけた。しかし、今回も意に充つるものを得ず、これまで集まった原稿を見ては、再々募集にはもはや望みをかける余地はない。しかもこれを披露すべき創立二十五周年は、日一日と迫って来るので、やむを得ず、誰かこれを作るべき適格者を指名することに切り換えざるを得なかった。

 さて何人を指名したものか。天馬空を行くかの如き詩才を持つ北原白秋が、予科の時から「全都覚醒賦」の長編を『早稲田学報』第一一二号(明治三十八年一月発行)に投じて、全詩壇を驚かし、この時大学一年にいた。奇才或いは天才なりとしても、校歌を依頼するには未熟である。

 やむなく、卒業した詩人の中に物色せねばならぬとして、差し当り候補は二人いた。何れも三十九年の第二回文学科卒業生で、片上伸相馬昌治(通称しょうじ)である。二人とも投書家として、中学時代から広く詩名を知られていたので、片上は初め泊川、のち天弦と号し、『文芸倶楽部』『文庫』『中学世界』に活躍した。相馬は御風と号し、早く竹柏会に入って佐佐木信綱の指導を受けて、『心の花』に拠り、また『文庫』と『明星』で活躍していた。天弦は学生中に『テニソンの詩』を出版して、坪内逍遙の推称を受け、今日に至るも名訳の名が高い。御風は学生時代から『白百合』なる同人雑誌に加わり、卒業の前年『睡蓮』と題する歌集を刊行している。共に抱月の嘱目を受け、早稲田文学社記者に迎えられた。二人を比較すると、学才・詩才ともに天弦が稍々優れていたが、その代り個性が強すぎ、主張に頑強にして容易に人に譲らないところがあり、大衆学生の口にする歌の作者としては偏している嫌いがある。そこへいくと御風は温藉で、適応の才があり、抱月が世に先んじて口語の自由詩・散文詩を提唱すると、逸速くそれに呼応して、『早稲田文学』の余白などを埋めた試作を見ると、新味掬すべきものがある。そこで御風が作者に指名されたが、蓋し至当であった。

 青年二十五歳の御風がいかにこれを光栄とし、また責任の重大さを感じたかを、後年に漏らした思い出「校歌の由来」によって窺おう。

一、校歌は最初懸賞で募集したのでしたが、思ふやうな歌がなかつたといふことで、私に改めて作る事を坪内先生と島村先生とから命じられたのでした。

二、そこで東儀さんと打ち合せをしましたところ、東儀さんのところに英、米、その他の国の大学の校歌を学校で取寄せたのが来てゐましたので、先づ取あへずそれを片端から読ませて貰つたり、又東儀さんにそれらの曲を聞かせて貰つたりしました。

三、その結果、更に高田先生や坪内先生に大体の骨子を伺ひまして、いよいよ作歌にとりかかりました。

四、私はその時はまだ学校を出てからやつと二年目の若輩でありましたので、それをひどく光栄に思つて大に緊張した気持で取りかかりました。

五、私はその当時は早稲田文学の編輯事務を自分の仕事としてゐました。年は二十五でした。なほその頃私は小石川雑司ケ谷町百十九番地に住んで居りました。

六、決して急ごしらへではなく、かなり時日の余裕があつたやうに記憶してゐます。

七、第一に調をきめることにし、坪内先生や東儀さんの御意見も伺つた上で、八七調にしました。荘重を旨としたからです。

八、作にとりかかつてから出来上るまでには、少くとも十日以上の日子を費しました。この間殆んどその事ばかり考へてゐました。

九、 大体出来上つた上で、島村先生に見ていただき、更にすつかり出来上つた上で、坪内先生に充分お筆を加へて頂きました。数ケ所なほして頂いたやうに記憶してゐます。

十、その時坪内先生からも、又他の先生からも、三節目の「心の故郷」といふ言葉が非常にいいと褒ていただいた事を今でも忘れません。

十一、『ワセダ、ワセダ……』といふエールは坪内先生の御発案によつたものだと記憶してゐます。

十二、歌が出来上つてから東儀さんへ廻しまして、作曲にとりかかつていただきました。東儀さんもかなり永くかかられたやうでした。

十三、無論英米諸国の大学の校歌の曲を参考されての上でした。

十四、練習は幾度も校庭に全校生徒を集めて東儀さん指揮の下に行はれました。

十五、式典には陸軍軍楽隊(?)の奏楽にあわせて全校生徒が合唱したやうに記憶してゐます。

十六、式典にいよいよ校歌のうたはれた時、私は目から涙が出てしかたありませんでした。

(『早稲田学報』昭和三年一月発行第三九五号 二五―二六頁)

五 歌詞の典拠

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 英・仏・独訳もでき、世界的にさえなっているこの歌だが、先ず二十五周年祝典に印刷・配布されたものを次に掲げて、若干の解説を加えよう。

都の西北早稲田の森に、

聳ゆる甍はわれらが母校。

われらが日ごろの抱負を知るや?

進取の精神学の独立、

現世を忘れぬ久遠の理想。

かがやくわれらが行く手を見よや。

わせだ! わせだ! わせだ!

東西古今の文化のうしほ

一つに渦巻く大島国の

大なる使命を担ひて立てる

われらが行く手は窮り知らず。

やがても久遠の理想の影は

あまねく天下に輝き布かん。

わせだ! わせだ!

わせだ! わせだ! わせだ!

あれ見よ、あしこの常磐の森は

心のふるさと、われらが母校。

集り散じて人は変れど、

仰ぐは同じき理想の光!

いざ声そろへて、空もとどろに、

われらが母校の名をばたたへん。

わせだ! わせだ! わせだ!

なお、相馬御風の自筆によるものが糸魚川の相馬御風記念館その他に蔵されてはいるが、右に掲げたものが、学苑が「早稲田大学校歌」として公にした一番最初の姿である。

 起句について、四十年後六十五歳になって糸魚川に引退している御風はこう語った。

「都の西北」とか「早稲田の杜」とかいふ言葉からして、人によつては異様に感ずるであらうが、私自身は今なほ昔ながらの「早稲田の母校」をおもひ浮べつつなつかしんでゐるのである。

(『早稲田大学彙報』昭和二十二年六月発行第三号 四頁)

 こう枕を置くのも無理はない。今の早稲田は都の中心部の観をなして、四望見渡す限り涯しない屋並の海で、所々に高層建築が交じっている。それがこの明治末期には、既に有名な茗荷畑は殆ど消滅していても、蛙鳴き、螢飛ぶ早稲田田圃は大部分残っており、それを巡って木立がたくさん指呼された。木曾の大森林とか、アラスカの大自然の森とかいう威圧するような壮大なものでなく、見る目に愛すべき緑という感じを与えたのである。方角は、今の東京では殆ど用いられない東とか西とか言っても、どちらがどうやら分らない。しかしこの頃は、日の出、日の入りや、射す影でそれが分り、日常、東西南北の言葉が使用もされたし、現にこの頃できた慶応の野球応援歌には「城南健児の血はほとばしり」の句が見える。

 この初句に方角を持ち出したのは、恐らく当時、天下の名文として一世の絶讃を博していた逍遙の「新曲浦島」の、

夫れ勃海の東方に

底し知れざる壑あるを

名づけて帰墟といふとかや

とあるのに幾分か拠っているのであろう。後には、

それ勃海の東幾百万里に

底を知られぬ壑あるを

と改められ、校歌の八七調はその方の暗示ということもあり得る。「聳ゆる甍」は、日露戦争中に出た最初の国定教科書に収められて当時愛誦されていた小学唱歌の、奈良の繁栄を謳った「甍は雲にそびえたり」の句に、或いは出ているかもしれぬ。第三句は恐らく「学問の独立」とはっきり表示したかったところだが、九字では節をなさず、やむなく「進取の精神」の枕を置いて、後は「問」の字を略して舌足らずにせねばならなかったところに、並々ならぬ苦心を見る。

 第三節の「現世を忘れぬ久遠の理想」とあるのは、なぜ久遠の理想だけでは足らず、現在を忘れぬの箍をはめたのか。これは理想にマイナス符号を付するようなものではないかと思われる。しかしここに、この時代の早稲田の風潮を肌身を以て感じさせる痛切さがある。折から自然主義の勃興期であり、早稲田はその本城である。自然主義は無理想・無解決を旗標とし、理想は単なる空華であり、幻想であり、蜃気楼であると一蹴し去っているのである。しかし校歌は自然主義の宣伝ではない。大学としては高き理想なかるべからず。ここの矛盾を埋めるため、自然主義のいう「現実に立脚する」リアリズムの突っかい棒を仕掛けたのである。

 理想の形容詞は高遠とあるのが普通で、久遠という法語を用いた先例は稀であろう。この頃、帰国して間のない島村抱月の新講義「欧洲文学史」が、文科学生の人気の焦点であった。その中で、特にダンテのベアトリス、レオナルド・ダ・ヴィンチの「ジォコンダ」、それからゲーテの描いた「ファウスト」のグレートヒェンを通じて彼はここにeternal maidenの面影を観じ得るとし、これを「久遠の女性」と訳した。この先例は古く姉崎正治などにないではないが、抱月の独特の講義の語調が学生達の頭に泌み込んでいたことが分る。御風はそれを聞いた最初の学生であり、且つ自然主義の主張者でもあったので、彼の筆からは、これより以外には作詞できなかった必然さがあって、それ故にいつまでも生気を保って清新なのである。

 東西古今の文化の潮が日本に渦巻くとの考えは、今日においては常識的に拡まって、何人の発言、どの学校の学風の一部ということはできない。しかし明治時代においては、これは決して他のどこの大学のものでもなくて、早稲田に一つの伝統をなした発想であったと言える。哲人大西操山は、日清戦争大勝の明治二十八年の春「国民の抱負」なる一論文を発表した(『六合雑誌』明治二十八年四月発行第一七二号)。その大要はこうである。ユダヤは神の国招来の思想を以て、ギリシアはその燦爛たる文化を以て、ローマは世界国家の実現を以て、イギリスは海洋への発展、アメリカは自由平等、フランスは人権宣言を以て、ドイツはその学問を以てというように、その他の国々にもそれぞれに、世界の先導役を務めた時代がある。しかるに比較的聡明なる国民の日本は、未だこの晴れの大役を務めたことがない。その舞台は今後に幕があくので、ヨーロッパから西に流れた文明は遂に東に回って、アメリカを越えて日本に来る。インド・中国に生じた文明は東漸してこれも日本に来て、ここに東西思潮は合体湊合する。その双方に同感と理解を以て事を処し得るのは、日本が一番その位置におる。これも今日では常識だ。しかし今から九十年近く前にこれを道破して国民に警告を与えたのは大西操山が最初で、これは早稲田に大きな反響を生んだ。相馬御風が操山の論文を読んだかどうかは何とも言えないが、この論文が早稲田に醞醸した思潮的雰囲気には薫染を受けざるを得なかった。

 「あれ見よあしこの」はその後「かしこの」と変改せられている。しかし、これは元の「あしこの」でなくてはならないとの主張も存在する。すなわちあとあの頭韻を踏んでいるので、いわゆるalliterationの自然の調子が揃えられているのであるから、これを破るが如きは原作を冒瀆するものであるとの批判がそれである。

 「心のふるさと」という句を坪内逍遙が非常にほめたということは、後に逍遙が、明治四十三年六月に『学生』(第一巻第二号)に「心の故郷を撰べ」と題した一文を寄せ、「母校を選び誤らぬやうにせねばならぬ」と強調していることによっても、窺い知ることができるであろう。「肉体の生れ故郷は天然に定るので、自ら選ぶことも拡張することも出来んが、『心の故郷』には村界も無ければ国界も無い。若しも選んだ母校が小に過ぎたと心附いたなら、いつでも取換へることも出来る。或は肉体はそこに置いて心だけを食出させることも出来る」とは、逍遙がそこに記しているところである(四〇頁)。

 校歌制定の翌年に早稲田に入学した後年の総長阿部賢一は、作曲者東儀鉄笛が「毎日正午過ぎ、校庭の中央に立って、集まる学生相手にタクトをふるって校歌を合唱させ、自分も大声をあげて歌い、これを幾度も繰り返し、会心の笑をたたえながら、学生群と楽し気に暫しの時間を校歌のために費やしていた」(「大隈重信と早稲田スピリット」『別冊太陽』昭和五十四年十一月発行第二九号一〇頁)と往時を偲んでいる。ただし、歌い方は元のと今のとでは違いがあり、「空もとッ(ここで一度しゃくり上げて)どろに」と、鉄笛はそこのところに激しい緩急をつけて教えたものだ。この方が「轟く」という勢いのよさに調和すると思うが、今はきわめてなだらかに、水の低きにつく如く歌われる。この元の歌は二十五周年式典の時、提燈行列に際して学生によって高唱せられ、忽ち都鄙に拡がった。その速力は、その数年の後カチューシャの歌が全国を風靡したのにも勝るものであった。一高の寮歌は早くから田舎の小学校でも教えられていたが、「都の西北」は更に、軍隊の下士集合所でも日曜になるとそこのオルガンで奏でられたもので、その流布の速さ、広さには、まさに驚くべきものがあった。

 校歌の作曲者鉄笛東儀季治は、「海ゆかば」の作曲者である雅楽の東儀季芳の子で、明治二年京都に生れたが、五年東京に移住し、十二年から宮内省に出仕、二十三年には雅楽部の伶人兼楽手に補せられた。ところが二十五年非職を命ぜられ、東京専門学校文学科に入学したが、翌年復職とともに、在学一年で中途退学した。しかし三十年には宮内省を退き、帝国教育会や独逸学協会学校に職を奉じた。三十五年からは坪内に師事し、三十八年には学苑講師として清国留学生部に唱歌を担当する傍ら、三十九年文芸協会の創立に参加、且つ高田の知遇を受け、早稲田大学学監室主事の名を与えられて秘書、更に副幹事に任ぜられたが、校歌の作曲および指導に当ったのはこの時期である。四十四年学苑を辞して演劇、特に俳優養成に専念したが、高田は東儀について左の如く語っている。

東儀君の家が代々雅楽を業とする家柄であつて、東儀君が其道にも通じて居たし、且つ西洋音楽の素養も十分に有つた事は、誰人も知る処であらう。其音楽家であるといふ事が、舞台の上に立つた際に少なからず利益となつたのであつて、文芸協会の役者達は、所作は巧いが声は聞えないといふ苦情が多かつた間に、東儀君の音声丈けは朗らかに満場に響き渡つたのである。……何と言つても東儀君の長所は、喜劇の方面であつた。東儀君が其の滑稽味を現はして大喝采を博したのは、君がハムレットの「墓掘」を演じた時であつた。其の当時から私は東儀君が喜劇の主人公に扮して活躍したのを、二、三度見た結果、斯かる喜劇役者たる天分を備へて居る人は、世間に二人とはあるまいと思つた位である。 (『半峰昔ばなし』 六四三頁)

 また現代でもなお、東儀の俳優としての天分に対して絶讃が惜しまれていないのは、次の引用によっても明らかであろう。

鉄笛が六代目尾上菊五郎や井上正夫らの、名人上手といわれた者にとってすら、すくなからず「気になる役者」だったという一事によっても、たんにわれわれ新劇役者の開祖だっただけでなく、新劇がうんださいしょの名優と呼んでも、さしつかえないほどの役者だったことは、容易におしはかれるだろう。

(北見治一『鉄笛と春曙――近代演技のはじまり――』 四一頁)

 文芸協会解散後は無名会を起し、のち新文芸協会を創設し、更に晩年は日本音楽史の編述に当ったが、大正十四年病歿した。