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第四編 早稲田大学開校

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第十三章 理工科の開設と医科の棚上げ

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一 理工科の再開

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 学苑草創の時、政・法二科とともに併置された理学科は、僅か三ヵ年足らずで廃止の憂き目を見た。さすがの大隈も事の意外に驚き、きつく唇を嚙みしめたことであろう。それが再び脚光を浴びて再開の喜びを謳歌したのは、大隈のこよなき執着と時代の趨勢によるものであることには疑いを容れない。大隈は、第一巻第三編第七章に既述の如く、かつて明治三十年の創立第十五周年記念式で、「理科、物理学は、私はどうしても学問の土台となるものと考へたんだ」と述べ、創立時に理学科を設けたことに言及し、ほどなく廃止のやむなきに至ったことを、「此理科の失敗は千歳の遺憾である」ときわめて残念がっていた。大隈には、青年期の思想形成時代につちかった文明摂取の中において自然科学を尊重する態度が一段と強くあり、ヨーロッパの近代的世界観が自然科学を根底とする認識として成立してきたことを理解していた。そして、そこには単に便宜主義としての学問ではなく、科学の力は精神上の変革にも力を持つものであることを重視する姿勢があった。つまり、大隈には、科学の成果のみに止まらず、その成果をもたらす精神を理工科の中で最大限に発現したいという念願があったと見ることができる。こうしたことは、この前後にも、また、大正期に入っても折にふれては語られており、既に三十九年七月十六日の校友大会でも、既述の如く、「大学はまだサイエンスを持たぬ……どうしてもサイエンスを置かなければならぬ」と力説していたのである。これが、ここに至って漸く再開の実現を見たわけであり、ひとしお感慨が深かった。

 理工科の再開が学苑の第二期計画中の一つであったことは、既に前章で説述したところであるが、市島が、この第二期計画「の苦心経営録を他日作ることもあらん、其折多くの事実の忘却せられて編纂に臨み困難を感ぜんことを慮り……随時緊要の事を書き記し置」いた『背水録』が残っているので、それに基づいて、もう少し詳しくその経緯を窺ってみよう。

第二期経営を具体的に立案せしは、〔明治四十〕年十二月末日箱根〔玉の湯〕に避けて、学長と田原と余と三日間討論筆作の結果なり。田原は専ら理科に就て、又既に成案ありし医科に就て案を立て、余は趣意書、基金募集の移激文を作り、学長は基金規定を立案せり。これにて百五十万円を漸次に募るの案は成れり。正式の会議を経て、幾んど修正なく、〔四十一〕年一月決定、終に印刷に附するに至れり。

三人の間に格別の議論は無かりし。大体医科・理工科は到底収支償ふべきにあらざれば、寧ろ充分の設備をなし、足らざるは基金の利子を以て補足するの方針を執り、百五十万円の内四十万円を基金に充る事とせり。

………………

理工科の内、先づ機械・鉱山のごとき一、二科を設備し、漸次他の諸科に及ぼす事とせり。

第二期計画を発表し、而る後敷地を買ひ入るるは不利なれば、未発に先だち、密かに土地を購入すべしと決したり。

………………

〔四十一〕年一月明進軒に維持員会を開き右の案を討議せり。大体に於て何の異論も無かりしが、経済界逼迫の折柄なりしを以て、果して此の大金を募集し得る成算ありやと云ふの悲観説は沸騰せり。時機は無論よろしからざれども、然りとて一年を延ばせば或は他の学校に於て先んずるの虞なきにあらず(慶応に於て医科を置くの風説聞こえたり)。兎に角背水の陣を張り、先づ本年四月より予科を置くべしとの説も出でたり。余のごとき、既に紀念会に於て大体を発表しながら、今に於て躊躇すべきにあらず、如何に不景気の折柄なりとて、予科一年半の間に本年設備に要する十二万円位の金の出来ざることはよもあるまじ、コレ式の金出来ずとなれば百五十万円は如何にして出来べき、余一人にても募つて見んと、満座を励まし、漸く悲観説を鎮撫し、事ここに決したり。

学長は此の決定を齎らして大隈総長を訪ひ、不景気の折柄此の計画を全ふするは頗る困難なり、是非に総長の満幅の力添えを仰ぎたしと請ひしに、総長も之れを領し、自分も今迄人に頭を下げしことなきも、今度は一生の思ひ出に自から陣頭に立つて募集に力を致すべしと誓はれたり。

 さて、第二期計画の中で、医科の新設に先んじて着手することに決定した理工科の再開について、高田は、

私は……〔理工科〕方面の事には元来全くの素人で頗る当惑したのである。然るに或人の紹介に依り、東京〔高等〕工業学校長手島精一君が私の顧問となる事を承諾され、且つ私が東京大学在学当時、学生仲間の一人であつた処の、工学博士阪田貞一君を私に紹介して呉れた。そこで私は此の両君を顧問として建築其他の設備に着手する事が出来た。

(『半峰昔ばなし』 四七〇頁)

と語っているが、手島精一(嘉永二―大正七年)は、高田より十一歳年長のアメリカ帰りの工業教育界の先駆者であり、高田から「工業教育予算の国会審議に際して協力して貰った恩義もあり、〔理工〕科の設置については、なみなみならぬ熱情を傾けて尽力した」(安達竜作『工業教育の慈父手島精一伝』二一三頁)。また、阪田貞一(安政四―大正九年)は、高田より三歳年長で、東京大学理学部機械工学科卒業後、二ヵ年間の欧米留学を終え、当時東京高等工業学校教授、更に大正五年には手島勇退の後を襲って同校校長に就任することになる、これまた工業教育のヴェテランである。しかも、甚だ幸いにも、ここに二つの朗報が学苑にもたらされ、実施に向って歩を進めることとなった。『背水録』の記載を再び引用すれば、

爰に第二発展の途に於て頗る好都合なる事こそ起りたれ。それは竹内綱の子息が学校の第二期発展理工科新設の事を聞き、応援を与へんと密かに大隈伯迄申出でたる事なり。竹内子息はかねて鉱山を所有し居る関係より、他日は鉱山学校を設立せんとの志あり、其の準備として三、四人の学士を特に欧米へ遊学せしめ、鉱山学を研究せしめつつあり。然るに竹内の息子は早稲田の挙を聞き、自身養成の技師を早稲田へ供給せんと申出られたり。これは新設備に対し極めて喫緊の事にして、如此厚意は金の寄附を受くるよりも、或る意味に於て多謝すべき価値あり。何んとなれば、斯る技術家は金ありとて遽かに作り出さるべきものにあらざれば也。尚竹内は他日幾許の資金をも寄附することを約されたり。

 「竹内綱の子息」とは、長男明太郎のことである。父綱は小野梓と同郷の高知県宿毛出身の政治家・実業家であり、末男吉田茂の父として聞えている。明太郎は万延元年の生れで、父に従って上京し、早くより政治に志した。後、明治二十七年佐賀県唐津に芳谷炭坑会社を創立、三十五年石川県小松の遊泉寺銅山を買収、四十一年唐津鉄工所を創立、大正五年小松製作所を創立するなど、実業界に活躍し、また大正四年以降代議士にも三回選出されたが、昭和三年病歿した。竹内は明治三十二年欧米に遊んで、我が国の工業技術の向上の必要を痛感し、有能な新進学者を欧米に留学させ、私立工業学校の設立を企てたが、かねて大隈に好意を寄せていたので、手島に高田を紹介されると、私費を擲って養成した学徒の提供を申し出たのである。この美挙に対して学苑がいかに感激したかは、高田の次の追憶の辞によって明らかである。

早稲田大学創立第二十年を経過したる頃、余は当時同大学に学長として理工学科を設置せんと決意したるも、其際最も困難を感じ居りしは適当なる専任教授を得る事の至難なるの一事であつた。玆に於てか余は止むなく当時東京高等工業学校長たりし手島精一君に優秀なる専任教授の推薦方を依頼したるが、同君は竹内明太郎氏が海外に留学せしめて、養成せる最も優秀なる数名の適任者を推挙し呉れられ、尚幾多の物質的後援を寄せられ、玆に於て始めて、早稲田大学理工学部創設の事業が其緒につくに至りし次第にして、之れが為め余の竹内氏と深く相識るに至りし次第である。竹内氏は予而自ら工学に関する学校を起すべく其準備として、学校卒業生中の優秀なる者数名を外国に留学せしめられ、其計画の学校将に成らんとせるの際なるに拘はらず、惜げもなく之れを早稲田大学に譲られたのであるが、是れ実に、常人の到底なし能はざる処である。其後、現早稲田大学理工学部々長山本忠興博士をもすすめて早稲田大学に関係せしめられ、爾来同博士の献身的の努力により理工学部は今日の隆盛を見るに至れり。同理工学部創設に対し寄せられたる多大の物質上の後援と相俟つて、同学部に取りては実に最大の恩人といふべく、斯る関係より余は氏とは生前屢々接見したるが、余の過去の交友中にも類多からざる模範的紳士として、常に推服し居たる次第にして、又早稲田大学理工学部に於ては、同君の創設当時に於ける功蹟を深く追念し、氏を遇するに校賓の礼を以つてし、其油絵の肖像を掲げて常に敬意を表して居る次第である。

(小松製作所銅像建設委員会編『竹内明太郎先生追憶』 一五―一六頁)

 『創立三十年紀念早稲田大学創業録』には、牧野賢吾(電気学)、遠藤政直(機械学)、小池佐太郎(採鉱学)、佐野志郎(電気学)、佐藤功一(建築学)の名を挙げて、「此等の諸氏は、初じめ竹内鉱業会社より留学生として海外に派遣せられ、中途よりして本大学の留学生と為りたる也」(一七六頁)と記載しているが、大正五年十月二日に挙行された竹内明太郎氏表彰式に際しては、大隈総長、高田名誉学長、天野学長連名の表彰式辞中に、

曩きに貴下が特派して欧米に留学せしめたる青年俊秀の学士牧野賢吾、小池佐太郎、佐藤功一、遠藤政直、西岡達郎、岩井興助、山本忠興諸氏をも併せて理工科教授の任に当らしめ、且其報酬を給せられたること前後数歳、其金額実に二万九百七十円に及ぶ。我大学部理工科は、爰に始めて其基を肇め、其根を固くし、本大学の宿望を達するを得たり。

(『早稲田学報』大正五年十一月発行第二六一号 五頁)

とあり、更に西岡(機械工学)、岩井(冶金学)、山本(電気工学)が、竹内派遣留学生の中に加えられている。何れにせよ、第二回卒業生真野官一が、「当時のことを回想すると丁度竹内明太郎先生の工科大学といふ感があつた」(『竹内明太郎先生追憶』六六頁)と述べているのは、過言ではなかったであろう。

 なお、元理工学部長高木純一の、竹内についての記述の中から、左の点を補っておこう。

竹内は後で高知に、かねて心の中にあった人材の養成のため高知工業専門学校を創設した。『日産自動車三十年史』によれば、日産自動車の前身である快進社にも関係をもち、田健次郎、青山録郎とともに、国産の小型車を開発し、三人の頭文字をとってDATと名づけたとある〔二―三頁〕。もちろん脱兎の意をこめたものであるが、先駆者を語るひとつの記念碑である。『背水録』にある「竹内は他日幾許の資金をも寄附することを約されたり」という件であるが、このことは理工学部の出発とともに苦しくなった学校の財政に対し、理工科教授たちの給与について、何がしかの経常的な負担をして、その約束を果された。このことは内藤多仲名誉教授にうかがったが、確かに竹内事務所から別封をもらったという証言を得たのである。

(「市島謙吉の『背水録』を読んで」『早稲田大学史記要』昭和五十三年三月発行第一一巻 一一―一二頁)

 また四十二年七月二日の維持員会記録には、

理工科ノ施設ニツキテハ商議員竹内明太郎氏ノ助力大〔ナルガ〕、氏ハ又、〔牧野賢吾、遠藤政直、小池佐太郎〕等諸氏ノ報酬ニ充ツル意味ヲ以テ、特ニ来学年経常費中へ金三千円ノ寄附ヲ申込マレタリ。 (文書課保管『自明治四〇年四月至明治四五年七月維持員会決議録』)

と記載されてあることを付言しておこう。

 第二の朗報は、四十一年五月五日に学術奨励の思召で金三万円の御下賜金があったことで、これに更に力を得て第二期拡張の基金募集を開始したのは、前章に説述した如くであるが、『背水録』はこの間の事情に関して次のように説述している。

実は私立学校に対し斯る恩賜のありたるは破天荒とも云ふべき事也。往年福沢氏に五万円を賜り、氏はこれを慶応義塾に寄附したる例はあれど、これは事体同じからず。福沢に爵を賜はるべき御内沙汰ありしに対し、福沢辞退に付金円を賜りたるなり。今回のは一個人の大隈伯に賜りたるにはあらずして、学校総長たる伯に賜りたるなれば、取りも直さず学校に賜りたる也。殊に第二拡張の事を聞召され、其の元資として下賜の旨明記あるは第二期募集を為さんとする発程に臨み何よりの思召なり。即ち畏れ多くも 皇上は勧進帳の第一番に御寄附を賜り、公衆に対し則るべき典型を示されたるなり。校員誰れか聖恩に感激せざらん。

ほのかに承る処に依れば、この案を皇室の経済会議に提出されたるは伊藤侯爵にして、列席の井上・山県・松方其他の会議員は何れも異議なく、直ちに此案は通過したりと云ふ。

又承るに此案の提出されたる会議は、戦後漸く膨脹せる皇室の経済を緊縮せんことを主題とせる会議なりしに、斯る案の容易に通過したるは、学校のため特に祝すべき事共也。

高田学長が総長代理として恩賜金拝受の為田中宮相を訪ひし時、宮相は学長に対し、或は金額に対し不満に感ぜんも知れざれど、皇室の経済を緊縮せん為めの会議に決したる額なれば、一概に不足と思ふ可らざる旨、挨拶ありたる趣に聞けり。

以上は皇上特別の思召に出たるは申迄もなき事ながら、事のここに至りたるは、大隈伯の尽力に依るは勿論也。余学長と箱根に会議の折、共に曰く、今回は是非とも井上・山県等の元老をして、少なくとも表面上賛成者たらしむるにあらざれば、成功覚束なし。而して彼等を賛成者たらしめんには、先づ帝室より若干の恩賜金を拝領すること尤も大切なりと。而して事恰かも期せし所に適ふ。第二期計画難は元より難なりと雖も、みだりに悲観し落胆す可らざる也。

学校は此の恩賜を拝したるを光栄とし、取あへず感謝式を挙げ、中庭に教職員・学生一同を会して、総長・学長より聖恩の優渥なるを一同に告げ、学校の責任一層大なれば、向後尽瘁第二計画を完ふせざる可らずと訓諭し、尚校友会を開きて祝賀の意を表し、引つづき講師会に於ても祝賀の意を表したるが、校友会に於ても講師会に於ても、聖旨を奉戴し、打措かず基金募集を為すべしと決定したり。

 なおここに付記しておきたいのは、四十年十二月七日の維持員会記録には、「理工科ハ機械、電機、鉱業、建築ノ四科」と記されたが、四十一年一月十三日の維持員会では「機械、鉱業ノ両科ヲ開キ、他ハ順次設立スルコト」と改められ、また前章中に掲げた「早稲田大学第二期計画趣旨」の草案は夙に四十一年二月二十七日の維持員会に配布せられたものと推定せられるが、そこには、学苑に置くべき科として、「機械、鉱業、電気、土木、建築、製造化学」が挙げられた後、「就中機械、鉱業ノ二科ノ如キハ、時勢ノ必要上、経営ノ順序トシテ先ヅ手ヲ下スベキ歟」(『早稲田大学第二期計画』二頁)と述べられている。ところが、二月二十七日の当該維持員会では、「先ヅ本年四月機械科ノ予科ヲ開始スルコト」と報告され、四十二年一月二十五日の維持員会では、「本年九月ニ機械科本科ヲ開設スルト同時ニ電気科ヲモ併置シ、本年四月ヨリ建築科並ニ採鉱科〔鉱業科中より冶金学関係科目を概ね省いて採鉱科とする〕予科ヲ開クコト」を四十一年十二月の理工科商議員会で協議したと学長によって報告されている。「機械、鉱業」の二科を最優先的に設置する計画が、どのような経緯で、機械科と電気科の二科設置に変更されたのか、理工科商議員会の記録が残されていないので、知る由もない。何れにしても、明治四十二年一月の『理工科新設実行案』(『自明治四〇年四月至明治四五年七月維持員会決議録』綴込みの謄写版文書)により、各学科の名称は「機械学科、電気学科、建築学科、土木学科、採鉱学科、冶金学科、応用化学科」と改定され、同時に、「第五高等予科ハ募集ノ際ハ各学科ヲ区別セズシテ入学セシメ、本科ニ移ルノ時専修学科ヲ決定セシムルノ制ニ改」められたのであった。そして、高田の言を以てすれば、「この新設の学科を理工科と称する以上は、少くとも物理学科、純正化学科等は設置したいと思つたのであるが、其の実行は他日に譲る事と」(『半峰昔ばなし』四七二頁)なったのである。

 なお、理工科という名称を採用したのは我が国では学苑を以て嚆矢とするが、これに関しては、高木純一が語っている如く、

理科と工科を並称したという解釈もあると思うんですが、われわれはそうは解釈しないんです。工科をやるにはいつも理科によって基礎をやらねばならぬという精神からその名称がつけられたと思っているわけです。

(「理工学部の現在と将来」 『早稲田学報』昭和三十四年九月発行第六九四号 一三頁)

という理解が有力であることを記録しておきたい。

 初代理工科科長となった阪田貞一は、理工科の構想に関して、四十一年前半に次のように語っている。設置学科については、この時期に至ってもなお最終案の確定していなかった実状が、まざまざと窺われることが興味深い。

今度早稲田大学にて理工科を新設して、機械科、鉱業科、土木科、建築科、電機科、化学科の六科を置くことになつた。従来私立で低度の工業学校は幾らもあるが、大学として私人の手に依つて設立さるるものは早稲田が嚆矢である。一体工科大学を完備せしめやうとするには凡べての実修機械を揃へなくてはならぬもので、決して容易の業ではない。そこで早稲田では先づ就中機械科、電気機械科、応用化学科の三科を置くことにして、愈今年四月より予科を開始することになつて居る。

予科の修業年限が一ケ年半、本科は三年となつて居て、中学卒業のものが先づ予科に入ることになつて居るから、その程度は高等工業学校より少し高いものとなつて居る。予科は毎年四月に入学して翌年七月に卒業して本科に入ることになつて居るが、その修学科目は倫理、国語、英語、数学、力学、物理、化学、鉱物、地質、図画、体操の十一科を修むるものであるが、就中数学、物理、力学、英語を十分に遣らせる考へで居る。殊に数学の力が必要であるから予科の間に十分鍛へ上げる考へで微分積分まで腹一杯やらせ、且つ力学の全部をも修めさせる積りで居る。物理の智識も十分なくてはならぬので、物性、力、熱、音響、光、磁気、電気等に至つて広くやらせる事になつて居る。

本科に入つて修める科目の主なるものは、

一、機械科

工作法、力学(応用力学、熱力学、水力学)、機械学、原動機、電気工学、工業経済、製図(製図、計画製図、卒業計画)、実習、英語、講演

二、鉱業科

力学、地質学、鉱物学(鉱物、鉱物吹管分析)、鉱床学、採鉱学、撰鉱学、冶金学、分析試金術、測量、機械学(水力学、捲揚機械等)、原動機、電気工学、工業経済学、鉱山法規、製図、実習、英語

三、電機科

力学、機械学、電機学(発電機、電動機、変圧器、電池)、電気及磁気学(電気学、磁気学、交番電流、電信、電話、電気測定法、電燈、電力伝送)、原動機、電気鉄道、工業経済、製図、実習、英語

四、土木科

力学(応用力学――材料強弱、家屋構造等)、建築材料、工学(石工学、河海工学、衛生工学、電気工学)、橋梁、道路、鉄道、測量、工業経済、土木行政法、製図、実習、英語

五、建築科

力学、地質学、測量、美学、建築材料、家屋構造、沿革、装飾法、衛生工学、工業経済、建築法規、製図、実習、英語

六、化学科

力学、製造化学(燃料、築窯、顔料、石炭瓦斯、酸類、アルカリ、製紙、澱粉、砂糖、油類、樹脂、塗料、セメント、醸造、破璃陶磁、煉瓦、色素、染色、鞣革)、分析、鉱物識別、電気工学、化学史、冶金学、工業経済、製図、実習、英語

以上の学科に依つて主として其原理を研究せしむる方針で居る。実習の方は唯だ原理を教へるに就て、それを説明するに必要なるだけの機械は設備することになつて居るが、新たに工場を設けて実習せしむることは甚だ困難であるから、暑中休暇と寒中休暇を利用して諸所の工場を参観せしめ、出来得べくんば就いて実習せしむる考へで居る。故に実習の点より云へば高等工業程度に設備を完成せしむることは出来ないから、此点は多少劣るかも知らないが、学科の方を以て之れを補ふことが出来る。だから卒業後直ぐに工事に着手することは出来ないであらうが、暫時工場に入つて伝習すればその後はズンズン延びることの出来るやうにして居る。学校では何うで実習の不足することは免れない。例へば川崎造船所に行つても、鉄道局に行つても取り扱つて居ることが皆それぞれ専門であるから、据え付けて居る機械は十二分に完備して居ることは当然である。所が学校では一専門業にのみ全力を注ぐことは出来ず、一般に亘つて設備して置かなくてはならぬのであるから、何うしてもそれぞれの工場に設けてある通りの機械を悉く揃へる訳には到底行かない。そこで学校では先づ原理を示すだけの機械の設備に不十分でない以上は善いとして貰はなくてはならん。在学中に原理を十分に研究して置いて、卒業後に工場に入つて暫らく実地の練習をやれば其進歩は必ず著しきものあるを疑はぬ。故に入学者の志ざし一つで将来には何んなにでも延びることの出来るやうに養成したいと思ふのが早稲田工科大学の方針である。

学費は本科が一ケ年四十九円五十銭。予科は第一期が十四円、第二期・第三期が各三十八円五十銭。之れは学校に対する学資であつて、その他の食費諸雑費の概算を計れば、本校の寄宿舎では食費が一ケ月六円。舎費平均一ケ月一円八十銭。教科書一学年分平均十二円(之れは予科の分にて大学部にては尚ほ増加すべし)。その他の諸雑費、筆墨紙類より洗濯賃に至るまで、一ケ月約二円五十銭と見れば大差ないと思ふ。

将来工業家として立たんと思ふものは資格として第一は体格が強壮でなくてはならん。工業家は法律家や文学家などが家の中で書物を相手にして居るとは違つて、自ら工場に立つて多くの職工を使ひ、先登に立つて働かねばならぬものであるから、体格が弱くつて之れに堪へない様では可けない。多くは日限を限つて頼まれる仕事を仕上ぐる事が多いのであるから、身体が弱くつて屢々仕事を休む様では到底効果を上げることは出来ない。第二には小才の利いたと云ふ人よりも耐忍力に強い方の人でなくてはならん。学問の性質として、今日学んだことを明日直ぐに成績を上ぐると云ふ学問ではなく、唯だ一事に熱心して五年も十年もかかつて仕上ぐると云ふ種類の仕事が多いのであるから、余程意志が鞏固で何んな障害にも堪へる辛抱力の強いものでなくてはならん。第一は頭脳が粗雑では可けない。一分一厘間違つては大切な仕事がグワラリと頽れると云ふ如き仕事ばかり取り扱ふのであるから、余程頭脳が明晰で緻密な思想のものでなくては本当の工業家となる資格は無いと思ふ。

(『早稲田学報』明治四十一年六月発行第一六〇号 一八―二〇頁)

 こうして理工科の本科開設の準備は着々と進行し、四十二年に入るや、理工科高等予科教室および機械工学科実習工場の新築が開始され、そして九月、本科開講のため左記の「早稲田大学理工科要覧」を作り、更に「理工科入学者の心得」と「理工科規則の摘要」とを公にした。

早稲田大学理工科要覧

理工科新設 本大学は時運の趨勢に応ぜんがため、従来設置の政、法、文、商等の諸科の外、新に理工科を開設し、昨年四月既に其一部予科(機械学科)の授業を開始せり。然るに創始の際とて未だ新設本科の主旨設備等を知らざるもの少からざるが如し。依て玆に其大要を略記し、未だ本科に就き知らざる諸彦、特に世の父兄並に来学志望子弟諸子の便に供せんとす。

理工科の学科並其予科・本科授業開始期 本大学理工科に設置確定の学科は機械学科、電気学科、採鉱学科、建築学科、土木学科、冶金学科、応用化学科の七学科にして、其予科並に本科授業の開始期日は左の如し。

学科 予科開始期日 本科授業開始期日

機械学科 昨年四月 本年九月

電気学科 右同 右同

採鉱学科 本年四月 明治四十三年九月

建築学科 右同 右同

土木学科 明治四十三年四月 明治四十四年九月

冶金学科、応用化学科は何れも開始期未定なり。依て本年四月には機械、電気、採鉱、建築の四学科予科生四百八十人を募集す。

本大学理工科の特色 設備等に関する点は次項に譲り、先づ修業年限に就きて云はんに、本大学理工科は予科一箇年半・本科三箇年にして、其入学期は毎年四月なり。故に官設大学よりは卒業期二箇年早く、同高等工業よりは一箇年乃至一箇年半後るる迄なり。

二箇年長く学校に止りて学術の研究に従事するか、二箇年早く実業界に入りて実地につき研究を重ぬるか、利害一に青年諸子の境遇によることなりとは云へ、卒業期二箇年の延長は、種々の関係より、技術者に最も必要なる実地の経験をば、躬ら下級者と伍し、之を取得するの好機を逸せしむること少からず。これ実に本邦工業界の遺憾とする処なるに似たり。故に本大学に於ては、可成早く学術的基礎の研査を終り、若き中に実地経験を積ましめんとするものなり。此事たる工業界に身を立つるに最も必要なるのみならず、早く独立自活の生涯に入り、父兄を煩すこと二箇年少きものなれば、特に青年者の注意を希望す。

若夫れ更に理工科に関する学理の蘊奥を極めんとする資力と学力とを有するものに於ては、別に本大学研究科の設あり。其入学は亦固より大に歓迎する所なり。又高等工業より一箇年遅ると雖も、高等工業三箇年にては外国語等に充分の時を用ゆる能はずして、卒業者将来の発達に遺憾少からざるのみならず、専門学科にも時間不足の点あるは吾人の耳にせる処、これ本大学に於ては、一箇年半の予科を置き、基礎学科の素養を十分ならしめ、専門学科の修得に便ならしめしと共に、第二外国語修得の余裕をも与へ、遺憾無からしめんことを期せし所以なり。

尚本大学に於て理工科が商科と併置せらるるは、特色の一にして、双方勉学上の利便少からざるべし。

理工科の設備 理工科の設置は従来本邦私立の学校に於て之を難とせし処、これ第一其設備に巨額の資金を要するがためなり。されば中には本大学新設理工科の設備につき杞憂を懐くもの無きにしもあらざるべしと雖も、曩に本大学が第二期拡張の計画を発表するや、大に朝野の同情を添し畏れ多くも恩賜金三万円を下賜せられし外、内外より多額の寄附申込に接し、尚賛助の意を表せられんとする篤志家少からざれば、本大学に於てはこれを基礎として着々予定の計画を進めつつあり。

重きを実験教育に置ける理工科に於ては、是等資金の多くを実験の設備に投じ、可成完全なる実験場を設立せんと計画し、既に其一部の建築に着手せり。

数十万の資金固より多しとせず。去れど本大学に於て理工科を新設せるは新に某地に一専門学校を起せしと異なり、従来の教室、講堂、図書館、図書、器械等にして又本科にも使用し得べきもの少からざれば、右の資金は新設科に特に必要なる設備に充て得るを以て、完成の暁には本邦高等専門教育機関として充分恥しからぬ設備を現出せしめ得べし。

理工科の講師 凡そ学校の良否の別るる処は、設備より教師其人を得るや否とにあり。然るに幸にも本大学に於ては、或る篤志家が両三年前より学問並に実地に経験ある人材を簡抜して外国に留学せしめ居られし数名の専門学者をば、同氏の厚意により教師として迎ふることとなり、此等の教師は本科授業開始と共に主として本大学理工科に教鞭をとらるる筈なり。此他本大学は所在地の東京なるを幸ひ、東京在住の官公私の業務に従事せらるる博士・教授・実地家を招聘し、夫々独得の専門学科につき講義を嘱託する筈なり。されば学生は地方に於て学ぶに比し、一層の利便甚少からざるべきなり。

理工科卒業後の就職 今日に於て卒業後の事を云々するは少しく早計に失するの嫌なきにしもあらざれども、父兄諸君は勿論、子弟諸子に於ても、入学の際此点につきては多少慮る事なるべければ、玆に一言し置かんに、大体に於ては時勢は本大学理工科の如き実際的方針により教育を受けたる人士を要求するの多大なるべきは疑を容るるの余地無きのみならず、既に本大学には他科出身の先輩ありて後進を誘導するの事実あり。自然新立の学校と異なり、実業界に就職するに便あるのみならず、本大学に於ても成るべく就職紹介の労をとるが故に、本科卒業者が立身上の便否は只一に諸子の勉学努力如何によるのみなりとす。

明治四十二年二月 早稲田大学

(『早稲田学報』明治四十二年三月発行第一六九号 二一頁)

理工科入学者の心得

本年九月、理工科大学の内、機械及電気学科各本科第一年級を開始し、四十三年九月採鉱学科、建築学科各本科第一年級を開始す。

来る四月第五高等予科(機械、電気、採鉱、建築の四学科)学生四百八十名を募集し、四十三年九月志望に依り各本科に入らしむ。

但し、冶金学科、土木学科、応用化学科は追て開始す。

一、第五高等予科第一期に入学資格を有するものは、

第一、文部大臣指定の中学校を卒業したる者。

第二、府県立師範学校を卒業したる者。

第三、明治三十六年文部省令第十四号専門学校入学者検定規程第八条第一項により文部大臣より無試験検定を受くることを得と指定せられたる各種の学校を卒業したる者。

第四、明治三十六年文部省令第十四号専門学校入学者検定規程により試験検定を経たる者。

第五、工業学校を卒業したる者。

第六、甲種商業学校を卒業したる者。

第七、倫理・国語漢文・内外歴史・内外地理の試験を経て中学校卒業生と同等の学力を有すと認めたる者。

の七類にして数学・物理・化学・製図・英語の入学試験に合格したるものとす。

以上は凡て中学卒業程度により試験す。但し第五、第六、第七の入学者は二種生とす(二種生は徴兵猶予の特典なし)。

一、前項第一乃至第五の各学校卒業生にして其卒業成績良好(自席順一番至同十番)の者は検定の上各科六十名を限り無試験入学を許す。

但し、検定に漏れたる者は入学試験を受くることを得。

一、入学試験に合格したる者は成績順により入学せしむ。

但し、入学試験合格者にして入学をなし得ざるものには及第証を附与し、翌年抽籤の上定員の四分の一を限り入学せしむ。

一、本年四月一日入学試験を行ふ。受験者は入学願書(高等予科事務所に請求すべし)に手数料(一円)及手札形写真を添へ前日迄に申込むべし。

但し、入学願書には第一、第二及第三の志望学科を記入するを要す。

一、無試験入学検定志望者は三月三十日迄に、卒業成績席次表、当該学校長の証明書を入学願に添へ、検定料(一円)と共に高等予科事務所に差出すべし。

一、束脩並に第五高等予科学費左の通りとす。

一、束脩 金三円

一、学費 金五十六円(毎月分納を許す)

一、入学願書用紙、規則書、等は申込次第に送附すべし(但し郵券三銭を要す)。

理工科規則の摘要

一、大学部に理工科を置き機械学科、電気学科、採鉱学科、冶金学科、建築学科、〔土木学科、〕応用化学科の七科に分つ。第五高等予科を置きて其の予備門とす。

一、理工科大学本科の修業年限を三ケ年とし、第五高等予科の修業年限を(毎年四月より翌年八月に至る)一ケ年半とす。

一、理工科高等予科及大学本科の課程左の如し。

第十二表 理工科課程および予定表(明治四十二年)

高等予科

化学科にありては第二学期の科目中三角、解析幾何、微分及積分の四課目を削除し、化学に合し理論、分析を課す。

又第三学期の課目中解析幾何、積分、微分の三課目を削除し、化学に合し理論、分析を課す。

大学本科

機械学科

電気学科

採鉱学科

建築学科

冶金・土木・応用化学科は之を略す。

(『早稲田学報』明治四十二年四月発行第一七〇号 三―四頁)

二 設備の充足

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 設備面から見ると、理工科が文科系統の諸学科と異り設備に多額の費用を要するのは、言を俟たない。理工科の建物については前章二九四―二九五頁で一瞥したが、ここでは、それらの建物の用途と各学科の設備の充実ぶりに目を向けよう。

 高等予科の授業は既に四十一年四月から開始していたが、取敢えず機械工学科のみを念頭に置いていた理工科最初の建物として、三階建の理工科高等予科教室と、二階建の機械工学科実習工場と、平屋建の仮鋳物工場との三棟の新築工事が、翌四十二年に着工・竣成した。校舎配置上、全体に予科と本科とを区画割りにする構想があったのであろうか、理工科高等予科教室は従来の他学科の高等予科校舎に隣接して建てられ、教室の他に製図室を備えていた。四十二年九月の本科開始に漸く間に合って竣工した機械工学科実習工場は、当初、仕上工場と呼び慣わしていたが、一階が仕上工場で、二階が木型工場である。そして木工および仕上用実習工具や動力用モーターなどがさっそく設備された。他方、設計段階では倉庫にする予定であった仮鋳物工場は、四十五年に僅少部分が建て増しされて、増築分を真鍮鋳物工場に充てた。四十三年に竣工し、二年後南側に増築された機械工学科・電気工学科の実験室・汽罐室は、中央部に機械工学科第二実験室を、その西側の突出部に汽罐室および石炭庫を、南側の七十八坪余の増築部分に第一実験室と製図室と講師室を配した。更にその南側に第三実験室を増築し、これの西側に工場を建てて、実習工場と結び、機械工学科全体の有機的統合を図る構想があったが、これは実現しなかった。機械工学科のいわば心臓部に当る汽罐室には、最新式五十馬力のバーブコック・アンド・ウィルコックス汽罐と四十五馬力のランカシャー汽罐とが各一基備えられ、『早稲田学報』(明治四十四年十月発行第二〇〇号)の表現を借りれば、「地上八十五尺の大煙突は早稲田学苑の西北隅に絶えず黒煙を吐くの壮観を呈し」たほどであった(二六頁)。一方、第二実験室には、六馬力の石油発動機、六馬力の単筩式蒸気機関、九馬力の吸入ガス機関、三十五馬力ダイナモ付属ガソリン発動機といった原動機の他に、リーレー式五十トン材力試験機をはじめとする実験機械が据え付けられ、増築された第一実験室には、セントリフューガル喞筒などが配置された。なお、この実験室・汽罐室には、機械および電気の両学科のみならず、各学科専用の校舎が完成するまで建築および採鉱両学科の設備等も置かれていた。

 さて、この実験室・汽罐室の北側部分を占めたのが、電気工学科最初の実験室である。ここには直流電動機や測定器、電力輸送装置を置き、また電信電話機の装置は校内電話としても利用した。二年後この西側に蓄電池室が新築されると、当時の電力事情を補完するために夜間構内の電燈電源をすべてここから供給し、研究と実益とを両立させた。電気工学科のこの実験室は、四十四年、この建物の北側に三階建の大きな製図教室が完成して一階の西側部分および中央部分が同科の実験室に充てられると、第一実験室と名付けられるとともに、後者の二つの実験室はそれぞれ第二、第三実験室と呼ばれ、第三実験室には講師室も添えられた。そして第二実験室には各種の電動機や発電機が、第三実験室には電燈・電力・電信電話・電量計などの実験装置が設置された。

 製図教室という建物は、三階全部を占めた建築学科教室を代表的に呼び慣わした名称である。建築学科はすべてこの建物内に集中し、三階には製図室や教室の他に標本室と彫塑室が、採鉱学科と共用する地下室の一部には建築材料試験室および青写真室が配置された。そして二階全部と一階の東側とは各学科共同利用の教室に充てられている。この建物の完成と同時に、機械工学科・電気工学科の実験室・汽罐室に間借りしていた建築・採鉱両学科の設備が移された。建築学科の設備には大掛りな機械はなく、ギリシア・ローマの建築に関するドイツ製石膏模型や内外の建築材料および標本などが大部分を占めた。

 他方、採鉱学科には、製図教室の煉瓦造地下室と、製図教室の東側に同時期に竣工した採鉱学科実験室全体とが割り当てられ、この二棟が通路で結ばれた。そして前者には鉱物標本室ならびに模型標本室が、後者には選鉱実験室・試金術実習室・天秤室・講師室が含まれた。標本室には、徳永重康が多年に亘って採集した各種標本類や、全国の鉱山から寄贈された鉱石類などを陳列し、実験室には選鉱用実験機としてロールジョー式嚙岩機、ブレーキ式嚙岩機、円錐篩、ハンチントンミル、ウィルフレー式淘汰盤をはじめ、試金術実習用の火炉を設備した。しかしこれだけでは採鉱学研究に不十分なので、大正二年に入るとこの建物の更に東側に五十坪余の平屋を建て増しして分析室に充て、一層の充実を図っている。

 最後に、四十三年六月に着工して翌年五月に落成した煉瓦造三階建の恩賜記念館は、次章に改めて詳述するが、一階が理工学に必須の電気・磁気・力学・水力・気力その他の基礎研究を行う物理実験室二部屋と、器械及講師室一部屋とに分けられ、理工科各学科に共通する建築物という性格を兼ね具えていた。

 これらとともに、理工科に関連ある事業として、四十五年の業務部の新設がある。その成果については、遺憾ながら、記録が欠けているが、『早稲田学報』第二一〇号(大正元年八月発行)は新設に関して次のような記事を掲げている。

理工科業務部の新設

健全なる工業の進歩は常に学理と実際との抱合に基因せるは今更ら云ふを須ひず。而して此の関係を密接ならしむるの計画は独り工業家養成に関する教育上の方針たるに留めずして、一国工業の消長を支配する工業経営者及び技術者、即ち実際家側と、学理の研究・実験に従事する大学教授、即ち学者側との関係にも適用せらるるに至れり。されば近時世界列強の識者何れも此の事実に留意し、鋭意その関係を密接・円滑ならしめん事を企画せるが、就中北米合衆国に於ては千八百七十七年、キヤリフオルニヤ大学に始めてエクスペリメント・ステーシヨンの設けられたる以来、現今に於ては殆んど全部の州立大学に実験所殊に工業実験所なるものを設け、大学の教授・学生はこの機関を通じて州内各工場と常に連絡を保ち、以て学理の研究に資し、又は実習の便を得、工業家はこの機関を利用して設計・鑑定その他一般の計画・商議に学理の応用を完うするを得て、之が為に米国工業の進歩発展特に最近に於て著しき者ありと云ふ。由来、学理の活用は本大学建学の大精神なり。故を以て理工科の始めて建設せらるるに当りては、先づ実験・実習の機関を備ふるの大方針を定めたるが、今やその経営緒に就きたるを以て、今後は実験・実習の材料を校外、即ち一般工業界に求めざるべからず。而して理工科教授諸氏は授業の余暇を以て一般工業界の要求に応じ、設計・鑑定の依頼を受け、工業界と大学との連絡を一層密接・円満ならしめ得るの余地あるを以て、本大学に於ては前記のエクスペリメント・ステーシヨンの制を参酌し、新に早稲田大学理工科附属業務部を設け、広く一般世間の依嘱に応じ、学理と実際との結合に遺憾なからしめんことを期せんとするなり。この計画にして幸に教育上工業上多少の貢献を為すの因ともならば、本懐之れに過ぎたるものあらず。

理工科業務部依嘱規定(抄)

第一条 理工科に於て一般の依嘱に応ずべき業務の種類を左の通りとす。

一、機械工学科に関するもの

一、各種機械の試験 一、各種機械の設計・製図並に据附工事監督

一、工業用材料の材力及其他の試験検定 一、原動機械其他の顧問・監督

二、電気工学科に属するもの

一、各種電気機械・器具の試験・検定 一、発電所の企画・設計・製図並に工事監督

一、電気機械の設計・製図 一、電気用材料の試験・検定

一、電気事業の顧問・監督

三、採鉱冶金学科に属するもの

一、採鉱・製錬の計画・製図及工事監督 一、鉱物の分析及鑑定

一、鉱区の調査及測量 一、選鉱試験及製錬試験

一、採鉱・製錬に関する顧問・監督

四、建築学科に属する者

一、和洋建築物の鑑定 一、和洋建築並に庭園の意匠・設計・製図並に工事監督

一、室内装飾の意匠・設計・製図及工事監督 一、劇場背景の意匠・設計・製図並に工事監督

一、建築材料の材力及其他の試験及敷地測量 (一六―一七頁)

 次に、理工科首脳部の人事異動を掲げると左の如くである。

明治四十一年

九月 理工科商議員の制を設け手島精一竹内明太郎阪田貞一田原栄、牧野啓吾に商議員を嘱託す。同時に工学博士阪田貞一に理工科科長を、牧野啓吾に理工科教務主任を嘱託す。

明治四十二年

八月 欧米留学中なりし講師牧野賢吾、同遠藤政直帰国す。

九月 教務主任牧野啓吾卒去せるにつき、中村康之助に教務主任を嘱託す。

明治四十三年

一月 講師遠藤政直、同牧野賢吾、同中村康之助に教授会議員を嘱託す。

七月 欧米留学中なりし講師小池佐太郎帰国す。

八月 欧米留学中なりし講師佐藤功一、同佐野志郎帰国す。

十二月 教授遠藤政直辞任す。

明治四十四年

三月 講師・理学博士徳永重康、本大学付属早稲田工手学校校長を兼任す。

五月 工学博士高松豊吉に理工科商議員を嘱託す。

六月 講師岩井興助、同西岡達郎、同徳永重康、同富田逸二郎、同中川常蔵、同小池佐太郎、同佐藤功一、同佐野志郎、同本野英吉郎に教授会議員を嘱託す。

十一月 氏家謙曹に教授会議員を嘱託す。

十二月 教務主任・教授中村康之助、理工科経営主任に転任す。また各学科に学科主任を置き、教務を処理せしむ。機械工学科教授中川常蔵、電気工学科教授牧野賢吾、採鉱学科教授小池佐太郎、建築学科教授佐藤功一に各学科主任を嘱託す。

明治四十五年―大正元年

一月 講師岡田信一郎、同内藤多仲、同男爵福原俊丸、同広部徳三郎に教授会議員を嘱託す。

三月 各学科に顧問を置くこととし、機械工学科に阪田貞一、電気工学科に浅野応輔、建築学科に辰野金吾、採鉱学科に渡辺渡を嘱託す。

九月 教授岩井興助辞任す。山本忠興に教授会議員を嘱託す。教授牧野賢吾の学科主任の任を解き、教授山本忠興に電気工学科主任を嘱託す。

三 当局の要望

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 理工科の前途に対する各界の期待は予想外に大きかった。そのためばかりではないが、当局のこの科に対する希望も更に強いものがあった。今、大局的に見る大隈総長、現実を語る中村教務主任、それぞれの声を聞いてみよう。

本大学の新希望 大隈総長

今日泰西文明は非常な勢で発達してゐる。殊に物質的文明の進歩は時々刻々に発達して其停止するところを知らぬといふ有様である。日本の文明は其出発点に於いて既に彼の文明より遅れてゐた。既に其出発点が遅れてゐるのだから、この西洋文明を友として進むためには非常な困難である。然もこの五十年間の世界の文明は殊に甚しかつた。吾が国も発達した。世界の文明史に於て未だ嘗て其類例を見ざる程の発達をした。然しながら其幼稚なること殆んど比較にならぬ程凡ての点に於いて西洋文明に遅れてゐる。

近世の世界文明の要素とは抑も如何なるものであろうか? 研究である。発見である。大発明である。次ぎに有益なる著述である。其れを土台として出来るあらゆる大事業である。吾国近年の進歩発達も亦た驚くべきものであるけれども、吾輩等は未だこれこそ日本の文明である、これこそ吾国独特の文明であると言つて、世界に対つて誇るべき程のものを持つてゐない。大なる著述があるか、大なる発見があるか、大なる思想があるか。吾輩は全くないとは言はない、然し甚だ乏しいと思ふのである。そこで今日の学校、凡ての大学の教科書、参考書は西洋文明を土台にして編纂されてゐる。其著述者も殆んど皆な西洋人である。今日日本の青年がそれ等の著述に養はれてゐる以上、何うしても真実の意味で自発的であるとは言へないのである。前途甚だ遼遠である。一度遅れてゐた文明は、余程の努力を以つて発達して行くのでなければ、対等の地位に達する事が極めて困難である。吾輩等は其の困難の地位に立ち、且つ自覚し得る幸福を持てゐる。

然しながらここに喜ぶべきことが一つある。其れは何であるかと言ふに、青年期の発達の力に於ては東西人の相異が殆んどないといふ事である。吾輩は従来屢々青年の発達の力に就いて研究した。その結果として、学齢の児童が小学・中学を経て大学の課程を終へるまでは、西洋人と日本人との間には大した相異を発見する事が出来ぬのである。ただ彼等が学校卒業後ある専門の研究に就き、もしくはある事業を経営する時になりて、其間に非常なる相異を生じて来る。この相異は何処から来るのであらう。それは一つは財政の関係もあるであらうが、吾輩は其重もなる原因を社会全体の刺激の有無によるのであらうと思ふ。政治、文学、其他の諸科学の発達は一に其社会全体の刺激の結果であると言ふことが出来る。其出発点即ち青年の発達の力には大した相違なくとも、其刺激する日本の一般社会が充分に発達して居らぬから、事物に触れ、経験に接して其才能を発達させる事が出来ぬのである。そこで一般国民の教育が必要になつて来る。其教育さえ完成されたならば、其上に築き上げられる一層高尚な学術研究は期せずして発達進歩の途に着くであらうと思ふ。

近世科学の進歩は凡ての他の精神的文明と密接の関係を有して、却つて其を刺激し発達せしむるといふ有様である。例へば心理学に於ける実験、人間の脳細胞の働、脳神経の働、凡ての高尚な精神科学も実験上から其大部分を説明し得られるまでに発達してゐる。形而上の学問も形而下の学問によつて説明され得るやうになつて来た。物質的文明の勢力は驚くべきものである。然し物質的文明は単に物質的文明としてのみ存在の価値を持つてゐるものではないのである。社会は常に物心両面の発達が両両相俟つて完全なる発達を遂げて行く。然も双方とも別個のものではない、相助け合つて全体として活動して行くものである。

理科学応用研究の今日の如く発達した事はない。けれども其の発達は一面政治経済と密接の関係を持ている。其の助力を得て今日の如き発達を来してゐる。運送、鉄道、軍艦、火薬、大小銃、飛行機、爆裂薬、凡ての製造物、水力電気、これ等は決して単独には発達しない。皆な社会全体の要求と刺激に依つて生れて来るのである。而して其物質的文明が土台となつて、復た新しい精神的文明が初められるのである。

更に科学の発達が世界の平和に密接の関係を持てゐる。例へば瓦斯爆発の発明は直ちに飛行機の完成を促して、其れが成功する暁には飛行機から自由に爆弾を投ずることも出来る。其他従来の科学を応用した兵備は新しい科学の前に屈従しなければならぬ。そこで必然の勢として各国は何等かの仲裁裁判によつて戦争を廃止しなければならなくなる。ここに到ると科学は単に科学として止まらない。直ちに人道の問題と大なる関係を保つて来るのである。もしこの真理に違反して戦争をしやうといふ国家がありとしたらば、其国は数世紀間世界に対して持ち得た信用を失墜して了はねばならぬ。世界は其貴重なる平和を攪乱するものとして凡ての信用を其国から奪ひ取らねばならぬ。科学の進歩は斯くの如き怖るべき戦争を世界の上から消滅させてしまうのである。何としても科学の研究は一国の文明の誇として、他の凡ての学問と併立さして発達せしめなければならぬのだ。

早稲田大学では其科目にサイエンスを取り容れる事が余程遅れた。其他の分科と対等の位置迄、この理化学の研究を進めるには余程の努力を要する。然し幸にして早稲田大学が理工科を新設した時は、世人がこの方面に注意するやうになつた、恰度其好時期であつた。何事も時代の要求に適合したものは、努力さへあれば必らず成功するものである。四十三年度には実験室も竣工し、恩賜館の建築にも着手した。然しながら未だ未だ微弱なものである。新しき四十四年度に於ける早稲田大学はこの点に余程大きな抱負と希望を持てゐる。その為めには多大の金を要する。努力と金さへあれば何んな事業も仕遂げられぬことはない。事業は吾輩等の前に俟つてゐる。南極探検、中央亜細亜の探検、其他亜細亜特有の文明の研究、凡ての科学、文学、哲学、史学、これ等の諸科学が相俟つて進まなければならぬ。そこで其武器として、何としてもこのサイエンスの完全な研究機関たる理工科を盛んにしなければならぬのである。 (『早稲田学報』明治四十四年一月発行第一九一号 二―三頁)

理工科の教育に就て 理工科教務主任 中村康之助

理工科の学問は、純然たる実地応用の学問であつて、その根底が理化学及自然科学で成立ちて居るのであるから、之に就て学派とか学説とかいふ様なものは殆どない。従ひて教へる事柄その物に依つて主義・方針が変はるといふこともない。如何様に教へたならば最も実地の応用に適切なるか、又如何なる程度まで教へたならば実地応用に不自由がないか、ここらが理工科教育の主義・方針の岐るる所であらうと思ふ。

そこでわが理工科は、早稲田の大学の一分科として予科一ケ年半、本科三ケ年といふ学習期限を与へられて居る。私共は各地から集まつて来る中学校卒業生に対し、本科の準備教育即ち中学教育の補習を予科の一ケ年半でまとめ、其から本科に移らすのであるが、先づ中学卒業生の外国語の素養の不足なのは閉口する。元来外国語は工科教育の本来の素地となるものではなく、全く余計の学科なることは勿論であるが、世人の知れる如く、我国の学問としては工科の教育が一番立ち後れをして居る。従ひて進歩の度合も他の学科に比して後れて居る。例へば工業に関した著述は(邦人の)漸くこの四、五年来ぼつぼつ表に表はれるに至つた位のもので、その数も甚だ少く、且つその多くは外国書のへたな翻訳位に過ぎないといふ様な有様であるから、工業の専門教育を修めるものは是非外国書を多く参考せなければならぬ。従ひて外国語の必要を余儀なくさるるのである。で、私共は予科に於て大に外国語の修養を勉むるのみならず、本科に於ても之を継続さして、最終学年まで出来る丈け多く外国語を課することとして居る。斯くして卒業の暁、実地に従業する場合に常に工業先進国の工業情況に注意を払ひ、斬新の学理及其応用方法等に就て絶へず進歩的頭脳を保持し得る丈けにしたいと思ふて居る。

さて本科の教授方針としては、私共は学生の自修といふことに重きを置いて居る。注入主義の教育の弊は何れの学科でも皆困ることであるが、わが工学は前にも述ぶる如く純粋の実地応用の学問であるから、断然之を排斥しなければならぬのみならず、学科の性質上そんなことは出来はしないのである。されば自然の結果自修に重きを置くこととなるのであるが、さて世間の工業教育はその性質に適合さして居るのが少い。私共は工学の原理・原則に関したことは充分之を明かにして確実に之を了解せしむるに勉むるが、その他は学生の自修に必要なヒントを与へるに止むるのである。かかる方針に対する設備としては、本大学の窮屈な経済の中から特に図書・標本費に出来るだけ多くの分け前を取つて、以て必要なる参考書籍・標本を購求することとして居る。目下到着の分は尚僅かに過ぎないけれども、将来この点にかけては何所にも負けないだけに充実さして行く意気込である。

次に本科学生の訓練といふことに就て私共が主張して居るのは、規律的の習慣、欠乏に堪ふる忍耐力の養成である。この点に就いては主として教授諸氏に自ら其の範例を示してもらふと同時に、工場の実際と変はらぬ程の形式上の制裁を厳しくして居る。一体技術者が工場で働くには、技術よりも学問よりも先づ第一に必要なことは、熱心・勤勉の徳性である。然るに兎角学問が出来る様になると、其と反比例にこの精神が薄らぐのが近来の悪風である。それで私共は非凡の技術者を作るが為に多くの注意を要しない、只熱心・着実なる普通間に合ふ技師を得れば充分だと考へて居る。

次には工科学生に対する経済に関する智能の教育である。今日の技術者が技術一点張りで事業経営の能力に欠くるあるは明白なる事実で、わが工業界の患とする所である。従来の工業教育の欠陥ではなからうかと思ふ。技術が堪能でも経済の知識が之に伴はんければ、今の工業競争に勝を占むる望はない。で、私共は工科学生の経済的智能の教育を重んずるのである。工場経営といふことを中心としたる工業経済を課し、又成るべく実地家を招聘して、随時か様な事柄に関する科外講演を開かす仕組にして居る。

以上述ぶる所のものは幾分かわが早稲田大学理工科の特長に近いやり方であると思ふが、然らば、わが理工科は早稲田工学士の素養として、何所までの知識・技能を授け、何所まで実地応用的ならしむるかといふに、之は到底一言でいひ表はすことは六かしい。即ち学科課程を挙げてその内容を説明しなければならぬことになるが、その詳しいことは各学科の主任教授に於て発表せらるることもあらふから其に譲り、玆には已設官立の此種学校を標準として、ほんの大体を述ぶるとせんに、所謂原理・原則的の事柄に就ては彼の高等工業学校よりも今一歩を進め、その知識・技能を確かめしむるに主として実験・実習に重きを置き、又実地応用の練習に就ては学生をして寸暇をも利用して各地工場の実地に接触せしむるは勿論、本大学内に一つの工務所の様なものを置いて教授諸氏の力の許す限り直接実際工事の設計・監督等を引受け、以て学校に於ける実地の活知識を受容すると同時に、上級の学生には助手としてその事に与らしむることにしたいと思ふて居る。

(同誌明治四十四年二月発行第一九二号 二―三頁)

四 工手学校の創立

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 理工科は設備を着々整備し、四十五年には第一回卒業生を出すようになった。そこで学苑当局は、これらの諸設備を利用して中等技術者、すなわち技手もしくは職工長を養成する目的で、夜間の付属早稲田工手学校を創立することになり、四十四年三月より開校する予定でその規則を次の如く定めた。

私立早稲田大学附属早稲田工手学校規則

第一章 総則

第一条 本校ハ機械、電気、採鉱冶金、建築等各種ノ工業ニ関スル実務的学術技能ヲ授クル所トス。

第二条 本校ハ機械科、電工科、採鉱冶金科、建築科ノ四科ニ分チ、第一学期ヨリ第三学期ニ至ルマデハ是等諸学科ニ入ルモノノ予備教育ニ充テ、第四学期以上ニ於テ志望ノ一学科ヲ専修セシム。

第二章 学期、休業

第三条 修業年限ハ二ケ年半トシ、之ヲ五学期ニ分チ、一学期ハ二月一日ヨリ七月三十一日マデトシ、他ノ一学期ハ八月一日ヨリ一月三十一日マデトス。

第四条 休業日左ノ如シ。

一、日曜日、大祭日 一、本大学創立紀念日(十月二十日) 一、春季休業 四月中ニ於テ一週間

一、夏季休業 七月十一日ヨリ八月二十日マデ 一、秋季休業十月中ニ於テ一週間 一、冬季休業 十二月二十五日ヨリ翌年一月十日マデ

第三章 学科課程、授業時数

第五条 学科課程及毎週授業時数左ノ如シ。表中数字ハ毎週授業時数ヲ示ス。

第十三表 早稲田工手学校課程表(明治四十四―大正元年度)

各科第一、第二、第三学期

機械科

電工科

採鉱冶金科

建築科

第六条 授業時間ハ午後五時三十分ヨリ同九時三十分マデノ間トス。

但シ、日ノ長短ニ依リ変更スルコトアルベシ。実習実験等特ニ規定シタル課目ノ授業時間ハ別ニ之ヲ定ム。

第四章 入学、退学

第七条 入学時期ハ毎学期ノ始メトス。

第八条 入学ハ試験ノ上之ヲ許可ス。

但シ、左ノ資格アル者ハ検定ノ上各相当ノ学期ニ入学ヲ許ス。

一、第一学期 尋常小学校(修業年限六ケ年)卒業者、若クハ之ト同等以上ノ学力ヲ有スル者。

一、第二学期 中学校第二学年修了ノ者、若クハ之ト同等以上ノ学力ヲ有スル者。

一、第三学期 中学校第四学年修了ノ者、若クハ之ト同等以上ノ学力ヲ有スル者。

一、第四学期 中学校卒業者、若クハ之ト同等以上ノ学力ヲ有スル者。

第九条 入学試験課目左ノ如シ。

第一学期 国語、算術、図画

第二学期以上ハ各前学期ニ於テ履修シタル学課目。

第十条 入学セントスル者ハ満十四歳以上ノ男子ニシテ、品行方正身体健全ノモノタルベシ。

第十一条 入学志願者ハ、入学後専修スベキ学科ヲ明記シタル入学願書ニ学業履歴書及受験料金五十銭ヲ添ヘテ差出スベシ。

但シ、無試験入学者ハ受験料ヲ要セズ。一旦納附シタル受験料ハ之ヲ返附セズ。

第十二条 入学ノ許可ヲ得タルトキハ、直ニ保証人連署ノ在学証書ニ入学金ヲ添へ差出スベシ。

入学願書及在学証書用紙ハ事務所ニ於テ交付ス。

第十三条 保証人ハ身元確実ニシテ本市内ニ一家計ヲ立ル丁年以上ノ者タルヲ要ス。

但シ、本校ニ於テ不適当ト認メタルトキハ変更セシムルコトアルベシ。

第十四条 生徒及保証人、転居、改印其他異動ヲ生ジタルトキハ直ニ届出ヅベシ。

第十五条 保証人死亡若クハ其他ノ事故ニ依リ其責ヲ尽ス能ハザルトキハ、更ニ保証人ヲ定メ許可ヲ受クベシ。

第十六条 疾病其他ノ事故アリテ退学セントスル者ハ、保証人連署ノ上願出テ本校ノ許可ヲ受クベシ。

第五章 試験

第十七条 試験ヲ分チテ学期試験及卒業試験ノ二種トス。

第十八条 学期試験ハ各学期ノ終、卒業試験ハ第五学期ノ終ニ於テ之ヲ行フ。

但シ、第五学期ノ終ニ於テハ学期試験ヲ行ハズ。

第十九条 試験点ハ各課目一百点ヲ満点トシ、一課目四十点以上、総平均六十点以上ヲ及第トス。

第二十条 止ムヲ得ザル事故ニ依リ定期試験ヲ受クル能ハザルモノハ、保証人連署ノ上其旨ヲ願出テ、追テ執行スル未済試験ヲ受クルコトヲ得。

第二十一条 前条ニ依ル未済試験ノ成績ハ、其得点中ヨリ一割ヲ減ジタルモノトス。

第二十二条 未済試験ヲ受ケントスル者ハ手数料トシテ金一円ヲ納ムベシ。

第二十三条 卒業試験ニ合格シタル者ニハ卒業証書ヲ授与ス。

第六章 学費

第二十四条 生徒入学ノ節ハ入学金トシテ金二円ヲ納ムベシ。

第二十五条 学費ヲ定ムルコト左ノ如シ。

第一学期、第二学期及第三学期 一ケ月各金二円

第四学期 一ケ月金二円五十銭

第五学期 一ケ月金三円

第二十六条 実習及実験費ハ前条ノ外別ニ之ヲ徴集ス。

第二十七条 学費ハ毎月三日限リ納ムベシ。

但シ八月分ハ同二十五日ヲ期限トス。

第二十八条 事故アリテ欠席スル者ト雖ドモ、本校ノ学籍ヲ有スル間ハ必ズ学費ヲ納ムベシ。

第二十九条 一旦納附シタル学費及手数料ハ之ヲ返付セズ。

第七章 賞罰

第三十条 品行方正ニシテ学業成績優等ナル者ハ、特待生トシテ次学期ノ学費ヲ免除ス。

第三十一条 特待生ニシテ不都合ノ行為アリト認メタルトキハ、其ノ待遇ヲ停ム。

第三十二条 品行不良若クハ怠惰ニシテ成業ノ見込ナキ者、校規ニ背キ又ハ校命ヲ奉ゼザル者、其他本校ニ於テ在学セシムベカラズト認メタル者ハ、退学ヲ命ズ。

第三十三条 正当ノ理由ナクシテ一ケ月以上欠席シタル者、若クハ学費ノ納附ヲ怠リタル者ハ、除名ス。

第三十四条 本校備付ノ機械、器具等ヲ毀損又ハ亡失シタル者ハ、賠償セシムルコトアルベシ。

第八章 雑則

第三十五条 生徒昇校ノ際ハ必ズ聴講券ヲ携帯スベシ。

第三十六条 教場ニ在テハ謹慎ヲ旨トシ、粗暴ノ挙動ヲナスベカラズ。

第三十七条 教場ニ在テハ雑談又ハ喫煙ヲ禁ズ。

第三十八条 教場ニ出席スルトキハ洋服又ハ袴ヲ着用スベシ。

第三十九条 授業中ハ退席ヲ許サズ。若シ止ムヲ得ザル事故アリテ退席セントスルトキハ、講師ニ許可ヲ請フベシ。

第四十条 三日以上欠席セントスルトキハ、其旨ヲ保証人ヨリ届出ヅベシ。

第九章 職員及職務

第四十一条 本校ニ左ノ職員ヲ置ク。

一、校長 一名 一、講師 若干名 一、事務員 若干名

第四十二条 校長ハ校務ヲ管理シ生徒教育ノ責ニ任ジ、講師ハ生徒ノ教授ヲ担任シ、事務員ハ校長ノ命ヲ受ケ庶務会計ニ従事スルモノトス。 (当編集所保管『明治四十四年二月早稲田工手学校関係書類控(一)早稲田工手学校』)

そして二月四日付で設置認可を東京府知事に申請したところ、三月十六日付で左記の通り許可があった。

私立早稲田大学理事 高田早苗

明治四十四年二月四日申請私立早稲田工手学校ヲ設置之件認可ス

 明治四十四年三月十六日 東京府知事 河部浩

(同書)

 各種学校中に含まれる付属早稲田工手学校が、日本の教育制度史にきわめて特異な位置を占めていることは、右の規則第八条および第十条の、入学資格に関する規定に顕著に見られる。明治四十年に義務教育六年制が確立し、十二歳で尋常小学校を卒業すると、五年制の中学校や二年制(三年制も一部認められた)の高等小学校などに進学できることになった。しかるに工手学校は、尋常小学校を終えた者から中学校四年修了者に至るまでを、学力差に応じて、第一学期ないし第三学期に入学させ、半年から一年半の予備教育期間において、中学校五年間相当分の基礎教育を施し、第四学期および第五学期の合計一年間で低度の実務教育を授けようというのである。また規則第三条は、入学生を年二回迎え入れ、卒業生を年二回送り出すという甚だ変則的な学校であったことを物語っている。

 さて、生徒募集要項を掲げて生徒を公募したところ、三月二十九日午後六時より行われた始業式までに二百八十名の入学志願者を得、なお陸続するという盛況であった。

 工手学校の開校式は五月七日午後一時から大講堂で挙行された。式は徳永重康校長の式辞に始まり、高田学長の訓辞、大隈総長の演説、来賓東京高等工業学校長手島博士の祝辞、理工科学生総代牧浦熊次郎の祝辞朗読、生徒総代近藤伊作の答辞の順序で終了し、式後別室で茶菓の饗応があり、来賓に施設の縦覧を乞うた。なお工手学校設立の目的等は、この日の高田学長の趣旨説明に詳しいから、次にこれを掲げておく。

今日は早稲田工手学校の開校の式を挙げますことになりました。来賓諸君の御出を願ひましたことを甚だ光栄と致します。同時に学生諸君の多数来会されたのを深く喜ぶ訳であります。早稲田工手学校と云ふものは、申す迄もなく、只今徳永校長からの御話もありました通り、先頃既に事実に於いては開けたのでありますけれども、色々創立の際取込んで居りました為めに其開校の式を今日に延ばしたので、創立以来実に日が浅い、加之開けたのは一期・二期と云ふ二級丈けであります。本科・予科と云ふ言葉は実際使つて居らんが、事実を言へば予科丈け開けたのである。五期に分けてある中の、二期丈けを此際募集したに止まる。それに拘はらず殆んど四百に垂々とする学生が此所に集まつて来たと云ふことは、畢竟此計画が誠に時節柄必要であつたと云ふことを自から証拠立てる訳であつて、私共深く其点に於いて喜びを致す訳であります。工手学校の学生諸君は今度新たに早稲田学園に学籍を列ぬることになつたのである。……

然らばどう云ふ訳で今度早稲田大学に工手学校と云ふものを拵へ、さうして諸君を入学せしめたかと言ひますると、其話をするに当つては何故早稲田大学に理工科を造つたかと云ふことから話をしなければならん。即ち理工科と云ふものが第一に起つて、それに引続いて工手学校を造ることになつたのであるが、何故に理工科を早稲田大学が造つたかと云ふと、全体此早稲田大学は東京専門学校の当時、今から約三十年前から理工科を起さうと云ふ考は有つて居つたのであります。兎に角創立者たる大隈伯は其当時から其考を御持ちになつて、現に此理工科の中の一科が明治十五年に出来て居るのである。けれども其当時は世の中が左程進歩して居らない。さう云ふ点に着目する人も少なく、さう云ふ学問に志す人も又極めて稀れであつて、学問といへば政治学を修めて政治家になる、法律を修めて弁護士になると云ふやうな人が多数でありまして、着実なる実科的の学科を修めたいと云ふ者が少なかつたから、折角設けは設けたが暫くして止めなければならん、中絶するの止むを得ざるに至つたと云ふのが当時の状態である。其儘段々経過しまして、十年と経ち、二十年と経ち、二十五年と云ふ時になつた。其前に商科を造つて見た処が、時勢の要求に丁度合して商科の学生が多数来るやうになつた。今御話した通り学科は幾つにも分れて居るが、其内商科の学生と商科以外の総べての学生と比べて見ると、却て商科一科の学生の方が多数であると云ふ位になつて来た。そこで二十五年の祝典を挙げる時に、段々総長閣下とも御相談を致し、どうも専門学校当時ならばイザ知らず、既に早稲田大学、所謂ユニバーシテーと云ふものになつた以上は、理工科の学科がないと云ふことは如何にも体面に於いても不都合なことである。世界広しと雖も苟くも大学と称するものにして、理工科的殊に理学サイエンスの学科のないと云ふものは今日では少ないのである。日本にも東京帝国大学・京都帝国大学皆それぞれ理工科の学科があるから、大学と云ふ体面の上からも理工科の学科を設けたい。そればかりでなく、世の中の学問上の需要と云ふことを段々考へ、又国家の必要と云ふことを研究し、所謂時代の要求と云ふことを段々吟味して見ると、どうしても今日は理工科の学科を置かなければならん時勢である。殊に此戦後経営と云ふことから考を起して見ると、一層之れを置くことが大切だと云ふことになつて来る。日本と云ふ国は日露戦役に於て戦闘力が強かつたが為めに、一等国の範囲に列することになつた。今まで外の国から全権公使をよこして済んで居たのが、全権大使をよこさなければならんと云ふ国柄になつた。之れを商人に譬へて見ると、今まで横町に商売をして居たのが、今度角見世を張るやうになつた。又之れを角力に比較して見ると、今迄は二段目の角力であつたものが幕の内になつた。同じ幕の内でも大関とか関脇とか小結とか云ふ所謂役相撲、三役になつた。斯う云ふ訳である。国の番付を拵へて見ると、丁度日清戦争前の日本は二段目の相撲である。日清戦争で幕の内に這入る訳になつたのだが、今度日露戦争では幕の内でも只の幕の内ではなくして横綱か大関か関脇か小結か、所謂三役の内に這入ると云ふことになつたと云ふ次第である。之れはどうしてなつたかと云ふと、戦さに強かつたからと云ふのである。所謂角力ならば只強い丈けで宜いかも知れないが、国はそれ丈けではいけない。只戦さが強い国であると云ふのではいかん。横町から出て角見世を張るやうになつた以上は、角見世相当の資本を有つと云ふことでなければいかん。角見世相当の財産が出来ると云ふことでなければいかん。所が中々それは六かしい。今日では角見世を張ることになつたには相違ないけれども、角見世相当の資産はなくて角見世不相当の借金があると云ふのが、此日本の今日の現状である。此儘にして置くといへば、一旦張つた角見世も又た閉ぢて横町へ引込まなければならんことにならぬとは限らん。又一旦小結以上の角力になつたのが、只の幕の内に蹴落されてしまうと云ふことがないとも限らん。さう云ふことがあつてはならないから、仮令武力の結果でも何でも一旦さう云ふことになつた以上は、何時までもさうあらしめたい。何時までも角見世を張り通さしめたい。小結であるならば更に進めて関脇になり、更に進めて大関にする。成るべくなら太刀山のやうに横綱を張らせるやうにしなければならん。これが国民の務めで、詰り戦後経営と云ふことも此外にはない。斯う云ふ訳である。それではどうしたならば宜からうかと云へば、外に仕方がない。稼ぐに追付く貧乏なしで、大いに稼ぐ、何時も世界へ物を売る。此売ると云ふことが必要である。売つて金儲けをする。所謂商科の学科が必要である。それが必要であると云ふから、人がそこへ着目して商科の学生が殖へる。併ながら売ると言つた所で取次ばかりをして居たのでは利益が少ないから、今度は成るべく売るならば其売るものを造る。此造ると云ふことが本で、此造つたものを売つて金を儲けて何時までも角見世を張らせるやうにする。之れが戦後経営の唯一の方法である。それをするに付いては結局教育である。其教育も実科的の教育、実業的の教育、商科も必要であるが、殊に其造ると云ふことを教へる理工科の学科が必要である。早稲田大学は私立の学校であるが、私人が集つて力を致してさうして国家の利益を計る、即ち国家教育の一の機関であつて見れば、成るべく其国家が要する所の方針に添はなければならん。国家に必要な、目前国家になくてならん人物を造り出すと云ふことが教育の務めであるから、此学校も二十五年と云ふものを経過した以上は、其点に一つ骨を折つて見たいものである。斯う云ふ相談の上から、総長閣下の御同意を得ることになりまして、さうして理工科を造ること、基金を募集してそれで以つて段々経営をすると云ふことになり、今正さに経営の半ばであるけれども、設備も段々出来上りつつあるのであつて、本科の学生も二年生まで出来、来年は卒業生も出来る。今日御出の高等工業学校長の手島先生を始め其他の方々も賛成され、種々助力を賜はつて、誠に良い成績を収めつつあると云ふ訳である。

斯う云ふ次第で理工科が出来た。理工科が出来て見ると、此理工科と云ふものは先づ戦争でいへば士官を造るものであるが、士官ばかり出来ても戦争が出来る訳ではない。兵卒は徴兵でどんどん出来るか知らないが、最も戦さに有力なるものは何であるかと云へば、所謂下士官である。士官と下士官、高等なる工業教育を受けた人と而して中等程度の工業教育を受けた人とが揃はなければ、工業に対する需要を充分満たす訳にいかん。さう考へて見れば、既に理工科を起すことになつて、それが為めに段々設備が出来たなれば、其設備を利用して第二の問題、即ち中等工業教育を施すことが出来るのであるから、工手学校を造つたら宜からうと云ふことになつて、玆に始めて此早稲田大学附属の早稲田工手学校と云ふものが生まれることになり、諸君がそこに来て学ばれることになつたのである。即ち工手学校の起る所以はそこにある。殊に私共は工業の方には素人であつて能く分らんが、聞く所に因ると、最も工業に於て大切なるは諸君の如き中等の教育を受けた人である。又た諸君の教育の程度は理工科本科のものよりも低いに相違ないが、諸君の中には実地に就きつつ一面に研究しつつある人も多数あるから、半ばは実地、半ばは学問で以て段々研究して行かれたら、其前途の進歩は蓋し計り知る可らざることである。何処まで進んで行かれるか分らん、而して最も工業発達の上に必要な人が多数この学校から出来ると云ふことになるのである。

さう云ふ次第でありますから、此工手学校の出来たと云ふことは決して偶然ではない。即ち早稲田大学の大目的より割り出して聊か国家に貢献したいと云ふ其方針より出て、之れが出来上つた訳である。諸君も其積りで十分に勉強されて、此早稲田工手学校が同じ性質の学校の中に於いても特に嶄然頭角を現はし、此処の卒業生は一頭地を抜出て居ると人に見られるやうになりたいと云ふことは、今から切に希望する訳である。随分世の中に工手学校と云ふものはあるやうであるが、兎に角之れ丈けの設備を有つて直ちに其設備を利用して授業の出来ると云ふ所は比較的少ない。其点に於いても諸君の便宜は一層大でなければならん。又一つ設備をすれば其設備を成るべく多く利用すると云ふことが、詰り教育経済上宜しいことである。此頃亜米利加あたりの学校は其教場設備の利用に余程注意することになつたと聞いて居る。立派な学校で、夜分電燈を点けて教授するといふことが一般の風になつて居る。早稲田は土地の上から言ふと多少市内の偏陬であるが、併ながら電車を去ること遠からず、少しばかり膝栗毛に跨れば直にやつて来られる。大して諸君に不便はない。而して機械を利用し設備を利用すると云ふ便利は頗る大である。加之他日諸君が世の中に出ると、此理工科の人々は諸君の兄分である。其人々と手を携へることも出来る。加之商科の人と手を携へることも出来る、政治・経済・法律各方面の早稲田大学の出身者と提携することが出来る者は、今日已に一万に垂々として居て、而も年々一千人位づつ増加して行くのであるから、今より十年経てば二万、三万と増加する校友と兄弟の義を結んで共に世の中に働くことが出来るから、其点に於いての便利も蓋し少なからんことと思ふ。この学校の課程の二年半は誠に長い間ではない。併ながら諸君の中には一面に仕事に関係して居る人がありませうから、余ほど特志家でなければ来つて学ぶことは出来ないことであらうが、どうぞ此時間を無駄に費さずして十分勉強し、他日花々しき効果を現はすことを今より偏へに期待する所である。 (『早稲田学報』明治四十四年六月発行第一九六号 二―四頁)

 こうして、四科の第一・第二学期の授業を開始した工手学校は、同年八月第三学期を開始するとともに、土木科を新設し、更に四十五年二月、大正元年八月、それぞれ第四学期および第五学期を開始し、同二年二月には、第一回卒業生、機械十四、電工四十七、採鉱冶金九、建築十八、土木二十七、計百十五名(後に百十九名となる)を社会に送り出した。工手学校は、毎年二回、二月と七月とに卒業生を出したが、大正八年までは、二百名以上は二回に過ぎず、他はすべて百名台であった。他方、在学生数は、大正元年八月末に一、〇六二名と報ぜられているが、大正八年六月末には二、四八二名に増加し、その存在理由が江湖の認めるところとなったのを立証している。なお、大正二年三月以降、工手学校卒業生で校長推薦のあるものに対しては、中学卒業生と同一の選抜試験により学苑高等予科理工科第一期に入学の途が開かれたのであった。

 学苑当局は、「当初開校の際には、来学者は、主として徒丁若くは何等か一定の業務を有する者ならんと予期せしに、実地の状況は之に異り、来学者は啻に此の種の輩のみに止らずして、初等教育を卒へたる後比較的短き年限に於て専ら工学を研究せんと欲する者も亦た、多数校門に出入するの有様」(『創立三十年紀念早稲田大学創業録』一三五頁)を呈したことに、驚きを隠していない。それでは、勉学の機会を求めて工手学校の門をくぐったのは、現実にはどのような人々であったろうか。五科が勢揃いして間もない頃で、未だ卒業生の出ていない大正元年十二月二十七日、東京府へ提出した「報告書」(当編集所保管『創立当時ヨリ昭和四年迄官庁関係報告書控一)一(一)早稲田工手学校』所収)掲載の「生徒職業別」を一瞥すると、特定の職業に就いていない生徒二百五十六名の他に、高田の言う「仕事に関係して居る人」は、官吏雇八十五名、職工七十五名、電工四十四名、砲兵工廠務め三十七名、会社員三十名、商店員二十五名、給仕二十二名、図工二十名、書生十六名、労働者十四名、機械助手十三名、小使七名、請負六名、鋳物職三名、筆耕三名、記者二名、建築助手一名、教員一名であった。彼らは、今日に比べて決して短くない時間を各自の職場で働いたのち、疲れた身体に鞭打って、産業の下士官を目指してこの夜学の工手学校で勉学に励んだのである。

 工手学校は、昭和二十三年廃校せられるまで、終始早稲田大学の付属校であった。この点では、早稲田中学および実業学校が、系属校として戦後改組せられるまで、次第に学苑との間が疎隔されて行ったのとは、全く事情を異にする。大隈総長も、工手学校の行事にはできるだけ出席するよう意を用いているし、毎回の各科優等卒業生に対する総長夫人の賞品授与も、大学よりは長く、大正十二年二月、夫人逝去直前まで継続している。また、教職員・生徒間の親睦機関である稲友会は夙に四十四年十月に創立され、やがて校友をも包含する大組織に脱皮し、稲友会館まで建築するのであるが、それらに関しては後続巻に譲らなければならない。

五 草創期の理工科首脳部

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 既述の如く、四十一年九月、理工科商議員が設置され、手島精一阪田貞一、牧野啓吾、田原栄竹内明太郎の五名が就任した。その中で、手島、阪田、田原、竹内については、それぞれ既に触れるところがあったが、牧野啓吾についてここに一言しておこう。牧野は、明治三十九年より商科講師として学苑と関係を持ったが、理工科商議員就任後僅かに一年で病歿した。「理工科設置の完成の為めに殆んど寝食を忘すれて登校執務」した「白面長幹の紳士」牧野について、『早稲田学報』記者は、次のような弔文を記している。

氏は埼玉県忍の出身で、明治二十〔九〕年東京工業学校〔付属工業教員養成所〕木工科卒業、三十二年木工・金工の徒弟教育、工業教育調査の目的で、文部省からイギリス、フランス、ドイツの三ケ国に留学を命ぜられ、帰朝後高等工業学校の助教授となり、間もなく教授に任ぜられた。続いて本大学理工科の商議員となられた。当時竹内明太郎氏が高等工業程度の専門学校を設置する計画があつて、其調査を氏に委托したが、竹内氏が早稲田大学の新設理工科に力を致されるに及んで、氏は直接に本大学に関係され、教務主任として創立の事に尽力する傍ら、商科の工場経営法及び実業学校の機械学の教授に当られて居た。氏が本大学理工科大学設置に就きて致された効果は多大であつたばかりではなく、将来の氏に対する大学の嘱望は更に多大なるものであつた。 (『早稲田学報』明治四十二年十月発行第一七六号 四頁)

 牧野啓吾の死後、代って理工科教務主任に就任したのは、同じく手島に推薦され、文部省から転じた東京高等工業出身の中村康之助であるが、中村は商科で工場経営、理工科で工業経済学などを講じたものの、理工科では教員として必ずしも重視されることなく、やがて四十四年末には、教務主任から経営主任に職名を改められた。後、大正四年には幹事に任ぜられたが、第五編第十二章に後述する理工科の紛騒の渦中に巻き込まれ、大正六年、幹事を辞して海外留学の途につき、帰国後教授をも辞任した。

 四十四年十二月、学科主任が置かれた際、機械工学科主任に任ぜられた中川常蔵については、当該紛騒の当事者の一人であるので、それを記す際に触れることになるが、明治三十三年東京工業学校機械科を卒業した山形県人で、大正六年九月学苑を去った後には大日本自動車株式会社や日本興業銀行に関係して昭和四十二年に歿したことなどが記録に残っている。

 この時に電気工学科主任に就任したのは牧野賢吾であった。牧野は明治十年岡山県高梁に生れ、東京高等工業学校卒業後、古河鉱業に入社したが、竹内に選ばれてアメリカに留学させられ、コーネル大学卒業後、学苑に迎えられた。恐らく温厚にすぎた故か、学生間に若干の批判があり、大正元年に山本忠興に主任を譲った後、大正四年病歿した。

 また採鉱学科主任には小池佐太郎が就いた。小池は長野県人で、明治三十八年東京帝国大学工科大学採鉱及冶金学科卒業、竹内に選ばれて留学後、学苑に教鞭をとったが、大正六年初、「早稲田騒動」に先んじて、藤田鉱業株式会社に転出している。

 同時に主任に選ばれた四名中、最も世に名を挙げたのは建築学科の佐藤功一である。佐藤は明治十一年生れの栃木県人で、三十六年東京帝国大学工科大学建築科卒業、官界に入った後、欧米に留学、四十三年以降、芸術院会員への推薦が内定した昭和十六年に逝去するまで、学苑の建築学科の文字通り柱石であり、今井兼次、佐藤武夫、田辺泰など多数の優秀な学徒を養成するとともに、大隈講堂、市政会館のような、「擬古的の高い芸風のもので、……音響設計の先駆として成功し、斯界に高く評価さるべきもの」(内藤多仲佐藤功一先生を追悼す」『建築雑誌』昭和十六年九月発行第五五輯第六七八号三頁)を完成した。今和次郎は、佐藤について、「今日、早稲田の建築学科創立当時に学んだ人達にして、博士の人格に敬服しない人がない」と記し、「博士は、先づはつきりと独自な主張を実行された。それは建築の教育は、設備よりも校舎よりも、先づ良い先生を得る事にあるとの主張である。そして最良と認められる先生達を得るまでは、妥協的にやらないで、身を以つて先づ教育といふものを体験する為に突進されたのである。即ち予科を了へて入つて来た建築科の学生を、たつた一人の手で引きうけて、講義をし、設計実習に当られたのである。毎日、あらゆる講義を博士一人で受持たれたといふ、その勇気は、熱情なき者には出来る事ではない」(「教育家佐藤功一博士」同誌昭和十六年十一月発行第五五輯第六八〇号三頁)と絶讃している。

 明治四十四年に開校した早稲田工手学校には、徳永重康が校長を兼務した。徳永は明治七年東京芝に生れ、三十年東京帝国大学理科大学動物学科卒業、大学院では地質学を専攻し、明治四十三年より歿年の昭和十五年まで、学苑に地質学、鉱物学、岩石学、鉱床学を講じ、且つ、工手学校のほか昭和三―十三年には新設の高等工学校の校長を兼ね、また大正六年および昭和十四年には学苑の理事に就任した。宝生流の能に長じ、工学、理学両博士に併せて能学博士を自称して三博と号したが、昭和八年満蒙学術調査研究団の団長として重責を果したこともある。

 明治四十五年に各学科に顧問が置かれた経緯については、八六三頁に譲るが、その際嘱託されたのは、既述の如く、阪田貞一浅野応輔、辰野金吾、渡辺渡の四名であり、出身は東京大学であっても蔵前色濃厚な顔触れの講師陣に対する学生の不満を、東京大学出の権威者を顧問に嘱託することによって和らげようとする意図は、かなりはっきりと察知できる。この中で阪田が初代理工科科長として、明治四十一年より大正五年まで学苑のために尽瘁したことには既に触れたが、学苑学生と直接接触する機会に乏しく、必ずしも強い印象を遺していない。これに反して、浅野応輔は、八六八―八七〇頁に後述するように、好むと好まざるとに拘らず、前記紛騒の際に科長として収拾の責任を負ったのみならず、大正七年には学苑の理事に就任、更に大正十三年には名誉教授に任ぜられるなど、学苑との関係は、阪田とは比較にならぬほど深いものがあった。後年の理事市川繁弥(大二電気)は、学苑における浅野について、左の如く記している。

先生〔は〕、今迄お座敷の様な官界に長い間端座して居られた所から、茶の間の様な私学の生活に一寸打寛がれるのを賞味されたか、或は融通無碍、伸縮自在の所が導き方によつては大に将来性があるとでも思はれたか、いや多分先生は、我が国の工業の振興が焦眉の急である事に思を致され、官公私等の枝葉の問題に拘泥してゐる時ではない、何でも一団となつて、工業日本の育成を企図すべき秋であるとの遠大なるお考へから、大に面倒を見られた事であるかに思惟される。当時先生は頗る多端な御生活にも拘らず、われわれの集りにつとめて御出馬になつては、欧洲戦乱終局後彼等が戦争中に強化した偉大なる生産力を、平和産業に転向せしめて怒濤の如く押し寄せ来るべきことを警告されたり、日本技術の確立の急を叫ばれ、我が国人の技能に就ての自信を昻揚されたり、且つ我が国としては資材は乏しいが、支那大陸始め資源豊富なる隣国を控へて居るから決して心配はない、今後の人々は発電所の番人等を望むよりは製造工業に進むべきである等と啓発激励されたのを記憶するが、今から見るといづれも今日の日本に備へられたる深遠なるお考へに出でたる事を知るのである。

(『工学博士浅野応輔先生伝』 三四一頁)

そして、次編第十二章に触れてある明治四十五年の電気学科改善問題に際しては、

先生もこの若いもの達の一本気の思ひ詰めにはいたく困惑され、また同情もされて大に慰撫につとめられたが、これが雨降つて地固るとでも申すべきか、先生の学校への力の入れ方は一層親身のものとなり、早速教授陣を強化されて、部下の俊秀広部〔徳三郎〕・大屋〔敦〕・清水〔与七郎〕・密田〔良太郎〕等の諸先生を残らず繰り出して内容の充実を図られたが、其の後逓信省を勇退されるや、理工科長を引受けられたり、更に後年早稲田大学理事となられて、大学経営の枢機に参画されるの労を惜しまれなかつたのも、この様な危機に際して、救ひ主たる事の因果関係に基因するものと思ふ。 (同書 三四三頁)

と、浅野の功績を特記している。

 顧問の中で、世間で一番名を知られたのは辰野金吾(安政元―大正八年)である。辰野は佐賀県唐津に生れ、明治十二年工部大学校造家学科を卒業後、ロンドンに留学、工部大学校―帝国大学教授、三十一年には工科大学長、三十六年には名誉教授、日本銀行(明治二十九年)、東京駅(大正三年)その他の名建築を残した。フランス文学者辰野隆はその息である。また渡辺渡(安政四―大正八年)は長崎に生れ、明治十二年東京大学理学部採鉱冶金学科卒業後、ドイツに留学、帝国大学教授、三十五年辰野の後を襲って工科大学長となり、専ら鉱床学の講義に蘊蓄を傾けた。

 なお、応用化学科は、後述するように大正五年に予科を開始したが、明治四十四年、高松豊吉(嘉永五―昭和六年)を商議員に嘱託し、その設置に関し、顧問的役割を依頼した。高松は江戸の浅草に生れ、明治十一年東京大学理学部化学科卒業、イギリスおよびドイツに留学、十五年帰国、東京大学教授、後には東京工業学校教授を兼ね、三十八年には東京帝国大学名誉教授の名称を授けられ、大正十二年には帝国学士院会員に推された。また、東京瓦斯株式会社社長として実業界にも活躍し、更に農商務省東京工業試験所長、化学工業協会会長、日本化学会会長等、まさに文字通り学界の巨頭であった。

六 医科設立計画の無期延期

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 上述の如く、学苑の理工科は着々整備されたが、第二期計画のもう一つの目標であった医科の設立は、遂に机上の空案に終らざるを得なかった。それには、順調に進めば学苑の医科と付属病院に発展すべき運命を担っていた同仁医薬学校と同仁医院とが不幸にも経営的に挫折し、医科の新設は、学苑財政の到底負担に堪えぬ冒険であるとの警告を発したのを見落すことができない。

 日中両国の民族的接近を各種の文化的施設によって計らんとする計画は、日清戦争後、特に我が国の朝野を通じて唱道された。すなわち言語・宗教等により真実な交歓を企画するもの、または教育・交易によって両国民の意志疎通を計らんとするもの等、それぞれ手段は異っても目的は一つであった。その中でも、東アジア諸国に医学・薬学およびこれに随伴する技術の普及徹底を期せんとする動きがきわめて活発に行われ、このような動きの中から同仁会が導かれ、その前身となった東亜同文医会および亜細亜医会が産み出された(『財団法人同仁会二十年誌』二―三頁)。その東亜同文医会は、三十四年の夏頃から、東亜同文会関係の人士が中心になって同士を糾合し、これに医学関係の片山国嘉、北里柴三郎、更に岸田吟香、東亜同文会副会長の長岡護美らが首脳として加わり、翌年初頭に結成をみた(『同仁会三十年史』一頁)。これは、その名称と指導部の構成から窺われるように東亜同文会の別働隊であったと看做される。一方の亜細亜医会は、三十四年の末頃から片山国嘉、北里柴三郎らによって働きかけが行われ、翌年初め亜細亜医会の形成に漕ぎ着けた。ところで、これら二団体は設立趣旨も大同小異で、また指導的成員もかなり重複していたことから、亜細亜医会がその結成を表明する以前に両団体の間で協議がなされた結果、同趣旨の団体をむやみに並べ立てるよりも、既存の東亜同文医会に亜細亜医会の組織を併合して一個のより強固な組織・行動性を持つ団体に再編成すべきであるとの合意が得られた。ここにおいて、東亜同文医会と亜細亜医会が合体し、同仁会の成立をみたのである。この合併は、傾向としては東亜同文医会の補強という形をとったものの如くである。このことは、三十五年六月十六日、華族会館において行われた同仁会の創立総会で決定された指導部の陣容に明らかに徴することができる。すなわち、会長の長岡護美(東亜同文会副会長・東亜同文医会)、副会長の片山国嘉(東亜同文医会・亜細亜医会)、評議員の北里柴三郎(東亜同文医会・亜細亜医会)をはじめとする指導部体制は、同仁会が東亜同文会の傘下に組み込まれていることを物語っていよう。しかも、同仁会としては、当初東亜同文会会長の近衛篤麿に会長就任を懇請したのであるが、近衛は事情が許さないため、その会長には「同氏と同主義のもとに常に行動せられ居る子爵長岡護美氏を推挙せられ、内部的に本会の為めに援助する事を約せられた」(同書三頁)という経緯があったことからすれば、このことは更に明瞭である。従って、同仁会は、東亜同文会を上部機構に持つものであったとされる。ここに発足した同仁会の目的とするところは、

清韓其他亜細亜諸国ニ医学及之ニ随伴スル技術ヲ普及セシメ、且彼我人民ノ健康ヲ保護シ、病苦ヲ救済スルニアリ。

(『財団法人同仁会二十年誌』 七頁)

とした。初代会長長岡は専ら思想的宣伝誘導に努め、傍ら組織を拡大して財団法人とした。この時期をその準備期とする。明治三十七年八月、長岡会長は辞任し、大隈重信がその二代会長に就任するや漸く活動期に入り、同仁会医院の設立準備に取り掛かった。しかし、たまたま日露両国が交戦したため、事業遂行に支障を来たしたが、それにも拘らず朝鮮・中国は勿論のこと、遠くシャム(タイ)や南洋諸島にまで医師を派遣し、その数は三百二十九名の多数に上った。

 他方、清国留学生中には医学・薬学を修めんと希望する者もあったので、三十九年度の事業として医育に指を染めることにし、医師・薬剤士等を養成するを目的とした東京同仁医薬学校を本学苑敷地内に創立した。明治三十九年二月十六日のことで、学生数三十余名、修業年限を予科一年、本科医学科三年、薬学科二年と定め、校長には医学博士岡田和一郎、主事には足立忠八郎を選任した。この他理事・顧問等を定めたが、注意すべきは顧問中に前島密鳩山和夫高田早苗天野為之の四人を加えていることであった。尤も会長に大隈を戴き、我が学苑の校舎を借りるからには、これもまた当然のことであったろう。大隈が同仁会会長として早稲田大学内に医科を設置せんとしたことは、既に会長就任後の同仁行政として、その脳裏を去来していた。そしてこのことは、三十九年十月十九日に清国提学使一行を自宅に招待した席上述べた所懐によっても判然としている。すなわち、

凡そ文明富強を以て宇内に雄飛する邦国の大学は四科若くは四科以上の分科の無いのは無い。而して重なるは法科、工科、文科、医科である。又た耶蘇教国に於ては神学もあるが、就中前述の四科が最大必要なのである。此の如く四分科の大学に於るは殆んど重なる国家に取りて必要欠くべからざる学術である。而して東洋諸国が此の最大大切なる医学・医術を怠りしは実に遺憾の次第である。我が日本は幸ひにも四、五十年前に於て此の欠点を自覚せしが故に、此の大切なる学問研究には最も多く勤めたのであるが、此の医学上の媒介で其他の法律学、政治学、理化学等をも導ひたのである。諸君が過日御一覧に為つた早稲田大学は、大学とは申せ私立であるから経費等も未だ十分ならざるがゆへに、単に法科・文科のみで、文明上に最も必要なる理科・医科は欠けて居る。乍然早稲田大学も明年が創立以来満二十五年になるから、其の紀念祝典を挙ぐると同時に、医科・理科の分科を設置するの希望を以て孳々努力して居るから、多分明年九月の学期より此の二学科をも併せて成立せらるることが出来るであらう。然るに御承知の通り、此の二科を完備するには巨額の費用を要するがゆへに頗る困難を感ずるから、此の医科に就いては既に成り立つて居る同仁会とも協議せんと欲するのである。早稲田大学が医科を設備するに当りては、同仁医学校を之れに附属せしめて、清国医学生の需要をも充たす積りである。現在の処で此の医学校は僅かに貴国人四、五十人を収容し居るに過ぎぬが、追々整頓する訳なのである。 (『同仁』明治三十九年十一月発行第六号 二四頁)

 第一回の予科生が一ヵ年の修業期限を終えて本科生に進級した四十年九月には、教室の狭隘を告げたので、牛込西五軒町に新築成った校舎に移転し、また実習を行うことになったから、同年十一月に同校付属として早稲田同仁医院を開いてこれに充て、同時に診療に従事した。更に翌年、同仁医薬学校は日本人学生をも受け入れるなど、規模を拡張した。

 大隈がこの同仁医薬学校を基盤として、我が学苑に医科を設置しようとしたことは、前掲の談話からでもほぼ察知できるが、更に同仁病院長平野光太郎(四十二年二月よりは、同じく柴田長道)を校医に嘱託し、この両者間の紐帯を強めている。ところで大隈総長は、「恩賜金及第二期計画に就いて」と題する談話の中で、医科設置に対して次のようなことを述べている。

此第二の発展は早稲田大学が自働的に為す訳ではなく、即ち社会の要求、国家の要求に応じて余儀なく起つたと云ふても差支ないと信ずるのである。……今日国家の急務は何であるかと云ふと、多数の人材が要ると云ふことである。国家の必要に応ずる人才を得ると云ふことである。其人才に同一の模型でなくして其性質に依つて種々の方面に現はれる所の人才を得ることが最も必要であると思ふ。さうすれば今日まで方々に現はれて居る私立の学校は重もに政治とか法律とか文学とか云ふ如きものばかりであるが、今度私立に於て理工科・医科が起ると云ふことは、私は国家の人才を教育する上に於て多少私立の利益のみならず、此刺激は官立にも多少及んで、国家の教育の上に偉大な効果を現はすことと信ずるのである。

(『早稲田学報』明治四十一年六月発行第一六〇号 四頁)

 更に高田学長は、四十一年五月十六日午後五時から上野精養軒で開かれた校友会臨時大会の席上で、先に大隈が述べたと同じ趣旨のことを語り、第二期計画基金募集について校友諸氏の後援を熱望した。その演説の中で、医科創設に言及しているところは左の通りである。

御承知の通りに、早稲田大学は昨年二十五年の祝典を挙げました時に、其時既に第二期計画があると云ふことは、大体に於ては既に発表してあるのであります。併ながら理工科を造り医科を造る第二期計画を成就するに付いての其端緒は何時開くかと云ふことは未定の問題で、時と場合を余ほど考へなければならぬことでありますから、今日まで其方針を確立して左うして之を天下に発表することは致して居らなかつた訳であります。但し理工科の一部は、御承知でありませうが、既に端緒は開いたのでありますけれども、第二期計画の全部に付いての発表と云ふものは致さなかつたのであります。……然らば所謂第二期計画なるものは如何なるものであるか。……大体は理工科を新設する、医科を新設する、医科に必要なる病院を新設する、それに必要なる敷地を購入する、大講堂を建築する、而して学校の固定基金を造る、此等の目的に使用する為に基金を募集して、其に依つて第二期計画を成就する、斯う云ふことであります。其基金の額は百五十万円と大略定めたのであります。今日殊に此経済界の悲境の時に、一個の学校として直ちに百五十万円の金を集める、これ能事か、不可能事か。無論これは容易に出来ぬことであらうと考を起す人が世間に或はあるか知れませぬが、前申す如く一朝一夕に此仕事を成就すると云ふ意味合のものではない。兎に角これ丈けのものがなければ是第二期計画は出来上らぬと云ふ訳である。此目的を達する迄は何年掛つてもやりたいのである。 (同誌同号 二五―二六頁)

 かくして一応次の如き新設計画を立て、これを内外に発表した。

早稲田大学医科新設予算

設備費

一、金八万円也

内訳

一、金七千円 授業用品費

一、金五千円 図書費

一、金一万六千四百円 特殊教室建築費

一、金三万七千円 普通教室及講師室建築費

一、金一万四千六百円 予備費

経常費

〈収入〉

一、金二万九千四百十五円 医科一年間収入

内訳

一、金一万一千一百円 予科学費及束脩 二百名分

一、金六千九百三十円 本科第一学年学費百四十名分

一、金五千九百四十円 本科第二学年学費百二十名分

一、金五千四百四十五円 本科第三学年学費百十名分

〈支出〉

一、金三万一千三百八十七円 医科一年間支出

内訳

一、金一千九百六十五円 予科第一学期俸給及実習費

一、金百二十円 同期学用患者費

一、金三千四百四十二円 予科第二学期俸給及実習費

一、金六百八十円 同期学用患者費及解剖費

一、金一千六百七十八円 予科第三学期俸給及実習費

一、金四百五十円 同期学用患者費及解剖費

一、金六千六百十八円 本科第一学年俸給及実習費

一、金一千百三十円 同年学用患者費及解剖費

一、金七千二円 本科第二学年俸給及実習費

一、金一千百三十円 同年学用患者費及解剖費

一、金六千四十二円 本科第三学年俸給及実習費

一、金一千百三十円 同年学用患者費及解剖費

収支差引金一千九百七十二円 不足額

病院新設予算

一、金十七万円 創立費

内訳

一、金六万四千三百五十円 本館建築費

一、金二千四百円 倉庫

一、金八百円 附属試験室・製煉室洗面所

一、金四万一千八百八十円 病室及廊下

一、金三千円 臨床講義室

一、金三千九十円 外科手術室・同附属建物

一、金一万四千三百十円 伝染病室・同上汚物焼却場及汚水溜

一、金一千六百円 同上解剖室及屍室

一、金三千円 病院外囲及伝染病室板塀

一、金一千五百円 炊事場

一、金三百五十五円 屍室

一、金百五十円 井戸

一、金一万五千円 外来診察所

一、金五百七十円 門番所・下足所等

一、金二千円 電燈・瓦斯及水道敷設費

一、金一千円 排水工事

一、金二千四百十五円 雑費

一、金一万二千五百八十円 予備費

病院収支予算

一、金五万八千七百五十二円 総収入

内訳

一、金三万二千七百五十二円 入院料

一、金五千四百円 診察・往診料

一、金一万六千四百円 薬価及治療費

一、金五万八千七百五十二円 総支出

一、金三千六百円 手術料

一、金六百円 雑収入

内訳

一、金一万六千四百五十二円 俸給

一、金七千円 賄費

一、金八千円 薬品及治療品

一、金三百六十円 瓦斯使用料

一、金二百四十円 水道使用料

一、金二千四百円 電燈料

一、金三千円 薪炭料

一、金一千二百円 修繕費

一、金二千五百二十円 雑費

一、金一万七千五百八十円 利益金

(同誌同号 三〇―三一頁)

医科学科課程

一、医科本科の修業年限を三ケ年とし、高等予科修業年限を一ケ年半とす。

一、医科高等予科の入学程度は、中学卒業相当の学力あるものにして高等予科一般の入学規定に拠る。

一、医科高等予科及本科の課程左の如し。

一、高等予科)

二、本科)

(同誌同号 三四―三五頁)

 繰り返すまでもなく、医科設立の計画は第二期募金運動の一環として進められていったが、実はその構想の基礎をなした同仁医薬学校の成績が思わしくなく、これの付属機関であった同仁医院も開業いくばくもなくして経営困難に陥り、永くこれを維持することができなくなったため、四十四年に廃校し、従って同仁医院も廃止される運命に立ち至った。医科設立が大隈の大学教育に対する一つの大きな理想であったにも拘らず、医科設立が一時中止されるのやむなきに至ったのは、この挫折に起因するところが大きかった。

 既述の如く、学苑の第二期拡張計画案は、医科と理工科とを新設することを目標とするものであったが、四十一年一月十三日の維持員会において、両者を同時に開校することは至難であるから、先ず理工科の二学科を開き、「他ハ順次設立スルコトノ方針」が議決され、更に四十二年七月二日の維持員会では、

第二期拡張計画ノ大成ハ固ヨリ長日月ヲ要スルコトナレバ、之レガ経営ノ方針トシテ、先ヅ理工科ノ設備ヲ完成シタル上、医科ノ経営ニ先チ、固定基金ヲ確立シ、以テ維持ノ基本ヲ作リ、然ル後医科ノ経営ニ移ルコト。

(文書課保管『自明治四〇年四月至明治四五年七月維持員会決議録』)

と一層明確に理工科優先、医科後回しが確認された。そしてこれが遂に医科設立の中止決定に導いたのである。以後七十星霜、医学部の新設は、機会あるごとに強く要望され、その実現に向っての当局の努力も幾度か繰り返されたのであったが、大隈の意中の人と専ら噂された東京帝国大学医科大学長青山胤通が長寿を保ち得なかったこと、北里柴三郎が創設した慶応義塾の医学部に匹敵する陣容を整備し得るような人材がその後輩出しなかったこと、戦後は一時厚生省が医学部の新設を認めなかったことなどにより、達成し得なかった悲願として医学部問題は今日に及んでいるのである。