大隈伯銅像除幕式の感激と興奮の醒めやらぬ中央大天幕内において、同日すなわち明治四十年十月二十日の午後、創立二十五周年祝賀の式典が挙行された。午前の祝典に参集した来賓・校友・学生は、正午の休憩を終えて、引続いての祭典開始を今や遅しと待ち受けていた。午後零時三十分、先ず第一号鐘を合図に学生八千余名が大学部、専門部、高等師範部、高等予科、清国留学生部、実業および中学の席に分れて入場し、続いて第二号鐘で校友・来賓の入場が始まり、忽ち大天幕はこれら出席者によって埋め尽された。かくて一時十五分、万雷の如き拍手に迎えられて大隈総長が式場に歩を運び、来賓および列国の使臣と挨拶を交わし、設けの座に着席した。やがて一時二十分、第三号鐘が荘重な音を以て開会を宣し、高田学長がやおら身を起して演壇に立ち、悠々迫らざる態度で一場の演説を行った。
私共が明治三十四年に東京専門学校を改めまして早稲田大学と致すと云ふことに就いて、二つの考を持ちましたのであります。一つは東京専門学校の基礎の上に一箇の実用的大学を造らう、今一つは其大学に入るの階梯即ち高等予科なるものを設けて中学の卒業の基礎の上に一年半の準備教育を与へる、而して中学卒業生は入学試験を施さずして自由に入学をせしめると云ふ組織を立てるといふことであります。実用大学と申すと甚だ漠然たるものでありまするが、其意味は、成るべく今日に於ける所の世界の学問の趨勢に基いて、学理を実際に応用すると云ふことを方針としたい、実用的の人物を養成すると云ふことを目的にしたい、成るべく目的に適ふ教育を施すと云ふ方針にしたいと云ふ趣意に外ならぬ訳である。又中学卒業の後の準備時代の時間を短縮して一年半と致し、之に入る道を自由にしたと云ふことは、従来余りに学問の進路が険しいのであるから、其れを成るべく容易くしたい、其勾配を成るべく緩めたい、而して学問を修むるの時間が長過る為に稍々日暮れ道遠しと云ふ感があると云ふ所から、成るべく之を短縮したいと云ふ趣意に外ならぬ訳であります。而して当時の専門学校は其計画を立てまして、先づ高等予科を設け、二年の後に至りて早稲田大学と改称して大学組織を始めて開きましたのでありますが、其当時と今日とを較べて見ますると、多少の発達をなしたやうに思はれるのであります。即ち、其当時の学生の数は一千余名位のものであつた、学科は僅に政治・法律・文学の三科に止つて、図書の数は二万に足らなかつたのである、学校の一ケ年収支は二万五千に上らなかつたと云ふのが当時の状態でありました。それが五ケ年後の今日になりまして、学生の数は六千余、中学・実業を合せて八千乃至九千に上り、学科は政・法・文以外に商科・師範科・清国留学生部等の増加を見ると云ふことであります。又図書の数を比較して見ましても、当時の二万有余に較べて、今日は兎に角十二万余冊を図書館の中に包蔵することが出来、而して一年の収支も各々二十万円と云ふ位に達したのであります。これと七年以前と較べますと、殆ど十倍の増加を見ることになつた。何が故に斯の如く多少の発達をしたのであるか。之は外の理由もありませうが、其主因は私の考へまするのに、現今青年の学に志す所の念が極めて広く、且篤くありまして、到底官立の設備のみでは其需用を充すと云ふことは出来ぬといふ理由に基いたものであると思ふ。即ち、今迄は学ぶに所がなかつたものが、早稲田大学が開けて稍々組織を完ふした為に、不完全ながらも多少過去と較れば其組織を整へた為に、争ふて来つて此処に学ぶと云ふことになつたのが、其原因であると思ふのであります。併ながら如何に学問を修めんとする欲望が社会に充満して居りましても、如何に多数の青年が此学校に来つて学ばんとする希望を抱くと云ふことがありましても、此学校に於て其需用を充し希望を充す丈けの設備を致すことが出来ませぬければ、到底彼等の志望を達することが出来ぬのは明である。所が幸にして其設備を不完全ながらも整へることが出来た。如何にして整へることが出来たかと申しますと、言ふを待たずして是全く本校の基金募集に応ぜられた満場校賓諸君の賜であると云はなければならぬ。此点に就いては、単に早稲田大学の為めのみならず、日本の教育の為に深く諸君に感謝しなければならぬと考へるのであります。……
偖次に一言諸君に向つて申上げて置きたいことは、外のことではありませぬが、此私立学校の経営するものが案外に経済的に行るると云ふ一事であります。此早稲田大学は外面から見ますと云ふと一の学校のやうでありますが、実はさうでないのである。内部より見ますると早稲田大学の中に少なくとも五種、勘定の仕様に依りましては六種の学校があります。附属する中学・実業を合せますと云ふと、八種若くは九種と云ふことが出来るのであります。即ち、それを数へて申しますれば、大学校に――大学校と申しましても医科・工科・理科と云ふ如きものは固より別でありますが――兎に角大学の一部に相当する大学部と云ふものがある。専門学校に相当する所の専門部と云ふものがある。高等学校に相当する高等予科なるものがある。高等師範学校と同一の権利を持つて居る、其学生の数も殆ど同様である所の高等師範部と云ふものがある。又清国学生の為に特に設けたる所の清国留学生部と云ふものがあります。而して外に大学部商科と云ふものは、即ち高等商業学校と程度を同じうするものである。此学校を若し国家の事業として経営すれば、固より年々相当の金を国庫より支出するを要する。其金が無益に費されるのではないが、少なからざる金が要る。平生の経費を維持する為に年々少なからぬ金を支出すると云ふのは当り前のことである。今最近の計算に依りましてこれらの学校に相当する官立の経費を調べて見ますると云ふと、東京帝国大学は是は固より比較にはなりませぬが、兎に角八十余万の金を国庫より支出して居る。東京高等師範学校が十六万円、東京高等商業学校が五万七千円余、第一高等学校が六万円余、さう云ふやうに一々数へて見ますと百数十万円の金と云ふものは年々国庫より支出さるる。固より理科・工科・医科と云ふ金の掛る設備があるのでありますが、兎に角百数十万円の金が国庫より補助されて居る。又補助するのが相当であつて益々多く補助しなければならぬのである。これは暫く別問題としましても、地方に於て一の中学を維持する有様を見ても、年々一万二万三万と云ふ府県費は費されなければならぬのである。然るに此早稲田大学の如き、今申す如き種類の設備があるに拘らず、其経常費に就ては、国庫は固より何れの方面よりも一文半銭の補助を求めずして、此経営が行れるのである。之は少なくとも私立の設立と云ふものは案外安直なものであるといふことを証拠立てると思ふ。固より不完全な所は許多あるに相違ないが、唯より安いものはないと申す諺の如く、誠に安直なものであると云ふことだけは申されるであらうと思ふ。併ながら経済的経営と云ふことは決して理想的経営ではないのであります。経済的経営は止むを得ずして之を為すのである。喜んで之を為すのではないのであります。将来此早稲田大学として施設すべきことは実に多い。理科、工科を新設したい、医科を創立したいと云ふ希望もあります。出来得べくんば農科、林科と云ふが如きものも設けたいと云ふ希望もあります。近来早稲田学園に於て最も多数の者は商科の学生でありまして、自から社会に於て実業方面に考を向けるものが多数であることを証拠立てられる。然しながら唯商科の設立を以て満足することは出来ませぬので、今一層実学の方面に向つて進みたいと云ふ深い希望を持つて居るのであります。それのみならず今日迄の校賓諸君が此学校に投ぜられた所の三十万円余の費用と云ふのは、其大部分は建築に費されたのであります。即ち、建築に其大部分を費したが為に、八千の学生が学ぶに所ありと云ふ有様になつたのであります。基金募集の費用の如き、幸にして全部経常費より之を支出することを得て、毫厘も諸君の賜物の中を使ふ可き必要を感じませぬでありましたが、兎に角諸君の寄与せられた金は形を変じて、見らるる所の建物になつたのであります。建物は玆に備つて而して此多数の学生が兎に角学ぶに処を得たと云ふことはありますけれども、学校の永遠の基礎を固くすると云ふ為には、固定基金の必要は固より有るのであります。……
終りに臨んで一言諸君に御披露を申すべきことは、曩に我が総長大隈伯が早稲田大学創業録其他百十有余の当出版部より出版したる書籍を携へて参内せられ、乙夜の覧に供せられんことを願はれました所が、昨日田中宮内大臣より「終始一の如く教育に尽力の段御満足に思召さるる」旨大隈伯爵に伝達された次第であります。是は早稲田大学に取つて此上なき光栄として深く感ずる所であります。 (『早稲田学報』明治四十年十一月発行第一五三号 五六―五八頁)
大隈は再び自らの銅像の前に立った。彫の深い謹厳な銅像の大隈と、赫顔に笑を綻ばせた人間大隈との二つの面は、不思議にも一つに融け合って、集まる人々の心を温かくした。しかしいつもと変らぬ落ち着いた口調で口を切った大隈は、語るほどに言うほどに熱気を帯び、聴衆を魅了した。その式辞は次のようなものであった。
来賓諸君、今日は早稲田大学の二十五年紀念会に臨み、各位の斯く御来車なし下つたのは、此学校の経営者としての私が深く感謝の意を表する処である。
此学校が二十五年間に於ける経営の大要に就いては前に高田学長から報告されてあるので、今更私の報告する必要はないと思ふ。しかし私は間接・直接此学校に同情を寄せられ殊に巨額の寄附金をなされたに対しては、深く謝意を表して置く。此学校の経営に就いては目的以上の寄附金が集まつたけれど、其後段々物価の騰貴した為当初の目的通りに行かなくなつたのである。其んな訳で今日此紀念会に就いて諸君を御招待する為一大殿堂を建てて置く計画なども外れて、かく野営のやうな処へ御招待申上げたのは恥しい次第である。然乍初め計画した大学としての計画をいへば、図書館といひ、教場といひ、職員生徒といひ、今日は殆んど遺憾のない処迄達してゐるが、大殿堂丈は予定通りに行かず尚ほ残つてゐる。而して早稲田大学は大学としての学科が未だ不十分である。欧州の大学は姑く措き、東京帝国大学・京都大学と比較しても未だ未だ不十分な処が多い。駸々たる文明の発達する今日では、大学として単に文学・法律・政治・経済・哲学位を教へるばかりでは不満足である。今を去る二十五年以前早稲田専門学校を建てる時に方り、其んな考へを有つた故に、其際先づ工科を設け、此他の学科も漸々備へたいとしたが、遺憾な事に其頃の社会の要求として工科に入るものがない。亦設備がわるかつたからでもあらう、兎に角其ういつたやうな次第で二年の後中止した。而かも其中止が永くて、恰度二十三年の間中止した。而し今日は日本の私立大学として稍其目的を達してゐる。同時に早稲田大学が第二期の発展する時機にも達したとも思ふ、処が時勢の進運は同時に医科・工科若くは此他の学科を望む事が盛んになつた。而かも今より二十五年前は封建時代に近く、封建時代の武士は未だ武装して、武装を解けば直ぐに政治・法律を論ずるといふやうな有様であつた。しかし封建の武士ももはや武装を解いてから大分長くなるが、同時に生存競争が激烈になつた。玆に於てか、必要な学は非常に多くなつたのである。此時に於て官学に国民の社会一般で要求するだけの設計があるかと云ふに、遺憾ながら未だ不十分である。旁々以て各自を満足せしむるに足りない。是れは日本の文明が突飛的で勃興的である故、避く可らざる必然の勢ひであると思ふ。玆に於てか、亦早稲田大学は最も現代の要求に大切な医科・理科を設ける事が目前に迫つてゐる。之は学校其ものの目的でない。現今の社会の要求する声である。此要求に応ずる完全な設備は此大学の大なる仕事であると信ずる。高田学長の演説中にもあつた通り、他の学校は知らないが、此学校の全体は余程経済的に出来て居ると思ふ。処が漸々学校が盛んになると共に、設備に就いての経費がだんだん増して来た。元来物は盛んになればなる程経費は要ないものであるが、学校は是れと反対で、盛んになればなる程必要なものは金である。初めは一、二の同志者で創立して今日に至つたものである。初めて一般の人に就いて学校の基金募集に着手したのは已に二十年も経つてからである。其んな訳で此二十五年目の今日は正しく第二期の発展期になつてゐる。今日に於て理工科其他の学科を加へるにしても其基金がないからして、只今社会に訴へるのである。如何に経済的に設備しやうとしても、理工科のやうな高尚な学科を加へるにしては非常な経費が要る。此目的を達するには、高田学長の云つた通り、将来共に我校は背水の陣を敷ねばなるまいと思ふ。……希くは二十有五年辛苦経営した早稲田の学園、其上教員が多い、十万の図書も有してゐる、といふ場所に助力を仰たい。之に力を加へるならば、新に独立した小さいものを経営するより、労も少く金を投ずる事も少く其効果は多大である。且つ国家的で社会的で、今日大旱の雲霓を望むがやうな人材を求る声にも応じた教育が出来ると思ふ。第二の発展をなし此大学の第二期拡張をなそうとするには、非常な金が要る。同時に学校其ものに固定資金といふものがなくてはならぬ。本日は幸にも同感の諸君が沢山お集りになつたから、先づ殆んど我党の理想実行が出来る機が来たといつてもよいやうである。其処で私は私の意見の一部として諸君と社会一般の人とに御礼をいふと共に、同時に平生の所信を諸君に訴へると云ふは決して徒事でないと自信する。又今日の二十五年の紀念祝典は其意見の発表に最も時機を得たるものと考へるのである。
終りに臨んで実は余り大きな声で言ふことでも無いが、私は従来直接・間接に学校へ多少力を入れて居たが、殊に私の不動産の一部を此学校に貸与して措いたが、学校は永久的のものであるから、過去二十五年間学校が辛苦経営してここに至つた事を祝するの意よりして、此学校の敷地を、十万円のものか十五万円のものか知れぬが、之を今寄附したいと思ふ。序ながらこれを諸君に申上げて置くのである。 (同誌同号 五八―五九頁)
これは、単なる祭典の式辞に止まらず、後述する学苑の第二期拡張計画着手の宣言であった。のみならず大隈自ら率先して、従来学苑に貸与していた時価十数万円相当の地所を寄附することを明らかにしたのは、この年一月二十日の憲政本党大会で総理を辞任し、政党関係から身を退き、教育方面に専心する時を得た大隈の、総長としての並々ならぬ決意の表明でもあったと見られよう。
以下は当時述べられた祝辞の数々であるが、大隈により興された一私立学校が今日の隆盛を来たし、本邦有数の私立大学にまで発展したその業績を讃えて遺憾がない。先ず来賓渋沢栄一男爵の祝辞に耳を傾けてみよう。
閣下、淑女、紳士。斯る最も紀念とすべき盛典に参上致す光栄を担ひまして此席に罷出ますのは頗る愉快に感じまする。愉快に感ずると同時に又大に迷惑に感じまする。私は学問に縁の遠いものでございますから、斯様な御席に参上して意見を申述べることがございませぬ。材料も知識も共にないかも知らんでございます。去りながら爾来此学校の脳髄とも申すべき創立者、殊に現在総長に居らつしやる大隈伯爵には余程久しい御懇遇を受けて居りまする。又学長たる高田君とは同郷の好みを有つて居りまして、是以て極く久しい友人でございます。斯る御目出度い席に方面こそ異なれ、罷出て一言の祝辞を述べよと云ふ御指図に依りまして、未熟の者が此壇上に登ります次第でございますから、言語の不束な程は呉れ呉れも御容赦の程を願ひます。……
有体に申上げますと明治十五年専門学校の開かれた頃合の私などの考は、眼の近かつた為に決して斯の如く大規模に、又盛大に拡張するものとは想像しなかつたので、詰り大政治家の、大英雄の、孟子の所謂「得天下英才而教育之三楽也」と云ふ、例の「君子有三楽而王天下」云々と云ふ其中の一に今のやうなことが書いてあります。伯の御高意は蓋し其辺にあるだらうなどと云ふ皮相の考を私共は致して居りましたのでございます。又世間から評論する所を間々聞きますると、或はそれ以外の想察を以て伯の高徳を多少傷けることがあつたかも知らんとまで申したいのでございます。然るに此学校の其以後の発達と云ふものは、如何にも吾々其時の想像以外にありまして、既に三十五年大学と改称され、其大学と改称された以後の発展の有様を唯今学長から伺ひましても、五年にして十倍の数字を挙るに至つたと云ふことは、世運の学問に希望の厚くなつたと云ふことは勿論でございませうけれども、即ち総長たる脳髄たる伯爵の厚い御力の入れ方、及之を御助けなさる所の教職員諸君の容易ならざる尽力が此大成功を見るに至つたと吾々厚く感謝をささげなければならぬのでございます。殊に私は此学校に向つて別して謝意を表したいと思ふのは、唯今学長から御述べのございました通り、務めて学事と実際を密着させていたが為め、此学校を大学と改められた後の有様を拝見しましても、大学部に商科を加へたなどと云ふことは、未だ帝国大学に見能はぬことが早稲田大学に見能ふたのは、吾々商人の方から云ふと最も謝意を表さなければならぬことであります。而して唯今の数字を御述べになりましたことから観察致しますると、費す所の費用と学問の普く及ぶ所の公益とが、或は政府の経営される、其他種々なる学校に較べて見ましても、大に優る所あつて損する所がない。丁度善い品物を安い価で買得ると云ふことでございますならば、吾々経済界に居る者は最も双手を挙げて此学校に賛成する所で、独り商業に従事する者許りでない、国民として共に同情を表さなければならぬ学校であると思ふのでございます。凡そ国光を発揮し国威を宣揚するの原動力は種々なるものがございませう。政治の力勿論必要である。軍人の働き最も肝要である。或は法律に、或は外交に、或は資本に、皆総て国威を宣揚し国光を発揮する要具に相違ない。併し是等の諸種の品物を勢力を十分に扶殖せしむる原動力は何であるかと申したならば、之を教育の力と言はねばならぬのでございませう。 (同誌同号 五九―六〇頁)
文部大臣牧野伸顕の祝辞。
本日早稲田大学創立二十五年祝賀会を開催せらるるに当り親しく此盛典に臨み祝意を表するは本大臣の深く喜ぶ所なり。抑々大学の前身たる東京専門学校は其創設実に明治十五年にあり。爾来我邦専門教育の機関として最も重視せられ、歳毎に幾多有為の人士を育成し、或は近く政治・文学の研鑽討究に、或は広く国家各方面の事業に須要の材器を供給し、国運の進歩に貢献せること甚だ大なり。尋いで明治三十五年従来の専門学校を早稲田大学と改称せるより更に一新生面を開き、施設其要を得、経営其宜しきに適し、得業生を出すこと殆んど三千五百余名、名声前度に倍し功績洵に挙る。是れ固より世運発展の然らしむる所なりと雖ども、亦職員並に出身者諸君が尽瘁精励自ら彊めて息まざるの結果に他ならざるべし。今や学術の進歩は日に著しく、列国文運の風潮月に新なり。此時に際し本学たるもの一層進で博く知識を東西に求め、深く其精随を究め、退いて攻究練磨の功を積み、以て我学界の英華を発揚し、殊に将来我邦の進歩発展に必須なる理科・工科等に関する科学的思想を扶殖するの覚悟あらば、国家に貢献すること益々顕著なるべし。且夫れ本学の創立より現に二十五年の星霜を閲し、其間鍛錬工夫を凝らせる幾多経験の存するあり。又学校経営に於ける高田博士、経済学に於ける天野博士、文学に於ける坪内博士の、鋭意専門其職に任じて本学と始終を共にするあり。されば本学に在るもの克く爰に鑑み、往を紹ぎ来を開くの精神を以て、力を戮せ心を一にして、誠意力行益々文化の発展に資せられんことを望む。 (同誌同号 六〇―六一頁)
内閣総理大臣侯爵西園寺公望の祝辞(川村純蔵秘書官代読)。
大隈伯夙に世道の進運に鑑み、学問独立の必要を感じ学校を設立し、以て子弟の教育に任ぜんことを計り、明治十五年東京専門学校を創立し、以て其抱負を実行せんとせり。爾来校運時に弛張ありと雖も、経営宜きを得て効果維れ挙り、遂に早稲田大学を完成するに至れるは、伯が不撓不屈の精神の凝結する所に外ならず。回顧すれば昔日寂寞の地変じて繁華の通衢となり、早稲田を云ふもの必ず伯及大学を連想せずんばあらず。星霜を閲すること二十有五年、本校より卒業生を出すこと五千余人、其国家に貢献するの功も亦大なりと謂ふべし。何ぞ其れ盛なるや。是れ本校の為めに祝するのみならず、亦国家の為め慶賀せざるべからず。今や本校二十五年の祝典に際し聊か所感を述て以て祝詞に代ふ。 (同誌同号 六一頁)
本邦駐劄フランス大使ジェラールのフランス語祝辞。
総長貴下、各閣下、並諸君。早稲田大学二十五年紀念祭へ総長貴下、学長及教授諸君より出席すべき旨懇請を辱うし、私は満腔の歓を以て之を拝諾致しました。私は此機会に際会し、国家に依つて為されたやうに、又個人や各団体に依つて普く教育の発展を図られ、以て今日の盛域に達したこと、及び日本と泰西との間に法律・学術・技芸・文明の関係を緊密ならしめやうとて邦家の為に致された此尽力に対し、尊敬を表するの光栄を有して居ります。抑も早稲田大学に仏語及其他の外国語の課目の設けある次第は、日本が常に尽瘁する所あり、又已に大に成功をしました所の、東洋と泰西との間の渇望と理想と教化との配合を開発せんとして、如何に苦慮せられ又如何に之を希望せらるるかを証するものでござります。 (同誌同号 六一頁)
同じくドイツ大使男爵ムンムのドイツ語祝辞。
閣下及び諸君。本日早稲田大学創立二十五年祝典に際し私も祝辞を申述べます。貴大学は撓まざる働きと新時代に適応したる設備に因て、小規模より日本に於ての最高位の大学の一に作り上げられました。過去二十五年間に得たる貴大学の功は、日本国が文明国中にて優れたる位地を保ち、又其位地を固くすべき国民の義務に付て、貴大学が将来に於ても又尽瘁するの保証を与へられます。……今日東京帝国大学を除いて、早稲田大学の如き有益の私立学校が日本に於いて独逸語学と独逸学術の普及を熱心に奨励さるる所の御尽力は、日本学問と独逸の学問とを一層密着させるのみならず、独逸と日本との交誼を益々親密にすることにも大利益があることと信じます。而して右は我皇帝陛下及我政府の深厚なる希望でございます。早稲田大学の繁栄は大隈伯爵の名を離れぬものでありまして、大隈伯の今迄永き功績ある経路に於ける義務を尽されたに付ては、一国の偉大なことは富でなく、国民の精神を発達させることと未来の国民たる青年に風儀と学術上の薫陶を与へることであることを始終記憶せられました。……大隈伯は日々進歩と発達の途に赴く早稲田大学の指揮者として、日本国の為に永く其位置に止られんことを希望致します。 (同誌同号 六一―六二頁)
同じくイギリス大使サー・クロード・マクドナルドの英語祝辞。
各閣下、淑女及紳士諸君。私の敬愛する大隈伯より早稲田大学開校二十五年紀念の祝典に就て御招待を忝ふし、且つ英語は貴大学に於て特に一層の注意を払はるるとの事にて、其国語の代表者として一言御挨拶を申す様にとの御依頼を受けたるは、私の大に光栄とする所であります。……英語研究が貴大学の教科中重要の地位を占むるは私の甚だ欣ぶ所、顧ふに英語は其言語の豊富にして優美なる毫も他に譲らざるのみならず、極東諸国に於て諸外国中英語が最も有要なるは疑ふ可らざること故、貴大学が之れに重要の地位を附するは当然でございます。青年学生の之れに心を傾くるも亦偶然ではございますまい。又英語は発音を除くの外之れを修得するに最も容易すからうと思ひます。私は今学生と云ひました。就ては学生諸君に対して一言……英国に於ける最大最古の一公立学校の創立者は今より約五百年前に於て其学校の格言として「行儀は人を作る」の語を用ひ、又其れより約三百年後に於て有名なる一英人は申しました、「行儀を以て智識を修飾し以て人生の行路を和らげざる可らず」と。然れども此行儀なる語は単に浅薄なる態懃を意味するのではなく、武士道の真精神の外形に発現したものに外ならぬ。此武士道の特性は、……独り日本のみに限らず何れの大国民に於ても之を見之を涵養せねばならぬものでございます。即ち正義を守るの精神、忍耐の心、温和、特に弱者に対する温和の情、忠誠の念、及勇気、特に正を履んで恐れざる等の勇気すべて然うです。是等武士道の特性を能く発揮し、諸君の宜しく師表とすべき光輝ある好模範は、……貴大学の最も偉なる創立者の高潔にして崇敬すべき半生の経歴を諸君に示せばよいと思ひます。 (同誌同号 六二頁)
また韓国統監伊藤博文が左の如き長文の祝電を寄せたので、特に高田学長が登壇してこれを披露した。
早稲田大学創立二十五年祝典の挙行に際し、遙に満腔の祝意を表す。貴大学が我文化の発達に与つて力あるは、殊更に呶々するを要せず。当今我文運の隆盛にして青年子弟研学の念盛なる、到底官立学校のみに依て之を満足せしむる能はざるは明瞭なり。故に余は堂々たる私立学校の成立を喜ぶものなり。然れども従来の状況を見るに、私立学校は概ね政治・経済・法律・文学の如き理論的の研究を主とし、物理・化学・医学の如き物質的攻究を為すもの絶無と称するも可なり。之れ蓋し経費の関係等より已むを得ざる事なるべきも、余は常に私立学校の一大欠点として頗る遺憾を感じたり。然るに聞くが如くんば、貴大学に於ては今回の祝典を機とし、理科・工・医科大学新設の計画ありと。実に此時世の必要に応ずるものにして、余は多大の希望を貴大学の前途に嘱せずんばあらず。玆に聊か祝賀の微意を表する為め、金五百円を電送す。貴大学の経費の一部に充てらるれば本懐に堪えず。 (同誌同号 六二―六三頁)
最後に高田学長の答辞があり、君が代の奏楽と万歳三唱を以て午後三時、盛典の一切の行事を終って幕を閉じた。なおこの日、大隈総長は、自らの名を以て、高田・天野・坪内の三博士に年金を、前島には総長および学長より記念品を、また高田は学長の名を以て、市島・田中(唯)・三枝に、それぞれ記念品を贈った。
大隈の額にも似た平庭造りの広大な庭園には芝生が張りつめられ、配するに老松生ゆる築山と、清冽な水をたたえる泉水は大隈好みの庭作り。春は梅、夏は菖蒲、秋は菊花に彩られ、常夏を思わす蘭科植物の温室はこの邸宅の一偉観である。式後引続いて開催された大園遊会の会場は、この優雅な庭園を惜しみなく開放したもので、築山の彼方なる茶亭上の食堂は内外貴賓のためのもの、今を季と咲き誇る菊畑側に設けられた食堂は校友達のもので、主人役大隈をはじめ高田学長、諸教師、主だった校友が、酒間に斡旋の労をとる。参会者総数五千人。往年の新宿御苑における陸軍大臣招待の凱旋祝賀宴に優りても劣らざるものであった。校友を除く当日の主な招待者は、イギリス、ドイツ、フランス各国大使、オランダ、ベルギー、清国各公使をはじめとして、林董外相、牧野伸顕文相、松田正久法相、近衛文麿公、一条実輝公、野津道貫侯、鍋島直大侯、芳川顕正伯、乃木希典伯、副島道正伯、大原重朝伯、松平直亮伯、ガリナ伯、その他合計一二八名に達していた(同誌同号六三―六四頁)が、来賓一同歓を尽し、散会したのは午後四時三十分であった。
いつの場合でも同じであるが、大学に祝典があれば、牛込界隈はお祭気分に沸き返った。鶴巻町の通りはもとより、喜久井町から弁天町、榎町、天神町、山吹町、矢来町、通寺町、神楽坂に至るまで、各戸ごとに提燈と小旗を掲げ、また町々にアーチを作り、大行燈を吊して祝意を表した。夜に入っても街衢の熱狂は続き、折から火の入った軒燈は、数珠玉を連ねたように数条の帯をなして軒並みを走らせ、その道筋に祝賀の提燈行列が展開されて行ったのであった。
午後五時十余分を過ぎ、早稲田の杜に夕靄立ち込める頃、運動場と校庭に分れて集まった一万余の学生と校友とは、手に手に紅燈を掲げ、三列縦隊二百名を一組とし、各組ともおよそ百メートルの間隔をとり、楽隊を先頭に、相馬御風の手になる新作校歌を高唱し、粛々として行進を起した。その隊伍は、
第一陣 総司令安部磯雄、楽隊、整理委員
第二陣 第一団長中野礼四郎が指揮する中学校生徒七組
第三陣 第二団長天野為之が指揮する実業学校生徒三組
第四陣 第三団長青柳篤恒が指揮する清国留学生五組
第五陣 第四団長田原栄が指揮する高等予科学生三組
第六陣 第五団長高田早苗が指揮する本科学生十二組
第七陣 第六団長鳩山和夫が殿軍の将を勤める講師・校友・職員五組
から成っていた。
さて行進が始まると、大隈が夫人および信常夫人を従えて邸門を出でこれを迎えたのを目敏く見つけた学生達は、提燈を高く振り、声を限りに万歳を三唱したので、大隈も帽子を打ち振ってこれに応えた。校門を出た行列はそのまま馬場下から榎町、天神町を経て矢来に出で、他の一隊は鶴巻町から矢来に抜けて、ここで合流し、順次神楽坂、牛ヶ淵、九段下、フランス大使館前、坂下門、和田倉門を経て二重橋広場に達した。この間沿道に黒山の如く蝟集した市民は、提燈を打ち振り或いは口々に万歳を叫んで、早稲田大学の祝典を寿ぎ、特に印象的だったのは、フランス大使夫妻が馬車から帽子を振って挨拶したことであった。
かくして二重橋前広場に凝集した行列は、音楽隊の奏する荘重な君が代に続いて、高田学長の発声で両陛下ならびに皇室の万歳を三唱した。なおこの時かねて携帯したマグネシューム数十発を焚く者あり、煌々たるその光に照らされて、松越しにこの盛況を見守る緋袴の官女、白衣の官人の姿を垣間見ることができたという。
この期間中行われた諸事業は次の如きものであった。
大学を新設するのは、学界に一大城塞を構築するに等しいので、莫大の費用を要する。国家が捨てて顧みないなら、広く江湖に訴えて民間有志者から浄財を集める以外に手はない。そこで基金募集計画は早く、大学の設立が具体化した明治三十四年一月を以て発足している。高田早苗が学監に就任し、事実上校長の事務を鞅掌したのは三十三年二月七日で、間もなく東京専門学校の名称を改めて早稲田大学にしようと考え、これに要する資金を募集し始めたのが三十四年一月であった。そしてこれに引続き一月十四日大学部設置の願書を東京府知事に提出し、同月三十日春期校友会大会で出席者一同に「早稲田大学設立趣旨」を配布し、大隈、前島、鳩山、高田ら首脳部が全国に基金募集を主たる目的とする巡回講演会を開き、相当な成績を挙げたことは、第一巻第三編(八四三―八四五頁、九八七―九八八頁)に記述した通りである。
三十五年秋には、大学開校の準備や祝典等多彩な行事があったため、募金遊説は行われなかったが、三十五年十二月十一日現在の募金状況では、申込み総額二十六万一千六百五十二円九十六銭に上り(『早稲田学報』明治三十五年十二月発行第七八号「早稲田記事」五三一頁)、三十万円の募集金額に対して八七・二二パーセントの成績を挙げていた。三十六年に入ってからは、春期校友会大会や大阪における校友大会に大隈らが出席し、大学の近況を述べて募集状況を説明し、八月の夏期休暇には鳩山、市島らが北海道に遠征し、十一日札幌、十五日小樽の校長招待会で募金のため来道した旨を明らかにし、一層の後援を要望した。因に八月十日現在の応募成績は、申込み額二十九万八百九十九円三十六銭で(同誌明治三十六年八月発行第八九号「早稲田記事」六九〇頁)、総額に対する比率は、九六・九七パーセントに達したので、計画は着々と進められ、九月には高等予科講堂(木造二階建二棟三四八坪)、十二月には商科大学および早稲田実業学校校舎(木造二階建二〇二・五坪)が竣成し、新学期開始にはいささかも支障がなかった。
なお『早稲田学報』の募金記事には、三十七年になると、寄附金総額および寄附者総数は毎号掲載されているものの、募金巡回講演会の開催は記録されていない。この年度は国運を賭けての日露大戦が行われ、挙国一致して戦費の醵出に奔走した時期であったから、恐らく募金運動も控え目になったのであろう。それにも拘らず、三十七年に目標を達成した募金申込み金額に対し、実収成績が低下を見ることがなかったことは、『廿五年紀念早稲田大学創業録』が「明治三十七、八年には、振古未曾有の戦役に遭遇し、多大の影響を蒙るなるべしと憂慮せしにも似ず、さしたる障害を受けずして、着々実収の功を挙げ得た」(一二五頁)と記載しているところである。尤も、『早稲田学報』の募金記事は三十八、九年には影をひそめ、僅かに三十九年十二月に全納者の醵出金額と姓名が掲載されているのみである。その後、『早稲田学報』には毎回継続して累計および醵出者の氏名が掲載され、四十一年七月五日号を以て終っている。四十二年八月三十一日に第一期計画の基金募集の総決算が行われ、整理減額(一〇一一頁参照)後の成績は、「第二十八回早稲田大学報告自四十二年九月至四十三年八月」(『早稲田学報』明治四十三年十月発行第一八八号)によって知ることができる。
第一期基金は昨年度報告に述べたる如く昨年八月三十一日に於て其決算を了し、同時に未収基金及び有価証券、銀行預金等を第二期基金に繰入れたるが、其決算は左の如し。
早稲田大学第一期基金決算
一、金二十六万二千七百二十二円二十七銭 基金申込総額
一、金三百二十七円六十九銭 渋谷正吉、故渡辺又兵衛両氏寄附金特別預金利子
計金二十六万三千四十九円九十六銭
内
金二十一万九千百八十七円五十銭三厘 建築費
内訳
金四万七千一百八十八円十二銭六厘 第一回建築物
金十三万三千五十七円四十一銭七厘 第二回建築物
金三万八千九百四十一円九十六銭 第三回建築物
差引 金四万三千八百六十二円四十五銭七厘 第二期基金へ繰入
内訳
金三万四千四百六十四円二十五銭 未収基金
金六千六百五十円 有価証券
軍事公債(額面一百円)一枚 国庫債券(額面一百円)三枚 日清生命保険株式会社株式 五百株
金二千五百二十七円六十九銭 定期特別当座其他預金
金二百二十円五十一銭七厘 現金
第一期基金は上記の如く昨年八月三十一日を以て其決算を結了したるが、其未収基金金三万四千四百六十四円二十五銭は其後漸次払込を受けつつあるを以て、其後の状況は第二期基金勘定に就きて之を知悉せらるべし。 (一三頁)
この第一期計画がそのまま継続されていたならば、恐らく遠からずして最初の目標額に到達できたろうが、当局の方針が変更され第二期の計画が打ち出されて、より多くの資金を必要とし、更に大隈銅像建設のための資金をも募集することになったから、やむを得ずこの程度で一応打ち切られたのであろう。
さて、第一期大学拡張において新・増築せられた建物と坪数とは、次の如くである。
第一回 建築
図書館書庫 六七、八
同 閲覧室 一二五、〇
同 渡廊下 六、五
合計 一九九、三
第二回 建築
高等予科講堂前棟 一九八、〇
同 講堂後棟 一四〇、〇
同 渡廊下 一二、〇
同 学生控処その他 七九、九
大学部商科教室 二〇二、五
同 学生控処 三三、五
同 供待その他 一四、五
合計 六六〇、四
第三回 建築
講堂 一二二、〇
学生控処 四九、〇
清国留学生部講堂 (旧講堂修繕)
同 理化学教室 (旧出版部修繕)
標本陳列館 三三、五
出版部編輯局・事務所 五七、五
同 倉庫 三六、二五
合計 二九八、二五
そして、この時期には建物が増えたばかりでなく、校地も大幅に拡張された。三十三年の「東京専門学校規則一覧」(『早稲田学報』明治三十三年七月発行臨時増刊第四一号)の巻頭図による校地総坪数は六千三百六十一坪であるが、第一期拡張のほぼ終った四十年七月には一万八千九百五十五坪となり(同年同月発行の『早稲田大学規則』巻頭図による)、実に一万二千五百九十四坪の増加で、学苑の校地は大学になって一挙に三倍に拡大された。この中には、明治三十五年十月に開かれた、現在の安部球場とその周辺を含む約七千坪、それに寄宿舎の敷地二千八十五坪などの借地が含まれている。こうして変貌した校舎の配置を、『創立三十年紀年早稲田大学創業録』の巻頭図に基づき概略示したのが第一図(次頁)である。
この第一期拡張計画により建てられた校舎は、前述のように図書館二棟、高等予科講堂二棟、大学部商科教室等であったが、大学は、これらの建築と同一の手法形式をとり、建築上の統合を計り、将来機の熟するのを待って、中央講堂を構内中心の大敷地に建設し、早稲田大学の全校舎の整頓を期するという計画を持っていた。しかしこれは実現されずに終った。
A 大学部商科教室
B 大学部商科学生控処
C 清国留学生部学生控処
D 図書館閲覧室
E 図書館書庫
F 標本陳列館
G 講堂
H 高等予科講堂
I 高等予科講堂
J 出版部編輯局・事務所
K 出版部書庫
L 清国留学生部講堂
M 清国留学生部理化学教室
なお、鎖線より正門寄りの地域が東京専門学校時代の敷地である
『早稲田大学沿革略』第二の三十九年七月十六日の条に、「校友大会ヲ紅葉館ニ開ク。大隈伯臨席、大講堂及理工科開設ノ急ヲ説ク」とあり、これをやや詳しく述べたのが、『早稲田学報』第一三七号(明治三十九年八月発行)「早稲田記事」中の、例規校友大会における大隈の演説である。例によって学苑発展の歴史を回顧した後、
私も一の理想を持つて居る。来年は二十五年になる。諸君と共に将来の早稲田の希望はどうするかと言つたら、早稲田大学をして帝国大学と競争して今一層大きな世界の大学と競争したい。併し是には又段階がある。之は第二期の計画である。第一期の計画は大学にするにある。併ながら学校が足らぬ。大学はまだサイエンスを持たぬ。之を準備しなければ戦闘力が十分でない。戦う為には兵器も弾薬も戦闘艦も水雷艇も用意しなければならぬ。大分名将は居るけれども器械は足らぬ。どうしてもサイエンスを置かなければならぬ。総ての大学と同様な学科を設けることを望むのである。 (六六頁)
と述べ、理工科の設置、というよりも再建に言及している。
越えて翌四十年四月四日、三五四―三五五頁に後述する如く、社団法人を財団法人に改め、校長を廃して総長・学長を設けることを維持員会で決議したが、同月六日に行われた校賓招待会の席上、高田学長は第二期計画に言及し、
私立の計画は止まれば退く、進まざれば到底維持の出来ぬと云ふ性質のものでありますから、第二の計画の時期に入る考でありますが、夫れは兎に角、此の十月に於て、第一期の計画の報告を一般に致した後の事に致す積りであります。希望を申しますれば理工科を設けたいと云ふこともあります。医科を設けたいと云ふ事もあります。今日まで経営しましたのは先づ比較的金無しで出来る、金無しで出来る事であるが故に、此早稲田大学の模範通りの事を諸方の学校が現在やつて居ります。科目の分け方も同じ、又名の付け方も同じ、随分こちらで不得意な名であると思つた其名が其儘用ひられて、諸方に学校が起つて居るやうな訳であります。併ながら段々さう云ふ学校の殖へると云ふは結構でありますが、どうかして此私立で企て得ざると称する所の、殊に時勢の必要上無ければならぬと云ふ此有形的の学問の諸科を追々は打立てたいと云ふ只一片の理想を抱いて居ります訳であります。 (同誌明治四十年五月発行第一四七号 五一頁)
と、この目的が理工科および医科の増設であることを明示している。なお、高田は「私立で企て得ざる」と言っているが、同年七月に設立が認可せられ大正十年まで私立工業専門学校として独自の経営を続けた、「日清・日露戦争で巨額の利潤をえた炭鉱資本家安川家が三三〇万円を投じて創設した工業専門学校」(『日本近代教育百年史』第四巻一三三六頁)である九州戸畑の明治専門学校(九州工業大学の前身)は、この時期には既に敷地の買収その他、着々として四十二年四月開校に向って準備を進めていたことを、念のため付記しておく。
天野もまた「早稲田に対する希望」と題し、『早稲田学報』第一五三号(明治四十年十一月発行)に左の「理科の再興を計れ」という一文を寄せている。
早稲田に於ける理科増設の急要問題たるは学校当事者の多年念頭に置く所にして、大隈伯の如きは熱心なる主唱者の一人なり。早稲田に於ける理科増設の問題たるや、深く根拠を有するものにして、一朝一夕の間に之を唱道せるにはあらず。余の敢て理科の増設と言はず、再興と称する所以の者、又至当の理由ある也。想ひ起す、明治十五年の春大隈英麿氏(今の南部英麿氏)の英国より帰朝するや、理学普及の目的を以て早稲田に一校舎を築けり。其建築着手中、余は小野梓氏の紹介に依り大隈伯に会見を求め、理科と並びて政治科及文科を開設することの交渉・決議を遂げ、高田氏等と共に教鞭を執ることとなれるに、其後二、三年を経て、学校経営の上に幾多の困難続出し、財政の事情は遂に理科を中止するの止むなき運命に会するに至れるぞ遺憾なれ。斯くの如く早稲田の学校は、理学普及の目的を以て創設せられたるもの、而かも止むなき事情の為め、一時中止するに至れるものなり。然れば其事情の消滅する機会、其機会の到着するのを待つて再興を計画すべきは、正に其所を得たるものにして、学校当事者たるものの当然尽さざるべからざる処置に属するものと云ふべし。故に学校が幾多の星霜を経過し来りて、隆興盛大の域に進みつつある今日、財政事情の許す限りに於て、理科の再興を期待し、之れが実行の運びに向つて努力するを要するは余の言を俟たざる処たるを信ず。 (六頁)
高田といい、天野といい、我が学苑創設当時の功労者が口を揃えて理工科の再興を唱えているのは、勿論大隈の素志を受けたものであること言うまでもなかろう。しかも大隈は学内外の輿論を真面目に取り上げ、二十五周年の祝典において、理工科復興を含めた学科の整備と拡充とについて第二期計画なるものを実施せんことを鮮明にした。第二期計画は四十一年初めその大綱が決定されたが、更に錦上花を添えたのは、この計画に対し、皇室より次の如き御沙汰書を拝し、金三万円也を下賜されたことであった。
早稲田大学総長 伯爵 大隈重信
夙ニ志ヲ学術ノ振作ニ效シ早稲田大学ヲ興シテ子弟ヲ教育シ人才ヲ造就セリ今又規摸ヲ拡張シ学科ヲ増設スルノ挙ヲ聞食サレ思召ヲ以テ之カ資金トシテ特ニ金参万円ヲ賜フ
明治四十一年五月五日 宮内省
(同誌明治四十一年六月発行第一六〇号)
この優渥な御沙汰書については次章にも触れるが、これを拝して当局も学苑関係者も校友も欣喜雀躍し、募金運動に拍車をかけたのは言を俟つまでもない。すなわち次の如き趣旨書を広く巷間に配布することになったのである。
早稲田大学第二期計画
本大学第一期の計画は大方の深厚なる同情により既に故障なく遂行されたるを以て、更に第二期計画に着手せんとするの希望は曩に創立二十五年祝典に際し予告せるが如し。爾来本大学維持員屢々凝議し大体の計画成るに当つて、事畏くも上聞に達し御下賜金並に優渥なる御沙汰書を拝受せり。本大学この前代多く聞かざるの光栄に浴し、天恩の厚きに感泣すると同時に、困難を排して第二期計画を実行するの責任を深く感ずること勿論なるが、翻つて我国現下の経済界を観察するに事態必しも順境也と謂ふを得ず。然れども永遠に渉る可き大学経営の事業は一時的状況の為に其発表を躊躇す可きに非ずと信ず。因てここに第二期計画趣旨並に設計の大要を公表し、普く世間有識者の深大なる賛同を希願すること爾り。
早稲田大学第二期計画趣旨
吾大学は幸に既往二十五年間の経営殊に最近五年間大学組織の経営を大なる蹉跌なく遂行し、今や創業の一段落に達したり。是れ偏に大方諸彦翼賛の然らしむる所、吾人の感激措く能はざる所なり。
然れども翻つて惟ふに、既往五箇年間の経営は僅かに大学組織の一部を整へたるのみ、而も比較的実行に容易なる政、法、文、商、高師の如き学科を設置したるに過ぎず、一個の大学組織として完備の域を去る未だ遠しと云はざる可からず。吾大学現下の組織は完備の域を去る甚だ遠しと雖も、而も徒らに学科の多きを貪り外観の美を衒ふは本来吾人の志にあらず。亦官立既に設備あり、重設の要なきものを模倣し踏襲するが如きも、吾人の採らざる所なり。要は教育上の需用に鑑み官立設備の足らざるを補ふを以て吾大学組織完成の方針と為さざるべからず。吾大学既往に於て既に此方針を採れり。将来に於ても亦此方針に拠りて進まんと欲す。
如上の方針に拠り、吾人が吾大学第二期計画として切に実行せんと欲するものは、理工科・医科の新設是れなり。蓋し理工科中純正理学に関する学科は官立諸大学に於て既に完全なる設備あり、社会の需用を充たすに足るを以て吾大学に置くの理工科は専ら応用的諸科たらざるを得ず。即ち機械、鉱業、電気、土木、建築、製造化学等の諸学科是れなり。就中機械・鉱業の二科の如きは時勢の必要上経営の順序として先づ手を下すべき歟。医科に於ても官立既に設備ありと雖も憾らくは現下の規模は未だ時勢の要求を充すに足らず。是れ吾大学に於て応用的理工科と共に此学科を経営せんと欲する所以なり。抑も学理の応用を主眼とする実用大学の建設は吾人当初の素願にして、実学研究の盛衰は国運の消長に関すること疑を容れず。而して近時就学の青年此種の学に志すもの年を追ふて益々増加するの趨向あるは国家の為め慶すべき現象にして、此際此等青年の志望を達せしめ将に勃興せんとする気運を助長するは教育上の設備に於て最も急務なるに拘らず、実際に於て官設諸校の規模と設備は此等青年の志望を満足せしむるに足らず。吾大学が此際此計画の実行に着手するは時勢の急に応じ国家に貢献する所以なりと信ず。然りと雖も理工科と医科とは従来私立学校が其経営を難んずる所にして、其機械的設備に多大の資金を要するが上に、普通教室、特殊教室、工場、病院等の建築を為すを要し、随て其敷地の如きも特に購入せざるべからず。且つ此等諸学科は経常の費用に於て収支相償はざる場合無きを保せざるを以て予め基金を備へて補塡の途を講ずるを要す。此等の経営豈容易なりとせんや。況んや早稲田大学従来の設備にして未だ完全せざるもの一にして足らず。例せば闔校の大衆を会する大講堂の建築の如き、運動場の設備を拡張するが如き、一は校風を維持し一は体育を奨励する上に於て極めて緊切の事に属すと雖も、過去に於ては皆与に経営を全ふするに至らず。而して今や進んで第二期計画に移り、更に校模を拡大するに当りては、此等未成の経営も其完成を図らざる可らず。第二期計画固より容易の業にあらざるなり。
吾人は於是大方有識の諸彦に訴ふ。庶幾は諸彦の深厚なる同情に依り、此等事業の完成を図らんことを。顧ふに吾早稲田大学は既往に於て毫も世間に向て誇耀するに足るものなしと雖も、国家直接の補助は厘毛も之を求めずして幾種の学校を其内に設立し、幾千の学生を其間に収容し、国家有用の材を出したる一事は、少くとも私立経営なるものの其性質上、冗費を省き経済的に事業を挙ぐるものなることを証明し得たりと信ず。且つ既設の事業を完成するは新規の経営を為すに比し難易同日の論にあらざるのみならず、効果を挙ぐるに於て遙かに的確なること多言を要せず。世間有識有力の士、希くは吾早稲田大学の過去に依りて其将来を推し、仮すに第二期計画を完成するの力を以てせられんことを。吾早稲田大学は固より私立の学校なりと雖も、決して私有の学校にあらず。吾人の期する所は一個財団法人として其組織を完成し、有力なる国家教育の一大機関として永く之を後世に伝へんとするに外ならず。大方諸彦にして幸に賛同助力を吝む無んば、其結果啻に早稲田大学の幸福のみにあらず、国家は長へに其の恵沢に浴するや必せり。 (同誌同号 二八―二九頁)
基金規定
一、早稲田大学の基金は寄附金を以て成る。
一、早稲田大学の歳計剰余金は維持員会の決議に依り、基金中に繰入ることを得。
一、基金を分つて経営基金及固定基金の二種と為す。
一、経営基金は校舎の建築、土地・器械・図書の購入等、経営に関する元資に充つるの目的を以て寄附せらるるものを謂ひ、固定基金は其利子を以て経営の費用に充て又は経常費・臨時費の不足を補充する目的を以て寄附せらるるものを謂ふ。
一、寄附金は寄附者の指定に依り、経営基金・固定基金の何れかに繰入る可く、特に指定無き場合は維持員会の決議に依りて之を定む。
一、寄附者は右の外特に其用途を指定して基金の寄附を為すことを得。
一、固定基金は如何なる場合と雖、其元資を使用することを得ず。
一、経営基金は維持員会及基金管理委員会の決議を経るに非ずんば使用するを得ず。固定基金の利子を使用する場合も亦之に同じ。
一、経営基金は特に経営に関する設備に使用するの外、経常・臨時の費用に流用するを得ず。
一、基金は総て基金管理委員に於て保管するものとす。
一、基金管理委員は維持員会の決議に依り、総長・学長、寄附者中より之を嘱托す。
一、基金管理委員の職制は別に定むる所に拠る。
一、基金寄附者の功徳は適当なる方法に拠り維持員会の決議を以て之を表彰す。
基金募集規定
一、早稲田大学は其第二期計画を実行する為め基金百五十万円を募集す。
一、早稲田大学の募集する金百五十万円の基金は専ら左の用途に供するものとす。
一、金三十万円 理工科新設費 一、金八万円 医科新設費 一、金十七万円 病院建築費
一、金十五万円 土地購入費 一、金二十万円 大講堂建築費 一、金六十万円 固定基金
一、基金寄附の期限は一時及び年賦の二種とす。
一、基金寄附者は別に定めたる基金規定に依り、基金の種類又は其用途を指定して寄附することを得。
一、基金寄附者は基金申込証に金額及び寄附方法を記し、署名捺印して申込を為すものとす。
一、基金寄附者は本校又は本校指定の銀行に宛払込むものとす。
一、基金の払込を受けたる時は、早稲田大学長及同基金管理委員長の連署したる受領証を寄附者に送付するものとす。
一、基金は基金管理委員会の決議を以て確実なる銀行に預入るものとす。 (同誌同号 三五―三六頁)
なお、基金募集の専務委員には前島密など十六名が、基金部長には市島謙吉が就任し、募金事業に着手せんとした。
その矢先、三万円の下賜金の朗報に続いてなお二つの「福音」が学苑に舞い込んだ。
玆に今一つ予期しなかつた福音が学園に下つた。といふのは鉱業界の重鎮竹内明太郎が、理工科の設置に甚深の同情を寄せ、其設備に多大の援助を与へようといふ申出をしたことである。……学園当局は喜んで之を受諾し、計画の遂行に邁進した。次ぎに第三の福音がまた当局を喜ばせた。それは実業界の重鎮渋沢栄一が学園の計画を賛同して、多額の寄附を快諾したのみならず、自ら基金管理委員長の任に就き、熱心に各方面に対して寄附の勧誘を試みたことである。
(『半世紀の早稲田』 二四二―二四三頁)
右の引用に見られる「福音」のうち、竹内明太郎の申し出については次章で説述するが、「第三の福音」の訪れについて、次にもう少し触れておこう。
渋沢栄一は、大隈について、大隈の歿後、
私と大隈さんとの関係は随分古く、丁度大隈さんが大蔵大輔で築地に居られた時分、私は新政府から召出されて大蔵省の租税正に任ずる旨の辞令を渡されたことがあつた。併し私は新政府に出仕する気持がなかつたので、大隈邸を訪れ辞退したのであるが、此時初めて大隈さんに御目にかかり、侯の快弁に説伏されて新政府に仕ふべく決意した……。大隈さんと私とは多少性格の異つた点、意見の相違した点もあつたが、此事あつてから親交は倍に深くなり、爾来五十年余り大隈さんの亡くなられた日まで、親密な間柄を持続して来たのである。 (『渋沢栄一自叙伝』 七九七―七九八頁)
と語っているが、大隈もまた渋沢について、
吾輩が大蔵省に渋沢君を説いて、御同様に国の為に力を尽さうといふことになつて以来四十二年である。……政府の官吏として、……渋沢君が職務の上に現はしたところの勉強と、精力と、其卓見と、殊に周密なる思慮とは、殆ど渋沢君と席を共にした人は今日でも忘れ能はぬところであらうと思ふ。……廃藩置県を行つて、総てのものを統一する時に当つては、……今の井上〔馨〕侯爵、それと渋沢男爵、此両氏の力に依つて始めて統一が出来たと思ふ。……而して其事漸く終を告げると、其時に政府の内部には種々云ふべからざる面倒が起つたのである。……井上侯爵、渋沢男爵などは、社会の怨府となつて、或は誤解、或は嫉妬、或は種々内部に錯綜したところの封建思想、保守的思想、又一方には進歩的思想が衝突して居るといふのであるから、そこで勢ひ大蔵は既に為すべきことはもう為したのであるから、是に於て余儀なく非上侯も退かなくてはならぬ勢であつたらうと思ふ。表面は吾輩と衝突してやめた。渋沢君も不平を唱へてやめた。……渋沢君あたりが、廃藩置県と共に国家の統一上の根本となるべき財政・経済・税制其他のものを統一されたといふことは、今日から見ればそれ程でないが如く思ふか知らんが、単に勉強するといふだけの能力があるといふばかりではいけないのである。一方には非常の胆力、非常なる勇気が要る。……本当の歴史が現れて来れば、渋沢先生の功績などは愈々光輝を放つことと信ずるのである。……
玆に男爵に向つて感謝の意を表するのは、私の早稲田の学校に対して、常に男爵の好意を以て御尽力下さることである。……早稲田大学の為には、始め創立の時にも非常に御尽力下すつて、更に今度第二の拡張に就いても進んで御尽力下すつて、巨額の寄附金を二度、資金のみならず、大学の為に間接に非常な御尽力を下されるといふことを……男爵に感謝致すのであります。
(『青淵百話』 一〇四〇―一〇四四頁、一〇四八頁)
と、明治四十三年の古稀祝賀式で頌辞を述べている。
市島は、
翁が無かつたら幾回の基金募集もうまく行かなかつたであらう。早稲田大学の盛大今日に至つたのは、翁の力に依ること決して少なくない。いつも募金の場合は、翁先づ自身の出金額を定めて、他の実業家に対して自身勧誘さるるから、何人も拒むことが出来なかつた。翁の遣り方はなかなかの奇抜で、有力者を招いた席では、いつも客の帰途を遮つて、そこに筆硯を置き、翁自ら客を抑へて、君はいくら出せと云うて、其の目前に寄附額を書かさるるのだから、否応なしである。
(『随筆早稲田』 一九二―一九三頁)
と、委員長としての渋沢の活躍ぶりを活写しているが、渋沢を委員長に戴く管理委員には、前島密(明治四十五年前島の退隠後は、蚕糸貿易界の第一人者、推選校友原富太郎がその後を襲った)・森村市左衛門・安田善三郎・村井吉兵衛・中野武営・大橋新太郎が列した。
渋沢が管理委員就任を受諾したのは、市島の手記『背水録』(本書二九八頁参照)によれば四十一年六月八日であった。森村市左衛門は高田の要請に対し、
生憎慶応義塾より同断の事申込みしを森村謝絶せしあとにて、直ちに早稲田に対し承諾するは先方へ対し義理立ず、但し義塾には財界に信用ある人物も具はり居る事なればとて辞したる儀に付、一応先方へわたりをつけたる上にて早稲田のため承諾すべしとの意を洩らしたるよし。
と『背水録』に記録されているが、同年十一月三十日の大隈の招宴には、欣然出席したのみならず、
渋沢と森村は別室に密議、両氏の決心を定め、衆散する後、渋沢はわれわれに語つて曰く、森村は既に一万円寄附しあれども、岩崎・三井の出かたに依りては更らに一万円の出金を辞せず、自身(渋沢)もそれに傚ふべし。何れにしても、岩崎を先づ伯より充分に説くべしと、流石に渋沢は温き同情を以つて、自ら決すべきは決して、前途の方略に深切なる注意を与へられたり。
(『背水録』)
との記載に見られるように、実業界に対する募金に渋沢とともに最も積極的な役割を演じ、後述する如く、四十四年五月には、大隈および渋沢に随伴して、関西財界への呼びかけを行っている。大正に入り、応用化学科が増設されたのは、森村の浄財に負うところがきわめて大きかったことは、次編第五章に後述する如くである。
安田善三郎は、初代善次郎の代人と見るべきである。初代善次郎は、「官府の遊金を引出して資本とし、広く世間を相手として利益を得んと欲した」(矢野文雄『安田善次郎伝』二一〇頁)のであり、明治七年、司法省の金銀取扱御用を命ぜられ、更に司法省為替方を仰せ付けられているが、十四年の政変の半年前、農商務省為替方を命ぜられた際に、安田を推したのは農商務卿河野敏鎌であったにしても、大隈が政府の最高実力者であったのであるから、善次郎が大隈を徳としていたことは推察に難くない。ところが、四十年頃からは、善次郎は「表面半隠居の姿」(同書五〇八頁)であったから、管理委員としては善三郎が名を列ねたわけであろう。後述(二八七頁)する如く、学苑への寄附金は善次郎名で行われている。
村井吉兵衛は、煙草が専売に移される以前に岩谷松平とともに煙草製造業の双璧として活躍し、巨富を蓄積し、一時は渋沢・森村と同額を学苑の基金に寄附することさえ考えたとは市島の記録するところである。四十三年五月、基金募集のため西下した大隈総長、夫人、ならびに高田学長は、村井が京都円山に建てた別荘長楽館に宿泊している。学苑の第十代総長村井資長は、日野西家から入ってこの村井家を襲いだのである。
中野武営は、権少書記官として農商務省に勤務中、河野敏鎌の知遇を受け、明治十四年の政変に際しては、大隈に殉じた河野とともに職を辞して、立憲改進党の創立に尽瘁したが、以後中央および地方の政界に活躍するとともに、渋沢の後継者として、明治三十八年東京商業会議所会頭に推され、実業界に重きをなした。学苑の第二期募金計画は、中野の会頭在任中に実施された。蘇峰は中野を、「俗中の俗なる実業界に住しつつも、一種出色の風格を持し」ていた(薄田貞敬『中野武営翁の七十年』五八四頁)と評したが、大正五年会頭を辞した後も、大正六年の「早稲田騒動」の際は、渋沢が、
病床に在る大隈侯から、事の始末を頼まれた私達は、之を温和に解決して、校名をも傷ける事なく、学生は安心して勉学出来るやうにしなければならないのであつた。時に、私は旅行前であつたので、之を簡単に厳格に処置しようとすると、中野氏は之を不可とし、私に旅行に出る事を勧め、私の留守の間に、充分問題の解決され得るやうなして置くと引受られた。旅行から帰つて見ると、事態は氏の言の如くなつて居たので、此問題は満足な解決を見る事が出来たのである。(同書五八三頁)
と言っているように、調停の大役を全うし、また明治四十五年以降大正七年物故するまで日清生命保険株式会社社長として活躍するなど、直接、間接、学苑に貢献すること著大であった。
また大橋新太郎は、父佐平とともに博文館を創立し、出版界ならびに政界に活躍したが、これより先明治四十年、創業二十周年に際しては、学苑図書館に金一千円の寄附を行っている。大隈はこの祝賀会において、
先刻新太郎君から、早稲田の学校の校友が、六十有余人も博文館に筆を執たといふ御話であるが、……全体学生が学校を出て、筆を以て働くと云ふことは随分困難である。それにも拘らず早稲田の学生を多数博文館に用ひて下すつたと云ふことは深く謝するのである。
それから今一とつは早稲田の出版物の大部分は博文館に依て売弘めて下すつた。早稲田で之を売らうとしても容易に売れない。然るに博文館に依て早稲田の出版物、講義録の如きものを売弘めて下されたことは実に夥しいものである。是また私は深く博文館に謝するのである。 (坪谷善四郎『大橋佐平翁伝』 二一六―二一七頁)
と演説しているが、大橋が市島と同郷の関係から学苑に親近感を持ったばかりでなく、
本館創業の始め、未だ同大学の前身東京専門学校在学中の坪谷善四郎を、明治二十一年一月から入館せしめ、尋で同年六月坪谷の卒業と同時に、同窓の学友宮川銕次郎、須永金三郎、匹田鋭吉、園田(後に改姓栗山)賚四郎氏等が一斉に入館し、続いて翌年には、同校出身の中山(後に改姓早速)整爾、永島富三郎、真島武市、松井従郎、伴山三郎、阪斉道一の諸氏が前後して入館した。
過去五十年の間に、本館編輯部及営業部を通じて早稲田大学出身者は一々屈指に堪えぬが、中にも編輯の要部に列する者は、常に早稲田出身が多数を占めた。例へば坪谷善四郎、長谷川誠也、鳥谷部春汀、森下岩太郎、前田晁、白石実三、中山太郎、加能作次郎、西村真次、押川春浪、河岡潮風、鈴木徳太郎、浜田徳太郎、長谷川浩三、生田蝶介、岡村千秋、宮田脩、定金右源二の諸氏が皆な其れである。 (『博文館五十年史』 二九三頁、二九四頁)
と社史に述べられているように、博文館の名声を高める上に、学苑校友の寄与するところは顕著であり、右のほかにも、既述の如く、明治四十二年以降十年に亘り浮田和民が『太陽』主筆として健筆を揮い、また『少年世界』の主筆巌谷季雄(小波)が学苑に十年に近くドイツ文学を講ずるなど、学苑と博文館との間には、大隈の言うところの「相互の利益」甚大であったのが認められるのである。
募金計画が樹つと、先ず第一に校友大会でこれをアピールすることから始まった。すなわち四十一年七月六日午後三時から芝公園内の紅葉館で例規校友会が開かれ、報告議事や高田学長の演説があって後、例の如く大隈が立って熱弁を振った。この時の演説はユーモアに満ち、校友に耳を大いに傾けさせた。今それを摘記すると次の通りである。
今日は私の最も親しい友達の会だから内所で御話する。甚だ困つたから先づ御相談をする。それはどう云ふことであるかと云ふと、今高田先生の御話の通りに基金募集の御相談である。度々基金募集の御相談をするやうだが、今日も其事に就いて御相談したいので、人間の知恵と云ふものは或点に於ては限りないものであるが、金と云ふものは案外ないもので、講壇に登ると素晴しい大議論をする人もどうかすると経済の問題になると六ケ敷い。……所が吾々の希望が既に陛下の御耳に達して御沙汰書を賜はつた。御沙汰書を賜はつた以上最早躊躇することが出来ぬ。凡そ物事は機会を見ると云ふことが必要で、機の乗ずべきものがあれば迅雷耳を蔽ふに遑あらずと云ふ勢を以て当ると事が成功する。……二ケ月前に有難い御沙汰書を頂戴した。而して此第二期拡張の基金として大金を賜つた。斯うなつては最早躊躇が出来ないのである。どう云ふ訳であるか、近来は随分大きな数字を並べて何億何十億と云ふことを言ふ。声丈けは余程大きい、余程気持が好い、腹も大きくなつたやうだが、其声と事実は添はぬやうである。そこで甚だ困つたのである。諸君に有体に白状するが、甚だ困つた。此度の第二期拡張の計画は殆ど吾々の運命の岐るる所である。如何に勇者でも斯の如き困難に出遭つては頗る躊躇する。甚だ困難な地位に立つて居る。併ながら兎に角数の上から云へば早稲田大学に在る者、及校友、其他親しい仲間を数へ挙げたならば恐らく数万の数に届くであらうと思ふのである。或は数十万に上るかも知れんのである。近来妙な勘定が起つて或る名高い経済家連が、今日財政の困難を救ふには毎日取つた金の中から一銭二銭宛積んで往つたら今の国債を償却することが出来る、爾のみならず国家の上に十分の蓄積が出来ると云ふ算当がある。是はどうも昔から能く言ふが実際行れぬ。ここが御相談で、先づ殆ど五、六千の校友、それに早稲田の学園に学びつつあるものが七、八千、それを合すると一万二、三千人ある。是が一人五年間に百円出すとすると、一年間に二十円になる。さうすると百五十万円は集ると云ふが今の経済家の算当で、誠に無雑作に往けさうである。それからそれぞれ其縁故のある親しい人、殊に此度の早稲田の拡張のことに同情を表する人が各方面に余程あるだらうと思ふ。そう云ふ人に向つて募集員なり校友会諸君なりが話されたならば総てで何十万と云ふ数を得る。さうすると一年に二十円のものが十円でも五円でも済む。若し一人が百円宛出せば百五十万の募集に向つて三百万円も五百万円も集るかも知れん。多々益々弁ずる。決して御辞退は申さぬ。今日は不景気であるが、さう何時迄も不景気が続くものでない。早速此不景気は回復するに相違ない。又回復せずに今日の不景気が段々進んで往つたら大変である。大変であるから、多分政治上にも低気圧が来たし、経済上にも低気圧が起つたが、低気圧が起れば大風が来る。大風の後には晴天が来る。必ず他日世の中が商売繁昌するに相違ないと信ずる。五年の中には屹度回復する時が来る。是は請合つて宜いと思ふ。今日は苦しいけれども先は宜しい。始め勢が宜くて後に勢が悪かつたから大変、学校も始めは随分苦んだが段々良くなつた如く、基金募集も段々宜くなつた。当年の卒業生は七百七十七名、妙な数がある。善いか悪いか分らぬが何だか宜いやうに思ふ。夥しい数である。若し此数を以て五年間往けばどう云ふ算当になるかと云ふと四千何百と云ふものになる、其時には今の八千の学校に学びつつあるものは一万になる。さうするとどうなるかと云ふと、或は始めの百円と云ふ数を以て往けば既に予期した百五十万円以上は容易く出来る、斯う思ふのである。是は数の上から平均した算当である。どうかそれをやつて貰いたい。どうか御相談をして吾々力を尽して往つたならば一方には一人で十円出しても一方では一人で千円も出すと云ふ訳だから、平均して見ると百円には往くだらうと思ふ。況んや恩賜金が三万円ある。其他或は一人で一万、どうかすると数万、或は十万以上出す人が出来るか知らんと思ふのである。さう出すことの出来る人が少なくないと思ふ。如何となれば、一個人でも教育の為に五千万、或は数百万円を投じて学校を造る今日の世の中であるからである。中々新に一の学校を起すのは容易でない。早稲田は既に二十有六年の経験と種々の便宜を持つて居る。さうして見れば金は少なくとも国家に利益を与ふることは余程大なるものであると思ふ。そこで随分公共の為め、共同の利益を計る為、将来を慮つて金を投ずる人は漸次増しつつあると思ふ。是から御互御相談をして、大に遊説して社会の同情を呼び起し、募集することに努めたら出来ないことはないと思ふ。
(『早稲田学報』明治四十一年八月発行第一六二号 三一―三三頁)
こうして諸種の準備が整ったので、いよいよ地方に勧進することになり、遊説旅行が始まった。
この地方遊説は学苑の総力を挙げて行われた。大隈総長、高田学長、市島図書館長、田中幹事ら学苑の幹部は言うに及ばず、天野、有賀、浮田、吉田らの諸講師がこれに加わり、巡回講演を兼ねて地方校友会に出席して、学苑の実状を説き、第二期計画に対する援助を乞うたが、大学経営の現状と、日本の教育界に果す大学の役割を理解させるのも、巡回講演の大きな目的の一つであった。
その第一声は、七月十八日、長岡市常盤楼に開かれた新潟県早稲田大学校友大会の席上であげられた。高田早苗、市島謙吉、吉田東伍に加えて校友羽田智証がこれに臨んだが、大会席上、第二期拡張に伴う資金募集には校友こぞって尽力することを決議した。また高田、市島は、懇親会の席上で更に詳細な説明を繰り返し、第一期基金募集も新潟から始めて好結果を得た前例もあり、このたびもまた新潟から始めることを宣して校友の協力を依頼した。
これを皮切りとした新潟方面の巡回講演会は、同時にまた第二期計画における地方遊説の第一歩でもあった。彼らが校友との応接に、講演会に、遊説に、いかに多大の努力を払いまた寸暇を惜しんで当ったか、十九日以後の活動については左にこれを表示してみよう。
(『早稲田学報』第一六二号 三五―三六頁、同誌第一六三号 四三―四八頁による)
この遊説と殆ど同時に、同年七月二十一日には、大隈信常、有賀長雄らが福島・山形方面に向っている。この東北巡遊も概ね右の表に示されたと同様に繁忙なスケジュールを消化して、多大の成果を収めて帰京している。次いで九月六日には、静岡・愛知・三重・岐阜四県連合早稲田大学校友会が浜名湖畔館山寺で開かれ、高田、市島らが出席し、その席上、先ず静岡全県を数区分し、漸次講演会を開催することを決議して、十月十五日からその第一回を伊豆半島の各地で行うことになった。伊豆半島巡回講演には、本校よりの特派員、『報知新聞』記者江森泰吉、別に主唱者代議士森田勇次郎、応援のための代議士大津淳一郎がこれに加わり、第二期発展の計画、大学拡張の精神など、江森、森田らの校友が大学の現状を訴えて援助の要請に活躍しているが、十月十五日から二十三日に及び、盛り上がる校友の意気込みを示す好例である。尤も、これは伊豆のみに止まらず、各地において開かれた校友会の第二期計画協力決議に窺われるのであり、実に第二期計画実現への道程は、二九八頁に後述する如く、市島がその経過を記録するに『背水録』と簽したことに徴される如く、学苑当局者と校友がまさに「背水」の覚悟を支えとして相呼応、一丸となって立ち向った心血奮闘の足跡であった。そこで次に、前記各地を含む募集委員の活動の主要なものを一括してその足跡を一覧してみよう。なお、大隈総長自身が出馬したものについては次節に詳記するので、ここには省略に付してある。
(『創立三十年紀念早稲田大学創業録』 九六―一〇一頁)
さて市島基金部長は、
基金募集の事業は、五ケ年を劃して一段落を告ぐるの予定なりしも、先帝陛下崩御のことありしが為め、創立三十年紀念祝典を一ケ年延期し、其の結果、募集事業も亦た一ケ年延長し、前後六ケ年間に募集し得たるもの、応募者総数二千六百八十名、応募総額金九十二万四千三百六十五円七十九銭に達したり。而して其の募集区域は、高知の一県を除けば、殆んど国内全土を蔽ひ、尚ほ支那其の他の外国にも及べり。 (同書 一〇二頁)
とその成果を誇っているが、予定した百五十万円には達しなかったものの、一私学の力を以て少くとも理工科一科ならばその設立を賄い得るだけの寄附金を集めたことは、校友をはじめ天下の名士の多大な援助の賜であったのを忘れてはならない。皇室よりの御下賜金三万円、各皇族殿下よりの一千円をはじめとし、その他華族にあっては、侯爵鍋島直大の二万円、伯爵松平頼寿の五千円、伯爵松平厚の三千円、侯爵徳川頼倫の二千五百円等、実業家にあっては、三井家総代・男爵三井八郎右衛門の五万円、渋沢栄一、森村市左衛門、原富太郎の各二万円、村井吉兵衛の一万二千円、安田善次郎、藤田伝三郎、大橋新太郎、根津嘉一郎、大倉喜八郎、古河虎之助、茂木惣兵衛の各一万円、それに加えて、外国方面、殊に清国の親王・要路顕官から寄せられた三万元など、多くの善意の積み重ねがこうした基金の集計となって現れたのである。
さて、大隈が学苑の首脳として巡遊を行ったのは、形式的には、明治四十年四月十七日早稲田大学総長に就任した以後のことである。尤も実質的には、四十年四月十四日高崎市岡源楼における校友大会に出席して所信を披瀝したのは、彼が総長受諾後、第二期計画を遂行するために行った校友への了解運動の最初のものであった。同行の高田学長は大隈を総長に推戴した理由を述べ、学苑が最近着手すべき計画の大要を説明した。午餐後高盛座の講演会に臨み、大隈は国際貿易に関する演説を行い、高田もまた戦後の教育について講演をした。越えて四十年五月には夫人同伴の上、静岡・名古屋地方に巡遊の旅に上った。この時の付添は高田学長・市島理事・伊藤副幹事・東儀主事以下およそ二十名で、五月七日新橋を発って静岡に向った。零時十七分静岡駅着ひと先ず旅館大東館に入り、午後二時物産陳列場の講演会場に赴き、高田学長の「教育方針について」の演説の後、大隈は立って「我国経済界の前途」について大演説を行い、その夜浮月楼における校友会、更に引続いて開かれた郡市有志連合の歓迎会にも出席した。
翌八日午後三時三十一分名古屋駅着、直ちに馬車で栄町の千秋楼に至り投宿した。次いで九日は深野知事・加藤市長の要請で各学校を巡視し、県立第一中学校で「青年学生について」、県立第一師範で「教育勅語に関して」、市立商業学校で「商業学について」それぞれ講演をした後、知事・市長・商業会議所会頭の発起に係わる招待会に臨み、午後一時よりは愛知・三重・岐阜・静岡の四県連合校友会主催の県会議事堂における講演会に出席した。高田学長の戦後教育の方針に関する講演に続き、総長は世界経済の現況と名古屋の地位について演説した。午後七時からは連合校友大会が催され、大隈の挨拶、高田の報告、市島の大隈銅像建設についての寄附の要請が行われた。
さて政界から身を退いた大隈が、大学発展のため、国民教育発展のための情熱を以て、地方巡遊を行ったことは特筆に値するが、第二期拡張の構想を打ち出した早稲田大学に対する総長としての大隈の並々ならぬ意欲の噴湧が、地方遊説という形で現示されたと言っても過言ではない。
この年の十月、早稲田大学創立二十五周年式典を機として、関西・九州在住の校友が大阪で大校友会を開催することとなった。大隈総長はこれに出席し、銅像建立に対する協力を謝するとともに、「早稲田学園は社会的若くは世界的機関として生命あり、理想あり、今後時勢の要求に応じて工科・農科・理科・医科、又は宗教科・新聞科を完成して知識の淵源、技能の淵源となり、遂に世界平和の淵源は早稲田に在りと云ふ程度まで進まざる可らず」(『早稲田学報』明治四十年十一月発行第一五三号九三頁)と、将来に対する遠大な抱負を披瀝し、胸中に画いた構想を語っている。
この後また明治四十三年五月一日―十四日にも、名古屋で連合共進会が開催され、全国校友大会が開かれるのを機として、東海・関西に向けて大きな巡遊を大隈は行ったのであった。これまでに大隈は『開国五十年史』『国民読本』を完成し、『開国五十年史』は漢訳や英訳も刊行された。この遊説は、勿論、第二期拡張のための基金募集の説明が主要な目的であったが、『国民読本』の著者大隈が、これを広く地方の篤学者に披露し、その意見を述べるためでもあった。高田学長、浮田・有賀両博士、市島理事および田中幹事は途中から参加し、最初から行を共にした者は三枝守富、増田義一、桜井彦一郎、青地雄太郎、酒井医学士、森・松村の両報知新聞記者などであった。
この関西行は関西の人士をいたく熱狂せしめた。『早稲田学報』第一八四号(明治四十三年六月発行)はこの時の様子を、「総長の今回の巡遊の如く官民・貴賤の別なく熱烈なる仰望の意を以て迎へられたる事は未だ嘗つて見ざるところ、さればわが総長も旅行中風邪に冒されたるに拘らず、疲労も厭はず、喜んであらゆる会合に臨んで講演をなし、あらゆる人々に接して語られたり」(一四頁)と記している。
学校経営と国民教育とは、政党活動とともに、大隈の生涯における大きな柱であった。その両者の実践のための意欲的巡遊の最初のものがこの東海・関西行であったのであるから、次にその詳細な旅程を表にまとめて掲げることにしよう。なお、途中からこの行に加わった高田は、高野山出発と同時に大隈と袂を分ち、京阪神のほか伊勢・桑名にまで足を延ばし、大隈総長の名代として伊勢神宮の内・外宮に参拝し、『国民読本』を献じている。
(『早稲田学報』第一八四号 四―一四頁による)
また大隈は四十三年十月十七日前橋に開かれた上毛校友会に出席し、懐旧談とともに私立大学としての早稲田大学の位置について論じている。この時市島理事も校外教育について述べ、本学苑が本邦嚆矢の校外教育を試みた効果を説き、大いに宣伝に努めた。次いで四十四年四月十六・十七日には宇都宮に至り、第一日は議事堂で国民教育について、また宮桝座で東西文明の調和について講演し、更に第二日は宇都宮女学校で新時代の女子教育について語った後、校友会で挨拶した(同誌明治四十四年五月発行第一九五号九―一一頁)。この行は、短時間の旅ながら、大隈の地方人士に与えた感動はおびただしかった。この訪問によって、早稲田大学に対する同情は大いに喚起され、その結果は翌月の田中幹事の下野巡回となり、第二期拡張に対する栃木県下の関心はいやが上にも昂まったのであった。
また同年五月今度は第二期計画基金募集を主目的として大隈は西下した。行を共にした者は、基金管理委員長渋沢栄一および同委員森村市左衛門で、十四日午前八時三十分新橋発同夜大阪着、その夜は旅館花屋に投宿した。大阪を皮切りに、大隈は岡山・京都と例に洩れず忙しいスケジュールを消化して、二十三日に帰京した。渋沢や森村のような学苑外の財界の巨頭が大隈とその行を共にし募金の事に当ったのは、この挙に寄せる熱意と関心の程がいかに大きかったかを示すに足るものであろう。
さてこの後大隈が行った地方巡遊は、四十四年十月の仙台・福島方面、四十五年五月から六月にかけての大阪・山陰方面がその大きなものである。前者は、四十四年十月七日未明上野を発して、仙台・福島を回って十二日帰京している。同行者は綾子夫人、高田学長、三枝守富、田中幹事、内ヶ崎教授、桑田主事、伯爵編集局の桜井鷗村、報知新聞社の佐藤天風、新日本社の樋口竜峡、内ヶ崎騰次郎、『冒険世界』の河岡潮風、それに平和協会の渡瀬農学士らであった。仙台においては県会議事堂における講演会、伊達家訪問などを行い、また大日本平和協会本県支部の発会式に臨んだ。松島に遊び、外人団の招待を受け、東北学院における講演会に出席、また宮城県校友会に臨んだ。福島に転じて、福島県校友会をはじめ、中学校・公会堂・師範学校講演会、それに物産陳列館開館式など、県下多数の人士に触れ、或いは校友に母校の現状報告を行い、基金の援助を乞うなど、実り多き旅であった。
次に四十五年五月二十九日新橋を発った大隈の山陰行きは、山陰鉄道全通式を機に、鳥取県米子町に開催の全国特産品博覧会に名誉総裁として褒賞授与式に臨み、鳥取市に開催された全国教育大会、および大阪・松江・鳥取等の連隊と軍人後援会、在郷軍人会の招聘に応じ、あわせて出雲大社に参拝するという多くの目的を持つものであった。六月七日の鳥取中学校の講演会を最終に帰京の途についたのであるが、往復十一日の日程において、演説の回数実に三十四回、聴衆その他大隈に面接した人員約五万人と『早稲田学報』の記事は報じている。この行を共にしたのは、綾子夫人をはじめとし、天野・久米の二博士、田中幹事、軍人後援会より松原大佐、在郷軍人会より玉井大佐、青年講習録より桜井主幹、報知新聞社より大森法学士、新日本社より山崎記者、等々であった。
その他、大隈は川越、茨城(稲敷郡生板村)、銚子、横須賀、熊谷、長野などにも講演旅行を行っているが、何れも一日或いは二日の短いものであり、ここには一々について詳述することを省略する。
大隈、高田ら首脳陣による募金のための巡回講演が各地で繰り拡げられつつあった一方、学苑キャンパスでは、理工科関係その他の校舎を建設する槌音が鳴り響いていた。大正二年六月一日、創立三十周年記念式典に先立ち、主要寄附者を招待して理工科設備完成披露式が行われたが、この年までに竣成した建築物は左の如くであった(延建坪数は『創立三十年紀念早稲田大学創業録』巻頭図による)。
高等予科教室(明治四十二年七月竣成) 木造三階建、三三六坪七合五勺
主として理工科高等予科の教室・製図室等に充てる。
機械工学科実習工場(明治四十二年七月竣成) 木造二階建、一五〇坪
一階を仕上工場、二階を木型工場とする。
機械工学科仮鋳物工場(明治四十二年十一月竣成) 木造平屋建、一八坪
鉄鋳物・真鍮鋳物実習用に充てる。
機械工学科・電気工学科実験室・汽罐室(明治四十三年九月竣成、明治四十五年六月増築) 煉瓦造平屋建、二五〇坪
原動機実験室・材力試験室・精密器具実験室・電動機実験室等を備える。
恩賜記念館(明治四十四年五月竣成) 煉瓦造三階建、三二三坪六合三勺二
製図教室(明治四十四年十一月竣成) 木造三階建(一部煉瓦造地下室付)、九四四坪五合三勺
各学科製図室・建築学科標本室・同実習室・採鉱学科標本室・電気工学科実験室等に充てる。
採鉱学科実験室(明治四十四年十一月竣成、大正二年十月増築) 煉瓦造平屋建、一三五坪五合
選鉱実験室・試金術実習室・分析室等を備える。
蓄電池室(明治四十五年頃竣成) 八坪七合五勺
構内の電燈全部に点灯するための設備。
以上の他に、学生控所(五四坪五合)や学生脱衣所および洗面所(一六坪)や物置(一二坪五合)が構内に新築された。これら新しい建築物の配置を図示したのが第二図である。
A 高等予科教室
B 採鉱学科実験室
C 恩賜記念館
D 製図教室
E 機械工学科・電気工学科実験室・汽罐室
F 機械工学科実習工場
G 学生控所
H 蓄電池室
I 学生脱衣所・洗面所
J 機械工学科仮鋳物工場
K 物置
なお、鎖線より西側の地域が拡張された校地である
ところで、学苑は創立以来二十年以上に亘って猫額の校地も所有せず、大隈家から借りた六千八百七十六坪の土地に校舎を建設したり、福田らと賃借契約を結んだ土地五千四百一坪を運動場に充てたりして凌いできたのであったが、二五七頁にも触れた如く、四十年十月の二十五周年祝典に際して大隈から学苑敷地全部の寄贈を受け、ここに初めて自らの所有地を持つことになった。土地資産の所有は社団法人から財団法人への改組に欠くべからざる一条件であり、大隈が「学校は永久的のものである」と述べたのはこの意味に他ならない。そして翌四十一年二月には穴八幡下の土地四千九十六坪を控地として購入したが、これこそ学苑が自らの資金で入手した最初の土地であった。それでもなお、校舎の建設が進捗するにつれて敷地は狭隘になり、隣接する大隈所有地一千九百五十二坪を更に購入し、借地を別にして、合計一万三千坪に垂んとする敷地を所有するに至った。
他方、当局の頭を悩ませてきた問題に運動場用地がある。福田らから借りた土地を運動場に充てているとはいえ、これは一時の弥縫策に他ならないと痛感した当局は、四十三年九月、北豊島郡巣鴨村池袋に一万五百九十五坪の土地を買い求めた。しかし、池袋停車場に近いこの土地は学苑キャンパスから遠隔にあり不便きわまりないので、福田らと交渉を重ね、遂に四十四年十一月、キャンパス後方にあるその土地を購入し、池袋の土地は大正二年二月に転売することとなった。『創立三十年紀念早稲田大学創業録』は、「当初尺寸の土地を有せざりし本大学は、大方同情の賜として、不十分ながら敷地、運動場、及び控地を有することとなれる也」(二一四頁)と記している。