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第四編 早稲田大学開校

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第十五章 恩賜記念館・図書館・寄宿舎

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一 恩賜記念館の建立

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 既述の如く、創立後四半世紀の経緯を経て理工科を再建し、医科を新設するという学苑の第二期拡張計画の報が皇室に聞えて、四十一年五月五日、金三万円が下賜されることになった。折から大隈総長は微恙のため参内できなかったので、高田学長が代って宮内大臣田中光顕伯より御沙汰書および金一封を受領して帰校し、大隈は翌日参内して御礼を申し上げた。私立大学としてかかる恩遇を受けたのは、我が学苑が最初であり、大いに名誉とするところであった。先に同学の慶応が金五万円を受けたことがあったが、これは福沢諭吉の長年に亘る教育の功労に対するもので、福沢が受爵を拝辞したため、これに代るものとして金品を下賜され、福沢がそれを慶応義塾に寄附したのであった。すなわち慶応が直接下賜の光栄に浴したのではなかった。これに引換え我が学苑の場合は、早稲田大学総長大隈重信に授与されたもので、すなわち大学が直接受けたことになり、慶応の場合といささかその趣を異にする。従って同月十六日特に感謝式を挙行した席上、式辞を述べた高田学長も大隈総長も等しくこれに言及し、特に大隈は、

御沙汰書は謹んで拝読すると二段に分つて居る。一は既往のことである。既往に於ける早稲田大学の成績が国家に貢献したと畏れながら思召された御沙汰である。而して末項に於てどう云ふことがあるかと云ふと、之れは将来のことである。早稲田大学の拡張に就いて、其学科を新設するに就いて、思召を以て其資本に金円を賜はると云ふのである。即ち既往の教員諸君の辛苦経営された事を思召されたのと同時に、将来の発展に向つて厚き思召で資金を賜はると云ふ其御沙汰書其思召は、我々は実に感泣措く能はざるところであります。 (『早稲田学報』明治四十一年六月発行第一六〇号 二三頁)

と述べている。

 そこで学苑ではこれを記念するため、理工科教室を主とする恩賜記念館の建築を起すことになった。様式は付近校舎の建築と調和させるため、英国風後期ゴシック式を取り入れた。この設計に当った曾禰達蔵や中条精一郎は、記念館という以上はステンドグラス等装飾的なものを配置すべきであると考えたが、結局簡素・質実を旨とせざるを得なかった。この外、建築様式の特長と言えば、純粋なゴシック式のように建物表面に多くの彫刻を用いることなく、壁面はきわめて無雑作にし、寧ろ雄大な意匠に富み、またその単調を破らんがため所々に黒白の市松模様を施したことなどが挙げられよう。また「二階に於ける階段教室の内容を遠慮なく其外壁に表はしたる、一段又一段より高き窓」(同誌明治四十四年五月発行第一九五号二頁)を設けたり、三階壁面に出窓を設けて変化を持たせたりした手法に、捨て難いところがある。ただし、室内の装飾は至って簡素を旨としたが、ただ記念室だけは恩賜を記念するために特に意を用い、本建築中壮厳なる造りとした。

 今部屋の配置を見るに、総三階煉瓦建延三百十有余坪(同誌同号二頁)の中、一階は玄関と階段室と講師室と第一・第二実験室、二階は貴賓室(記念室)と暗室装置を有する階段教室(大正七年増築後は陳列室となり、階段教室は一階増築分に移された)と研究室、三階は会議室と研究室から成り、四十三年六月工を起してより約一年、建築費四万七千五百円余、設備費一万五千九百円余、計六万三千四百円余を費して、翌四十四年五月竣工した。館の玄関正面の左側壁間にはこの建築の由来を刻んだ石を篏入したが、その銘文は坪内逍遙の撰になり、次のようなものである。

明治四十一年五月、聖旨ヲ以テ特ニ金三万円ヲ本校ニ下賜セラル。多年学術ヲ振作シ、人才ヲ造就セルヲ嘉賞シタマヘル也。コレヨリ本校ノ事功洽ク世ノ認知スル所トナリヌ。理工科ノ創始、大学組織ノ整備ノ如キ、要スルニ聖恩ノ余沢タリ。仍リテ之ヲ永遠ニ紀センガ為メニ、四十三年六月二十五日本館ノ工ヲ起シ、四十四年五月十二日ニ至リテ竣成ス。建坪百十一坪余、煉瓦屋三層ニシテ、室二十アリ。之ヲ政法文商師範各科ノ研究室、理工科物理学実験室、貴賓室、会議室等ニ配シ、館ヲ恩賜紀念館ト名ヅク。 (同誌明治四十五年三月発行第二〇五号 二頁)

二 図書館

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 明治十七年に発足した学生有志による以文会が同攻会と改名し、これが学苑図書館の中核へと発展した過程は、第一巻第二編第十五章および第三編第十三章に説述したところである。

 さて、明治三十五年、東京専門学校が早稲田大学に組織を変更する際に、十月、新築の図書館が竣工した。起工は同年の四月であった。およそ二万九千円の醵金捐資によるこの図書館は、書庫と閲覧室の二部から成り、そのおのおのの部分については『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』に次のように記されている。

書庫は煉瓦造の三層楼にして、其建築は十三世紀頃のフレンチ・ゴジック・スタイルに則とり、其装飾を去りて専ら堅牢を旨とせり。面積五十四坪、地盤より蛇腹までの高さは三丈三尺なり。中央に厚き防火壁を設けて、各層を二室に分ち、通行口には各防火扉の設あり、上下合して六室とす。書庫に依属して、閲覧室に往来する廊下(閣道)を挾み、煉瓦造の平家建あり(面積十三坪八合)、左右の二室、一を館長室他を事務室に充て、廊下及び窓には防火の設備あり。書架は高さ七尺、奥行八寸(長さは七尺五寸、六尺五寸、五尺の三種あり)にして、六段階に分てる栓製新式のもの各室四十座、合して二百四十座を排置し得べく(現に百三十八座を備ふ)、蔵書は和漢書を合して優に二十一万巻を容るるに足る。上下の各室に梯子段ありて、所在の昇降に便し、別に三層を串通せる書籍昇降器二個所にありて、書籍の運搬に便せり。閲覧室は木造二階建にして、地盤より軒桁までの高さ三丈二尺五寸、面積百二十五坪あり、渡り廊下によりて書庫に通じ、又梯子段二個所にありて、楼上への昇降に便せり。梯子段の東方(即ち書庫に対する方)に接して、二十人乃至三十人の閲覧者を容るべき小室各二、上下合して四室ありて、其二を特別閲覧室に充て、其一を研究室、其一を標本室とす。広間は其中央に出納壇あり、壇の左右に新聞、雑誌、閲覧席、及び図書目録の陳列席あり。凡そ閲覧室の机は……六種にして、総数百四個、優に四百五十人の閲覧者を容るるに足るべし。室内は総てカアペットを敷きて、足音を防遏するの注意をも為せり。 (二二四―二二五頁)

 この新館が成ると市島謙吉が専任館長になり、「新購図書の選定其他図書に関する重要の件を評決せしむる」ために新設された商議員には、中村進午志田鉀太郎、鈴木喜三郎、有賀長雄塩沢昌貞天野為之浮田和民坪内雄蔵、藤井健治郎、岡田正美、吉田東伍、菊池三九郎、村上専精、波多野精一の十四名が任命された。

 これを機に同攻会は、積年収蔵の図書および資金の全額を、挙げて大学図書館に寄附することに決し、その結果授受された書籍は二千百五十五部・四千百二十三冊、資金剰余は二百一円五十六銭六厘に上った。ここにおいて同攻会は事実上解散したこととなった。

 図書館が成るに及んで、新たな規則が制定された。これに若干の修正を加えて翌三十六年発表したのが、左に掲げる規則である。

図書館規則

第一条 早稲田大学附属図書館ハ早稲田大学ノ図書ヲ収蔵スル所トス。

第一節 館ノ開閉

第二条 本館ハ休日ヲ除クノ外左ノ時限ヲ以テ開閉ス。

開館 午前八時 閉館 午後八時

但シ、毎土曜日ハ午後四時閉館ノ事。

第三条 本館定期ノ休日左ノ如シ。

歳首(自一月一日至同十日) 大祭日 日曜日 冬・夏定期休日

但シ、臨時ノ休館ハ其時々掲示スベシ。

第二節 閲覧人

第四条 本館収蔵ノ図書ハ、本校講師・職員・校友・学生・校外生ノ閲覧ニ供スル傍、広ク公衆ニ閲覧ヲ許ス。

第五条 本館ノ図書ヲ閲覧セントスル者ハ必ズ閲覧票ノ交附ヲ受クベシ。

第六条 閲覧票ノ有効期限ハ満一ケ年トス。

但シ、公衆閲覧票ハ一日ヲ限ル事。

第七条 学生ニシテ半途退学スル時ハ、必ズ閲覧票ヲ返納スベシ。閲覧者資格ヲ喪失セシトキ亦同ジ。

第八条 閲覧票ヲ紛失シタル者ハ、速ニ届出、新票ノ交附ヲ請フベシ。

但シ、紛失届ヲナサザル間ハ、之ニ関スル責任ハ依然本人ニ帰スベキモノトス。

第九条 閲覧票ヲ分ツテ特別・普通・公衆ノ三種トス。

第十条 左ノ諸項ニ該当スル者ニハ特別閲覧票ヲ交附ス。

一、講師 二、評議員 三、校友 四、早稲田中学教員 五、図書若クハ基本金寄附者ニシテ本校ニ於テ特ニ優待ノ意ヲ表スベシト評決シタル者 六、研究科生 七、学監ヨリ特ニ允許ヲ与ヘタル者

第十一条 左ノ諸項ニ該当スル者ニハ普通閲覧票ヲ交附ス。

一、学生 二、校外生 三、学監若シクハ図書館長ヨリ特ニ允許ヲ与ヘタル者

但シ、普通閲覧者ハ、閲覧費トシテ一ケ年金一円十銭ヲ納付スベシ。

第十二条 公衆閲覧票ハ、公衆閲覧者ニ対シ若干ノ手数料ヲ徴シテ毎回之ヲ交附ス。

第十三条 特別閲覧者ハ、書庫内ニ入リ図書ノ撿索ヲ為ス事ヲ得。

但シ、貴重図書ノ撿索ハ、館長ノ認可ヲ得、館員立会ノ上ニ非ザレバ之ヲ許サズ。

第十四条 特別閲覧者ノ為メニ特別閲覧室ヲ設ク。

第十五条 図書ヲ借覧セントスル者ハ、閲覧票ヲ係員ニ示シ、定式ノ閲覧証ニ書名・番号・姓名等ヲ詳記シ、出納壇ニ出シテ書冊ヲ借受スベシ。

但シ、撿索ノ特許ヲ有スル者ト雖モ、本条ノ手続ヲ経ルニ非レバ借覧ヲ許サズ。

第十六条 閲覧者ノ一時ニ借覧シ得ベキ図書数ハ左ノ如シ。

一、公衆閲覧者 二種十冊以内 二、普通閲覧者 三種十五冊以内 三、特別閲覧者 四種二十冊以内

第三節 館外貸出

第十七条 本校講師並ニ評議員ハ、図書ヲ借用シ、館外ニ帯出スルコトヲ得。

第十八条 講師用参考書ノ館外貸出期限ハ、当該学科授業期間中トシ、其他ノ館外貸出期限ハ三週間トス。

第十九条 冬・夏期休業中図書ノ借覧ヲ欲スル者ハ、特ニ館長ノ認可ヲ得ベシ。

第二十条 第十七条第十八条第十九条ノ貸出部数並ニ冊数ハ左ノ制限ヲ越ユベカラズ。

一、洋書及洋装書冊 三部六冊 一、和装書冊 三部十五冊

但シ、受持課目ノ多キ講師ニ限リ、館長ノ見込ヲ以テ特ニ其数ヲ増加スル事アルベシ。

第二十一条 貸附期間内ト雖モ、本館ノ必要ニ依リ臨時返納セシムル事アルベシ。

但シ、一度返納シタル図書ハ、少クモ一週間経過セザレバ貸与セズ。

第二十二条 新ニ備付タル図書ハ閲覧室内特設ノ書架ニ陳列シ、若干日間之ヲ公示ス。

第二十三条 前条ノ図書ハ、到着ノ日ヨリ三十日ヲ経過セザレバ館外貸出ヲ許サズ。

但シ、講師ノ申出ニ依リ備付タル者ニシテ其講師ノ請求アリタル時ハ、此限ニアラズ。

第二十四条 備付図書一部ニ限ルモノハ、館長ノ見込ニ依リ館外貸出ヲ謝絶スルコトアルベシ。

第二十五条 貴重図書及辞書類ハ一切館外貸出ヲ許サズ。又禁忌図書ハ特種ノ事由アル者ノ外閲覧ヲ許サズ。

但シ、第二項ニ該当スル者ハ、其事由ヲ館長ニ申告スベシ。

第二十六条 図書ハ凡テ館外ニ帯出スルヲ許サズ。閲覧者暫時タリトモ館外へ出デムトスル時ハ必ズ其都度返納スベシ。

但シ、館外貸出ノ制規ニ拠ル者ハ此限リニアラズ。

第四節 禁制

第二十七条 閲覧室ニ於テ喫煙・音読・談論・雑話等総テ他ノ閲覧者ノ妨害トナルベキ挙動ヲ禁ズ。

第二十八条 借受ノ図書ハ凡テ転貸ヲ許サズ。

第二十九条 図書ヲ紛失シタルモノニハ、原品若クハ代価ヲ以テ弁償セシムベシ。

第三十条 図書ヲ毀損シタル者ニハ、其損害ノ多少ニ準ジ原品ヲ以テ之ヲ償ハシメ、若シクハ修繕セシムルコトアルベシ。

但シ、時宜ニヨリ代金ヲ以テ償ハシムルコトアルベシ。

第三十一条 本規定ニ違背シタル者ハ、其軽重ニ従ヒ一週間以上十週間以下ノ範囲内ニ於テ図書閲覧ヲ停止セラルベシ。

第五節 図書寄贈寄托

第三十二条 何人ニテモ本館ニ図書ヲ寄贈スルトキハ、受領証ト共ニ謝状ヲ送リ、其図書ニハ寄贈者ノ氏名ヲ録スベシ。

第三十三条 本館ハ本校関係者及篤志ノ蔵書家ニ就キ、特ニ必要ノ図書ヲ借受ケ之ヲ備付クル事アルベシ。

第三十四条 本校職員・学生又ハ公衆ノ閲覧ニ供シ、若シクハ保管ヲ請フノ目的ヲ以テ本館ニ図書ヲ寄托セント欲スル者アルトキハ、本館ハ協議ノ上其需ニ応ズルコトアルベシ。

第三十五条 前二条ノ図書ハ、本館所蔵ノモノト同様ノ取扱ヲ為スベシト雖モ、一切館外ノ貸出ヲ許サズ。

第三十六条 図書借受ケ若シクハ寄托ヲ受クルトキハ、借用証書若シクハ受托証書ヲ附与スベシ。

(「早稲田大学規則一覧」 『早稲田学報』明治三十六年七月発行臨時増刊第八七号 五五―六〇頁)

 同年十月より午前八時から正午までの日曜日開館が試みられ、更に翌年五月には開館時間を、土曜日を除く平日は午後九時まで、日曜日は更に午後六時までそれぞれ延長して、増大する利用者の便宜を計ることになった。また三十七年十一月には、日曜日に限り公衆閲覧を開始し、更に三十八年一月よりは毎日公開とした。

 図書分類は洋書・和漢書とも学校創設の時定めた例によったが、学術の進歩と図書の増加に伴い適当でないものがあったので、三十五年に多少の修正が加えられた。また、漸く和漢書には分類と書名、洋書には件名と著者名のカード目録を整備することができ、三十六年には初めて和漢書および洋書の印刷目録を刊行した。

 なお、新図書館開館に際し、和漢書・洋書を新しく購入したが、その数一万余冊に及んだ。この中八千冊は和漢書で残余は洋書であった。更に、先に三十五年帰独した帝国大学教師ルードウィヒ・リースから譲り受けたドイツ書を主とする二千余冊も分類して備え付けた。

 その後、新図書館の蔵書の充実が着々と進行し、利用者に大きな便宜を与えたことは、第十九表ならびに第二十表(数字は原文のママ)によって明らかである。

第十九表 図書館蔵書累年増加表(明治三十五年九月―大正元年八月)

(『廿五年紀念早稲田大学創業録』 八六―八七頁、『創立三十年紀念早稲田大学創業録』 一八五頁)

第二十表 図書館累年利用表(明治三十四年九月―大正元年八月)

(備考) 四十二―四十三年度より開館日数の増加したるは、従来休館したる大祭日、日曜日、並に夏期七月中を開館することと為したるに因る。

(『廿五年紀念早稲田大学創業録』 八八頁、『創立三十年紀念早稲田大学創業録』 一八五―一八六頁)

 また、図書館収蔵図書を分類別に示した明治四十五年の表を第二十一表(数字は原文のママ)に掲げておく。

第二十一表 図書館蔵書分類表(明治四十五年六月末現在)

(『創立三十年紀念早稲田大学創業録』 一八二―一八四頁)

 市島館長は、前述の如く、就任以来鋭意蔵書の充実に意を用い、その成果に大いに見るべきものがあったが、他方また、滝沢馬琴展覧会(明治四十一年十一月六・七・八日)、近松文学祭(明治四十二年十月九・十日)をはじめ、図書館主催の講演会や展覧会も開催している。その中で最も注目すべきものは、能楽源流表彰会と文明源流表彰会とであろう。

 能楽源流表彰会は、四十三年六月四日に九段能楽堂で各流名手の演能、五日に大講堂で講演会、四、五両日図書館で能具および書籍の展覧会を催した。その趣意書には、「抑も能楽は世に専業の家あり。又伝習・賞翫の人多し。而も其の現在に於ける芸術上の対比を考へて維持の方略を立て、又過去に溯源して興敗の跡を明かにし、未来に期待して発展の途を求むる等の事に至りては、尽さざる所あり、遺憾を免れず。……則ち本図書館は世阿弥の当時諸座興隆し、以て五百年後の今日に能楽を伝ふる偉蹟を景仰し、幸に大家・名士の賛助を得て源流表彰の大会を為す者なり」(『早稲田学報』明治四十三年七月発行第一八五号九頁)と記されており、「展覧出品物は、悉く斯道に因縁深い諸家の秘蔵であつて、書籍、装束、面、器具等、皆な来会者に歴史を愛する心と芸術を尊崇する精神とを喚起さした」(同誌同号一〇頁)が、図書館出品図書五十五部・三百十九冊よりも、徳永重康出品図書が百六十四部・三百二十八冊と数が多い一事によっても窺われるように、この行事の成功は、徳永の熱意によるところが大きかったのである。

 文明源流表彰会は、四十五年五月四、五、六の三日間、図書館内で展覧会が開かれ、「本邦文明の基たる諸先哲の遺書・遺墨・肖像を始め、凡べて参考となるべき絵画・書籍七百六十余点が陳列せられ」た(同誌明治四十五年六月発行第二〇八号一四頁)ほか、四日には大講堂で講演会が催された。文明源流の意味は、市島の説明によれば、「具体的に云へば、徳川八代将軍以後に西洋との交通が開けてから以来、種々なる文明が這入つて来た、近来は之を新学と唱へるのであるが、所謂此の新学が西洋から這入つて来た其の由来・径路を言ふのであつて、要するに、御維新前文明の源流を言ふのである」(同前)。しかも、この展覧会は僅かに四、五日の準備期間で、医学百四十一、地誌・地理百二、文学・語学九十三、理学・数学八十、洋書八十、書画百三十五をはじめとする多数の逸品の蒐集に成功したというのであるから、その熱意のほどが察せられる。

 図書館の竣工がなった翌年の明治三十六年にはその図書館内の一角に標本室を設けて、歴史・地理関係の参考品を陳列した外、ドイツから購入した鉱物・化石の標本も展示して、学生達の実物研究に資した。三十七年になると、大学部商科の開講に伴い、商科学生の勉学に役立てることを目的に、商品標本類を広く全国に求めて標本室に陳列しようとした。その際の商品寄贈を受けるための手続は以下の通りであった。

商品蒐集手続

一、商科ノ参考トシテ蒐集ヲ要スル商品種左ノ如シ。

第一部農産品

第一類 米(各米穀取引所ノ建米・輸出米・輸入米(清・韓・印度))・麦・豆類・菜種

第二類 繭・綿・麻・苧・亜麻

第三類 茶・緑茶(籃製・鍋製)・紅茶・再製茶〈鳥竜茶・磚茶〉・珈琲

第四類 砂糖(各種)

第五類 藍〈葉藍・玉藍・印度製乾藍〉・煙草

第六類 藺・莞

第七類 薬用人参・薄荷

第八類 種油(危険ニツキ当分之ヲ欠ク)

第二部 林産品

第一類 漆汁(内地・清国)・櫨実・椿実

第二類 五倍子・茯苓

第三類 椎茸

第四類 燐寸ノ軸木・鉄道枕木

第五類 板類ノ標本(方五寸位ノモノ)〈檜・杉・松(日本・米国)・欅・樅・桐(日本・支那)〉

第三部 鉱産品

第一類 銅〈荒銅・熟銅〉・鉄〈銑鉄・砂鉄〉・錫・鉛・安質母尼

第二類 石炭・焦炭

第三類 石油(危険ニツキ当分之ヲ置カズ)

第四部 水産品

第一類 鯣〈一番・二番・甲府〉・乾鮑〈明鮑・灰鮑〉・海参・鱶ノ鰭・乾海老・貝柱・淡菜・明骨・蟶

第二類 石花菜・雞冠草・イゴクサ・昆布〈刻昆布・細工昆布〉

第三類 寒天〈角寒天・細寒天〉

第四類 魚油・鯡油・鯨油・鱈油・鱶油ノ類・魚蠟

第五類 食塩

第六類 水産肥料〈搾粕・干鰮・荒粕・笹目・鰊白子〉

第五部 工芸品

第一類 綿糸〈紡績糸・瓦斯紡績・シルケツト〉・絹糸〈座繰糸・器械糸・絹糸紡績・柞蚕糸・天蚕糸〉・麻糸〈麻・苧・亜麻〉

第二類 織物

其一、綿織物〈双子・瓦斯糸織・白木綿・絣(薩摩・久留米・伊予・大和)・綿フランネル(白・平・綾)・傘地・木綿縮・金巾・天竺布〉

其二、絹綿交織〈綿繻珍・綿風通・観光縮緬・縞物〉

其三、麻織物〈上布・帆布・ズツク類〉

其四、絹織物〈羽二重(本羽二重・片羽二重・平羽二重・綾羽二重・紋羽二重)・縮緬・海気・繻珍・繻子・論子・純子・風通・錦・錦襴・魚子・紹・竜紋・畦織・仙台平・傘地〉

其五、毛織物〈モスリン・毛布・羅紗類〉

其六、染物類〈友禅染・モスリン友禅・有松絞・板〆・中形・小紋〉

其七、綴錦・段通(綿・麻)

其八、莫大小(綿・毛綿・絹・毛)

第三類 漆器〈黒江・輪島(沈金)・会津・静岡・横浜・山中(枕物)・若狭・津軽・沖繩・高岡・高松・名古屋・大阪・能代(春慶)・高山(春慶)・奈良・村上(擬堆朱)〉

蒔絵〈東京(平蒔絵・高蒔絵・研出蒔絵・梨地蒔絵)〉

第四類 磁器〈瀬戸・美濃・有田・九谷・三河地・砥部・会津・京都・東京〉

陶器〈薩摩・粟田・出雲・淡路・赤津〉

石器〈伊部・万古・常滑・相馬〉

瓦器〈楽焼・今戸〉

建築用陶器〈煉瓦・土管・テラコツター〉

第五類 七宝〈無線・有線〉・硝子・セメント

第六類 金属類〈銅器・青銅器・錫器・安質母尼・軽金・鉄器類〉

第七類 麦稈真田・経木真田・花蓆(内地産(綾莚・錦莞莚)・清国産(岡山県・愛知県・広島県・東京・神奈川県))

第八類 燐寸(箱・商標トモ)

第九類 紙及紙製品〈印刷紙・鳥ノ子・雁皮・薄葉・扇子・団扇・ナフキン・岐阜提灯〉

第十類 革及革製品

第十一類 竹及木製品 有馬・静岡・大阪

第十二類 利器類〈刃物〉

第十三類 油・蠟燭類

第十四類 染料及薬品

第十五類 雑種

一、本校ハ製造者若クハ販売者ニ就キ、特ニ商品ノ種類・員数ヲ指定シテ其寄贈ヲ需ムベシ。

一、本校ハ京、阪、神戸、名古屋等ノ重ナル工業地ニ委員ヲ置キ、商品募集事務ヲ取扱ハシム。

一、委員ヲ設クル地方ノ寄贈品ハ、総テ委員ノ手ニ取纏メ荷造・運送等ノ取扱ヲナサシムベシ。

一、委員ナキ地方ニ於テハ、寄贈者ヨリハ運賃先払ニテ物品ノ発送ヲ乞フコトアルベシ。尤モ予ジメ寄贈ノ通知ヲ受ルトキハ、本校ハ其地方ノ校友若クハ知人ニ托シ、其ノ寄贈品ノ受取方ヲ依頼スベシ。

一、総テ寄贈品ニハ左ノ諸項ノ説明ヲ可成詳細ニ附記スルヲ要ス。

イ 品名 ロ 産地並に製造人 ハ 用途 ニ 価格 ホ 原料産地 ヘ 輸出先 ト 一ケ年ノ産額

一、贈品ヲ受ケタル時ハ、本校ハ受領証ト共ニ謝状ヲ贈ルベシ。

(同誌明治三十七年十二月発行第一〇九号 五三―五四頁)

 こうして一両年内に寄せ集められた商品見本は、工場用材料、銀製麦酒呑から、タオル、マッチに至るまで数千点の多きに上り、到底図書館内の一室だけでは収納しきれなくなったので、三十九年十二月、独立の標本陳列館を書庫の横手に新築した。総建坪三十三坪五合、採光に十分留意した木造二階建で、階上室には主に美術工芸品を、階下室には専ら農産物・林産物・鉱物等を展示した。しかしその後の蒐集作業は遅々として進まず、四十三年に鉱物・化石の標本がすべて理工科の採鉱学科へ移管された後、標本陳列館は大正三年に閉鎖され、その短い活動の幕を閉じた。

三 寄宿舎

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 本学苑草創の当初、全学寮制の目的を以てキャンパスの内部に寄宿舎が設置され、地方から上京する者の大半を収容し、その中から幾多の英才を社会に送り出したが、大学に昇格するとますますその需要が大きくなり、設備の狭隘を感じたので校舎の増築と軌を一にして移転することになった。すなわち明治三十六年、実業学校兼商学部校舎を従来の寄宿舎敷地に建築するため、同年四月限り旧寄宿舎を閉舎し、鶴巻町(現在鶴巻小学校が建っている地点)に敷地二千八十五坪を借り入れて新寄宿舎を建築、十月、木造二階建四百三十九坪が竣成した。しかし、その収容人員は旧寄宿舎より倍加したものの、更にそれ以上に拡大する財力が学苑には乏しかったから、隣接する土地二千余坪をも借り入れて、これを順次寄宿舎を建築する希望者に分割・貸与して、寄宿舎の狭隘を緩和させようとする学寮制度を同時に設けて、学苑の監督下に寄宿学生を収容せしめることにしたが、これもその最初のもの(これに続くものは、結局現れなかった)が同年十二月に落成した。これによって寄宿舎ならびに学寮の規模は、

大学寄宿舎敷地 二千八十五坪 同建物 四百三十九坪 同収容人員 二百人余

第一学寮(山田虎次郎)敷地 三百坪 同建物 九十坪余 同収容人員 五十人余

(『第廿二回自明治三十六年九月至明治三十七年八月早稲田大学報告』 三九頁)

となった。「寄宿舎規則」と「学寮規則」は次の通りである。

早稲田大学寄宿舎規則

第一章 主旨

第一条 本舎ハ本校学生ヲシテ同窓講学ノ便ト交遊切磋ノ益トヲ享受シ、以テ学生生活ノ本領ヲ全フセシメンガ為メ之ヲ設ク。

第二章 舎則

第二条 本舎ニハ当分高等予科生ニ限リ之ヲ入舎セシムルモノトス。

第三条 本舎ハ毎年九月ニ之ヲ開キ七月ニ之ヲ閉ヅ。

第四条 本人又ハ父兄保証人ヨリ特別ニ学資監督ノ依頼アル者ハ、舎長ニ於テ其監督ヲ為ス可シ。

第五条 外出、帰舎、消燈及食時等ノ時限ハ、其都度掲示スル所ニ拠ル可シ。

第六条 在舎中疾病ニ罹リ、其症状ニヨリ保証人ニ引キ取ラシムルコトアル可シ。

第七条 常ニ学業ヲ怠ル者若クハ寄宿舎生活ニ堪ヘザル者ト認ムル者ハ、保証人ヲシテ之ヲ引取ラシム。

第八条 舎生ノ本分ヲ失フ所行アリト認ムル者ハ之ニ退舎ヲ命ズ。

第九条 学寮特別規定ノ外ハ、総テ本規則ヲ準用スル者トス。

第十条 舎内整理ノ為ニ各舎ヨリ総代一名ヲ互選選出セシム。

但、任期ハ一学期間トス。

第十一条 総代ハ舎長ヲ輔ケテ一般舎内ノ整理ニ任ズル者トス。

第十二条 寄宿舎一般ノ利害ニ関シ舎長ニ申請スル所アランコトヲ欲スル者ハ、先ヅ総代ニ申出ヅ可ク、総代ハ之ニ就キ其意見ヲ附シ舎長ニ申出ヅ可シ。

第十三条 舎生ハ舎長ノ許可ヲ得ルニアラザレバ外泊ス可カラズ。

第十四条 疾病又ハ止ムヲ得ザル事故ノ為メ帰省若クハ外泊セント欲スル者ハ、保証人連署ノ届書ヲ差出シ、舎長ノ許可ヲ得可シ。

第十五条 外出中病気若クハ止ムヲ得ザル事故ノ為メ外泊シタル者ハ、宿泊先ノ証明書ヲ添へ、保証人連署ノ上二日以内ニ舎長ニ届出ヅ可シ。

第十六条 帰舎時間ニ後レテ帰舎シタルモノハ、必ズ其事由ヲ口頭若クハ書面ヲ以テ舎長ニ届出ヅベク、若シ之ヲ届出ザルトキハ、無届外泊ト見倣ス可シ。

第十七条 届書ハ、総テ本人自ラ之ヲ舎長若クハ本舎事務所ニ差出ス可シ。

第十八条 外出時間外ニ止ムヲ得ザル事故アリテ臨時外出セント欲スル者ハ、舎長ノ許可ヲ得可シ。

第十九条 外出スル者ハ、必ズ予テ受取置キタル外出札ヲ受附ニ渡置キ、帰舎ノ際之ヲ受取ル可シ。

第二十条 来訪者アルトキハ、其本校学生タルト否トヲ問ハズ、都テ応接所ニ於テ之ニ面会スベク、決シテ之ヲ室内ニ誘引ス可カラズ。

但、病気ノ時ハ舎長ニ申出テ、其指揮ニ従フ可シ。

第二十一条 三週間以上帰省又ハ外泊シタル者ハ、退舎ト見倣スコトアル可シ。

但、二週間以上ニ渉ル者ハ、其居室ヲ変更スルコトアル可シ。

第二十二条 室内ノ建具其他舎有器具ヲ毀損若クハ紛失スルコトアルトキハ、相当代価ヲ以テ之ヲ賠償セシム。

第三章 入舎金舎費及食費

第二十三条 本舎入舎金ハ金一円トス。

但、入舎証書差出ノ際、之ヲ本舎会計係ニ納ム可シ。

第二十四条 本舎費ハ一ケ月金一円七十銭トシ(電燈料ヲ含ム)、食費ハ一ケ月金五円四十銭トス。

但、食費ハ物価ノ高低ニヨリ増減スルコトアル可シ。

第二十五条 舎費及食費ハ毎月十日迄ニ本舎会計係ニ納ムベシ。若シ期日ニ後ルルトキハ、時宜ニヨリ退舎ヲ命ズルコトアル可シ。

第二十六条 十日以後ニ入舎又ハ帰舎スルモノノ舎費及食費ハ、当日ヨリ五日以内ニ納ム可ク、其期日ニ後ルル者ハ前条ニ同ジ。

第二十七条 届出ノ上ニテ帰省又ハ外泊スルモ、三日以内ハ食費ノ割戻ヲ為サズ。月末一日分亦同ジ。

但、割戻ハ両月ニ跨ルヲ得ズ。

第二十八条 舎費ハ総テ日割計算ヲ以テ割戻ヲ為サズ。

第二十九条 本則第四条ニ依リ学資ノ監督ヲ請ハント欲スル者ハ、先ヅ舎長ノ許諾ヲ得テ一ケ月以上ノ学資ヲ本舎会計係ニ預ケ入タル上、之ヲ受取ラントスルトキハ、其都度舎長ノ許諾ヲ経ベシ。

但、舎費及食費ノ外一ケ月間ノ小遣雑費額ハ、預入ノ際予定シ置ク可シ。

第四章 入舎手続

第三十条 入舎セント欲スル者ハ、入舎願書ヲ本校高等予科事務所ニ差出シ、在学ノ証明ヲ得、然ル後、身元保証書ヲ添へ之ヲ舎長ニ差出スベシ。

第三十一条 入舎願書ヲ差出ストモ、舎長ノ意見ニヨリ入舎ヲ許サザルコトアルベシ。此場合ニハ入舎証書用紙ヲ交附セズ。

第三十二条 入舎ヲ許可スル者ニハ所定ノ入舎証書用紙ヲ交附ス可シ。

第三十三条 入舎証書用紙ヲ交附セラレタル者ハ、相当欄内ニ記入済ノ上、先ヅ本校高等予科事務所ニ於テ保証人印鑑ノ証明ヲ受ケ、且ツ会計課ヨリ月謝納済ノ証明ヲ得タル後、舎長ニ差出ス可シ。

第三十四条 入舎証書ノ差出シハ、荷物ヲ携帯シ来リ自身実際ニ入舎スルノ日ヲ以テス可シ。

第三十五条 入舎証書ヲ差出ストキハ、舎長ハ直ニ其居室ヲ指定シ、荷物入門札ヲ交附ス。

第三十六条 入門札ヲ受取タルトキハ、之ヲ受附係ニ差出スベク、受附係ハ小使ヲシテ其荷物ヲ指定ノ室ニ運バシム可シ。

第三十七条 入舎ハ毎日午前九時ヨリ午後四時迄トス。

但、日ノ長短ニ依リ伸縮スルコトアル可シ。

第五章 退舎手続

第三十八条 退舎セント欲スル者ハ、其旨保証人ヨリ届出テ舎長ノ許可ヲ受ク可シ。

第三十九条 退舎ヲ許可シタル者ニハ、舎長ヨリ荷物出門札ヲ交附スベキガ故ニ、受附係ニ差出シ荷物ノ運出シヲ求ム可シ。

第四十条 毎月十日以前ニ退舎セント欲スル者ハ、先ヅ届書ヲ本舎会計係ニ差出シ、舎費及食費納附済ノ証明ヲ受ケタル後、之ヲ舎長ニ差出ス可シ。

第四十一条 毎月十日以後ニ退舎セント欲スル者ハ、先ヅ届書ヲ舎長ニ差出シ、其許可ヲ受ケタル後、本舎会計係ニ至リ食費ノ割戻シヲ請求ス可シ。

第四十二条 退舎ハ毎日午前九時ヨリ午後四時迄トス。

但、日ノ長短ニヨリ伸縮スルコトアル可シ。

第六章 舎生心得

第四十三条 舎生ハ本規則ヲ遵奉シ、舎長ノ監督指導ニ従フ可シ。

第四十四条 外出ノ際ハ必ズ制服若クハ袴ヲ着用ス可シ。

第四十五条 舎内ニアリテハ一切飲酒ヲ禁ズ。

第四十六条 夜間ハ一切音読ヲ禁ズ。

第四十七条 居室ニ於テハ放歌・高吟・雑談・遊戯等、苟モ喧噪ニ渉リ他ノ学習安眠ヲ妨グル所為アル可カラズ。

第四十八条 舎生ノ居室ハ舎長之ヲ指定シ、各自自私ノ転室ヲ許サズ。

第四十九条 風儀ヲ紊乱スベキ稗史・小説又ハ勤学ノ妨害タルベキ玩具、危険ナル器物等ハ、一切所持スベカラズ。若シ之ヲ所持スル者アルトキハ、時宜ニヨリ舎長之ヲ没収スルコトアル可シ。

第五十条 居室ハ毎朝必ズ之ヲ清潔ニ掃除ス可シ。

但、舎長ヨリ臨時大掃除ヲ命ズルコトアル可シ。

第五十一条 舎内ノ廊下ニハ靴及草履ヲ穿ツコトヲ禁ズ。

第五十二条 室内ニハ電燈及火鉢ノ備付アルニヨリ、「ランプ」其他ノ火器ヲ使用ス可カラズ。

第五十三条 舎生ハ、学生ト否トヲ問ハズ、決シテ他人ヲ宿泊セシム可カラズ。

第五十四条 演説・集会等ノ為メ舎生倶楽部ヲ借用セント欲スルトキハ、開会委員ノ名義ヲ以テ一日前舎長ニ願出ヅ可シ。

第五十五条 舎生ハ小使ヲ使役スルコトヲ得ズ。

但、疾病等止ムヲ得ザル場合ニハ、舎長ニ申請シ其許可ヲ受ク可シ。

第七章 食堂心得

第五十六条 食事時間外ニハ一切食堂ニ入ル可カラズ。

第五十七条 舎長ノ許可ナクシテ定食外ノ飲食物ヲ用フ可カラズ。

第五十八条 食物ノ良否等ニ関スルコトハ総テ舎長ニ申出ヅ可ク、直接賄方トノ交渉又ハ菜ノ取換ヲ命ズルガ如キ不都合ノ挙動アル可カラズ。

第五十九条 食器ヲ破損シタルトキハ、相当代償ヲ以テ賠償セシムル者トス。

第六十条 外来者ニ食事セシメント欲スル者ハ、先ヅ本舎会計係ヨリ食事切符ヲ申受ケ、之ヲ賄方ニ渡シ其供膳ヲ待チテ之ニ就カシム可シ。 (『早稲田学報』明治三十六年十二月発行第九五号 「早稲田記事」七四八―七五一頁)

早稲田大学寄宿舎附属学寮規則

第一条 本寮ハ、本校学生ヲシテ学生生活ノ本領ヲ全フセシメンガ為メ之ヲ設クルモノニシテ、寄宿舎同等ノ監督ヲ施スモノトス。

第二条 本則規定ノ外ハ総テ寄宿舎規則ヲ準用スルモノトス。

第三条 寮生ハ、本則規定ノ外、総テ寄宿舎規則ヲ遵奉ス可シ。

第四条 寮費ハ一ケ月金二円トス(電燈料ヲ含ム)。

第五条 寮費ハ、其月十五日以前ニ退寮スル者及十五日以後ニ入寮スル者ハ各其半額ヲ納附ス可シ。

但、寄宿舎規則第八条ニ依リ退寮ヲ命ゼラレタル者、及第七条ニ依リ保証人ニ引取方ヲ命ゼラレタル者ハ此限ニアラズ。

第六条 本寮ノ開閉ハ寄宿舎規則第三条ニ準ズト雖モ、寮生ノ希望ニヨリ閉寮中ト雖モ随意在寮ヲ許ス。

但、寄宿生ノ閉舎ニ付退舎シタル者、亦本寮ニ移転入寮スルコトヲ許可スルコトアルベク、此場合ニ於テハ入寮金ノ納附ヲ要セザル者トス。 (同誌同号 「早稲田記事」七五一頁)

 かくして、三十七年一月八日寄宿舎開舎、二月十一日開舎式を挙行し、また学寮は五月一日これを開いた。舎生の訓育・監督は初めから自治的方法を採らせるのを建前としていたが、新寄宿舎開所に当り、先ず舎生の総代数名を選び舎生総代会を設けて自主的運営に当らせ、更に三十七年三月舎生会を組織させ、総務委員・演説部員・運動部員・交遊部員を置き、時々集会室に会合して、修身・研学の道を話し合い、或いは知名の士を招いて講話を開き、或いはまた遠足会・演説会を催して心身の鍛練に努めた。

 大学に昇格した後の寄宿舎は高等予科生だけを入舎せしめていたが、三十七年秋から一般学生の入舎を許し、これと同時に、舎生の種痘・健康診断を励行し、また宿舎の設備にしても、植樹、排水、給水をはじめとして、食堂、浴場を完備し、学生の衛生に一段の意を払った。

 三十八年九月、清国留学生部設置に伴い、恐らく一時的な措置として、早稲田中学校の寄宿舎に清国留学生若干名を寄宿させたらしいが、同時に一七二頁に既述の如く鶴巻町の寄宿舎に隣接して留学生寄宿舎一棟二百八十八坪五合を増設することになり、浙江省官費留学生百名のうち七十八名をこの第一寄宿舎に、十九名を第二寄宿舎として学寮に収容した。四十年一月には、早稲田実業学校が従来の早稲田中学校寄宿舎跡に新築移転したが、この時点には清国留学生は鶴巻町新寄宿舎に止宿していたのである。ところがこの年九月以降、新来の清国留学生が漸次減少し、これに反して一般学生の入舎希望者が日を逐うて増加したから、清国留学生部寄宿舎を改めて第二寄宿舎とし、この中に清国留学生部寄宿舎を併置することにした。しかし、前述の如く四十三年七月清国留学生部廃止とともに、その寄宿舎もまた不要となったのである。

 寄宿舎生の異動はどうであったろうか。例えば四十―四十一年度については、報告の作成された時点での舎生数は二百四十一名であったが、その月別入退舎等の数字は左の如くである。

第二十二表 第一、第二および清国留学生部寄宿舎動静(明治四十―四十一年度)

備考 六月・七月退舎の欄に×印を付せしは、夏季休暇の為め帰省せしものにして、閉舎の時期なるを以て特に退舎の欄に加ふ。

(『第二十六回自明治四十年九月至明治四十一年八月早稲田大学報告』 六二―六三頁)

 学寮は、恐らく四十二年に、個人の管理から第二寄宿舎の管理に移された。その結果、寄宿舎の収容人員は五十名増加し、四十二年七月末現在では、三百名を数えるに至った。

 四十三年一月には、商科舎生は舎生全体の便宜を計る目的で舎内に小規模ながら消費者組合を設け、所期の目的を達することができた。

 明治四十四―大正元年度には、第一、第二と寄宿舎が二つに分れているのは監督上不便であり、かつ第二舎は家屋の耐久力が乏しいので前年度限りこれを廃し、第一舎だけを残して改善を加えた。その結果寄宿舎の規模は、事務館四十五坪、倶楽部五十二坪八合、ピンポン室十二坪、食堂四十七坪五合、舎生館総二階建四百二十五坪、炊事場二十二坪七合、浴場十坪、洗面場四坪五合、廊下五十五坪、便所十坪、物置十二坪(「早稲田大学第廿九回報告自明治四十四年九月至大正元年八月」『早稲田学報』大正元年十月発行第二一二号二二頁)から成り、舎生の収容定員は百六十名となった。この他、構内の敷地二千八十五坪のうち約六百坪の運動場を設け、庭球のコート二面を備えた。この年の在舎生は、多少の出入りがあったが、一月平均百二十七名余であった。

 寄宿舎の舎長には、大学昇格の際、本田信教(明一八政治学科)が就任したが、三十八年三月辞任、栗山精一(明三〇法律科)がその後を襲った。次いで四十一年二月には、清国留学生部寄宿舎舎監工藤祐山(明二五英語政治科)が寄宿舎長となったが、四十二年には本田信教が舎長に復帰した。更に四十四年一月の舎長栗山精一、副舎長工藤祐山という体制も一年で終り、翌年一月からは、栗山の早稲田実業学校幹事就任に伴い、矢沢千太郎(明三六英語政治科)が五年弱に亘って舎長の地位につき、舎長は大綱について監督するのみで、余はなるべく寄宿舎生の自治に委すという方針が採用されることになった。