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第四編 早稲田大学開校

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第十八章 大学開校以後の学生研究会

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一 大学開校時の学生気質

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 明治三十六年に高等予科に入学した石橋湛山によれば、「当時の早稲田大学は、大学に改まって〔大学予備門としての高等予科設置〕からようやく三年目に過ぎなかったが、すでに今日〔昭和二十六年〕の早稲田大学と、ちょっと見たところ大して違いのない規模を備えていた」には違いないが、「建物は今日とははなはだ異なり、大講堂と称した二階建赤煉瓦のものがあった外、他はすべて木造」という程度のものであったという。他方目を転じて、学苑の外なる早稲田界隈は「すでに鶴巻町通りは、古本屋、ミルクホール、その他の商店が軒を並べて、新たな大学街として繁栄していた。しかしその鶴巻町も、大学の方から向かって左側は、ちょっと裏にはいると、いわゆる早稲田たんぼで、目白台まで水田が続き、その中に新たにできた道路に沿って、点々と下宿屋などが建っているのに過ぎなかった。昔、早稲田は茗荷畑が多いことで有名だったそうだが、その名残りも明治三十六年ごろにはまだ見られた」(「湛山回想」『石橋湛山全集』第一五巻二九頁)のであった。

 このようなキャンパスの内外で、我が学苑の学生にはどのような変化が見られたであろうか。明治三十九年に一ジャーナリストが、「其学生気質は大学の組織と共に一変したり。即ち軽佻浮華なるハイカラーの輸入なりとす」(臼田卯一郎『最近学校評論』三三頁)と指摘した如く、大学開校を契機として、「ハイカラー」な雰囲気の導入が認められるようになった。

 さて、このような変化の下でいかなる学生が在学していたのであろうか。学生の動向に詳しい河岡潮風は「早稲田大学評判記」で、「ハイカラ党は多くは是商科、蛮カラ党は政治科、法科に多し。隠居党は文科、師範科」(『冒険世界』明治四十一年三月発行第一巻第三号七八頁)と三タイプに分類している。更に、先の臼田は、

政治科の生徒は、地方富豪者の子弟が過半を占めたるが故に、必然に華美の習風を存したりと雖も、其習風は豪雨の到ると共に発芽し、成育し、以て彩花を開けり。乃ち商科の全体と政治科の一半は之に属せるも、文科殊に哲学科の如きは、更に其感化を被らざるに似たり。蓋し学科の性質に由来するもの乎、否乎。而して商科の生徒中、海外発展、殊に清韓貿易を希ふ者は三分或は四分にして、銀行会社に平安の生活を欲する者は、其余の大部を占むるが如く、政治科に至りては、田園生活に由りて地方政治思想の開発に努めんとする者、日々に其数を減却して、近時清韓に対する政治的発展と、社会主義的方面と、新聞記者の壇場に向つて其数を増加せるが如し。英文科は教員たらんとする者弥々多く、哲学科亦其揆を一にせり。

(『最近学校評論』 三四頁)

と各科の学生をより詳細に説明している。

 さて、これら多種多様な学生を擁した学苑に、はっきりと見られたのは自学自習の学風であった。勿論、自学自習は早稲田のみが誇るべきものではなかったにしても、今日言うところの学生のサークル活動が、学苑で特に旺盛であったことは、先の河岡が、

多いと云へば、会合の多い事も名物に入るかも知らぬ。学校の学生通用門をくぐるものは、いつでも必ず幾十枚かのビラが張られてあるを見るであらう。有名なる文芸協会などは卒業生の団体だが、ほかは学生の団体は曰く何々郷友会、何組級友会、何県懇親会、何君送別会、何氏追悼会など一々あげれば際限がない程である。中でも基礎の確かな会は鳩山氏主裁の英語会、〔巌谷〕小波氏会長たる絵画研究会、青柳学士会頭の日清協会、浮田和民氏を戴ける社会学研究会、田中穂積氏主称の新聞研究会、その他に仏語学会、独逸学会、カルタ会、俳句会、甚だしきに至つては新体詩朗吟会まであると云ふ始末。もし片ッ端から出席しやうものなら、毎日会の為めに忙殺されるのみか、会費のお蔭で身代限りをするだらうとの評判だ。

(『冒険世界』第一巻第三号 八二頁)

と記していることからも明らかである。

 明治の最終年度に関する学苑当局の公式の報告には、

学生研究会 正科以外の研学に資し且師弟間の交誼を親密ならしむるを以て目的とし、講師を招聘し種々の会合を開けるが、其重なるもの左の如し。

政治科大会 法科大会 文科大会 商科大会 理工科大会 高等予科大会

早稲田雄弁会 早稲田政治学会 早稲田経済会 早稲田法学会 早稲田文学会 新聞研究会

早稲田教友会 宗教研究会 英語会 独逸語会 仏蘭西語会 哲学会

自治研究会 支那協会 史学会 日蓮主義研究会 早稲田音楽会 早稲田画会

緑紅会 印度学会 早稲田修養会 読書会 美術研究会 周易会

文芸同攻会 稲友会 青年正義会

(「早稲田大学第廿九回報告自明治四十四年九月至大正元年八月」 『早稲田学報』大正元年十月発行第二一二号 二六―二七頁)

と三十三もの学生の会の名称が挙げられていて、大学昇格の年の十から見ると、少くとも記載されている数だけから見れば、三倍以上にも増加している。その上、これに記載されていない会も、先の河岡の記載から察せられるように、かなりの数に上るものと思われる。行動力に富んだ学生が、百花繚乱とも言うべき学生研究会、いわゆる文化サークルに席を置いて、奔放な活躍を展開している情景こそ、まさに早稲田以外に見られないものであると言っても過言ではなかろう。

 しかし、このような数多くのサークルのすべてに亘って説明を加えるのは困難であるから、代表的なものを若干次に選んで、その活動をあとづけることにしよう。

二 早稲田政治学会・早稲田経済学会・早稲田法学会・早稲田文学会

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 前頁に列挙された学生研究会の中で、それぞれの科の大会は、専ら親睦を目的とするものであるから、暫く別として、親睦と同時に研究を目的として設立されたものについて見れば、早稲田政治学会、早稲田経済学会、早稲田法学会、早稲田文学会は、前二者が明治三十二年、後二者が明治二十年代と、何れも既に東京専門学校時代に発足している。この中で早稲田法学会は、大正二年刊の『早稲田生活』には、「沢山ある色々の会の内で一番盛んで且つ最も重きをなして居るものは法科会である。此会は法科全体の会で、科長以下諸教授は勿論のこと、時には校友も出席する」(五〇―五一頁)と述べられているが、学生を主体とし、法律研究を目的として、「早稲田大学法科会」と名告るものが発会式を挙げたのは四十二年十一月であるけれども、既に二十九年一月には、「会員相互ノ和合一致ヲ計リ、早稲田ノ学風ヲ振起スル」ことを目的として、「東京専門学校ノ法学部全体ヲ以テ組織ス」る早稲田法学会が誕生している(『中央時論』明治二十九年一月発行第二〇号五〇頁)。尤も、その後、早稲田法学会について、「昨〔三十二〕年本校法学部学生〔が〕組織」した(『早稲田学報』明治三十三年十一月発行第四六号「早稲田記事」一〇八頁)との記事が見られ、また三十八年十二月にも「会員相互ノ親睦ヲ図リ学術ヲ研究スルヲ以テ目的トス」る早稲田法学会の第一回会合が報ぜられている(同誌明治三十九年一月発行第一二八号六三頁)ところから見ると、毎年の大学報告中に常に名を列してはいても、その活動は断続的ではなかったのかとの疑いを懐かせられる。何れにしても、『早稲田学報』の記事を通じて見た限りでは、前記の『早稲田生活』の筆者の見解にも拘らず、早稲田法学会が法学研究の上できわめて活発に行動したとは考えられず、これは、第一巻八〇三頁以下ならびに本巻四七一頁以下に既述した法学部討論会が、その役割の一端を果していたことにもよるものであろう。

 早稲田文学会は歴史が一番古く、既に明治二十四年九月に従来の逍遙指導の茶話会より脱皮した第一回会合の記録があり(『同攻会雑誌』明治二十四年十月発行第八号三四頁)、頻繁に集会しているが、二十五年五月で記録は中絶している。その後、再び「東京専門学校文学会」(以後の記録にはすべて「早稲田文学会」)として二十九年十一月にその第一回会合を開き(『早稲田学報』明治三十年四月発行第二号一二六頁)、三十一年の第五回大会で、「会員相互の親睦を厚うし智識の交換を為し併せて文学上の研究を以て目的とす」との会則が議決されている(同誌明治三十二年一月発行第二三号「早稲田記事」一頁)。今、試みに三十二年二月の会合の記録によってその概況を窺えば、次の如くである。

第六回早稲田文学会 本月四日午後五時より第六回通常大会を赤城清風亭に催せり。来会するもの無慮九十名、幹事坪内雄蔵氏先づ起つて開会の辞を述べ、次で高橋・大鳥居両幹事の報告あり。終つて高山林次郎、中島半次郎田中喜一諸氏の有益なる演説あり。次に来賓東儀季治氏、音楽上に就ての談話を試み、そが携へ来れる洋笛を吹奏して大に会衆に感動を与へぬ。それより茶菓の間に二、三の余興を演じ、最後に同じく来賓たる尾崎紅葉氏席の中央に出でて熱心懇篤に小説文体論、新聞小説に就て此等の談話を為し、引続き会衆と共に種々文学上の雑話ありて、十時三十分頃一同散会せり。

(同誌明治三十二年二月発行第二四号 「早稲田記事」五頁)

しかし、三十四年十月の大会に「学生と校友とを分離すべしとの議案」が提出されて委員付託となった(同誌明治三十四年十一月発行第六一号「早稲田記事」三〇二頁)翌三十五年に、次の記事が見られたのを最後として、『早稲田学報』からは活動の記録が跡を絶っている。

早稲田文学会 八月二日午后二時上野鶯渓伊香保に開き、坪内博士の将来に対する訓戒、中島半次郎氏の教育上の雑感等の講話あり。食後永井、五十嵐二氏提出の常置会場設置の件に就きて討議し、其の結果、常置会場を神田今川小路玉川亭内に設け、毎月一回五日午后三時より集会する事に決したり。 (同誌明治三十五年八月発行第七二号 「早稲田記事」四六〇頁)

更に、恐らく第三次と看做すことのできるものは四十三年末に創設されている(第二次『早稲田文学』明治四十三年十二月発行第六一号九八―九九頁)が、これまた四十五年一月以後の消息を知り得ない。文学科の場合は哲・史・文の間のまとまりがなかなかとれず、結局、専門学科を主体とする学生団体――例えば史学会や哲学会――が誕生するにつれ、早稲田文学会は短命に終ってしまったのではないかと考えられる。

 早稲田政治学会は、「早稲田政学会」という名称で、明治三十二年以来「学生にて組織し、実際と学理の攷究を為し毎月開会」したと報ぜられている(『早稲田学報』明治三十三年十一月発行第四六号「早稲田記事」一〇九頁)が、三十四年以後は「早稲田政治学会」と記録され、三十九年までは毎年度一回または二回の会合が報告されている。そして、四十四年十一月、「政治学に関する研究を為すを以て目的とす」との会則を持つ「政治学会」が新しく発足し(同誌明治四十四年十二月発行第二〇二号一五頁)、この年度においては、翌年四月まで計六回、毎月開催、そのつどかなり詳細な記録が『早稲田学報』に寄せられている。例えば、当該年度の第一回会合は、次のようなものであった。

第一回研究報告会 去十一月十一日午後一時より予科十六教室に於て催す。来会する者高田学長・有賀博士・平沼教授・松平教授・青柳教授・渡教授・及び校友植松考昭氏・縫田栄四郎氏外数名・学生会員数二百余名。会員志手環氏の開会の辞あり。続きて研究課題、隣国の革命争乱に対する国民の態度に就き諸氏の研究報告ありたり。大要左の如し。

学生会員、佐竹勇次郎氏は今回の清国動乱を以て支那政府の悪辣なる政策に対する国民の怨恨に起因するものとして止むなきの結果也と断定し、我国は絶対に非干渉主義を採るべきも、万止むを得ざれば日英同盟の力を以て之が調停の任に当り、漢人の政府を組織せしめて、支那永遠の平和を維持すべしと論じ、同じく学生会員松田毅氏、非干渉主義は佐竹氏と同意見なるも、若し干渉するとせば直接に其利害を蒙むることの大なる日露両国其解決の任に当る可しと断じ、同じく学生会員坂入庸氏は、前二氏の非干渉主義を主張して結局干渉主義に陥るなりと諷刺し、氏も干渉主義に依りて時局の短縮を図り、此際清国を南北両国に分ち、其民族性に鑑み、北部は満朝を以て専制政治を続行し、南部は漢人を以て共和政治を組織せしめ、以て永久の乱根を断つべしと説き、校友植松考昭氏は、此度の支那争乱に対しては我国は全く対岸の火災視する態度に出で、絶対的の非干渉主義を採り、時局は其成り行きに任すべし、列国の干渉は必ず支那領土割譲の問題を誘起するを以て、斯の如き問題に至るの場合には、我国は干戈に訴へても之れが厳正中立を保たしむべく、支那領土の保全に東洋永遠の平和を維持するの策也と論ぜられ、教授松平康国氏は、支那問題の真相を知らむは外人にとりて至難の問題にして、世人此度の革命の原因を政府の悪政より来る満・漢感情の衝突に起縁すと云ふも、満朝政府は普通伝ふるが如く圧制の政府にあらず、其租税の如きも甚だ軽微にして、漢人を待つ亦苛酷ならず、然れども政府の官吏に因襲の悪弊あり、官吏は俸給至つて尠きも、官三年にして三代を糊するに足ると謂ふ諺あるが如く、彼等は殆んど皆狗盗の徒なりと云ふ可く、如斯積弊が惹いて今日国運の停滞を来したるものにて、今日革命を見る亦怪むに足らず、吾人は此際弊風を改革して健全なる国家を成立せしめむことを切望すと述べられ、会長有賀博士は、今日の革命の状態に於ける満朝政府の威権回復は最も至難にして、不世出の大人物輩出するに非らざれば国難を一掃し難し、現今の問題は革命軍の独立を承認すべきや否やにありて、国際法上より見れば一定の地域を保有し独立を宣言すれば独立を認むるを得べし、然れども玆に注意すべきは、交戦権と独立権とを混同す可らざることなり、今日の場合革命軍の独立を承認せざれば種々不都合の発生する事あり、清国革命に於て我国赤十字隊を編成して死傷者の看護の任に当らむとせしも、初め革命軍の独立を承認せざりし為め、赤十字改正条約第十一条に牴触する所ありたるを以て出発に遅延を来せり、故に赤十字問題よりすれば革命の独立を認めざる可からず云々と論じ、更に語を進めて学生会員の研究報告を一々批評せられたり。

最後に高田学長は登壇して本会の成立を祝し、本会が発会式等の虚飾を避けたると討議的研究の方針に出でたるとに付き満足なる意を表せられ、尚ほ研究的態度を以て常に学界に臨まるる有賀博士の推されて会長となり将来指導の任に当らるるを本会の為め最も幸福也と述べ終りて閉会す。

次回の研究課題は左の如し。

有賀博士提出

 一国に内乱ある場合に於て外国は如何なる理由に依り之に干渉する事を得るか。 (同誌同号 一五―一六頁)

最後に早稲田経済学会については、『早稲田学報』第三四号(明治三十二年十二月発行)の「早稲田記事」に、左の如く報ぜられている。

経済学会 天野為之氏等が曩に同志と早稲田経済会を起し、経済上の学理と実際とを研究して大に世を益せられしも、該会は重に講師・校友等の為に設けられしものにして、未だ学生間にかかる団体なきを慨し、玆に経済学会を起して、学生間の通弊たる理論にのみ拘泥して実際に疎遠なる欠点を補ふを以て目的とし、本校政学部二、三年級の有志者に設立せらる。去十月十八日夕景より赤城社内清風亭に於て発会式を挙ぐ。 (六一頁)

すなわち、右の記事で明らかなように、三十年十一月に設立され、この時まで既に十回以上も会合を重ねてきている「早稲田経済会」とは別箇の組織で、政学部の学生によって設立されたものである。本会は毎月開会を原則とし、三十二―三十三年度には八回、三十五―三十六年度には六回の開催が記録されているが、三十七―三十八年度を最後として、四十三―四十四年度までは『早稲田学報』にその消息を絶っている。四十三―四十四年度については、

経済学会 本学年度に於ける早稲田経済学会は旧臘十二月四日第一回大会を開き、服部講師、塩沢博士、天野博士並に大隈総長の講演あり。其後毎月例会を開き、時事に適切なる問題を捉へて学理的研究会を開き来りしが、五月七日経済学会本学年に於ける最終の大会を予科第十六教室に於て開会したり。当日は、本大学より塩沢、服部、永井の三教授出席せられ、来賓には高等商業学校講師福田〔徳三〕博士、農科大学教授矢作〔栄蔵〕博士あり、学生出席者百余名にして、定刻一時塩沢博士開会の辞を述べて、我国にもアカデミツク・アトモスフエアを作るの必要を主張せられ、博士の紹介にて福田博士は、剰余価値と労働全収権の理論なる演題を掲げて、学者的態度を以て深遠なる学理を明瞭に解説して二時間余に亘る講演を試みられ、矢作博士は農学上の代表機関に就て例を独逸最近の実情に取りて之れ又親切なる講演を試みられ、最後に服部講師登壇、来賓二博士に謝辞を述べ閉会の辞ありて散会。それより有志茶話会あり、七時三十分無事終了したり。出席学生百余名に達し、最も真摯なる態度を以て傾聴したるは近来稀に見る会合なりき。 (同誌明治四十四年六月発行第一九六号 一七頁)

との記事が発見されるが、その間に休眠していたとは必ずしも断定できないのではないかとも察せられる。

 ともかく、これらの会は、創設以来既に歴史の古い政治経済学科、法学科、文学科それぞれの学生を中心として結成され、会によっては、次第に研究色を一層濃厚にして来たのであって、この種のものとしては雄弁会や音楽会や英語会よりも早く、いわば学生の会のはしりと考えられる。ただ、『早稲田学報』に掲載された記録には、時代によって精粗の差が著しく、それを以て直ちに活動の正確な反映と見るのには若干の危険が伴うことを付記しておこう。

三 清韓協会

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 日露戦争が勃発して間もなく、学苑で清国語を履修している学生の間では、清・韓両国の事情を確固把握するの要ありとの声が次第に昂まりつつあった。そこで、佐山市郎(専政三年)、名取夏司・梶川半三郎(大政二年)、中島節平(専政二年)、田辺郁太郎・平野英一郎(大政一年)の六名は、青柳篤恒講師と相諮り、清韓協会の設立を発議した。これに清語履修学生約七十名が呼応し、三十七年四月二十九日に組織会を開き、会長に犬養毅を、幹事長に青柳をそれぞれ推戴し、次いで左の如き「会則」を定めた。

早稲田清韓協会会則

第一条 本会ヲ早稲田清韓協会ト称ス。

第二条 本会ノ目的ハ、清・韓ノ事情ヲ研究調査シ、且ツ清・韓ニ対シテ各般ノ事業ヲ経営スル同志ノ連絡ヲ計ルニアリ。

第三条 本会ハ会員ノ外、会友・賛助員ヲ以テ組織ス。

(一) 会員 早稲田大学各部清語科学生、及目的ヲ同フスル他科学生ヲ以テ之ニ充ツ。

(二) 会友 本会ノ目的ト同進路ニアル本校出身者ヲ推薦シテ之ニ充ツ。

(三) 賛助員 本会ヲ賛助スル朝野ノ名士ヲ推薦シテ之ニ充ツ。

第四条 本会ニ左ノ機関ヲ置ク。

(一) 会長一名 賛助員中ヨリ推薦シ、会務ヲ総裁セシム。

(二) 幹事長一名 会友中ヨリ之ヲ選挙シ、常務ヲ掌理セシム。其任期ヲ一個年トス。

(三) 幹事数名 清語科各級二名宛会員中ニテ互選シ、常務ヲ分掌セシム。其任期ヲ各一個年トス。

第五条 本会ハ左ノ事業ヲ行フ。

(一) 隔月一回例会ヲ開キ、春秋一季大懇親会ヲ開ク。

(二) 各方面ノ調査部ヲ設ケ、会員之ヲ分担ス。

(三) 時宜ヲ計リ、清・韓各要地ニ実地踏査ヲ行フ。

(四) 臨時知名ノ士ヲ聘シテ講話会ヲ開ク。

(五) 語学練習ノ機関ヲ設ク。

(六) 其他必要ナル図書ノ蒐集又会報ノ発行等、漸次之ヲ行ントス。

第六条 本会ノ維持費ニ充ツル為メ、会員ヲシテ毎月金五銭宛醵出セシム。

第七条 早稲田大学各部清語科学生ハ、何時ニテモ其級ニ属スル本会幹事ヲ経テ入会スルコトヲ得。他科学生ニシテ本会ニ入会セント欲スルモノハ、会員二名以上ノ紹介ニ係リ、幹事会ノ承認ヲ経ザルベカラズ。

第八条 本会ノ趣旨ニ悖反セシモノ及其体面ヲ汚スベキ行為アリタルモノ、又ハ会費滞納三ケ月ニ亘リシモノハ、幹事ノ決議ニ依リ之ヲ除名ス。

第九条 当分ノ中本会幹事長ノ居宅ヲ以テ事務所ニ充ツ。

第十条 本会則ハ出席会員半数以上ノ賛成アルニアラザレバ、改正変更スルコトヲ得ズ。

(『早稲田学報』明治三十七年六月発行第一〇一号 三四頁)

そして五月二十九日、大隈、高田をはじめ、前島密、添田興業銀行総裁、それに約一千名に及ぶ学生を会し、発会式が挙行された。この盛会に意を強くした当事者は、更に大いなる発展を期して清・韓両国に在留する校友に向けて次のような檄を飛ばすに及んだ。これは、同会の活動指標の所在を最も鮮明に示している文章と言えるであろう。

早稲田清韓協会設立の趣旨

本協会の目的は単純なり。曰く清・韓の事情を研究すと是れ而已。

輓近志を清・韓に懐くの士日に多きを加ふ。我早稲田大学夙に玆に見る所あり。曩に爾余の専門学校に率先して清語科を新設し、嗣で又支那時文科を添設し、支那語言を研磨すると共に、彼土の風俗・人情・制度・文物を講習するの設備をなせり。然りと雖ども吾人将来清・韓の地に於て実業に、教育に、政治に、各種の事業を企画・経営せんとするもの、啻に教場机上の研究を以て足れりとせず、更に進んで内にありてはあらゆる材料を蒐集して緻密に之を調査・討究し、外にありては彼地に実地踏査を試み其実状を審究し、業卒るの後、事業に着手するの秋、庶はくは其施措宜しきを失せざるに幾からしむるを要す。本協会創立の大本実に玆に在りて存す。

凡そ一国の現在を究め将来をトせんとするもの、実地踏査に拠るに若くはなし。然れども、先づ内地にありて書経に拠り、或は口舌に拠り、其事情を客観的に研究することの最も肝要にして、須臾も忽がせにすべからざるは、亦吾人の呶々するを須たざる所なり。若夫れ客観的研究既に素あり、清・韓に対する意見亦略ぼ其定形をなせり、然る後躬親から其地を踏み其人に接し、更に主観的研究を遂行するに努めなば、得る処蓋し測るべからざるものあらむ。反之言語に通ぜず事情を知らず、率爾彼地に入らんか、幾多の星霜を異域に徒費して而かも得る処果して幾何ぞや。本協会の事業は先づ内地に在りての客観的研究に始まり、転じて彼地に於ける主観的踏査に開展し、更に帰朝後の思想完成に終る。是れ本協会の清・韓の事情を研究すべき規則的捷路にして、又た本協会の性命となす所なり。望むらくは、在清・韓早稲田大学関係の先進諸賢、幸に叙上の微衷を諒とし、本協会の前途に向つて満腔賛成の意を表せられ、永く扶翼誘導の栄を賜はるに吝ならざらんことを。

(同誌明治三十七年八月発行第一〇四号 五二頁)

そして、清・韓在留の校友五十余名を会員に推薦し、向後の活動の資助を仰いだ。

 こうして発足した清韓協会は、各自会員の研究は勿論、例会および講演会の開催など多岐に亘る活動を繰り拡げていった。それら活動の模様の一端を次に垣間見てみよう。十月一日、牛込月花園で開かれた第一回例会では、出席者は七十余名を数え、初めに幹事から清・韓両国に関係のある人士の会友推薦の件と、主張の第一着手として本年冬季に企図している中国華北地方への修学調査旅行についての報告があり、次いで岩崎鎮雄の「韓国遊歴談」、牧野耕造の「朝鮮一班」、それに賛助員松平康国の「北清所感」と題する講話がなされた。また同月二十三日には本校大講堂で講話会が催され、会員百五十名、一般聴衆約一千名が集う中、賛助員神鞭知常の「韓国視察談」と、大隈の「東亜に於ける日本の地位」なる講話が行われ、頗る盛会であったという(同誌明治三十七年十二月発行第一〇九号四三―四四頁)。ここに見られるような、一般民衆に対する啓蒙も、主要な活動の一つとして見逃せないことは、言うまでもないであろう。

 ところで、前述した華北地方への修学調査旅行は、発足後日なお浅い清韓協会にとってその将来をトする試金石とも目されるものであったけれども、日露戦争の影響であろうか華北地方の調査は断念して、急遽目的地を華南地方に変更の上、十二月十五日、青柳を団長とする学生六名は横浜を出港して上海に向った。およそ一ヵ月間の旅程で、各自研究テーマは次のようなものであった。

因に青柳は、上海・武昌・蘇州などの主要都市を巡歴した旅程の中で、著名な学堂を参観するとともに張之洞・端方・羅振玉・盛宣懐ら官界の要路者と面談を重ね、またこれら人士に『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』を贈呈するなどしている。こうした行動は、第九章で触れたように、彼が既に提唱していた清国留学生部の特設に関する打診工作という意味合いが含まれていたものと看做されよう。

 さて、先に紹介した例会および講話会の模様からも察せられることではあるが、更にこの修学調査旅行に際して学生達が選んだテーマの内容は、清韓協会の性格を端的に物語っている。前掲の「早稲田清韓協会設立の趣旨」によれば、同会の活動指標は、「将来清・韓の地に於て実業に、教育に、政治に、各種の事業を企画・経営せんとする」ことに置かれていた。従って同会の性格は、我が国の対東アジア、なかんずく対中国進出政策への協力にあることは明らかである。かかる性格は、会長に犬養毅を担いだことによっても容易に認められるであろう。

 如上の活動を展開する清韓協会について、『中学世界』第九巻第一一号(明治三十九年九月発行)の「早稲田大学学生生活」には、これを「所謂満・韓経論を以て主眼」とする結社と位置づけて次のように評している。

世間には早稲田は軟化した、魔風・恋風は早稲田を訪づれた、敝衣・短褐、案を打つて国家を談じたと曰ふ当年専門学校時代の稜々たる覇気は、不幸にして今の早稲田大学には見られなく成て仕舞ふたと、嘆ずる人も有るけれども、其は是れ只だ早稲田の一面を観て、未だ全面を観ない話しだ。少なくとも、此の清韓協会の会員の如きは、意気将さに五大洲を呑吐するの概があると曰つてよい。早稲田の野心家は皆な此の会員と成つて居る。 (一三二頁)

 尤も本会は、活動範囲の拡大とともに、既に三十九年一月の例会で、「会則」第五条に、「日清学生の親睦連絡を図り、以て将来協同の基礎を作らんことを期す」という一項を追加することを決し、同時に「早稲田日清協会」と改称して、事務所を清国留学生部内に移転していたのであった(『早稲田学報』明治三十九年三月発行第一三〇号七一頁)。

 ところが四十年一月には、清末の革命動向が多数学生の関心を喚起したものでもあろう、「本協会創立日已に久しく、会員の数徒らに殖へ、魚目混珠の憾ある」にかんがみ、本来の活動の水準を保つべく、「本会の目的とする研究に対する志操堅実なるを認めたる者に限り、入会を許可すべし』(同誌明治四十年二月発行第一四四号六四頁)と、会員の資格を制限する必要に迫られるに至った。推してその盛況が知られると言うべきである。かかる盛況の下、清国における政治情勢が緊迫の度を強めて行く中で、同会の研究活動の関心も、「清国の革命とその前途」「日中関係の将来」などのテーマに集注していった。そして、四十四年十月十日に辛亥革命が起り、清朝の滅亡が時間の問題となった情況を背景にして、四十五年一月の新年会の席上、青柳の、「支那の革命は半ば成功し、清帝の退位も今は只時期の問題となりたれば、本会の名称も其当を得ざるやに考ふる故、寧ろ此際天下に率先して『清』の字を用ふる事を廃し、早稲田支那協会と改名しては如何」との提議に従い、早稲田支那協会と改称されることになった(同誌明治四十五年三月発行第二〇五号一九頁)。

四 新聞研究会

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 我が学苑は東京専門学校当時から言論界との連繫が深かった。在学時代から既に新聞・雑誌に関係する者も決して少数にとどまらず、更に多くの卒業生は、官界における帝国大学と実業界における慶応義塾とに対峙する形で、言論界という新分野に自ら鍬を入れたのであった。すなわち、東京府下における有力新聞・雑誌社二十余社の記者のうち、我が学苑出身者は明治三十九年において百五十名を超えていたし、地方においても同じように優勢で、恐らく新聞・雑誌の記者となった者は、他の大学出身者を凌駕していると言っても過言ではなかろう。しかし実際に新聞知識を事前において修得した者はごく僅少であり、殆どが予備知識なくして操觚界に入ったものと言えよう。かかる状勢下に、これが専門的な知識を得ようとする運動が、政治経済学科学生のうちから起ってきた。明治三十九年、同科三年生の平野英一郎・三隅忠雄、一年生の長野潔・中村明・安本重治・森俊助・江尻恭平らは、有志を勧誘して、四月二十六日第一回発起人会を開き、会長に高田学監、副会長に田中穂積を推戴することを定め、両人の承認を得た。次いで五月二十一日第二回発起人会、越えて九月二十日第三回発起人会を開き、一層具体的な件について相談したが、この際単独の一科を新たに設ける案は見送り、従来の政治経済学科が欧米の新聞学科に何ら遜色がないところから、これを更に整備し、他に少数の学科目の増設により、所期の目的を果すこととし、学生の自主的活動に移すとともに、特に田中穂積を監督の任に当らしめるよう決定した。また『早稲田学報』とも関係するところがあったから、その主任者である畑田保次の応援をも得て、その指導を受けることにし、十月六日組織会を設け、同月十七日発会式を挙行した。

 当日はおよそ五百名の会員が大講堂に参集し、幹事長野潔が開会の辞を述べ、田中穂積が新聞の沿革および記者としての要件を説いた後、高田会長は我が学苑の方針および記者としての心得について訓戒し、次に新聞事業視察のため報知新聞社より欧米各国に特派され、今回帰国した頼母木桂吉の、最近の欧米新聞事情ならびに経営に関する演説があり、最後に大隈が演壇に上り、例の如く酒脱なる長い前置きの後、次の如く語を結び拍手を得た。

我が国の過去を顧みれば、著述家・新聞記者などの地位は甚だ低いものであつた。弁護士も今日は立派な者であるが、昔は三百代言と云はれ、医者も毒庵で御家騒動の片割位に思はれた時代もある。然し今のドクトルは、どうして中々だ。新聞記者も其通り、医者は匙加減で、生殺与奪の権を握るが、記者も決して之に譲らぬ。否それ以上である。従つて弊害もあるが、然し乍ら世には絶対的の害、絶対的の利と云ふものはない。必ず両者相伴ふ。今日迄の記者は、随分大利と共に大害を与へた。今日でも尚さうだが。然し害は漸次減少して来る。そこで名誉も増す利も増すと云ふ事になる。如何かすると、今の堕落した人は、名誉を捨てて利を取ると云ふが、名誉の伴はん利の永く続く可き筈はない。先にも述べたが、記者は愉快な仕事だ。有ゆる事物に触れる。雲行を見て風雨を知ると云ふのだから、実に面白い。而して之れから政治家にもなれる、実業家にもなれる、会社の重役としても、製造所の主脳としても、充分に間に合ふ人が得られるのであるからして、諸君は能く勉強して、毎日の事実の上に諸君の学ぶ所を応用して、観察力を養ひ、併せて人格を修むる事に務め、名を捨てて利を取ると云ふ様なことでなく、真に名実併せ得るの人となつて貰ひたいのである。

(『早稲田学報』明治三十九年十一月発行第一四一号 四二―四三頁)

 なお、この時定められた規則は次の通りである。

早稲田新聞研究会規則

第一条 本会ヲ早稲田新聞研究会ト称ス。

第二条 本会ハ新聞記者タラント欲スル早稲田大学学生ヲ以テ組織ス。

第三条 本会ハ新聞ニ関スル学理的及ビ実際的研究ヲ以テ目的トス。

第四条 本会ノ研究事項左ノ如シ。

(一) 史的研究及ビ内外新聞事項

(二) 探訪通信及ビ編輯

(三) 新聞事業ノ経営

(四) 時事問題

(五) 文章ノ練習

第五条 本会ノ研究方法左ノ如シ。

(一) 毎週一回講師及ビ文壇名士ニ請ヒ、講義及ビ講話会ヲ開ク。

(二) 探訪通信及ビ文章ノ実習ヲ為シ、之レヲ早稲田学報ニ掲載ス。

第六条 本会ニ幹事三名ヲ置キ、会員中ヨリ互選シ常務ヲ処理セシム。但シ、其ノ任期ヲ一ケ年トス。

第七条 本会ノ経費ハ之レヲ会員ノ共同負担トス。

第八条 本会ニ入会セントスルモノハ、本会員ノ紹介及ビ幹事会ノ決議ヲ要ス。

第九条 本会員タルノ面目ヲ毀損スルモノハ、幹事会ノ決議ニヨリ之レヲ除名スルコトアルベシ。

第十条 本会ノ事務所ヲ早稲田大学校内ニ置ク。

第十一条 本会規則ハ出席会員三分ノ二以上ノ賛成ヲ得ルニアラザレバ、之レヲ変更スルコトヲ得ズ。

注意

本会員ハ止ムヲ得ザル事故アル外、必ズ講義及ビ講話ニ出席スベク、殊ニ探訪通信及ビ文章実習ノ順番ニ当リタルモノハ其ノ責ヲ免カルルヲ得ズ。 (同誌同号 五六―五七頁)

 この規則に基づき、学理的研究としては、田中の新聞に関する講義と名士の講話とをそれぞれ隔週一回実施し、また実際的研究としては、学苑における一切の出来事、および地方における校友会の活動の探訪をなし、これを『早稲田学報』に通信することにした。

 その後四十年四月、本研究会は実際活動の一つとして、運動会の記事を掲載した『早稲田新聞』第一号を発刊した。これは報知新聞社の厚意により、輪転機を以て印刷し、銅版入り彩色版とした。記事も社説・三面記事・広告に至るまで、全く東京の一流新聞に劣らない体裁で、発刊と同時に全発行部数を売り尽すという盛況であった。更にこれに力を得て、大学の定款の変更や学苑の重大事項を号外として発行し、これまた好評を博した。

 なお、その後四十二年九月、正規の課程として新聞研究科が新設されたことは第十四章第二節に既述の通りである。

五 雄弁会

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 雄弁会の前身としては、第一巻第三編第十章に説述した演説会があったが、前者が学生に対する弁論の訓練を主目的としたのに対して、後者は講師による演説を内容とするものであったという相違がある。また校友・学生による同人会の運動にも弁説の訓練が含まれていたのは事実である。しかし雄弁会設立の直接の契機は、足尾鉱毒糾弾のために結成された学生鉱毒救済会の組織する大道演説会や遊説に求めなければならない。この学生の会が解散するに際して、各校連合組織の青年修養会が設立され、毎月一回演説会を開いたのであるが、政界の革新を図り、旧思想を打破して新思想を宣伝するためには、雄弁の力を借りなければならないと覚ったのである。従って、弁舌のための弁舌ではなく、社会問題や人道問題についての正義の叫びが雄弁であるとの認識が、そもそもの初めから脈打っていたと言えよう。

 雄弁会が設立されたのは、記録の上では明治三十五年十二月のことで、『早稲田学報』第七八号(明治三十五年十二月発行)の「早稲田記事」には、次のごとく記されている。

政治、法律、教育、宗教殆んど凡ての部面に於て雄弁の最も必要なるを感じ、之が要求に応ぜんとする為に弁舌の練習を目的とし……本校在学生を以て早稲田大学雄弁会なるものを組織し、毎週一回例会を開き、先輩諸氏の講演及び会員の演説に就て批評を乞ひ、其他臨時大会、茶話会等を催し其目的の遂行に勉め、会長一名、幹事若干名を以て会務を処理せしむること……。

(五一六―五一七頁)

発起人である学生数名のうちには永井柳太郎の名も見え、会長には安部磯雄を戴き、十二月三日大講堂で発会式を挙げ、会員十数名がそれぞれ雄弁を振い、安部会長の「雄弁法心得」と題する適切な講演および批評があった。なお、会則は設けず、会員の制限もなく、熱弁を振いたい者は、毎週水曜日に開かれる例会の場で幹事に申し込みさえすれば、それでよかった。

 雄弁会は、三十七年一月三十一日には神田錦輝館において第一回公開演説会を開催した。「この時は聴衆より一人十銭づつの入場料を取つたに拘らず、八十五円集つたといふのを見ても、如何にこの会が盛況であつたかが想像されるので、委員其他を算せば、実に九百余の聴衆が集つた訳である」と、後年の学苑理事丹尾磯之助(大六専政)は述べている(「早大雄弁会発展史」『雄弁』大正五年五月発行第七巻第六号二四四頁)。午前九時開会、安部会長の趣旨説明の後、大隈と高田が演説した。この時の高田の演説は「平和と戦争」の題名で、『早稲田学報』第九七号(明治三十七年二月発行)巻頭の論説欄を飾っている。当時大学部政治経済学科の二年生であった永井が、「保護政策とは何の謂ぞや」との演題で堂々と論じ、大隈から「うまい、うまい、実にうまい、吾が校にも又この学生あるか」と絶讃されたのも、この演説会においてであった。雄弁会の記録は明治四十一年まではきわめて断片的にしか存在していないが、その中から興味あるものを紹介すれば、早慶野球決勝戦の前々日、三十九年十一月九日午後六時より、臨時大会が野球戦の応援演説会として大講堂楼上に開催され、幾百の拍手歓呼、天井も落ちんばかりと盛況が報ぜられている。また四十一年十月十七日には、学苑の大講堂において「各学校連合演説会」が催され、早稲田・法政・外語・高商・高師・一高・慶応・東京帝大各大学の弁士に続いて、雄弁会会長の演説があった。この時の会長の名前は田中穂積となっている(『早稲田学報』明治四十一年十二月発行第一六六号六五頁)。安部との交替の時期は明らかでないが、上井磯吉(明四二大文)が、安部を「学生は深く敬慕して居つたが、社会主義者であり、……どうも都合が悪いということで」(『五十周年記年出版早稲田大学雄弁会』五頁)、会長の変更が学生側の発意で行われたと記しているのに対し、宮沢胤勇(明四四大政)は、高田の体育部偏重に不満な安部が自発的に辞任した(同書六頁)と語っている。

 四十二年に入ると、学苑講師の参加を乞い、雄弁会は地方巡回を開始した。すなわち七月八日、新潟寿座雄弁会を皮切りに北陸・東海各地にその論陣を展開した。先ず新潟では森田正亮、粟山博、佐藤四郎、田淵豊吉、比佐昌平が登壇して滔々数千言に亘る演説があり、次いで副島義一は「政党論」を展開して聴衆を魅了した。次いで十一日、富山における講演は本派別院大広間で新潟と同じ弁士が雄弁を振い、副島は「政党内閣論」と題し、蘊蓄を傾けた。また金沢では十三日市議事堂を会場とし前述の弁士のほか桜井兵五郎、山森利一が加わり、副島は「立憲政の要旨」の題下に大いに聴衆を啓蒙した。大津では十五日、本町交道館で開催され、弁士は先の如き顔触れで、副島は「自治制発達の源」と題して掉尾を飾り、静岡では十七日、物産陳列館楼上で行われ、弁士は同じメンバー、副島は「立憲政体の本旨」について一席の講演をした。

 これを皮切りに雄弁会は、四十三年に東北、四十四年に近畿・中国・九州、四十五年に東海・畿内・山陽・南海と演説旅行を行っている。この巡遊は、毎年の夏期休暇を利用して国民の自覚と元気を喚起し、合せて自らの見学に資せんとするものであった。

 この外に雄弁会の主な活動としては、公開演説会、討論会等々、多彩なものを見ることができる。殊に、六一八頁に後述する如く、白瀬中尉の南極探険を援助するために、四十四年五月に雄弁会の催しとして開かれた演説会等は特異なものであろう。校庭の総長銅像前に持たれた五月の集会の参加者は三千と記されている。白瀬中尉一行の目的を達成させるため、政府および国民に向ってあくまで援助を要望することを諮って、会者の賛同を得たのであった。

六 社会学会

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 我が学苑内に、社会主義を研究しその成果を発表する団体として早稲田社会学会が生れたのは、明治三十六年のことであった。これを発表したのは、片山潜主筆の『社会主義』(『労働世界』の後継誌)である。高名な社会主義者片山が明治二十九年に短期ながら学苑の講師を務めたことは既述(第一巻七〇六頁以降)の如くである。さて、『社会主義』第七年第二三号(明治三十六年十一月三日発行)は、次の如く学苑における社会学会の誕生を報じている。同会が社会学の名を採り、社会主義と言わなかったのは興味深い。

早稲田大学学生にして社会主義協会員たる者数名発起人となり、社会主義を標榜し大に活動せんとて、早稲田社会学会といふを組織したり。其の発表演説会を去月二十五日開会の筈の処都合によりて延期したるが、本月上旬必ず開くべしといふ。旺んなる哉、元気ある青年学生諸子! (二八頁)

 この集いが延期された理由は、後掲の記事にも見られるように、校内集会の禁止の厳命に接したからで、延期された演説会は、同年十一月二十二日に学苑外の清風亭で催されている。すなわち、

在早稲田大学社会主義者の発起になる同会の事に就ては已に記す所ありしが、先に同大学講堂にて発表演説会を聞くべき筈なりしも、学校より校内集会禁止の厳命に接し延期して、去月二十二日午後六時より牛込赤城下清風亭に於て発表演説会を開会したり。聴衆約百七十余名、頗る盛会にて、松岡悟君は発起人の総代として発表の辞を述べ、以下順次に松岡源吉、西川光二郎、斯波貞吉、堺枯川、田中半四郎、矢野文雄、片山潜の諸氏演説せられて無事平穏の間に午後十時閉会、同夜即座に入会を申込みし者二十八名、発起人を加へて直ちに三十一名の会員を得、尚其後続々増加の模様なりという。因に牛込警察署にては同会の運動は凡て学術研究と見做し、一切干渉せぬことに決したりといえば、同会は自由の天地に濶歩して大に活動することならん。さるにても資本家の寄附を受け、貴族の黒幕に依りて成れる早稲田大学が、学生の会合に迫害するこそ笑止の極なれ。

(同誌明治三十六年十二月三日発行第七年第二五号 三〇頁)

更に同誌同号には社会学会の規約も次の如く掲載されている。

第一 本会は早稲田大学社会学会とす。

第二 本会は在早稲田大学の社会主義賛成者を以て組織す。

第三 本会は学術的に社会主義を研究するを目的とす。

第四 本会は毎月一回例会を開き社会全般に関する事項を討究し、時に先輩を聘して公開演説を開くことあるべし。

第五 本会に世話人四名を置き任期を六ケ月とす。

第六 本会の費用は会員の負担とす。

附則 会員外の者(不賛成者)と雖も本会例会に出席し相共に社会主義を研究することを得。事務所を早稲田大学正門前滉瀁園松岡悟方に置き、初期の世話人は松岡、島崎、吉田、中沢の四発起人を以て之に充つ。 (三二頁)

 ところが当初校内集会禁止に遭った同会も、『平民新聞』(明治三十七年十月三十日号)の左の記事に見られるように、一年後には学内で会合を開催し、高田早苗も演説しているのである。

早稲田社会学会 本会の幹事は前六ケ月を一期として改選し、永井柳太郎、小野吉勝、白柳武司の三氏之に更る事となり、去二十二日同校講堂に於て例会を開催せり。会員菊地茂氏の熱心なる説明により、従来学校側より誤解され来りし本会も学監高田氏の認る所となり、公然講堂内に於て開会を許可されたり。此日幹事の会務報告あり、安部磯雄氏は起ちて、社会主義者と社会改良論者とが共に相提携してある地点迄進む事に於て何等の異議あるべき筈なし、両者が論難反駁日も亦足らざるは其意を得ずとし、高田早苗氏は、社会主義も多くの人が帰依するを以て見れば多大の真理を含めるに相違なく、人は相当の尊敬を以て之に対せざる可からず、然れども学生としては飽くまで研究的態度を採つて進むを可とする事を陳べて降壇し、それより研究主題軍人遺族救済法に遷り、会員以外の者も続々登壇して気焰漲溢、薄暮散会せり。

 更に『平民新聞』の後継紙『直言』の第二巻第二号(明治三十八年二月十二日発行)にも、次のような三十八年の同会の記事があり、積極的に活動したことが分る。

去る四日午後同大学第三講堂にて開会、来会者四百余名、空前の大会にて、第一白柳氏文明の批評、第二安部先生「華山君に答ふ」とて綱目を分ち精細に評論し、国家社会主義・社会改良主義を論じ、最後にマルクス資本論の要点を語り、第三菊地氏社会主義発達論にて大気焰を吐きしが、時間なき為余〔吉田璣〕と山田氏とは次回に廻しぬ。四百名の研究者、以て早稲田に於る社会主義の勢運を見るに足るべし。 (七頁)

 すなわち、漸く高田学監ら学内幹部の認めるところとなった社会学会は、帰国して間もない新進の塩沢昌貞らの出席もあって、学内にその存立の基盤を確実なものとするとともに、学外にあっては平民社および社会主義協会と同志的な関係を保ち、その活動もかなり詳しく社会に報道された。しかし、本会が四十年初め頃まで続いたことは明らかであるが、その後の消長は全く不明である。

七 英語会

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 英語の課外研究は既に東京専門学校当時から、一部の講師と学生との間に茶話会の形で時々行われていた。『早稲田文学』第三三号(明治二十六年二月十日発行)の「文界現象」には、「昨年十二月中、学生某々等の発起にて英語会を組織し、講師・職員の協賛を得て盛に其の初会を挙行せしが、本月二日其の第二会を催し、講師田原・石川・大隈諸氏のマルチヤント・オヴ・ヴエニスの対白、学生諸氏の演説・朗読等あり。外国婦人の出席者も五、六名ありて頗る盛なりし由なるが、尚ほ今後も毎月一回若くは二回づつ挙行する筈なりと云へり」(六二頁)という記事が発見されるが、この英語会は永続しなかったらしい。英語熱が急速に発達したのは大学昇格の気運が高まってからであり、高田学監が口を極めて英語研究の必要を述べ、英語を読める人・話せる人・書ける人たらんことを強く望んだことに始まり、従来実用英語にあまり関心を持たなかった政・法科の学生のうちにも熱心にこれを研究せんとする者が現れた。

 大学開校を前にした明治三十五年五月、英語政治科二年生有志の発起で英語練習会なるものが催され、二百有余名の会衆を集めて演説・討論・問答を行ったが、その席で発起人は、この会を拡充し、更に永久化せんがために、「早稲田外国語学会」の設立を提議し、次の如き趣意書ならびに会則(仮)を定めた。

早稲田外国語学会創立趣意書

「吾人が外国語を学ぶ所以のものは、言語其物を学ぶに非ず。唯之に因て東西の文書を読破し、其思想を翫味せんとするにあるのみ」と、是れ堂現時本邦学生間に瀰漫せる時代おくれの謬想にあらずや。夫れ物を観て其正しきを得んとす、必ずや之を表裏よりせざるべからず。文に於ける、豈また然らざらんや。思ふに所謂訳読法にのみこれ依りて文意を辿る者、多くは纔かに其半面を観得るに過ぎず。苟くも身躬から其語を操り、其文を行るの技能を具ふるに非ざるよりは、焉ぞ能く眼光紙背に徹するの概あるを得ん。所謂訳読法によりて唯其表面より之を討ぬると、之に伴ふに活用を以てし表裏相待て之を究むると、其趣味の深浅、其進捗の遅速、知者を待て後之を知らざるなり。若し夫れ崇高幽艶なる韻文に至ては、其妙概ね繫つて音韻諧調の上に在り。吟詠諷誦、初めて其真価を味ふを得べけんのみ。況んや国際関係日に錯綜を加へ、貿易愈隆昌、交通益頻繁ならんとす。苟くも世界に一飛躍を試みんとする者に至ては、此際大に自覚し大に修養する所なくんばあるべからず。本会の起る豈それ偶然ならんや。

明治三十五年五月 創立委員謹白

会長 鳩山和夫 副会長 長田忠一 賛助員 ステイヴンソン 鳩山夫人

早稲田外国語学会規則(仮)

一、本会は英、仏、独、清等の外国語を実習するを以て目的とし、名けて早稲田外国語学会と称す。

二、本会は早稲田大学職員、校友及び在学生其他本会の事業を賛助する者を以て之を組織す。

三、本会は第一条の目的を達する為演習会を開き、会員をして演技を為さしむ。但し、開会の場所及日時は委員之を定む。

四、演習会を別て例会及大会とし、前者は毎月一回、後者は毎年一回開会するものとす。

五、会員三分の一以上の請求ある場合、若くは役員会の決議により、臨時大会を開くことを得。

六、本会は適当の講師を聘し、演技者をして特に講習せしむ。

七、演習会に内外名家を招待するの外、時々名声ある外国人の講話を請ひ、会員をして之を通訳せしむ。

八、会員を別て特別会員・普通会員の二とす。

九、早稲田大学在学生にして規定の会費(当分十銭)を納むる者を以て普通会員とす。

十、同校講師其他本会の事業を賛助するものを以て特別会員とす。

十一、会員は演習会に臨み、演技を為し、並に教授を受くることを得。但し、演技者は会期以前、予め委員指定の期日迄に申込むべし。 (『早稲田学報』明治三十五年五月発行第六八号 「早稲田記事」三九六―三九七頁)

 諸外国語の研修を謳って発足した同会も、その後の活動は英語に限られており、仏・独・清語等の実習は行われなかったようである。ところで「早稲田大学報告」によれば、明治三十五年から四十年代にかけて、「外国語学会」と「英語会」とが別個のものとして存在していることになっているが、『早稲田学報』その他には「外国語学会」についてはその後何ら記載がないのに反し、「英語会」の記事は頻繁に紙上を賑わせ、その活動もほぼ前掲の「外国語学会規則」によっていると思われる。当会の役員として名を連ねた鳩山和夫以下が英語会で指導に当っている様子がないことなどからすれば、機構の上では両者は異るのかもしれないが、会員である学生の活動から見ると同一のものと考えるのが妥当であろう。

 英語会は毎月朗読・演説の大家シェレツュウスキー女史らの指導の下に練習をなし、年一度の大会を開いて、実用英語の奨励に大きな効果を上げた。中でも新設商科の学生が本会の主要メンバーであった。明治三十七年一月二十四日の例会を例にとってみると、先ず講師伊藤重治郎が立って開会の辞を述べ、次いで高等師範部の米沢が「時間を守れ」という題で演説し、ヴァイオリンの合奏があって、商科F組の対話「幽霊」、商科D組吉田の暗誦「習慣の力」があり、次いでハーモニカ独奏の後、商科G組の劇「高等下宿」、商科D組小栗の演説「商業に対する僻見」、商科R組の「転居」および同G組の「正直の頭」という英語劇を行い、それぞれ喝采裏に終了している(『早稲田学報』明治三十七年二月発行第九七号「早稲田記事」七九三―七九四頁)。この他、外国人を招聘して英語会を開いた例が三十九年十二月八日に見られる。すなわちアメリカのジャーナリスト、ヘンリー・ジョージが学苑の大講堂で、"Some American Mistakes Japan Should Avoid: Trust and Monopoly"の題名の下に演説を行っている。

 当時の同会の熱心な気風は、『中学世界』記者黒面子の記すところに従えば、次のようなものであった。

月のよい晩なぞに、早稲田田圃で、朗々たる西詩の吟声や、スピーチの声を聞く事のあるのは、彼等が斯学に対する熱心の度

明治四十年英語会大会プログラム

PART I.

Opening Address……Dr. HATOYAMA.

The Eve before Waterloo, by Byron(Recitation)………T. IKEDA(PREP.)

In Honour of the Occasion(Dialogue;by Prof. Takenobu)………………………………(PREP.)

Kuzume, a merchant……M. YANO.

Kosuya, a clerk……………C. SAITO.

Makeno,〃…………K. NISHIO.

Sato, a customer……K. SHIMIDZU.

Kato,〃………M. ASOBE.

Koyama,〃……T. TANAKA.

Miss Kachi-ko,〃…M. KOBAYASHI.

J.Smith,〃………H. OGURA.

Takeda,〃…S. NAKAGAWA.

Mr. G. Danglers, tourist from New York………K. OGAWA.

Mrs. B. Danglers……N. SHIBUSAWA.

Some Lessons from Greek Mythology(Original)……I. FUKUDA(POL.I.)

Romola(Dialogue;adapted from the novel by George Eliot)……(COM.I.)Tito Melema, a traitor…K. OSHIBA.

Baldassare, his adopted father………………………Y.YAMANAKA.

Bardo dei Bardi, a blind

scholar……………T. YAMANAKA.

Romola, his daughter………………………T.MOROZUMI.

Monna Brigida, his cousin……………………K.HAYAKAWA.

Bernardo, godfather of Romola………………………J.YOSHIWARA.

Piero, a painter………K. AOYAMA.

Nello, a barber………S. KAKIUCHI.

Francesco Cei, a Florentine citizen………………T. YAMAMASU.

Lorenzo Tornabuoni,〃…………………………W.TSUDA.

Giannozze Rucci,〃…S. MIZUNO.

PART II.

Thoreau, by R. L. Stevenson(Recitation)……E. NUIDA(PREP.)

The Penitent's Return(Dialogue)………………………………(PREP.)

Goodman Brown, a farmer…………………………K.OKUDA.

Mary Brown, his wife…H. MINAMI.

Walter Brown, the penitent son……………………Y.MATSUNAGA.

Theophilus Olemargerine, a tramp………………R. NAKAMURA.

Private School(Original)………H.SHIGEYAMA(COM. II.)

Judas Maccabaeus(Dialogue;by Longfellow)…………………COM. II.

Antiochus, king of Syria……Y. OKA.

Jason, a renegade Jew……s. ITO.

Mother of seven sons………………………T.NAKAMURA.

Sirion, her youngest son…S. IIDA.

Judas Maccabaeus, a Jewish

patriot…………………Y. KIMURA.

Nicanor, a Greek general……………………………H.HATA.

Philip,〃…………E. ASAKAWA.

Jew…………………………T. USAMI.

Messenger……………Y. YAMAGUCHI.

(『早稲田学報』明治40年6月発行第148号 72頁)

合を示して居る。当年専門学校時代の鞭声粛々の声は、化してバイロンの詩となり、マコウレーの文となる。這は、正さしく時運の変遷に伴ふ現象であるとは曰へ、其の今昔の変化は非常なものではないか。それは兎も角、此の英語会の勃興も、将さに此の機運に乗じて成つたのだ。……校内の一教室は絶えず、此の会の為めに犠牲に供されてる。之を談話室と名づける。誰でも会員たるを得、正科の時間の都合で、此の室に来て、勝手な熱を吹て、談笑するのだ。勿論、日本語は一語たりとも用ゆる事を許さない。手明きの外人は、爰に来て共に語るのだ。

(『中学世界』明治三十九年九月発行第九巻第一一号 一三六頁)

勿論このような風潮は我が学苑に限ったものではなく、東京外国語学校等でも、外国語の講演会や演劇大会が盛大に催されていたことが、『英語世界』『中学世界』誌上で報じられている。

 かくの如く英語熱は年を逐って盛んになり、四十年には寄宿舎英語会が誕生している。試みに同年の英語会大会を例にとって、その盛況ぶりを窺ってみよう。大会は四月十一日より三日間、大講堂において催され、最終日の十三日午後六時に開始された演劇大会では、鳩山校長の開会の辞に続いて前頁所載のような盛りだくさんなプログラムが披露された。この大会においては特に高等予科生の立派な演技が聴衆の好評を博し、彼らの将来に大きな期待がかけられた。その後四十三年の大会プログラムを見ても、英語会の主流は依然として商科の学生であることが分る。

 なおこれと同系の部として、「実際ドイツ語」研究を目的とした独逸語会が明治四十年三月に成立し、英語会ほど華やかではないにしろ、堅実な活動を続けていった。

八 哲学会

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 哲学会は哲学科を中心とするサークル運動である。哲学会が記録上初出するのは『東京専門学校明治三十四年度自明治三十三年九月至同三十四年八月報告』であるが、その活動が初めて分るのは明治三十八年一月発行の『早稲田学報』(第一一二号四八頁)においてであって、これによると、三十七年十二月十七日、例会が本学苑教室で開かれ、学生原口竹次郎(のち学苑講師)が「復活と人生及文明」と題して講演したのに続き、講師中島半次郎が「哲学の社会に及ぼす影響」について、同浮田和民が「国際上の道徳」について、それぞれ講話を行った。

 この後、四十年まで記録が残っておらず、次に姿を現すのは四十一年二月発行の『早稲田学報』(第一五六号六四頁)で、二月十八日に大学講師室において第一回研究会が午後五時より開かれたという記事が見えている。この記事は哲学会を「此の度び新たに組織せられたる同会」と紹介しており、後掲の規約によると、会員資格は文学科得業生および同講師であって、三十七年に登場した先の哲学会とは別個のものの如くであるが、当時の状況から判断するに、学生主導のサークル活動が発展的解消を遂げて、新たな出発を画したものと考えてよかろう。さてこの第一回研究会では、講師金子馬治が「現実生活の興味」という題で約二時間に亘って研究発表をし、波多野精一、藤井健治郎、中桐確太郎の質疑応答があり、盛況のうちに定刻の十時に解散した。この時採択された会規は左の通りである。

綱領

(第一) 本会ハ哲学ノ研究及ビ教化問題ノ批評ヲ目的トス。

(第二) 本会ハ研究会・講演会・叢書刊行等ノ事業ヲナス。

細則

一、 会員ノ資格ヲ左ノ如ク定ム。

一、早稲田大学文学科得業生 二、早稲田大学文学科講師

二、 前項以外ノ有志者ハ、会員二名ノ紹介ヲ以テ入会スルコトヲ得。

三、 会員中ヨリ幹事三名ヲ選ビ、毎年十二月之ヲ改選ス。但シ、重選スルコトヲ得。

四、入会若シクハ脱会セントスル者ハ、其ノ旨幹事ニ通知スベキモノトス。

五、会員ハ通常会費トシテ年額金一円ヲ納ム。

六、会計報告ハ毎年末ニ之ヲナス。

七、毎月(七、八月ヲ除キ)一回研究会又ハ講演会ヲ開ク。

八、時宜ニ随ヒテ臨時会ヲ開ク。

九、叢書刊行等ハ随時之ヲ定ム。

十、会規ノ修正ハ、会員五名以上ノ同意ヲ以テスルニ非レバ之ヲ提出スルコトヲ得ズ。

十一、前項ニヨル提案及ビ重要ナル問題ハ、在京会員ノ過半数出席スルニ非レバ之ヲ議決スルコトヲ得ズ。

十二、凡テ決議ハ出席会員ノ多数決ニヨル。

そして、この年の幹事には石橋湛山、藤井健治郎、白松(後の杉森)孝次郎の三名を選び、事務所を牛込区榎町の白松方に置いた。翌二月には、第二回研究会を大学講師室に開催し、武田豊四郎が「世界哲学史上に於ける印度哲学の光栄」という題で興味ある講演をなし、会衆中には石橋湛山片上伸、藤井健治郎、島村滝太郎、関与三郎などの名が見出される。

 四十二年三月までに研究会は十二回を数え、その蓄積された成果を広く問わんものと、四月二十四日、第一回公開講演会を開催、石橋湛山が「真理の基礎」、白松孝次郎が「気分本位の生活」、金子馬治が「学者の権威」について、それぞれ講演した。聴衆は二百名近くに達する盛況を見せ、好結果を納めた。第十三回研究会には塩沢昌貞が「財物の倫理関係」について述べ、第十四回研究会では大屋徳城が「立川流の浄土教に及ぼせる影響、特に一念義並びに秘事法門に就きて」と題して研究発表を行っているのに明らかなように、哲学会は広範囲のテーマを扱っていたことが窺われるが、何れにせよ、学生研究会の名に値するか否かは疑問と言うべきであろう。

 また四十三年五月開催の第二十一回例会以後の記録は断続的で、回数の明示がないので正鵠を期し難い。この年十月には「形式美の分解」の題下で島村滝太郎の研究発表があり、また四十四年に入って五月には、白松孝次郎の「藤井氏の主観道徳学を読みて」の講演があり、藤井健治郎と一戦を交えている。

九 史学会

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 史学会については、「明治四十年頃、学生の間から生れた」と定金右源二が記している(『史観』昭和二十七年十月発行第三八冊六頁)が、別の機会に同じ定金はそれを一九〇七年と断定している(同誌昭和二十四年十月発行第三二冊一頁)し、明治四十五年六月の『早稲田学報』第二〇八号には、「明治四十一年の創立」(二二頁)と記載されている。ところが、『早稲田学報』第四七号(明治三十三年十二月発行)には、夙に明治三十三年、すなわち文学部に史学及英文学科が新設された翌々年に、「史学科各年級学生より成れる」史学会が、十一月三日清風亭に例会を開催して三十余名が出席したとの記事が発見される(一三六頁)。そして、「早稲田大学報告」には、三十五―三十六年度以降、明治末年に至るまで、学生研究会中に史学会が毎年度列挙されている。従って、少くとも三十三年以後、断続的にせよ、史学会は存在し、四十年代に入ってその活動が活発になったものと推定せられる。

 試みに、明治四十四―大正元年度について見れば、四十四年十一月より四十五年五月に至るまで毎月一回会合を開き、会長吉田東伍煙山専太郎をはじめ、校友清水泰次などのほか、数名の学生が報告を行ったことが記録されている。また四十五年四月には武州国分寺方面に史跡訪問を実施している。例会の参加者は、時には「唯数名」のこともあったが、多くは十数名を数えている。この時期の史学会の活動には、この年度のすべての会合で報告を欠かしたことのない史学科学生横井春野(横井時冬の遺児、後年のスポーツ記者)の熱意に負うところが多く、四十四年十二月には、「入会者は本校学生は勿論歓迎する処、其他と雖も特志の有志者は入会を諾する事としたり」(同誌明治四十五年一月発行第二〇三号一六頁)と、門戸が広く一般に開放されている。

十 音楽会

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 日本の「近代化」は、よく言われるように、「西欧化」と同義の響きを有している。音楽の面にあっても、古来の伝統的音楽(邦楽)をアンシャン・レジームとともに切り捨てて、西洋音楽(洋楽)の輸入が、「近代化」政策の一環として行われた。洋楽とその教育は、明治政府指導者にとって、鹿鳴館の舞踏・音楽が不平等条約改正に欠くべからざるものと認識されたという事例を引くまでもなく、日本の「近代化」推進のために必須要件と看做されていた。ために十二年十月、音楽取調掛がその調査・研究機関として設けられ、次いでこれを基礎にして、二十年十月には東京音楽学校(東京芸術大学の前身)が生誕した。この東京音楽学校では、伝統音楽は箏のみで、全く西洋音楽学校の観さえ呈した。ところが、日清戦争によって得た日本の国際政治的地位の向上を背景にして、それまで洋楽に圧倒されて、閭巷に余喘を保っていた邦楽の復権が目覚しく進み、「音楽会といふ音楽会には、洋楽の外に必ず邦楽曲の演奏が加えられ」るようになった(三浦俊三郎『本邦洋楽変遷史』三八七頁)。そして、洋楽の演奏も、東京音楽学校をはじめ、私立の音楽学校による寡占傾向が次第に弛み、日露戦争の前後から、折からのハイカラ風潮も手伝って、専門学校等の学生の間にも拡延して行った。『音楽新報』第三巻第三号(明治三十九年四月発行)の「各専門学校の音楽現況」は、こうした有様を次のように伝えている。

野球に、庭球に、競漕に、絶えず競争せる各専門学校の生徒も漸々ハイカラ風の吹きまわしに連れて音楽熱の度を高めたり。中にも大塚なる高等師範学校内の大塚音楽会はこの中の雄鎮にして、名誉の奏者も少なからず。ピアノには荻坂進治・村山沼一郎あり、ヴァイオリンには今堀友市・麻布英造あり、村上武一郎あり。独唱には前田純孝あり。殊に箏の名手葛原滋あり、頗る其技に達せらるると云ふ。此会は同校講師山田源一郎の指導の下に活動せるものにして、毎年二季に大音楽会を公開すると云ふ。之に次で盛なるは、慶応のワグネル・ソサイエティ及高等工業の音楽部にして、ワグネル・ソサイエティは、毎年一回又は二回の演奏会を催す。高等工業は北村季晴を聘して熱心に研究中にて、その他第一高等学校には熊野御堂の熱心なるあり。一ツ橋音楽会には池田・青山・高田等の錚々たるあり。外国語学校は鈴木米次郎の指導の下に駸々として進境にあり。美術学校は新にその部を設けられたるものなるが、同校教授岩村透は斯道に熱心なる人にして殊に同氏のマンドリン及独唱は頗る有名なり。この外早稲田大学は、前よりケンダルを招じてその歩を進め、帝国大学には団体として有名なるものなきも、前田・田辺等あり、何れも優秀なる技倆ありといふ。是等諸学校の音楽部員は何れも熱心に研究中なれば、やがて其中には追々音楽会などの催しもあるべく、終には運動の競技と同じく一つホールの中に集りて競技演奏、聯合演奏抔始らぬとも限らざるべし。 (三六頁)

 この中で触れている本学苑の音楽活動は、三十六年の初秋に創置された音楽部のそれを指している。その音楽部の設置について、『早稲田学報』第九二号(明治三十六年十月発行)の「早稲田記事」には、「今回音楽部を設け、人員二十四名を限り、之を二組となし、各組毎週一回宛教授することとなれり。授業日は金・土の両日午後二時よりにして、本校講師ケンダル氏教授を担任せらる」(七一五頁)と記されている。なお、会長には安部磯雄、副会長には東儀鉄笛がそれぞれ任じている。

 ケンダル講師の指導の下に弛みなく続けられたレッスンも四年の星霜を経て、学生の技量も演奏会を開けるまでに成長した。時あたかも学苑は創立二十五周年を迎え、その祝賀行事の一つとして、四十年十月二十二日午後六時から大講堂において第一回の演奏会を開催することになった。当日は、「定刻前、既にさしも広濶なる大講堂も殆んど立錐の余地なきまでに充満し」た(『早稲田学報』明治四十年十一月発行第一五三号七四頁)というが、これほどの聴衆の期待を呼んだプログラムは一体どのようなものであったろうか。それを左に紹介しておこう。

第一部 開会の辞会長安部磯雄 一(一)校歌、全員 (二)弦楽合奏「マルシュ・ミリテール」シューベルト作曲 器楽部々員 (三)ピアノ独奏「ソナタ」モツァールト作曲 小野昌晴 (四)三部合唱「ローレライ」シルヘル作曲(今西宗寿・土居通彦・吉田敬次・津田和助・山中鉄・蘆田安一・水野三治・南寿・杉浦義泰) (五)箏独奏「配所の月」千葉康吉 (六)ヴァイオリン二部合奏、未定 岩井貞麿・新田小一郎 (七)薩摩琵琶「甲芙蓉峯、乙母の教」中野藤三郎・今西宗寿 (八)謡曲「舟弁慶」毛受鹿之助・吉田孝太郎・伊藤六三・上田卓、外早稲田観世会々員 (九)合唱「大海原」坪内逍遙作歌、東儀鉄笛作曲 声楽部々員

第二部 (一)弦楽合奏「デル・フライシュッツ」ウエベル作曲 器楽部々員 (二)独唱、未定 教授アーネスト・ルース 三(三)箏・尺八合奏「松竹梅」青山鉱司・某氏 (四)ヴァイオリン二部合奏「甲アンダンテ、乙アレグロ・モデレート」マザス(新田小一郎・水野三治・杉浦義泰) 五(五)独唱「ナシシリー」吉田敬次 (六)ヴァイオリン独奏、未定新田小一郎、伴奏岩井貞麿 (七)狂言「三人片輪」(柿内文山改作、柿内四郎・千葉康吉・中村六郎・青山鉱司) 八(八)薩摩琵琶「小督」大脇胖 (九)器楽部合奏「長唄あやめゆかた」新田小一郎編(器楽部々員) 「君が代」会衆一同 (『東京日日新聞』明治四十年十月二十一日号)

 ところが、開演を前にして、当日午後やはり祝賀行事として行われたアメリカ軍艦サフライ号野球団と学苑野球部との試合を見終えた多数の学生が既に満席を告げた会場に殺到したため、ひどい混乱が起り、演奏が困難となり、第一回の演奏会は翌月に延期することをやむなくされた。さもあらばあれ、前掲『早稲田学報』第一五三号の記事にいう如く、「一学生有志の音楽会に数千の来賓及び傍聴者を集めたる早稲田の盛や察す」(七四頁)べきであろう。ここに見られるような、学生の音楽に対する指向とその理解の急上昇は、学生の「ハイカラ熱」もさることながら、音楽界指導者、演奏家の尽力によることは言うまでもない。また、音楽とはおよそ縁がないように見える大隈にしてからが、

音楽が社会的娯楽として肝要な事は呶々を要しない。然るに我国の人は斯る弊の無い、極く健全な音楽なる物ある事を知らないので、少しでも胸中に不平があるとすぐ先づ一杯と言ふやうになつて来る。若し之に音楽趣味を知らしめ、其う云ふ時にそれで慰める事にしたらば何ンなに利益であるか知れない。……音楽には耳の修練が必要である。幼児から之を聴きつけねば、高尚な音楽は幾何聴いても判らぬ物である。余等の如く、封建の時代に生れた者は不幸にして幼時から之を聴く習慣を養はないので、現今では、幾何程聴いても、殆どドラ声のやうに聴えて少しも趣味を感じない。誠に是は五官の一をゼロにした話で、遺憾至極である。何うか今後の子弟には決して斯う云ふ事がないやうにしたいものである。

(『成功』明治三十六年十一月発行第三巻第二号 八四―八五頁)

と言い、それに津田左右吉が、洋楽案内とも言うべき内容の「音楽俗話」を、雑誌『をんな』に連載(明治三十八年八月―明治三十九年九月)したことなどに窺われるような、一般識者層の音楽に寄せる関心も見逃せない力として働いていたと思われる。

 こうした学生聴衆の熱心な応援を支えとして、楽員が更に一層の研鑽を積んで行ったことは想像に難くない。事実、四十一年には春秋に第二回、第三回の演奏会を開くに至っている。そしてその活動は学外の専門家・評論家の目に止まるところとなり、秋葉瓢風は、「学生音楽会所感」において、

早稲田音楽会は、早大の好楽家諸氏が中心となつて東儀鉄笛氏指導の下に、まだ去年の十一月に第一回の演奏会を開いたばかりの新進気鋭な一楽会であるが、最初の楽会には北村式の叙事唱歌や、近来素人間の一流行なる和洋折衷式の合奏などが中々盛んに演ぜられた。一体の遣り口は、東儀氏の所謂雅俗和洋混合式と云ふのであつた。それが、今回まさか〔慶応大学〕ワグネル絃楽会合奏団の向ふを張るわけでもあるまいが、会員諸氏の曲目で八曲の中が四曲まで殆んど絃楽合奏で持切つて居るのを見ても、其如何に同会が之等の合奏に全力を傾注して居るかが知られるので、殊に其演奏の手際なども、声楽の合唱ものは一体に振はぬ様であるが、器楽ものの合奏は中々整頓して居るやうで、前回には楽友倶楽部式のシユーベルトの「ミリタリー・マーチ」にウエバーの「デル・フライシユツ」が演ぜられたに、今回は明治音楽会やワグネルでも是迄度々繰返されて何時も評判のよかつたイバノイツチの「ドナウの漣」やメンデルソンの結婚式行進曲等が演ぜらるるのを見ても、其如何に短日月の間に長足の進歩を示して居るかが略ぼ察せらるるのである。 (『音楽界』明治四十二年一月発行第二巻第一号 四五頁)

と評し、更に、

自由に選曲し自由に研究することの出来る一事は、正さに学生音楽会の特色であらうと思ふ。故に吾入は迚ても素人の手に合ひそうもない大仕掛な立派な大音楽会は、其固より専門家連の試む可き楽会として一切専門家連に任かせるとし、学生音楽会は飽くまでも学生式に其特色を没却せざるやうに勉めて、益々其活動発展を計るが最も得策であると云はざるを得ない。此点より吾人は、之等の特色を発揮せしむる上に於て最も有力なる自由と便宜を有する早慶の両楽会が、今日の我が野球界に於て其オーソリチーとして活動せるかの如く、近き将来に於て学生楽壇のオーソリチーとして益々進歩発展せんことを、趣味鼓吹の為め切に希望するものである。 (四六頁)

と、大きな期待を寄せた。このような学苑内外の温かい眼差しと理解に包まれながら、第四回の演奏会は、四十三年十一月初めて学外に進出、神田青年会館で開催するなど、着実に成長して行った。またこの年四月、東京音楽学校教授ウェルクマイスターと東洋音楽学校長鈴木米次郎が発起人となって組織された「東京フヒルハルモニー会」に、大隈夫妻が保護会員として入会したことは、音楽会の活動と発展にとって強い支えとなったことであろう。