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第四編 早稲田大学開校

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第十四章 学苑の拡充

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一 法人組織の改正

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 創立二十五周年の翌四十一年、学苑は財団法人となり校規を改定した。先に学苑は民法の規定に従って、三十一年十一月二十六日に社団法人として認可された後、三十三年二月に改正を加え、合せて職務章程を制定し、職員の選定その他を定めた。この時の社団法人東京専門学校には、維持員七名から成る社員、維持員の中より選んだ理事二名すなわち校長と学監、同じく維持員の中より選んだ会計監督一名があったが、校長・学監の下に幹事を置き、幹事の下に主事・課長等を設け、日常業務の遂行を機敏迅速ならしめた。更に、早稲田大学と改称した後、三十六年十二月に定款を改正し、欧米諸大学の制度を参酌して、学苑機構の基本構成を維持員(社員)会・教授会議・評議員会の三者を以て組織するものとし、維持員会は本校維持上の重要事項を、また教授会議は教務上の事項を協議決定するものとし、評議員会は本校の事業を監督・助成する機関とした。この時、維持員の欠員が補充されて七名となり、従来の評議員は解嘱されて、新定款に基づく評議員五十四名が新たに嘱任された。評議員の内訳は、大隈重信および維持員の推薦した者三十名、中央校友会選出二十名、地方校友会選出四名であった。また、これらの規程に伴い、職務規定、会計規定、教務規定等が定められ、教職員年金規定、校賓会規定等も制定された。

右の改正定款は左の如くである。

早稲田大学定款

第一章 総則

第一条 本校は各種専門の学術を教授するを以て目的とする社団法人とす。

第二条 本校は高等学術の普及に資せんが為め、講義録、雑誌及著訳書類を出版す。

第三条 本校は早稲田大学と称す。

第四条 本校は東京府豊多摩郡戸塚村大字下戸塚六百四十七番地に設置す。

第二章 資産

第五条 本校の資産は別冊財産目録に掲載す。

第三章 社員

第六条 本校の社員は之を維持員と称す。

第七条 維持員の定員は五名以上十名以下とす。

第八条 新に維持員を加入せしむる時は維持員中より之を提議し、其四分の三以上の同意を経るを要す。

第九条 維持員は左の事由に因り退社す。

一 死亡

二 禁治産

三 本人の希望により維持員の四分の三以上の同意

四 本人を除くの外維持員総体の同意を以てする除名

第十条 維持員が有する権利義務は其退社と共に消滅するものとす。

第四章総会

第十一条 総会は本校に関する重要なる事件を決定す。

第十二条 総会は定時総会及臨時総会の二種とす。

第十三条 定時総会は毎年三月、七月及九月に於て之を招集す。

第十四条 臨時総会は維持員の請求に依り之を招集す。

第十五条 総会の招集は総会の目的及決議事項を記載し、少くとも五日以前に維持員に通知すべし。

但し、総会に於ては出席者全員の同意ある時は、予め通知せざる事項に付ても議決するを得。

第十六条 総会の議決は出席維持員の過半数に依る。

但し、法令若くは定款に特別の規定ある時は此限にあらず。

第五章 理事及監事

第十七条 本校の理事定員は二人にして、其一人を校長と称し、一人を学監と称す。

第十八条 校長及学監は総会に於て過半数の同意を以て維持員中より之を選任す。其解任に付ても亦同じ。

第十九条 校長及学監は総会の決議に基き校務を管理す。

第二十条 本校の監事定員は一人又は二人とし、之を会計監督と称す。

第二十一条 会計監督は総会に於て過半数の同意を以て維持員中より之を選任す。其解任に付ても亦同じ。

第二十二条 会計監督は本校の会計を監査す。

第二十三条 校長及学監の任期は三ケ年とし、会計監督の任期は二ケ年とす。

第二十四条 校長、学監又は会計監督にして任期中退職したる場合に選任せられたる後任者の任期は、前任者の任期に依る。

第六章 計算

第二十五条 本校の会計は総会の決議を以て定めたる会計規定に拠り之を処理す。

第二十六条 校長及学監は定時総会に於て会計の状況を報告し、且つ不足あれば各維持員の出資額を定めて之が決議を求むべし。

第七章 教授会議

第二十七条 教授会議は教務に関する事項を議定す。

第二十八条 教授の方針、教則の改正等、凡て教務に関する重要の事項は教授会議の評決を経るを要す。

第二十九条 教授会議の議員は各部の講師より校長及学監之を推薦す。

第三十条 教授会議は少くとも毎年一回校長及学監之を招集す。

第八章 評議員会

第三十一条 本校に評議員を置く。

第三十二条 評議員の定員は五十名とす。

但し、地方校友会の選挙に係る評議員は定員以外とす。

第三十三条 評議員は左の方法に依り推薦又は選挙せられたるものに嘱託す。

一 創立者伯爵大隈重信並に維持員が本校基金寄附者及関係者中より推薦したる者 三十名

二 中央校友会の選挙したる者 二十名

三 五十名以上の会員を有する地方校友会の選挙したる者 若干名

第三十四条 評議員の任期は二ケ年とす。

第三十五条 評議員は互選を以て其会長を定む。

第三十六条 維持員は評議員会に出席するを得。

但し議決に与るを得ず。

第三十七条 校長及学監は評議員会に学事及会計の報告をなし、其承認を求むるを要す。

第三十八条 評議員会は其決議を以て維持員の総会に意見を提出するを得。

第三十九条 評議員会は少くとも毎年一回校長及学監之を招集す。

第四十条 評議員会は定員の五分の一以上出席するにあらざれば議事を開くを得ず。

第九章 定款の変更

第四十一条 定款は維持員四分の三以上の同意あるにあらざれば変更するを得ず。

(『第廿二回自明治三十六年九月至明治三十七年八月早稲田大学報告』 附録一―六頁)

 こうした定款改正に対して、学監高田は三十七年七月の第二十一回得業式において、学事報告の中で次の如く言及している。

此早稲田大学は先頃民法の規定に従ひ社団法人の届けを致して置きました。其定款を先頃多少改正致しまして、丁度亜米利加あたりの大学にも往々其例がありますが、大体を社員会、教授会、評議員会の三つで組織する仕組に致しました。即ちトラステー、フハカルテー、オバーシアスと云ふ大体組織に致し、社員会は内の事務のこと、教授会は教授上の相談、評議員会は学校の仕事を監督する、斯う云ふ主意で定款の改正を致しましてございます。

(『早稲田学報』明治三十七年八月発行第一〇四号 三九―四〇頁)

 このように、アメリカ等の大学機構を摂取して、維持員会・教授会・評議員会の基本構成ができたが、四十年以降学苑を社団法人から財団法人へと法人組織を改正する必要が生じた。そこで四十年四月四日、維持員会を大隈邸に開き、鳩山和夫高田早苗天野為之坪内雄蔵田原栄市島謙吉各維持員の他に、田中(唯)幹事、伊藤副幹事が出席し、左の件を決議した。

一、早稲田大学ニ総長及学長ヲ置キ、校長・学監ヲ廃スルコト。

一、大隈伯爵ヲ総長ニ推戴シ、高田早苗氏ヲ学長ニ選挙スルコト。

一、社団法人タル本校組織ヲ財団法人ニ改正スルコト。

一、本校維持員(現在七名)ヲ十五名ニ増加スルコト。

一、左ノ諸氏ヲ新ニ維持員ニ選挙スルコト。

浮田和民 鈴木喜三郎 塩沢昌貞 金子馬治 坂本三郎 田中穂積

島村滝太郎 田中唯一郎

一、本校規定ニ基キ、此際教授会員ニ左ノ諸氏ヲ嘱託スルコト。

〔氏名略〕

但右ハ一応科長・部長・教務主任ノ意見ヲ徴シテ更ニ次回ニ提出確定スルコト。

一、維持員会ハ毎月一回開会ノ制ニ改ムルコト。

一、重ナル職員ノ進退ハ維持員会ニ計ルノ制ニ改ムルコト。

右諸件ニ関スル必要ノ改正ヲ本校諸規定ニ加へ、学長ヨリ更ニ之ヲ次回ノ維持員会ニ提出スルコトニ決ス。

備考 総長ハ名誉総長ノ意味ヲ以テ之ヲ置キ、理事中ニ加ヘズ、大隈伯爵ヲ推戴スルハ、創立者タルガ故ニ非ラズ。英国諸大学ガ当代ノ人傑ヲ戴クノ制ニ則レル所以ヲ述べテ、伯爵ノ快諾ヲ得タリ。

(文書課保管『自明治四〇年四月至明治四五年七月維持員会決議録』)

 同月二十八日には引続いて維持員会を開き、次のような事項を決定している。因にこれには新たに選出された維持員も加わり、その出席者は大隈をはじめ高田、天野、坪内、市島、田原、浮田、塩沢、坂本、金子、島村、田中(穂)、田中(唯)であった。

一、法人組織改正ノ為メ本大学定款ヲ別紙第一号〔略〕ノ通改メ、組織改正ニ関スル手続ノ調査ヲ学長ニ一任スルコト。

一、本大学職務規定、会計規定、基金管理委員規定、教務規定、教授会議規則、教職員年金規定、校賓会規定ヲ別紙第二号〔略〕ノ通改正スルコト。

一、本大学教授会議員ニ左ノ諸氏ヲ嘱任スルコト。

金子馬治 浮田和民 安部磯雄 塩沢昌貞 池田竜一 波多野精一

吉田東伍 土子金四郎 村上専精 山田三良 田中穂積 小山温

坂本三郎 今村信行 岡田正美 中村進午 久米邦武 松平康国

有賀長雄 平沼淑郎 鈴木喜三郎 高田早苗 田原栄 島村滝太郎

坪内雄蔵 天野為之 中桐確太郎 朝河貫一 吉田良三 今井友次郎

横田秀雄 豊島直通 増田藤之助 藤山治一 青柳篤恒 高杉滝蔵

武信由太郎 宮井安吉 梅若誠太郎 牧野菊之助 杉山重義 田尻稲次郎

津軽英麿

一、本大学評議員ニ左ノ諸氏ヲ嘱託スルコト。

永井一孝 内ヶ崎作三郎 菊池三九郎 五十嵐力 吉田巳之助 牧野謙次郎

一、維持員会ノ定日ヲ毎月第一月曜日ト定ムルコト。

一、鳩山前校長ニ対シ感謝ノ意ヲ表シ、併セテ紀念品ヲ贈呈スルコト。其物品ノ選択ハ学長ニ一任ス。

右ノ外、学長ハ大隈伯爵銅像建設ニ関シ校友会委員決議ノ要領ヲ報告シ、其費用ニ不足アリタルトキハ学校ニ於テ其幾分ヲ負担セザルベカラザル旨ヲ述べ、一同ノ同意ヲ得、次ニ大隈総長ハ、大隈家所有ニ係ル本大学敷地ヲ本大学ニ寄附スルノ意ヲ表明シ、今秋二十五年式典ヲ機トシテ之ヲ発表シタシトノ希望ヲ述ベラル。 (同書)

 なお、総長推戴式はこの会合に先立って行われ、十七日、教職員・学生一同校庭に参集し、高田学長の挨拶に引続いて、総長から就任の演説があった。越えて五月六日午後零時半から本大学内において維持員会が開かれ、高田、市島、田原、浮田、金子、坂本、塩沢、田中(唯)、島村が出席し、前回ならびに前々回の決議に従って協議した。すなわち、

一、財団法人組織ノ手続ヲ完了スルマデノ間、前々回決議ノ要綱ニ基キ、一時社団法人ノ定款ヲ改正スルコト。(定款改正案ハ前回ノ維持員会ニ提出シ同意ヲ得シモノナリ。)

一、基金管理委員前島密鳩山和夫高田早苗、三枝守富、天野為之坪内雄蔵、山沢俊夫、山田英太郎、昆田文次郎、斎藤忠太郎の十氏任期満了シタルヲ以テ、更ニ以上諸氏ヲ同委員ニ嘱託スルコト。但高田早苗氏ハ、今回定款改正ノ結果、本大学専任理事トナリタル為メ同委員ニ加ハラザルコト。

一、本大学会計監督ヲ二名ニ増加シ、現任市島謙吉氏ノ外更ニ田原栄氏ヲ選任スルコト。 (同書)

で、今回の決議により、 一応社団法人のまま、訂正された定款は五月二十日に認可された。

 この定款の改正に対して、高田学長はこの年七月の第二十四回得業式で次の如く言及している。

先頃早稲田大学は定款を多少改正致しました。即ち従来の理事二名と云ふのを一名と致して、尚ほ別に総長を戴くと云ふことに致しました。それで大隈伯を総長に戴きまして、私が学長と云ふ名の下に理事の職に当ると云ふ推選を蒙むりました。又維持員は従来七名のものを十五名に増加致しました。而して、此定款改正の目的は従来社団法人でありました早稲田大学を遠からざる未来、適当の時機に於て財団法人となす、斯う云ふ方針でありまして、只今其手段を講じ手続を研究して居ります際であります。又此定款改正の結果……ではありませぬが、前から定款に載つて居りました教授会、之れは只今までは名のみ存して居つて実際組織を致しませんでありましたが、此度講師中より、殊に専ら学校の為に尽される諸君の中より此議員を挙げまして始めて教授会を組織することになりました。此組織が整ひまして始めて彼の米国等の大学にも普通である所の維持員会、教授会、評議会、即、トラスチー、フアカルチー、オバアシアスと云ふ三機関が整つた訳になります。

(『早稲田学報』明治四十年八月発行第一五〇号 三九頁)

かくて社団法人の内容を一時変更したが、もとより財団法人にするのが最初からの目的であり、この過渡期はおよそ一ヵ年で、財源も確保されたから、いよいよ財団法人設立に踏み切り、四十一年二月一日の維持員会では、財団法人設立と同時に社団法人の解散を決議して、三月十日付を以て主務官庁へ出願し、五月九日これが許可を得た。

申東専第六〇号

財団法人早稲田大学設立者 伯爵 大隈重信

本年三月十日付申請財団法人設立の件民法第三十四条に依り許可す

明治四十一年五月九日 文部大臣 男爵 牧野伸顕

(同誌明治四十一年六月発行第一六〇号 三六頁)

そこで五月二十二日、財団法人設立および社団法人解散の登記を完了した。この時の登記事項である校規、理事および維持員は次の通りである。

早稲田大学校規

第一章 総則

第一条 本大学ハ各種専門ノ学術ヲ教授スルヲ以テ目的トスル財団法人トス。

第二条 本大学ハ早稲田大学ト称ス。

第三条 本大学事務所ハ東京府豊多摩郡戸塚村大字下戸塚六百四十七番地ニ設置ス。

第二章 資産

第四条 本大学ノ資産ハ別冊財産目録ニ掲載ス。

第五条 本大学設立ノ目的ニ必要ナル資産ノ管理・使用及処分ハ、総テ維持員会ノ決議ニヨリ学長之ヲ為ス。

第三章 維持員

第六条 本大学ニ維持員ヲ置ク。

第七条 維持員ノ数ヲ十五名トシ、其七名ノ任期ヲ終身トシ、其八名ノ任期ヲ五年トス。

第八条 終身維持員ノ補欠及有期維持員ノ改選補欠ハ、維持員三分ノ二以上ノ同意ニヨリ之ヲ行フ。

但、有期維持員補欠ノ場合ニ於ケル後任者ノ任期ハ、前任者ノ任期ニ依ル。

第九条 維持員ノ資格ハ左ノ事由ニ依リテ消滅ス。

一 任期満了

二 死亡

三 禁治産、準禁治産、破産

四 辞職

五 除名

第十条 維持員ノ辞職及除名ハ他ノ維持員五分ノ四ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス。

第四章 維持員会

第十一条 維持員会ハ維持員ヲ以テ組織シ、本大学ニ関スル重要ナル事件ヲ決定ス。

第十二条 維持員会ハ定時会及臨時会ノ二種トス。

第十三条 定時会ハ毎月一回学長之ヲ招集ス。

第十四条 臨時会ハ維持員ノ請求ニ依リ学長之ヲ招集ス。

第十五条 維持員会ノ招集ハ、会議ノ目的及決議事項ヲ記載シ、少ナクトモ五日以前ニ各維持員ニ通知スベシ。

但、出席者全員ノ同意アル時ハ、予メ通知セザル事項ニ付テモ議決スルコトヲ得。

第十六条 維持員会ノ議決ハ、出席維持員ノ過半数ニ依ル。

但、法令若クハ本校規ニ特別ノ規定アル時ハ此限リニアラズ。

第十七条 維持員会ハ維持員半数以上出席スルニアラザレバ開会スルヲ得ズ。

第五章 総長学長及会計監督

第十八条 本大学ハ維持員会ノ決議ヲ以テ総長一名ヲ推戴シ、本大学ノ統理者トス。

第十九条 本大学ハ維持員会ノ決議ヲ以テ維持員中ヨリ理事一名ヲ選挙シ、之ヲ学長ト称ス。

第二十条 学長ハ本大学ヲ代表ス。

但、維持員会ノ決議ニ従ヒ校務ヲ管理ス。

第二十一条 本大学ハ維持員会ノ決議ヲ以テ、維持員中ヨリ監事一名又ハ二名ヲ置キ、之ヲ会計監督ト称ス。

第二十二条 総長及学長ノ任期ハ三ケ年トシ、会計監督ノ任期ハ二ケ年トス。

第二十三条 総長、学長又ハ会計監督ニシテ、任期中退職シタル場合ニ選任セラレタル後任者ノ任期ハ、前任者ノ任期ニ依ル。

第六章 計算

第二十四条 本大学ノ会計ハ、維持員会ノ決議ヲ以テ定メタル会計規定ニ拠リ之ヲ処理ス。

第二十五条 学長ハ毎年七月ノ定時会ニ於テ、会計ノ状況ヲ報告スベシ。

第七章 教授会

第二十六条 教授会ハ教務ニ関スル事項ヲ議定ス。

第二十七条 教授ノ方針、教則ノ改正等凡テ教務ニ関スル重要ノ事項ハ、教授会ノ議決ヲ経ルヲ要ス。

第二十八条 教授会ノ議員ハ、各部ノ講師ヨリ総長及学長之ヲ嘱任シ、其任期ヲ三ケ年トス。

第八章 評議員会

第二十九条 本大学ニ評議員ヲ置ク。

第三十条 評議員ハ左ノ方法ニ依リ推薦又ハ選挙セラレタルモノニ嘱託シ、其任期ヲ二ケ年トス。

一 総長及維持員会ガ本大学ノ関係者中ヨリ推薦シタル者 三十名以内

二 中央校友会ノ選挙シタル者 二十名以内

三 五十名以上ノ会員ヲ有スル地方校友会ノ選挙シタル者 若干名

第三十一条 評議員ハ互選ヲ以テ其会長ヲ定ム。

第三十二条 維持員ハ評議員会ニ出席スルヲ得。

但、議決ニ与カルヲ得ズ。

第三十三条 学長ハ評議員会ニ学事及会計報告ヲナシ、其承認ヲ求ムルヲ要ス。

第三十四条 評議員会ハ其決議ヲ以テ維持員会ニ意見ヲ提出スルコトヲ得。

第三十五条 評議員会ハ少クトモ毎年一回会長之ヲ招集ス。

第三十六条 評議員会ハ会員五分ノ一以上出席スルニアラザレバ開会スルヲ得ズ。

第九章 校規ノ変更

第三十七条 本校規ハ早稲田大学設立ノ目的ノ範囲内ニ於テ、維持員五分ノ四以上ノ同意ニ依リ、文部大臣ノ許可ヲ経テ、之ヲ変更スルコトヲ得。

附則

本大学設立ノ際ニ於ケル維持員及ビ理事ハ設立者伯爵大隈重信之ヲ指定ス。

財団法人早稲田大学理事及維持員

理事 維持員 高田早苗 維持員 天野為之 維持員 坪内雄蔵 維持員 市島謙吉

維持員 田原栄 維持員 大隈信常 維持員 三枝守富 維持員 金子馬治

維持員 田中唯一郎 維持員 田中穂積 維持員 浮田和民 維持員 坂本三郎

維持員 塩沢昌貞 維持員 島村滝太郎 維持員 鈴木喜三郎

(同誌同号 三六―三八頁)

 なお、鳩山がこの時維持員からもその名を消した事情については、市島の『背水録』には次のように説明されている。

鳩山は長く学校に関係したる縁故もあり、新財団法人に於ても維持員として据え置くは情誼上当然の事なるが、鳩山は昨年の学長更迭一件以来学校に快からず、殊に一月中(議会開会の折)忽然進歩党籍を去りて政友会へ入り突飛に進退をなしたる最近の出来事もあり、政教別物なりと云ふと雖ども、大隈伯と疎隔の位地に立つ以上は学校とも事実に於て益々遠かるは勢の免かれがたき処、大隈伯は此際鳩山を維持員中より除くべしと言明あり、われ等も到底去らざる可らずとせば寧ろ新たに維持員を定むる時に於てすべしとなし、ここに鳩山身上の問題に付特に維持員会を開く事となりたり。その日は忘れたれど一月末か二月の初旬と覚ふ、伯邸に維持員会を開きし砌、伯は無雑作に、去つて可なりとの意見なりしも、事政治上にも関係あり、特に議会開設中、鳩山が去就を決して間もなく、維持員よりも去るは世間の思惑も如何あらん、中傷者は大隈並に早稲田大学を雅量なしと云はんは必定、去りとて情実にほだされて得がたき機会に断然たる処置を為さずんば、恐らく他日嚙臍の悔あらん、維持員もこれには当惑せり。然れども結局此の際に於て除くを可とし、誰れも異論なくそれと決したり。

天野は病気にて当日席に在らず。然るに同人は鳩山と特別の関係あるを以て、高田は会議の後病床に付て鳩山の事を相談せしに、無論維持員より除く方然るべしと云へりと聞けり。

 右の時期に開催された維持員会は、 一月二十六日ならびに二月一日であるが、その何れの決議録にも、鳩山排除については記録されていない。しかし、維持員会記録には、二月二十九日付の「老台目下ノ御状況ハ公私頗ル御多忙ノ様察セラレ候故此際維持員トシテ新ニ御煩労相掛候事ハ御遠慮致ス可ク」との高田学長の鳩山宛書翰が綴り込まれ、鳩山の右書翰受領証が添えられてある。

 また、校規の第二十一条に定められた会計監督には引続き市島謙吉がこれに当っていたが、その後四十二年七月に、学長以外に学長を補佐する理事一名を置くとする一条を職務規定に加えて、市島がこれに就任し、三枝守富が市島に代って会計監督となった。更に、四十四年五月に校規を改正し、理事二名または三名を置くこととし、高田早苗天野為之市島謙吉の三名が理事に選出され、高田が学長を続けるに至った。

 なお、四十四年の右の如き改正は、市島の『雙魚堂日載』によれば、「他日天野に学長を譲るの準備」として行われたのであり、これに先立って、高田は自邸に天野を招いて半日「隔意なく一切の事をさらけ出して」語っている。すなわち、天野は「今のごとく学校の規模拡大しては到底自分の力及ばず、自分は矢張り教務一方にのみたづさはりたしとの意向を洩らした」のに対し、高田は「自分も大任に当り疲れたれば、是非誰れかに代つて貰ひたし。然る処、未だ若い連中に托すべき場合にあらず。学校は保守的のものなれば、老輩牛耳を取るの必要あり。……但し学校の事業も愈々多端となりたれば、学長一人にて内外の事に当るは困難」であるから、この時期に理事を一名増員して天野を迎え、近い将来「君を学長とし、余と市島、理事として君を助け、内外の事務を分つて担当せば、今日よりも却つて事も挙がるべきにつき、君も決心して起たれよ」と説き、五年来の両者の確執は漸く解消するかに見えたが、後述(八九二頁)の如く、天野の抱懐する学苑将来の理想像は高田らの到底容認し難いものであることが明らかとなり、その学長就任は、予定された翌大正元年秋に実現するに至らなかったので、天野の不満は内攻せざるを得なかった。

 教授会は、維持員会ならびに評議員会に比べてやや整備が遅れた。先の三十六年十二月の定款改正の際に、教授会議の組織はその第七章に四ヵ条に亘って盛り込まれ、更に左の如き「教授会議規則」が制定されている。

第一条 教授会議ハ校長・学監ノ推薦シタル本校各部ノ講師ヲ以テ組織ス。部長、科長及教務主任ハ職務上教授会議員ヲ兼ヌルモノトス。

第二条 校長・学監ハ教授ノ方針、教則ノ改正等、教務ニ関スル重要ノ事項ニツキ議案ヲ教授会議ニ提出シ、其審議ヲ求ム。

第三条 教授会議々員ハ各々教務ニ関スル発案ヲ為スヲ得。

第四条 教授会議ノ決議ハ校長・学監之ヲ実行ス。

第五条 教授会議ハ必要ナル場合ニ校長・学監之ヲ招集ス。

第六条 校長・学監ハ一部又ハ一科ニ関スル問題ニ就キ臨時ニ教授会議部会ヲ開キ、其審議ヲ求ムルヲ得。

(『早稲田大学諸規定』明治三十七年七月 二三頁)

ところが当時の『第廿二回自明治三十六年九月至明治三十七年八月早稲田大学報告』には、維持員・評議員の人名は列挙されていても、教授会議員については具体的な記載は見られない。そして三十九年五月になると、定款上の教授会議に擬したものと思われる次のような「講師会規定」が設けられ、更にその第四条に基づいて、教務委員が任命されている。

第一条 講師会は教授上の事項を評議するが為に設く。

第二条 講師会は講師全体を以て組織し、大学部及び専門部、高等師範部、清国留学生部、高等予科の四部に分ち、大学部及専門部は更に各科に区分して之を設く。

第三条 講師会は毎学年末に開会するものとす。但し臨時開会することあるべし。

第四条 校長・学監は必要に応じ各部科に就き教務委員数名を講師中より嘱託し、部長・科長・教務主任と協議し教務の整理を計らしむ。但し其期限を三ケ年とす。

〈教務委員〉

一、大学部及専門部

大学部政治経済学科・専門部政治経済科

田中穂積 高杉滝蔵 中村進午 浮田和民 天野為之 有賀長雄

大学部法学科・専門部法律科

池田竜一 岡田朝太郎 山田三良 藤山治一 鈴木喜三郎

大学部文学科

波多野精一 坪内雄蔵 増田藤之助 宮井安吉 島村滝太郎

一、高等師範部

国語漢文科

岡田正美 桂五十郎 永井一孝 牧野謙次郎 菊池三九郎

歴史地理科

吉田東伍 横山又次郎 高桑駒吉 山上万次郎

法制経済科

田中穂積 鈴木喜三郎

英語科

内ヶ崎作三郎 熊本謙二郎 増田藤之助 宮井安吉

一、高等予科

五十嵐力 池本純吉 吉田巳之助 吉田良三 高杉滝蔵 武信由太郎

永井一孝 梅若誠太郎 内ヶ崎作三郎 藤山治一 菊池三九郎 宮井安吉

杉山令吉 杉山重義 (『早稲田学報』明治三十九年六月発行第一三四号五四頁)

『半世紀の早稲田』はこの教務委員制度を重要視して、「今日の教授会に相当するもので、各科教務の独立を意味する意義深き規定の出現であつた」(二二六頁)と記しているが、この教務委員制度が実際に機能したか否かは疑問であり、何れにせよ恐らくきわめて短命であったものと推定せられる。

 このようにして、高田も認めているように、「教授会議」は数年間有名無実に外ならなかったと見て差支えなく、ともかくも「教授会議員」が一応確定したのは、三五五頁に触れた四十年四月二十八日の維持員会が決定した議員の嘱任においてであった。なお四月四日の維持員会では、「教授会員」として、原嘉道、副島義一、藤井健治郎、服部文四郎、三宅雄二郎、大隈信常、伊藤重治郎の名も挙げられていたが、科長・部長・教務主任の意見を徴した結果、右七名は削除され、新たに朝河貫一、吉田良三、今井友次郎、横田秀雄、豊島直通、牧野菊之助、田尻稲次郎、津軽英磨の八名が加えられ、合計四十三名となったのである。第一回教授会は四十年五月十二日、総長邸に開催され、出席者三十三名、天野為之が議長に、小山温が副議長に選出された。四十一年六月の『早稲田大学諸規定』には、次のような「教授会規定」が収められている。

第一条 教授会議員ハ校規ノ規定ニ基キ総長及学長之ヲ嘱任ス。

但、科長、部長及教務主任ハ職務上教授会議員ヲ兼ヌルモノトス。

第二条 教授会ニ議長及副議長ヲ置キ、会議ノ議事ヲ整理セシム。

但、議員ノ互選ニ依リ其任期ヲ三ケ年トス。

第三条 学長ハ教授ノ方針、教則ノ改正等、教務ニ関スル重要ノ事項ニ付キ議案ヲ教授会ニ提出シ、其審議ヲ求ム。

第四条 教授会議員ハ各々教務ニ関スル発案ヲ為スヲ得。

第五条 教授会ノ決議ハ学長之ヲ実行ス。

第六条 教授会ハ毎年三回学長之ヲ招集ス。

但、必要ナル場合ハ臨時会ヲ招集スルヲ得。

第七条 学長ハ特ニ一部又ハ一科ニ関スル問題ニ就キテハ随時ニ教授会部会ヲ開キ、其審議ヲ求ムルヲ得。 (一八頁)

 この規定によって明らかな如く、教授会は全学の教務に関する審議機関であって、教授会部会に関する規定はあっても、各部・科の教務の独立は必ずしも確立してはいなかったと見てよかろう。なおこの後、四十四年五月三十日の維持員会において、校規第二十八条が、「教授会ノ議員ハ各部ノ講師ヨリ総長及学長之ヲ嘱任シ三ケ年毎ニ其全部ヲ更任ス」と改正され、且つ、「講師中教授会議員ヲ兼ヌルモノハ之ヲ教授ト称ス」との条項が新たに「教授会規定」の第二条として插入された(『自明治四〇年四月至明治四五年七月維持員会決議録』)。すなわち、教員中の教授と講師との区分が、単なる慣行ではなく、初めて規定の上に成文化されたのである。

二 学科の更改

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 創立二十五周年を迎えた明治四十年当時の学苑の学制は、大学部・師範科(旧高等師範部)・専門部・高等予科および清国留学生部より成り、あたかも大学と高等師範学校と専門学校と高等学校および留学生学校を擁した、総合学苑とも言えるものであった。それに、関係校としての早稲田中学校、早稲田実業学校および早稲田高等予備校をも加える時、学苑の規模の拡大は著しいものがあった。因にこの高等予備校は早稲田中学校に併置され、高等学校または各種の高等専門学校に入学せんと欲する中学卒業生その他に準備教育を施す学校で、明治三十六年に設立されたものである。しかも今や第二期計画が発表され、大学部に理工科が、高等師範部に数学科・理化学科が置かれ、付属校としての早稲田工手学校も設けられて、今日の早稲田学苑の輪廓はこの時期にある程度まで形成されたのである。

 さて、第四章では主として明治三十五年より三十九年までのカリキュラムについて述べたので、本章ではそれに続き四十年より四十五年に至るカリキュラムについて触れよう。

 先ず四十―四十一年度の各科一覧ならびに清国留学生部以外の課程表を第十四表ならびに第十五表に、清国留学生部を除く講師および担当学科目を第十六表に掲載する。第四章に挙げた三十五―三十六年度の同種の資料では、大学部は第一年度のみが発足していたのであるが、四十年のこの資料では、遅れて発足した商科も第三学年まで存在しており、学苑の講師陣についてもその全貌が漸く判明する貴重な資料である。

第十四表 明治四十―四十一年度各科一覧

(『早稲田大学規則』明治四十年七月 五頁による)

第十五表 明治四十―四十一年度課程表

大学部

政治経済学科

法学科

文学科

哲学科

英文学科

商科

師範科

国語漢文科

歴史地理科

英語科

専門部

政治経済科

法律科

右ハ邦語ヲ以テ教授シ、又傍ラ英語・独語及法典ノ参照トナルベキ諸外国ノ原書ヲ教授スルコトアルベシ。

高等予科

第一高等予科ハ大学部政治経済学科ニ、第二高等予科ハ同部法学科ニ、第三高等予科ハ同部文学科ニ、第四高等予科ハ同部商科ニ、第五高等予科ハ同部師範科ニ入ル者ノ予備科トス。

第一高等予科(政治経済学科)

第二高等予科(法学科)

第三高等予科(文学科)

第四高等予科(商科)

第五高等予科(師範科)

(同書五頁、二五―三二ノ一頁、三六―三八頁、四二―四六頁)

第十六表 明治四十―四十一年度講師および担当科目

大学部

政治経済学科

法学科

文学科

商科

専門部

政治経済科

法律科

高等師範部

備考 本部は学則改正の結果、第二学年及第三学年のみにして、第一学年は設置せず。

高等予科

(『第二十六回自明治四十年九月至明治四十一年八月早稲田大学報告』 九―二七頁)

 右の課程表に大学部師範科とあるのは、高等師範部がこの年改正せられたものである。明治三十六年、高等師範部が専門部より分離して設置されたことは六一頁に既述したところであるが、専門学校令による私立専門学校において高等師範部または師範部の名称を持つものが置かれたのは、当時学苑の外には、日本大学と国学院大学との二校を数えるに過ぎなかった。

 これより四半世紀を経た昭和四年十一月十一日、高等師範部の学生に対して、高田は、次のようにその創設の意義を説明している。

早稲田大学が高等師範部を造つたと云ふことは、唯造つたと云ふ訳では勿論ないのであつて、此高等師範部なるものを設けたと云ふことに付ては何等か考へがなければならぬ。何等か趣旨がなければならぬ。御承知の通り教育界殊に中等教育界と云ふものには、一方御茶の水――今は場所は変つて居るけれども矢張り茗渓派といつて居るが――を中心とした高等師範の団体が勢力を占めて居る、一方は又本郷の東京帝大其の他の帝大出身の人々が相拮抗して蟠居して居る、斯う云ふやうな有様で長い間あつた。早稲田も私立大学として一方に立つ以上は、或は政治界或は実業界に於てのみならず、教育界に於ても陣を張らなければならぬ。教育界に於て他の二つと並んで拮抗する丈けの力を養ひ、さうして早稲田は早稲田の教育上の趣旨を持つて居るのであるから、其趣旨の普及を計ると云ふことにしなければならぬ。それが此学園の力を増す所以であるのみならず、国家に貢献する所以でなければならない。斯う云ふ考へで高等師範部を造らうと云ふ気に私がなりまし〔た。〕……

一体諸君が中学校とか女学校とか、それぞれ中等程度の教育機関に於て将来教鞭を執られると云ふことになれば、或は国語漢文を教へる、或は英語を教へると云ふやうな風に、それぞれ諸君が学ばれた所の学問を諸君の門下生に教へると云ふことに十分に努めるのは之は言ふを俟たぬ。けれども、英語を教へればそれで以て諸君の任務は終れり、国語漢文を教へればそれで以て諸君の任務が終る、決してそんなものではないと思ふ。無論英語を能く教へなければならぬ、無論国語漢文も能く教へなければならぬが、其以外の諸君の大切な務はTo make man斯う云ふことである。人を造ることである。出来得可くんば模範国民を造ることである。是が諸君の最も大切な義務、大切な使命でなければならぬ。

(『早稲田学園』昭和五年 一八六―一八七頁、一九五―一九六頁)

 高等師範部は、学生数も増加して順調に発展した。そこで四十年に至りこれを大学部に昇格させようという議論が起った。そしてこの年に大学部師範科の予科生を募集し、四月に第五高等予科(師範科)を新設してこれに入学させた。しかし翌四十一年、この時の予科生が師範科に進む年には早くも再び改正されて、師範科は大学部文学科に編入された。すなわち、従来文学科には哲学科と英文学科があったのだが、このとき旧師範系の三学科を加えて五科となった。しかるに明治四十三年に至りまたもやこれを廃して、高等師範部を再設置したのである。その理由について、維持員会記録には左の如く記載されている。

高等師範部ハ先年之ヲ廃シテ大学部ニ編入シタルガ、爾来其成蹟ヲ見ルニ、独リ学生数ノ減少甚シキノミナラズ、学生ノ実力モ予期ノ如ク優良ノ成蹟ヲ挙グルコトヲ得ズ。蓋シコノ原因ハ中等教員ヲ養成スル学校、殊ニ高等師範学校ニ於テモ、其修業年限四ケ年ナルニ、本大学独リ四ケ年半ノ制ヲ採リタル為メニ、多数優秀ノ学生ヲ収容シ得ザリシニ基ク。依テ本学年四月ヨリ高等師範部ヲ復興シ、三ケ年半ノ修業年限トナシ、国語漢文科、英語科ノ二科ヲ置キ、歴史地理科ハ之ヲ設ケズ、西洋史ハ英語科ニ、東洋史ハ国語漢文科ニ於テ各兼修セシムルコトトナサントス。(文書課保管『自明治四〇年四月至明治四五年七月維持員会決議録』)

如上の変遷は当時の師範教育の在り方に対する試行錯誤の過程と解することもできよう。今この推移を大学部文学科とともに改正年度別に一覧表にまとめてみると、第十七表の如くである。

第十七表 高等師範部および同予科(付、大学部文学科)の推移(*には文学科進学者は包含せられない)

 この表につき若干の説明を加えると、先ず法制経済科は高等師範部が大学部師範科へ昇格した四十年に廃止された。また歴史地理科は大学部師範科の大学部文学科への編入のとき史学科となり、地理については教員資格が失われた。そして再設の高等師範部第一部では国語漢文及歴史科と英語及歴史科との二科のみを設け、前者には日本史・東洋史、後者には西洋史が配当された。教員資格は前者が国語漢文、後者が英語となり、歴史については教員資格がこのとき消滅している。そして大正に入って間もなく大学部文学科に史学及社会学科を新設した際、高等師範部第一部は国語漢文科と英語科とに名称も変更したのである。なお四十一年における大学部師範科の大学部文学科への編入の際、従来の英語科を英文学科第二部とし、大学部文学科の英文学科は英文学科第一部と称した。次に、再設の高等師範部の第二部数学科・理化学科は大学部理工科の発足に伴って設けられたもので、師範部としては全く新しい学科であったが、この時期には、無試験検定で教員免状を得るまでには至っていない。このためか第二部には予科はなく、修業年限は三年である。

 原田実(故名誉教授、大二大文)が記したように、

私立大学の高等師範部なるものは皆専門学校令に依つて経営され、僅かに無試験検定の恩恵にあづかるといふ卑屈な境遇にあり、従つてその発展の上に非常な制限を受けて来た。それにも拘らず事実に於て多数の教員を産出し、教育界に常に一特徴を送り、ややもすれば単一画一の風に流れんとする日本の教育を或程度まで、よき意味に於てノマタイズして来〔た〕……

(『日本教育の史的新視野』 二〇〇頁)

のが学苑であった。明治三十年に公布された師範教育令、また明治四十年に制定された師範学校規程によって、師範教育は、「教育の全体的構造から見れば、高等教育と義務教育との、また高級知識人と大学との間の『かけ橋』の役割をはた」した(永井道雄『近代化と教育』一一三―一一四頁)のであるが、次編第三章に説述するように、学苑が大正二年に制定した教旨において、学問の独立と並んで模範国民の造就を建学の本旨として明確にしたことは、「私学という立場から帝大と並存し、しかも帝大にみられない国民の教師の育成をその目的にかかげた」(本山幸彦『近代日本の政治と教育』二五九頁)ものであり、学苑における高等師範部の意義が更に闡明されたと見ることもできよう。

 その他、各科の動向のうち若干を摘記すれば、先ず明治四十年九月には宗教研究科が設けられ、主に文学科卒業生を対象として開講せられた。新帰国の波多野精一金子馬治などを含む哲学科の講師が中心となったものと思われるが、その規則と講師とは次の如くであった。

第一条 宗教研究科ハ研究科ノ一部トシテ、特ニ宗教ノ研究ヲ以テ目的トス。

第二条 本研究科ニ入学セント欲スル者ハ、本校文学科卒業生及ビ之ト同等以上ノ学力アル者タルヲ要ス。

但シ、宗教ニ関スル特別ノ学識アル者ハ、特ニ銓衡ノ上聴講生トシテ入学ヲ許ス。

第三条 本研究科ノ修業年限ハ当分一ケ年トス。

第四条 本研究科授業課目ハ特ニ之ヲ定メズ、毎学年ノ初メニ於テ随時之ヲ定ムルモノトス。

第五条 本研究科生ハ毎学年ノ終ニ必ズ論文ヲ提出スベシ。

第六条 本科生及ビ聴講生ノ学費ハ一ケ年金三十三円トシ、分納金一ケ月三円トス。

第七条 此他ノ事項ハ研究科ノ規定ヲ適用ス。

附則

第八条 第一年度(自明治四十年九月至同四十一年七月)ノ学科課目及担任講師左ノ如シ。

原始的基督教 波多野精一 新約全書研究 オストワルド

宗教哲学史 金子馬治 仏教原理 村上専精

中世及近世的基督教 浮田和民 仏典研究 前田慧雲

印度宗教史 姉崎正治

宗教講話 近角常観 南条文雄 植村正久 小崎弘道 コェーベル 海老名弾正

其他

(『早稲田学報』明治四十年八月発行第一五〇号 三六―三七頁)

 明治四十一年九月から文学科に特殊研究科が新設せられた。これは、「近来欧陸の学制に則り学課本位制を唱道するものあり、本大学教授会亦委員を設けて調査する所ありたるが、今直ちに各科に適用するの当否明かならざるを以て、先づ試に文学科に特殊研究科を設け、之を哲学・教育・宗教・文学の四部に分ち、担当講師之が指導の任に当り、学生をして任意に特殊の研鑽を為さしむる」(『第二十六回自明治四十年九月至明治四十一年八月早稲田大学報告』三―四頁)というもので、明治四十一―四十二年度の『学科配当表』によれば次の如き構成になっている。

特殊研究科)

(二二―二三頁)

 次いで四十二年には、政治経済学科と文学科の第三学年の学生より志望者各十名を選抜して入科させる新聞研究科が設けられた。その要項は次の通りである。

一、新聞研究科は指導講師其所属の学生を指導し、新聞に関する研究を為さしむ。

一、政治経済学科(専門部を含む)並に文学科第三学年生中より各十名づつ銓衡の上入科せしむ。

一、新聞研究科の学課目及指導講師左の如し。

論文・記事・翻訳練習 隔週 1 小山東助 同上 隔週 1 島村滝太郎

観察記、訪問記、練習、附家庭記事 隔週 2 巌谷季雄 西洋新聞・雑誌研究 隔週 1 小山東助

日本新聞研究 隔週 1 島村滝太郎 支那新聞研究 隔週 1 青柳篤恒

新聞史 毎月一回 田中穂積

一、前項学課の外、一回若は数回、左の科外講話を為し、学生をして具体的に講習せしむ。

編輯 石井勇 売捌・広告及印刷 頼母木桂吉

外交及探訪 杉村広太郎 同 松井直吉

相場 野城久吉 暗号電報 今井友次郎

一、新聞研究科学生をして随時新聞社実見を為し、実地に就て研究せしむ。

(『早稲田学報』明治四十二年十一月発行第一七七号 一三頁)

 なお、念のため蛇足を添えれば文学科の特殊研究科や右の新聞研究科は、研究科という名称を持ってはいるが、大学卒業生の研究指導を目的とする六四―六五頁その他に前述した研究科とは、別個のものと看做すべきである。

 既述(五六頁)の如く、三十七年以降独法科のみであった大学部法学科は、四十四年から英法科を設けた。四十三年の卒業式で高田は、

法学部に於いて英法科を置くことに致しました。英法科といひ独法科といつても、主として日本法律を研究するのでありますが、傍ら研究させまする語学が法律に於きましては従来独逸語丈けにしてありました。此度は英語の方で研究するものを分ちまして両部にしました訳であります。 (同誌明治四十三年八月発行第一八六号 三頁)

と述べたが、この年四月、第二高等予科(法学科)では「独法科ニハ独語、英法科ニハ英語ヲ課ス」(『早稲田大学規則便覧』明治四十三年七月発行三八頁)と規則を改正している。由来、東京専門学校はイギリス系統の政治学・法律学を以て特色としていたが、「憲法を首じめ、幾多公・私法の発布せらるるありて、我邦法制の基礎漸く確立するを得たりしが、本大学が明治三十五年愈々大学組織を発表するに及びては、我邦の法制は独逸法系の学理を参酌すること多大なるを認めたるを以て、独逸法研究の必要を感じ、特に原書独逸法研究の課目を設けたり。然るに得業生の社会活動上に於ける必要に鑑み、更に英法研究の急務なるを認め、明治四十四年九月再び原書英法研究の課目を復活したり」(『創立三十年紀念早稲田大学創業録』一四五―一四六頁)というのが、その経緯であった。

 明治四十四年四月に商科の予科は第一部と第二部に分けられ、中学校と商業学校の卒業生に対応するように改められた。この年度の大学報告は、「本学年より学則を改め、第四高等予科(商科)に二部教授の制を設け、第一部には中学校卒業生を収容し、正科外に簿記・商業算術を教授し、第二部には商業学校卒業生を収容して、同じく英語・数学等に就き特別教授を施し、学力の統一を計りたるに、其成績頗る見るべきものあり」(「早稲田大学第廿八回報告自四十三年九月至四十四年八月」『早稲田学報』明治四十四年十月発行第二〇〇号三頁)と記している。

 なお、この当時陸海軍の軍人が講義する軍政学という講座が政治経済学科に設けられたのは、珍しい事例と言うべきであろう。明治四十二年七月、第二十六回得業式で高田学長が行った訓示には、次の如く説明されている。

政治経済科の方に軍政学と云ふ講座を開きました。一般の人も軍政のことは心得て居らなければならぬが、政治経済の学問をしまする者に於ては其必要をヨリ多く認めると云ふ所から、此軍政学と云ふ講座を設け、段々其道の方々の御尽力で、陸軍の方面は陸軍中佐田辺元二郎君、海軍の方面は海軍少将成田勝郎君が御引受け下さることになりました。

(同誌明治四十二年八月発行第一七四号 三頁)

 学苑は、大学開始の前後に当り、講師および得業生数名を海外留学生として英・米・独等の諸国に派遣していた。『廿五年紀念早稲田大学創業録』は、「久しく米・独二国に留学したる塩沢昌貞氏は、明治三十五年八月第一着に帰朝して教務に従事し、尋いで田中穂積氏は明治三十六年十二月、坂本三郎金子馬治両氏は同三十七年一月、各々帰朝して教鞭を執り、……又た明治三十五年三月英・独に向け出発したる島村滝太郎氏は、明治三十八年九月帰朝して教務に従事し」た(七八―七九頁)と記している。なお、大学昇格後に出発した海外留学生については、次編七〇八―七〇九頁に一括して表示する。また、学苑は三十三年にはコロンビア大学と、三十四年にはシカゴ大学と、三十九年にはペンシルヴァニア大学と、そして四十一年にはプリンストン大学とそれぞれ協定し、本校の学士号を有する者は直ちにそれぞれの大学大学院に入学できるようになったことを付記しておく。

 明治三十七年三月に科長・教務主任の制が設けられた時の人事は六五―六六頁に触れたが、その後の異動は次の如くである。ただし理工科の人事は前章で記したので省略した。

大学部政治経済学科・専門部政治経済科

明治四十四年五月 教務主任塩沢昌貞を科長(当時の「教務規定」によれば、「専門部各科ハ大学部各科長ノ兼轄」であった)に嘱任。

大学部法学科・専門部法律科

明治三十九年五月 教務主任鈴木喜三郎は退任し、小山温を科長に、坂本三郎を教務主任に嘱任。

明治四十三年二月 小山温坂本三郎は退任し、中村進午を科長に嘱任。

大学部商科

明治三十九年七月 教務主任田原栄は退任し、後任として田中穂積を嘱任。

明治四十四年五月 田中穂積を科長に嘱任。

大学部文学科

明治四十一年五月 師範科を文学科に編入して五科となったため、金子馬治を哲学科・和漢文学科・史学科教務主任に、島村滝太郎を英文学科教務主任に嘱任。(なお旧師範系の学科は四十三年に廃止。)

明治四十四年五月 金子馬治を科長に嘱任。

高等師範部(大学部師範科を含む)

明治四十年四月 師範科に昇格。教務主任中島半次郎は退任し、後任に中桐確太郎を嘱任。

明治四十一年四月 師範科は文学科に編入。中桐確太郎退任。

明治四十三年四月 高等師範部再設。藤井健治郎を教務主任に嘱任。

明治四十四年五月 藤井健治郎を部長に嘱任。

 この間にカリキュラムの充実は着々と進行したので、明治四十四―大正元年度に関する資料を、本節末尾に掲げておこう。すなわち、前述(三六五頁)の如く四十四年に教授会規定が改定されるとともに、本大学教授名が初めて各科ごとに記載せられているから、この名簿と『学科配当表』(明治四十一―四十二年度にその最初のものが刊行されている)を紹介しよう。ただし、理工科の採鉱・建築の二科が二学年までしか掲げられていないのは、発足が機械・電気両学科よりも遅れたからである。なお、三八六―三八七頁に記した如く、大学部文学科中旧師範系の三学科は四十三年に廃止されていたが、四十四年当時には二、三年生が依然在籍していた。本配当表にこの三学科も所載されており、また、再設せられた高等師範部が二学年までしか見られないのは、このためである。

第十八表 明治四十四―大正元年度教員および課程表

〈大学部政治経済学科〉

教授〔*印は専門部政治経済科兼担を示す〕

服部文四郎 *本多浅治郎 *吉田東伍 *吉田巳之助 高田早苗 *田中穂積

高杉滝蔵 武信由太郎 *副島義一 *中村進午 *永井柳太郎 *浮田和民

*梅若誠太郎 *柳川勝二 *山田三良 山岸光宣 *山崎直三 牧野菊之助

牧野謙次郎 *煙山専太郎 藤井健治郎 藤山治一 *小林行昌 *天野為之

有賀長雄 *安部磯雄 安藤忠義 青柳篤恒 *菊池三九郎 宮井安吉

塩沢昌貞 *志賀重昻 平沼淑郎

講師〔*印は専門部政治経済科兼担を示す〕

*井上友一 井上辰九郎 *飯島喬平 本田信教 *和田垣謙三 渡俊治

河津暹 *田尻稲次郎 *高野岩三郎 谷野格 田辺元二郎 巽来治郎

成田勝郎 *松崎蔵之助 エッチ・エー・コックス 寺尾元彦 肝付兼行 *関一

関与三郎

課程表(第二学年及第三学年ニ於テハ×印ヲ必修課目トシ、其他ノ課目中ヨリ八課目選択必修ノコト。但シ必修課目中実習ハ国際法・国法行政法ト経済・財政トノ二部トシ一部選択ノコト。)

〈大学部法学科〉

教授〔*印は専門部法律科兼担を示す〕

*岩田一郎 *今村恭太郎 *戸水寛人 *豊島直通 *小山温 *横田秀雄

吉田己之助 *田中穂積 *副島義一 *中村進午 永井柳太郎 *山田三良

*藤山治一 藤井健治郎 *天野為之 有賀長雄 *坂本三郎 *菊池三九郎

*三潴信三 塩沢昌貞 *鈴木喜三郎

講師〔*印は専門部法律科兼担を示す〕

*市村富久 池田寅二郎 井上忻治 池田竜一 原嘉道 *仁井田益太郎

穂積陳重 富井政章 富谷鉎太郎 岡田朝太郎 岡野敬次郎 *谷野格

牧野英一 *寺尾元彦 *須賀喜三郎

課程表(第一学年中○印ハ独法科、×印ハ英法科ニ之ヲ課シ、其他ハ共通トス。)

〈大学部文学科〉

教授

五十嵐力 波多野精一 金子馬治 桂五十郎 吉田東伍 武信由太郎

高杉滝蔵 坪内雄蔵 永井一孝 浮田和民 梅若誠太郎 内ヶ崎作三郎

久米邦武 山岸光宣 山崎直三 松平康国 増田藤之助 牧野謙次郎

煙山専太郎 藤井健治郎 藤山治一 遠藤隆吉 有賀長雄 青柳篤恒

安藤忠義 岸本能武太 菊池三九郎 紀淑雄 宮井安吉 島村滝太郎

菅野徳助

講師

市村瓚次郎 巌谷季雄 橋本増吉 エッチ・ビー・ベニンホッフ 戸川明三 大瀬甚太郎

岡田正美 片上伸 横山又次郎 吉岡源一郎 吉江喬松 建部遯吾

田中喜一 高桑駒吉 武田豊四郎 相馬昌治 坪井正五郎 中野礼四郎

中島半次郎 中島泰蔵 中桐確太郎 中村吉蔵 上田万年 矢津昌永

エッチ・エー・コックス 寺尾元彦 朝河貫一 姉崎正治 赤堀又次郎 三宅雄二郎

水野繁太郎 椎尾弁匡 白松孝次郎 樋口勘治郎 広池千九郎 関与三郎

哲学科課程表

英文学科第一部課程表

英文学科第二部課程表

和漢文学科課程表

史学科課程表

〈大学部商科〉

教授

岩田一郎 伊藤重治郎 服部文四郎 大隈信常 神尾錠吉 吉田良三

田中穂積 武信由太郎 高杉滝蔵 副島義一 中村進午 中村康之助

永井柳太郎 山田三良 柳川勝二 山岸光宣 山崎直三 藤山治一

青柳篤恒 安藤忠義 天野為之 三潴信三 塩沢昌貞 平沼淑郎

杉山令吉 杉山重義

講師

仁井田益太郎 大山郁夫 渡俊治 河津暹 高野岩三郎 土子金四郎

中村精一 増田恒蔵 エッチ・エー・コックス 寺尾元彦 粟津清亮 安藤兼三郎

課程表

随意科#waseda_tblimg(2_0436)

〈大学部理工科〉

教授

岩井興助 西岡達郎 徳永重康 富田逸二郎 大場昻 勝俣銓吉郎

金子善一 中村康之助 中川常蔵 梅若誠太郎 山岸光宣 牧野賢吾

牧野鑑造 藤山治一 小池佐太郎 阪田貞一 佐藤功一 佐野志郎

塩沢昌貞 本野英吉郎

講師

伊東忠太 石橋絢彦 丹羽重光 岡田信一郎 大畑源一郎 大屋敦

田辺惇吉 武石敬三郎 武田脩三郎 田治多蔵 中沢重雄 内藤多仲

福原俊丸 藤井鹿三郎 遠藤政直 寺尾元彦 青柳豊三 斎藤三三

岸畑久吉 宮崎好文 広部徳三郎 本橋弥八 栖原豊太郎

機械学科課程表

電気学科課程表

採鉱学科課程表

建築学科課程表

〈専門部政治経済科〉 課程表

〈専門部法律科〉 課程表

〈高等師範部〉(第一学年及第二学年)

教授

五十嵐力 徳永重康 金子馬治 桂五十郎 吉田東伍 高杉滝蔵

永井一孝 浮田和民 梅若誠太郎 内ヶ崎作三郎 松平康国 増田藤之助

牧野謙次郎 煙山専太郎 藤野了祐 藤井健治郎 遠藤又蔵 菊池三九郎

岸本能武太 宮井安吉 島村滝太郎

講師

池田清 橋本増吉 本田親二 大瀬甚太郎 岡田正美 太田代唯六

高桑駒吉 上田万年 上野繁 野田豊実 エッチ・エー・コックス 白松孝次郎

第一部国語漢文及歴史科課程表

第一部英語及歴史科課程表

第二部数学科課程表

第二部理化学科課程表

〈特殊研究科〉 課程表

〈実用英語科〉 課程表

〈独語科〉 課程表(各一学年Aハ大政、大文、Bハ大商、専法、各三学年Aハ大政、大商及専法、Bハ大文)

〈仏語科〉 課程表(各三学年Aハ大政、大商、Bハ大文)

〈清語科〉 課程表(各一学年Aハ政、Bハ大商)

〈高等予科〉

教授

五十嵐力 本多浅治郎 富田逸二郎 大場昻 勝俣銓吉郎 金子善一

吉田巳之助 吉田良三 田原栄 高杉滝蔵 永井一孝 浮田和民

梅若誠太郎 牧野謙次郎 松平康国 牧野鑑造 藤山治一 藤野了祐

小林行昌 安部磯雄 坂本三郎 菊池三九郎 宮井安吉 本野英吉郎

杉山令吉 杉山重義 菅野徳助

講師

大原里靖 川上正光 片上伸 好本督 吉江喬松 滝本鐙三

武田豊四郎 武市俊明 民野雄平 中沼清蔵 中村仲 松村吉則

増田恒蔵 イー・エス・ケート 河野安通志 寺尾元彦 宮島綱男 白松孝次郎

日高只一 平野履道

課程表(第二学期)(第二高等予科中、○印ハ独法科、×印ハ英法科。又第四高等予科中(1)ハ第一部、(2)ハ第二部トシ、其他ハ共通。)

(『早稲田大学規則便覧』明治四十四年七月 六二―七四頁、『早稲田大学学科配当表』明治四十五年度 一―三六頁)

三 職制の変遷

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 大隈総長、高田学長の就任とともに、学苑の職制も整備せられたが、『創立三十年紀念早稲田大学創業録』には左の如く記載されている。

日常に於ける実際の校務執行に関する職員の組織に就て述ぶれば、本大学の事務は、本部、高等予科、図書館、寄宿舎、及び基金部の数種に分れ、本部には、幹事・副幹事を置きて庶務・会計・学生監督に関する事項を管掌せしめ、高等予科にありては、特に科長をして其の科の庶務を視せしめ、図書館にありては、館長・副長を置きて館の事務を綜括せしめ、寄宿舎にありては、舎長を置きて寄宿学生の監督は勿論、舎の事務・会計をも処理せしめ、基金部、体育各部亦た皆な部長を置きて其の部の事務を督せしめ、事務の繁閑に随ひ、科・部長の下に主事又は事務主任を置き、且つ其の下に多数の事務員を配し、最近(大正二年三月)に至り、更に本部の分課上に改正を行ひ、庶務・教務・会計・学生監督・学長秘書の五課と為したり。

(一七〇頁)

なお正確に言えば、学生監督は部と称する課であり、学長秘書は課ではなかったのである。

 今、総長・学長制施行後の本部職員についてその異動を一瞥すれば、四十年七月には、幹事田中唯一郎、副幹事兼会計課長伊藤正(三十八年九月に副幹事制が発足し、その際就任)、庶務課長服藤利夫、学長室主事東儀季治であったが、翌四十一年五月、東儀は副幹事となり、学長室主事は栗山精一(四十年六月より副幹事兼任、四十一年二月より五月まで副幹事専任)に代っている。なお『早稲田大学沿革略』第三には、四十一年十二月十九日の項に、「是日一般事務員ニ年末手当ヲ給シ、一ケ年間無欠勤者ニ賞状及特賞ヲモ給ス。事務員ニ手当ヲ給スル此ニ始マル」との記載のあることを付言しておこう。次いで四十二年一月には「当分課長ヲ置カズ、幹事及副幹事ニ於テ之ヲ処理ス」として、総務部は田中幹事が、会計課は伊藤副幹事が、庶務課は東儀副幹事がその責任者となった。更に四十四年一月、栗山が寄宿舎長に転じたので、桑田豊蔵が学長室主事に任ぜられたが、同年二月には、東儀が辞任した後を前田多蔵が襲って副幹事となり、この態勢で明治を終えている。

 次に、鳩山校長・高田学監時代末期に創設された学生監督部について一言しよう。日露戦争は我が方の大勝に帰したが、戦勝の興奮は国内に浮華軽佻の風を呼び起し、青少年、殊に男女学生間にはこの傾向が激しかったので、遂に文部大臣は次のような「文部省訓令第一号」を発した。尤もこの訓令は社会主義対策という意味も含んでいた。

学生生徒ノ本分ハ、常ニ健全ナル思想ヲ有シ、確実ナル目的ヲ持シ、刻苦精励他日ノ大成ヲ期スルニ在ルハ、固ヨリ言ヲ俟タズ。殊ニ戦後ノ国家ハ、将来ノ国民ニ期待スル所益々多ク、今日ノ学生生徒タル者ハ其ノ責任一層ノ重キヲ加ヘタルヲ以テ、各々学業ヲ励ミ、一意専心其ノ目的ヲ完ウスルノ覚悟ナカルベカラズ。

然ルニ近来青年子女ノ間ニ往々意気銷沈シ、風紀頽廃セル傾向アルヲ見ルハ、本大臣ノ憂慮ニ堪ヘザル所ナリ。現ニ修学中ノ者ニシテ、或ハ小成ニ安ジ、奢侈ニ流レ、或ハ空想ニ煩悶シテ、処世ノ本務ヲ閑却スルモノアリ。甚シキハ放縦浮靡ニシテ操行ヲ紊リ、恬トシテ恥ヂザル者ナキニアラズ。斯ノ如キハ家庭ノ監督其ノ方ヲ誤リ、学校ノ規律漸ク弛緩セルノ致ス所ニシテ、今ニ於テ厳ニ戒慎ヲ加フルニアラズンバ、禍害ノ及ブ所実ニ測リ知ルベカラズ。

社会一部ノ風潮漸ク軽薄ニ流レムトスルノ兆アルニ際シ、青年子女ニ対スル誘惑ハ日ニ益々多キヲ加ヘムトス。就中近時発刊ノ文書図画ヲ見ルニ、或ハ危激ノ言論ヲ掲ゲ、或ハ厭世ノ思想ヲ説キ、或ハ陋劣ノ情態ヲ描キ、教育上有害ニシテ断ジテ取ルベカラザルモノ尠シトセズ。故ニ学生生徒ノ閲読スル図書ハ、其ノ内容ヲ精査シ、有益ト認ムルモノハ之ヲ勧奨スルト共ニ、苟モ不良ノ結果ヲ生ズベキ虞アルモノハ、学校ノ内外ヲ問ハズ、厳ニ之ヲ禁遏スルノ方法ヲ取ラザルベカラズ。

又頃者極端ナル社会主義ヲ鼓吹スルモノ往々各所ニ出没シ、種々ノ手段ニ依リ教員生徒等ヲ誑惑セムトスル者アリト聞ク。若シ夫レ斯ノ如クシテ建国ノ大本ヲ藐視シ、社会ノ秩序ヲ紊乱スルガ如キ危険ノ思想教育界ニ伝播シ、我教育ノ根柢ヲ動カスニ至ルコトアラバ、国家将来ノ為メ最モ寒心スベキナリ。事ニ教育ニ当ル者宜シク留意戒心シテ矯激ノ僻見ヲ斥ケ、流毒ヲ未然ニ防グノ用意ナカルベカラズ。

本大臣ハ国運ニ照シ、時弊ニ鑑ミ、特ニ玆ニ訓示ス。教育ノ当局者及ビ学校長教員等ハ克ク本大臣ノ旨ヲ体シ、父兄保護者ト協心戮力シテ風紀ヲ振粛シ、元気ヲ作興スルニ努メ、学生生徒ハ自ラ修メ、己ニ克チ、学業ヲ成就スルニ専ニシテ、上下胥ヒ率ヰ、以テ教育ノ効果ヲ完ウセムコトヲ期スベシ。

明治三十九年六月九日 文部大臣 牧野伸顕

(『法令全書』明治三十九年訓令)

 我が学苑においては、既に明治三十九年五月、学生監督部を新設し、陸軍工兵少佐金子昌明を主事に任じ、山岸磐松、永田碩次郎、吉田公重を部員とした。そしてこの年九月十一日の始業式には新入学生および学生一同を講堂に集め、高田学監が「学生の風紀に就いて」という次のような訓示を特に行った。

学生堕落の原因を私立学校に負はしめるの傾向あるは、極めて不都合である。設備の相当に整ふた私立学校があるが為に、学生の堕落を救ひつつあるものと認むる。私立学校は決して堕落の原因ではない。……抑も学生の風紀と云ふことに就いて、第一に着目すべき点は消極的の取締ではないと云ふ事である。斯ういふことをしてはならぬ、斯う云ふことが有つてはならぬと言つて消極的に取締ると云ふ事は、これは先づ第二のことで、何方かと言ふと末の方の事である。一体学生たるべき者が、消極的に悪いことをしない、堕落しないと云ふだけの心得でよい者ではない。寧ろ積極的に学生の抱負は斯うでなければならぬ、理想はああでなければならぬと云ふ、之が一番肝腎である。其の理想が高尚であつて、其の目的が遠大であれば、自ら堕落なぞと云ふことは出て来る訳のものではない。それだから私共は諸君に対し、消極的の取締をすることは第二に置いて、積極的に理想を高くして目的を大にすることを勧告したいと思ふ。向上の精神、活動の勇気、之が肝要である。今日の御互は、対外観念を十分持つて世界の舞台に向つて働き、立憲的精神を十分貯へて大国民たる本分を尽さなければならぬ。要するに向上の精神、活動の勇気と云ふものを以て世界と国家とに対し大飛躍を試みるに於ては、堕落も腐敗もあつたものでない。自ら重んじ、自ら愛するの精神が腹に十分充ちて居れば、堕落・腐敗と云ふことは惜くて出来ぬことになる。諸君をして誤りなからしむるが為め、学校には学生監督部と云ふものが設けてある。学生監督部を設けたとすると、何かこれは警察的のものであると考へる人があるか知らぬが、さうでは無い。成るべく諸君に注意して誤りなからしむるやうにさせると云ふ精神から来た訳で、決して苛察な取締をすると云ふのではない。探偵的に諸君の行動を一々報告させて、色々の面倒な取締をすると云ふやうなそんな小節に拘つたことをやらせる積りではない。 (『創立三十年紀念早稲田大学創業録』 一九九―二〇一頁)

 これに続いて高田は「諸君に註文して置きたいこと」として、一、学生の宿泊の厳重な届出、二、教場への出席の励行、三、制服・制帽の常時着用、四、学生証の携帯、五、講師と学生との関係の親密化への努力などを具体的に述べた。やがてこの訓示は整備されて、次のような「学生心得」が定められるに至った。

学生心得

第一条 学生ハ校ノ内外ヲ問ハズ必ズ学生証ヲ携帯スベシ。

第二条 教場ニ在テハ総テ謹慎ヲ旨トシ、粗暴ノ挙動ヲナスベカラズ。

第三条 教場ニ在テハ雑談又ハ喫煙ヲ禁ズ。

第四条 教場ニ出席スルトキハ必ズ制服・制帽ヲ着用スベシ。

第五条 授業中ハ退席ヲ許サズ。若シ不得止事故アリテ退席セント欲スル時ハ、講師ノ許可ヲ請フベシ。

第六条 教場ニ於テ授業ヲ始ムル前ニ教職員ハ出席者ヲ点呼シ、其勤惰ヲ名簿ニ記載スルモノトス。

但シ、時宜ニ依リ其勤惰ヲ試験成績ニ参酌スルコトアルベシ。

第七条 三日以上欠席セント欲スルトキハ、其旨ヲ保証人ヨリ届出ヅベシ。

第八条 何等ノ名義ヲ以テスルニ拘ラズ、引続キ一ケ年以上欠席シタル者、又ハ正当ノ理由ナクシテ一ケ月以上欠席シタル者ハ退学ヲ命ズ。

第九条 試験ニ欠席スル者ハ保証人連署ノ上之ヲ届出ヅベク、病気ノ為メ欠席スル者ハ医師ノ診断書ヲ添フベシ。右ノ手続ヲ為サザルモノハ未済試験ヲ受クルヲ得ズ。

第十条 毎月ノ納期迄ニ学費ヲ納メザル者ハ、教場ニ出席スルヲ許サズ。

第十一条 試験場ニハ筆・墨・硯及答案紙ノ外携帯スルヲ許サズ。

第十二条 試験ニ際シ一度差出シタル答案ハ、再ビ改竄・増訂スルヲ許サズ。

第十三条 進級試験未済者ハ、猥リニ次学年ノ授業ニ出席スルヲ許サズ。

(『早稲田大学規則』明治四十年七月 六二―六三頁)

 三十三年の「教場規則」(第一巻七四五頁参照)は、その後、例えば三十五年には「制服・制帽」(当時の制帽は、今日の式帽に似て庇がなく、黒い絹糸の房がついていた。三十七年頃、洋服店主高島弥七郎が現在の形を考案したと推定される。帽章は、三十八年までは「稲の穂を下から丸く巻いた真鍮製のもの」(「湛山回想」『石橋湛山全集』第一五巻三三頁)であったが、三十九年に改正されて、四十年七月の『早稲田大学規則』には、「弧形ノ稲葉上ニ大学ノ二字ヲ置ク」と今日と同一形状が定められ、金質も「大学部及専門部ノ章銀台鍍金、大学ノ二字ハ白色ノ七宝。高等予科ノ章真鍮台全部鍍金」(六四頁)と規定されている)の着用が明記され、また三十七年には試験に関する細かな規定が追加されるなど、若干の改正が施されたが、ここに「学生心得」と改称され、学生証の携帯を第一条に定めるに至ったのである。

 なお、後に学生監督部は、規律の厳粛と体育の助長を計る目的で、高等予科および高等師範部予科の学生に兵式体操を課した。「早稲田大学第廿九回報告自明治四十四年九月至大正元年八月」(『早稲田学報』大正元年十月発行第二一二号)に掲げられた明治末期の学生監督部(部長田中唯一郎、主事永田碩次郎)の記事は左の通りである。

学生監督部は校の内外に於ける学生風紀の取締に任じ、事故を未発に防止するの方針を取り、之が目的を達せんが為め日々全校学生の出・欠席を点呼し、欠席時数多きに亘る者には特に本人に注意を与へ、又は保証人・父兄等へ警告を発し、出欠常に不定又は現住所の届出を怠りたるものは特に保証人或は父兄其他に就き其の行為を調査し、相当処置を為し以て大過なからしめたり。尚高等予科生には規律の厳粛と体育発達の一助として兵式体操を課したるが、其効果尠少ならざるものあるを認む。左に其実施表を示すべし。

(二三頁)