Top > 第二巻 > 第四編 第四章

第四編 早稲田大学開校

ページ画像

第四章 新学制の誕生

ページ画像

一 大学開校と専門部および高等師範部の発足

ページ画像

 学苑創立二十周年を期して、早稲田大学は開校されることになった。逸速く専門学校の肩衣をかなぐり捨てて、他に先駆けて私立大学の名称を呼称したことは、大いに賀すべきであり、また将来への飛躍が期待されるのであった。従って学制の整備はもとよりのこと、内容の充実を計るのは、当局当面の責務であると言わなければなるまい。よって先ず古剛練達、新進気鋭の教師を招聘して講師陣を強化した。すなわち明治三十五年三月より十二月までに嘱任(再任を含む)した講師名を、科外講義のみの担当と考えられる者も含め、その時期の『早稲田学報』の「早稲田記事」より拾って、次に挙げる。

 確定した大学の学制として、明治三十五年七月発行の『早稲田学報』臨時増刊第七〇号に「早稲田大学規則一覧」が発表された。以下この中より各学部の学科課程表を掲記しておこう。

第一表 明治三十五―三十六年度課程表

大学部

政治経済学科

法学科

文学科

専門部

政治経済科

法律科

行政科

国語漢文科

歴史地理科

法制経済及英語科

本科付属トシテ法制経済専修科ヲ置ク。但シ、其学科課程ハ本科ノ英語ヲ除キタルモノトス。

高等予科

(一七―二〇頁、二八―三三頁、三八―三九頁)

 さて、この年度の各学部の講師とその担当科目が『第廿一回自明治三十五年九月至明治三十六年八月早稲田大学報告』に次のように掲載されている。なお、各科教務主任および高等予科長は、三十五年九月十七日に嘱任されたものである。

第二表 明治三十五―三十六年度講師および担当科目

大学部

政治経済学科 〔教務主任 [[高田早苗>早稲田大学文化資源データベース:{"subDB_id":"16"

法学科 〔教務主任 鈴木喜三郎〕

文学科 〔教務主任 [[浮田和民>早稲田大学文化資源データベース:{"subDB_id":"16"

専門部

政治経済科 〔教務主任 [[高田早苗>早稲田大学文化資源データベース:{"subDB_id":"16"

法律科・行政科 〔教務主任 鈴木喜三郎〕

〔国語漢文科・歴史地理科・法制経済及英語科〕 〔教務主任 岡田正美・[[浮田和民>早稲田大学文化資源データベース:{"subDB_id":"16"

高等予科 〔科長 [[安部磯雄>早稲田大学文化資源データベース:{"subDB_id":"16"

(一一―二一頁)

 さて、右に掲げた明治三十五―三十六年度の学科課程表と講師および担当科目表とを対比すると、若干不一致の点がないわけではないが、外国語として、英語以外にドイツおよびフランスの両語が、少くとも大学部では各科で教授され、支那語は政治経済学科のみに限られるようになったことが知られる。すなわち、東京専門学校時代に比べて、英語以外にドイツ語およびフランス語が外国語として重要視されるようになったのに間違いない。ドイツ語は二十七―二十八年度の文学部および三十一―三十二年度の英語政治科において、フランス語は三十一―三十二年度の英語政治科および三十二―三十三年度の文学部において、初めて学科課程中に編入されたのであったが、恐らく聴講者は少数に止まったのであろう、以後必ずしも毎年継続実施されたとは推定せられない。支那語は、三十三―三十四、ならびに三十四―三十五の両年度、政学部および法学部に配当されてあった。大学昇格直前の三十四―三十五年度においては、英語政治科でフランス語と支那語、邦語政治科で支那語、法学部で支那語、文学部でフランス語と支那語、研究科でフランス語が教授されていたが、ドイツ語はどの科にも全く見られないのであった。

 ここで付言しておきたいのは、大学部法学科に関してである。第一巻に説述したように、東京専門学校創立当初における法律学科は英法系であり、英米法が講述されていた。従って英語法律科の短い歴史においても、使用された教科書は英米書であった。ところが、明治三十一年民法、三十二年商法と新法典が実施せられるに及んでは、大陸法に対する学苑の拒否反応は是正されなければならなかった。法学部では、明治三十―三十一年度より、「参考課」として「外国法」を第二年および第三年に置き、「修正諸法典ノ参照トシテ適切ナル原書ヲ選択ス」と注記している(『東京専門学校校則・学科配当資料』資料48)が、英語以外の外国語の知識を学生が欠いている限り、かなり制約が存在したことは否定できない。とすれば、大学に昇格後の法学科が、英・独・仏の三ヵ国語を外国語として定めたのは、決して軽軽に看過せらるべきではないのである。

 それならば、当時の教室の実状はどうであったろうか。三十五年四月、新学制による高等予科の第二回生として入学した寺尾元彦は、左の如く回想している。

最初法科志望の同級生は百四、五十名あつたが、学期末の試験を経る毎に次第に減少して、愈々大学部法学科に進入する頃には七、八十名に減つた。予科時代の同級生は最初の一学期は各学科混成であり、法科だけが一級に纏まつたのは第二学期以後で、正味一年足らずに過ぎなかつたから、殆んど当時の印象を留めない。唯第三学期に同級生が独逸語を学科目に入るる様に級の決議で学校に請求したことがある。当時(明治三十六年)独逸法の研究が漸く擡頭しかけてゐた時で、一年前の第一期の人達は大学部に入つて初めて独逸語を教へられたが、私共の同級生には高等学校を三年まで修めた人もあり、又早く独逸語を学び始めた人々があつたので、大学部に入つてから独逸語を始めたのでは独逸法の原書を読む間に合はないから、一刻も早く予科の時代から独逸語を教へて貰ひたいといふ熱心な希望を学校に申出でた所が、当局者は直に受け容れ、其の御蔭で吾々は先づ予科の第三学期(明治三十六年四月)から独逸語を手解きして貰ふことが出来た。当時の独逸語の先生は藤山治一先生と司馬亨太郎先生で、英語で解説したオットー独逸語会話文典と独逸語初歩とを教科書として教へられた。

(「法科回顧録」 『早稲田法学』昭和八年五月発行第一三巻「創立五十周年記念論集」 一〇七頁)

 寺尾が大学部に入ったのは、三十六年九月であるが、一年では、英法としてテリー(Henry Taylor Terry)の『法律原論』(Elementary Treatise on the Common Law, for the Use of Students, 1898)を杉田金之助に、独法としてガーライス(Karl von Gareis)の『法学通論』(Allgemeines Staatsrecht, 1883)を中村進午に学んだほか、藤山治一からドイツ語の訳読・文法・作文を習得し、二年と三年ではアンソン(Sir William Reynell Anson)の『契約法』(The Principles of theEnglish Law of Contract and of Agency in its Relation to Contract, 1879)を杉田に、デルンブルヒ(Heinrich Dernburg)の『パンデクテン』(Pandekten, 1884-87)を中村および津軽英麿に学んでいる。なお、三十七年以後は大学部法学科の外国語はドイツ語のみとなり、英語もフランス語も学科課程から姿を消している。

 次に入学資格その他を掲げるが、第一に、大学部の開設時の入学者が、高等予科修了生と英語政治科および哲学及英文学科の第一学年修了生とから成っていたことを付記しておきたい。これは、既に三十三年の時点で、後二学科のみは新学制における専門部に編入されないよう予定されていた(「東京専門学校規則一覧」『早稲田学報』明治三十三年七月発行臨時増刊第四一号八頁)ことの結果であった。第二に、専門部のうち国語漢文科・歴史地理科・法制経済及英語科のみは高等予科第一学期修了者を入学せしめたので、この三科の修業年限は合せて三年半となることも注意しておく。

大学部ハ、中学校卒業生ニシテ本校高等予科ヲ卒業シタルモノ、若クハ之レト同等ノ学力ヲ有スル者ヲ入学セシメ、深ク学理ノ研究ヲ為サシムルト同時ニ、二種以上ノ外国語ニヨリ参考書ヲ解読スルノカヲ養ハシム。

専門部ハ、中学校卒業生若クハ之レト同程度ノ学生ニシテ直ニ専門学ヲ修メントスルモノノ為メニ設ケ、専ラ邦語ヲ以テ教授スト雖モ、傍ラ英語又ハ支那語ヲ必修セシム。但シ、専門部中ノ国語漢文科、歴史地理科、法制経済及英語科ハ、中学校卒業生若クハ之レト同等ノ学力ヲ有シ、更ニ高等予科第一学期修了ノ学力アルモノヲ入学セシメ、且ツ英語ヲ必修セシム。

高等予科ハ大学部ニ入ルノ階梯ニシテ、研究科ハ大学部・専門部得業生ノ尚ホ深邃ナル研究ヲ遂ゲントスルモノノ為メニ設ク。

(「早稲田大学規則一覧」 『早稲田学報』臨時増刊第七〇号 一六―一七頁)

 教員免許の特典などは次の如くで、ここにある法制経済専修科とは、専門部法制経済及英語科の付属として設けられたものである。

中学校・師範学校ノ卒業証書ヲ有シ左ノ学科ヲ卒業シタル者ハ、明治三十二年四月文部省令第二十五号ニ依リ中学校・師範学校・高等女学校等ノ教員資格ヲ与ヘラル。学科及教員免許科目左ノ如シ。

大学部文学科ニ於テハ 倫理、修身、教育、英語

専門部国語漢文科ニ於テハ 国語、漢文

専門部歴史地理科ニ於テハ 歴史(日本歴史万国歴史)、地誌、地文

専門部法制経済及英語科ニ於テハ 法制、経済、英語

但シ、法制経済専修科ニ於テハ 法制、経済 (同誌同号 三頁)

 更に判検事登用試験に関しては、「大学部法学科、専門部法律科・行政科ニ入学シ、所定ノ年限間在学シ卒業シタル者ハ、明治三十一年司法省令第十六号判検事登用試験規則ニ依リ其試験ヲ受クルノ資格アリ」(同誌同号三頁)とされた。

 徴兵令に関する規定は、「本校学生ハ明治三十二年六月文部省令第三十四号ニ依リ徴兵令第十三条ノ特例ヲ受ケ、在学中ハ徴集ヲ猶予セラレ、卒業ノ上ハ一年志願兵タルヲ得。但シ、中学校ヲ卒業セズ又ハ中学校卒業ト同等ノ入学試験ヲ経ザル者ハ此限ニアラズ。徴兵令ノ特例ヲ受クル学生ヲ第一種生ト称シ、其他ノ学生ヲ第二種生ト称ス」(同誌同号一七頁)となっている。

 なお同誌によれば一部の学科には定員があった。各科の定員および学費を一覧表にまとめると、次の如くである。

第三表 明治三十五―三十六年度各科一学級定員および学費一覧表

そして「入学セント欲スル者ハ年齢満十七歳以上ノ男子タルベシ」とあり、中学卒業生は無試験入学であった。そのほか「学生募集ハ各科前学期ノ始(毎年九月予科ハ三月)後学期ノ始(毎年二月予科ハ九月)ニ於テス。大学部・専門部共ニ毎年九月開始シ翌年七月ヲ以テ一学年ノ授業ヲ修了ス。高等予科ハ毎年四月開始シ其学期ヲ第一期(自四月至七月)第二期(自九月至翌年二月)第三期(自三月至七月)ノ三期ニ分ツ」(同誌同号二頁)と規定されている。

 ところで明治三十六年三月二十七日「勅令第六十一号」を以て次のような「専門学校令」が公布されて、帝国大学以外に高等教育を施す機関が、専門学校として、学校教育体系の中に位置づけられることになったのである。

第一条 高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス

専門学校ハ特別ノ規定アル場合ヲ除クノ外本令ノ規定ニ依ルヘシ

第二条 北海道府県又ハ市ハ土地ノ情況ニ依リ必要アル場合ニ限リ専門学校ヲ設置スルコトヲ得但シ沖繩県ハ此ノ限ニ在ラス

第三条 私人ハ専門学校ヲ設置スルコトヲ得

第四条 公立又ハ私立ノ専門学校ノ設置廃止ハ文部大臣ノ認可ヲ受クヘシ

第五条 専門学校ノ入学資格ハ中学校若ハ修業年限四箇年以上ノ高等女学校ヲ卒業シタル者又ハ之ト同等ノ学力ヲ有スルモノト検定セラレタル者以上ノ程度ニ於テ之ヲ定ムヘシ但シ美術、音楽ニ関スル学術技芸ヲ教授スル専門学校二就テハ文部大臣ハ別二其ノ入学資格ヲ定ムルコトヲ得

前項検定ニ関スル規程ハ文部大臣之ヲ定ム

第六条 専門学校ノ修業年限ハ三箇年以上トス

第七条 専門学校ニ於テハ予科、研究科及別科ヲ置クコトヲ得

第八条 官立専門学校ノ修業年限、学科、学科目及其ノ程度竝予科、研究科及別科ニ関スル規程ハ文部大臣之ヲ定ム

公立又ハ私立ノ専門学校ノ修業年限、学科、学科目及其ノ程度竝予科、研究科及別科ニ関スル規程ハ公立学校ニ在リテハ管理者、私立学校ニ在リテハ設立者文部大臣ノ認可ヲ経テ之ヲ定ム

第九条 公立又ハ私立ノ専門学校ノ教員ノ資格ニ関スル規程ハ文部大臣之ヲ定ム

第十条 公立専門学校ノ職員ノ旅費及給与ニ関スル規程ハ文部大臣ノ認可ヲ経テ地方長官之ヲ定ム

第十一条 公立ノ専門学校ニ於テハ授業料ヲ徴収スヘシ但シ特別ノ場合ニハ之ヲ減免シ又ハ徴収セサルコトヲ得

第十二条 第一条ニ該当セサル学校ハ専門学校ト称スルコトヲ得ス

附則

第十三条 本令ハ明治三十六年四月一日ヨリ之ヲ施行ス

第十四条 明治二十年勅令第四十八号ハ之ヲ廃止ス

第十五条 既設ノ公立又ハ私立ノ学校ニシテ本令ニ依ルヘキモノハ本令施行ノ日ヨリ一箇年以内二第四条ニ準シ認可ヲ申請スヘシ

前項ノ手続ヲ為ササルモノハ前項ノ期間ノ満了ト共ニ廃校シタルモノト看做ス

第一項ノ手続ヲ為スモ不認可ノ命令ヲ受ケタルモノハ其ノ命令ヲ受ケタル日ニ於テ廃校シタルモノト看做ス

(『法令全書』明治三十六年勅令)

 すなわち、この立案の当事者の一人文部省総務長官岡田良平の言として伝えられるところによれば、

此の専門学校令の精神に就て一言すれば、予ねて高等学校の本体とする所の専門部を独立させて、之を専門学校としたもので、修業年限を三年とし、其の入学資格を中学校卒業者、若くは其れと同等の者といふ事に制限して、之に依つて一方に於ては各種の官立専門学校を増設し、即ち低い大学を沢山つくつて、学制改革の目的の一端を果さうとし、又一方に於ては、多くの私立専門学校を名実共に備つた立派な専門学校になさうといふのが、其の主眼とする処であつた。

(「中学校令並に専門学校令」 国民教育奨励会編『教育五十年史』 二一二―二一三頁)

のである。

 我が学苑では専門学校令による旨の件を出願中のところ、明治三十七年四月一日、文部大臣より次のような認可があり、予科を持つ専門学校として、大学の名を称する私立学校の先駆をなした。

文部省告示第七十八号

東京府豊多摩郡戸塚村ニ設置セル私立早稲田大学ヲ明治三十七年四月一日ヨリ専門学校令ニ依ルノ件認可セリ

明治三十七年四月一日 文部大臣 久保田譲

(『法令全書』明治三十七年告示)

 さて三十六年七月には本校学制改正の件をその筋に出願した。その改正の要点は先ず第一に、専門部の行政科を廃したことであった。これは、従来専門部にあった法律科と行政科は学科課程がほぼ同一であるので、九月の新学年からこの二科を合併して法律科と称し、経済・財政等行政科に属した学科目は、改正後の法律科で授業するというものである。また第二点は、高等師範部を新設して、従前専門部に属した国語漢文科・歴史地理科・法制経済及英語科の三科をこれに属せしめるとともに、そのうち法制経済及英語科を法制経済科と英語科の二科に分離し、前者では修身と法制経済、後者では修身と英語の中等教員無試験検定の資格があるものとしたことである。従って専門部は政治経済科および法律科の二科のみとなった。

 この結果、学科編制は第四表のように変更された。

第四表 明治三十六―三十七年度各科一覧

学生ハ束脩トシテ入学ノ際ニ金二円、体育費トシテ毎年金一円二十銭、図書閲覧費トシテ毎年金一円十銭ヲ学費ト同時ニ納ムルモノトス

(「早稲田大学規則一覧」 『早稲田学報』明治三十六年七月発行臨時増刊第八七号 五頁による)

 なお商科の予科は明治三十六年四月に設けられ、その本科は三十七年九月より開始されているが、これについては次章で述べることにする。

 このように学制改革によって我が学苑の新体制が整ったから、当局も学生も、思いを新たにしてこの体制に順応して行かなければならなかった。そこで明治三十六年九月十四日の新学年開始に当って、高田学監は全校の学生を一堂に集めて訓示した。

新学期開始に際し、学生諸君殊に新入学生諸君に対し、一場のお話するを例とせり。然れども本校の来歴性質等に就ては、最早述ぶるの必要なければ、ただ今夏中に施設せる事、及び其他の事に就て、聊か述べんとす。本校が夏期休業中に設備せるは、第一に高等予科及実業学校々舎の落成也。前学年に於て校舎設備の不十分なりしため、夜間に授業を為すが如き不便を感じたるを以て、之が設備を急ぎたり。時間割に関しては、成るべく注意を加へ、講師と協議して前学年に比し、一層の便宜を計らんとせり。……次に注意すべき事は、今夏中大学の多く増加せし事也。是れ時勢の然らしむる所にして、賀すべき現象と言ふべし。然るに我が早稲田大学は他の諸大学と多少其実質を異にする所あり。もと大学なるものは、其名称に非ずして事実を云ふものなれば、諸君に於ても、其抱負を以て十分学校と共に大学の実を挙ぐるに努めらるべし。彼の自由主義なる米国の幾多の大学には、或は下宿楼上に四、五十名の学生を集め、之に大学の名称を附するものあり、されば大学卒業生なる者も、其何れの大学なるやを聞くにあらざれば、評価し難き也。我日本にも一時に多数の大学を見るに至りたるも、大学の真価は事実に於て定まる也。故に管理者、講師、並に学生とも均しく力を尽して、事実に勝利を制せざるべからず。且本校は法律一科のみを以て大学とせず、文科、商科、政治経済科、相須て大学たるなり、之を外国に見るも、数科を修むるものにして、畢竟学科の完全なるを俟ち、のち大学と言ひ得る也。米国諸大学中一頭地を抜けるエール、ハーバート、コロンビヤ、シカゴ等の如きは、総ての設備十分なる結果に外ならず。次に本校教育の方針に就て一言せば、第一に活学問をなすに在り。諸君の勉強方法は、講師の指導のみに依頼せず、自動的ならざるべからず。且つや世界の大勢に応ぜんには、外国語の研究十分なるを要す。専門部に在りて外国語十分ならざる者は、今日は日本の参考書多く出版せられ、研究の材料少しとせず。本校出版部の目的は、此種の需要に応ぜんが為め也。第二に学問を事実に応用することを努めざる可らず。一方に学理を研究すると同時に、他方には之を事実に活用する事二十世紀に於ける教育主義の特色にして、学者の一日も念頭に忘るべからざるもの也。大隈伯の言に、新聞紙を始より終まで応用的に研究的に読む時は、立派なる紳士となるを得べしと。新聞紙すら然り、況んや書籍の研究をや。諸君は決して死学問の人たらずして、活学問の人たれ。尚言ふべきは、健康の事なり、折角学び得たる学問も、其身体尫弱なるがため何等の用をも為さずして了るは遺憾の極み也。されば衛生に最も注意せざるべからず。本校の校医を置き、入学志願者に体格検査を行ふも、之れが為めなり。又自今在来の学生をも一年一回体格検査を行ひ、衛生上の注意を与ふることとなせり。 (『早稲田学報』明治三十六年九月発行第九一号 「早稲田記事」六九一―六九二頁)

 次に第一巻第三編第五章に説述したように、明治二十六年以降研究科が設置され、必ずしも十分な成果を挙げ得なかったものの、廃止されずに大学開校時に及び、改称後の学苑においては、七四頁に後述する如く、過渡期の特別の役割を演じた。前掲の三十五年七月の「早稲田大学規則一覧」には、左のような「研究科規則」が掲載されている。

第一条 本科ハ各学部得業生ニシテ既習ノ学科ニ就キ尚ホ深邃ナル研究ヲ為シ傍ラ広ク外国語ノ智識ヲ養ハントスル者ノ為メニ設ク。

第二条 本科ヲ左ノ部門ニ分ツ。

一 国法 一 行政法 一 国際法 一 経済、財政 一 民法 一 商法 一 哲学 一 史学 一 英文学 一 社会学

但シ当分ノ間ハ国際法、経済、財政、史学、英文学、社会学ノ諸部ヲ開始シ、其他ヲ漸次開設スルモノトス。

第三条 本校得業生以外ニシテ本科ニ入ラントスル者ハ本校試験委員ノ検定ヲ経ルモノトス。

第四条 本科ハ別ニ学年ノ区別ヲ設ケズ、一年以上三年以内ノ範囲ニ於テ何時ニテモ卒業論文ヲ提出シ、指導講師ヲ以テ組織セル試験委員二於テ学力相当ト認ムルトキハ得業証書ヲ授ク。

第五条 本科授業課目左ノ如シ。

一 講義 毎週二時間 一 名著研究 毎週二時間

一 問題研究 毎週二時間 一 外国語 毎週六時間

一 論文 一 卒業論文

第六条 本科ノ講義ハ指導講師専ラ之二当ルト雖モ、特二科外講師二講義ヲ嘱托スルコトアルベシ。且ツ講題ハ学年ノ始メニ於テ予メ定ムルモノトス。

第七条 本科ニ於テ研究スベキ名著ハ指導講師ノ指定ニ拠ルベシ。

但シ各自講師ノ同意ヲ得テ其書目ヲ定メ質問ヲ為スモ妨ゲナシ。

第八条 研究ノ題目ハ入科ノ始ニ於テ之ヲ定メ、指導講師ノ認諾ヲ経ルモノトス。

第九条 本科生ハ時々指導講師ノ命ニ随ヒ論文ヲ起草スベシ。

第十条 卒業論文ハ問題研究ノ為メニ定メタル題目ニ限ル。

第十一条 本科ノ学費ハ一ケ年金三十三円トシ、分納金一ケ月金三円トス。

但シ学費分納ノ手続等ハ一般ノ学則ニ拠ルベシ。

第十二条 本校得業生以外ニシテ本科ニ入ラントスル者ハ受験料金五円ヲ納付スベシ。

第十三条 本科学生ハ常ニ研究室ニ出席シテ其学業ニ従事スルモノトス。参考書籍ハ特ニ研究学生ノ為メニ規定シタル図書室規則ニ従ヒ閲覧スルコトヲ得。

第十四条 本科学生ハ本校ノ許可ヲ得テ本校ノ授業ヲ傍聴スルコトヲ得。

第十五条 総テ本科生ハ他学生ト同ジク一般ノ学則ヲ遵守スベシ。

(「早稲田大学規則一覧」 『早稲田学報』臨時増刊第七〇号 四三―四五頁)

 同年十一月の『早稲田学報』第七六号には、同月から研究科講座として、有賀長雄が「国際公法(外交史を含む)」、塩沢昌貞が「経済学及財政学」、天野為之が「経済学」、浮田和民が「社会学及政治学」、遠藤隆吉が「社会学」を開講したとの記事(「早稲田記事」五〇二―五〇三頁)が見られる。更に、翌三十六年九月より修業年限一年の「法学研究科」が、主として判検事、弁護士、高等文官試験等を受けんとする者のために、新しく開設せられた。その内容は、平沼騏一郎・小山温・鈴木喜三郎が「民法」(毎週三時間)、志田鉀太郎・和仁貞吉・青山衆司が「商法」(毎週二時間)、岡田朝太郎・石渡敏一・小疇伝・豊島直通が「刑法・刑事訴訟法」(毎週二時間)、今村信行斎藤十一郎・松岡義正が「民事訴訟法」(隔週二時間)、水野錬太郎・美濃部達吉が「行政法」(隔週二時間)、竹井耕一郎が「憲法」(隔週二時間)、中村進午山田三良が「国際法」(隔週二時間)を担当するというものであった(同誌明治三十六年七月発行第八八号「早稲田記事」六六五頁)。

 三十七年三月、天野為之を商科長に嘱任し、また高等予科に教頭制を布き、高等師範部長、高等予科長、同教頭、および各部科教務主任を次の如く嘱託した(「早稲田大学規則一覧」同誌臨時増刊第一〇三号再版一八頁)。

高等師範部長 浮田和民

高等予科長、大学部商科教務主任 田原栄

高等予科教頭 安部磯雄

大学部政治経済学科・専門部政治経済科教務主任 塩沢昌貞

大学部法学科・専門部法律科教務主任 鈴木喜三郎(再任)

大学部文学科教務主任 金子馬治

高等師範部教務主任 中島半次郎

 同年七月、高田は次学年度の計画である聴講生と公開講義とに関して、「聴講生と申しますのは普通の学生の如くせずして、学科を選んで講義を聞く事が出来る。自由に講釈を聴く事が出来る、又其講釈を聴いた丈けの学科に付て、望みに依て試験を行うと云ふ仕組で、是を次学年度からやります積りであります。公開講義と申しますのは、学術普及の為に特に公開の目的で、学校の講師諸君の中へ依頼しまして、講義をして貰ひ、一年中の或る時期を定めて一般の人に或る方法の下に聴講を許すやうにしやうと云ふのであります」(同誌明治三十七年八月発行第一〇四号四〇頁)と述べたが、公開講義については後述(四七六―四七八頁)することとし、ここでは聴講生について規則が次の如く制定されたのを記すに止めよう。

聴講生規則

第一条 篤学者にして本校各学部中の一科又は各科中の一学課若くは数学課の講義を聴かんとする者あるときは、聴講生として之を許可することあるべし。但し高等予科の聴講を許さず。

第二条 聴講生たらんとする者は学期の初に於て入学願書に聴講すべき学科若くは学課目を記載し、履歴書を添へて差出し、本校の詮衡を経て入学すべきものとす。但し学期の中途入学を許可することあるべし。

第三条 聴講生は聴講の学課に就き他学生と同一の試験を受くることを得。試験に合格したる者には願に依り証明書を授与す。

第四条 聴講生の入退学及学費等は凡て専門部の規定を準用し、又本校教場規則、図書館規則等は他の学生と同様遵守せしむ。

(同誌明治三十七年九月発行第一〇五号 三三頁)

 次いで三十八年九月の新学期開始に当り、大学部文学科は更に哲学科と英文学科の二科に分けられた。従来文学科では第三学年において哲学専攻と文学専攻に分れたのを、この際第一学年より分離することにしたのである。また三十九年三月高等予科一ヵ年半における学期区分を一部改め、

第一学期 四月より七月まで

第二学期 九月より三月まで(従前は二月まで)

第三学期 四月より七月まで(従前は三月より)

とした。

 なお、東京専門学校時代の学苑の幹部職員の異動に関しては、既に第一巻において随処に説述したところであるが、そもそも開校後第一年度にあっては、役員として「校長一名、議員五名、幹事一名、副幹事一名、補幹一名、会計委員二名、書記三名」が置かれ、「校長ハ本校ノ事務ヲ総理シ、議員ハ幹事・講師ト共二本校主要ノ事件ヲ議決シ、幹事・副幹事ハ本校ノ事務ヲ執リ、補幹之ヲ補助シ、会計委員ハ出納ノ事ヲ司ドリ、書記ハ記録其他ノ事ヲ司ドルモノトス」と職務内容が定められていた。そして、明治十六年九月においては、校長大隈英麿、議員鳩山和夫・成島柳北・小野梓矢野文雄島田三郎、幹事秀島家良、副幹事小川為次郎、補幹谷清瀬・秋元兼思、会計委員門馬尚経・山本治郎兵衛、書記吉田復平治・山上吉蔵・萩原此吉であったことが『東京専門学校年報明治十五年度』により知り得られる。

 この頭初の制度が、既述(第一巻五〇一頁)した議員数の増員のほか、「明治十七年に至りては、職員の組織を変更し、幹事を改めて監督となしたり。然るに明治十九年再び監督を改めて幹事となし、明治三十三年に至るまで、学校の幹部職員は校長一人、幹事一人の制なりしが、同年二月更らに職員制度を変更して、校長一人、学監一人を置き、又た学校の会計を監査する会計監督なる者を置き、別に学校の庶務・会計を管掌する幹事を置」く(『廿五年紀念早稲田大学創業録』三八―三九頁)ように変遷したことは、第一巻(五〇二頁、七四六頁)に指摘した通りである。そして、学苑が早稲田大学を名告った時点においては、校長鳩山和夫、学監高田早苗、会計監督市島謙吉、幹事田中唯一郎の下に、庶務課長佐藤善長および会計課長吉川義次が本部の主要職員であって、前記の本部体制はこの時期まで持続せられたのであった。

二 高田学監の学事報告

ページ画像

 明治三十八年七月十五日午後三時から、本学苑大講堂で、第二十二回得業証書授与式が行われた。これは大学組織後、大学部なり、高等師範部なり、専門部なりに入学した学生に対する初めての卒業式で、大学部各科卒業生には、それぞれの履修学科に従い、この年二月に定められた早稲田大学政学士、早稲田大学法学士、早稲田大学文学士の学士号を初めて与えられたのであった。

 この日の得業生は大学部二百四名、専門部百九十五名、高等師範部九十七名で、先ず鳩山校長より得業生に得業証書を、特待研究生三名および各科優等生十八名に特待書を、得業生中の優等生八名に大隈伯夫人からの賞品を授与し、終って鳩山校長が一場の概括的な訓辞を試みた。これに対し得業生総代として大学部文学科の原口竹次郎と、清国留学生総代としての大学部政治経済学科得業生嵇鏡の答辞があった。次いで行われた高田学監の学事報告は、過去一年間の業態を微に入り細を穿って説明したもので、その要旨は次の通りであった。なおこの報告は他の個所でも触れるところを含むが、きわめて重要なものであるからここに全文を掲出しておく。

本年度得業生――総数四百九十六名であります。内大学部を卒業しました者が二百四名(其内政治科が八十九名、法律科が四十一名、文学科が七十四名)、高等師範部を卒業しました者が此春仮卒業式を行ひました旧文学部の者を含みまして総て九十七名(其内国語漢文科が三十八名、歴史地理科が四十五名、英語科が十四名)、専門部を卒業しました者が百九十五名(其内政治経済科が百十一名、法律科が八十四名)で、殆んど五百に近い数でありますから、多数であり過ぎるやうな御考が或はあるかも知れませぬが、是で全体の学生の十分の一弱に当ります。之は随分厳重なる試験を行ひましたもので、各学部共それが為に本年は此式場に列することの出来ない不幸を見たものも居ります。殊に大学部の如きは筆記試験の外に、口述試験も行ひまして、尚ほ卒業論文も課しましたから、大分苦しめました訳であります。此卒業生を加へまして本校創立以来得業生の総数を見ますると、丁度三千三百五十九名となります。又本年度に於て高等予科を修了致しまして本科の方へ進みましたものが五百七名あります。之は来る九月より大学部一年生を形造る者であります。

現在学生総数――現在学生の総数は四千九百一名であります。実業学校、中学校は是より省きましたので、直接大学に居る丈けの数であります。夫れは三十八年六月末の現在数に依つて調べましたもので、内大学部が千二百八十名、専門部が九百二十名、高等師範部が四百七名、高等予科が二千二百六十八名と云ふことになります。

講師数――今申しました学生を現在百四十七名の講師諸君で教授せられて居ります。此百四十七名の内には科外講師、名誉講師等は含んで居りませぬ。

図書館――次に図書館の事を一寸申しますが、図書館に集めました書物の総数が今日迄の所で六万一千四百五十四冊となつて居ります。之を部数にしますと二万五千八百十七部となります。外に委托図書が一万四千九百三十五冊、部数にしまして三千六百五十三部であります。彼是れを合せますると現に図書館の書庫中にありまして学生の用に供せられて居りまする書物の総数が七万六千三百八十九冊、此内の一万三百六十四冊は本年度に増加しましたので、内六千四百二十二冊は買入れまして、三千九百四十二冊は寄贈に係つて居ります。年々歳々図書を寄贈せられる所の諸君の増加しまするのは、本校の深く教育進歩の為に喜ぶ所であります。又書物を委托された方も大分ありますが、其重もなるものは故川田〔甕江〕文学博士の愛蔵の書物であります。是が委托せられました為に学生の研学の便宜を非常に増しました訳であります。此外商科を開きましたに付て、商品を集める必要がございまして、其事に関して是も学校に同情を寄せられ此事業を賛成される諸君から大分其物品の寄贈を受けまして深く喜んで居ります。又図書館は本年度よりして公開の主義を採りまして、本校の学生のみならず一般の人の閲覧を許すと云ふ方針を定めました。

基金――次には例に依りまして本校の基金の大体の御話を申上げますが、申込総額は三十万八千六百十三円六十六銭、此内実際収入致しましたのが十五万八千四百七十五円六十八銭、それで此実収額は基金管理委員の承諾を経まして建築費に用ひて居ります。今日まで此建築に費しました高が十七万三千二百二十九円三十八銭九厘と云ふ事になつて居ります。此基金に付て此募集に応ぜられた諸君に深く感謝致しますことは申す迄もない話で、斯る好成績を収めましたことは深く学校関係者一同の喜ぶ所であります。

学士の称号――偖本年の卒業生の事に付て尚ほ少し申上げたい事がありますが、本年の大学部の卒業生には学士号を称へることを許しました。如何なる名を付けるかと云ふことに付きましては、彼是れ評議も致しましたが、矢張り早稲田大学の政学士、法学士、文学士、商学士、此商科の方は二年後に出ますのであります。さう云ふ名を付けることに定めました。之は帝国大学では御承知の通り法学士、文学士、理学士等の名を付けて居りますので、それと多少異ならなければならぬ訳であります。それと異なつた名前を付けて、必らずしも、早稲田大学と云ふ文字を重ねなくても、付け様は幾らもありますが、併しながら此早稲田大学と云ふ名を冠した方が宜しいと云ふ主義を取りました。早稲田大学と云ふ名を冠して其名を重からしむるも軽からしむるも一に本年以後の卒業生諸君の将来の働き如何にあると考へまするので、それで此早稲田大学と云ふ字を付けました訳であります。

特待研究生――本年の卒業生の内で優等の成績のありましたもので、直ちに実際の働きを志す者も多数あります。これは最も結構な事と思ひますが、併し学問の研究を尚ほ続けることが自分の嗜好にも適ふと云ふ志の厚い人を選びまして、一個年一人宛特待研究生と云ふものに致しました。之は此学校の発明と云ふのでも何でもありませぬ。御承知の通り諸外国にはフエローシツプ、即ちフエローの制度と云ふものがありまして、学費を支給して研究を継続させると云ふことは兼て聞いて居りました事でありますが、略々其形に倣ひまして、長い間と云ふては本校の力の及ぶ所でありませぬから、兎に角一年間卒業の後研究を継続させると云ふ積りで、此特待研究制度を設けました。此選に当りました者は大学部政治経済学科の大山郁夫氏、同じく法学科の北原淑夫氏、同じく文学科の原口竹次郎氏、此三君が主任講師其他の講師諸氏の見る所に依りました適任である、又本人も其志が厚いと云ふことで、此度右の特待研究生と致しました訳であります。外に試験の成績が宜しいので先刻校長より証書を渡しました数名の月謝免除の特待生を相変らず出しました訳であります。

留学生――次に申上げなければならぬのは留学生の事であります。段々此学校に専ら当る所の講師を養成すると云ふことは極めて必要な事と思ひまして、数年前より此学校よりして留学生を海外へ派遣して居ります。目下留学中のものは美学・文学専攻の島村滝太郎君、哲学史専攻の波多野精一君、国法・行政専攻の副島義一君、民法・商法研究の小山温君、是丈けが目下往つて居りまする。其内で島村君は此九月に帰朝して直ちに教鞭を取られる事になつて居ります。少し後れまして副島君も帰られる事になつて居ります。故に本校に於ては本年新たに其欠を補ひまして留学生を派遣することに致した、即ち倫理学専攻の名を以て藤井健治郎君、商業学及び実際英語兼修の為に伊藤重治郎、此二君を派遣することに極めました。

体育部――次に申上げたいと思ひますのは体育部に関する件であります。体育部の方は年々拡張せられまして、目下は撃剣、柔術、野球、庭球、弓術、短艇、其他の部に分れて居りますが、本年の夏は更に游泳部を加へまして逗子に場所を定めまして、游泳を教へることに致しました。又短艇部に於きましては、此過去一年間に六隻の短艇を新調しまして、漸く他の学校とも短艇競走をなすことの出来る基礎が定まりました訳であります。又大運動会は春季一回、秋季一回、春季は陸上運動、秋季は水上運動と云ふことに定めまして、此春季に催しました運動会の如きは、幸に盛大を極めました訳であります。此秋季に於ては又水上の運動を催します訳になつて居ります。運動に関してもう一つ申上て置きたいことは野球選手を米国に派遣した事であります。此選手の人々は近日皆無事で帰朝を致しました。此選手が海外へ参りますに付きましては、此校外の諸君の非常なる賛成を得まして、中には寄付等をせられて其行を壮んにせられました方もありました。又海外へ赴きまして我同胞諸氏の厚い同情を得ましたことも新聞紙等に於て現はれて居る事実であります。是等の諸君に対しては深く感謝の意を表します次第である。其成績が予期の如く良好でなかつたと云ふことは深く遺憾とする所であります。併ながら此一行の亜米利加へ参りました事が間接に運動界は固よりのこと、一般教育の上に及ぼした影響は決して悪しくないと云ふことを私は深く信ずる次第であります。

清国留学生部――次に御話をしますことは清国留学生部と云ふ事に関する義であります。今日の時勢に於て清国の青年を教育すると云ふ方針を我国の諸学校は取らねばならぬと云ふことは之れは論を待たずして明かな事であります。此方針を取つて清国の青年を教育することは、啻に同種同文のみならず、同利害である、彼の国と我国との関係を益々密着せしむる所以でありまして、尤も肝要な事であると思ひます。所で我大学は従来清国の留学生を教育して居りましたが、それが為に特別の設備を致しては居りませぬ。矢張り内国の学生と同じやうに、他で語学を習ひまして此所へ来まして、別に学校で特に世話を焼かなくて出ましたのが、今までのやり方でありました。今日卒業せられまして只今答辞を読みました人も、矢張り其通りの訳であります。従来は多数の卒業生を出して居りませぬ。併ながら其卒業生の成績は先づ良好と言つて宜しいと思ひます。私が支那へ参りまして北京に於て七、八人の本校出身者に遇ひましたが、目下何れも支那で最高の試験である進士試験を受けて居りました。此間仄かに聞く所に依ると、殆んど其全部は及第を致しまして進士の待遇を受ける事になつたらしく思はれます。又今年出ました此卒業生の如きも、兎に角日本の学生と同じやうに予科より這入りまして、大学部を此度卒業しましたのであります。而かも其成績は決して平凡でないと云ふことを申すことが出来ます。只今までの成績は頗る良好であるが、併ながら特別の設備をしない為に、人数が少なくて迚も是丈けでは志を達する訳に参りませぬから、爰に於て特に清国留学生部と云ふものを此秋より始めることにしまして、語学より教へ始め、日本語より教へ始めて、一通り此専門の学問、人の師範となるべき学問、即ち師範科、政治経済科若くは商科と云ふ如きものを研究せしめやうと云ふので、特別に一の部を開くことに極めましたのであります。夫れをなすに付きましては大体の方針を定めなければならぬ、其方針を定めるに付きましては多少清国の事情に通じなければならぬ、又清国の当局者若くは先輩の人々に遇ひまして其意見を聞く必要がありますから、先月来多少の日子を費しまして自身清国漫遊を企てました次第であります。夫れで将来は此方面に対する方針は濫教育の弊を矯めたいと思ひます。数を貪ぼつて外国の子弟を多数一どきに預りまして、若し誤まるとなりませぬから、成丈け鄭重な方針を取り、規則を厳重にして、数を貪ぼらず、漸次に多数の人を養成すると云ふ積りで、本年の秋は先づ予科のみを開かうと云ふ考であります。

研究科及練習科――次に次学年の設備に関することで一言申上げて置きますことは、此研究科・練習科の事であります。之は得業生諸君は特に耳を傾けて置いて貰ひたい。研究科と云ふのは学校の規則にありまして、諸君の中で尚ほ学問の研究を続けたいと云ふ人があれば、学校は夫れ丈けの設備をなし相当の講師を付けて諸君の研究を助ける、之が即ち研究科である。練習科と云ふのは此度思付いた訳であるので、必要があれば置くし、無ければ置かぬ、諸君がやりたければやるし、やる必要がなければやらぬと云ふのであります。夫れはどう云ふ目的であるかと云ふと、此一方には研究科を置いて学問の蘊奥を窺はせると云ふことも無論大学としての勤めでありますが、併ながら学者にばかりなるのが人間の能ではない。大いに活動をしなければならぬと云ふことが一方にはある。又それを志す人もある。リベラル・エヂユケーシヨンと云ふものとして先づ教育を受けて腹が出来たならば世の中へ立つて活動しやうとする人もある。又相当の職を求めんとする人もある。所で私の考へまするに、余程之れに付ては世の中にも誤解があるし、又学生の不覚悟なる事も大分あると思ひます。世の中の誤解と云ふのは如何なる事かと云ふと、高等の学問をした人を、先づ極く荒ぽく申しますれば、小僧仕事に使つて見ても少しも役に立たぬ。従つて学問を深くさせる必要はない。斯う云ふ結論をなして居る人が段々あるやうに思ひます。之は半ば真で半ば虚であります。小僧仕事だけをして居る間は小僧教育を受けたもので沢山であります。併ながら其小僧を将来番頭にすると云ふ時になると、腹が出来たものでなければ番頭職は勤まらないのであります。それだからどうも差向き此小僧に間に合はないと云ふ丈けで、高等教育を受けたものを排斥するのは尚ほ可なりであるが、学問をさせない方が宜いと云ふ結論をなすのは、之は大いなる誤りであると私は思ひます。所が他の一方には、此高等教育を受けたものの不覚悟が他人をして此誤りをなさしむると云ふことが往往にあります。政治学は知つて居る、経済学は知つて居る、法律学は知つて居る、専門の学問は修業をして居るが、手紙をうまく書けない、英語をうまく話せない、簿記を知らない、文章が出来ないと云ふ人が沢山あるのであります。夫れでは差向きどうせ小僧から番頭になるので、始めから番頭にはなれませぬから、小僧の時代に役に立たぬと言はれても仕方がない訳である。所で夫れを慮つて居りますから、兼て学校では予科を置いて、或は簿記を教へ手紙を書くことまでも随分手を取つて教へて居ります。居りますが、本科の学問をして頭が高尚になると、夫れを忘れる事もあれば、ゆるがせにする事もあつて、卒業する時分には元との木阿弥で、只理屈丈けを知つて、其他の事柄は忘れた人になつて居ると思ふ。それで世間へ出ると詰らぬ事で躓づかうと云ふ懸念がありますから、半年ばかり此学校に留まつて、新聞記者になりたければ文章を書くことを御習ひなさい、実業家になりたければ帳面を付けることを御習ひなさい、英語を話し英文を書くことを御やりなさい、一度は学校で教へた積りだが、若し諸君が忘れて居ると往かぬから、他からけなされるのは残念であるから、今一応其設備をしますから志あるものは来つて御学なさいと云ふことを申して置くのであります。

そこで先づ大体御話をすることは夫れ丈けでありますが、今一つ申して置きますのは、今迄は大学では英語の外に仏蘭西語、独逸語、支那語と云ふものの一を選択して第二外国語としてやらんければならぬ事にしてありましたが、段々考へて見ると、学者になるには無論其方が宜しいが、併し中々多くの人に夫れ丈けの事の望みを嘱するのは、少と無理かも知れぬと云ふことに気が付きましたから、英語を二つに分けまして、何処までも大学教育を受けるのであるから、英語の原書に依つて一通り専門の事柄を窺へることは之はしなければならぬが、其上では仏蘭西語をやりたければ仏蘭西語、独逸語をやりたければ独逸語、支那語なら支那語、或は又さう云ふことをやりたくなければ実際英語をやれと云ふ事にしました。即ち実際英語と云ふものを只の英語から引離して、第二外国語の一つと致しまして、さうして他の仏蘭西語、独逸語、支那語と丁度肩を並べることにして、将来は諸君の選択に任せると云ふ事にしました。之はもう多数の諸君は知つて居られるが、さうした所以と云ふものは、どうであるかと云ふと、丁度今此練習科と云ふものを設けなければならぬと私をして感ぜしめた事と同じ理由で、其方針を取つたのでありますから、其辺も一つ諸君に於て翫味せられんことを希望するのであります。

(『早稲田学報』明治三十八年八月発行第一二一号 六五―六八頁)

 これに次いで校友総代として松山忠二郎(明二七英語政治科)が祝詞を述べ、最後に大隈が立って演説した。大隈は、大学部第一回卒業生を出したことは慶賀に耐えないが、サイエンスの一科がないから未だ完全とは言えず、将来これを併設して大学の充実を計りたいと述べ、更に卒業生一同に対する社会訓を披露して、式を閉じた。次いで式後大隈邸で宴会があり、得業生に茶菓の振舞があった。

 なお高田の学事報告で触れられている点に関して、次に二、三補足しておこう。

 研究科については、既に六四―六五頁に説述したところであるが、大学自称後の過渡期にあっては、東京専門学校得業生で研究科を修了した者には早稲田大学得業生と同じ資格を与えられるよう定められた。この中に包含せられる者として、青柳篤恒崎山刀太郎、唐宝鍔、金邦平などの政治経済学科得業生の名を挙げることができる。他学科得業生の研究科修了者についての記事は発見されないが、『早稲田学報』第一二五号(明治三十八年十一月発行)の左の記事によって明らかなように、研究科学生は、法・文両学科にもあったに違いないと推定せられる。

研究科記事 同科は十月中旬より愈々開始の運に至れり。其研究の方針を聞くに、研究生は各自其専門に従ひ研究の題目を定め一年の後論文にして其研究の結果を発表するものにして、研究は学生主動的態度を取り教師は自宅に於て其相談に応ずるのみなりと。而して研究科指導の任に当られたる本校講師は左の諸氏也。

政学部 塩沢昌貞

法学部 鈴木喜三郎氏 横田秀雄氏 池田竜一氏(以上民法) 岡田朝太郎氏(以上刑法)

文学部 坪内雄蔵氏 増田藤之助氏 島村滝太郎氏(以上英文学) 松本文三郎氏 建部遯吾氏(以上哲学)

尚ほ本校講師藤山治一氏は研究生の請に応じ篤志を以て独逸語を教授することを快諾せられたりと云ふ。 (六八頁)

 何れにしても、六四頁に掲げた研究科規則の第二条に規定された部門名は、三十六―三十七年度に若干の修正が行われた後、四十―四十一年度よりは規則から全く削除されたこと、および第五条の毎週授業時数が三十六―三十七年度以降は削除されたことを見れば、東京専門学校時代と比較して、大学自称後も研究科が、過渡期を別とすれば、大いに実効を挙げるに至ったとは必ずしも推定しにくい。なお後述する如く、この後も、そして大正に入ってまで、文学科および高等師範部の研究科に関しては記録が散見されるが、教員無試験検定との関係で、この分野では研究科の入学生が、他学科に比べて多かったものと想像される。

 また、三十七年十月発行の『早稲田学報』第一〇七号には、「特に俊秀の得業生を選み、学資を給与して俊才養成に努むることと」したとして、左の如く「特待研究生規則」が掲載されている。

第一条 学術研究奨励ノ目的ヲ以テ、本校各学部二特待研究生ノ制ヲ設ク。

第二条 特待研究生ハ、本校得業生ニシテ品行方正学術特二優秀ナル者ヲ選抜シテ之ニ任ジ、高等ノ研究ニ従事セシムルモノトス。

第三条 特待研究生ハ其所属学部講師ノ指導ヲ受ケテ専ラ研究ニ従事スルト同時ニ、左ノ任務ニ当ルベキモノトス。

一 学術研究上又ハ教務上ニ付キ講師ヲ補助スルコト。

二 或学科ノ授業ヲ担任スルコト。

三 本校ニ於ケル編修事業ニ付キ補助スルコト。

第四条 特待研究生ノ任期ハ一学年間トシ、其在任中学資ヲ給与スベシ。但シ其金額ハ其都度之ヲ定ム。

第五条 特待研究生ノ任期終了後、其成績ニヨリ更ニ之ヲ継続スルコトヲ得。

第六条 特待研究生品行不良・学術懈怠ノ事実アルカ、若クハ疾病ニ罹リ研究継続ノ見込ナキ時ハ、中途其任ヲ解ク。

(三八頁)

 専任教員養成を目的とする特待研究生制度の設置については、三十七年七月の高田学監の学事報告で予告されたところであり、前掲の三十八年の学事報告で、その第一回の人選として大山郁夫(政)、北原淑夫(法)、原口竹次郎(文)が選ばれたことが明らかにされたが、三十九年には貴虎孟太郎(政)、寺尾元彦(法)、関与三郎(文)、更に四十年には武田尾吉(政)、石橋湛山(文)、斎藤朋之丞(商)と、続いて研究科に在学せしめられている。しかし、石橋湛山の回想によれば、

早稲田大学にはそのころ特待研究生という制度があった。毎年大学部の各科から、卒業生中の優秀なる者一人ずつを選択し、これに月々二十円(であったと思う)の学資を支給して、さらに一年間研究科で勉強させてくれるのである。多分こうして将来の大学の教師を養成する趣意であったろう。率直に印象を述べると、当時の私は、おそらく田中王堂氏を除き、その他の諸講師のお覚えが大いに良かったとは思わない。しかしとにかく、点数の上で首位を占めたので、この特待研究生にあげられた。しかしこの制度は私の年度か、あるいは翌年度ぐらいで廃止になった。大学当局者の期待にそう成績をあげ得なかったからであろう。それには私のごときなまけ者の特待研究生が出来たことにも、大いに責任があったのかも知れない。

(『石橋湛山全集』第一五巻 五四頁)

石橋の記憶に誤りはなく、この年以後、特待研究生についての記録は発見せられない。

 この外別に各部各科の卒業生で、実務に志す者のために、これまた高田の学事報告に述べられているように、練習科を設け、三十八年九月からこれを実施することになった。その科目は実際英語、ドイツ語、フランス語、支那語、文章、簿記等であった。また三十八年に判検事・弁護士・高等文官の試験規則が改正されたのを機会に、これらの受験生のため、法学練習科の一科を特設し、本校得業生およびこれと同等の学校卒業生を入学させることにし、三十九年一月より開講した。これの規則・学科・授業時間等が『早稲田学報』第一二八号(明治三十九年一月発行)に載っているので、転載しておく。

一 文官高等、判検事、弁護士試験受験者練習ノ為本科ヲ設ク。

一 本校得業生及同等学校卒業生ヲ入学セシム。

一 修業年限ヲ一個年トシ学年末ニ於テ試験ヲ執行ス。試験ハ筆記又ハ口述トス。

一 学費ハ一個月二円トス。

一 学科及毎週授業時間ハ左ノ如シ。

(六二―六三頁)

 最後に、明治三十五年から三十九年までの学制の変化につき、これまで触れるところのなかった若干の点を、明治四十年刊の『廿五年紀念早稲田大学創業録』から左に補っておこう。

明治三十七年、高等予科学生の為め特に土曜講話なるものを設け、毎月第一・第三の土曜日に於いて午後一時より、修身立志に関する講筵を開くこととなした。……明治三十八年、大学部各科に名著研究と称する一課目を設け、セミナリー式教授の方法により、学生をして政治・経済・法学・哲学・文学等に関する名著大作の研究に従事せしめた。……明治三十九年に至り、大学部政治経済学科・専門部政治経済科とも必修課目の外に選択課目なるものを設け、学生をして必修課目の外に、その嗜好、目的により選択課目中より二、三のものを選択して学習すべきこととなさしめ、而してその所謂選択課目と称するものの中には、明治史・東洋近時外交史・自治政策・植民政策等の新課目を増設し、以て時世の要求に応ぜんとした。……試験の方法に改正を加へ、是れまでの学期試験を廃して進級・卒業二種の試験を行ふこととなし、且つ試験の成績は、従来の如く採点表を示すことなく、単に之れを甲・乙・丙・丁の四種に分ち、甲・乙・丙を合格とし、丁を不合格とすることに定め、採点の制を存したる高等予科に於いても、成るべきだけ平常点を以て試験点に代ゆることとなし、尚ほ大学部卒業試験は、従来の筆記試験の外に口述試験を課し、三個年学習せる範囲内より出題し、講師の立会試問を行ふことに定めた。 (七四―七五頁)

なお、この試験規則の改正は明治三十八年一月に行われている。