本編第三章に述べたように大学問題研究会が一応、大学改革の方向を提示したのを承けた形で、昭和四十六年度に入って、理事会は各学部、大学院各研究科、研究所、付属機関等に改革の具体案への取組み方や、固有の問題点についての報告を求めた。折から、四十二年以来四年に亘って行われてきた中央教育審議会の審議がまとめられて文部大臣に答申され、学校教育の改革の柱として高等教育の改革が謳われていたので、タイミング的には、その改革要請に具体的に応える形になった。
先ず共通して取り組まれていたのはカリキュラム改革の問題である。各学部でカリキュラム検討委員会が設けられ、検討が進められた。例えば法学部では、一般教育の改革に関して「法学」が基礎科目とされ、総合科目として「環境論」の新設が決定されており、第一・第二文学部では、「自由コース案」が提示され、その実現に向けて検討が始まり、更に語学教育研究所での特殊語学の履修を専門科目ないし専門外国語として認める案や、大学院文学研究科の設置科目の若干を学部学生に聴講を認めて単位とする制度等が検討項目となった。また教育学部では、一般教育科目の多人数クラスの解消を主眼とし、加えて英語英文学科の専門科目の充実、図書館司書関係科目の充実を目指すなど具体的な取組みを示した。カリキュラム改革が一層切実な問題であったのは社会科学部においてである。政・法・商の第二学部の学生募集停止のあとを承け、それぞれの専門分野を総合的に教育・研究する単一学部として発足したとはいえ、それらの単なる並列であってはならないという意識が当初から強く抱かれ、独自のカリキュラム編成の努力が重ねられてきた。必修制をなくして選択必修制にしたこと、一般教育科目に「演習」を設置したこと、「社会科学総合研究」を設置したこと等、注目すべき改革努力が注がれてきたのである。しかし、総じて、抜本的改革への道程は依然遠かった。
なお、カリキュラム改革問題に関連して、第二学部の存在と密接な関係にあった学苑独自の制度たる夏季学期の廃止の経緯に触れておこう。夏季学期は、昼間学部の学生に比して授業時間が不足しがちな夜間学部学生のためにカリキュラムを組んで単位を与える機会とするとともに、他大学の学生や社会人にも開放して受講の便宜を与えるという社会教育の役割も持ち、更には昼間学部学生も単位不足を補うために利用し得るものであった。二十四年度発足当初は夏季休暇中の二十日間、午後六時十分から八時五十分まで開講したのが、二十七年度より午前八時から十時四十分まで開講する午前の部も設けられて二部制となり、四十二年度には電子計算室によりコンピュータ・プログラミングに関する科目が午前九時から午後四時までの時間帯で設置されたほどであった。しかし、夜間学部の廃止に伴い夏季学期の本来の役割が消滅したので、四十一年度には第一政治経済学部、第一法学部、第一商学部が、四十二年度には第一理工学部が、四十三年度には第一文学部がこれを廃止し、四十四年度には教育学部だけが開講したものの、遂に四十五年度を以て教育学部も教職課程科目を含めて全科目を廃止するに至った。
学部の学科組織に関しては、どのような改革が実施されたのであろうか。第一・第二文学部が四十一年に一般教育課程(一・二年次)をⅠ類(哲学、社会学、教育学、史学系統)とⅡ類(文学、演劇系統)に二分する類別編成を採用したことは、二八一頁以下に既述した。従来のように専修の性格や意味を十分に理解しないまま一年次から各専修に所属するのではなく、先ず、専攻領域が大まかに二分された類において二年間学ぶうちに自己の適性を確認するなりテーマを決定するなりしたのち、希望の専修に進級するというものである。しかしこの改革は長続きしなかった。受験生の多くが改革の主旨を理解できないまま類を選択した結果、入学後に転類を希望する学生が増えただけでなく、特定の専修に希望者が殺到した場合、二年間の成績によってはその願いをかなえられない学生が少からずあり、類別方式の意義が薄れてしまったのである。そこで第二文学部では四十五年度から、第一文学部では四十六年度から類別編成を解消し、学部全体の一括入試に一本化した。なお、第二文学部では、第一文学部に四十一年度に設けられたのと同じ文芸専修が四十五年度に増設されている。因にこの文芸専修は、作家や評論家やジャーナリストの育成を狙ったもので、小説家志望者のために大正元年に設置された大学部文学科英文学科第一部(乙)(第二巻七一八頁参照)の現代版と言ってよい。こうして、学生は二年間の教養課程を経たのち、三年次よりそれぞれの専修に分れて専門科目を学ぶことになったわけであるが、この方式では、学生にとっては専攻学問の息吹に直ちに触れることができないとか、入学時に希望した専修に進級できる保証はないといった不満と、また二年間の専門教育では短過ぎるという教員の不満がくすぶり続けた。この問題を解決するため、五十三年度より一・三制と呼ばれる方式が第一文学部でも第二文学部でも採用されたのである。入学時には学生をそれぞれの専修に振り分けないけれども、一年次から若干の専門教育科目が履修でき、そして二年次から各自の志望に応じて専修に進級するように改めたわけである。しかし、志望者数がその専修の定員を超えた場合は一年次の成績により進路が決められたので、この方式も学生には必ずしも納得のいくものではなかった。文学部のかかる改革を以てしても、教養課程と専門課程の接続をどうすればよいのかという新制大学発足以来の難問を完全には解消し得ていないのである。
理工学部では四十七年四月一日を以て電気通信学科が電子通信学科に名称変更となり、翌四十八年には、一般教育の化学担当の教員を中心にして入学定員三十人の化学科が設けられた。化学科の設置は同学部において工学系に対する理学系の学科の拡充という意味を持っている。同科の設置は関係教員によって多年の宿願とされ、既に応用化学科がある中で、既設の応用物理学科に対する物理学科と同様の位置を確保しようというものであった。応用化学科の性格が工業化学および化学工学であり、その卒業生に与えられる称号が工学士であるのに対して、化学科は理学としての化学であり、卒業生は理学士となる。現実問題として、応用学問の性格を持つ工学系学科の教育・研究は、膨大な研究開発費を投入できる企業に対して劣勢に立たざるを得ず、寧ろ基礎学問を充実して学部としての存在意義を維持すべく努力していたのである。これで理工学部全体の学科数は十三、一学年定員は千七百四十人となった。なお、同じ四十八年を以て第一政治経済学部の新聞学科と自治行政学科、第二政治経済学部、第二法学部、第二商学部に在籍の学生がいなくなったので、これに伴い第一政治経済学部、第一法学部、第一商学部の三学部はそれぞれ政治経済学部、法学部、商学部と名称が変更された。
もとより組織改革は配当科目の改革と同様、絶え間のない課題であり、前述の各学部報告書を見ても、検討が続けられている様子が窺える。中でも教育学部がこの時、初等教育課程の新設を訴えていたことが注目されよう。これは初等教育の重要性および研究の必要性とともに、現実に教育学部に限らず卒業生の中から初等教育に従事する者がいるという事情に鑑みたものである。学苑卒業生が初等教育の教師になろうとする場合、他大学や通信教育で必要単位を取得して初等教員免許資格を得なければならなかったのである。しかし、初等教育課程を設ける場合には付属小学校を設置しなければならないという問題も出てくる故か、この点について突っ込んだ検討が行われた形跡はない。
もう一つ大きな改革課題となったのは入試制度である。四十年以降の進学希望者増大と競争激化を背景として、前述した中央教育審議会は大学入学者選抜方法を改善すべきであると答申に謳い、これを承けた形で文部省に設けられた「大学入学者の選抜方法の改善に関する会議」は四十六年十二月九日の報告で、志願者が特定の大学・学部に集中していることや選抜が学力検査を偏重していることを指摘し、改善の必要性を強調した。大学にとって入試改革は社会的圧力になったとさえ言える。学苑でも各学部で入試制度検討委員会が設けられ、合否判定に高等学校の調査書あるいは内申書を重視する案、推薦入学制の案、全学一本化入試の案、入試総合センター設置の案、入試科目見直しの案等が検討された。その中で、入試の成績と高校の成績と大学の成績との相互関連を調査した第一文学部の入試制度検討委員会は、大学の成績が、入試の成績よりも高校の成績の方と関連が高いという事実を確認した。また、学苑への入学者を毎年多数送り出している高校の成績優秀者には、入試成績の極端に低い者が殆どいないことも判明した。とすれば、入学者の選抜に当って高校調査書を積極的に活用してよいことになる。その結果採用されたのが、高等学校側から入学候補者を推薦してもらう推薦入学方式であり、実際、既に慶応義塾大学工学部や上智大学では四十一年度からこれを実施して、かなりの成果を上げていた。第一文学部は四十八年度からこの制度導入に踏み切り、翌四十九年度には商学部がこれに続いた。第一文学部の場合、過去の実績を調査した上で推薦依頼校を決定し、同学部への入学を強く希望する新卒生徒を一校一人推薦してもらう。その際の調査書についての基準は、高等学校三年一学期までの全科目を総合した評定平均値が四・〇以上であること、行動および性格の記録に「C」がないこと、三年一学期までの欠席日数が四十日以内であることの三点である。商学部の方式も第一文学部とほぼ同様であるが、高等学校二年までの全科目の評定平均値が四・三以上とされた点が異る。こうして第一文学部では四十八年度に百六十五人の推薦入学者を、商学部では四十九年度に七十八人の推薦入学者を決定した。なお、推薦依頼校は固定せず、推薦入学者の成績追跡調査をも参考にしつつ毎年選定することになっている。
ところで五十年代に入ると、統計学に基づく客観的学力判定技術として四十年代に利用され始めた「偏差値」が、選抜の絶対的な基準として、高校入試だけでなく大学入試にも応用されるに至った。高等学校の進学指導教師や大手の受験予備校は、進学希望者本人の進路選択の意思よりも、入試に合格することを重視するようになったのである。偏差値優先の風潮は、進学を希望する若者に重大な悪影響を及ぼさずにおかなかった。受験する大学や学部が本人の意思や希望とは無関係に決定された結果、入学後に何を勉強するかを自分では決められない若者が著増したからである。我が学苑で、入試制度問題について学部別の検討・実施の段階から全学的な取組みへの動きが本格化したのは、まさに偏差値教育の弊害が憂慮され始めた五十五年のことであり、五月に入試制度検討連絡委員会が設置された時であろう。同委員会設置の趣旨について、教務部長示村悦二郎は次のように説明している。
単に入学試験の管理の見直しにとどまらず、入学試験というよりさらに広い意味で、入学者選抜の新しい方法を考えていこうということです。……今、早稲田の行っている選抜方法というのは、いわゆる学力試験、ペーパーテストが主流で、その他二学部〔第一文学部と商学部〕で一般高校からの推薦、……付属高校、系属高校からの推薦という方法をとっています。確かに世間を見ても、それぐらいしか現状としてはないのですが、世間と同じことをやっていてよいのだろうか。本当に早稲田へ来たいと思っている、あるいは逆に、われわれが教育したいと思っている学生がどうすればとれるか、というような問題をもう一度考え直したいと思います。 (『早稲田ウィークリー』昭和五十五年五月二十二日号)
同委員会は五十七年秋に答申をまとめ、入試制度の改善策と今後の課題を問題提起的に列挙している。先ず選抜方法を多様化しなければならないとした上で、既に実施されてきた指定校また付属校・系属校からの推薦入学、本庄高等学院においてこの年より実施された帰国子弟受入のほかにも、校友推薦等の可能性、全学共通の一次試験を行ったのち学部ごとに面接や外国語聴取能力の二次試験を実施すること、適性を見るための面接や小論文の作成、現役と浪人または地域による学力差を考慮しての配点基準の工夫等が挙げられている。そして、今後の課題として、校友子弟、運動選手、「一芸に秀でた者」の優先入学ないし学科試験によらない能力検査のような選抜基準を考えるべきことを提起した。以後、さまざまな工夫を凝らした推薦入学制度はすべての学部において採用されていくこととなる。
昭和二十六年度に発足した新制大学院の総定員は、四十年代後半までの約二十年間において、二十八年度の修士・博士両課程合せての千七百二人から、四十六年度の三千九百四十人および四十八年度の三千九百六十人へと増加していった。組織としては、四十三年度に経済学研究科が経済学専攻の一専攻から理論経済学・経済史専攻と応用経済学専攻との二専攻となり、四十七年度に理工学研究科の鉱山及金属工学専攻が資源及金属工学専攻と、四十八年度に応用物理学専攻が物理学及応用物理学専攻と改称され、四十五年度に文学研究科の西洋哲学専攻が哲学専攻と名称を改めたほか、四十八年度に中国文学専攻の修士課程が新設され、五十年度に博士課程も増設されたが、定員拡大の主因は、四十六年度における理工学研究科修士課程の定員が前年度の三百四十人から千五百六十人に、博士課程の定員が同じく百三十五人から六百二十四人へと一挙に拡大したことである。理工学研究科の定員の大幅増大は、理工学部が西大久保の地に移転し、施設・教員等の面で拡充が成ったことの結果である。しかし、この定員増は、一理工学研究科の問題にとどまらず、新制大学院なるものの性格や役割が高等教育史上に持つ問題点をいよいよ明らかにしたと考えることもできる。よって、五十一年の大学院改革に結実していった経緯を見よう。
新制大学院発足二十年目は自らを問い直す節目でもあった。実際、学苑内外において新制大学院のあり方についてあらためて問題意識が湧き立ち、多面的に論議された。四十六年六月の『早稲田学報』(第八一二号)は「大学院創設二十年」を特集に組み、大学院の「現状と問題」について各研究科委員長が報告と所見を述べるとともに、新制大学院生活を経験した若手教員や在学生に「未来像」を語らせている。そこではおおよそ次の問題点が指摘された。
一、学部に基礎を置いていることによる大学院の独立性あるいは機能的弾力性の欠如。
二、教育・研究条件、施設や待遇の劣悪さ。
三、特に修士課程の位置づけの曖昧さ。
新制大学院がアメリカの大学院制度の導入とともに旧制大学院の改革という意味を帯びたことは既に述べた(第九編第二章第一節)が、実態に即して言うならば、二十年後に漸く新制大学院の本格的な制度化が図られたと言うべきである。徒弟制度的な少数の研究者養成が旧制大学院の役割であり実態であって、制度的には多分に曖昧なものであったのに対し、新制大学院においては、課程、機能、目的、資格条件等について厳密な規定が設けられた。しかし、関係者の意識の面でどこまでその実を上げてきたか、二十年を経ても確信が持てなかった。問題点の指摘はそのことを物語っている。ハード面の整備に関しては、学苑は寧ろ積極的に進めてきた方であるが、私立大学の経営基盤になりにくいという意味での限界があったことは否定できない。それ以上に、問題は、大学院の役割についての認識が関係者の間でも必ずしも一致しなかったところにある。既成の学問・学科を基礎にしている学部制度とは異る筈だとの問題意識は殆どなく、従って、新制大学院のあるべき内容を自由かつ積極的に構想しようとする努力はなかったか、あったとしても不十分極まるものであった。
四十年代には、頻発する大学紛争を契機に大学改革が論議されるようになり、前述したように四十六年六月には大学のあり方に関する中央教育審議会の答申が提出された。大学紛争の原因としても指摘された大学進学率の上昇、いわゆる大学大衆化は、これまで直面したことのない新たな事態であり、かつてのエリート養成的な大学観ではこれに対処できなくなったことが、改革を要請したのである。換言すると、形は新制度になっても意識としては旧制度から抜け切らないできた大学教育関係者に、その改革を迫る事態になってきたと言ってもよい。
ここで文部省を中心に、大衆化した大学(学部)は高度な専門教育よりも市民的な教養教育に重点を置いたものとし、高度な専門教育は大学院の拡充・強化によって果されるべしという政策路線が出てくる。同世代中に占める割合としては旧制中学生よりも新制大学生の方が多いという時代を迎えて、「大学」インフレは大学という手形の著しい価値下落をもたらした。そこから、大学の価値低下分を大学院によって補塡しようとの意識が、特に帝国大学に理想の「大学」像を見ていた人々のうちに生れたとも言い得よう。具体的には、文部大臣の諮問機関である大学設置審議会大学基準分科会の「大学院および学位制度に関する特別委員会」が四十六年一月から大学院制度等の改革について討議を開始し、四十七年三月に文部大臣の正式諮問を受けて改革原案を作り、四十八年四月に中間報告を提出している。その要点を摘記してみよう。
先ず、大学院の構成を博士課程と修士課程とに二分するのは従来通りで、博士課程の目的は研究者養成を主眼とし、修士課程は研究能力の涵養、高度の専門職業教育、社会人に対する高度の教育と、多様性を持たせる。修業年限は博士課程は五年を標準とするが固定的なものとせず、きわめて優秀な学生であれば最短で三年でも可とするよう弾力性を持たせる。博士課程標準修業年限五年のうち、最初の二年を前期、後の三年を後期として、前期修了者に修士学位を授与する。博士課程の改善として強調されたのは単位制度に関してであって、所定単位を三十単位とし、これを前期課程で修得し、後期三年間は単位制度による制約を外して専ら研究指導の期間とする。また修士課程については、修業年限を特別の場合には一年にすることができ、学位論文を必ずしも必要としないという案も出されている。更に、大学院を学部段階の組織と対応させることを必要としないと、学問状況に応じた弾力性付与を狙い、またその趣旨を一段と徹底させた形で博士課程のみの独立大学院構想を打ち出している。学位制度についての案は、改善というより発想の転換と言うべきもので、特に博士号の意味が大きく変って、新制大学院発足当時の「独創的研究によって、従来の学術水準に新しい知見を加え、文化の進展に寄与すると共に、専攻分野に関し研究を指導する能力」を証明するというものから、「研究者として自立して研究活動を行うにふさわしい資質、能力を備えていることの証明」となった。つまり、博士号の性格は、学問研究への道に入り得る「運転免許証」的なものへと変化したのである。
中間報告書がその前文において「この報告に対する各方面の意見をじゅうぶん尊重しつつ、さらに審議を行い最終的な結論をとりまとめ答申する予定であるので、広く各方面から建設的な意見が寄せられることを期待している」と要請したのに応えて、学苑では大学院制度検討委員会および各研究科委員会が早速検討に取り組み、「中間報告に対する早稲田大学の意見書」を提出した。
意見書は、一、大学制度における研究と教育の分離の問題、二、私立大学の大学院に対する国庫補助の必要性、三、大学院学生に対する経済援助の拡充の必要性、以上の三点について所見を開陳したものである。先ず第一点について。分離の効果はあるのかどうか、すなわち、それによって研究に重点を置く大学院と教育に重点を置く学部の両者の質の向上が保証されるのかどうかという疑問である。また、研究者の養成が特定の大学、特に国立大学、それも旧帝国大学系の大学に集中してしまうのではないかという危惧がある。この危惧は学苑の場合特に大きかった。中間報告書では新しい構想として「独立大学院」が提示されており、この新構想と相俟って学苑の地盤低下を招きかねないという危機意識が深刻化していたのである。第二の問題点として挙げた国庫補助の問題は、中間報告書では特に具体的には触れられていなかった。それは図らずも、この報告書を作成した側の関心、目のつけどころが主として国立大学にあったことを物語っていると言える。従って、学苑は敢えてこの点を指摘したわけである。第三の大学院学生に対する経済援助の問題は寧ろ一般論で、学苑だけに限られたものではない。
なお、学苑としての意見書に加えて、法学研究科委員会と理工学研究科委員会が「補足意見」を提出している。単純な比較をすべきではないが、同じ大学院問題といっても、専攻ないし学科によって意識や事情の違いがあったことが窺える。法学研究科の場合には、法学部の学生また卒業生で司法試験を受ける者がいるという事情があり、例えば中間報告書で謳われている修業年限一年の修士課程という構想は学部五年制と変らないという受けとめ方になり、従って、その限りでは大学院そのものの存在意義が認められなくなるという所見であった。また、修士課程進学者の割合が高い理工学研究科の場合は、高度な専門的職業人の養成には不十分という学部段階での教育の限界を強く認識しており、従って、大学院を以て教育機関とする理由を十分に主張する立場にあった。それだけに、国立大学中心の大学院拡充や独立大学院構想に対しては特に大きな危機意識が抱かれたのである。また、商学研究科では、四十八年四月、セミナー制度、博士候補者資格検定制度、入学試験制度、学位制度等について問題点を検討し改善案を作成するために臨時商研制度研究検討委員会が設けられ、精力的に審議が重ねられた。
こうして学苑をはじめ各方面からの意見を聴取して手直しをした形で、四十九年三月三十日、大学設置審議会より「大学院及び学位制度の改善について」が答申された。大学院および学位制度の改善の背景・必要・目的について示されている説明を引用して、今回の改革の背景を再確認しよう。
現在の大学院及び学位制度は、戦後新学制の一環として旧来の制度を改めて発足し、既に二十余年を経て大きな役割を果たしてきたが、制度的な整備が十分といえない面もあり、また運用の固定化により、大学院の教育研究上の要請に十分対応できない場合も見受けられる。科学技術の著しい発展と社会の複雑・高度化を背景として、近年高等教育の拡充あるいは学術研究の高度化等の要請が著しく高まっている状況の下で、優れた教育研究者の養成と高度の専門性を備えた職業人の養成という重要な役割を担う大学院について、今後その発展を図っていくためには、その基盤となる制度の改善が是非とも必要である。本審議会は、このような観点から、大学院制度全般について、学術研究の進歩、社会の発展等に柔軟に対応し得る制度を確立し、各大学が大学院を設置運営するに当たって、創意工夫が十分発揮できるようにするという基本的な考え方をもとに、この答申を取りまとめたものである。……今後我が国における大学院が多様な発展を遂げるためには、単に制度の改善にとどまらず、各大学の自主的改善のための努力とあいまって、適切な行財政上の諸施策が講ぜられることが不可欠であり、大学院の教育研究上の諸条件の一層の整備充実が望まれる。また、大学院の学生は、教育研究を専門的職務とする教員とその立場を異にするものではあるが、我が国の研究教育の指導的人材及び社会の要請にこたえ得る高度の専門性を備えた人材の育成の重要性からみて、今後、その研究、生活条件の一層の改善について十分配慮する必要があるものと考える。
(文部省大学局『大学資料』昭和五十年一月発行 第五二・五三合併号 三六頁)
答申を承けて文部省は「大学院設置基準」と「学位規則」との一部改正の省令化を進め、同年六月二十日に公布、翌昭和五十年四月一日より施行されるに至った。
「大学院設置基準」は全八章二十四条から成っている。主旨はおよそ次の通りである。先ず修士課程の目的は「広い視野に立って精深な学識を授け、専攻分野における研究能力又は高度の専門性を要する職業等に必要な高度の能力を養うこと」(第三条)とされ、従来の「学部における一般的・専門的教養の基礎の上に立って」という文言がなくなって、学部との関連がここに消滅した。修業年限は二年、三十単位の取得、学位論文またはそれに代る課題研究および試験の審査合格を修了の要件とする。博士課程の目的は「専攻分野について研究者として自立して研究活動を行うに必要な高度の研究能力及びその基礎となる豊かな学識を養うこと」(第四条)とされ、従来の「独創的研究」「新しい知見」の字句は削除された。修業年限は五年を標準とし、これを前期二年、後期三年と分けることができ、前期二年は修士課程として扱うことも可能である。三十単位を取得し、必要な指導を受けた上で博士論文の審査および試験に合格して修了となる。なお、優秀な研究業績を挙げた場合は三年以上の在学で修了できる。修士課程一年の構想を除いて、中間報告の主旨がほぼ実現されていることが分る。
前述したように、新制大学院制度は殆ど建前として存在したもので、旧制時代の感覚が根強く残っていた。そこでこのたびの「大学院設置基準」は、建前を実態化して、課程制大学院を制度的に確立するとともに、学部に対する独自性を強化することを柱とするものであった。従って、ここで再度全く新たに制度改革が行われたというわけではなく、寧ろ今後の大学院制度の運用において、柔軟かつ多様な形態にすることを可能にするという点に最大の意義があったと言うべきである。
そこで、学苑の五十一年度「大学院学則」改正の主眼は、一、従来の「大学院学則」(昭和二十八年四月一日制定)の中で「大学院設置基準」に抵触する箇所(課程、趣旨等)の修正、二、従来、「大学院学則」の中に含まれていた学位に関する規則を分離させ、新たに「学位規則」を定めたこと、三、現行制度の運用から改善することが適当と考えられる事項の改正と、三点に要約することができる。実際、改正学則を一見して、課程や趣旨の変更以外に目につく主な点は、先ず、課程修了要件の簡素化である。旧学則では在学年限、単位、成績、最終試験についての規定とともに、論文の主題とその研究計画書の提出、ならびに修士課程では一種類の外国語の検定、博士課程では二種類の外国語の検定が規定されていた。改正学則では、前期課程については三十単位の科目履修と論文審査および最終試験が規定されているだけであり、博士課程については、後期課程に三年以上在学して所要の研究指導を受けた上で、博士論文の審査および最終試験に合格することと明記される一方で、在学期間に関しては、当該研究科委員会が認めた場合に限り、一年以上の在学で足りるものとすると弾力性が与えられている。ハードルを低くしたわけである。また教育方法に関して、それぞれの研究科に所属する学生が一定の単位の範囲で他の研究科または他大学の大学院の授業科目あるいは研究指導の一部を受けられるようにしているのも大きな特徴であろう。他大学大学院との相互受講に関しては、文学研究科が四十九年度から学習院大学大学院人文科学研究科(修士課程)および慶応義塾大学大学院文学研究科(修士課程)との間で二科目八単位を限度に試行を開始していた実績があり、改正学則になって、他大学の大学院学生で本学苑大学院の授業科目を履修しようとする者を「特別聴講生」、他大学の大学院博士後期課程の学生で本学苑大学院の研究指導を受けようとする者を「特別研修学生」と呼んで制度化したのである。その他、これまでの政治学博士、経済学博士、法学博士、文学博士、商学博士、工学博士、理学博士に加えて学術博士を授与すること、在学年数を前期課程は四年まで、後期課程は六年までとすることが定められた。
昭和五十一年の大学院改革はどのように評価できるであろうか。結論を先取りして言えば、改革は文部省主導型であって、学苑のオリジナリティは殆ど見られず、学則の修正のみにとどまったと言ってもよい。大学院の修士課程は、高度な能力を具えた専門職業人の養成機関としても位置づけられたわけであるが、現実の社会が弁護士・検事や公認会計士を除き、そうした専門家を多数要求していないために、本節の冒頭で述べたように定員が増えた大学院に付与された新しい役割は、期待通りには機能するわけにいかなかった。そして、大学院の重要な機能は依然として研究者の育成であると教員も学生も捉え続け、旧態依然とした徒弟教育が施された。学位は「運転免許証」とは看做されず、学究生活の重要な里程標と考えられたのである。新設の学術博士が授与された例は皆無であったし、四八頁の第七表に見られる如く、学位取得者の人数は理工学研究科を除きごく僅かにとどまっている。更に、大学院と学部とを緊密に結んでいた紐帯は学則の上では取り払われたけれども、実際には密接な関係が引続き強固である。革袋は確かに新しくなったが、それに盛られる酒は、学苑の場合、相変らず古い酒なのだと言っても過言ではない。
昭和三十九年、オリンピック東京大会の年に発足した夜間の各種学校である産業技術専修学校は、経済成長の波に乗り比較的順調に発展してきたが、四十六年の金・ドル交換停止と四十八年の石油危機を機とする成長鈍化の影響を受けないわけにいかなかった。入学志望者が減少してきたのである。加えて、五十一年一月、「学校教育法」の一部改正により「専修学校設置基準」が施行され、従来の各種学校で一定の規模・水準を有するもののうち、中学校卒業者対象の高等課程を持つものを専修学校と、高等学校卒業者を対象とする専門課程を設ける学校を専門学校と称することになった。入学資格を高等学校卒業以上とする産業技術専修学校は、この名前をそのままでは使えなくなった。
かかる環境の変化の中で、五十一年七月、来る創立百周年を見通して設置された長期計画懇談会において長期構想の骨子がまとめられ、その中で夜間教育体制の再編と継続教育機関の設置が提案された。すなわち、「メイン・キャンパスを中心とする既存の夜間教育体制を再編充実し、これとの関連において、専門学校および社会人の再教育、継続教育を行う機関を新に設置する」として、「高等教育の再編に伴う新専修学校制度上の専門学校(夜間)を新たに設置する。これは既存の産業技術専修学校教育およびシステム科学研究所の経営科学講座などを吸収、充実すると共に、更に、継続教育機関が用意する種々のプログラムを組み合わせた多様な専門コースによって構成される」との主旨が掲げられたのである。産業技術専修学校側はこれに意を強くして将来計画を練り、同年十二月に「専門学校移行案」を作成して理事会に提出した。
五十二年七月十五日、評議員会は産業技術専修学校を廃止して早稲田大学専門学校を設置する案件を承認したので、十一月二十九日付で早稲田大学専門学校の設置と早稲田大学産業技術専修学校の廃止を東京都に申請し、五十三年四月一日付で認可された。専門学校は学校法体系から見て新種の学校であるばかりか、「技術」の表看板をはずして広範囲の分野を対象としたので、明治四十四年早稲田工手学校設立以来の中堅技術者養成の伝統がここに途絶したわけである。教育の目的は、産業技術専修学校では「産業に関する高度の専門技術教育を行い、……産業の発達と人類の福祉に寄与する」となっていたのに対し、専門学校では「高度の専門教育を行い、……社会の発展と人類の福祉に寄与する」と拡大されている。学科構成では、産業技術専修学校が二年制の本科(機械科、電気科、建築科、産業経営科)を設けて、その上に、多数のコースに分れた六ヵ月制の専修科を配置していたのに対し、専門学校では、産業技術専門課程として二年制の機械科、電気科、建築科、産業経営科と、三年制の建築設計科を置いた。この建築設計科は、産業技術専修学校の専修科に設けられていた建築設計コースと構造設計コースのみを残し、二年制の建築科の課程と接続させたもので、卒業と同時に二級建築士の受験資格が得られ、更に四年の実務経験の後に一級建築士の受験資格が得られるようにし、「高度の専門教育」の名に恥じない教育を施すことになった。
ところで産業経営科は産業技術専修学校において入学者数の減少が著しかった科で、そのままでの存続は認められず、在籍者がいなくなるまでの残置であり、新入生は募集しなかった。しかし、これでは工学系技術者だけの養成に偏った専門学校となってしまうので、経営学系統の専門課程を設ける努力がなされた。五十二年十月に理事宇野政雄を委員長とする専門学校課程新設検討委員会が設けられ、五十三年三月から四月にかけて行われた審議であらためて専門学校の理念および性格づけについての整理が行われた結果、産業経営専門課程を増設して会計科を置き、「会計科では、簿記論、財務諸表論、税法および商業活動に必要な実践手法など近代産業経営に関する総合的な基礎知識を身につけさせるよう教授すると同時に、各種検定および税理士、公認会計士等の国家試験を目指す基礎教育とする」との試案がまとめられたのである。理工学部構内に置かれた産業技術専門課程に対して、産業経営専門課程は本部構内一〇号館等を授業場所として昭和五十四年四月一日に発足した。
校外教育は東京専門学校時代以来、学苑の教育活動の一本の柱を成してきたが、またこれほど変化・盛衰の激しかった事業もない。これは、学苑内部の問題というより、校外教育をめぐる社会状況の変化の反映と見るべきで、昭和八年を最後に校外教育部はその活動を停止したものと推定したところである(第七編第十三章参照)。
第八編第七章で紹介した如く、戦後早くも昭和二十一年から翌年にかけて学苑は九州から北海道に至る各地方で、夏季大学や公開講座を地元の新聞社および校友会との共催の形を含めて盛んに行った。停止していた校外教育活動が突如として復活した印象を与えるが、これは、教育民主化運動の掛け声の中で文部省社会教育局が音頭をとった地方民衆大学設置案などを含めて、地方文化活動の要請に呼応するという性格を持ち、直ちに学苑独自の活動を本格化させるものであったとは言い切れない。従って、校外教育の再発足としては、二十五年八月に教育普及部と校友会の協力により第一回社会教育講座が北海道と東北各県で開催された記録を以てこれを確認してよいであろう。以後、毎年夏季に全国をブロックに分けて数県ずつ社会教育講座、夏季社会教育講座、地方夏季講座、夏季地方文化講演会を開催する事業が四十六年まで続けられている。この間の舞台裏を見ると、教育普及部はこれも前述した如く二十七年に社会教育部と改称したものの、三十年に廃部となり、前年から校外教育事業開催の担当は校友会に一本化されていた。
二十年余りに亘って続けられた講演記録を見ると、二十五年の北海道講演では中谷博、宮部宏、芳野武雄、滝口宏が札幌、岩見沢、北見、旭川、夕張で講壇に立ち、東北では佐藤輝夫、中村宗雄、今和次郎、平田冨太郎が盛岡、弘前、秋田、横手、山形、仙台、石巻を巡っている。以後、多い時は十名を超える学苑教員が毎年講師団を形成し、各県の主要都市の殆どを網羅したのであった。講師の顔触れを見ると、中谷を筆頭に、中島正信、京口元吉、外岡茂十郎、高木純一、仁戸田六三郎、暉峻康隆、五十嵐新次郎達が常連で、演題も「大学の使命」「私立大学の本質」「大学とは何か」といった大学論をはじめ、文化論、文学論、学問論、技術論、人生論、スポーツ論等多岐に亘った。
右の講師達による講演活動は四十六年までであるが、ここで校外教育の伝統は中断されたわけではなく、聴講生制度や研究所の事業活動として、別の方法および機関によって継続されていたことは強調しておいてよい。特に生産研究所がこの事業に力を入れ、ミシガン大学から派遣された教員をプログラムに組み入れた形での全国行脚の講演会やセミナーを開催したし、三十六年に設けた経営科学講座は企業人を対象とする一年コースの夜間講座であった。この講座は同研究所の収入確保を一つの狙いとしたもので、事業活動として発展・定着させていくことになり、システム科学研究所に再編されてからも継続し、主要な業務活動として一年制専門教育課程に制度化していく。鋳物研究所においても昭和三十年代に研修制度が開始され、折からの高度経済成長において理工系大学卒業生を採用したくても入社志望者がない中小企業からの申込みを受けて、中堅技術者となる人材の養成に貢献した。また産業経営研究所でも社会人を対象とした公開講演会を五十年から毎年秋に開催している。
ところでこの間、我が国は高度経済成長から成熟化への道を歩み始め、情報化時代、高齢化時代、余暇時代と呼ばれるようになってきた。情報処理技術をはじめとする科学技術の急速な発展、サーヴィス経済化への移行の中で、人人が直面する知識・情報量は飛躍的に増大するとともに高等教育の著しい拡大が実現し、また平均寿命が伸び経済の生産性が向上した結果、定年退職後の人生設計や総じて職業生活以外の生活設計を社会全体として考えなければならなくなった。この中で大学の役割や位置づけが見直されることになる。前節で述べた長期計画懇談会が長期構想で謳った継続教育機関設置の構想は、まさにこの点を指摘したものにほかならず、五十二年二月に全教職員に配付された報告書『長期構想について」は継続教育機関の設置を次のように紹介した。
本大学は、かつて、早稲田講義録や全国的な公開講座によって、教育をひろく社会に開放し、文化の進展に貢献した輝かしい伝統をもっている。この機会に、あらたな構想のもとに、大学がもっている緒機能を社会に開放し、社会人教育の拡充をはかるために、専門職業機関および継続教育機関を設置する。 (六―七頁)
この「あらたな構想」を語っているものとして、『早稲田フォーラム』第二二号(昭和五士二年八月発行)に掲載された教務部長示村悦二郎の「ユニバーシティ・エクステンション――大学に求められる第三の機能――」を挙げておこう。この「第三の機能」とは、学術研究および教育――少し厳密に言えば、入学試験を経てきた通常学生に対する教育――機関としての大学とはまた別の、社会人を対象とした生涯教育の機能を指している。それは、教育機会の乏しい地方への教育普及や民衆の啓蒙という意義を持った従来のエクステンションではなく、新たな社会状況への挑戦という意味を持つものである。しかし、そうした問題意識に立って現状を見た場合、その不備は覆い難かった。幾つかの個別機関において社会人教育が実施されてはいるものの、その規模は全体として小さく、経営的に独立できるほどのものではない。そこで示村は、問題の意義と大きさに鑑みて組織的に取り組むべきことを強調して、エクステンション活動全般を管理する組織を設けることと、対象をいわゆる社会人だけでなく地域社会との関連において高齢者や主婦などの女性にも拡げ、多様な参加者に応じた柔軟なプログラムを編成することを提言したのである。
こうして構想は五十四年一月の理事会において具体的実施へと進み、二月二十三日、教務部にエクステンション事業準備室が設置された。室長に理事の宇野政雄が就任したのは、自身がシステム科学研究所長という立場で事実上のエクステンション事業を行ってきた実績によるものである。宇野が五十四年六月の『早稲田学報』(第八九二号)に発表した左の抱負は、そのまま本事業についての基本理念および基本方針である。
早稲田大学では、〔東京〕専門学校時代から大隈侯を中心に、校外教育と称して地方講演会の開催や講義録の刊行に力を注ぎ、大きな成果を生んできました。こうした活動は「開かれた大学」が求められる今日にあって、その先駆的役割をはたしたものと、多くの教育関係者から高く評価を得ております。一方、昨今、余暇時代、高齢化社会の進行にともない、生涯教育への関心が高まっており、また、ビジネス界においては、安定成長期を迎えて人材開発のための教育研究の必要性が、今まで以上に重要視されています。こうした社会の要請に応える意味で、校友および在校生の父兄を始めとする一般の方々に、本大学の教育・研究成果を活用していただく目的で、大学では従来にも増して積極的にエクステンション活動を展開していくことになりました。その担当箇所として、このたび「エクステンション事業準備室」を新設し、「社会人を対象とする継続教育」「本大学の卒業生及び在校生の父兄を対象とする教育活動」「大学における教育活動を社会に開放するための教材等の刊行」などについて調査、計画し、その一部を試行的に実施することになりました。具体的には、
一、主にビジネスマンを対象とした講座、講演会及び通信教育
二、主婦を中心とする人々を対象とした各種成人教育(公開講座・講演会など)
三、大学のキャンパスならびに各地域での講演会の開催
などについて検討を進めています。
こうした活動は、大学にとって既存の教育活動を拡張したもの(エクステンション)であり、より広い分野の方々からのご意見を参考に、大学に求められているものが何であるかを、的確に把握したいと考えております。またエクステンション事業は、ただ単に過去の歴史の再現であったり、現代の一部の風潮に迎合するものであってはなりません。早稲田大学が、世に「社会人教育」として問う以上は、現代社会にマッチした「早稲田らしい、早稲田大学が行うにふさわしい」ものでなくてはならないと考えます。こうした観点から、さらに、計画中の諸活動をより意義深いものにしていく上でも、広く校友各位からご意見・ご要望をお寄せいただきたく存じます。「地方で開催する講演会のテーマ、講師について」あるいは「大学のキャンパス及びその周辺の施設を使っての公開講座・講演会などに関して」、また「ビジネス諸分野における各種教育活動(通信教育を含む)のあり方について」等々、ご助言を賜れば幸いです。 (五五頁)
準備室は、右の基本方針に従い、どのような希望があるかについて在学生の父兄や卒業生を対象に七月から八月にかけてアンケート調査を行い、更に十一月からは各地でエクステンション開講記念講演会を開催した。第一回は福岡市の福岡国際ホールで行われ、倉橋健が「『屋根の上のバイオリン弾き』を翻訳して」、暉峻康隆が「日本人の愛と性」、安藤彦太郎が「最近の中国事情」、宇野政雄が「産業構造の変化とこれからの流通」を講演している。この年度は、場所も東商ホールそして大隈講堂まで使い、校友の評論家や作家や企業経営者も講師陣に加わって五回行われたのであり、更に翌五十五年度には、アンケートなどの種々の調査結果に基づいてビジネスマン講座(計四クラス、各毎週土曜八回)、土曜公開講座(計四クラス、各毎週土曜八回)、夏季公開講座(計二クラス、各五日間)、そして語学講座(計十クラス、秋期)が開かれた。なおこの年、学苑創立百周年記念事業の一環として富山市、小千谷市、大阪市、和歌山市で行われた地方講演会とそれに併せての父母懇談会も、準備室による開催であった。
こうして二年に亘る準備期間を経て、五十六年四月一日に準備室はエクステンション・センターへと衣替えした。エクステンション・センターは、「大学のもつ諸機能を広く社会に開放し、一般社会人を対象とする教育活動を行い、社会に寄与することを目的」(「エクステンションセンター規則」第二条)とし、この目的の達成のために「一、公開講座。二、講演会。三、研究会。四、その他センターの目的達成に必要な事項」(第三条)を行う。初代所長には商学部教授西沢脩が就任し、所長、総長が指名する理事一人、各系統学部、体育局および早稲田大学専門学校の専任教員から推薦された者各一人、各研究所の管理委員および演劇博物館の協議員のうちからそれぞれ推薦された者各一人、教務部長、庶務部長の計二十一人が管理委員となり、この委員会が事業計画、管理運営、予算、決算その他の付議された事項を決定する。なお同センターの特色として、「センターの事業の発展に寄与するため、所長に助言することができる」賛助員の制度が設けられたことが挙げられるが、更にその経理が特別会計とされたことも特色の一つと言える。これはセンターの経費を受講料、寄附金そして大学の交付金などの収入を以て賄おうとしたことによる。
発足初年度には、教養、語学、ビジネスマン、特修と四つの講座で三十八クラスが設けられ、春学期は五月二十三日から毎週土曜日計八回、夏学期は教養講座のみで七月二十七日から五日間、秋学期は十月三日から毎週土曜日計八回で、計千六百四十四人の受講者があった。更に、全国十二都市および大隈講堂での創立百周年記念講演会、また地方自治体等からの講師派遣依頼に応えての区民大学、市民大学への協力も、その事業の一環として行われた。
第一巻第三編第五章で述べた如く、早稲田中学・高等学校は、大隈重信の教育理念を体し逍遙坪内雄蔵、春城市島謙吉、筑水金子馬治らが中心となって明治二十九年に開校されたが、経営面では早稲田大学と一線を画し、戦後の新制中学校・高等学校への移行の際に学苑との「合併問題」が生じたものの実現せず、その後、中・高一貫教育の特色を生かした独自の教育実践を行っていた。
ところが、昭和四十年代に入ると早慶両大学への進学者数が年々減少する傾向がはっきりしてきて、進学校としての危機を意識せざるを得なくなってきた。更に、四十五年、五十年と二度に亘って学校経理上の不祥事が発覚して、経営および信用の上でも大きな打撃を受けるという難局に陥ったのである。教育の充実向上と経営の安定という二重の課題を背負ったところで、学校は早稲田大学との緊密化に打開の途を求めることとし、五十二年一月、早稲田高等学校理事長大隈信幸は大学の傘下に入ることを総長村井資長に要請したのであった。
二九八頁以下に述べた如く、学苑は既に三十八年に早稲田実業学校を「系属校」として系列下に置いており、これを含めて学苑としては五十二年三月、付属・系属校から学部への推選入学者の数が将来入学定員の約二〇パーセントとなるようにする基本方針を立てているが、これは早稲田高等学校の要請に対する学苑の積極的対応とも言える。ただし、かつて戦後間もない頃、同高等学校との合併話が持ち上がったものの生徒・父兄・卒業生(校友会)を巻き込んでの動きから結局御破算になったという経緯もあり、交渉は難航し紆余曲折した。同高等学校からは伝統的に東京大学をはじめとして国立大学や他の私立大学に進学する卒業生も少くなく、学校としての独立性を確保すべしと主張する声が大きかったことも一因であろう。
早稲田大学側は、「早稲田高等学校との特別な縁故関係、受験競争に伴う弊害を避け、充実した中・高校の一貫教育を受けた優秀な早稲田大学志望生徒を学部へ受け入れられること、教員志望学生の実習校とする利点などを考慮して」(『早稲田中学校早稲田高等学校百年の軌跡』七六三頁)、今回の提案を前向きに検討した。こうして合意を見て最終的に調印されたのは五十四年一月二十五日であり、申入れから二年が経過していた。かくて早稲田実業に続き、早稲田高校も系属校となった。つまり、学苑とは別個の学校法人のまま、理事、評議員、校長などの人事面での交流を通じて系列下に編入されたのである。そして早実と同様、系属校化とともに、生徒の一部が各学部へ推薦入学を許可されることになり、五十六年度から推薦が開始された。
四十八年夏の校友会長野県支部大会において総長村井資長が、来る学苑創立百周年の記念事業として、新学部の設置とともに高等学院増設の可能性に触れたところ、早速同県への誘致熱が盛り上がるという反応を呼び起した(田中友道「早稲田大学高等学院増設を望む」『早稲田学報』昭和五十一年十月発行 第八六五号 二八頁)。実際、創立百周年をにらんで五十年に始まった長期計画構想策定作業は、付属または系列の高等学校を地方に新設することも視野に入れつつ進められ、五十二年の創立百周年記念事業計画委員会設置に先立って骨子が整えられた。それは高等学校にとどまらず中学校の新設までを含め、既存の付属校・系属校と併せて学部への入学者が全体の二〇パーセントになるようにするというものである。またこの時、関係者の念頭にあったのが、本庄校地の存在である。地元からは同校地への学部の移転または新設が期待され、学苑としてもその可能性を検討したことがあったとはいえ、やはり実現は困難であるという状況の中で、代って期待に応え得る教育機関として、付属高等学校を一校、同地に設ける案が浮上した。理事会での検討、学部長懇談会での方針確認が進められる一方、五十三年四月、創立百周年記念事業計画委員会小委員会より提示された中間報告では、記念事業の候補の一つとして「本大学の伝統と特色を生かすため、本庄校地に付属高等学校(入学定員約二百名)および寮を設置する」(『早稲田学報』昭和五十三年六月発行 第八八二号 四一頁)と掲げられたのである。
記念事業候補としての高等学校設置構想に対する反響は大きく、慎重論から、本庄の地のみならず積極的に全国的な展開を図るべしと主張するものまで、多数の意見が寄せられた。これらの意見を踏まえつつ前記小委員会および学内委員会の審議が進められていく中で、高等学校設置は「大学の日常的、経常的に行う事業として」計画・実施することが望ましいとの判断に変り、創立百周年記念記念事業そのものからは外されるという方針転換が行われた。
五十四年一月の理事会は高等学校設置検討委員会の設置を決定し、常任理事正田健一郎を委員長として、各学部長、高等学院長、各学部および高等学院本属の専任教員からの選出委員、理事、教務部長の計三十名から成る委員会が三月からほぼ六月末まで八回に亘って、高等学校の設置の意義、教育方針、設置場所、規模、選抜方法等について検討を重ねた。設置意義は、東京に所在する既存の高等学院および系属校とは違った特色を持ち、当初から早稲田大学を志向する中学卒業生を地元のみならず全国また帰国子弟の間から入学させて生徒構成を多様化させ、多様な生徒が相互に与え合う刺戟によって学苑の内容を一層豊富にするところに求める。教育方針としては、断片的知識の集積ではない総合的な理解力また個性的な判断力を涵養する。特に地域とのさまざまなレヴェルでの交流を通して人間や社会に対する感性を育成する。設置場所を本庄とすることは、この地に学苑の教育機関の一部を設立するという社会的責任を果す意味と、それほど遠隔でない場所として大学との一体関係を失わない意味とがある。規模は一学年二百人程度とする。通学可能距離の範囲で素質ある進学可能者数と全国に開かれた付属高校として集められる数とを考慮しての規模である。選抜は筆記試験、内申書、面接から得られる評価を総合して判定する方式とする。以上の点についての確認および検討の結果、学校名称、設立場所、定員(約二百人、男子校普通科)、教育方針、入学試験、学部進学(全入制)、寮(またはホスト・ファミリー)について合意に達し、答申された。それはそのまま理事会の「高等学校設置要綱」となったのである。
設置要綱の決定を承けて、七月、基本計画を具体化するために、各学部および高等学院からの選出委員、理事、教務部長、学生部長の計十八名より成る「本庄高等学院(仮称)設置専門委員会」が設置され、理事戸谷高明が委員長に就任した。七月から翌五十五年六月まで十回の会合を重ねて提出された答申は、設置要綱に示された基本構想および理念を踏まえて、高等学院設置に際して当面する具体的な諸問題につき検討を加え、名称、設置場所、課程・学科・定員の確定、教育課程の編成、入学者の選抜方法、生活指導のあり方等を示したものである。要綱で一学年定員を二百人としていたのを二百四十人に変更したことが目につく。これは一学級四十人として偶数学級にする効果、海外帰国子弟の受入定数を四十人としたことを配慮したものである。教育課程に関しては、その編成の基本方針を、
イ、入試から解放された高校本来の教育を行うことができるので、魅力ある教育課程の編成を考える。
イ、知・情・意の調和のとれた教育を目ざす。
ハ、基礎学力をつけるために、基礎的な科目を組織的徹底的に教育する方法を考える。
ニ、本庄の自然環境を生かした「土に親しむ」教育を考案する。
ホ、豊かな感性、意欲的な気力や実践力を育成するための特別活動、学校行事等を工夫する。
と謳い上げ、そのための課程編成の原則と学習指導の方針を掲げている。生活指導は学習指導とともに重視されたところで、自立精神と豊かな人間関係の育成を目標に、クラスまたは同学年のみの横割りの集団だけでなく、科目選択やクラブ活動・校外教育で各学年にまたがる縦割りの集団を形成する。特にこの縦割り集団を形成する器としてのハウス(ロッカー・ルームを兼ねたミーティング・ルーム)制度は新設高等学院に特色を与えることになる。
こうして専門委員会の答申に基づき、五十五年七月十五日の評議員会は本庄高等学院設置を次の如く決定した。
早稲田大学は現在、附属校として早稲田大学高等学院を設置し、毎年約六〇〇名の卒業生全員を学部に受入れている。激しい受験戦争から解放された高校生活の中で自由闊達に学び、のびのびと成長したこれらの生徒は、学部進学後、大学の中核的存在として建学の精神と学風の高揚に寄与している。早稲田大学がここに第二の附属校として本庄高等学院を設置する目的も、本学を志向する優れた生徒を早くから受入れ、多彩な資質と個性を育成し、大学に進学させることによって、伝統ある本学の一層の発展に資することにある。本庄高等学院においては、基礎学力の充実をはかるために基礎科目を徹底して教育するとともに、豊かな自然環境を生かして調和のとれた人格の形成を目指す。入学者については広く各地から募集するとともに、積極的に海外帰国子弟および地元中学校出身者を受入れることにより、貴重な体験の交流、地域文化との接触をとおして、より豊かな人間性の涵養につとめる。また、さまざまな集団による活動をとおして、自立の精神、意欲的な実践力、豊かな人間関係等を育てるよう指導する。上記の教育方針にもとつく学習指導・生活指導を実践することによって、特色ある高校教育を期するものである。
一、名称 早稲田大学本庄高等学院と称する。
二、設置場所 埼玉県本庄市大字栗崎東谷二一四早稲田大学本庄校地に設置する。
三、課程・学科および入学定員 全日制課程普通科とし、入学定員を男子二四〇名とする。
四、学級定員および学級数 一学級四〇名とし、一学年六学級編成とする。
五、学部への進学 各学部への全入制とする。
六、開校期日 昭和五十七年四月一日
七、建設費 約二十一億円
八月一日には本庄高等学院開設準備室が発足し、室長に商学部教授神沢惣一郎、副室長に高等学院教諭小野祐二郎が嘱任された。以後、室長と副室長の他に、理事戸谷高明、教務部長示村悦二郎、法学部教授岡田幸一、法学部教授奥島孝康、文学部教授久米稔、理工学部教授穂積信夫、高等学院教諭高橋裕一で構成される本庄高等学院開設準備委員会が、開校に関する事項、設置認可申請に関する事項、その他必要な事項について協議を進めていった。
八月二十九日、埼玉県知事畑和に高等学校設置趣意書ならびに事業計画書を提出。九月十六日には本部キャンパス一号館内に開設準備室事務室が開設され、十月には国語、社会、数学、理科、保健体育、英語各科について専任教員募集が始まった。開校に先立っての教員採用結果について、初代本庄高等学院長となった神沢は、
全国の校友の方々を対象に公募いたしました。確か二百五十人くらい応募して下さったと思いますが、その中から結果的には十七名採用させていただきました。この中には大学院出たての新進の方もおりますし、また教職歴豊かで、そのままゆけば、当然公立高校の教頭や校長にもなるような方もおります。年代層も経歴もいろいろで大変優秀な方々を集めることができました。特に理科系の場合はほとんど全部ドクターの学位を持っており、すでに世界的な業績をあげておられる方もおります。英語の場合には、外国生活を豊かに経験された方やNHKの通信講座の講師だった方もおります。また早稲田大学やほかの大学の講師をやめて参加された方もあり、もったいないくらいの人材が集まっています。
(『早稲田学報』昭和五十七年五月発行 第九二一号 三頁)
と紹介している。
各科の主任となる五十六年四月一日採用の教員も加わって開校への準備が進む傍ら、五月十一日に地元関係者を含めて約五百人が参加して起工式が行われた。地元本庄市の『広報ほんじょう』は「早大誘致が昭和三十六年に持ち上がって以来、市行政・議会が一体となり努力し、取り組んできた結果、来春の高等学院の開校となったわけです」と懸案達成を悦ぶとともに、自宅外通学者を一般家庭に寄宿させるホームステイ制度を紹介、希望者を募った。
こうして開設準備が着々と整う中で、学則ならびに規則の制定とそれに伴う関連規約の整備が進められた。学則の一部を掲げる。
早稲田大学本庄高等学院学則
第一章 総則
(目的)
第一条 本学院は、教育基本法および早稲田大学建学の精神に基づき、中学校における教育の基礎の上に高等普通教育を施し、一般的教養を高め、健全な批判力を養い、国家および社会の形成者として有為な人材を養成し、さらに進んで深く専門の学芸を研究するに必要な資質を育成することを目的とする。
(名称)
第二条 本学院は、学校教育法による高等学校であって、早稲田大学本庄高等学院という。
(位置)
第三条 本学院は埼玉県本庄市大字西富田字大久保山一一三六番地に置く。
(学部への入学)
第四条 本学院を卒業した者は、早稲田大学の学部に入学することができる。ただし、志望する学部によっては、特に選考することがある。
第二章 課程および収容定員
(課程および収容定員)
第五条 本学院の課程および収容定員は次のとおりとする。
全日制課程 普通科 男子七二〇人
2 一学年の収容定員は二四〇人とし、六学級とする。
〔中略〕
この学則は、昭和五十七年四月一日から施行する。
学院長神沢は、開校に当って発行された小冊子『早稲田大学本庄高等学院 開校案内』の中で、同校に対する学苑の期待の大きさを次のように述べている。
本庄の地に早稲田大学の高等学院が開設されるということは、一地域の問題ではありません。また、既存の数多い高等学校に新しい高等学校が一つ加わるということでもありません。本庄高等学院の新設は、画期的な意味をもっており、すくなくとも私たちは、日本において最もすぐれた高等学校を創ろうと念願しております。早稲田大学では、そのため全学をあげて研究と討議をかさね、準備を進めてまいりました。早稲田大学において高等学校新設にあたってこれほど熱心に検討されたことはありません。これをみても大学がいかに本庄高等学院に力をいれているか、期待しているかがおわかりのことと思います。本庄高等学院の校舎が建てられる大久保山は、本庄市の郊外にあります。この山に立ちますと、その眺望はすばらしく、日光連山や赤城嶺が一望のもとに眺められます。また、この山は樹林におおわれ、草花が茂り、野鳥がさえずっており、自然環境に非常に恵まれております。今ここに最新最高の機能をもつ新校舎の建設が進められております。また、生徒の教育指導にあたられる、すぐれた教職員の方々の参加も得ることができました。私たちは、本庄や本庄周辺の歴史と風土を敬重し、それに根差しながら全国的・世界的視野のもとに、日本の教育界において最も質の高い教育を目指して準備を進めております。
(三頁)
こうした期待の中で最初の生徒募集。一般入試枠、帰国子弟枠、地元中学推薦枠を通じ、結局、入学者は二百五十五人。生徒の出身は帰国子弟三十七人以外は東京都と埼玉県で計百六十八人と全体の三分の二近くを占めたが、全体として北は岩手県から南は熊本県まで一都一府十七県と全国にまたがっていた。全体のうち約百四十人がホームステイ、約六十人が寮に入り、約六十人が自宅通学という割合も、明らかに目論見通りの特色を示したものである。
開校式は四月六日に行われた。六七三頁の第十二図および第十三図に見られるように、恵まれた自然環境と広大なグラウンドを持ち、各教科の授業はすべて独立棟である教科別教室で行われた。それは、学習意欲の向上と独特な教授法を導入するための受け皿として設計されたのである。英数国教室棟、理社教室棟、芸術教室棟の三棟がそれぞれ独立し、このうち英数国教室棟にはゼミ室も設けられている。各クラスにはロッカー・ルームとミーティング・ルームの機能を併せ持つハウスと呼ばれる施設やラウンジも設置され、生徒の自主的活動の場を確保した。ホームステイ制度は、単に一般家庭を下宿とするのではなく、学校と常に関係を保ちつつ、地域と交流し理解を深める場として、生徒に新たな生活を開始させた。