創立八十周年記念事業としての建物・施設の建設は、第十編第九章に述べた如く、昭和四十四年の法商研究室棟の完成を以て終結し、本部、戸山町、西大久保のキャンパスの一応の整備が成った。学苑の建設事業はここで一息ついた格好となった。事実、学苑の建設工事費用の支出は、三十五年度から四十五年度まで年間三億円台から十四億円台までの間で上下し、平均して年間六億七千万円強であったのが、四十六年度の支出八千七百万円強と一億を割り、その後四十九年度まで一億円台で推移しているのである。
ただその前に、八十周年記念事業とは別に、四十二年に戸山町キャンパスの記念会堂と文学部校舎との間に挟まれた位置に、記念会堂と接続する形で新体育館が、そしてもう一つは体育局校舎の南側学生サークル部室棟を挟んで体育測定室・心理実験室棟が建設されている。新体育館は三十九年に教育学部に体育学専修が設けられて以来要望されてきた体育施設の拡充であり、四十二年四月一日着工、十月二十四日に竣工した。鉄筋コンクリート造、平屋建で、床面積一二四八平方メートルである。新体育館は記念会堂第二体育館として、おもに卓球、バドミントンの実技に使われている。現在の号館呼称は記念会堂と同じく三七号館である。一方、体育測定室・心理学実験室は、体育学専修と、実験施設の拡充を要望していた文学部心理学専修とを同居させたものである。特に心理学実験室設置に対しては、心理学教室開設三十周年記念事業として、早稲田大学心理学会が三十七年に指定寄附を行っている。構造は、鉄筋コンクリート造、地上二階建、床面積四八〇平方メートルで、一階にレスリング練習場、体育各部室六、二階に体育測定室、心理学特殊実験室および精神衛生相談室という配置となっており、今日の号館呼称は三六号館である。
一方、本部キャンパスにおいては、移転していった理工学部の製図教室棟であった旧八号館を取り壊して、その跡に政治経済学部使用の現四号館が建てられた。同館は、四十三年六月五日に着工され、四十四年三月二十六日竣工で、鉄筋コンクリート造の地上六階建、総床面積は二四〇六平方メートル。一階が学生ラウンジ、二階が学生部室十三と学生の利用に充てられ、三階から五階までが研究室四十一、そして六階が資料室と、教員および研究調査用に充てられた。なお六階資料室は五十二年の現代政治経済研究所の開設に伴って、そのフロアになっている。
文学部・理工学部がそれぞれ戸山町また西大久保のキャンパスに移転していったとはいえ、本部キャンパスの面積そのものが拡がったわけではない。従って、周辺土地の取得に向けての努力は続けられ、またスペースの有効利用のために、施設の移転や整備が行われた。比較的規模の大きい土地取得として、一六号館隣の体育館西側にあった相馬家所有地(新宿区戸塚一丁目六百二番二)の購入が四十五年四月の理事会で決定されている。後述の如く、地上二階地下三階の体育厚生施設(一七号館)の建設が始まったのは五十五年になってからであった。
この施設に関連して、四十五年に大隈横丁の整備と二九号館の建設が併行して始まっている。大隈横丁とは、正門付近から現在の大隈会館と都営住宅(旧都電車庫)とに挟まれて新目白通りに抜ける狭い路地で、その大隈会館側に教
第十一図 本部キャンパスおよび周辺の建物配置図(昭和五十七年)
号館番号は昭和四十五年九月一日より本図のように変更された。
1 本部
2 図書館
3 政治経済学部
4 政治経済学部
5 演劇博物館
6 国際部、政治経済学部、教育学部その他
7 図書館分室、語学教育研究所、教室
8 法学部
9 法商研究室棟
10 共通教室
11 商学部
12 商学部、社会科学研究所
13 社会科学部、学生生活課分室
14 社会科学部、教育学部
15 共通教室
16 教育学部
17 体育厚生施設
22 学生ホール、就職部、共通教室
24 弓道場
25 倉庫
26 第二学生会館
27―1 第一学生会館
27―3 診療所、学生相談センター
28 教職員研修所
29 生協食堂、理髪所、教職員組合
35 体育局
36―1 体育測定室、心理学実験室
36―2 学生部室
37―2 第二体育館
37―3 学生ラウンジ
38 高石記念プール
39 生協文学部支所
職員組合事務所建物、生協食堂、理髪所、新聞会建物が並んでいた。いずれも木造平屋で、区画整理事業による公道拡幅工事に伴って解体撤去および移築されることになったのである。生協食堂と理髪所を含む建物を新築することは、学生厚生施設の整備として年度当初に明示されており、その場所には前述の買収地のうちの旧シチズン時計株式会社寮が建っていた部分を充て、建物撤去の上、食堂・理髪所・教職員組合事務所の入る鉄筋コンクリート造一部鉄骨造四階建一棟(二九号館)を建てることになった。六月二十二日に着工、翌四十六年一月二十五日に竣工を見ている。延床面積は九四八平方メートル。この間、大隈横丁整備工事は、建物解体撤去、門と塀の解体撤去および新設・移設、構内道路改修、路面アスファルト舗装、埋設ケーブル設備工事、電話設備工事、給排水・ガス設備工事、樹木移植工事を含めて第一期工事は七月十日から八月三十日まで、第二期工事は建物移転後、四十六年一月十日から三月三十日までの期間で行われた。こうして学生生活の匂いを濃厚に漂わせていた路地の景観が一変したのである。
学苑創立百周年記念事業として総合学術情報センター(中央図書館を含む)が建設されることになる安部球場の北側および西側には、木造アパートを含めて住宅が密集し、野球の練習で場外に飛び出したボールがしばしば当った。とにかく、家屋の老朽化が著しく、防災上の問題を抱えた地帯となっていた。この安部球場周辺の住宅密集地は、昭和十三年に学苑が甘泉園の土地を相馬家から買収したのに続いて十五年から十六年にかけて追加買収した甘泉園隣接地(第三巻七五三―七五四頁参照)である。しかし、相馬家所有当時からこの土地は零細に分けられて、賃貸されてきており、新たに地主となった学苑は引続き借地・借家人と賃貸借契約を結んだ。学苑としては契約期間満了か建物朽廃を機に契約を解除し、完全所有地化する予定でいたのであるが、戦後、借地権が強化され、とりわけ四十一年の借地法の一部改正により地主側からの一方的な契約解除が行われ難くなり、完全所有地化のためには、法律手続に基づいて借地権また建物の買収を借地・借家人と合意しなければならなくなった。実際、家屋購入また明渡しにはしばしば訴訟そして和解と、一つ一つが複雑な手続と時間を要し、学苑の土地完全所有化は遥か先のこととなった。五十四年時点において安部球場周辺大学所有地一万七〇一一平方メートルのうち学苑の完全所有地は三五三〇平方メートルと二一パーセントに過ぎず、六八パーセントに当る一万一六二五平方メートルが借地権者の地積、一一パーセントに当る一八五六平方メートルが道路分であった。しかし、この時期になると、学苑創立百周年記念事業として安部球場の土地を利用しての総合学術情報センターの建設が計画され、更に東京都の都市計画による放射七号線道路が完成間近となって、周辺土地の利用を具体的に決定しなければならなくなった。そこで学苑はキャンパス調査整備研究会を設けて安部球場周辺再開発計画の立案に当らせ、購入等による自己所有地増大を鋭意行うとともに、都市再開発法の適用を受けて第一種市街地再開発事業として全面的に開発する必要を関係者に訴えたのであった。
ところで、四十五年十月に内藤多四郎から新宿区若松町七十六番所在の故内藤多仲名誉教授の土地(六二九平方メートル)ならびに家屋(三三〇平方メートル)が故人の遺言により寄贈され、また五十五年八月に津田左右吉未亡人つねから武蔵野市境南町四丁目十五番三所在の土地(四三五平方メートル)と家屋(一〇八平方メートル)がやはり遺言により寄贈を受けた。内藤寄贈家屋は直ちに(十二月)耐震構造研究資料室ならびに演習室として使用することが決定され、津田夫人より寄贈された土地・家屋は奨学金のために基金化されることになった。
東伏見キャンパスでは、運動部の用地の調整、および合宿所の建築が進められ、四十五年のゴルフ部練習場用地設定、四十六年のスケート部合宿所建設用地設定と山岳部合宿所建設、四十八年のア式蹴球部合宿所改築および馬術部厩舎再築、四十九年のバレーボール部合宿所建設、五十年のラグビー蹴球部合宿所増築等が実現した。実際に土地の変動があったのは、石神井川を越えた東伏見学生寮に隣接した場所で、保谷市東伏見三丁目二百三十番一および二と同番地十の計二〇七二平方メートルの購入が五十二年までに実現し、ゴルフ部の使用に供されることになった。
高等学院敷地に関しては、隣接する練馬区上石神井一丁目二百五十番、四百十番、二百十九番の計一〇一九平方メートルの土地を、校舎増築用(後述)として同時期に取得している。
四十五年度以降暫くの間、学苑構内での建設はごく小規模にとどまった。四十九年度までの期間のおもな工事と言えば、文学部学生読書室(三二号館内)の増改修工事(四十六年十月二十八日完成)、社会科学部学生サークル部室新築工事(四十七年五月五日完成)、体育局研究室増築工事(四十七年九月十八日完成)、社会科学研究所研究室増築工事(四十七年十一月八日完成)、語学教育研究所LL教室増築工事(四十八年五月十日完成)、高等学院美術教室新築工事(四十八年七月二日完成)、文学部図書室増築工事(四十八年十月二十二日完成)、校友会館増築工事(四十九年七月十五日完成)くらいであった。ところが、学苑創立百周年が近づいてきた五十年前後から次々に大型の建築工事が始まる。
その第一号として、鋳物研究所の新棟建築を挙げることができる。昭和十三年創立の鋳物研究所は四十八年に創立三十五周年を迎えた。かねてより同研究所では、研究の進展に伴う設備・機材の充実およびスタッフの増大に比して施設全体の狭隘化が痛感されており、早くも創立二十周年の三十三年を期して増築計画を立て学苑当局に働きかけていたのであるが、創立八十周年記念事業にぶつかったこともあって、延び延びとなっていたのであった。記念事業が一段落したこの時期をチャンスとして、あらためて計画案が提出された。費用は募金活動によって調達することとした。募金は順調に進んで、当初一億円を目標としていたものが最終的には二億八千万円に達した。これによって最初の計画は変更され、木造の実習所を取り壊して、その跡に新しい建物を二号館(学苑全体の号館表示では四二―三号館)として建てることになったのである。四十九年十月十七日着工、五十年五月三十日竣工。鉄筋コンクリート造四階建、一部鉄骨コンクリート造平屋建、延面積は二三四〇平方メートルで、実験棟の付属する一階が実験室五、研究室二、会議室その他、二階が機器室、研究室四、暗室二その他、三階が研究室六、応接室その他、四階が実験室四、研究室二、会議室その他という配置である。
施設の改善を待っていたのは高等学院も同じであった。前述の如く四十八年に美術教室が完成したが、その前に四十六年に、かねてより懸案となっていた施設改善の問題を処理すべく学院内に施設委員会が設置され、大学当局との折衝が始まっていた。四十八年には施設委員会は具体的な建設計画の提示にまで漕ぎ着けた。その内容は、普通教室・LL教室・事務所・院長室・生徒読書室・生徒会部室・食堂を容れた施設を第一期工事として完成させ、第二期工事として体育施設を完成させるというものであった。四十九年に入って設計担当の理工学部建築学科教授安東勝男との打合せが始まり、学苑施設部も加わって協議の上、五十年二月になって最終合意に達している。これによると、当初第一期工事として構想された施設は、教室・事務室・院長室の入るセンター棟が第一期工事、生徒部室・食堂棟が第二期工事と分けられ、第一期工事で潰される旧水泳プール(一五六頁の第六図参照)に代る新水泳プール施設が第三期工事として予定された。センター棟と生徒部室・食堂棟は二階ピロティで接続される構造となっており、センター棟は五十年八月十八日着工、五十一年八月に完成して九月には使用を始めたものの、結局二棟一連の工事として五十一年十二月八日の竣工となった。センター棟は地上三階、一部地下一階、鉄筋コンクリート造、延床面積三二四一平方メートルで、配室を見ると、地階が機械室、物置その他、一階がLL教室三、LL準備室、事務室、院長室、会議室、小会議室(教務室)、面接室六、応接室二、更衣室、印刷室、放送室、録音室、書類保管庫、用品庫その他、二階が教員室、ピロティその他、三階が教室十一、計算室その他である。部室・食堂棟はこれまで別々の建物であったものを同じ場所に一つにまとめたものであり、地上二階、鉄筋コンクリート造、延床面積一三九八平方メートルで、一階は食堂、厨房、更衣室、休息室、食品収納庫その他、二階は生徒部室十六、生徒会本部室、シャワー室、更衣室その他となっている。なお第三期工事として予定された水泳プールおよび付属屋は、旧雨天体操場の跡地に五十四年十一月六日着工、翌五十五年六月二十二日に竣工を見ている。二十五メートル・プールは六コースを有し、付属屋は鉄骨造平屋建で、建築面積一四七平方メートル、シャワー室や更衣室等より成る。
西大久保、戸山町キャンパスに目を転じると、理工学部と文学部で増改築の緊急性が生じていた。
理工学部の高層五一号館の中層階部分八―十一階に化学薬品など危険物を扱う化学系研究室が位置していることが、消防法改正に伴い消防署より危険と指摘され、その対策が練られた結果、五十二年十一月になって学部長名により総長に対し「化学系研究室移設に関する要望書」が提出された。要望書には、低層で防災設備を完備した建物への化学系研究室の移設の必要性と緊急性が訴えられ、早速大学当局によって採り上げられて、翌五十三年二月の理事会で理工学部研究室棟増築工事が決定された。設計は安東勝男が担当、鉄筋コンクリート造五階建、延床面積五五〇〇平方メートルの建物が構想された。今回の建築工事は学苑としては外的条件によって余儀なくされたと言えるわけで、財政的には窮屈な条件で進めざるを得ず、施工業者の決定には四回の入札を要した。こうして理工学部キャンパスの五六号館に隣接して明治通りに面した所を敷地と定めて、それは五十三年四月十日に着工され、五十四年三月三十一日に竣工を見た。この六五号館の一階は化工管理室、研究室十、薬品庫、学生サークル部室十四という配置であるが、部室は、当初の計画では一階倉庫に予定されていた部分のうち廊下面積を含めて五三六平方メートルを割り振ったもので、これによって学生のためのスペースにも配慮したわけである。二階から五階までは研究室六十五、会議室、事務室その他が入った。
文学部キャンパスでは、大学院理工学研究科に次ぐ規模の大学院文学研究科を抱えているにも拘らず、大学院学生専用の施設が手薄であった。その問題の解消を目指して五十二年に学生ラウンジおよび文学研究科学生研究施設が記念会堂横第二体育館の屋上一部を使う形で増設された。それは同年八月一日に着工され、十二月二十日に竣工した。一階は面積二九四平方メートルで学部学生用のラウンジとし、二階三七七平方メートルを大学院ラウンジと四つの大学院研究読書室とした。
もう一つ、同キャンパスには二十四年に建てられたかつての高等学院時代の木造校舎が一棟残っており、レトロ調の雰囲気を醸し出しつつも、老朽化が目につくようになってきた。「夏は暑いし、冬には、すき間風がたえず忍び込む。廊下や教室の板も傷んで、歩くとギシギシと板のきしむ音がする。その音をやかましく思うときもあるが、ある時にはコンクリートだらけのキャンパスで、時代錯誤のような追懐を生むこともある。文学部を卒業した学生にとっては、最も思い出深い校舎の一つ」(『早稲田ウィークリー』昭和五十五年七月十日号)ではあったが、三十年の酷使に耐えてきたものの、それだけに危険性は如何ともし難く、漸く五十五年になって改築が決定され、同年七月二十一日着工、五十六年十月三十日竣工を見た。この新しい三四号館は、鉄筋コンクリート造四階建、延床面積二九三〇平方メートルで、配室は次の通りである。
一階 一文事務室、百五十人教室、ホール、面接室、印刷室、倉庫
二階 二文事務室、二文教務主任室、二文学部長室、一文教務主任室、一文学部長室、面接室、会議室二、資料室三、印刷室、ホール、更衣室
三階 百五十人教室、六十人教室四、ゼミ室五、ホール
四階 百五十人教室、二百十人教室、三百人教室、ホール
さて、五十五年は、学苑創立百周年を二年後に控えて、ちょっとした建築ラッシュの年であった。本部キャンパス西門脇、一六号館に隣接する位置に、昭和初期に建てられて長年親しまれてきた体育館(武道館)も老朽化が進み改修の必要が生じてきた。またこれに近接して生活協同組合店舗が入っていた一三号館の周辺の混雑も問題となっていた。この二つの問題の同時解決を目指して、体育局、体育各部、生協、教職員組合等との協議の上建設されたのが、体育施設と生協店舗を容れた体育厚生施設二七号館)である。体育館を取り壊した跡地に同年七月二十日着工して翌五十六年十月二十日竣工。鉄筋コンクリート造、地下二階、地上三階建、延床面積九二三六平方メートル。配室は次の通りである。
地下二階 ボクシングおよびレスリング場、フィットネス・トレーニングおよびウェイトリフティング場、体育測定室、教員室、部室四、浴室、更衣室、乾燥室、機械室、倉庫
地下一階 空手場、合気道場、フェンシング場、教員室二、部室三、浴室、更衣室、洗濯室、乾燥室、生協店舗、生協倉庫
一階 柔道場、教員室、部室、事務所、浴室、乾燥室、生協店舗、生協倉庫
二階 剣道場、教員室二、部室、浴室、乾燥室、更衣室、生協店舗、生協倉庫
三階 卓球場、ミーティング・ルーム、教員室、部室、更衣室、シャワー室二
ところで、四十年から四十一年にかけての「学費・学館紛争」以来、せっかくの第二学生会館は使用されないまま空しく時間を経過してきた。この紛争から学んだ教訓の一つとして、教員と学生、あるいは学生相互間の人間的接触の機会を増やす必要が痛感された。折から、五十三年度および五十四年度の新入生の学費を改定することになったが、学生に対する負担増の要求が第二学生会館問題を浮彫りにした。第二学生会館は日の目を見ないまま十四年が経過していたが、五十四年になって漸く学苑はこの再開へと動き始め、あらためてこの施設をどのように使うかについて各学部教員代表十四名、体育局代表、学生部長、学生部副部長二名、庶務部長、施設部長の計二十名より成る第二学生会館検討委員会が設置された。同年六月から九月まで五回に亘っての審議を経て得られた結論は、一階から三階までを学生一般の利用に供するためのラウンジとして修復、四階と五階は音楽関係サークルなど主として音を出すグループの共同利用練習室として修復するというもので、これを理事会に対する答申とし、六階以上の修復は今後の課題とされた。早速十月に改修計画が立てられ、一階から五階までの延面積一九六〇平方メートルに対して、構造軀体コンクリート面はウレタンエナメル系塗料で改装、四階(構造体)床は一階より支柱による補強、外部化粧小梁はコンクリート打ち直しの上塗装、更に給排水・ガス・衛生・消火栓・暖房・換気設備の改修、電気設備および火災報知設備の改修等を加えることとし、五十五年三月十一日着工、同年十一月二十一日に完工した。早速同月二十五日開館となり、先ず一階から三階までのラウンジの使用が開始された。実に十五年ぶりの開館であった。
森の生い繁る広大な本庄校地―――久保山――にぽつんと一棟の建物(鉄筋コンクリート造三階建、軒高一一・三メートル、総床面積二三八四平方メートル)が建っている。これが四十五年一月十五日竣工の本庄セミナーハウスである。一度は構想されあるいは期待された大学移転・学部新設の代替としては釣合いを欠く。その夢はまだ消えていたわけではなく、早急な利用計画の策定・実施が要請されたことは言うまでもない。実際、学苑は既に四十四年七月にその利用計画を明らかにして本庄市に農地転用事前審議申請書を提出、四十五年三月二十三日に承認されていた。この計画は、四十五年から四十七年までの三ヵ年間に約四億一千万円を投じて道路、運動施設、宿泊施設、実験室(水工学・衛生工学)等の建設を行うというもので、本庄市役所において学苑理事が発表した計画は早速『ほんじょう市政だより』(第一二一号)で市民にも知らされたのである。しかし、計画実施に当っては、農地転用許可に至るまでの調整、校地内公道や道路敷また地元の公的施設に関連しての土地交換その他の折衝に手間取ったこと、更に上越新幹線および関越自動車道の建設ルートが校地の北側と南側に掛かって用地売却の問題が生じたこと等、幾つかの障害が立ちはだかった。鉄道建設公団への新幹線用地九四七〇平方メートルおよび道路公団への高速道路用地一万二〇五五平方メートルの売却が決まったのは四十八年十一月になってからである。
計画が具体的に動き出したのは五十年に入ってからで、同年三月二十八日に先の利用計画を基本として農地転用許可申請書を本庄市農業委員会に提出した。六月には施設建設計画案を提出。これによると、建物関係では、教室棟と宿泊棟、運動施設としては四百メートル・トラック、サッカー場、野球場、テニス・コート、バレーボール・コート、バスケットボール・コート、ラグビー場、ハンドボール場等のグラウンド(合計一三万一三二〇平方メートル)、そして更衣室、休息室、洗面所、手洗い等の入った付属建物、その他道路工事という概要になっていて、四十四年の計画にあった実験室建物を除けばほぼ同じ内容・規模である。
同年十月に本庄施設拡充工事(第一期)の予算が三億三百万円と決定された。工事の内容は、八九万三一三七平方メートルを敷地面積として敷地測量および粗造成を行うもので、工期は五十年十一月十五日から五十一年九月末までであった。この工事とは別に、本庄施設拡充工事開発許可部分(C地区)の造成工事が五十一年に行われ、結局五十年から五十一年にかけての工事は諸経費および仕上工事を含めて総額三億九千五百万円で一応の完工を見たが、造成が済んでからの実際の施設建設工事(第二期)の開始は五十六年まで待たなければならなかった。
この間、工事に伴って文化財緊急調査の必要が生じた。この校地のある本庄市南方の通称大久保山を含む一帯は、縄文時代から歴史時代に至るまでのさまざまな遺跡や遣物が分布する埋蔵文化財の宝庫であったが、工事により古墳の一部が削り取られるという事態が発生し、緊急に調査を実施しなければならなくなった。たまたま学苑では大学院文学研究科史学専攻に五十一年度から考古学コースが設けられることになり、本庄校地が格好の実習フィールドとして調査体制を整えつつあったところにこの「事件」というわけで、早速、本庄校地文化財調査室が同年四月一日付で設けられ、事前調査をすることになった。作業は四月十八日から結局十二月十八日まで八ヵ月を要し、この間に竪穴住居址をはじめとしてさまざまな遺構、多量の遺物・文化財が発掘されたのである。こうして出土品が増大し、調査が進展するにつれて、その保管・研究のための専用施設の必要が痛感されるようになる。
本庄施設拡充工事の長期化は文化財調査の割り込みのせいばかりではない。五十年代に入って、学苑は来る創立百周年を睨みつつ、学苑全体の教育研究条件の将来構想を「長期計画構想」として策定する作業に入り、その中で当然この校地の利用方法が一つの課題となった。構想が立てられて正式に発表されたのが五十二年二月。その中に謳われている保存図書館と高等学校の設置の構想が本庄校地に係わってくるのである。しかも同年四月一日に創立百周年記念事業準備室、同月十八日に創立百周年記念事業計画委員会が設置され、同委員会が翌五十三年四月十四日に発表した中間報告では、本庄校地に新たな付属高等学校を開設することが記念事業の候補として挙げられたのである。ともあれ、本庄施設の拡充計画は殆ど練り直しを迫られた格好になり、その練り直しの方針が固まり地元本庄市に知らされたのは結局五十六年六月になってからであった。それによると、付属高等学校の開設計画とともに、「早稲田大学図書館分館(仮称)」(二六九三平方メートル)、収容人員百人の宿泊棟(三二五平方メートル)、そして体育施設として、サッカー場一面(一万六九四〇平方メートル)、四百メートル・トラック(二万三〇五〇平方メートル)、野球場(二万七三五〇平方メートル)、テニス・コート十面(延一万八八〇平方メートル)、バレーボール・コート五面およびバスケットボール・コート四面(延一万二八六〇平方メートル)、ラグビー場一面およびハンドボール場(三万五七一〇平方メートル)の建設・造成の計画が明示されており、四十三年十二月に本庄市との間で覚書が取り交されて以来十二年近く経過して、漸く本庄校地利用の全体像が確定したわけである。
建設計画の中で、五十七年までに完成した施設は本庄高等学院校舎である。二番目の付属高等学校として発足した本庄高等学院の校舎は、六三三頁以下に前述したような理念から、高等学校校舎としてはユニークな設計によって建設されることになった。その特徴は、建物・校舎・教室を機能ないし学科別に分ける形で配置したことで、生徒が授業時間帯に殆ど一つの教室に居続けるのではなく、それぞれの科目に応じて移動する方式をデザイン化した。五十六年度に入って四月に建設工事請負業者の指名が行われ、五月十一日には総長以下、学苑関係者、地権者、関係市町村長、議会関係者、行政関係者等五百人の多数が出席して建設予定地の大久保山で起工式が行われ、地元の期待の大きさを感じさせた。工事はグラウンド用地を除く敷地五万五〇〇平方メートルにおいて二期に分けて施工となったが、五十七年四月の開校に間に合せるため、第一期工事は更に二つの時期に分けられた。主要建物の概要は次の如くである。
第一期工事(一) 五十六年五月三十日着工、五十七年二月二十八日竣工
管理棟 鉄筋コンクリート造、地下一階地上二階建、九七三平方メートル(院長室、事務室、会議室二、役付室、教職員ラウンジ、技師控室、労務控室、機械室、ポンプ室、倉庫二)
英数国教室棟 鉄筋コンクリート造、地上三階建、二三六九平方メートル(教室十一、教員室三、ゼミ室三、教材準備室、録音室、LL教室、ハウス六、ラウンジ二)
理社教室棟 鉄筋コンクリート造、地下一階地上三階建、二〇八二平方メートル(教室四、講義室二、資料室、視聴覚教室、実験室三、準備室三、演習室、実習室、倉庫三)
食堂棟 鉄筋コンクリート造、地上二階建、九二六平方メートル(食堂、会食室、厨房、ラウンジ、ホール、食品倉庫、従
業員控室、機械室)
第一期工事(二) 五十六年五月三十日着工、五十七年六月三十日竣工
芸術教室棟 鉄筋コンクリート造、地上二階建、四五一平方メートル(音楽室、オーディオ室、教員室、デッサン・工作室、演習室)
大教室棟 鉄筋コンクリート造、地上二階建、七〇四平方メートル(ステージ、一階席、二階席、控室、機械室、コントロール室、ファン室)
ハウス棟 鉄筋コンクリート造、地下一階地上三階建、五一一平方メートル(ハウス六、ロッカー室二、保健室、休養室、生徒会室、ラウンジ、売店)
図書館棟 鉄筋コンクリート造、地下一階地上一階建、六七二平方メートル(開架書庫、事務コーナー、目録コーナー、雑コーナー、ハウス四)
第二期工事 五十七年五月十五日着工、五十八年三月三十日竣工
体育館棟 鉄筋コンクリート一部鉄骨造、地上二階建、一八八五平方メートル(体育室、教員室、ロッカー室、シャワー室)
なお、右の中で「ハウス」とは、科目ごとに教室等を移動する生徒にとってのクラス・ホームルーム室であり、本庄高等学院の大きな特徴ともなっている。
本庄校地のセミナーハウス(本庄校舎)建設と殆ど同時に、学苑は軽井沢追分にもセミナーハウスの建設に着手した。所在地は長野県軽井沢町大字追分浅間山千四百四十九。浅間山の裾野を形成して南西に傾斜しつつ広がる農地の購入を四十一年度から開始し、一五万一二五四平方メートルの所有地と五五二五平方メートルの借地を合せた一五万六七七九平方メートルの校地を確保したものである。広大な浅間山の裾野という環境に調和した建物をという課題から、本庄校舎のように一つの建物に全機能を集中させるのではなく、緩やかな傾斜地を利用したスキップ・フロア形式の山小屋風建物三棟に分けて配置したのが最初の工事である。四十四年四月十四日に着工し同年八月十四日に竣工を見たこの三棟のうち、一号棟と二号棟は共に鉄造二階建で全く同じ構造・規模であり、それぞれ一階にセミナー室兼ラウンジ、十畳和室二、二階に十畳和室二、二段ベッド四人宿泊室四、二段ベッド八人宿泊室を配した。三号棟は一階建一部地階で、一階にセミナー室兼食堂、厨房、管理人室、地階に浴室二、機械室、倉庫を配している。特筆すべきは、設計監理を学苑施設部がすべて行い、施工も従来のように大手の建設会社ではなく地元の工務店に請け負わせたことである。なお、これらの建物の建設工事と同時に、運動施設としてグラウンドも整備され、八月開設というタイミングにも恵まれて早速学生の利用が始まり、同年中の二ヵ月半の利用期間内には千二百五十人が利用したことは、その後の拡充整備を待ちつつも施設としての好評ぶりを物語っていた。
ところで、右のセミナー・ハウスは実は四十三年四月の農地転用許可申請の際の計画の一部実現に過ぎず、校地全体に及ぶ整備また施設完成にはまだ遠いままに計画は中断された格好になってしまった。この時期の学苑紛争や財政事情が影を落としていたのである。五十年度に入って長野県農政部の現況調査があって、計画の完成を勧告された。そこで学苑は一億七千万円の予算で工事を五十年度から五十三年までの間に四期に分けて完成させる予定を立てて実施に入った。第一期工事(五十年十月十五日―十二月二十八日)と第二期工事(五十一年四月二十五日―十月三十一日)で約七万平方メートルのグラウンドその他の敷地の粗造成から一部仕上げまで済んで、第三期工事に入るに当って計画の工事内容に変更が生じることになった。当初の計画ではバンガロー二十棟を建てる予定であったが、農地転用の計画変更承認条件としてこれが認められず、六―十人用のセミナー棟を少くとも十棟建設することが要望されたのである。
82―1 セミナー棟
1―2 管理人住宅
1―3 倉庫・便所
1―4 植物栽培実習室
2 セミナー棟
3 セミナー棟
4 セミナー棟
5 管理事務棟兼セミナー棟
6群 中型・小型セミナー棟
7群 中型・小型セミナー棟
8 雨天体操場兼集会所
その他、開発規制、県・町の自然環境保護条例、自然保護対策また国定公園法等の規則により植栽工事その他の工事を余儀なくされ、予算を追加せざるを得なくなった。こうして第三期工事(五十二年四月二十五日―十一月二十三日)では、各運動場仕上げ工事および外構設備工事とともに、建築工事としてセミナー棟一、中型セミナー棟六、小セミナー棟四、共同炊事場二が完成した。続いて五十三年度に予定された第四期工事は一旦中断したものの、この間に、敷地内に残った形になっていた国有地(旧農道)五五二平方メートルを購入したことにより、建物・施設が現在の姿の通りにできることになって、その上で五十五年五月二十日に第四期工事に着手し、十二月十日を以て管理事務所を含むセミナー棟一、中型セミナー棟四、小型セミナー棟六、管理人住宅、倉庫、植物栽培実習室を含む全体の竣工を見たのである。
以上の整備によって、当初の一号棟、二号棟、三号棟はそれぞれ、三号棟(学苑全体の建物番号としては八二―三号棟)、四号棟(八二―四号棟)、二号棟(八二―二号棟)へと番号変更となり、その二号棟(旧三号棟)も一階部分が改造されて、談話室と管理人室とが配置されることになった。なお構築工事として、道路・駐車場の他に、野球場兼用グラウンド、自動車練習場兼用グラウンド(のちサ。カー場グラウンド兼用)、テニス・コート十面、バレーボールおよびバスケットボール・コート二面、植物栽培地が完成していたことを付記しておこう。
遠隔校地は新潟県にも及んだ。五十四年二月二十三日の理事会および三月十五日の評議員会で、新潟県松代町の廃校となった中学校跡地と校舎建物を一億六千万円で購入することが決定された。松代町は同県南西部、東頸城郡の東端に位置し、上越線六日町駅から国道二三五号線をほぼ真西に進み、織物の産地として知られる十日町を通過してこれに隣接する丘陵地帯の町である。六日町から西に延びて信越線直江津駅に接続する北越北線が鉄建公団によって建設中であり、松代駅ができると六日町からの路線距離は二十九キロメートルで、上越新幹線と併用して東京まで約二時間で行ける位置となる。米・畜産・葉たばこを基幹産業とする純農村地帯にあり、過疎に悩んでいた松代町では、この将来を見越して地域振興の構想を練っていた。その一つとして町は同年四月の統合中学校開校によって廃校となる二つの中学校の跡地に工場誘致を考えていたのであるが、その一つ旧山平中学校の校舎および敷地を学苑が学生のゼミならびに体育授業に利用することになったのである。土地柄や地形から見て冬季にはスキー場として利用できる。こうして取得した土地は町の台帳面積で五万一七一五平方メートル、建物は管理棟、教室棟、体育館その他が合計二三五六平方メートル。学苑は早速松代施設拡充計画を五十四年度の建設計画に組み入れた。旧校舎は取り壊されて整地され、その跡に野球場、サッカー場、テニス・コートの造成が進められたが、本格的なセミナーハウスの建設はもっと後になる。なお、この施設建設そして利用に当っては、地元松代町が早稲田大学協力会を組織するなど、町を挙げての協力・支援・便宜提供が続けられていることを特記しておかなければならない。
更に、校地は岩手県へと伸びる。下閉伊郡田野畑村での早稲田精神昻揚会による山林の下草刈りおよび植林の労働奉仕が、四十一年の学苑紛争を経験して学生村建設運動「思惟の森の会」へと発展していった経緯は本編第十五章第五節に後述する。毎年夏休みを利用して現地に滞在する学生達が利用する寮を建設しようとの計画が当初から抱かれていたが、四十三年になって理事会が総長阿部賢一の発議によって建設費を支出することを決定し、同年五月三日に地鎮祭が行われた。五月十五日の『早稲田ウィークリー』は「すでに用地の地こしらえや用材の準備が村の好意で整い、今夏の完成をめざして着々と工事が進められている」と報じているが、建物自体の建築工事の着工は翌年四月に入ってからであり、全体の落成を見たのは第四期工事竣工の四十六年五月九日であった。一四万二一四八平方メートルの敷地に立ち、青鹿寮と命名された木造二階建の本館は、一階が休息室、食堂、管理人室、管理事務室、予備室、配膳室、手洗所、二階が男子宿泊室二、女子宿泊室、休養室、集会兼娯楽室という配室となっていて、渡廊下によって平屋の付属棟(浴室、厨房)と繫がっている。落成式の様子は次の如くであった。
風薫る五月九日、岩手県田野畑高原において青鹿寮落成式が行われることになった。併せて、インド・〔インディラ・〕ガンジー首相からご寄贈の植樹祭も行われることになり、私どもはインド大使夫妻、村井総長夫妻一行のお供をすることになった。田野畑高原は盛岡市から東進して、幾つかの峠を越え、谷を渡った太平洋の陸中海岸国立公園の近くにある。……九日、村の家々には朝日に映えて、日の丸が掲げられ、宿舎から青鹿寮への沿道には多数の人々が出揃っての歓迎であり、更には、小学生や中学生が手に手に日本とインドの国家の手旗をうち振っての出迎えだった。千田〔正〕知事をはじめ、盛岡の校友会の幹部の方がたもご出席くださって、今日の盛典に華を添えてくださった。村井総長の式辞、理事の工事報告、感謝状の贈呈に次いで、千田知事、インド大使の祝辞をいただいた。続いて裏山にガンジー首相から贈られたサラソージュ、ヒマラヤシャクナゲ、ヒマラヤサクラ、ポプラ、ウラシロカシ、インドヤナギ等の記念の植樹を行った。一同とともに寮庭で祝賀の宴がはられ、古くから村に伝わった鹿の舞が演ぜられ、興をそえた。 (『早稲田学報』昭和四十六年九月発行 第八一四号 四六頁)
また四十八年六月八日の理事会で、田野畑村にあった南部曲屋と呼ばれる同地独特の農家建築を譲り受け、これを民俗資料として保存するために移築復元し、併せて教職員の厚生施設として利用するために内部の一部を改装することが決定され、工事費として五百七十万円が充てられることになった。五十年三月二十四日に地元大工により竣工。茅萱平屋、建面積二四一平方メートル、軒高二・九メートルの風土色豊かな宿泊施設となった。
施設は国内だけにとどまらない。四十一年の予備調査から始まった古代エジプト調査チームによる考古学調査は、四十九年一月、ルクソール地区マルカタ南遺跡での「魚の丘」発掘による彩色階段発見という世界的成果を上げ、活躍ぶりを印象づけたが、調査開始から十年の節目を迎えるに当ってその継続・発展を図るべく、古代エジプト学術調査計画を立てて総額一億円の調査資金を募集することになった。その一つとして計画されたのが、これまで借家で凌いできた調査隊員の宿泊兼研究施設に代る自前の施設を建てることで、これに対しては学苑当局も「一般研究費早稲田大学古代エジプト調査資金」を設定して、五十一年の第六次発掘調査に際して二千万円の経費支出を認め、そのうち千五百万円をワセダ・ハウスの建設・維持の費用とした。これの建設の経緯については、隊長川村喜一が五十二年四月の『早稲田学報』(第八七〇号)で報告している。それによると、場所は「王家の谷」入口右手の丘の上、間借りしていたカーター・ハウスの背後二百メートル以上離れた砂漠を選んだ。建物は現地のクルナ村の歴史的風土にマッチするように、レンガを主体材料とし、イスラム風の中庭型式をとり、正面中央には高さ八メートルのドームをつけることにした。五十一年一月十六日鍬入れ式。二月十七日から工事開始。基礎工事は三ヵ月以上を費やして焼レンガとセメントで入念に仕上げ、夏の二ヵ月間十分に乾かし、上部構造は八月下旬から四ヵ月の突貫工事で十二月二十五日の開所式に間に合せた。それは隊員たちの心身の並々ならぬ努力の結晶であった。「全くのずぶの素人が、イスラム建築史の研究から始めて、下水道の配管にいたるまでマスターし、堂々たる大建築を完成した」(川村喜一「マルカタ遺跡第六次発掘調査とワセダ・ハウスの完成」同誌 同号 一五頁)のである。敷地は二〇六〇平方メートル、建坪は一〇四七平方メートルで、研究棟、生活棟、宿泊棟が中庭を囲む形をとった。研究室二、倉庫二、個室十、暗室、ディレクター・ルーム、食堂、サロン、オフィス、それに台所、トイレ、浴室と、「外国隊にひけをとらない立派な研究施設」である。建設費は結局約三千五百万円を要した。
五十四年十月十五日の評議員会の決定に基づいて創立百周年記念事業計画の一つとされた新学部(人間科学系の学部、体育・スポーツ科学系の学部、総合医科学センター、体育諸施設)の用地(新校地)については、五十五年十一月二十一日の臨時評議員会で「所沢市三ヶ島地区につき検討をすすめる」ことが決定された。この決定に至るまでには幾つか候補地が挙げられ、特に千葉市の埋立て造成地である「海浜ニュータウン幕張A地区」を推す声もあった。しかし、この幕張A地区の場合、取得費用が巨額に上ること、風が強くて運動場には不向きであること、埋立て造成地であるために予想される万一の事態等から、取得が正式に具体化するには至らなかった。
右の決定を承けて、五十五年十二月五日に新キャンパス用地取得対策委員会が設置され、三ヶ島地区の土地取得に向けての体制が整えられた。開発許可の見通しを得るために五十六年一月から埼玉県知事への立地打診、自然環境の詳細調査、埋蔵文化財の発掘調査等の実施、また地元の意向の確認等に努め、特に重大な支障はないと判断されたので、五十六年五月八日の臨時評議員会はこの地区を新キャンパス用地として正式に決定した。その後、五十七年一月に農地転用許可事前申請が農林水産省に正式に受理され、同年三月には農業振興法による農用地除外申請も埼玉県を通じて農林水産省に提出されて、両申請とも五月末までに認可を得、法的規制解除の手続をすべて完了した。こうして、五十七年四月において三ヶ島地区の新キャンパス用地の総面積は結局三七万七〇一八平方メートルとなり、このうち公共用地予定面積(付替公道分、水路)二万一一八平方メートルを除く三五万六九〇〇平方メートルを六十二億六千二百万円で買収することとし、同年度中に三二万八〇〇〇平方メートルまで買収、更に翌五十八年度中に三四万五〇〇〇平方メートルまで買収済みとなり、六十年三月二十六日を以て予定面積のすべての買収を完了した。なお、自然環境調査は五十五年九月から十二月にかけて概況調査を行った上で、五十六年一月から詳細調査にかかり、五十八年二月にすべての調査が終了し、その成果は「早稲田大学所沢校地環境影響評価報告書」として同年七月に埼玉県に提出、また五十六年三月から開始された埋蔵文化財の確認調査も終了して、十一月に「早稲田大学所沢新校地内埋蔵文化財確認調査終了報告書」を県に提出した。
本部キャンパスから西へ約三十五キロメートルの所に位置するこの丘陵に、やがて人間科学部および人間総合研究センターが開設されることになるが、これについては第十二編第一章および第三章に譲る。