学苑の研究機関は昭和三十年代までに社会科学研究所、理工学研究所、鋳物研究所、生産研究所、比較法研究所、語学教育研究所、演劇博物館と七箇所となった。それぞれの目的・理念・背景・機能についての具体的説明は別巻Ⅱ第三編において行われるので、ここでは研究所の全体的なあり方をめぐって四十年代に入って持ち上がってきた問題点と特徴点とを素描し、加えてこの時期以降の新たな研究機関の設置・整備状況について述べる。
言うまでもなく前記七研究所は設立の時期も背景も異っていた。そもそも、いかなる意義を持つ研究所を設置するのかという問題意識は、昭和三十年代までは必ずしも明確ではなかった。ところが、四十年代早々に学苑紛争を経験し、大学のあり方の見直し機運が高まる中で、研究所の存在意義が問題化し、検討する動きが出てきた。一つは四十三年十月に総長が各研究所長、演劇博物館長、電子計算室長および理事を招集した形で発足した研究所長等懇談会であり、もう一つは本編第三章で触れた大学問題研究会である。
研究所長等懇談会開催の趣旨は、先ずは、大学経理の明確化を課題として、研究所の委託研究契約締結、研究所の研究成果の帰属、研究所特別会計の決算報告、教員研究費について、その責任主体や運営方法等について確認を目指すというものであった。翌四十四年一月施行の「研究所等の受託研究契約に関する規程」はその成果である。これとともに、教務部長染谷恭次郎が、研究所は各学部から必要に応じて研究員を派遣し、その研究の便宜を図る場所と考える方がよいのか、それとも専門の研究員を置いて研究活動を進める方がよいか、そのあり方についての基本的問題を提起し、検討を委ねた。大学当局が経営上の観点から研究所の問題を取り上げた側面は否定できない。果して同年十二月になって理事会は「研究所の整備計画(案)」を提示した。その骨子は、既存の研究機関を学部に付属させて研究と教育の一体化を図り、研究成果を教育に反映させる、というものであった。具体的には、理工学研究所と鋳物研究所は理工学部に、比較法研究所は法学部に、社会科学研究所は政治経済学部に、生産研究所は商学部にそれぞれ付属させる。文学部には研究所と名のつくものが欠けることになるが、館長が文学部教員から嘱任される演劇博物館があるし、また比較文学研究室、東洋美術陳列室があり、その将来の整備を図るというものであった。語学教育研究所は各学部の外国語担当教員の研究の場とするとされた。
この間、七月に発足していた大学問題研究会第三研究部会は、研究教育体制をテーマとして検討を始めており、右の計画案に直面することになった。計画案は同部会の活動に先回りした形であり、部会委員の間に不安と反発を呼び起した。研究所を学部に付属させる案は制度上の抜本的な変更を含んでおり、研究所の存在意義に関わる。そこで部会側は、当局に対し、計画案の早急な実施をしないこと、大学問題研究会からの答申を尊重することを要望し、確認を得て、鋭意研究活動を継続したのである。その成果は翌四十五年八月に『研究所の現状と今後のあり方について』と題する報告書として発表された。以下、その内容を要約しよう。
先ず、一般論としての研究所論である。大学が教育と研究の二つの任務を担っていることは当然である。それらが教員個人の能力の範囲内でそれぞれ遂行可能であるならば、特別に研究所を設ける必要はない。しかし、学問の発展は個別分野に閉じこもることを許さず、いろいろな意味での総合化が必要となり、また未知の分野に直面させることとなった。これらは、広範な総合的研究体制を要請するものである。それまでの研究所活動の経験から、課題の公募による研究部会の編成、つまり、広い領域に及ぶ専門知識の結合によって可能となる総合的なテーマの発見、それへのアプローチの具体化、および効率的な研究部会の運営、これらが非常に有効であるとの認識を共有している。従って、研究所は、教育機関としての学部においてややもすれば見られる学問研究の固定化傾向から自由な雰囲気の相互研鑽の場となることが強調されたのである。
当然のことながら、学苑における研究所の位置づけがあらためて問題となる。これは大学本部、学部との関係に関わる基本的な問題であり、従って、報告書の中心的論点でもあった。研究所の主体性が組織として確保されていないこと、また研究所の存在理由についての理解なり合意なりが曖昧であること等が指摘された。報告書執筆者の意識においては、教育を担当する学部に対するに研究を担当する研究所という対等関係が当然視されており、学部の付置機関とする計画は到底、受け入れ難い。縦割りの学部制度を横断して全学的な研究体制を作ることができるという意味でも、研究所は学部と対等の存在意義を主張すべきであるというわけである。ところが、研究所間にはその横を繫ぐ協議・連絡機関がなく、全体としてまとまって大学本部との意思疎通を行うルートがない。かかる反省の結果、報告書は学部における学部長会に相当する研究所長会の設置を提唱する。
それぞれの研究所についての実態を見ると、そこから共通の問題点が浮かび上がってくる。第一の共通点が財政問題であることは、授業料収入に大きく頼る私立大学の宿命であるが、これに研究所に対する無理解が加わると、研究所は苦しい立場に立たされる。社会科学研究所は物価上昇の中で研究予算が三年に亘って据え置かれ、図書標本購入費、研究消耗費、研究出張費、出版補助費に至っては減額されたことを訴えるとともに、「最近、社研を改組して、実質的には、特定一学部に所属せしめるような案がある」ことに対して「時代錯誤の暴挙」と断じている。理工学研究所も「財政的に不満足」に加え、理工学部との関係が強過ぎることから研究所の独自性が阻害されていると報告している。研究所の独自性あるいは主体性の主張は、法学部との関係が強い比較法研究所によってもなされている。すなわち、その論拠は、「本大学における法学研究者は単に法学部のみに在籍するのではなく、政経学部、商学部、社会科学部にも各数名づつあり、等しく研究員として共同研究に加わっているところから、それぞれの学部共通の研究施設の意義がある」ということであった。最も深刻に問題を訴えたのは語学教育研究所であった。特に施設の狭隘・不十分さは「個室の広さの所に六―十二人が入っている」ほどであるし、共同研究のための部屋もない、専用教室もない、学生の受講申込みに十分応えられないと訴えている。
こうして当然ながら、報告書は研究所の現状を提示し、改善を要求している。ソフト面としては、専任の研究員および職員の充実、留学・国内研究員制度の適用、大学院生・受託研究員などの研究補助者としての参加を提案し、ハード面としては、施設の整備充実である。そして最後に共同研究および相互研鑽の場としての研究所の存在意義を強調し、それに見合う財政支出を学苑当局に求めるものとなっているのである。
報告書に盛られた内容は結局、理事会側が提起した研究所整備計画案を撤回させる効果を持った。四十六年六月に大学改革の具体化の現状や計画について、理事会が研究機関等に対して回答を求めた際にも、例えば生産研究所は学部長会に匹敵する協議機関として研究所長会を設置することを要望し、比較法研究所も法学部付属機関の色彩の強い規則の改正案を回答するとともに、「従来慣行上設けられている『研究所長懇談会』を学部長会同様、正規の機関(研究所長会)として設置すべきである」と提言したのである。研究所長会は結局、四十九年度に設置されることになった。報告書の主旨がともかく実現されたのである。
研究所長会設置要綱
一、本大学に、研究所長会を置く。
二、研究所長会は、総長ならびに社会科学研究所・理工学研究所・鋳物研究所・生産研究所・比較法研究所・語学教育研究所および演劇博物館(以下「研究所等」という。)の長をもって組織する。ただし、理事は、いつでも出席して発言することができる。
三、研究所長会は、大学と研究所等との間および研究所等の相互の間の意思の疎通を計り、かつ二つ以上の研究所等に共通する研究教育に関する事項を協議する。
四、研究所長会は、総長が招集する。
五、研究所長会は、定時または臨時に招集する。
六、定時研究所長会は、毎年二回招集し、臨時所長会は、必要に応じて招集する。
七、総長は、二つ以上の研究所等から理由を明示して請求があったときは、遅滞なく、臨時研究所長会を招集しなければならない。
八、研究所長会は、その構成員の過半数の出席がなければ開くことができない。
九、研究所長会に幹事一人を置き、教務部長をもって当てる。
十、この要綱は、昭和四十九年四月一日から実施する。
なお、四十年代以降、社会の生産活動から排出される廃棄物の影響が深刻化し、その対策としての立法措置が講ぜられる時代背景において、理学・工学系の研究施設や実験施設から出る廃液・廃棄物も法的規制の対象となり、課題を背負うことになった。理工学部では四十六年四月から環境保全検討委員会を設置して有害物質の取扱いについて討議を始めていたが、現実には実験廃液などの有害物質の処理は発生箇所で分別収集し、学部が一括して処理業者に引き渡す方式を採ってきた。ところが五十二年五月一日に下水道法と同施行令が改正されて、大学も科学技術に関連する教育研究機関として法的規制の対象となり、廃液・廃棄物を各箇所でばらばらに処理するのではなく集中的に処理する方式を確立することを迫られるに至った。環境保全検討委員会は五十三年四月から討議を重ね、七月に「廃薬品、廃液、廃棄物処理(暫定)および下水道法に対処した水質分析の暫定措置に関する答申」を作成して学部長に提出し、これにより九月に環境管理室が発足している。環境管理室は教職員学生向け「実験廃液を安全に処理するための手引書」を作成・発行し、学部全体としての問題処理の気運を盛り上げた。また同時に、実際に処理を行う装置の導入を図るため、実験廃液処理装置施設選定委員会により装置の選定が進められ、その結果、重金属含有廃液の処理に優れたフェライト法による処理方式が選定され、理工学部六〇号館一階の化学工学実験室が移転した跡に設置されることになったのである。しかし、理工学部のほか、教育学部、鋳物研究所(現各務記念材料技術研究所)、高等学院等からも実験廃液が排出されていることを考えると、大学全体としての大規模処理施設が必要とされることは明らかであった。東京大学では既に五十年に全学的機関として環境安全センターを発足させ、五十三年三月に処理施設および庁舎を完成させて稼働に入っていた。単なる処理場ではなく「センター」である所以は、目的が有害廃棄物の回収ならびに処理という業務にとどまらず、環境安全についての教育・研究、環境監視、大学の環境安全についての指導・助言を含める、つまり大学全体としての環境問題を担い得るシステムとするところにあったからである。学苑はこれをモデルにして、五十四年十二月一日を以て環境管理室を改組し、研究機能も備えた環境保全センターとして再発足させた。初代所長には理工学部教授村上博智が就任した。
生産研究所設立の契機となったミシガン協定は昭和三十五年を以て終了した。当初の目的は達成されたという意味では研究所の役目も終ったことになる。しかし、この間、学苑とミシガン大学との間での教員交流をはじめ、委託研究、更に学内および国内各地での講演会やセミナーや講習会などの主催、翻訳出版と、研究所としては十分にその存在意義を主張し得る実績を上げてきた。そして三十六年には専任研究員九名、助手二名、嘱託および補助者七名、事務職員十名という陣容を整え、オペレーションズ・リサーチ、マーケティング・リサーチ、ヒューマン・リレーションズ、産業心理、プロダクション・マネジメント、コスト・マネジメント、電子計算、MTM(Method Time Measurement)等をテーマとして研究を分担し、またそれまでの事業活動を継続する形で全国各地でのセミナーおよび講習会を行っている。更に「経営科学講座」として企業人向けの夜間講座を開始したのもこの年度からである。積み重ねてきた実績と陣容をいかに生かすかが問題となったと言える。
研究活動の柱が先ず受託研究であったのは、当初の生産性向上への寄与という目的からくる要請であり、またこれによって得られる研究費で研究所の独立採算制を図ろうとの計画によるものであった。また講演会・セミナー・講習会といった教育活動もやはり同じ目的で新しい経営手法を産業界に知らせ、啓蒙するという使命感に発するもので、これもまた研究所に独自性を与えたと言ってよい。
協定終了後、四十年代に入ると、研究組織が経営・経済をテーマとする第一研究室(主任教授西野吉次)、オペレーションズ・リサーチの第二研究室(松田正一)、生産管理の第三研究室(吉谷竜一)、電子計算機応用の第四研究室(岩崎馨)、産業心理の第五研究室(兼子宙)と編成される。しかし研究の進展は急で、例えば、生産管理が従来の作業中心、工程中心のものからシステム中心のものへ移行していく。四十二年度の二十六にも上った研究プロジェクトの中には「マネジメント・コントロール・システムの研究」「利益管理システムの研究」「行動システム」といったテーマがある。これが四十四年度になると、委託研究を除いて、左に示すように十七の研究プロジェクトが五つのテーマに分類され、研究所としての重点研究を示すことになった。
一、システム科学に関する研究
(一)行動システムの制御論の研究、(二)不確定条件における生産の計画と管理論の研究、(三)実験計画の束論的研究、(四)数学機械とアルゴリズムの研究、(五)化学工業における最適問題研究
二、生産システムの研究
(一)工場の総合的計画技術の研究、(二)機械加工システムの研究、(三)Parts Oriented Production System の設計法に関する研究
三、産業社会の研究
(一)産業社会における人間性開発の研究、(二)作業場面の人間性開発の研究、(三)職業生活における人間性開発の研究、(四)経営組織の人間性開発の研究、(五)社会開発に関する研究
四、企業システムに関する研究
(一)マネジメント・コントロール・システムの研究、(二)在庫管理の研究、(三)企業行動のシミュレーションの研究
五、輸出予測に関する研究
ここに初めて「システム科学」という概念がテーマとして採用されたことが分る。これは生産研究所発足時の中心概念が「オペレーションズ・リサーチ」であったことを思い起せば、研究の重心の移動という以上に、研究対象そのものの変化、従って研究所の性格の変化を示すものと言ってよい。
右の研究テーマによる研究所運営は翌四十五年度以降四十八年度まで殆ど変りない。こうしてシステム科学の定着に伴い、四十九年度には研究所名を生産研究所からシステム科学研究所へ改めることとなった。改称に伴う規則改正により、「社会システム、経営システム、生産システムなどの一般理論および応用について研究し、その成果をもって広く社会に寄与すること」(第二条)が目的とされた。なお、所長には商学部教授宇野政雄が生産研究所長からそのまま引続き就任した。
前述したように、生産研究所を商学部に付属させようという案が理事会によって提示された時、学部教授会は研究所の全学的参加の必要を強調して反対の意向を表明した(「研究所整備案についての商学部教授会の見解」昭和四十五年二月十二日)。これは社会科学研究所の移管を提示された政治経済学部教授会も同様で、学部側の関心は寧ろ学部間における研究費配分の不均衡を解消することにあり、そのための措置を要望していた。
商学部が四十六年に研究資料整備委員会を発足させたのは、学部の研究に必要な図書・資料等を整備充実させようという目的からであったが、委員会で検討をするうちに、商学部の研究体制そのものを拡充しようとの機運が生じ、「産業経営研究センター」の構想が立てられた。そこには、個々の教員の個人研究のみに依存する体制を改善して、共同研究を積極的に推進しようとの問題意識がある。同年十月の学部教授会に諮られて全員の賛成が得られたところで委員会はすぐさま準備作業に入り、翌四十七年度に、学費改定に伴って社会科学系三学部(政治経済学部、法学部、商学部)に特別予算を組む措置が講じられたので、それを利用して産業経営研究センターが教授原田俊夫を所長として発足した。運営委員二十二名が選出されて、委員長に教授染谷恭次郎が就任し、機構として資料整備小委員会、制度小委員会、事業計画委員会が設けられた。機械器具、図書、資料の購入、研究プロジェクトのチーム編成、研究会開催と実績を重ね、その成果として四十九年七月に産業経営研究センター創設記念論文集『産業と社会』が論文十編を収載して早稲田大学出版部より刊行されている。
この一連の実績、ならびに「産業経営」をキー・ワードとしての研究要請の認識を以て、商学部では同センターを教員に対する学部内研究支援機関から全学的機関としての研究所に改組したいとの意見が強まり、産業経営研究所設立発起人会が設立され、四十九年五月に設立趣意書が研究所規則(案)、センター事業報告書(昭和四十八年度)とともに提出された。設立趣意書から一部を引用しておこう。
センターにおきましては、かねてより学内他研究機関の規則等を参照しつつ、比較法研究所や理工学研究所に準拠した研究所への移行に伴う諸措置の検討を進めるとともに、この件に関し必要な手続きを進めて参りました。研究所への改組は、私共の永年の念願であるだけでなく、産業経営に関する研究は、現代の経済社会の分析にとって欠くことのできない重要な分野であるとともに、その研究の一層の深化と促進が強く要請されていることは言を俟ちません。以上の趣旨に基づき、産業経営研究センターの管理委員会での検討の承認を得、さらに商学部教授会における審議を経て、ここに研究センターの研究所への移行を正式に申請申し上げる運びに至りました。
この設立申請は同年七月十五日の評議員会において認可されるところとなり、九号館(法商研究室棟)三階フロアに四百平方メートル余が研究所スペースとして確保されて、翌年八月に改装工事開始、九月に完成を見て、十月一日より研究所業務を開始した。
「産業経営研究所規則」によれば、研究所の目的は「産業経営およびこれに関する諸分野の研究および調査をなすこと」とされ、事業として、研究・調査、成果の発表、奨励および助成、資料の蒐集・整理・保管、研究会および講演会の開催、研究・調査の受託等が規定されている。
研究所の事業として中心的なものは何といっても共同研究である。この共同研究のテーマにどのようなものがあったか、初期の事例を研究代表者名とともに挙げることによって研究所の内容と意義を窺おう。
戦前日本における資本の蓄積過程 入交好脩 産業循環の研究 岡田純一
企業管理制度の発達と変遷 小川洌 経営と社会 鈴木英寿
社会主義社会の産業 松原昭 近年における Banking Industry の構造的変化 矢島保男
都市における交通機関・施設の役割と機能 中西睦 産業の近代化と会計原則の発展 藤田幸男
予算システムに関する研究 石塚博司 International Joint Venture の研究 染谷恭次郎
七十年代における日本貿易 町田実 わが国産業における需要動向の実証的研究 林文彦
学苑における研究所は大学の機関であって学部付属機関ではない、そうあってはならないと事あるごとに強調されたが、実態としては学部と強い関係にある。比較法研究所は法学部との関係が強く、産業経営研究所は商学部との関係が強い。結果として政治経済学部が研究所を持っていない形となった。しかし、これは同学部が研究体制の整備について、法・商二学部に比して消極的だったということでは必ずしもない。それどころか、政治学・経済学関係の学問動向に即応した研究体制を拡充強化すべく研究所を設置しようとの声は四十年頃から上がっており、四十一年十一月十五日には「政治経済研究所(仮称)設置準備委員会」が学部内に設けられ、同委員会での審議、要綱の作成、そして「研究所規則(案)」の作成を経て、四十二年十一月二十一日の教授会で承認され、翌二十二日の「政治経済研究所」設置申請書が総長宛に提出された。このように、寧ろ産業経営研究所設置の動きよりも早い段階で準備が進められていたのであり、だからこそ社会科学研究所の移管提案にも動かなかったのであろう。新設予定の研究所の目的は、「現代日本の政治学・経済学的研究、およびこれに関連する政治学・経済学の基礎的研究」とされた。
当初において「政治経済研究所」として構想されていたところが、今日の「現代政治経済研究所」として正式に設けられたのは五十三年になってからで、設置申請書が提出されてから実現までおよそ十一年かかったことになる。従って、延引の理由をどのように説明すべきかが問題となろう。
学部の特殊事情として、新聞学科の学生募集停止に伴う措置としてマス・コミュニケーションないしジャーナリズムに関する研究所の設置が検討されていたという事情がある。つまり、一つの学部で同時に二つの研究機関の設立案が併立した格好になったわけで、ほどなくこれを一本化する方が望ましいという提案があって、四十三年十月二十二日の教授会で「マス・コミュニケーション研究所」構想を「政治経済研究所」構想に統合することが決定され、あらためて規則案を手直しした上で、これを付して研究所設置を総長に提出する運びとなったのである。
しかし、この再度の提出によっても直ちに設立許可とはいかず、具体的な動きが出始めたのは、四十六年度に設立準備のための若干の予算が計上されてからであった。ある意味で大学当局において研究所設立に慎重な姿勢が見られたと言える。事実、この頃、大学として社会科学研究所、理工学研究所、鋳物研究所、生産研究所、比較法研究所、語学教育研究所の既設六研究所の現状分析、問題点の摘出、改善方向の摸索を行っていた最中であった。大学問題研究会第三研究部会が『研究所の現状と今後のあり方について』と題する報告書を提出したのは四十五年八月である。研究所の設立目的、機能、人的・物的条件整備、財政負担問題等々、洗い直すべき問題は多岐に亘っていたのである。
ともあれ、四十六年の予算措置により政治経済学部では研究所設置準備委員会が再発足し、研究所規則の再検討に入った。結局、この準備期間は四年を要し、五十年度になって漸く最終案をまとめる段階に至ったものである。この間に注目すべき変更が見られた。それは研究所の名称を「政治経済研究所」から「現代政治経済研究所」と改めたことである。そして、研究所として取り組むべき課題は、「現代日本の政治、経済ならびにマス・コミュニケーションに関連する総合的および基礎的研究を推進し、かつ、関係資料の蒐集整理を行い、斯学の発達に寄与すること」(「現代政治経済研究所規則」第二条)とされた。
具体的な手続としては、研究所設置の準備段階として五十一年度から学部内機関として現代政治経済研究センターが設けられて活動を開始し、運営委員会・幹事より成るセンター実務体制を整え、且つ五十二年九月の教授会において若干の手直しをした研究所規則最終案が決定された上で研究所設置の申請となり、同年十二月の評議員会での最終承認を経て五十三年四月一日を以て現代政治経済研究所として正式発足し、初代所長に教授正田健一郎が就任、事務所および資料室を四号館六階に開いた。
研究所の研究体制は共通テーマに基づく研究部会を設けて、各部会に所属する研究員が個別テーマによって研究グループを結成し、所期の目標を達成したところでグループを解散し、あるいは新たなテーマで再編することになる。五十七年度までに出揃った八研究部会と研究共通課題および研究主任名、ならびに研究グループの研究課題およびその代表者名を左に掲げて、研究所の特色を示しておこう。
第一研究部会 近・現代日本における政治・経済の変遷(兼近輝雄)
明治一五・一六年における巡察使の復命書についての研究(兼近輝雄)
第二研究部会 現代政治及びその成立過程の比較研究(佐藤立夫)
政治教育と政治的社会化(藤原保信)、大臣責任制の比較法的研究(佐藤立夫)、西ドイツにおける政治・経済・公法等諸制度の変遷に関する研究(小林昭三)、現代社会形成過程において英国の果たした役割について(福田三郎)
第三研究部会 現代経済及びその成立過程の比較研究(諏訪貞夫)
現代経済の理論的ならびに政策論的研究(柏崎利之輔)
第四研究部会 政策決定過程の諸問題(堤口康博)
行財政システムの研究――国・地方関係を中心として(寄本勝美)、行政過程の公開と参加(堤口康博)
第五研究部会 現代における国際社会の動向と日本(堀江忠男)
『満州』問題の研究(安藤彦太郎)、国際社会の収斂化傾向に関する研究(堀江忠男)
第六研究部会 人口構成の高齢化とそれに対する政治的、経済的、社会的対応(平田寛一郎)
第七研究部会 社会現象に関する数量的分析の諸問題(小林謙三)
第八研究部会 地域とコミュニケーション・メディアをめぐる諸問題(岩倉誠一)
なお、当研究所はヨーロッパ共同体(EC)関係の資料の蒐集を行っていたが、五十五年五月、そのECの好意によりヨーロッパ・ドキュメンテイション・センター(EDC)の指定を受け、ECに関する図書館活動の拠点としてEC資料センター(平成六年にEU資料センターと改称)の看板も掲げることになった。
少数の有志の発意による一つの研究プロジェクトを一定期間の研究助成の対象とするにとどまらず、専門の常設研究機関を組織して支援を続けることは、私立であれ国公立であれ我が国の大学における研究機関の作り方としては異例と言ってよいであろう。なぜそれが実現したのか。
昭和四十年末から四十一年にかけて学費・学館問題で学生ストライキの最中、文学部専任講師川村喜一(古代オリエント史)を指導教員とする学生サークル「エジプト学研究会」(代表吉村作治)が発足し、現地調査への意欲を燃やした。学生と教師との間で相互不信が煽られていた時期にあって、両者が一体となって一つの目的に向う事業を組むことに、川村は特別の意義を見出していたようである。折からの経済不況で資金集めに苦労しつつも、各方面から援助を得、四十一年十月から翌四十二年三月末にかけて、博物館・図書館での資料の調査・記録、調査許可を求めての関係官庁との交渉、ナイル河流域の遺跡調査・資料採集・発掘地点選定等ジェネラル・サーヴェイを行い、本格調査のための基礎作りとした。
エジプト政府からの発掘許可の獲得から学苑内外におけるエジプト発掘調査事業の認知・支援の獲得に至るまでほぼ四年かかっている。当事者の構想する調査がこの種のものとしてそもそも我が国研究者がこれまで行ったことのないものであり、その意義を広く理解させる必要があった。学苑における研究者の豊富さ、多面さはエジプト研究の成功を約束するものであったと言えるだろう。史学科の考古学や古代史を中心に地理学、言語学、人類学、更には建築学に至るまでの幅広いスタッフを揃えられる強みがあった。また、大学本部および校友にも調査グループのエジプト政府への働きかけに呼応するだけの問題意識があった。古代エジプト調査委員会が設けられたのはその現れであり、委員長を務めた村井資長総長は次のように回想している。
私がエジプトにおける発掘調査の件を聞いた時、次のような印象を受けたことを記憶している。まず、早稲田大学の共同研究は自然科学系が圧倒的に多く、人文科学系は稀れであるので、この調査研究の持つ意味は重大であること。次に学問研究は研究者の自主的なものであるが、考古学では、開発行為に伴う公的機関の要請によるものが多く、自主的研究が少いこと。第三に調査研究が外国であること、それに日本では最も情報が少く、研究の進んでいないオリエント地域であることと、研究者だけのものでなく学生を参加させ、あたかも課外授業のような形をとっており、教室だけでなく学生に学問に対する姿勢や見識を実体験として教える姿勢をみたこと、などである。当時、学費値上げを契機にした早稲田大学紛争の時だけに、学問は低迷し、教職員も学生も心に暗い影を宿していた。そんな折、嵐の間にふと射しこむ太陽のような感を持ったことを思い出す。特にこれからの日本は国際性を要求されると予感していた私は、外国に直接行き、そこで調査する発想に深く敬意を持ち、大学としてもできる限り応援するように考えた。一方、単に外国調査だけでなく、エジプトから研究者を招き早稲田大学で講演会を開いてほしいという川村喜一教授の要請に応じ、これを支援の第一歩とした。
(古代エジプト調査委員会編『マルカタ南〔Ⅰ〕――魚の丘――〈考古編〉』 四頁)
きわめて長期に亘ることが予想され、しかも海外で行われる調査事業を学苑として認めることは、これまで全く経験のない研究助成費の長期継続支出を意味するわけで、関係者の熱意と自助努力に加えて、村井以下当局者の決断を忘れてはなるまい。
エジプト政府から発掘許可の内定を受けたのは二年後の四十四年三月。早速現地に渡って発掘すべき遺跡の選定を行い、それを決定したのであるが、予備調査からの帰国の直後に勃発した第三次中東戦争によって生じた国際緊張の高まりによって、決定地点がエジプト政府により外国人立入り禁止地域にされてしまった。そこで翌四十五年三月になって発掘地点を、ナイル河を六百数十キロメートル溯ったルクソール地区にあるマルカタ南遺跡と定めて申請し、翌四十六年三月に正式に許可された。発掘許可書は外務省を通じて五月に学苑に送付されてきた。この間、同年四月には古代エジプト調査委員会が文学部教授平田寛を初代委員長として組織され、研究支援体制も整えられた。文部省科学研究費、早稲田大学指定課題研究助成費が得られ、また寄附金も集められていった。教師と学生の発意と熱意が一致して始まった冒険的調査計画はこうして本格的学術研究として認知され、同年十一月の第一次古代エジプト調査隊派遣となったのである。
一見つまらなそうに見える石器や土器の類を丹念に集め調べる作業はいかにも地味である。そうした作業を黙々と続けるやり方は現地エジプトでは寧ろ珍しがられたほどであったが、その地味な調査が滅多にない発見につながった。第三次調査の終了近く、昭和四十九年一月中旬になって、現地において「魚の丘」という意味の言葉で呼ばれていた長さ九十メートル、高さ四メートルほどの小さな丘を掘ってみたところ、踏面に彩色画を施した階段が姿を現したのである。踏面に描かれていたのは「色を塗ったヒト」であった。二十段ほどの階段踏面のそれぞれに交互に等身大の人物と弓の絵が描かれている。人物は横向きで両手を後ろで縛られており、特徴からエジプト人ではなく、捕虜となったヌビア人、シリア人、西アジア人であることが確認された。国王が征服地の捕虜をその武器とともに足下に踏んで権力を誇示し、階段上の建物で祭祀を行うという、古代エジプト文明最盛期の建物祉を掘り当てたわけである。
最初から王朝時代を狙っていたわけではない早稲田大学チームのまったく思いがけない彩色階段発見は世界的大ニュースとなり、その活動ぶりを内外に強く印象づけた。「魚の丘」調査およびその遺跡保護が焦眉の急となり、学苑として四十九年十二月からの第四次発掘調査に当って、古代エジプト学術調査資金の募集を開始するなど、研究体制を一層強化していった。調査を進める上で特に必要とされたのは、これまで借家で凌いできた研究拠点を脱して自前の施設を確保することで、これが五十一年十二月から五十二年二月にかけての第六次発掘調査期間までにルクソール西岸「王家の谷」入口近くに考古学研究所として一部を残して完成、「ワセダ・ハウス」と名づけられた。これに併せて、学苑において出土品の整理・保管を受け持つ機関として文学部校舎内に古代エジプト調査室が教務部直轄として五十二年四月に開設され、調査が始まって十年余りの実績の上に本格的な研究体制が整えられることになったのである。
五十三年十二月、調査室主任であった川村がそれまでの激務の故か、急逝するという悲運に見舞われたが、後任主任として桜井清彦が座り、吉村を中心とする調査・研究はマルカタ南遺跡調査からカイロ市南部に位置するイスラーム時代の遺跡アル=フスタートへと拡大していった。これは五十五年以降出光美術館との共同調査となり、その後財団法人中近東文化センターに引き継がれた。更に、五十五年十二月からは、「魚の丘」の彩色階段との比較調査を目的として、ルクソール西岸クルナ村貴族墓群のうちの二四一号墓調査を開始した。続いて三一七号墓の調査では二百体にも及ぶミイラが発見され、形質人類学研究者の協力を得て、計測、レントゲン撮影等の調査を行い、後にミイラのCTスキャン・データを基にコンピュータ・グラフィックスを駆使しての復顔を試みるなど、最新技術を取り入れた調査事業を展開している。また、未登録の墓を発見して、これに早稲田の頭文字のWを冠してW2号墓と命名したのを手始めにW6号墓までの調査を行った。これらから、銘文の刻まれた石灰岩製男性彫像、墓主の名前の残る石柱、木製バー像、ホルス像、大量のビーズ、土器片などが出土した。大きな成果と言ってよい。