昭和二十四年四月に第一歩を踏み出した新学制も、昭和五十七年度を終えて満年齢三十四歳に達する。この間、早稲田大学は、二十四年四月に新制学部を発足させたあと、「私立学校法」に基づいて二十六年三月に財団法人から学校法人にその組織を変更し、また四月には新制大学院を開設した。翌二十七年に創立七十周年、三十二年に創立七十五周年、三十七年に創立八十周年を祝い、五十七年十月には創立百周年を祝っている。
しかし、この三十四年間における学苑の歩みは、常に平坦な道程にあったわけではない。学苑が新制大学として第一歩を踏み出した当時、戦火でその三分の一を失った校舎その他の教育施設の再建は漸く緒に就いたばかりであったし、学生のみならず、教職員さえも、価値観の変化や多様化に戸惑いを見せていた。「今回の学制改革ほど大規模なものは嘗てなかった。まさしく空前のものというべきである」(『早稲田大学七十年誌』一六〇―一六一頁)と言われるほど、その改革の規模は大きかったから、物心両面に亘って、大学の体制を新しい制度に適合させていくには、その後かなりの時間がかかっている。戦争によって生産と消費のバランスを失った日本経済は急激なインフレーションに見舞われ、大学財政は急膨張し、大幅な学費改定も行われた。
学苑は、早稲田大学復興会の募金をはじめとして、八十周年記念事業募金、百周年記念事業募金など、事あるごとに校友、学生父母、一般篤志家に呼びかけ、募金を仰いできた。国あるいは地方公共団体等からの私学助成も漸次軌道に乗り、昭和五十年七月十一日に制定された「私立学校振興助成法」(法律第六十一号)により、五十一年度から助成の範囲は研究設備の補助から経常的経費の助成にまで拡大されて、大学財政を支える大きな柱となるに至った。しかし、教職員の充足、教育研究設備の整備改善は限りなく続けられていくため、大学財政はいつも困難な状態にあり、学費値上げは常態化した。ときには、学費値上げに端を発する激しい学生運動が繰り拡げられたこともあった。
昭和二十四年四月から五十八年三月までの三十四年間に、早稲田大学の資産額は一億円から七六八億円へ増加、同じ期間に負債額が七〇〇〇万円から二八〇億円へ増加しているから、四八七億円が大学の基本金の純増ということになる。このうちには、昭和二十年代の激しいインフレーションに対応して、「資産再評価法」(昭和二十五年四月二十五日、法律第百十号)に基づく所有不動産の帳簿価額引上げに伴う基本金の増加一二億円が含まれる。しかしその残りは、大学が学生生徒納付金、寄附金、補助金など、何らかの財源から手当している。資金が不足すれば、教育と研究の限りない発展に対応する大学の旺盛な食欲を満たすことができず、大学の成長を停滞させてしまう。大学にとって、資金はその生命を維持する上で欠かせないものであった。大学の興廃はこうした資金を確保できるかどうかにかかっていると言っても差支えない。今日の学苑は、これまで大学経営の指揮をとってきた人々の財務的な努力によって灯され続けてきたと言っても、決して過言ではなかろう。
早稲田大学は昭和四十六年度から、文部省が四十六年四月一日に定めた「学校法人会計基準」(文部省令第十八号)によって、計算書類を作成している。このため、昭和二十四年四月から四十六年三月までの各年度の計算書類と、四十六年四月以降の各年度の計算書類とは、単純に比較することができない。以下、四十六年四月一日を境として、昭和二十四年四月から四十六年三月までの二十二年間と、四十六年四月から五十八年三月までの十二年間との二期に分けて、学苑財政の推移を観察する。
昭和二十四年四月から四十六年三月までの二十二年間の早稲田大学の会計は、昭和二年度から採用された二勘定システム、すなわち収支を基本勘定と経常勘定に区分する方法によっている。基本勘定収支決算表では、土地建物、機械器具、図書標本什器の購入代金や建設費が支出の部に記載されるとともに、それらに充てられるべき財源が収入の部に記載される。基本勘定収支決算表は当初、基本金勘定と各種基金勘定とにより構成されていたが、昭和四十二年度からは基金勘定収支決算表を独立させ、基本勘定収支決算表としては基本金勘定の収支のみを記載している。また経常勘定収支決算表では、学費、実験実習料、登録料、試験料等を以てその収支とし、人件費、実験実習費などの教学費、修理費その他の維持運営費を以てその支出としている。
昭和二十四年四月から四十六年三月までの期間における大学の収支状況を観察するため、第二十九表に掲げる昭和二十四年度(昭和二十四年四月から二十五年三月まで)の収支決算表(基本勘定、経常勘定)を、第三十表に掲げる昭和四十五年度(昭和四十五年四月から四十六年三月まで)の収支決算表(基本勘定、基金勘定、経常勘定)と比較しよう。なお、戦後の激しい通貨価値下落に伴い銭単位通貨が二十八年限りで通用禁止となったことを背景として、銭単位で作成されてきた収支決算表は昭和二十八年度から、貸借対照表は二十九年度から、円単位で作成されている。
さて、二つの決算表によると、収支決算の規模は、基本勘定では、昭和二十四年度の収入が、経常勘定よりの繰入金四八三万円を除くと二一四九万円であったのに対して、四十五年度の収入は一〇億二七九四万円と、四七・八倍と#waseda_tblcap(2,,(b) 経常勘定)
なっている。また、二十四年度の支出が、普通預金二四七万円を除くと二三八四万円であったのに対して、四十五年度支出は一〇億三四九八万円と四三・四倍となっている。土地建物、機械器具、図書標本什器の購入、建設費に多額の資金が投じられており、それを賄う財源に、寄附金のほか、学生の納付する施設費、あるいは国の補助金が加わってきている。昭和五十五年を一〇〇とする消費者物価指数(全国、総合)は、昭和二十四年度の一七・二に対して四十五年度は四二・九であり、二・五倍に上昇した。これに比べると、学苑の収支決算規模の増加倍率は桁違いに大きい。
一方、経常勘定では、昭和二十四年度の収入が二億五〇六八万円であったのに対して、四十五年度の収入は五四億三一
(a) 基本勘定
五九万円と、二一・六倍となっている。また支出額では、二十四年度が二億四五八五万円(基本勘定への繰入金四八三万円を除く)であり、四十五年度が五五億五四六二万円であるから、二二・五倍になっている。収入の部の学費は、実験実習料と入学金を含めると、二十四年度が二億二四六五万円であったのに対して、四十五年度が四三億八三七〇万円で、一九・五倍である。これに対し、支出の部の人件費(教員給、職員給、臨時給、雑給、諸手当、教職員厚生費、年金基金・退職給与基金・厚生基金等への繰入金)は、二十四年度が
(c) 経常勘定
(a) 基本勘定
(b) 基金勘定
一億六三六二万円、四十五年度が四三億四八四七万円と、二六・五倍となっている。
第三十一表 基本勘定(基本金)収支の状況(昭和24―45年度)
年度別に基本勘定の収支の状況を示したものが第三十一表、経常勘定の収支の状況を示したものが第三十二表である。収支決算表は、借入金や仮受金を計上して収支の均衡を図っている。第三十一表は、これらの借入金や仮受金のほか、資産再評価差額などを除いて、収入金額と支出金額とを比較してある。昭和二十四年度と四十二年度を除き、基本勘定の収入は常に支出に不足し、収支不足額は借入金や仮受金によって補塡している。経常勘定は二十四年度から三十九年度まで若干の収支残高があり、これを基本勘定へ繰り入れているが、四十年度から四十三年度までは収支残高は零となっている。また、四十四、四十五両年度には収支不足額が計上され、借入金と仮受金によって補塡している。
土地建物、機械器具、図書標本什器の購入や建設費に充当する資金の手当は、大学財政にとり特に重要である。当初これらの資金は寄附金に依存していたが、第四巻六一四頁に既述した昭和二年度の「会計規程」の改正により、経常勘定からの繰入金が基本勘定に含まれるようになってから、学生の納付金もその重要な資金源泉となっていた。このことがきわめて明確な形で現れたのは、昭和二十五年度から学生の納付金のうちに加えられた施設拡充費(二十七年度から施設費と改称)であった。第三十三表は、基本勘定の収入総額に占める施設費の割合を年度別に示したものである。施設費は、その後学苑が教育・研究施設の整備拡充を図る上で大きな力となった。
第三十三表 基本勘定(基本金)収入に占める施設費の割合(昭和24―45年度)
第三十四表 経常勘定収入に占める学費等(施設費を除く)の割合(昭和24―45年度)
一方、第三十四表は、経常勘定の収入総額中に占める学費等の割合を年度別に示している。学苑の経常的活動に関わる費用の八〇パーセントもが学生の納付金によって賄われていることが、一目瞭然であろう。これに対する依存度を軽減するためには、校友その他篤志家に寄附金を仰ぐか、収益事業を手広く行うか、公費助成の実現および拡大に俟つほか有効な手立てがなく、学苑財政が学生納付金に依存する体質は容易に改善できないのである。
次頁に掲げる第三十五表は、経常勘定の支出総額のうちに占める人件費の割合を年度別に対比したもので、人件費には、教員給、職員給、臨時給、雑給、諸手当、教職員厚生費のほか、年金基金、教職員給与基金、教職員厚生金への繰入金、あるいは年金基金特別積立金、年金基金大学醵出金、年金基金整理資源繰入金などを含めてある。表から分るように、人件費の割合は非常に大きく、昭和二十年代に七〇パーセント弱であったが、四十年代になると七五パーセントを超えるに至った。このように人件費が私学の財政を圧迫し続けたことが、後述の公費助成運動を私学関係者に展開させる一つの契機となったのである。
第三十五表 経常勘定支出に占める人件費の割合(昭和24―45年度)
第一節に述べた如く、四十六年四月一日に「学校法人会計基準」が公布、即日施行された。従来、私立学校の会計は学校法人ごとにまちまちな手法で処理されており、合理的と言えないものもあった。四十五年に公費助成が実現し、補助金を受ける学校法人の公共性が高まったので、文部省は共通の統一的な基準により会計処理を行うよう義務づけたのである。学苑は昭和四十六年度からこの基準に従って計算書類を作成している。それによると、学校法人が作成しなければならない計算書類は次に掲げるものとされている。
一、資金収支計算書及びこれに付属する次に掲げる内訳表
イ、資金収支内訳表 ロ、人件費支出内訳表
二、消費収支計算書及びこれに付属する消費収支内訳表
三、貸借対照表及びこれに付属する次に掲げる内訳表
イ、固定資産明細表 ロ、借入金明細表 ハ、基本金明細表
このうち、資金収支計算書は、毎年度の支払資金(現金およびいつでも引き出すことができる預貯金)の収入および支出の顚末を明らかにするに過ぎないから、大学の諸活動に伴う財政収支の均衡等は、消費収支計算書によって見る方がよい。消費収支計算書によって、各年度の消費収入と消費支出の内容および均衡の状態が明らかにされる。収入があっても、借入金による収入のようなものは将来返済しなければならない。しかし、学費等はそうした債務を負わないから、大学の基本金に組み入れ、あるいは経費に当てることができる。このように学校法人の負債とならない収入は帰属収入と呼ばれ、この金額より基本金に組み入れた金額を控除して、消費収入が計算される。消費支出は、消費する資産の取得価額および用役の対価に基づいて計算される。消費支出は消費収入によって賄われることを原則とし、過不足額は消費収入超過額または消費支出超過額として翌会計年度に繰り越される。
昭和四十六年四月から五十八年三月までの十二年間における学苑の収支状況を観察するため、第三十六表に示す昭和四十六年度(昭和四十六年四月から四十七年三月まで)の消費収支計算書と、第三十七表に示す昭和五十七年度(昭和五十七年四月から五十八年三月まで)の消費収支計算書とを比較しよう。収支計算書の規模は、帰属収入では、昭和四十六年度が七四億七七七五万円、五十七年度が四〇七億五〇三四万円と、五・四倍、基本金組入額では、四十六年度が四億九七五六万円、五十七年度が八七億七一九四万円と、一七・六倍となっていることが分る。また消費収入では、四十六年度が六九億八〇一八万円、五十七年度が三一九億七八四〇万円と、消費支出では、四十六年度が七一億三八〇二万円、五十七年度が三三〇億三六二〇万円と、いずれも四・六倍となっており、当年度消費支出超過額は、四十六年
度が一億五七八三万円に対して、五十七年度は一〇億五七八〇万円と、六・七倍に達している。昭和五十五年度を一〇〇とする消費者物価指数(全国、総合)は、四十六年度が四五・三、五十七年度が一〇八・二であるから、二・四倍である。これに比べると、学苑の収支決算規模はこの期間にも目覚しく拡大したことが知られる。
第三十九表 帰属収入に対する基本金組入額の割合(昭和46―57年度)
年度別に帰属収入の内訳を示したものが第三十八表、帰属収入と基本金組入額の金額とその割合とを示したものが第三十九表である。帰属収入の内訳を見ると、平均して、学生生徒等納付金が六〇パーセント、入学検定料等の手数料収入が一〇パーセントを占めていることが知られる。
第三十八表中に示す国庫補助金等は昭和五十五年度まで一貫して増えたが、それが帰属収入に占める割合は、昭和五十三年度の二二・四パーセントをピークとして、その後は低下し続けている。第七節に後述する如く、政府は私立学校の果す役割の重要性に鑑み昭和五十年に「私立学校振興助成法」(法律第六十一号)を制定して、私学振興についての国の基本姿勢と財政援助の基本的方向を明らかにし、四十五年から日本私学振興財団を通じて実施していた私立大学等に対する教職員の人件費を含む経常的経費についての補助などの私学振興策を制度化した。しかし、五十七年に行政管理庁による日本私学振興財団の業務運営に関する監督行政監査が行われた結果、私立大学等の経営状況が好転し、教育研究条件の改善、授業料等の学生納付金の上昇率の鎮静化など、補助金の効果は十分に認められ、更に、私立大学等における教員の給与水準は国立大学の平均給与を上回っている状況にあるが、一方、国の財政事情はきわめて厳しい情勢にあり、その改善が強く要請されているとして、文部省は、経常費補助について、当分の間、総額を抑制することとし、そのあり方を見直す必要があると勧告した。そのため私立大学全体に対する補助金の総額は昭和五十年代半ば以降ほぼ固定化されたので、膨張傾向にある私立大学の経常的経費に占める補助金の比率は、五十五年度の二九・五パーセントをピークとしてその後低下していった。
寄附金の割合は増加傾向にあるものの、相対的には低い。しかし、創立百周年記念事業募金の行われた昭和五十七年度にはその割合は八・二パーセントに達している。その他の収入は資産運用収入や事業収入であるが、その占める割合は次第に増えてきて、一〇パーセント近くになっている。
学校法人は、設立当初に取得した固定資産のほか、新たな学校の設置または既設の学校の規模拡大もしくは教育の充実向上のために取得した固定資産の価値等に相当する金額を、基本金に組み入れなければならない。第三十九表を見ると、帰属収入のうち、こうして基本金に組み入れた金額の割合は二〇パーセント弱となっている。特に昭和五十四年度から五十七年度にかけてその割合が高いのは、創立百周年事業資金が基本金に組み入れられた結果である。
年度別の消費収支の状況は第四十表、消費支出の内訳は第四十一表の通りである。四十六年度から五十七年度に至る十二年間、消費収入は常に消費支出に不足し、消費支出超過額は累計で八〇億九〇八四万円に達した。消費支出中で最大のものは人件費であり、七〇パーセント台を占めているが、昭和五十三年度の七八・三パーセントを最高として、その後は低下の傾向にある。代って教育研究経費が漸増し、五十七年度には二一・三パーセントに達している。
昭和二十三年度末現在の貸借対照表と四十五年度末現在の貸借対照表とを比較した比較貸借対照表が第四十二表、昭和四十五年度末現在の貸借対照表と五十七年度末現在の貸借対照表とを比較した比較貸借対照表が第四十三表である。昭和四十五年度末現在の貸借対照表は、これら二つの比較貸借対照表のいずれにも示されているが、
第四十二表 昭和二十三年度末と昭和四十五年度末との比較貸借対照表
科目名や金額が同じでない。学苑は昭和四十六年四月一日から「学校法人会計基準」に従って会計処理を行い、計算書類を作成することとしたため、昭和四十五年度末現在の貸借対照表を新様式に作り替えている。第四十二表の貸借対照表は旧様式のままのものであり、第四十三表のそれは新様式に作り直したものである。昭和四十六年六月五日付『早稲田大学広報』は、昭和四十五年度決算に関連して、二つの比較貸借対照表の差異を次のように説明している。
新様式の貸借対照表は、資産の部を固定資産と流動資産とに区分し、負債の部を固定負債、流動負債、基本金および消費収支差額に区分している。又、科目についても若干の変更があるので、旧様式に計上されている金額もそれにそって計上替を行った。新様式の総額は一六九億二二〇八万円で、旧様式の総額一九八億四一二六万円に比し、二九億一九一八万円の減となっている。この理由の第一は、償却資産の棚卸による減である。従来も償却資産については減価償却を行ない価額を減額して来たが、それも償却限度額まで償却出来なかった年が多く、償却不足額もかなりの額になっていた。新基準移行に当っては、これら償却不足分を整理することとし、又機器備品等については資産計上基準を引上げ、基準に満たない少額資産を控除した。減少の第二は、年金基金と経常勘定収支不足額を除外したことである。年金基金は別会計とすることが妥当であり、又経常勘定収支不足額は新基準の表示科目である消費収支差額とは必ずしも等しくない。たまたま新基準では、「当該会計年度に実施する入学試験のために徴収する入学検定料は当該会計年度の収入とする」ということになっている。本大学では従来入学検定料を次年度収入として繰越すため前受金に計上していたが、上記新基準に基づき当年度の収入としてこれを経常勘定収支不足額に充当し、又年金基金の除外と同時にその借入金をもあわせて返済したのである。
右の説明を念頭に置いた上で、第四十二表により、昭和二十三年度末と四十五年度末の学苑の資産および負債を比較しよう。四十五年度末現在で二億九五五八万円に達した経常勘定収支不足額は、四十五年度末の資産の部に含まれているので、これを除くと、四十五年度末の資産合計は一九五億四五六八万円となる。これを二十三年度末の資産合計一億一四万円と比較すると、二十四年度から四十五年度末までの二十二年間に資産が一九五・一倍になっていることが分る。前受金や借入金などの負債は、二十三年度末で七三二九万円、四十五年度末で五六億六五四六万円と、同
第四十三表 昭和四十五年度末と昭和五十七年度末との比較貸借対照表
じ期間に七七・二倍になっている。
次に第四十三表によって、昭和四十五年度末と五十七年度末の大学の資産および負債を比較してみる。四十五年度末の資産一六九億二二〇八万円に対して、五十七年度末の資産は七六八億七〇七三万円と四・五倍である。また負債は、四十五年度末で五七億三五〇五万円、五十七年度末で二八〇億九一六七万円と四・九倍である。
年度別の資産と負債の状況は、昭和二十四年度から四十五年度までが第四十四表に、四十六年度から五十七年度までが第四十五表に示してある。これら二表によると、資産に対する負債の比率は、二十四年度を例外とすれば、大体三〇パーセント台で、多くて四五パーセントに止まっていることが知られる。
年度別の土地と建物の状況を示した第四十六表を見ると、昭和二十四年度から五十七年度までの三十四年間に、学苑の土地は面積で三・五倍、金額で七六一倍になっていることが分る。また、建物は、同じ期間に、延面積で三・九
倍、金額で五三七倍になっている。ただし、この間に学苑は、七一四頁に述べた「資産再評価法」に基づき、二十五年度に土地四一〇三万円、建物および設備二億四五三二万円、二十六年度に土地一億七二七八万円、建物および設備三億九六七七万円、二十八年度に土地三億二二四万円、建物および設備一億二〇六二万円の再評価差額を計上している。従って、その後三十年間の取得価額は、土地が五・五倍、建物が一六・四倍となる。
基本勘定の収入のうち、土地建物、機械器具、図書標本什器などの資産に充当した金額に相当する額は、基本金に組み入れられる。昭和二十三年度末の基本金は一六〇五万円であった。また、この時点までに、恩賜金、大隈基金、高田基金、教職員基金、教職員給与基金、佐藤文庫基金、小野奨学基金、出版部基金、奨学基金など、多くは寄附金を原資として特定の目的のために設定された基金は一八二万円であった。このほか、二十三年度末には、戦災で失われた校舎の再建のために結成した早稲田大学復興会の募金が始まっていたから、それまでに学苑が受け入れた復興資金八三三万円と、特定寄附金六三万円とがあった。これが、昭和二十四年四月一日から新制度の大学を発足させた当時の学苑の自己資金であった。
昭和二十四年度から四十五年度までの基本金と基金の年度別の状況は第四十七表に示す通りである。四十五年度末で、基本金は一一八億八三六七万円、基金は二二億九二』三万円に達し、この二十二年間に基本金は七四倍、基金は一二五八倍に増加していることが分る。四十六年度から「学校法人会計基準」に従って会計処理を行い、計算書類を作成するため、学苑は四十五年度末に「学校法人会計基準」に従って、一般基本金を一〇八億三三三九万円、特定基本金を三億五三六四万円、未組入額を四一億三〇四三万円と定めている。昭和四十六年六月五日付『早稲田大学広報』は、これについて次のように説明している。
従来基本金の概念については、私学の間でもとかくあいまいであった。唯単に「資産―負債=基本金」ということだけでそれ以上のことについては統一的な概念を持っていなかったのである。新基準はこの概念を明確にし、当該学校法人がその諸活動の計画に基づき必要な資産を継続的に保持するために維持すべき額を「要組入額」として把握し、これら資産の取得を帰属収入以外の収入を以って賄った場合「未組入額」として次年度以降に組入れを行なうものとしている。本大学の場合、維持すべき額は一四九億六三八二万円で、そのうち帰属収入で賄われたものが一〇八億三三三九万円、次年度以降に帰属収入を以って補塡しなければならない額が四一億三〇四三万円あることを示している。
特定基本金の金額は、これまで基金として設定されてきた恩賜金、大隈基金、高田基金、各種基金、教職員厚生基金を引き継ぐ形で定められている。しかし、四十五年度まで基金のうちに示されてきた退職給与基金は退職給与引当金として負債の部に移され、また年金基金は別会計となった。
昭和四十五年度から五十七年度までの基本金の推移は次頁の第四十八表に明らかにされている。五十七年度末の一般基本金は四五四億五二八二万円であり、四十五年度末の一般基本金一〇八億三三三九万円と比較すると、四十六年度から五十七年度までの十二年間に四・二倍になっていることが知られる。五十七年度末の特定基本金一一四億一七〇七万円は、四十五年度末の特定基本金三億五三六四万円と比較すると、同じ期間に三二・二倍になっている。未組入高は、四十五年度末の四一億三〇四三万円に対し、五十七年度末には八六億三四七六万円と、二・一倍である。
五十七年度末の基本金の合計五六八億六九九〇万円から翌年度繰越消費支出超過額八〇億九〇八四万円を控除した差額四八七億七九〇五万円が、早稲田大学の自己資金である。その金額は、五十七年度末に学苑所有資産の総額七六八億七〇七三万円から、今後、学苑が支払わなければならない負債の総額二八〇億九一六七万円を控除した差額に相当する。二十四年四月一日に新制度の大学として再出発した当時の自己資金は三〇〇〇万円に満たなかったから、この三十四年間に四八七億円の自己資金が学苑に貯えられたわけである。
これらの自己資金の形成が学生生徒等納付金に依存するところは大きい。しかし、創立八十周年と百周年の記念事業募金もまたこれに大きく貢献している。創立八十周年記念事業募金は、四十七年三月に募金活動を終了する時点で、目標額二〇億円に対し申込額は一九億八三〇〇万円で、払込額は一、八億六四〇〇万円に達している。八十周年記念事業募金は三十七年度から四十六年度に亘って基本勘定に繰り入れられた。また創立百周年記念事業募金は目標額二〇〇億円で、五十七年度末現在で入金累計額は五二億七四〇〇万円に達し、五十五年度から基本金に組み入れられてきている。これらの金額は前記の自己資金の増加額のほぼ十分の一に相当する。十分の一を大きいと見るか、小さいと見るか、その評価は分れるかもしれない。しかし、何の反対給付もない大学の募金に応ずることは、誰もが容易にできることではない。その意味では十分の一という金額は決して少い金額ではない。創立以来、学苑を支え、その発展に期待を寄せてきた校友をはじめ、「世の理解ある人々」の善意が、ここに結晶していると言ってよかろう。
昭和二十四年度から五十七年度に至る三十四年間の学苑財政の推移を追う時、その財政が学生生徒等納付金、入学検定料等の手数料、寄附金、補助金によって支えられてきたことが知られる。このうち、学生生徒等納付金は、授業料、入学金、実験実習料、施設費など、いわゆる学費と呼ばれるものであり、収入総額の中で圧倒的に大きな割合を占めているところから、その改定問題は終始人々の注目を浴びてきた。中でも昭和四十一年度の学費改定は、大規模な「学費・学館紛争」の一因となった。
第四十九表は、昭和二十四年度から五十七年度までの授業料の推移を示したものである。学費改定の仕方を見ると、学苑経営に当った人達の苦心の跡が窺える。二十七年度以前の学費改定は在学生にも適用されていたが、二十八年度以降は当該年度の入学者のみに適用されることになった。
学費は、三十二年度と三十三年度に連続して改定されたほかは、三十七年度まで二年ごとに改定が行われている。その後、施設費、実験実習料、入学検定料などの改定はあったが、授業料は四年間据え置かれてきた。改定された授業料が新入学者から適用されることにより、改定した年度を含めて四年間は、毎年旧授業料を納付していた在学生が卒業しそれに代って新授業料を納める学生が入学してくるため、旧授業料と新授業料との差額に一学年の学生数を乗じた金額だけ増収となる。四年を過ぎると、こうした増収はなくなる。学苑は、四十一年度の予算概況の説明に当って、次のように学費改定の必要を訴えた。
最近四ヵ年間の経常勘定予算の膨張は、一ヵ年に四億円に近い額に達しているのが実状である。この財源は主として昭和三十七年度学費改訂による授業料の年次自然増収額で賄ってきたが、今年度はその要因がなくなったので、止むなく新たな全面的学費の改訂を行ない、必要財源の確保を計ったわけである。 (『早稲田大学広報』昭和四十一年四月九日号)
こうして昭和四十一年度の学費改定による増収も四十四年度で終り、四十五年度と四十六年度は学費の面で増収はなかった。四十五年度は「人件費を含む経常経費助成」を期待し、また四十六年度は学生、父兄から教育振興協力金を募金するという方法で、収入の不足を補おうとしたのであるが、それらは必ずしも学費に代る財源とはならなかった。そこで、四十七年度に再び学費改定を断行せざるを得なかった。その後、学費改定のテンポは少し速くなっている。五十年度から五十四年度にかけては、新入生と在学生との学費にあまり大幅な差をつけないという配慮から毎年小幅に改定することにしたので、前回の学費改定による増収が途切れる前に次の学費改定が行われた。
さて、昭和四十六年度に「学校法人会計基準」を採用した時点で、四十五年度までに生じた経常勘定収支不足額二億九五五八万円は整理され、四十六年度は繰越消費支出額を零として新出発した。しかし、その後の各年度の消費収入は消費支出に不足し、五十七年度において翌年度繰越消費支出超過額は八〇億九〇八四万円に達している。翌年度繰越消費支出超過額は、一般の企業で言う繰越欠損金、すなわち赤字であり、学校法人の基本金に対する食い込み額を示すものである。五十七年度において、そうした食い込み額は基本金の部の合計五六八億六九九〇万円に対して、実に一四パーセントに達している。しかも、なお、将来の各年度における収支の均衡を見込むことは困難であり、その額は増加する傾向にさえある。
消費収入が消費支出に不足すれば、不足額は借入金によって調達しなければならない。それによって金利負担が重くなり、収支不足は加速的に大きくなる。やがて支払不能を招き、事業を継続することができなくなる。学校法人は、このような基本金に対する食い込みに対して、どの程度まで耐えることができるのであろうか。
かつて、翌年度繰越支出超過額は基本金に対して四分の一くらいまでよいとする「四分の一説」が、人々の口の端に上ったことがある。しかし、これは一般的な基準ではない。村井、清水両総長の下で財務を担当した常任理事佐々木省三は、これについて次のように語っている。
村井総長は、私立大学では完全に収支の均衡をはかるということは無理で、収支不足が生ずるのは避けられないとのお考えをお持ちでした。このため、どの程度までの赤字ならば、耐えられるかという諮問がありました。この総長の諮問に対して、資金繰りの観点から当時の大学資産二〇〇億円に対して、赤字は五〇億円くらいまで耐えられるであろうとお答えしたところ、それから組合などで「四分の一説」と言うようになりました。五〇億円という金額は当時の状況から判断したものでありましたが、その後「四分の一」ということだけが独り歩きしてしまったのです。(直話)
消費支出のうち、減価償却費は、過去に購入または建設した建物その他の固定資産に対して、使用等に基づく減価額を計算したものである。購入または建設時に現金支出が行われ、減価償却費を計上した段階では現金支出は行われない。このため、翌年度繰越消費支出超過額は、こうした減価償却額の累計額の範囲まで認められてよいのではないかとする説もある。しかし、昭和五十七年度末の翌年度繰越消費支出超過額は、その年度末の減価償却額の累計額六五億三一四二万円を既に上回っている。
三月に新入学生が入学手続の際に納付する学費等は、翌年度の消費支出に充てるべき消費収入であり、前受金として処理されている。翌年度繰越消費支出超過額は資金繰りの面からするとこうした前受金に食い込むことになる。このため、翌年度繰越消費支出超過額の限度を、その年度末の前受金の金額に求めることもできる。しかし、五十七年度末の翌年度繰越消費支出額は、その年度末の前受金の金額六五億九五一九万円を既に超過している。
固定資産の取得に要した資金を借入金で賄い、翌年度以降の各年度に基本金への組入を行うこととなる金額も五十七年度末には八六億三四七六万円に達している。建設資金を借入金で調達し、各年度の基本金組入額を減らして消費収入を増やせば、翌年度繰越消費支出超過額は減少する。しかし、借入金の増加は後年度の負担を増すことになるから、無責任にこうした財務方針は採るべきでない。
このように見てくると、大学財政において、各年度の消費収入と消費支出の均衡を図ることが、何よりも大切であることが分る。しかし、消費支出の節減を図ることは忘れてはならないとしても、大学の教育および研究の水準を維持し向上させるために、支出の拡大は避けられない。こうした消費支出を賄えるだけの消費収入を確保することは重要である。その過程で、学費等の引上げは宿命的な課題となるが、あまりにも大幅な学費改定は、父兄の負担を過重にし、国公立大学との学費に関する格差を著しくする恐れが十分にある。それは「教育の機会均等」にさえ抵触しよう。そこで、学費の引上げを極力回避するために、学苑をはじめとする私立大学は、第二次大戦後、公費助成運動を強力に展開し、十分とは言えないまでも、ある程度の成果を収めたのである。
第二次世界大戦後、戦災復興と物価急騰とにより私立大学の財政は極端に苦しくなった。私立大学は戦災校舎を復興するため募金運動を展開したが、それだけでは不十分であり、国の財政援助を必要とした。加えて、新制大学への移行に伴い、私立大学は国公立大学と同一の大学設置基準で審査されるようになったために、施設面での大幅な改善が不可欠となり、これまた私立大学の財政を圧迫した。
昭和二十四年十二月十五日に成立した「私立学校法」(法律第二百七十号)の第五十九条は、「国又は地方公共団体は、教育の振興上必要があると認める場合には、別に法律で定めるところにより、学校法人に対し、私立学校教育に関し必要な助成をすることができる」と明示した。これにより、私立学校は学校法人という公益法人となることによって、公費助成を法的に受けられる道が開かれることになった。なお、第四巻一〇五八―一〇五九頁で述べたように、この「私立学校法」制定の際、文部省側は憲法第八十九条との関連で、私学側の意向を無視した監督規定を盛り込もうとしたが、それでは私学の自主性が失われるため、学苑が加盟する私立大学協会から副委員長として私学法案委員会に参加していた大浜信泉は、GHQのCIEに働きかけ、原案の修正に成功したのであった。
こうして漸く二十九年に私立大学研究設備整備費助成金が、三十一年に私立大学等理科特別助成補助金が設けられた。また四十三年には、私立大学教育研究費補助金が新設された。私立大学教育研究費補助金の補助対象は、当初、図書および設備備品であったが、その後、光熱水費にまで拡充された。
このように、私立大学に対する国家補助は漸次拡大されていったが、こうした制度的な改善と、そして実際に私学への助成金を増額させていくには、並々ならぬ苦労があった。昭和二十六年に発足した私立大学連盟の第二代会長を三十年から三十六年までの六年間務めた大浜信泉は、この間の事情を、後年次のように述べている。
連盟の会長に負托された最も重要な任務の一つは、私学に対する国の援助につき、新たな道を開き、またはその幅をひろげるための運動の先頭に立って東奔西走することにあるといっても過言ではない。毎年国の予算編成期にはいると、あるいは単独で、あるいは私学団体の代表者とともに総理大臣、大蔵大臣、文部大臣、与党の三役その他政界の実力者を役所、党本部、国会または自宅に訪ねて陳情運動をすることが年中行事のようになっていた。むろん援助額の増額を求め、あるいは新規に国庫補助を要請するためである。予算の最後のつめの段階になると、夜半に及ぶことも屢々あった。特に印象に残っていることを拾ってみると、池田内閣の時代に所得倍増を目標に、経済高度成長の方策が提唱され、科学技術者の大量養成の必要が叫ばれたときに、文部大臣の松村謙三氏に会って理科教育特別助成金の交付、総理大臣池田勇人氏に会って理工系学部、学科の増設に対する特別融資の道を開かせ、大蔵大臣田中角栄氏を訪ねて私学振興会の運用資金を増すために財政資金の導入の道を開くとともに、当分の間毎年倍額にするとの約束をとりつけたことがそれである。……その時期ははっきり覚えていないが、私の会長時代に公務員給与の大幅なベースアップが断行されたことがある。それが私学にとっても大きな圧力になることはいうまでもない。私学の経常費に対する国庫補助の必要性は前々から主張して来たことであるが、公務員給与の大幅ベースアップの際も、せめてそのべースアップ幅だけでも国が補助すべきことを提唱し、大々的に運動を展開するとともに、P・R活動をしたが、気運が熟しえなかったとみえ、空砲に終ってしまった。 (『日本私立大学連盟二十年史』 五四七―五四八頁)
しかし、大浜が果せなかった私学経常費の公費助成は、時子山常三郎が私立大学連盟第五代会長の任にあった昭和四十五年に実現した。すなわち、大学はもとより高等学校、中学校、小学校、幼稚園に至る全私学団体が強力に結束して運動を展開した結果、私立大学教育研究費補助金が四十五年度に、その名称を私立大学等経常費補助金と変えるとともに、専任教員給与費と教育研究経常費を補助対象とするようになったのである。後に時子山は私大連盟の会長時代を回顧して、「何としても思い出深いのは、人件費を含む私学経常費に対する公費助成のための運動とそれの実現」(同書 五六一頁)であったと述べている。
ところで時子山は、昭和四十五年一月発行の『早稲田学報』(第七九八号)の巻頭に掲載した「年始ご挨拶」の中で、私立大学等経常費補助金が実施されるに至った経緯とその正当性とを説明するとともに、具体的な数字を掲げて、「わが国大学政策の不合理、矛盾」(八頁)を明らかにしている。その数字を見ると、戦前には存在しなかった授業料格差が、戦後左のように国立、私立両大学間で生じていた。
戦前(昭和九‐十一年)
国立 年間一二〇円
私立 年間平均一二〇円
戦後(昭和四十五年頃)
国立 年間一万二〇〇〇円
私立 年間平均八万三〇〇〇‐四〇〇〇円
なお、四十五年頃の私立大学では、更に施設費その他の学生納付金を含めると、入学時における学生一人当りの負担金は平均二二万三〇〇〇円にも上った。
ともあれ、昭和四十五年度以後、私立大学に対する本格的な公費補助が展開されるようになったが、これらの財政支援は日本私学振興財団を通じて行われた。日本私学振興財団は、私立学校の教育の充実および向上に資し、併せてその経営の安定に寄与することを目的として、「日本私学振興財団法」(昭和四十五年法律第六十九号)に基づき四十五年七月一日に設立されたのであった。早稲田大学が受け入れた文部省補助金および帰属収入に占める補助金の比重の推移は、七二六頁に掲げた第三十八表に示す通りである。
このように私立学校に対する公的助成が大きくなるに従って、私立学校の経理の合理化、適正化を図ることが社会的要請となった。昭和四十年に文部省に設置された臨時私立学校振興方策調査会が四十二年六月に答申した「私立学校振興方策の改善について」には、「私立大学が合理的・計画的に経営され、発展していくうえには、経理の合理化、適正化が必要であるということはいうまでもないことであるが、さらに私立大学に対する助成の拡充をはかるについて国民の理解と支持を得るためにも、また学内において学校経営について父兄等関係者の理解と支持を得るためにも学校の経理の合理化、適正化が重要であり、このため財務基準の制定、公認会計士による監査等経理の合理化、適正化を確保するため適切な措置を講ずる必要がある」と書かれている。
私立大学等経常費補助金その他の経常的調査に対する国または地方公共団体の補助金の交付を受ける学校法人が、「私立学校法」第五十九条第八項の規定により、文部大臣の定めた「学校法人会計基準」に従って会計処理を行い、計算書類を作成することになったのは昭和四十六年度からであるが、学苑ではこの基準に従って会計処理を行うため、従来の「会計規程」に代えて昭和四十七年二月に「会計規則」を制定した。また、同条第九項の規定に基づいて公認会計士による監査を受けるようになったのは四十五年度からであった。しかし学苑は、大学の公共性を重視し、公認会計士による監査を受けることの必要性を認識して、法によって強制されるのを待たず、自らの意思により、四十三年度から公認会計士による監査を受けている。その後、昭和五十年に制定された「私立学校振興助成法」の第十四条は、「私立学校法」の規定を受け継いで、学校法人に対し、文部大臣の定める基準に従い、会計処理を行い、貸借対照表、収支計算書その他の財務計算に関する書類を作成するとともに、所轄庁の指定する事項に関して公認会計士または監査法人の監査報告書を添付しなければならないと定めている。
ところで、私学に対する公費助成は、一旦実現すると私学関係者には当然の権利とさえ看做されるようになった。本編第三章第六節で取り上げた『早稲田フォーラム』でも、それの増額を要求する論調が支配的である。しかし、納税者の立場から私学助成を考えた場合、大学のあり方に重大な影響を及ぼしかねないと警鐘を鳴らした大石脩而(日本経済新聞社文化部長)の「私学助成――これからの問題点」(同誌 昭和五十年八月発行 第一〇号)は、示唆に富んでいる。経常的経費の五〇パーセントまで助成されるならば、税金の使途に敏感な納税者の私立大学を見る目が厳しくなり、彼らは自分達の要求を大学に直接つきつけたり、政府に大学管理を強化させようとしたりする可能性がある。そうなると、私立大学は、社会を先導するのではなく社会に迎合するものとなる惧れなしとしない。七二七頁に前述したように助成費が頭打ちになっている状況は、社会と大学との関係を明確に理論づけることが未だできていない現状においては、寧ろ歓迎すべきなのかもしれない。