学生の間ではサークル活動が盛んである。中には、熱心のあまり学業よりもサークル活動の方を優先させる者もいないではないが、学生自身による多彩な自発的活動が、生涯を通じての友人を発見する場であり、また、ユニークな人材を輩出させる土壌の一つであることは確かなようだ。
従って、学苑では早くからサークル活動の教育的意義を評価し、大学教育の一環として、あるいは正課の教育を補完するものとして積極的に捉え、複数の学部の学生が集まって活動実績を上げていると学部長会が認めたサークルを「学生の会」として承認し、教職員を会長や顧問に配して、僅かではあるが補助金を提供してきた。「安保闘争」が高揚した昭和三十五年度における公認「学生の会」には次のものがある。
文化団体連合会(学術部門)
文化団体連合会(芸術部門)
文化団体連合会(宗教部門)
文化団体連合会に加盟していない学生の会
(『学園生活』昭和三十六年版 六四―七〇頁)
右に掲げた「学生の会」は全部で百三十四団体に上り、会員総数は一万を超える。単純に計算して学部学生の三人に一人が何らかのサークルに所属していることになる。十年後の四十五年には百八十団体を超え、今日に至るまで団体数は殆ど変らないが、学部学生中に占める会員総数の比率は低下した。といって、学生のサークル活動が低調になったわけではない。毎年大学に活動状況を報告しなければならない「学生の会」に包含されるのを嫌うサークルが数多く結成され、思い思いの自主的活動を繰り拡げているからである。学生部に届出のあったそれらのサークルを大学は「同好会」として扱い、補助金こそ支給しないものの、メール・ボックスを設けたり、合宿の際には割当外の学生割引乗車券を与えたりして、活動を支援している。「同好会」は四十年末から四十一年にかけての「学費・学館紛争」時におよそ百を数えたが、五十年代に入ると急速に増え、五十五年には「学生の会」が百八十七団体であったのに対して百九十六団体と遂に前者を上回った。今日、「同好会」扱いのサークルは「学生の会」の二倍以上存在する。
「学生の会」には、常時数百人の会員を擁する英語会、学生の言論を代弁する新聞会、正課の講義では習熟できない思想表現技術を学ぶ雄弁会、淵源を音楽会に遡る交響楽団その他の音楽諸団体、自主的に理論研究を深めようとする経済学会などのように、半世紀以上の伝統を誇るものがたくさんあり、本書では第四巻まで「学生研究会」の呼び名でその活動の若干を叙述してきた。これに対し「同好会」には、寧ろそうした既成の「学生の会」に飽き足らない学生が集まって生れたサークルが多い。それは一つには、文化団体連合会を構成している「学生の会」の幾つかが政治運動への傾倒を深めたことに反発した(実際、三十九年四月、連合会の姿勢に異を唱える七十六サークルが集まって早稲田大学サークル連合を結成している)からであり、一つには、先輩―後輩の縦社会を嫌って、ごく身近の友人関係を重視する傾向が強まったからであり、一つには、研究や研鑽を目標に掲げるのではなく内輪だけで手軽に楽しめれば、それで満足という風潮が拡まったからである。従って「同好会」扱いのサークルには短命に終るものが多い。また、スポーツ関係のサークルが多いのも特徴の一つで、例えば五十七年には半分以上の百十三団体に上り、テニスだけで二十三団体も存在する。しかも、これらの殆どは技能向上だけを目的とするのでなく、ハイキングその他親睦のための多彩な行事を年間計画に盛り込んでいる。サークル活動はまさに学生意識の変容を映し出しているのである。
学苑では各学部やサークルごとに分散してささやかに催し物が開かれてきたが、第四巻五八〇頁に既述した如く、昭和二十二年五月、文化会設立準備委員会が発足すると、その主催により同年秋に全学的な「文化祭」が企画され、翌二十三年秋には大学の補助金を得て「文化祭」が開催された。文化団体連合会が公認された二十四年の十一月には、多数サークルと若干の学部学友会が参加して「第一回早稲田祭」の名称の下に一日から十五日まで大隈講堂を中心にさまざまな催し物が繰り拡げられた。ところが翌二十五年になると大学当局は補助金の削減を通告し、加えて学生のレッド・パージ反対運動に態度を硬化させたため、大学当局と学生との間に溝が生じた。しかも文化団体連合会に同調しないサークルや学部学友会もあり、第二回早稲田祭は予定を一週間遅らせて実施された。二十六年の第三回早稲田祭は「自由と平和への早稲田祭」をスローガンに掲げ、各学部に参加を呼びかけて開かれた。尤も、この年も大学当局と学生側との緊張関係は継続しており、参加を決定した学部学友会に対し大学から参加中止の指示が出された。
学苑創立七十周年に当る二十七年の早稲田祭は、秋に記念式典を公式行事日程に組み込んだ大学当局側が記念行事の一環としてこれを位置づけて補助金増額を認め、文化団体連合会を中心とする早稲田祭実行委員会と大学との共催という形で行われた。そのスローガンは「学の独立と自由のための記念祭」であった。しかし開催を目前にして、左傾を強める文化団体連合会に不満を持つ数サークルが脱退し、十二月には「文化団体協議会」を結成するに至った。この分裂問題が解消して、それらが文化団体連合会に復帰したのは、翌二十八年五月である。この年、宿願の全学的合同祭への気運が盛り上がり、前年十二月誕生の全学学生協議会、文化団体連合会、生活協同組合の三者会談が行われた。結局、体育部と一部の学部学友会は参加しなかったが、二十八年の合同祭は「統一早稲田祭」と銘打ち、ほぼ一ヵ月に亘り開催された。
全学的な祭の形を採れなかった理由の一つは、各サークルの財源確保の思惑や各学部祭の独自性もさることながら、会場(おもに大隈講堂)の使用制限により、開催期間について合意が得られなかったからである。その反省に立ち、二十九年の早稲田祭に当っては、学生は大学当局に五日間の全学休講と、教室を開放して会場として利用させることを要求し、催し物を集中的に行う案を立てた。大学側は五日間もの全学休講に難色を示した上、完全な全学的催しでない以上、補助金の支出は認められないと回答した。この交渉決裂により学生側は幾つかの教室を無断で使用して十一月二十日より二十四日まで五日間、集中的早稲田祭強行に踏み切ったので、早稲田祭実行委員の停学処分という異常事態となった。停学処分が解除された翌春から大学側と学生側との間で話合いが重ねられた。三十年秋に小野梓没後七十年記念祭を予定していた大学当局は、早稲田祭の期間をこれと一致させたいとの考えがあり、更に、そこには早稲田祭を大学の年間行事に組み込む意向が働いたものと思われる。話合いの結果、費用を全額支弁してほしいとの学生側要求は拒否され、不足分はプログラム販売収益で賄うことが決定された。しかし、結局、十一月、遂に大学との共同主催の形を採った早稲田祭が実現したのである。なお、三十一年二月二十一日付『早稲田大学新聞』が「去年第二回目の早稲田祭」と伝えていることに徴するに、二十九年の大学非公認の早稲田祭を以て第一回とする数え方が慣習として定着したらしい。因に三十一年十二月発行の『早稲田学報』(第六六六号)も三十 年十一月実施の早稲田祭を第三回と数えている(三七頁)。
実行委員会が初めて基本方針とスローガンを掲げた三十七年の第九回早稲田祭頃からはイデオロギー過剰が目立ち始め、学生運動の激化に伴って、早稲田祭を単なるフェスティヴァルとすることに飽き足らないと感じる学生が多くなり、「闘う早稲田祭」にまで変貌していく。この頃の企画を見ると、憲法改悪反対、核戦争反対、日韓会談反対、教育反動化反対、ヴェトナム戦争反対など、圧倒的に政治問題が多くなり、体制批判の激しい言辞に溢れている。
しかし早稲田祭は、大学当局の危惧や実行委員会のイデオロギー的独走にも拘らず、学生の祭典であることに変りはなかった。実行委員会も各サークルやグループの思想や催し物には寛大で、早稲田祭は各団体が年間活動の成果を自由に発表する場となった。学術や思想の団体はその研究成果をパンフレットにまとめて来会者に配付したり、グラフに描いて展示したりした。また著名人を招いて世界情勢や国内問題について講演会を開いた。芸能サークルは大隈講堂や大教室で普段の練習成果を発表して来会者を愉しませた。構内には屋台が出て軽食や茶菓を供し、広場では野外コンサートが開かれ、学園祭を盛り上げていった。その頃の早稲田祭プログラムを見ると、催し物の豊富で多彩なことに驚かされる。このプログラムほど、その時代の学生の関心がどこにあるかを端的に示すものは少いであろう。
これを三十八年の第十回早稲田祭について見ると、第二学生会館問題、改憲闘争、国家独占資本主義・金融資本批判、原水禁運動、白鳥事件、松川事件、沖縄解放、中国核実験、日韓会談等々、圧倒的に政治的、時事的な講演会や展示が目立つ。一方、ドストエフスキーやキリスト教や仏教等の思想を考察しようとする講演会もあれば、生け花や座禅や能や俳句の如き、時流を超えて自己を静思しようとする催しもある。また青年の夢を遠く遥かな世界に運ぶ探検の展示や講演もあれば、技術日本の先端を担う理工学部各科の展示もある。他方、各劇団も意欲的で、演劇研究会の「狐とぶどう」、英語会の英語劇「歪んだ世界」、スペイン語研究会のスペイン語劇サリーナス作「クリスティーナの世界」、エスペラント研究会のエスペラント劇「ベルサイユの囚れ人」、早稲田小劇場のチェホフ作「悪党」など、目白押しである。早稲田祭の盛況ぶりを示す催し物と参加団体数その他を第五十七表に掲げよう。
(a) 催し物および参加団体数
(b) 既成団体参加数および参加率
(c) 学部関係参加数
(『学園生活』昭和39年版 87頁,『新鐘』昭和39年5月発行第3号 48頁)
この年の早稲田祭の財政に目を移すと、支出費目は参加団体活動援助金、器具等の購入費、プログラム等情報宣伝費であり、合計四百万円以上に上る。収入については、学生の分担金一人十五円(所属学友会へ納入)、大学補助金六十万円、プログラム売上げで、六万部以上販売されるプログラムからの収入は約二百五十万円に上る(『新鐘』昭和三十八年十月発行 第二号 一四―一五頁)。従ってプログラム販売収入を確保するため、実行委員会としては入場者にプログラム購入を強制せざるを得なかった。誰でも自由に入場させたいとする学苑当局と、収入確保を目指す早稲田祭実行委員会との間に軋轢を生んだプログラム販売に絡むこの問題が解決するのは、漸く平成八年に至ってからである。
なお、四十年代以降になると、飲食の屋台のみを出すサークルが急増した。これは、前節で述べた小規模の「同好会」サークルその他が、活動資金を獲得する絶好の場として早稲田祭を捉えるようになったためである。
全国各地から学苑に入学した学生は、各自の出身高校を母体とする団体を作り、またはそれらを統合して市や県単位の団体を結成してきた。前頁の第五十七表(b)で学生稲門会と呼ばれた地方学生会がこれである。彼らは出身校や同郷の者と親睦を図る目的で、新入生歓迎会を開き、ピクニックを催し、卒業生歓送コンパを行った。また夏休みに帰郷すると、学苑の軽音楽サークルを呼んでチャリティ・コンサートを開催したり、知名人を招いて講演会を持つこともあった。しかし催しは個別かつ恣意的に行われることが多く、同一地方に同じような音楽会や講演会が重なったり、中央校友会や地方校友会との意思疎通を欠いたりして、しばしばトラブルが生じた。こうした事情から地方学生会を統合しようとの気運が昭和三十年代後半に生れてきた。幾つかの地方学生会の幹事が校友課や校友会と相談し、学生部の助力を得て他の団体に呼びかけ、昭和三十八年十月、連盟設立準備会を設けて規約原案作成や組織作りに取り組んだ。そして翌月二十八日に六十を超す団体が集まって設立総会を開き、ここに、「学生会相互の親睦連携を保ち各会の健全なる育成援助を図ると共に、早稲田大学の発展と地方文化の向上に貢献する」ことを目的とする全国早稲田大学学生会連盟が発足した。この連盟が「学生の会」として承認されたのは四十年十一月で、公認された大規模団体としては文化団体連合会と学生健康保険組合に次ぐものであった。初代会長には常任理事であった教授時子山常三郎が就任した。
同連盟の設立は地方学生会に大きな刺戟を与えずにはおかなかった。各団体はそれぞれの会の目的やあり方を再検討し、従来個別的に行われてきた地方学生会の活動はかなり整備された。例えば四十年の夏季休暇中には、全国早稲田大学学生会連盟の主催により、学苑音楽諸団体の演奏活動が北は新潟から南は熊本に至るまで各地で活発に繰り拡げられている。中でも、全国早稲田大学学生会連盟が企画し実施した最大のイヴェントは、四十年八月の欧州学生交歓見学団派遣である。厳しかった外貨事情が緩和され始めた矢先のことであり、学生が大挙して外国へ赴く例がなかったことを考えると、まさに壮挙と言える。総勢百二十人より成る一行は八月一日羽田空港を発ち、三十一日に帰着するまでの一ヵ月間、ヨーロッパ各地をバスで旅行し、訪問した大学の学生と交歓した。全国早稲田大学学生会連盟はこの見学団の成功を踏まえ、第二次、第三次の見学団をヨーロッパヘ送った。これが大きな刺戟となって、やがて「早稲田船上大学」の構想が生れてくるのである。
尤も、地方学生会は四十二年に八十八団体に達したのち急速に減少に転じ、五十年代後半には二十ないし三十を数えるに過ぎなくなった。もとより家族や生れ育った土地との絆は容易に断ち切れるものではないけれども、せめて在学中は自己の土地柄を表に出さず、友人とは同じ言葉遣い、服装、振舞でつき合いたいとの学生の新しい思考様式が、地方学生会の活動に積極的に関わるのを妨げるようになったことが、地方学生会の低迷の原因かもしれない。
早稲田大学には音楽を専攻する学部や学科は存在しないが、音楽を愛好する学生は多い。それはサークル活動にも反映されており、八一七頁および八一九―八二〇頁に見られる如く、長い伝統を誇る邦楽・洋楽団体に交って軽音楽サークルも幾つか顔をのぞかせている。これら音楽諸団体の中には、輝かしい実績を上げ、高度の音楽的素質や優れた技倆を持つ幾多の異才を生んだものもある。ここで特に音楽サークルを幾つか取り上げる所以は、彼らの育成が正課の大学教育と殆ど関係のないところで、学生自身やOBの手で行われてきたからである。
第四巻五八六―五八七頁に述べた如く、クラシックからポピュラー、管弦楽から合唱まで包摂されていた音楽協会は雑然とした集団であったが、この混沌性が多彩な音楽家を生み出す土壌となった。音楽協会を巣立ち、日本の軽音楽発展に多大の影響を与えた者には、例えば、渡辺晋(昭二二専法、渡辺プ・ダクション社長)、与田輝雄(昭二〇専商、シックス・レモンズ主宰者)、春口徹(昭二四専商、芸名有馬徹、有馬徹とノーチェ・クバーナ主宰者)、石黒寿和(昭二三専工、芸名チャーリー石黒、東京パンチョス主宰者)、寺田常三郎(昭二三政、芸名寺岡真三、リズム・スターズ主宰者、作曲家)、藤原政利(昭一八専工・昭二一理、芸名藤原秀行、作曲家)、桜井千里(政中退、芸名桜井センリ、ハナ肇とクレイジー・キャッツの一員)、中村二大(昭二一理、作曲家)と中村八大(文中退・昭四三推選、作曲家)兄弟らがいる。
しかし、それぞれの団員が増えて団体独自の演奏活動が可能になってくると、寄合所帯の音楽協会から独立しようとする動きが活発になった。先陣を切ったのは管弦楽団である。昭和二十年代前半には、華麗に活躍するサンバレー・スウィング・バンドを横目で見ながら、弦楽合奏を愉しむ程度のことしかできなかった管弦楽団が、団員の増加によって夢にまで見た交響曲演奏が可能になったのは、二十四年のことである。こうして往時の自信を取りもどした管弦楽団の次の目標は、音楽協会からの独立であり、交響楽団への改称であった。音楽協会からの独立は二十八年四月に実現した。会長にはOBの理工学部教授明石信道(昭三理)が就任し、ここに戦後の黄金時代を迎える態勢が整った。同年十二月十二日には第七十回定期演奏会(戦前昭和十二年十二月に第六十五回定期演奏会が行われて以後の記録に欠落があり、この戦後初の定期演奏会が第七十回として開かれたと、楽団の公式記録『早稲田大学交響楽団史』は記している)が大隈講堂で開かれた。その後定期演奏会は戦前最盛期と同じく年二回の開催が定着し、昭和三十年十二月、早稲田大学交響楽団と改称、翌三十一年五月にはOB約三百人が集まって稲門フィルハーモニー協会も結成された。
交響楽団は戦後暫くの間、磯部俶(昭一七文)や小船幸次郎らの指導を受けていたが、楽団生え抜きの指導者である山岡重信(昭二八・一理)の出現により、質的にも飛躍的な発展を遂げた。山岡は在学中ヴィオラ奏者として活躍し、やがて指揮者としてタクトを振った。卒業後、東京フィルハーモニーを振り出しにさまざまなオーケストラでヴィオラ奏者を務めつつ岩城宏之や斎藤秀雄に指揮法を学び、四十三年の第一回民音指揮者コンクールで第二位に入賞、これが認められて読売日本交響楽団のタクトを振り、四十七年より東京交響楽団に移籍した。山岡はプロの途を歩む傍ら、早稲田大学交響楽団の育成にも努めた。彼以外にも楽団は多数の逸材を生んだ。NHK交響楽団ヴァイオリン奏者福田信一(二政中退)、同インスペクター兼コントラバス奏者田中雅彦(昭三四・一商)、東京交響楽団コントラバス奏者原田博(昭四四・一文)、同首席オーボエ奏者柴山洋(昭四三・一理)、オーボエ奏者呉平煥(呉山平煥、一文中退)、作曲家宇野誠一郎(昭二六・一文)、同鈴木匡(昭三四・一政)、同肥後一郎(昭三七・一政)、音楽評論家長谷川武久(昭三六・二法)らである。
こうして技倆を磨いてきた交響楽団が本場ドイツで成果を問う絶好のチャンスが五十三年に訪れた。著名指揮者へルベルト・フォン・カラヤン主催の第五回国際青少年オーケストラ大会に出場の招待状が届いたのである。百五十人より成る楽団は九月二日に初の海外公演に出発、大会で見事な腕前を披露して優勝しただけでなく、幾つかの都市で演奏活動を行って二十八日に帰国した。翌年十月、学苑がカラヤンに名誉博士号を贈呈した際には、大隈講堂において彼の指揮で演奏するという栄誉にも浴した。学苑創立百周年を迎えた五十七年には三度目の海外公演を行い、ベルリンの『モルゲンポスト』紙は、「この若い音楽家たちが音楽大学の学生ではないなどという事はとても信じられない。彼らはあらゆる分野の学部在籍者で、音楽は趣味であると言う。……このオーケストラはいつでも最良の演奏条件を満たし、才能豊かな指揮者に恵まれているに違いない。そうでなければ絶えず楽団員の入れ替わるオーケストラがこのような高いレベルを保持できることの説明がつかない。一九七八年のコンクールの際にも彼らは『春の祭典』を演奏したが、当時の団員は全く別の人々であった。そして今回も彼らはこの難曲を、二十四歳の有能な指揮者大友直人〔桐朋学園大学卒、NHK交響楽団指揮研究員。のち日本フィルハーモニー交響楽団指揮者〕のもとで見事にやってのけたのである」と絶賛した(『早稲田学報』昭和五十七年六月発行 第九二二号 三四―三五頁)。
グリー・クラブは慶応義塾大学のワグネル・ソサイエティと並んで、我が国の学生音楽界を代表する男性クラシック合唱団である。その源流は戦前の音楽会の中の声楽部(第三巻七七六頁参照)に求められる。声楽部は戦後、音楽協会合唱団として再出発した。団員は大隈庭園や甘泉園で発声や合唱の練習をしたり、コンクールが近づくと大隈講堂横の土蔵で夜遅くまで練習を重ねた。昭和二十一年秋の関東合唱コンクールに優勝、翌二十二年には磯部俶を常任指揮者に迎え、部員も徐々に増加して百二十人ほどになった。二十四年秋に大阪で行われた第二回全日本合唱コンクール学生の部で優勝したが、以後コンクールには参加せず独自の公演開催を申し合せた。ところが程なくして意見が分かれ、多数団員が脱退して新たにコール・フリューゲルを結成したので、合唱団の団員は三十人足らずに激減してしまった。そこで音楽協会グリー・クラブと改称し、新規まき直しを図ったのである(八一七頁の「合唱団」はその後誕生した全く別の団体である)。その後団員は増加の一途を辿り、二十八年四月には音楽協会を脱会して独立し、部長に教育学部助教授五十嵐新次郎を迎えて早稲田大学グリー・クラブとなり、六月二十三日には東京女子大学合唱団、東京家政学院合唱団、早稲田大学女声合唱団の賛助出演を得て、大隈講堂で第一回定期演奏会を開くまでになった。グリー・クラブ単独の定期演奏会を開催したのは、三十一年十二月、産経ホールで開いた第四回定期演奏会からで、曲目にはミサ曲やロシア民謡や童謡「夕やけこやけ」などが選ばれており、レパートリーの広さを窺わせる。
団員が二百五十人を超えた三十二年の六月、共立講堂でカリフォルニア大学グリー・クラブとジョイント・コンサートを開いたのを皮切りに、外国大学の音楽団体とも交流を深めた。三十三年春には大隈講堂でコロラド大学合唱団と、秋にはハワイ大学合唱団と、三十六年七月には芝のアメリカ文化センターにおいてハーヴァード大学グリー・クラブと、四十年七月には日本武道館でエール大学グリー・クラブと、合同演奏会を開いている。
音楽界で活躍しているグリー・クラブ出身者の筆頭は、バス歌手岡村喬生(昭二九・一政)であろう。彼は卒業後イタリアやオーストリアに留学、昭和三十五年にはヴィオッティ国際音楽コンクールで金賞、続いてトゥールーズ国際コンクールで第一位を得たのち、バルセロナ歌劇場、リンツ歌劇場、キール歌劇場の専属歌手を務め、四十六年からはケルン歌劇場の第一バス歌手を務めた。岡村に続いたバリトン歌手山本健二(昭三一・一法)も活動範囲が広い。ポピュラー音楽界で人気を博したのはボニー・ジャックスである。三十二年の夏季休暇中に全国二十二都市の演奏旅行を敢行するため結成したカルテットが、ボニー・ジャックス成立の母胎となった。その四人とは西脇久夫(二商)、鹿島武臣(一政)、玉田元康(一文)、大町正人(二法中退)で、全員三十三年に学窓を出てプロ生活に入った。このグループはまさに学生サークル活動の中から生れたと言える。
昭和三十年代に音楽諸団体が相提携した催し物に、フロイデ・ハルモニーがある。
学苑創立七十五周年に当る三十二年の夏、クラシック音楽を主とする交響楽団、グリー・クラブ、女声合唱団、合唱団、コール・フリューゲル、混声合唱団の六団体が「学生の手によるベートーヴェン作第九交響曲の完全演奏」を目指して第九協議会を結成した。大学当局もこれに積極的に協力し、演奏会は記念行事の一環として十月二十七日、落成したばかりの記念会堂で開催された。小船幸次郎が指揮棒を振り、独唱はソプラノ毛利純子、アルト戸田敏子、テナー笹谷栄一朗、バリトン大橋国一で、玉川学園合唱団が賛助出演した。一万余の聴衆が会堂内に溢れ、一時間半に及ぶ演奏会は大成功のうちに幕を閉じた。この大演奏会は学生音楽界初めての試みであり、画期的なものであった。この大成功に力を得た彼らは、第九交響曲演奏会を早稲田の年中行事として定着させるべく、翌三十三年六月、第九交響曲の合唱にあるフロイデに因んで協議会を早稲田大学フロイデ・ハルモニーと改称、十一月二十七日、大隈講堂で第二回演奏会を開催した。この演奏会も大盛況で、フロイデ・ハルモニーは学内外から注目されるようになった。
学苑創立八十周年記念行事の一つとして三十七年十一月十日に行われた第五回フロイデ・ハルモニー演奏会には、特筆すべきことが二つあった。その一つは、初めて早稲田の地を離れ、新設間もない上野の東京文化会館の大ホールが会場に選ばれたことである。二つには、ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝して以来新鋭の世界的指揮者として頭角を現した小沢征爾が指揮者に選ばれたことである。この二点はフロイデ・ハルモニーの成長と躍進を如実に物語っている。今回から室内合唱団も参加した各音楽団体は、小沢の厳しい訓練を受けたのち演奏会に臨んだ。小沢が指揮を取るという前評判も手伝って、文化会館は大聴衆で埋まった。ステージ一杯に交響楽団を囲んだ六百人余の大合唱隊(共立女子大学合唱団の賛助出演を含む)の合唱は、中沢桂、中村浩子、石井昭彦、中山悌一の独唱とともに、小沢のタクトに乗って声を合せ、大聴衆を魅了した。閉幕後、小沢は「音楽を専門としない普通の大学で第九交響曲をこんなに見事に演奏できる大学は、世界でも早稲田をおいて他にない」(直話)と激賞した。
三十九年十一月十五日に東京文化会館で行われた第七回フロイデ・ハルモニーは、小沢と並んで世界に評価を高めていた岩城宏之を指揮者に選び、ただでさえ力強いベートーヴェンの第九交響曲は岩城のダイナミックな指揮で更に力感を増し、超満員の聴衆に深い感動を与えた。演奏後、岩城の指揮で校歌「都の西北」の大演奏が行われた。聴衆の一人は、あのように雄壮で豪快な、海鳴りのような校歌は聞いたことがないと語っている。
このフロイデ・ハルモニーはやがて隔年開催に変更され、平成七年十月二十二日、記念会堂での演奏会を以て三十八年の歴史の幕を降ろしたが、音楽サークルの総力を結集した一大祭典であった。稽古の時に小沢征爾は「早稲田大学の学生達が独力でベートーヴェンの第九交響曲の演奏会を持つことは、世界的な出来事だ」と激賞していたが、まさにフロイデ・ハルモニーは学苑生の質の高い素養を内外に示したものと言えよう。その頃の学苑は激しい学生運動に明け暮れた感があるが、その反面、質の高い文化的営みもなされていたのである。
昭和三十年代半ばから四十年代にかけて、既存のサークルに飽き足らずユニークな活動を展開した新種のサークルが幾つか誕生した。それらの中から、早稲田精神昻揚会と、思惟の森の会と、早稲田キャンパス新聞会を取り上げ、その足跡をたどってみよう。蓋し、この三つは学苑生の変質――アノミーとアパシーとの蔓延、早稲田らしさの喪失――を背景に誕生したのであり、その意味で、混迷する学苑生の意識の一斑を浮彫りにすることになるからである。
早稲田精神昻揚会(発足の翌年から四十三年まで早稲田精神研究会と称した)は、昭和三十四年四月、日米安全保障条約改正を翌年に控えて物情騒然とした雰囲気の中から、建学の精神の風化を憂える二十五人の有志が集まって、「批判独立の精神、知行合一の精神、東西文化の調和、早稲田調和の精神」などを会旨に掲げ、これを広く訴えるのを目的として誕生した(『早稲田大学新聞』昭和三十四年六月二日号)。しかし会員の中には羽織・袴を着し、高下駄を履いて構内を闊歩したり、高歌放吟して奇矯な振舞をする者が少くなかった。これは同会の宣伝には役立ったが、反面、多くの誤解を招きかねなかった。会員の言う早稲田精神とは特定の立場ではなく、大隈重信や小野梓の思想を学び、各自の胸に描く早稲田のあり方を強調し、それを行動に現すのを最重要課題としたのである。この特異な姿勢から、船上大学や思惟の森の会など、同会を母体にユニークなサークルが誕生している。
早稲田精神昻揚会が敢行した壮挙に、昭和三十八年、サンフランシスコからニューヨークまで延々五千キロメートル余に及ぶアメリカ大陸徒歩横断がある。北海道稚内―九州鹿児島間を一往復するほどの道程に匹敵する距離を、自動車を一切使わず、約八ヵ月かけててくてく歩こうというのである。隊長は田島昇(一商)、隊員は高橋捷之(一商)、八木孝(一理)、大西七郎(二法)、志田三男(二法)。この計画には二つの困難が伴った。一つは渡航許可の問題である。当時は渡航審査会が海外旅行者に厳重な検査を行っており、教員が引率しない学生だけの旅行団の渡航許可に難色を示したのである。そのため会員はあらゆる縁故をたどって紹介状を手に入れ、また二百通に及ぶ嘆願書を認めて、何度も役所通いをしなければならなかった。もう一つは壮途実現に要する莫大な資金の調達である。そのため二年間、会を挙げて資金作りに奔走し、漸く三百六十万円を蓄えることができたのである。
一行は三月十八日、未だに肌寒さを感じるサンフランシスコを後に歩きだし、四月上旬、吹雪に遭いつつシエラ・ネヴァダ山脈を越えた。次いで、大荒野グレイト・ソルト・レイク砂漠に入り、三日間歩き続けても一度も曲がらない一直線の道路に出会って、アメリカ大陸の広大さに驚嘆する。彼らはテントを張って野宿し、この砂漠を二週間もかかって踏破した。五月中旬、春を迎えて草木が芽を吹き小鳥がさえずるロッキー山脈に到達し、その美しさを満喫、山脈を越えた六月七日、山麓の町デンヴァーに着いた。やがて一行はプレーリー地帯に足を踏み入れた。連日四十度を越す猛暑に加えて南風がアスファルトの火照った熱気を運ぶ。この難所も歩き続け、シンシナティ、パーカースバーグ、ワシントンを経て終着地ニューヨークに到着したのは、秋も深まった十一月十三日であった。二本の足のみを頼りの大陸横断という壮挙はアメリカ人の好奇心を呼び起し、彼らは各地で大歓迎された。事前の連絡と手配がよかったこともあって、山地や砂漠を除き一般家庭に分宿できた。市長や商工会議所などが主催する日米親善の集いに招かれると、柔道や空手の型を披露したり、外務省より持参の日本紹介フィルム「現代の日本」を上映したりした。また三十七箇所の大学を訪問し、学生との交歓会では国境を越えた若さの親愛感で語り合った。
アメリカ大陸を歩いて渡って見よう。あらゆる場所に行き、あらゆる階層の人々と接して見るのだ。アメリカの学生や農民、市民にひとりでも多く会おう。あらゆる機会をとらえて学べるだけ学んで来るのだ。それにまた、まだまだアメリカでは、日本が誤り伝えられているという。できるだけの努力をして、われわれ早大生が、日本青年として、その誤った日本観を訂正して来よう。自動車などで行くのでなく、われわれの足で、各地の実情を確かめて歩くことが一番よいと思った。たとえ、到着した町が人口二百人くらいの小さな農村であっても、何らかの収穫はあるにちがいない。
(志田三男「アメリカ大陸横断記」『早稲田学報』昭和三十九年四月発行 第七四〇号 三三頁)
彼らのこのような意気込みは遂に実現したのである。なお、彼らはこの壮挙を『クレージー一〇本足――アメリカ大陸六〇〇〇キロ徒歩横断の記録――』にまとめ、三十九年講談社より刊行した。
ところで、アメリカ大陸横断隊は、十月十七日、ワシントンでロバート・ケネディ司法長官と会見している。前年のケネディ来校については七〇七―七〇九頁に既述したが、隊員が長官室を訪ねると、長官は待ちわびていた旧友に会うかのように彼らを招じ入れ、健闘を讃えるとともに労苦をねぎらった。そのとき一行は長官室の卓上に、早稲田訪問の際に贈られた、大隈講堂を模した「都の西北」のオルゴールが置いてあるのに気づいた。彼らは長官に誘われて、長官とともにオルゴールに合せて「都の西北」を歌った。長官は隊員の一人一人に兄ジョン・F・ケネディの大統領当選の記念品PTボート(快速魚雷艇)のネクタイ・ピンを付けてくれた。これは、大統領が南太平洋をPTボートで作戦中に日本軍艦の攻撃を受け、九死に一生を得たという逸話に因むものである。記念撮影後、早稲田祭宛のメッセージを所望したところ長官は快く引き受け、持参のテープ・レコーダーに左のメッセージを吹き込んだ。
日本の学生が政治問題に深い関心を持ち、それに積極的にとりくんでいる態度は高く評価される。政治がますます複雑多岐にわたり、国民の実生活に大きく影響する現在にあっては、政治の欠陥を敏感に感じ取り、それをきびしく批判することがますます必要になっている。しかしここで考えてみなければならない点は、批判し、また自己の意見を表明するのには、おのずから従うべき民主主義的ルールというものが存在することだ。次代をになう使命感に燃えている日本の学生に、深い敬意を表わすとともに、今後ますます、日本における自由と民主主義の発展のために、世界平和のために、努力していただきたい。
(『クレージー一〇本足』 一五九頁)
長官の脳裏には大隈講堂でのハプニングが去来したであろうが、外国の高官が日本の大学の学園祭にメッセージを寄せるとは、異例中の異例であろう。テープは直ちに日本へ空輸され、十一月開催の早稲田祭で公開披露された。
長官は一行と別れるとき、「兄に会えるよう計ってあげよう。ニューヨークで吉報を待っていなさい」と言った。しかしニューヨーク滞在中に接したのは、その吉報ではなく、十一月二十二日ダラスでの大統領暗殺という衝撃的なニュースであった。彼らはワシントンに飛び、群衆に交って大統領の棺を見送りその霊を弔った。
一方、ケネディ大統領の悲劇的な最期を悼んで、早稲田キャンパス新聞会、アメリカ文化研究会、国際問題研究会は十二月十二日、大隈講堂にライシャワー駐日大使らを招いて追悼講演会を共催した。この講演会の模様はライシャワーを通じてロバート・ケネディ長官に伝えられ、長官をいたく感激させた。アジア諸国歴訪中のケネディ長官が翌三十九年一月十八日学苑を再訪することになったのは、この答礼のためであった。今回も大隈講堂は超満員であったが、案じられた妨害もなく、学生達は静かに長官の講演に聴き入った。終了後、長官は講堂前に姿を現し、講堂に入り切れなかった大群衆に挨拶を行った。このときも期せずして校歌の大合唱が起り、長官夫妻も手を振ってこれに和した。長官はこのときのことがよほど嬉しかったらしく、帰国後学苑に懇切な礼状を寄せている。
ところが、これから四年後の昭和四十三年六月五日未明、ロバート・ケネディはロサンゼルスで凶弾に倒れた。故大統領の遺志を果すべく大統領選挙に打って出て、予備選挙の演説中の出来事であった。深い悲しみに沈んだ早稲田精神昻揚会は六月十九日、大隈講堂にロバート・ケネディ追悼講演会を開き、彼と親交のあった運輸大臣中曽根康弘、NHKニュース解説者平沢和重、アメリカ大陸横断隊隊員志田三男が思い出を語り、その死を悼んだ。
早稲田精神昻揚会の名前と結びつく有名な学内行事に、本庄―早稲田間百キロ・ハイクがある。この行事は、学苑が埼玉県本庄市に広大な土地を入手したのが発端であった。早稲田精神昻揚会会長中島正信は学苑の本庄進出推進者であり、昻揚会は中島を支援する意味を含めて本庄―早稲田間の百キロ・ハイクを計画し、自動車部と早稲田キャンパス新聞会に協力を求めた。昻揚会は百キロ・ハイク全般の指揮・運営に当り、キャンパス新聞会は広報・宣伝を担当し、自動車部は中途棄権者を拾って連れ帰るという役割を分担した。昻揚会は早速持ち前の行動力を発揮して、百キロ・ハイクを行う中山道沿いの市町村役場や学校や警察署や病院と連絡をとり、不測の事態に備えた。第一回百キロ・ハイクは昭和三十七年十一月十七日と十八日の二日間に亘って行われた。参加者は約百五十人。彼らは本庄市を午前十時に出発、一路東京に向って歩き続けた。熊谷、鴻巣、上尾を経て、夜中の十二時頃大宮に着く。ここで仮眠をとったのち、浦和、蕨を経て戸田橋を渡って都内に入り、池袋を通って午後二時頃先頭が大隈講堂前に到着した。完歩者は約半分。五十六年から開催時期が秋から春に変更されたが、この催しは今日も続けられている。
思惟の森の会の発端は商学部講師(四十二年助教授)小田泰市の人と学問に由来する。人文地理学専攻の小田は、ゼミナールに出席していた一学生から、その郷里の岩手県下閉伊郡田野畑村の実情を知らされた。彼の家は広大な山林を持っているが、植林や下草取りに人手がなく、山林は荒れるに任されているというのである。そこで小田は三十五年の暮にゼミナールの学生十三人を連れて彼の家に合宿し、国立公園三陸海岸に臨む田野畑村一帯のフィールドワークを兼ねて下草刈りの手伝いをすることになった。ところが田野畑村は火災に見舞われて大被害を受けたので、小田をはじめ学生達は、村の復興に協力するため春休みや夏休みを返上して毎年田野畑村に赴き、村民の仕事を手伝った。一方、学苑では四十一年早々「学費・学館紛争」が生じ、大学は閉鎖され、授業は停止し、混乱が続くという深刻な危機に見舞われたが、反面、従前の大学教育について反省を促す契機ともなった。「激動する世紀の中で、進取の精神をもって生きんとすれば、つねに学ばなくてはならない。わが国の国民教育の中で、もし見のがされたものがあるとするなら、それは教室で学ぶ教育に対して、野外で学ぶ自然教育の欠如である……。自然教育の核心として青年の樹を植えて、育て、森をつくり、静寂の森に教えられるのでなく、教えるのでもない、自分を見つめて英知と愛と真実を悟り、野に生きる早稲田ここに在りと、国民的風土の象徴にしよう」(『早稲田学報』昭和四十二年九月発行 第七七四号 四〇頁)と思い至った小田は、田野畑村での活動を教育の観点から捉え直し、田野畑村に労働力を提供するという奉仕の考え方から更に進み、植林を通じて人間の育成を図るという構想に行き着いた。この構想は、水と緑と太陽の乏しい学苑の中で味気ない思いをさせられていた一部の学生達の心を激しく揺さぶった。
他方、農村では、経済の高度成長が進むにつれて農民の離村が始まり、過疎化が急ピッチで進んだ。田野畑村も例外でなかった。村長早野仙平はかねてから教育立村を唱えていたが、しばしば村を訪ねてくる小田の見識と人柄を尊敬しており、植林構想を知って共鳴し、四十一年十二月村会議に諮って土地約十五町歩(十四ヘクタール余)の無償貸与(四十五年に十町歩を追加貸与)を決定した。中島正信の後を継いで早稲田精神昻揚会の会長でもあった小田は同会会員に、学生村建設のための協力を熱心に訴えた。しかし田野畑村は東京から遠く、現地に行くにも時間と運賃がかかり、昻揚会の年間スケジュールのみでも手一杯の上に学生村の建設とあっては学業にも支障を来す。昻揚会ではこの問題をめぐって紛糾した。かねてより小田の構想に共鳴していた幹事長らは積極的に学生村建設の意義を説き回り、反対もしくは消極的であった会員を説得、翌四十二年四月、昻揚会として全面的に取り組むことを決議した。更に彼らは学生村建設を目標とする独自のサークルを創る必要を覚え、これを「思惟の森の会」と命名した。そしてチラシを配って新会員を募集し、第一回合宿は同年夏季休業中の七月二十日から八月十五日にかけて実施された。会員は田野畑村の小学校を借りて寝起きし、村から提供された山に入り、繁茂した下草取りを行った。こうして思惟の森の会は誕生したが、会員五十人の大部分は昻揚会のメンバーであった。
このとき採った学苑当局の対応にも注目すべきものがある。身を挺して大紛争の収拾を図った総長阿部賢一は、荒廃した学苑の再建に心を痛めていた。たまたま田野畑村における思惟の森運動の話を聞いて深く感動し、「大自然を相手にして考え、さらに考え直して共に学ぶ。頭だけでなしに全身に汗し、体験を通して人生と社会、いかにあるべきかを考えながら前進する」(阿部賢一「緑の創造」『思惟の森』二一頁)ことこそ、早稲田における教育の原点となり得ると確信し、四十三年三月二十一日の理事会に寮建設費七百万円のうち三百万円の支出を発議した。そして五月三日には思惟の森植樹祭と青鹿寮地鎮祭が行われ、その祝典には阿部総長はじめ岩手県知事千田正(大一四大商)や駐日カナダ大使O・H・モランが参加して祝辞を述べた。千田は思惟の森運動に共鳴し、その運動の拠点となる学生寮が岩手県に建設されることを深く喜び、当初から協力を惜しまなかったし、またモランも思惟の森運動に感動していたのである。思惟の森の会の拠点青鹿寮は、四十六年五月九日、太平洋を見渡す海岸段丘の上に落成した。この寮名は、村の深い森の岩場に端麗な姿を見せるニホンカモシカに因む。かくして思惟の森は小田と精神昻揚会とが推進力となり、田野畑村と岩手県と早稲田大学の協力・援助によって成立したのである。
「安保闘争」後の混乱した激動の時代に、新聞『早稲田キャンパス』が誕生した。当時、『早稲田大学新聞』を刊行していた新聞会は全学連の分裂と主導権争いに巻き込まれ、学内の動静や学生生活の情報量が激減したので、何人かの有志が新しい新聞作りを話し合った。その一人浅井和枝(干刈あがた、一政中退)はこう回顧している。
早稲田にはサークル活動の新聞会が幾つかありましたが、伝統のある『早稲田大学新聞』には政治用語が並んでいて、その他の創刊されては消えていく、いわゆる三号新聞とよばれるものも、どれも私の作りたいものとは違っていました。幅広い学生生活のいろいろ、専門科目を通して考えること、下宿生活、アルバイトを通して見た社会、留学生の日本観、就職問題、などを若い人間の言葉で書きたかったのです。それで仲間を集めて『早稲田キャンパス』という新聞を創刊しました。
(『読売新聞』昭和六十二年一月二十六日号夕刊)
しかし発刊までには幾多の難関が待ち構えていた。先ず新聞発行の資金がない。編集する部屋がない。仲間には高校新聞編集の経験者が若干いたものの、大部分はずぶの素人で取材の要領が分らない。こうした中で漸く発刊に漕ぎ着け、昭和三十七年六月二十五日、『早稲田キャンパス』第一号は出現したのである。
大学新聞の発行資金は概ね広告収入で賄われている。『早稲田大学新聞』のように長い歴史を持ち知名度の高い新聞は広告の提供先を確保しているが、誕生して間もない新聞は広告取りに難儀する。だから創刊当時の『早稲田キャンパス」の広告欄を見ると、他の大学新聞が掲げるような学術出版物の広告など皆無に近く、洋服店や眼鏡店や蕎麦屋やレストランや自動車教習所などの広告が多い。また、息の長い学生新聞の多くは、大学の補助金に依存して発行されているか、全学連系のものかである。しかし、大学当局がスポンサーになっている新聞は大学への批判に欠けて御用新聞の性格を持ち、全学連系では大学批判はあるが党派性を免れない。こうした事情により、学生一般の立場から大学行政に対し批判もすれば、学生の利益をも擁護する学生新聞の発行を要求する声は常に存在する。ところがこの種の新聞は、財政難のために長く存続した例が少い。この中で『早稲田キャンパス』が、昭和五十五年七月一日発行の第二百四十号を以て幕を閉じるまで二十年近くも継続したことは、異例であると言ってよい。
この新聞は学園紙の出現を待っていた学生達の間で歓迎され、少からぬ反響を呼んだ。彼らはこれに力を得て、月一回(四十年度より月二回)、四頁、一部十円、発行部数五千部、出版費三万五千円から四万円で発行を続けた。そして二年後の三十九年三月一日、基本編集方針とも言うべき「早稲田キャンパス新聞会綱領」を決定した。
綱領
早稲田大学に学ぶわれわれは、学園における一人一人の自由を尊重し、ゆたかな学園を築くことが、本紙に課せられた使命であると信ずる。この信念に基き、われわれはお互いの自由を認め合い、特定の主義主張に偏しない広いものの見方をとり、その上で、諸君に判断の基礎を提供するため、できるかぎり客観的に事実を報道するよう努力する。そして、このような新聞の公共性に伴う責任と誇りを自覚し、気品ある新聞作りに努める。 (『早稲田キャンパス』昭和三十九年四月四日号)
当時は政治的中立が一つの党派と看做される思想情勢であったから、確実な取材と公正な報道、そして厳正な論議を心がけて紙面作りに励んだ彼らは、少からぬ中傷や非難を浴びた。しかし彼らは綱領を守りつつ、新聞の発行を続けたのである。この頃の『早稲田キャンパス』を広げて見ると、学苑の学生自治会や文化団体連合会や生活協同組合などの動きを客観的に伝えている。また大学当局と学生側との間に発生した諸問題を、一方に偏ることなく、両者の主張を公平に報道している。他方、文化欄には各サークルの紹介や研究成果の発表、学内教員の随想や論文などが掲載されている。更に、折から学内で問題になった学生会館問題や社会科学部新設や大学設置基準改定問題を特集に組み、学生運動の解説・分析なども行っている。
しかしこの新聞で際立っているのは、報道と論説とを整然と区分し、報道では学苑内外の出来事を党派性や偏見を排して客観的に伝え、論説では、大学行政や自治会活動や学生問題などについて考察・批判を加え、はっきりと彼らの意見を述べたことである。四十年六月一日発行の『早稲田キャンパス』を例に取ると、第一面トップで学生大会とストライキのことが報道されている。内容は、第一文学部自治会執行部が日韓会議正式調印阻止やアメリカのヴェトナム侵略反対をテーマに学生大会を開いたものの、定数に達しなかったので学生集会に変更したのであったが、それにも拘らず、スト権が確立したとしてストライキを強行したというものである。一方論説では、これについて論評し、自治会のこの行動は自治会規約に反し、民主主義に逆行するものだとして執行部に反省を促している。急速に政治運動が盛り上がったこの時期に、このような論説を堂々と掲げるのには、勇気と信念が必要であったろう。
最も困惑と苦悩に満ちた情況が窺われるのは、四十一年の「学費・学館紛争」時とその後であった。彼ら自身学生であるから、学生の利益を擁護しようとすれば学費値上げに反対せざるを得ない。といって、エスカレートする共闘会議の闘争方針についていくこともできない。紛争後は、全学連各派の対立はますます激化した。こうなると、新聞でその経過を正確に伝えようとすれば各派の利害に関係し、各派を刺戟せざるを得なくなる。この頃の紙面には焦りと絶望が色濃く反映している。そして遂には、政治や自治会活動の問題から逃避しようとする傾向さえ窺える。やがてこの新聞からは生々しい学苑内外の記事が消えて高踏的な文芸新聞に変質し、本来の使命を終えたのである。