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第十一編 近づく創立百周年

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第十四章 大学スポーツと体育各部

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一 大学のスポーツ

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 体育を正課として位置づけたことが、新制大学の特徴の一つとして挙げられる。これは、昭和二十一年三月に来日したアメリカ教育使節団の基本的な考え方、「健康が多大な個人的・社会的徳の出発点」を具体化したものであった。つまり、健全な精神は健全な肉体に宿るというわけであった。

 健康や体力は、常日頃から気をつけていなければ維持できない。アメリカ教育使節団の提言は、第二次世界大戦前の大学生の不健康な生活の改善を意識したものとして受け取られた。しかし、昭和三十年代、大学の大衆化への歩みが進み、大学入試が難関化して過当な受験戦争が展開することになると、大学の体育、スポーツは新たな意義を持つことになった。すなわち、育ち盛りの十代後半に受ける知的偏重教育が精神と肉体を脅かすためか、大学に入学してから神経性の異常、高血圧、肝臓病、心臓病などによって学業から離れざるを得ない者が多く出てきたのである。このような状況に対し、健康維持のための健康管理があらためて重視され、その観点から大学における体育、スポーツの意義が再認識されるに至ったのである。

 ところで、学校教育の中で体育が重視されるのは、スポーツ技能の習得を中心として健康や安全に留意する習慣や態度を育て、ルールや練習方法についての知識や理解を身につけるとともに、スポーツ実践を通して社会への適応方法を獲得できるからである。そして、大学においては、体育はどこまでも学生の自主自発活動に俟たなければならないとされた。自主自発活動によって初めて所期の目的が達せられるというわけである。この考え方は、大学の体育指導の原点に置かれるべきもので、この観点から学内の体育、スポーツ指導が行われなければならなかった。

 ところで、大学における体育、スポーツは、正課としての体育と、課外体育としての運動部、同好会の活動とに大別できる。大学の「指導」が行われるとはいうものの、運動部にしろ同好会にしろ本来的にはスポーツを自ら楽しむものとして出発している。しかし、部活動は競技性を強める点において同好会とは異っている。「勝利の美酒に酔いしれる」とは、言い古された言葉だが、長い間の努力が達成された感慨をうまく表現したものである。スポーツ競技における「勝利の美酒」も格別なものがあろう。その満足感に浸る時、スポーツをやる楽しさを実感するのである。しかし、往々にして、歴史ある運動部の伝統とか、名誉とかを強く意識するようになり、そこから部活動は勝利至上主義に陥る傾向がある。運動部は練習の特性から、特にOBが関与し易い性格を持っている。そのため、右の意識と相俟って、練習が他律的に強制されることにもなりかねないのである。そうなると、スポーツの楽しさはなくなる。果ては、運動部が少数のエリート集団化していくことにもなる。そして、本来果されなければならない、学業とスポーツの両立への努力は顧みられることもなくなってしまうのである。

 この点、同好会は異る。まさに、同好の士の集まりであり、自主的な活動によりスポーツを楽しむのである。特に創設時には、伝統の重みとか、規律の束縛もなく、また先輩やOBのプレッシャーもなく、人間関係の緊張感がない。昭和四十年代になると、各大学で運動系の同好会、サークルが続々と誕生したのは、一つには既存の運動部に比してこのような気楽さがあったからであろう。尤も、同好会とはいえ、活動を積み重ねるうちに、その歴史が知らず知らずのうちに「不自由さ」を創り出していくこともある。

 好対照を成すかのような運動部と同好会であるが、運動部の活動が同好会活動と異る最大の特徴の一つは、PR効果である。運動部は、大体種目別に大学競技連盟を形成し、さまざまな競技会を行っている。東京六大学野球や箱根往復駅伝などは、そのうちの最も有名なものであろう。これら種々の競技会は、テレビやラジオ、新聞で時として大きく扱われ、結果として大学の名前を全国に拡めることになる。競技会で優勝でもすれば、大学の名誉を高めることにもなり、更にその宣伝効果は絶大である。箱根往復駅伝で選手の力走に感激し、「箱根で走るために早稲田に入った」とか、「早慶戦の雰囲気に浸りたくて早稲田を選んだ」とかと言う学生が少からずいるのも、こういったPR効果であろう。これは、何も早稲田大学に限ったことではない。運動部は大学の宣伝塔としての役割を担うことにもなっているのである。尤も、この点が強調されると、母校の名誉のためという名の下に、運動部員は講義にも出ず、試験を受けなくとも許されるという一種特権的な意識が形成され、それがまかり通ることにもなっていく。また、その宣伝効果を逆用し、大学経営の一手段として優秀な選手を集め、学業そっちのけでスポーツに専念させる大学もある。これらは、学生の本分、大学におけるスポーツの本来的なあり方とは相容れないものであろう。

二 学苑のスポーツ

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 学苑における正課体育および体育各部の活動は、昭和二十七年に設置された体育局が一括して管掌している。この体育局設置を求めた体育制度委員会委員長大浜信泉の総長島田孝一宛の建議書は、体育管理機構改組の基本方針として正課体育と体育各部の体育を併せ管理する中央機構の設置の必要性を説いた後、次のように述べている。

オー・ビーの各部に対する支援と影響力は、物心両面において看過することのできないものがあるから、オー・ビーとの関係については、適用上十分注意する必要がある。もっとも、各部の行う体育も大学教育の一環としてこれを育成助長するものであるから、学生スポーツとしての純粋性を害することのないよう、外部勢力による不当の支配又は干渉は、これを排しなければならない。

OBの物心両面に亘る支援ならびに影響力が大きいことを語っており、時として教育上懸念される面もあることを示唆している。

 日本体育会の調査報告によれば、昭和三十年前後の大学の運動部とOBとの関係は、(一)運動部の部長、監督、コーチ、主将、マネージャー等の役員はOBの意見を反映させて決めている、(二)監督、コーチはOB団の任命によりOBがなる、(三)対外試合の代表選手の決定に、監督、コーチ、OBの関与する部が八〇パーセントを占める、(四)OBは運動部の技術指導に当る外、寄附などを通じて経済的にも援助している(加藤橘夫「大学スポーツの諸問題」『大学基準協会創立十年記念論文集新制大学の諸問題』四〇三―四〇四頁)という状態で、多くの大学で、OBが運動部の活動に強い「支配力」を持っていたことが分る。この状態は四十年代中期においても変らず、OBが実質的に運動部の運営上の「権力」を握っていたので、大学が部活動を大学の指揮下に収める方向に持っていくことは困難であった。このような事態は、五十年代になっても変らなかった。

 これは一般的な状況であり、学苑体育各部がこのような状態にあることを必ずしも意味しないが、運動部共通の傾向として理解すべきかもしれない。五十年代初頭には、学苑体育各部のあり方に関連して、OBは文句や小言だけを言うのではなく、現役に対して物質的援助、精神的援助、とりわけ実質的なコーチングや適切なアドヴァイスを行うべきであるとOB自身が指摘しており、OBと体育各部との新たな関係構築が探られた。

 学苑の体育各部の抱える問題点としては、競技会日程が学生の本分である学業に影響を与えかねなくなっている点が挙げられる。休日中心の試合も雨天で順延されると授業に支障を来すし、優秀選手ともなれば海外へ出かけなければならない。要するに、第三者の競技会運営計画に振り回される危険性があるということである。学業との両立を常日頃から意識していないと、流されてしまうことになる。この問題は学苑に限らず、大学スポーツの抱える共通した問題でもある。

 四十年代に入ると、学苑ではスポーツ同好会が爆発的に増加し、四十一年には五十三団体、会員四千七百人にも達している。「見るスポーツ」から「自ら行うスポーツ」へと変化してきたのである。その結果、学生の欲求に応えるだけの体育施設がないことがあらためて問題視されるようになった。学生が運動したい時にすぐ運動できる場が用意されていることが望ましい、既存の体育施設が一部専門的選手に独占されている現状を改め、運動したいと望む一般学生に開放すべきであるなどの意見が出された。しかし、ただでさえ正課体育と体育各部の活動とが競合し、利用限度一杯にまで達している体育施設を以て、一般学生の要求に応えるのは殆ど不可能に近かった。五十年代に入っても、体育施設の状況は変らず、一般学生の要求は満たされず、スポーツ施設の増設が望まれるようになった。同時に、増大したスポーツ同好会の技術指導が必要であるとの意見も出されるようになった。前者の問題については、四十年代から、体育各部や学苑の努力により、東伏見、本庄、菅平に体育各部の施設が作られ、更には本部キャンパス、戸山町キャンパスでも体育施設が整備されていった。しかし、このような努力にも拘らず、本部キャンパスや戸山町キャンパスといった限られた敷地の中では、同好会や一般学生のスポーツ要求に十分応えるだけの成果は挙げることができなかったのである。

三 体育各部の活躍

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 学苑公認の体育部は昭和三十三年度に三十九を数え、以後創立百周年を迎える五十七年度まで増減はない。その三十九部とは、野球部、庭球部、漕艇部、水泳部、競走部、相撲部、ラグビー蹴球部、山岳部、スキー部、スケート部、バスケットボール部、ア式蹴球部(サッカー部)、馬術部、卓球部、ボクシング部、体操部、空手部、バレーボール部、レスリング部、自動車部、米式蹴球部(アメリカン・フットボール部)、ヨット部、ハンドボール部、ホッケー部、フェンシング部、軟式庭球部、軟式野球部、柔道部、弓道部、自転車部、剣道部、バドミントン部、航空部、ワンダーフォーゲル部、ゴルフ部、ウェイトリフティング部、射撃部、合気道部、応援部である。これら各部の三十年代以降の活躍を述べる前に、日本のスポーツ界の動き、運動部全体の動向について見ていくことにする。

 第二次世界大戦前の日本スポーツ界の第一線は、学生によって占められていた感があった。大戦後も、昭和三十年代までその傾向は変らなかった。学生スポーツが日本のスポーツ界で大きな位置を占めていたのである。二十七年の講和条約の発効により国際社会に復帰した日本は、オリンピックをはじめ国際的なスポーツ大会に参加して世界的な活躍を追求していったが、世界の水準からは大きく遅れていた。世界的な活躍を実現しようとの動きは、スポーツによるナショナリズムの昻揚に他ならなかった。国内においては二十一年から開催された国民体育大会が、スポーツの普及、国民体力の向上と地方スポーツの振興を通して国民生活を明るく豊かなものにするという本来の目的とは裏腹に、都道府県対抗という形で郷土意識を育成していった。国際スポーツにおけるナシ。ナリズムの昻揚は、その延長であった。このような動きは、勝利至上主義の風潮を生み、それは三十九年のオリンピック東京大会で最高潮に達したのである。このような日本スポーツ界の風潮は、当然学生スポーツ界にも影響を及ぼし、「勝利」を最大の価値としていった。その結果、学生の自発性に基づく部活動は大幅に抑制され、OBを中心として「勝利」に向けての部運営が行われる傾向を強めたのである。

 世界的な水準が高くなるにつれて、練習は高度化、専門化していった。そのような練習を行うには、ごく一部の大学を除いて、学生の身分では経済的にも物理的にも、もはや限界に達するようになっていった。一方、企業は、スポーツを宣伝媒体として活用するため、多額の資金を準備し、資質ある選手、有能なコーチ陣を集めていった。また、昭和四十年代後半になると、スポーツ選手を専門に養成するスポーツ・ジムが数多く誕生した。他方、大学では、入学試験の難関化も手伝い、体育各部へ能力ある選手学生の入部数が減少していった。これらのことを背景として、四十年代以降、学生スポーツは日本のスポーツ界における優位性を喪失していったのである。

 学苑の体育各部の活躍を概観すると、昭和三十年頃から四十年前後にかけてが「黄金期」「全盛期」であった部が多い。四十年代に入って不振に陥っていった理由として、いずれの部も部員の減少を挙げている。体育部の所属部員は、三十六年には約二千人を数えたが、四十五年には千三百人余と激減し、五十七年に千四百五十人余と僅かながら増加している。部員の減少は深刻で、団体戦を戦えない部も出てくるほどである。

 部員が減少した理由は、入学試験の難関化に関連して高校スポーツ界で活躍した生徒達の入学が困難になったことが挙げられる。以前には、多くの大学では運動選手のフリー・パス同然の入学が行われていた。学苑の場合も三十年ごうまでは運動選手は優遇された。しかし、その後、各学部とも拒絶反応を示すようになり、稲門体育会会長河野一郎のように、「ワセダが国立なら仕方がない。私立じゃないか。かつて学校の名を高めたスポーツ選手をいまさら冷遇するとはけしからん」(「明日のスポーツを求めて」『毎日新聞』昭和四十五年十一月二十七日号)と不満を漏らす者もいたが、運動選手の優遇措置はなくなっていった。加えて、運動選手の多くが在籍していた夜間の第二学部が、四十年度法学部・商学部、四十一年度政治経済学部と学生募集を停止したので、ますます高校スポーツ界の有能な人材は入学が困難になっていったのである。尤も、三十九年に教育学部に教育学科体育学専修が増設され、四十一年には夜間の社会科学部が開設されたこともあって、有能なスポーツ選手がこれらの学部や専修に在籍した。しかし、学苑に入学しなかった才能あるスポーツ選手らは他大学に入学して、好成績を残すことになり、それが学苑体育各部の相対的な成績不振を招くことにもなった。

 部員減少は入学試験の問題だけが理由ではない。五十年代には社会全般に亘って多様な価値観が生れ、高校スポーツ界で活躍した生徒にしても大学の運動部への入部を絶対視しなくなったのである。他大学の例だが、ある甲子園球児は、「ボクは『野球バカ』になりたくなかった。最初、立大に『野球入学』しようと甘く考えていた。でも不合格の手痛い目にあって気がついた。野球しか知らなかった高校生活の二の舞いはゴメンだ。旅行もしたいし、本も読みたい。野球は楽しむだけで十分だ。そう決心して野球部にはいらず同好会にしたのです」(同紙 同日号)と語っているが、これなどはその好例であろう。また、「伝統」ある運動部の上下関係の厳しさが多くの若者にとってわずらわしく感じられるようになったこと、昭和四十一年に起り社会的な批判を浴びた他大学のワンダーフォーゲル部「シゴキ事件」により過度に一般化された運動部の陰湿な体質の部分が忌避されたこと、四十年前後の学生運動の最中に学苑で運動部の学生と共闘会議の学生が衝突する事件が発生する中で、他大学の学内紛争においても「体育会系」と目される学生が立ち回りを演じたことなどをマス・コミが大々的に報道し、運動部に対する印象が悪化して、入部が一層敬遠されるようになった。代って、同好会が雨後の筍のように誕生していったのである。

 このような状況の中で、学苑体育各部はどのような活躍を見せたのであろうか。各部について概観していこう。

 野球部 六大学野球リーグ戦、とりわけ早慶戦の応援は学苑学生の年中行事化していると言ってよいほどである。中でも三十五年秋季リーグでは優勝を懸けた六連戦の熱闘が繰り拡げられた。慶応は勝ち点を挙げれば優勝、早稲田は連勝すれば優勝、二勝一敗ならば優勝決定戦という緊迫した状況であった。果して二勝一敗で優勝決定戦に持ち込まれたが、同点延長引分けが二試合続き、三試合目に漸く早稲田が三対一で決着をつけ、優勝を飾った。四十年代末に六大学リーグ戦に優勝を重ね、四十九年春季には全日本大学野球選手権にも優勝し、学苑の黄金時代の感があった。五十年代には五十三年秋季、五十四年春季と連続優勝し、その後五十七年秋季リーグで優勝して創立百周年に華を添えた。なお、明治三十五年以来練習に、また試合にと数多くの部員の汗と涙が染み込んだ安部球場の地に、創立百周年を記念して総合学術情報センターが建設されたが、その経緯については一〇三一頁以下に譲る。

 庭球部 戦後の庭球部を代表する加茂礼仁(昭三〇・一政)・公成(昭三〇・一政)兄弟と宮城淳(昭三〇・一商)の三選手が活躍した二十年代中・後期は早稲田の黄金期で、二十八年には九年ぶりに全日本選手権を手中にし、二十九年には宮城・加茂公成の二人が全米選手権でダブルスで優勝という快挙を成し遂げた。二人は、それまで毎年アメリカに渡って武者修行していたが、その成果が現れたのである。しかしその後は、日本を代表する選手は殆ど出ていない。

 漕艇部 漕艇部の檜舞台は隅田川で行われる早慶レガッタである。二十八年の早慶レガッタで逆転勝利を収めた早稲田は、その勢いを駆って全日本選手権でも五年ぶりの優勝を飾った。三十年代から四十年代初頭は早稲田の黄金時代で、三十九年のオリンピック東京大会には学苑から九人の選手を送り出している。四十年度には全日本選手権エイトで十二年ぶりに優勝すると、翌年度にも優勝して世界選手権に出場している。この早稲田の強さの秘密を、日本漕艇協会理事長原三郎(昭九文)は長距離主体の練習と指摘している(早稲田大学漕艇部・稲門艇友会『創立九〇周年史』二〇頁、一一〇頁)。四十一年には埼玉県の戸田に新艇庫が完成している。

 剣道部 第二次世界大戦の敗戦とともに、武道禁止の一環として剣道は禁止となり部も休止となった。そのような状況の中からフェンシング部が生れたわけであるが、二十四年に考案された「しない競技」が、講和条約が発効した二十七年四月に学校教育の場で認められるに至り、学苑に「しない競技」部が誕生した。二十八年に名称を剣道部と改称、部活動を再建していった。四十年頃までは個人、団体とも学生選手権で優勝し得る実力を保持し続け、部員も百三十人前後を数えた。その後は高等学校で活躍した選手の入学も少くなって部員数も減り、優勝できる実力の持主は現れていない。四十九年夏には、約一ヵ月かけてアメリカ、カナダを親善訪問し、各地で公開演武、交歓稽古を行っている。

 柔道部 柔道も二十六年まで禁止されていたため、部員はレスリングの余暇に細々と練習を続けるというありさまであった。二十七年に復活した第一回全日本学生柔道優勝大会では三位という優秀な成績で再スタートを切った。三十年代から四十年代初頭にかけては安定した成績を残し、四十三年には東京大会優勝、全日本大会準優勝という成績を収めている。その後は、部員数も減る一方で、戦績も振わない。

 弓道部 弓道も、剣道・柔道と同じく二十六年まで禁止されていた。しかし、何とか弓を射ることだけはGHQに認めさせようと、洋弓の長さに近い弓にすることを条件に嘆願することもあったが、結局認められなかった。二十七年正式に体育会へ加入、二十八年全日本学生弓道連盟が結成され第一回全日本学生弓道選手権大会では見事優勝という栄誉に輝いた。その後も同選手権優勝一回、全日本学生弓道王座決定戦で五度優勝するなど、安定した力を保っている。五十年には大塚猛(教育四年)が小野梓記念スポーツ賞を受賞した。女子の活躍は目覚しく、四十年代には全日本学生選手権に四度優勝している。二十九年、弓道場が甘泉園に建設され、幾多の名選手が生れたが、学苑がこの名園を手放した際に大隈庭園裏に移った。

 水泳部 二十六年から三十年、三十六年から四十一年と学生選手権を保持し続け、黄金時代の言葉にふさわしい時期であった。しかし、四十年代以降は学生選手権を手中に収めることなく、四十八年には五位となり、三十二年間維持し続けてきた優勝・準優勝の座から陥落した。五十六年には創部以来初めて七位となり、大学水泳連盟の競技特権であるシード権を失った。長期低迷が続く理由として部員不足が指摘されている。オリンピックでは四十三年のメキシコ大会に二百メートル・バタフライで日本新記録を更新した高田康雄(社学一年)が、中野悟(教育四年)、田中毅司雄(二文四年)とともに競泳選手に選ばれ、五十一年のモントリオール大会では競泳に原秀章(教育二年)、柳館毅(教育二年)が選ばれている。四十七年のミュンヘン大会、五十五年の「幻のオリンピック」モスクワ大会には学苑の選手は選ばれなかった。この間、ユニバーシアード大会やアジア競技大会に幾多の選手を送ったが、五十六、五十七年は部の状態を反映して選手を一人も送り出せなかった。

 競走部 戦後、部の再建が他校に遅れたため、不本意な成績が続いたが、漸く三十二年に至り全日本学生選手権に十五年ぶりに優勝、翌年も連覇して気勢を上げた。しかし、その後は凋落、四十年代は四位から十位の間を上下している。尤もこの間、四十年に飯島秀雄(教育三年)が二百メートル走で、また箭内硯一(二商四年)・大工敏雄(二文四年)・坂井義則(教育二年)・飯島が八百メートル・リレーで、それぞれ日本新記録を達成し、四十八年には石沢隆夫(教育三年)が百メートル走で日本タイ記録を出すなどの活躍も見られた。東京箱根間往復駅伝競走(箱根駅伝)も振わず、四十三年度(四十四年一月)には十四位となり、創部以来二度目の予選会を勝ち抜いての出場となった。しかし、四十六年度には初めて予選会でも落ちて出場がかなわず、校友の正月の楽しみが一つ減ることになった。

 五十一年に監督に就任した中村清(昭一三商)は、同年入学した瀬古利彦(教育)を世界レヴェルのマラソン・ランナーに育て上げ、瀬古は五十三年の福岡国際マラソンで歴代二位の二時間十分二十一秒のタイムで初優勝、翌年も連続優勝を果した。学苑は、瀬古のこの活躍に対し五十三年、五十四年の両年に小野梓記念スポーツ賞を贈った。同賞を個人で二度受賞したのは瀬古が初めてである。五十四年の日本学生選手権ではトラック優勝し、選手層の厚さを誇った。箱根駅伝では五十五年総合三位、五十七年復路優勝を飾っている。

 相撲部 二十五年の東日本学生相撲選手権大会で優勝後、低迷が続いたが、三十四―三十六年には全国学生相撲選手権大会に優勝したり、二人の学生横綱を送り出すなど、まさに黄金時代であった。学苑の相撲部員は、殆どが中学・高校時代には無名の選手で、入部後、「強い相撲をとるのではなく、うまい相撲をとれ」と理詰めの相撲を叩き込まれるのであった。その後、部員の減少を背景にBクラス、またCクラスに転落、五十三年度には東日本学生相撲リーグCクラス(五人制)で優勝したものの、人数が足らず七人制のBクラスには進むことができないという悲喜劇も起っている。五十六年一月には大学西門近くに近代的な建物の新道場が完成した。

 ラグビー蹴球部 二十五―三十五年のラグビー蹴球部は大学選手権に何度も優勝し、順風満帆の勢いであった。ところが、三十五年になると部員が減少し、三十六年度にはBグループに転落してしまった。三十七年に菅平に早稲田独自の総合グラウンドが完成している。三十九年度に始まった全国大学選手権は、僅か四大学チームによるものであったが、翌年度の第二回に至って全国八大学チームにより争われ、名実ともに全国大学選手権となった。学苑チームは、その第二回選手権で初優勝し、その栄光を手中にしたのである。四十一年一月には社会人リーグ優勝の八幡製鉄と日本選手権を争い、ゲーム終了間際の劇的なペナルティ・ゴールで挙げた得点で初の日本一に輝いた。四十一年度、四十三年度と大学選手権で優勝(四十三年度は慶応義塾大学と引分け優勝)、四十五年にも優勝して日本選手権に進み、新日鉄釜石を下して五年ぶり二度目の日本一になった。この優勝が評価され、学苑小野梓記念スポーツ賞を受賞した。四十六年度には京都三菱自工を降して連続日本一となり、その後も四十八年度、四十九年度、五十一年度と大学日本一となり、強豪早稲田の名をほしいままにした。しかし、五十二年度には全国大学選手権の出場権を失い、十一月二十三日の早慶戦では十五年ぶりに敗れ、八年間に亘る関東大学ラグビー対抗戦グループでの連勝記録は六十でストップした。その後も、優勝こそ果していないが全国大学選手権大会に出場している。

 なお、四十五年六月に十一日間、韓国ラグビー協会の招待により戦後初の海外遠征を行い、五十七年春には学苑創立百周年を記念して英仏遠征を行い、日本の単独チーム(部員十七人のほかにOB九人を含む)としては初めて名門ケンブリッジ大学チームを破る快挙を成し遂げた。

 山岳部 五月から六月にかけて新人合宿、七月から八月にかけて夏山合宿、十月に秋山合宿、十一月新雪期合宿、十二月冬山合宿、二月から三月にかけて春山合宿を行い、新入部員の基礎技術の習得、上級生の更なる技術の向上を図っている。この間、ラグビーによる体力強化合宿や二十キロ・マラソン大会を行っている。四十三年度からは四月から五月にかけて残雪期合宿を行っている。例年、ほぼこのような部活動を展開しているが、四六時中合宿を行っている感がある。この他、四年に一度の割合で海外合宿を実施している。

 戦後の日本初の海外登山の栄誉に学苑山岳部が輝いている。二十八年一月の南アメリカ大陸の最高峰アコンカグアの登頂である(第四巻一一八八―一一八九頁)。その後は、三十五年のアラスカのマッキンレー西南稜登頂、三十七年ペルー・アンデス遠征隊の派遣、四十二年イラン・エルブールズ山脈での全部員の海外合宿、四十五年ダウラ・ヒマールでの海外合宿を実施した。なお、四十六年には東伏見に合宿所が建てられた。

 スキー部 戦後の黄金期は、三十七年から四十年にかけて全日本学生選手権大会四連覇の時である。四連覇の基礎となったのは距離陣の高地トレーニングであった。標高の高い土地での練習は、心肺機能を高め、平地での滑走が楽になる。そのトレーニングの成果が見事に示されたのである。その後、四十年代中期よりも振わないが、入学試験の難関化によって優秀な選手が入ってこなくなったこと、入ったとしても部内でよきライヴァルに恵まれないことなどが理由として考えられている。なお、スキー部の合宿所は、学苑校友から提供された邸宅を使用していたが、三十七年にその邸宅の売却代金が学苑に寄附されて東伏見に新たな合宿所が建設された。

 スケート部 スケート競技はスピード、フィギュア、アイス・ホッケーの三種目から成る。二十五年には全国学生氷上選手権大会で総合優勝し、二十三年、二十四年に続いて三連覇を達成した。戦前に活躍したスピードは衰え、代ってフィギュア、アイス・ホッケーが著しく伸びた。この三連覇もフィギュアとホッケーの活躍に負うところが大であった。しかし、三十年以降は全く振わなくなり、全国学生氷上選手権大会では総合優勝から遠ざかっている。なお、部創立五十周年を記念して、四十六年に東伏見総合グラウンドの脇に合宿所稲明寮が建設された。

 バスケットボール部 二十五年度になると沈滞ムードを打ち破り、全日本学生二位となり、二十八年度まで同三位、全日本二位、三位と大いに気を吐いた。しかし二十九年度より低迷期に入った。四十年度になると戦力は上向き、四十三年度には関東大学リーグ戦、関東大学選手権、全日本学生選手権に優勝し、学生タイトル三冠を手中に収めた。その勝因は、「決して他のチームよりずばぬけた強さを誇るチーム」ではないものの「チームワークが抜群であった」ためであった(早稲田大学RDR倶楽部編『RDR60』一一四頁)。その後は順位の上がり下がりが激しい。五十一年三月、学苑出身で日・韓のバスケットボールの指導者であった李想伯(昭二文)の没後十周年記念大会が韓国で開かれ、学苑は招待を受けて参加、延世大学校、漢陽大学校、高麗大学校と試合を行った。この遠征が契機となり、翌年度から両国学生選抜チームによる交流試合「李想伯杯争奪大会」が開かれるようになった。なお、三十一年には女子部が誕生、三十二年十月には記念会堂が完成して待望の専用屋内コートを確保している。

 ア式蹴球部 サッカーの関東大学リーグの実力は高く、日本選抜チームを編成する際にもその根幹になるとさえ言われたほどであった。中でも、学苑からは多くの名プレイヤーを輩出し、三十九年のオリンピック東京大会、四十三年のメキシコ大会では、日本チームの主力は早稲田で占められていた。韓国の高麗大学校とは三十六年から定期戦を行っており、一年おきに相手国を訪れている。その第一回定期戦の時、朴正熙による軍事クーデターに遭遇し、予定を取り消して帰国したことは、七〇一―七〇二頁に述べた。なお、この定期戦が縁となって、四十八年高麗大学校との間で学術研究および教育交流の協定が結ばれている。サッカーのナイト・ゲームが始まったのは、二十五年に復活した早慶戦の時であった。早慶定期戦は非常に人気があり、その当時としては珍しく、観衆を一万人以上集めたほどであった。

 馬術部 昭和二十五年、一部員の出身校であることが縁で、学習院大学の理解を得て、馬の繫養場所を目白の学習院大学馬術部廐舎に移すことになった。緑に囲まれた落ち着いた雰囲気、学苑からの距離の近さと、恵まれた環境で練習に励むことができた。三十三年東伏見に厩舎が完成して目白から移ったが、馬術練習場としては必ずしも良好な環境にはなかった。馬場の整備が課題ではあったが思うに任せなかった。折しも、三十七年学習院大学との競技会を皇太子(現天皇)夫妻を迎えて東伏見の馬場で行うことになった。学苑の全面的な支援を得て、あっと言う間に見違えるような馬場となり、環境は数段と改善された。四十年には関東自馬総合競技大会に優勝、四十二年まで各種競技会で好成績を収めた。四十九年、前年焼失した厩舎に代って耐火性の新厩舎が完成した。

 卓球部 二十年代の学生卓球界は、各校実力伯仲で群雄割拠というような状態であった。その中で、学苑卓球部は関東学生卓球リーグ戦(一年に春・秋の二リーグ)で優勝十一回、全日本王座六回優勝という輝かしい成績を収め、「団体戦に強い早稲田」が定評となった。しかし三十年代になると、入学試験の難関化から有望新人の入学が少くなって次第に選手層が薄くなり、戦績は振わなくなっていった。その後も、関東学生卓球リーグ戦や全日本大学対抗戦でも優勝を収めたり、国際試合に選手を送り出したりしているが、四十年代末には関東学生卓球リーグ戦で初の二部転落、爾来一部と二部を往き来している。

 ボクシング部 二十年代から四十年前後にかけて、ボクシング部は目覚しい活躍をしている。毎年全日本選手権に進出、二十七年のオリンピック・ヘルシンキ大会から三十五年の同ローマ大会まで各一人、三十九年の同東京大会では三人の代表選手を送り出すなど、日本のボクシング界を支えた。三十年代は大学リーグ戦最盛期で、会場は連日四千人もの観客が集まった。ボクシング部の練習はマンツーマン指導を一切せず、練習内容を自分で決め、練習したい時間に来て工夫しながら練習するという、自主性を重んじたきわめて厳しいもので、これが部の伝統ともなっている。四十年代に入ると振わず、四十八年には新入部員零という事態が起き、関東大学リーグの二部、三部を上下している。

 体操部 二十六年、全日本学生体操選手権大会で戦後初優勝を飾ったが、この年の前後が黄金時代であった。オリンピック・ローマ大会、東京大会、メキシコ大会では日本の体操選手陣が大活躍し、全国的に体操ブームを捲き起した。メキシコ大会には加藤武司(昭四〇・二商)が出場、個人総合五位の成績を残している。四十一年二月の新技発表会で、大矢高紀(教育二年)が鉄棒で「後方かかえ込み、二回宙返り三百六十度ひねり降り」という離れ技を披露、鉄棒の権威小野喬はじめ体操関係者を唸らせた。この技が、月面宙返り(ムーンサルト)へと発展していったのである。

 空手部 戦後、GHQが禁止しようとしたように、空手はスポーツというよりも武術としての色彩が強かった。二十年代には、「演武」としての空手からスポーツとしての空手への変身が図られていった。二十七年には審判つきの自由組手を競技種目に取り入れている。三十五年になって、早慶戦は初めて試合形式で行われ、五対四で惜敗した。三十六年から日本学生連盟に参加し、四十六年には東日本大会で優勝、全日本学生選手権大会三位、五十二年関東学生空手道選手権大会準優勝と好成績を残している。学生スポーツの国際化を反映し、四十四年には学苑で日米親善交歓稽古が持たれている。四十五年にはヨーロッパヘ遠征する全日本学生選手団に学苑空手部から二人が選抜され、また同年第一回世界空手道大会に参加するアメリカ・チームが学苑を訪れ、合同稽古を行うなど、外国の空手愛好者との交流が盛んである。

 バレーボール部 二十年代の学生バレーボール界は、早稲田・明治・慶応義塾の三者が他大学を大きく引き離して三つ巴の時代であった。オール早明慶の定期戦などは人気が高く、会場は七、八千人もの観客で溢れ、ダフ屋も出るほどであったという。戦後の学苑バレーボール部の最大の功績は、六人制バレーボールの日本導入と、国内への普及の努力である。二十七年日本は国際社会への復帰を果し、国際交流の必要性から日本バレーボール協会は国際バレーボール連盟に加盟した。当時、国際ルールは六人制バレーボールであったが、日本は九人制であったため、六人制導入については意見が分れた。二十八年、学苑バレーボール部はアメリカに渡った。九人制バレーボールを紹介するとともに、六人制バレーボールを習得することが目的であった。各地で六人制と九人制の試合を行い、全員攻撃、全員守備という躍動的で迫力に満ちた六人制のよさを理解して帰国、その普及に力を注ぐことになったのである。しかし、すぐには全国に拡まらず、三十二年になって初めて六人制の公式競技会である全日本国際式選手権大会が開かれた。この大会は、日本バレーボール界の意見対立を反映して、審判はじめ試合の運営は殆ど早稲田が行うことになった。その後、三十七年に漸くリーグ戦に六人制が採用され、三十九年のオリンピック東京大会を境に国内のバレーボールは六人制へと変った。学苑バレーボール部は、進取の精神により六人制バレーボールを日本にもたらしたと言える。なお、四十九年、東伏見に合宿所が建設された。

 レスリング部 日本で最初に、正式にレスリングの練習を始めた学苑レスリング部であったが、二十年代末から学生選手権や全日本選手権での優勝から遠ざかっている。個人としては、オリンピック・メルボルン大会、東京大会、メキシコ大会、ミュンヘン大会、モントリオール大会に選手を送り、幻に終ったモスクワ大会にも選出された。

 自動車部 全日本学生自動車連盟が結成され、各種レースが復活したのは三十年前後のことであった。三十年代から四十年代半ばまで、学苑自動車部は各種大会で優秀な成績を収めた。四十年代はモータリゼーシ。ンの波が押し寄せてきた時期であったが、自動車はまだまだ高価であり、運転する機会に恵まれた若者は少かった。このため、「自動車部に入れば免許もとれるし、運転もできる」と考えて入部した者が多数いた。尤も、部の目的がそこにあるわけではないことを知って早々に退部した者も多かったという(早稲田大学自動車部『前照燈』昭和五十九年一月発行 第三十六号)。四十年度から自動車の整備を競う全日本整備大会が始まり、その第一回で優勝する栄誉に輝いた。その後も優勝しただけでなく、常に好成績で、運転だけでなく整備にも力を注ぎ、大学自動車部としては数少い運輸省の整備認証工場の資格を得ている。五十年代に入ってから、再び各種競技会で優勝を収めている

 米式蹴球部 二十二年秋から開催されるようになった関東大学リーグ戦で、学苑米式蹴球部にとって特別の意味を持っていたのが二十五年のリーグ戦であった。Tフォーメーションという、それまでにない新しい攻撃方法を日本で初めて実戦で用いたからである。それまでの戦法はパワーを重視したものであり、連携プレーはあまり見られなかった。Tフォーメーションは、連係プレーを重視し、十一人の攻撃のタイミングを生かす総力戦形式の戦法であった。果して、この年のリーグ戦では優勝目前まで勝ち進んだが、慶応義塾大学チームに敗れて優勝を逸した。このようにフォーメーションを重視したと言っても、四十年代初めの頃は、「チーム全体の組織化という面でも、現在のような責任分担ということはなく、一人一人が好きなようにやっていたという感じ」であった。尤も、「その反面、個性あふれた選手も数多く輩出した」(福田誠一「近代フットボールへの脱皮をめざして」『早稲田大学米式蹴球部五十年史』一一一頁)という。その後、組織的でスピーディーな近代的フットボールヘ向けて脱皮が図られ、五十六年度には関東大学リーグ戦で第二位の好成績を収めた。

 ヨット部 三十年に全日本学生選手権で初優勝したものの、四十四年の優勝を最後に低迷期に移った。五十年代に入って強豪同志社大学ヨット部へ「留学」するなど、強化に努めたが、全日本学生選手権に出場するのが精一杯で、入賞などとても望めないという状態が続いた。五十七年に至って漸く三位に入賞した。この間、四十八年には三月から七月にかけて、大型艇「稲竜号」(三十九年建造)で日本一周航海を現役・OB一体となって成功させ、この壮挙は広く社会に知られた。

 ハンドボール部 戦後の再建から二十年代を通して黄金時代であったが、その後は有力な高校選手が思うように学苑に入学できず、低迷期を迎えた。四十年代末までの低迷期に、関東学生リーグで三度二部に転落している。また、部の活性化を図り、三十五年、世界選手権二位のルーマニア・ナショナル・チームを迎えて全早大が対戦、テレビで全国放送されて注目を集めた。この試合は、学苑単独としては初の国際試合であった。三十八年には日本のハンドボールがそれまでの十一人制から七人制となり、コートも小さくなった。四十八年から黄金時代を迎え、関東学生リーグでの優勝は勿論のこと、四十九年には念願の全日本学生選手権大会に初優勝、五十五年にも優勝している。

 ホッケー部 二十三年の関東学生リーグ優勝の後、三十年代中期まで戦績は振わなかった。三十六年前後から復活の機運が高まり、オリンピック東京大会開催の三十九年には、早稲田・明治・法政・慶応義塾の四強の熾烈な戦いが展開した。同年の全日本ホッケー選手権では、全選手をオリンピック日本代表メンバーで固める明治大学を準決勝で破り、見事に優勝を果している。三十八年以降十年間は黄金時代で、特に三十九―四十二年には全日本選手権で四連勝、四十四年には全日本学生ホッケー選手権に優勝した。

 フェンシング部 戦後生れの部であったが、フェンシングが正課体育の種目として認められて次第に部員も増えていった。部の練習は、当時、現在の戸山町キャンパスにあった高等学院のフェンシング部員と一緒に行われ、経験豊かな高等学院のフェンシング部員は、学苑に進んで当然の如くフェンシング部に入部していた。三十一年、三十二年と二年連続して関東学生リーグ、全日本大学選手権に優勝、また国際学生スポーツ週間にも出場、早稲田の名を世界に拡めた。三十一年高等学院の上石神井移転は部に大きな影響を与え、入学試験の難関化と相俟って、経験ある新人の入部が少くなっていった。以後、低迷期に入り、二部リーグで戦っている。なお、三十九年のオリンピック東京大会では、学苑の記念会堂がフェンシング競技の会場として使用された。

 軟式庭球部 競技成績は、二十三年をはじめ、三十九年まで全日本大学対抗軟式庭球大会で六回優勝しており、この他、リーグ戦の優勝や個人の選手権大会優勝も数多く果している。しかし、やはり四十年代以降不振が続いている。庭球部のコートは甘泉園に二面あったが、三十九年理工学部キャンパス中に移り、六面となった。

 軟式野球部 二十四年全日本学生軟式野球連盟が誕生し、二十七年の第三回大会で初優勝した。三十一年に加盟大学中初めての二度目の優勝を飾った。三十二年全国的な大会として大学王座決定戦が始まり、その第一回大会で優勝、リーグ戦でも春秋連覇して黄金時代を迎えた。「スピード野球」をキャッチフレーズに、強力な投手陣、走力を重視したヒット・エンド・ラン、スチール戦法が、他大学を圧倒したのである。三十六年には春季リーグ、関東選手権、全日本大会、秋季リーグに優勝、四冠王に輝いた。四十二年には全日本学生軟式野球連盟代表として、学苑チームが単独で中華民国に遠征、台北・台南・高雄を転戦、各地で学苑出身者をはじめ多くの人々の歓迎を受けた。当初、部の専用球場がなく、試合場も豊島園や哲学堂、明治大学球場などと転々としたが、三十五年以降整備された東伏見球場に定着した。

 自転車部 戦前は立教、慶応義塾とともに日本の自転車競技会をリードしてきたが、戦後はインターカレッジで安定した成績を収めているものの優勝経験はない。学苑体育局から部に承認されたのは二十七年になってからである。部員の中には、大学に入ってから競技を始め、大きく成長し、インターカレッジで入賞する者もいた。なお、四十三年から始まったソウル―釜山―馬山往復のサイクル・ロード・レースに、第二回大会から招待を受けて参加し、韓国との交流を行っている。

 バドミントン部 バドミントン部として承認されたのは二十七年のことであるが、部の誕生は二十四年の同好会の結成まで遡る。同好会の中心となったのは学苑に留学中のソムヌック(タイ)、トーシン(インドネシア)、アスリー(同)の三人であった。三人だけでは団体戦に出場できないとのことで、急遽津田信一(一商一年)が誘われ、数日の練習の後、いきなり試合に臨んだという。同好会時代は練習する場所に窮し、近くの小・中学校の体育館を借りていた。部として認められ、体育館内に練習場を確保したが天井が低く苦労したという。体育館の使用も、他の部との共用で五時以降の練習となり、電気代がかかるせいか体育局からいちばん金のかかるクラブと言われた。戦績は、リーグ戦、インターカレッジとも優勝こそ果していないが、安定した実力を保持している。

 航空部 航空部の前身は敗戦前の早大航空研究会である。二十年八月、GHQの命令により研究会所有のグライダーをすべて破壊され、研究会は活動を停止した。二十七年五月航空研究会が再興され、十一月には学苑体育局から承認されて航空部と名称を変えた。三十五年から四十二年までが黄金時代で、全日本学生グライダー選手権大会で優勝をはじめ好成績を収めた。三十七年に念願の空の早慶戦が始まった。当時の競技内容は、「何メートル自力で上昇したか」という獲得高度を競うものと、「何分飛んだか」という滞空時間を競うものであった。記録面でも、三十九年に大沼明夫(一政四年)が学生で初めて国際銀C章を獲得、四十二年には島田勉(法四年)が獲得高度三千三百六十メートルの学生新記録を達成するなど快挙が続いた。早慶戦は、グライダー同士の接触事故により四十二―五十二年の間中止となり、また四十八年の学連全国大会でも事故が発生、五十六年まで中止となっている。

 ワンダーフォーゲル部 同部の誕生は二十四年十月のことである。第一回のワンダリングは奥高尾で、参加者は僅か六人であった。最初は「学生の会」に所属し、二十五年以降組織的な部活動を展開して、二十八年体育局の承認を得た。これ以降、本格的なワンゲル活動を展開し、三十二年には本州横断を敢行した。その後、活動の中心は山岳活動に移り、三十八年秋に念願の山小屋が妙高山麓に完成した。四十年代に入ると再び活動の中心を平地部に移し、また海外遠征を展開した。四千メートル級の高山を踏破した四十四年のボルネオ遠征、全部員が参加した初の海外合宿である四十九年の台湾遠征、初めて自転車を取り入れ二千四百キロメートルを旅行した五十三年のインド遠征、六百キロメートルを自転車で走破した五十六年のシルクロード遠征などを行っている。

 ゴルフ部 学苑では戦後、二つのゴルフ同好会が生れた。一つは政治経済学部と商学部の学生を中心とするもの、他の一つは理工学部の学生で組織されたものである。このうち、前者が自然消滅し、後者が発展して組織を拡大し、三十一年体育局に承認されてゴルフ部となった。三十年代中頃までは早慶戦が最大行事で、各部員これに全精力を傾けた。三十四年に各校対抗戦をリーグ戦に組織替えし、以後リーグ戦に力を注いでいった。三十八年頃まではリーグの上位に安定していたが、三十年代末からは低迷の時代に入っていった。尤も、個人では優秀な選手がおり、全日本学生ゴルフ王座を手中にした者や、日米対抗ゴルフ戦のメンバーに選ばれる者もいた。なお、四十六年には東伏見に練習場が設けられた。

 ウェイトリフティング部 部の創立は三十一年十一月であるが、前身は二十七年創立のバーベルクラブ同好会である。バーベルクラブの指導的役割を果していた大沼賢治(昭二八・一政、のち学苑職員)がオリンピック・メルボルン大会の選手に選ばれたことが大きく作用し、それまで提出していた部承認の願いが体育局に聞き届けられた。発足したものの、これまで同様甘泉園の野外練習場で、でこぼこした都電の枕木を利用した特設リンクで不安定な足元を気にしながらのトレーニングが続いた。三十六年になって漸く戸山町キャンパス内に道場が完成して、やっと雨風を心配しないで練習に励むことができるようになった。全日本学生選手権では顕著な成績は残されていないが、安定した力を保っている。

 射撃部 三十二年、戦前の射撃部のOBや関係者の熱心な訴えが体育局に認められて、射撃部が誕生した。発足当初は、射撃場も間借りで時間的な制約もあり、三十年代半ばの部活動は体力強化を名目としたランニングと据銃のみであった。このため、「競走部に入ったほうがいい」と愚痴をこぼす新入部員もいた。二十二口径ライフル射撃に用いる弾丸は高価なので、できるだけ安い弾丸を使ったところ、競技中に不発弾があったり、弾丸が五十メートル先の標的に届かないということもあった。三十九年のオリンピック東京大会を境に射撃競技に対する世間の理解が高まったこともあり、四十五年東伏見に射撃部のエアーライフル射撃場が建設され、以後、練習条件が大幅に改善された。

 合気道部 合気道は乱取りという現代的な練習法を基礎とする競技として完成していなかったため、部として承認されたのは遅く、三十三年のことであった。競技としての合気道部を認めた大学は、学苑が最初であった。これには、合気道を競技化することに尽力した体育局教授富木謙治の存在が大きく影響している。このような状況であったから、大学間の大規模な競技大会はなく、四十一年に学苑・国士舘・成城の三大学対抗戦が発足し、四十四年これに明治・山口の二校が加わって五大学対抗戦となった。四十五年になって、合気道競技に賛同する各大学合気道部員により全日本学生合気道競技連盟が結成され、大規模な競技大会が毎年開かれるようになった。合気道競技を率先して築いてきた学苑合気道部は、これら対抗戦、競技会で圧倒的強さを示している。

 応援部 応援部は他の体育各部とは趣が異っている。自分自身で競技するのではなく、競技する体育各部、特に野球部を応援する部であるからである。昭和二十一年に学苑に公認され、二十六年には応援部ブラスバンドが発足、二十七年の学苑創立七十周年には大学に七十周年記念学生歌・応援歌の制定を懇請し、「早稲田の栄光」「あの眉若人」が誕生した。また、応援の定版となった「コンバット・マーチ」が四十年に学苑応援部員の手によって誕生した。作曲三木佑二郎(一商四年)、編曲牛島芳(昭二七・一理、のち学苑職員・応援部監督)で、同年九月の早慶戦で初めて披露された。応援効果抜群で、リズムが軽快で忽ち学生の間で人気を博したというこの曲は予想以上に評判となり、甲子園の全国高等学校野球大会でも各校応援団が演奏しているから、今日では知らない人はいないほどであるが、学苑応援部員によって作られたことを知る人は少い。なお、四十七年に初めて女子部員が誕生し、爾来、彼女らはチア・リーダーとして応援光景に華やかさを添えることになった。