昭和四十一年から創立百周年を迎える五十七年までの間に、学苑が外国諸大学と協定を締結したり、あるいは協定に準じる形で学術研究交流を行ったりしたケースをまとめると、以下の如くである。四十一年以前から継続して行われたケースは、ボン大学、パリ大学、国際部で学生を受け入れているアメリカの五大湖私立大学連盟(Great Lakes Colleges Association(GLCAと略記)――一九七五年(昭和五十)に中西部私立大学連盟(Associated Colleges of The Midwest(ACMと略記))と合併してGLCA/ACMとなる)、ワシントン大学(セントルイス)、漢陽大学校である。前三者は五十七年以降にも継続されたが、後二者は四十年代に終っている。モスクワ大学とは二度に亘って協定が結ばれて交流が持たれた。新たに協定が結ばれて交流が開始されたのは、四十八年の高麗大学校と五十五年の南カリフォルニア大学である。北京大学とは五十七年六月に協定書を交し、五十八年四月から研究員の交流が開始されている。協定締結という形ではなかったが、五十年からフィリピンのラ・サール大学との学術研究交流も行われた。これらの学術研究交流のうち、特に注目を集めた漢陽大学校との交流、および高麗大学校、ラ・サール大学との交流を詳述しよう。
九五―九七頁で述べたように、漢陽大学校からの申し出に基づき、昭和四十年同校との間に人物交流計画が開始された。この人物交流計画の申し出は、日本の大学が学術研究交流の対象として国際的に認知されたことを意味しており、新たな大学間交流、国際交流を占うものとして注目された。漢陽大学校側は「先進」技術の習得を目的としており、学苑は研究、教育の機能を通じて援助を与えることを主眼として協定を交したのであった。
この人物交流計画の期間は三年間であったが、更に二年延長されて四十五年まで五年間行われ、漢陽大学校からは副教授金義薫はじめ十六人(第一回四十一年五月から六人、第二回四十二年八月から二人、第三回四十三年九月から八人)が来学した。金は、暗視管装置を利用した赤外線物理学の実験を研究テーマとして四十一年五月から四十三年まで二年間に亘って研究を行った。他の派遣研究員も一年間の予定で派遣され、期間を延長した者もいた。一方、学苑からは、理工学部助教授曾我昌隆が朝鮮語および朝鮮文学研究ならびに関係書籍購入のため四十年九月三日から二十四日までの三週間、文学部教授小杉一雄が鬼瓦の研究のため同年十一月十二日から二十三日まで、理工学部教授名取順一が漢陽大学校で工業経営の講義のため四十二年十一月に十六日間、それぞれ派遣された。曾我と小杉は協定の第五条(「早稲田大学の教員・研究員を調査研究のため韓国に派遣した場合に便宜を供与する」)に、名取は第六条(「漢陽大学校からの要請によって早稲田大学はその教員を短期間、集中講義・実験実習指導に派遣する」)に基づくものであった。三名とも韓国滞在期間が短く、学苑では「留学」ではなく「出張」として扱われた。
当初より、学苑が研究のために研究者を派遣する必要性が乏しく、財政上のアンバランスを生じかねないという問題を孕んでいたこともあり、漢陽大学校から派遣された研究員に支給される生活費手当(月額二万円)は篤志家からの寄附に頼ることとした。この寄附は、初年度こそ順調に集められたが、二年度目以降は、担当者は毎年その確保に頭を悩まし、時には研究員の派遣を見合せることや派遣期間を半年に短縮することも真剣に議論されたのであった。また、漢陽大学校派遣研究員の日本留学の手続も繁雑であり、時間がかかるなどの問題点があった。期間が二年延長されたものの、特に寄附金の問題を背景として、この人物交流計画は四十五年で幕を閉じたのである。
しかし、学苑と漢陽大学校との交流は、四十五年に新たに結んだ「経営講座」に関する契約により、四十七年まで続いた。学苑は既に四十三年から、人物交流計画に基づき漢陽大学校に講師を派遣し(協定第六条)、「経営管理」に関する公開講座を人的に援助していた。この公開講座は、日本経済の高度成長を背景とする企画で、講演者には主として学苑の教員が招聘された。人物交流計画が終息するに当り、公開講座への援助を継続する必要から新たに「経営講座」に関する契約が結ばれたわけだが、実質的には協定の第六条のみが継続されたのである。四十三年の第一回経営講座には、商学部教授宇野政雄、生産研究所専任講師前田幸雄、生産研究所教授兼子宙の三人が派遣され、それぞれ「市場調査」、「原価管理」、「人間関係」という講義を行った。以後、四十七年の第九回経営講座まで十六人が派遣されている。なお、このうち、四十五年の第四回経営講座は学苑で開かれている。
漢陽大学校との交流が終った翌四十八年、その交流計画の反省の上に立って、同じ韓国の高麗大学校との協定が結ばれた。同大学とは三十六年以来サッカーの交歓試合が行われており、以前から学術研究・教育の交流が希望されていた。協定は、相互に学術交流を行うことによって両大学の学術発展と日韓両国の相互理解と友好関係の増進に寄与することを企図していた。両大学は研究・調査のために毎年専任教員を相手大学へ派遣し、これとは別に、要請により講義のために専任教員を派遣することができ(協定第一条)、派遣教員の専攻分野は人文科学・社会科学・理工学の各分野(第二条)で、特定の分野に限るものではなかった。派遣期間は一年以内とし(第三条)、両大学は受入教員に滞在費を支給し(第四条)、往復旅費は派遣側が負担する(第五条)とされた。また、人文科学・社会科学・理工学の専攻分野の大学院学生を毎年一―二人、一年間交換し、相互に授業料相当額の奨学金を提供するとされ(第六―九条)、更に、定期刊行物や学術研究資料等を交換する(第十一条)ことも協定に盛り込まれた。両大学が真に対等の立場に立って交流を行うこと、教員の交換だけでなく、学生の交換、学術資料の交換をも行う幅広いものであることが、漢陽大学校との人物交流計画と大きく異る点であった。この協定は四十八年六月一日から発効、期間は五年間であったが、五十三年に更に延長されている。
五十年から実施されたフィリピンのラ・サール大学との学術研究交流は、社会科学研究所で展開していた東南アジアの地域研究の延長上に結実したものであった。同研究所では昭和三十年以来インドネシア研究が続けられており、三十三年からはインドネシアのパジャジャラン大学(バンドゥン市)と相互に協力して、学苑におけるインドネシア研究者育成と、インドネシアにおける日本研究者育成とを図っていた。そのような動きが拡大されて、フィリピンのラ・サール大学との学術研究交流となった。この交流は、大学間の協定の締結という形を採らずに、社会科学研究所を担当機関として行われた。すなわち、同研究所に、地域研究の一環としてフィリピン部会(主任理工学部助教授菊地靖)が組織され、同部会が交流の実質的な受け皿となったのである。五十年四月にはラ・サール大学教授アウレリオ・カルデロンが来学し、社会科学研究所で「フィリピン近代史」の講義を行い、五月に帰国している。学苑からは理工学部教授和田禎一が五十一年二月から一ヵ月間ラ・サール大学に赴き、「日本経済論」の講義を行っている。以後も、毎年一人ずつ、ひと月以内の日程で講義のために相手大学に赴いている。ラ・サール大学から派遣された研究者によって「日本軍政期のフィリピンの文化社会に関する研究」の成果が連年講義され、その内容は『社会科学討究』に収載された。他方、学苑から派遣の研究者により「日本近代化に関する研究」の成果が講義され、その記録がラ・サール大学に残されている。
この他、四十八年から見られたモスクワ大学との学術交流では、五十七年度まで、学苑からは文学部助教授安井亮平がロシア思想史研究のために留学したのをはじめ二十二名が、またモスクワ大学からは教授ユーリー・S・ククーシュキンがソヴィエト近代史講義のために来学したのをはじめ二十四名が、それぞれ派遣された。五十五年の南カリフォルニア大学との交換協定は、共同研究のために教員を交換することを目的としており、同年には南カリフォルニア大学準教授リチャード・S・サヴィッチが会計学研究のため来学し、五十六年には商学部教授大塚宗春が財務管理論の日米比較研究のために赴いている。
また、五十三―五十五年度には、政府創設の日米友好基金により、GLCA/ACM、カリフォルニア州立大学連盟(The California State University and Colleges(CSUCと略記))、オレゴン州立大学連盟(The Oregon State System of Higher Education(OSSHEと略記))、それぞれに加盟する大学との間で教員の交流を行った。GLCA/ACMとは三名、CSUCとは二名、OSSHEとは一名の交換であった。来学した教員は、いずれも国際部参与として来学している。
如上の他、一四八―一四九頁に述べたように、四十二年には、それまでの「留学生規則」に代って「在外研究員等規則」が定められ、「規則の上でも」在外研究員制度が設けられた。「規則の上でも」と言うのは、新たに「在外研究員等規則」および「在外研究員等規則施行規程」で規定されたことと同じ内容が、既に三十四年に行われていたことが確認できるからである。「在外研究員等規則施行規程」では、長期および短期の派遣在外研究員について規定されているが、三十四年には「在外研究員」という名称で、半年以内の短期派遣と、半年以上一年以内の長期派遣の二種類が確認できる。更に、三十四年度から「大学派遣在外研究員」候補者の推薦が各学部から行われ、「長期派遣」、「短期派遣」とも各系統学部から一名ずつ、更に「(特別)短期派遣」とも言うべきものが学部編成順序に従って数学部から一名ずつ計数名が推薦され、決定されていた。この方式も、四十二年度以降の「在外研究員制度」下のものと同じである。つまり、実態としては、四十二年に「在外研究員等規則」として規定される「在外研究員制度」が三十年代初めより行われていたということである。四十二年度に制定された「在外研究員等規則」は、三十八年十月から学部長会で議論され、俸給規定や在外研究費規定を苦心、検討しつつ、実態を追認する形で規則として明文化したものと言えよう。従って、新規則が四十二年に定められたと言っても、教員の在外研究員の派遣は、それ以前と同じ方式により行われたのである。新規則が定められた四十二年度から五十七年度までの総計は、長期派遣が九十三名、短期派遣が二百四十九名に上っている。
学苑は、国際交流事業の拡大に対応するため、早稲田大学交流基金を昭和五十一年十月に創設した。この基金の目的は、国際交流に関する事業を助成することであって、この基金単独で国際交流事業を行うものではなかった。同基金は、五十二年度にはロンドン大学教授ピーター・ワイルズ、モスクワ大学総長R・V・ホフロフ、ボン大学代表ヴィルヘルム・ワーラーズの招聘および国際部のOSSHE加盟校の学生受入に対して助成を行っている。その後も、協定による交換に伴う派遣旅費および滞在費、国際部協定連盟に対する助成、協定大学代表来学応待に関わる経費、外国人学者招聘等々の助成を行った。
このように展開した学苑の研究学術交流について、五十三年には以下のような問題点の指摘、改革の提言が、「大学と国際交流」を特集テーマに組んだ『早稲田フォーラム――大学問題論叢――』第二三号(昭和五十三年十一月発行)でなされている。(一)学苑で受け入れる外国人研究者のための予算が少すぎる。これについては、少くとも一ヵ月分の滞在費、国内旅費、同伴者への補助費、更に、できたら年間数人分の渡航費などの諸費用を支出する基金を創設することが必要である。(二)外国人研究者用の宿舎の建設が必要である。(三)招聘研究者をサポートする教員への手当を支出すべきである。大学が招聘する場合、専攻分野を同じくする教員に彼らの世話をさせる必要があるが、その教員への財政援助がきわめて不十分である(西原春夫「教員の国際交流――一つの苦言――」)。(四)ボン大学、パリ大学、モスクワ大学との交換協定により派遣される教員は、全学的に適任者を選考する必要がある。学部順番制はやめるべきである。(五)交換協定によって来学する外国人教員に講義を担当させ、その講義を正規のカリキュラムに編入することが望ましい。(六)在外研究員が形式的、順番制によって決められている。これを改める必要がある(内田満「大学の国際交流と国際化――早稲田大学の場合――」)。(七)外国の奨学金制度をもっと活用して留学することが必要である。若い研究者までが学苑の在外研究制度を当てにしすぎている。在外研究員制度は年功序列制であるため、「自分にもっとも合った時機に留学することが不可能ないし困難」となる。最初の留学の「タイミングを誤ると、かえって留学がマイナスに働く」ことにもなる。(八)自己の長期的な研究計画の中で在外研究を位置づけ、前以て準備を十分にして出かける人が少い。特に、会話能力の修得が不可欠である。「会話〔能力〕の準備なしに安易に大学の在外研究員になる人がいるとしたら、学生が苦労して納付した学費を使って外国に物見遊山に行く」と批判されても仕方がない。(九)在外研究期間中に外国人研究者との人的関係を育てる努力をすべきである。留学中に種を蒔いた友人関係は、将来的に当該国との連絡の窓口にもなり、国際交流の糸口にもなる(西原、前掲論文)。
このように問題点は多岐に亘り、外国人研究者受入のための宿舎、財政上の問題、学苑派遣教員の選考方式の問題、海外研究への心構えの問題などが指摘されたわけである。特に、教員の海外派遣について言えば、海外派遣が「機会均等」の名の下に、「研究」とはかけ離れたものになりつつある状況が指摘されている。これらの問題点への対応は、財政面では早稲田大学交流基金の創設が実現した程度にとどまり、外国人研究者の宿舎については創立百周年記念事業に期待され、それ以外については今後の課題となっている。
昭和三十年代には、学苑の教育交流、すなわち外国学生の受入と学苑学生の外国諸大学への留学は、制度としては、前者しか進展しなかったが、四十年代になるとさまざまな問題点が現れ、それへの対応が議論されるようになった。また、三十年代末から全国的に私費留学が激増し、学苑においても学生の個人レヴェルの海外留学が次第に増加していった。こうして、学生の海外留学制度の整備が課題となっていったのである。四十年代以降の学苑の教育交流は、この課題への取組みの過程であり、また外国学生の受入に伴う諸種の問題点への対応の過程でもあった。
先ず最初に、学苑の留学生受入数の推移から見ていこう。第二十七表は、学苑が受け入れた留学生の数と、我が国が受け入れた留学生の総数とを示したものである。日本にやってきた留学生は、四十二年度には国費留学生が六百人、私費留学生が二千七百八十二人、インドネシア賠償留学生が八十七人、合計三千四百六十九人であった。以後、国費、私費とも増加していき、五十七年度には千七百七十七人、五千六百七十七人、そして外国政府が日本に派遣した留学生が六百六十二人、合計八千百十六人と、二倍ないし二倍半となっている。これに比して学苑が受け入れた留学生の数は、同じ期間に四百七十三人から三百五十五人へと二五パーセント減少している。我が国で受け入れる外国人留学生が全体として増加していく中で、逆に学苑への留学生は減少していくという現象が起っているのである。なぜ、このような現象が生じたのであろうか。
学苑に籍を置いた留学生の数を、大学院・学部の正規学生、大学院研修生や学部聴講生などの非正規学生、国際部への留学生、語学教育研究所に学ぶ留学生に分けて示したものが、六九二頁の第二十八表である。これによると、非正規学生、国際部留学生、語学教育研究所留学生の人数には大きな変化は見られず、学苑の留学生総数の変動を規定したのは、大学院および学部の正規留学生数の変化であることが分る。四十二年度に三百六十六人を数えた正規の留学生は、その後減少し、四十七年度から五十二年度にかけてやや持ち直したものの、以後減少の一途を辿って、五十七年度には百四十人と、四十二年度の三八パーセントにまで低落したのである。
第二十七表 早稲田大学の留学生受入数と全国の留学生受入数(昭和42―57年)
(「早稲田大学留学生受入の歩み」『国際交流ニュース』平成6年10月発行第17号 2頁の表より作成)
この変動を、更に外国学生特別選考制度による入学者について見よう。その数は、四十二年度には大学院三十四人、学部六十人であったが、五十七年度には三十三人、三十一人であった。この間、大学院では四十八―五十一年度に増加したものの概ね一定であり、学部では増減が見られたけれども全体として減少傾向にあった。外国学生特別選考制度による入学者は、どの学部も入学者全体の一定の割合に抑えるべく努めたので、大きな変動は生じない筈である。しかし、志願者の変動と併せ見ると、五十三年度以降の学部への留学生の減少は、注意されるべきである。
志願者は、学部では四十二年度には二百四十一人、以後百人台が続き、四十八年度から増加に転じて五十三年度には三百四十四人にも達している。ところが、五十四年度には激減し、五十七年度には百二十一人にまで減っている。大学院についても、四十二年度百七十一人であったのが四十三年度には三百二人にまで膨らみ、以後四十七年度まで増減を繰り返し、四十八年度以降は減少傾向となって五十七年度には僅か三十三人にまで落ち込んでいる。これらの入学志願者数の変化から、外国人留学生の間で学苑に対する人気が低下したことが窺える。しかも、入学者の減少が同時に見られたことから、学苑で学ぶのに必要とされる学力を有する受験者が少くなってきたと考えられる。これは、この時期に全国の多くの大学が外国人留学生の受入に力を注ぎだしており、留学生にとっては大学入学の選択肢が増えたので、その影響が及んだためでもあろう。
(「早稲田大学留学生受入の歩み」『国際交流ニュース』第17号 4頁の表より作成)
外国人留学生の間での学苑の人気の低下、大学院・学部の外国人学生減少の原因は明らかでないが、大学の国際交流が全国的に論議される中で五十八年十月に発行された『IDE』第二四五号(十月一日発行)に掲載された国際部部長藤田幸男「早稲田大学における留学生」での以下の指摘は、示唆に富んでいるように思われる。
藤田の指摘はこうである。国際交流についての学苑「全体として一番大きな問題は、主としてアジアの諸国から各学部に学んでいる留学生と、主としてアメリカから国際部に学んでいる留学生の間に」、「教育の面でも、住居その他生活の面でもかなりの差があること、そして両者の間にはほとんど交流がないこと。」国際部はアメリカの諸大学と締結した協定に基づいているため、カリキュラム上も、生活上も、それなりの配慮がなされていた。英語による授業科目の設置、「日本ならびに日本が当面する諸問題について理解を一層深くするため」に実施される「セミナー」、個々の学生が行う自主的研究を専任教員が指導する「インディペンデント・スタディ」の設置など、カリキュラムに配慮されてあるし、学生は日本語の習得や日本の習慣を理解する上で役立つホームステイを原則としており、宿所を国際部が世話するなど、生活上の問題にも多大の配慮がなされていたが、これに比べて、各学部で学ぶ外国学生に対しては、カリキュラムの面で特別の考慮を払っているのは、商学部と理工学部だけである。
商学部では、留学生について、昭和三十八年度から第一学年から第二学年で「日本語Ⅰ・Ⅱ」を必修とし、第三学年と第四学年の専門科目の一部(外書講読)に「日本語経済学Ⅰ・Ⅱ」を配当して履修させている。読解力と作文力とを高めるため、またそれぞれの国の実情や問題点の理解に役立たせるためである。また、理工学部では、四十年度から留学生に日本をより深く理解させるため、「日本の歴史」「日本の文学」「日本の音楽」「日本の社会構造」「日本の文化」「日本経済の発展」など、留学生のために特別の一般教育科目を配当している。「物理」「化学」についても留学生の基礎学力に配慮して特別のクラスを編成している。両学部には、以前から入学する外国人学生が多いという歴史的な背景があるにしろ、他の学部においては、「留学生に対し教育上特別の配慮を払う新しい動きもみられない」し、商学部・理工学部の授業にしても、「学部セクショナリズムのために、他学部の留学生はいまだにこれらの科目を履修することができない」状態であった。宿所は個人で捜さなければならないが、不動産屋などの町の周旋屋を通じて見つけるのは難しく、勢い、先輩の伝手でアパートや下宿に入居することになり、同国人同士で固まるようになってしまう結果、日本語の習得や日本の習慣の理解の速度が阻害されることになる。
このような状態を改善するため、藤田は、「各学部がそれぞれの特色を活かして、日本理解を深めるような科目を分担して設置し、すべての学部の留学生に自由に履修を認めること」を提言し、「国際部で認められている個々の留学生の学習上の関心に則したインディペンデント・スタディを認め、留学生の関心や水準に見合ったきめの細かな教育を行う必要もあろう」と指摘したのである。
ところで、大学院・学部の正規学生の主要出身地を見ると、東アジア出身者が殆どで、特に中華民国(台湾)の比率が群を抜いて高く、次いで韓国となっている。この傾向は四十二年度以降も変らない。ただし、四十二年度には中華民国五五パーセント、韓国一七パーセント、五十七年度は四七パーセント、二九パーセントというように、中華民国の比率が減少した反面、韓国の比率が上昇した。四十七年に国交が回復した中華人民共和国からの留学生は、五十―五十二年度に一人おり、その後は五十六年度に六人(三パーセント)、五十七年度には十人(七パーセント)と次第に増加してきている。
さて、国際部は創設以来、アメリカ人留学生を受け入れてきたが、四十年代以降は、学苑が新たに協定を結んだ、OSSHE(四十三―四十四年度から)、ミシシッピー渓谷大学連盟(Mississippi Valley College Association,四十四―四十六年度)、カリフォルニア私立大学連盟(The California Private Universities and Colleges,四十五―四十六年度から)、中西部私立大学連盟(ACM、四十五―四十六年度から。五十―五十一年度にGLCAと合併してGLOA/ACMとなる)、ワシントン大学(五十五―五十六年度、五十七―五十八年度から)の諸大学から留学生を受け入れた。五十年代に全国的に大学の国際交流のあり方が論議される中で、学苑においても『早稲田フォーラム』(昭和五十三年十一月発行 第二三号)が大学の国際交流、学苑の国際交流について特集を組んだ。ここで政治経済学部教授内田満が国際部に関し、大学の国際化の促進のため、早稲田大学学生による国際部設置科目の聴講を随意科目ではなく、卒業に必要な単位として認められる正規の単位として扱うべきである、と提言した(「大学の国際交流と国際化――早稲田大学の場合――」)。正規の単位とすることによって、各学部の日本人学生の受講が増える。日本人学生にとってみれば、英語による講義を受講すること、外国人留学生と机を並べて学ぶことによって国際的な感覚を身につけることが期待できるし、外国人留学生にとってみれば、同世代の日本人学生と交流する機会が多く生れるということになる。また、各学部に学ぶ外国人留学生にとっては、「難解」な日本語による講義ではなく、世界共通語的な英語による講義によって、内容を正確にかつ容易に理解することができる。このようなメリットが考えられたのである。学苑は、五十五年九月、国際部設置科目を他学部学生が受講した場合、その単位を正規の単位として認定することとした。右の提言が実現したわけである。この提言は、四十年代から指摘されていた学苑の国際教育交流の種々の問題点への対応に他ならなかったが、大学の国際交流への取組みが全国的な規模で議論される状況を背景として、漸く実現したのである。
ところで、国際部で一年間学んだ留学生達は日本の印象、生活を、昭和五十六年六月発行の『早稲田学報』(第九一二号)収録の座談会でさまざまに語っている。「犯罪が少ないと思っていましたが、日本でも犯罪は毎日毎日起っている」とか、「日本は伝統を守る国だと思っていたんですが、そうでもない」とか、来日前の想像と違っていたとの感想を持つ者も少くなかった。ホームステイは概ね好評で、「ホームステイの両親と話をするのが非常に勉強になり、よかったと思います。いろいろ日本のことについて、両親から教えてもらっています」との言葉は、ホームステイの所期の目的が果されていることをよく示している。自転車が日常生活の中で使われていることに驚きを感じたようで、「日本の家庭の主婦はどこへゆくにも自転車でいく。これに対して、アメリカの主婦は自動車でゆく」、「私もビックリしたのは、日本人はよく自転車でショッピングなどをするということです」、「アメリカ人は、遊びの時だけ自転車を使います」と述べている。日本の食べ物は、納豆が苦手な人が多く、生卵も食べられないという人もいれば、刺身が大好きという人もおり、さまざまである。日本語の習得には苦労しており、話すこと、読むことは比較的速く上達したが、「漢字をいつも忘れるから、ひらがなを使って書きます」というように、漢字を書くことは難しいようであった。学苑については、現代的な大学と褒める反面、緑が少い、学生数に比して広さが足りないなど、教育環境が好ましくないことを婉曲に指摘している。日本の大学生については、あまり勉強しない、試験をもっと多くした方が勉強する、勉強よりも遊ぶのに夢中と観察している。
アメリカ人留学生の受入しか行ってこなかった国際部であったが、四十一―四十二年度に至り、学苑学生の海外留学の窓口ともなった。協定校であるGLCA加盟校に、一年間ずつ学費免除(渡航費、生活費、その他は本人負担)で派遣する道が開かれたのである。四十一―四十二年度には二人、四十二―四十三年度五人、四十三―四十四年度八人、以後四十九―五十年度まで八人前後と変らなかったが、五十―五十一年度にGLCAとACMとが合併してGLCA/ACMとなり受入校が二十五大学に増えると派遣留学生数も以後増加し、五十六―五十七年度には二十七人にまで昇っている。また、四十三―四十四年度には、学費等充当額として五百ドル相当額を給与してカリフォルニア州立大学連盟(California State Colleges(CSCと略記))への派遣が、学費免除でワシントン大学(セントルイス)への派遣が始まり、それぞれ二人、一人が派遣されている。CSCへの派遣は一年度のみで終り、代って四十四―四十五年度には学費・寮費免除でオレゴン州立大学への派遣が開始された。ワシントン大学へは毎年一人、オレゴン州立大学へは五十―五十一年度まで一―三人、五十一―五十二年度以降は同大学が所属するOSSHE加盟校への派遣が行われ、派遣人数も五ないし十二人と増加している。この他、大学間協定に基づいて、シカゴ大学(四十八年から)、高麗大学校(四十八年から)、ラ・サール大学(五十五年から)より留学生を受け入れ、また学苑学生を留学生として派遣した。
第十編第五章で述べたように(一二四頁)、学苑学生の私費留学の増大を背景として、三十九年五月八日の学部長会は「可能な限り留学前後の本大学における学習期間を通算して単位を与えるように取扱う」ことを申し合せた。留学先の大学の年度が九月始まりであるため、学苑で前期だけ講義を受けて留学し、留学が終って帰国する翌年度の後期の講義を受けることになる。これだと、普通は二年とも単位を取ることができず、一年留学するために二年費やすことになる。このようなマイナスを避けるため、出発年の前期と帰国年の後期の講義を「可能な限り」接続して一年分と考え、単位を与えようというのが、学部長会の申合せであった。その後、在学中に海外の大学等に留学する学生が増加したことを背景に、それまでの取扱いや申合せでは多様なケースに対応できなくなったため、大学として統一した規程を設ける必要性が感じられるようになった。そこで、四十五年十一月から翌年四月にかけて討議・検討を行い、「在学中に海外留学する者の取扱いに関する規程」を定めて四月一日から施行することとした。この規程では、「留学」を「大学の許可を得て海外の大学またはこれに準ずる学校・研究機関など(以下「大学等」という)に一年以上在学または在籍し、教育を受け、または研究に従事し、もしくは研修に参加すること」(第二条)と規定し、留学に必要な手続(第三条)や留学期間(第四条)を定めている。更に、留学中は長期欠席扱いとして在学年数に算入せず(第五条)、学苑における留学前後の学習期間を可能な限り通算して、単位を取得できるように取り計らう(第六条)とともに、留学期間中の学費は二年間に限って免除することができる(第七条)としている。「大学の許可を得」た留学について、種々の配慮を行うことを明確化したのである。それでも、留学中の単位の認定は、六十年の同規程の一部の改定を俟たなければならなかった。
しかし、国際部の交換留学生については、事情は少し違っていた。三十九年五月八日の学部長会申合せでは留学前後の履修単位について配慮されたものの、留学すると卒業まで五年かかることになる。そこで、四十四年一月十七日の学部長会で、(一)学部長の推薦により国際部が実施する正規の試験に合格して派遣された留学生であって、(二)早稲田大学の協定している大学で単位を取得し、しかもその科目が(三)当該学生の所属学部に設置されている科目にほぼ該当すると認定された場合という三条件をすべて満たした時に、十二単位を限度として学苑の単位として認めることとなった。この単位の制限は同年十二月の学部長会で取り払われたが、留学中の取得単位の卒業所要単位認定を各学部教授会に任せること、卒業所要単位に算入された分については、その分の授業料を学苑に納めること、という条件が付された。つまり、四十四年の申合せは、国際部が窓口となる協定校との交換留学生に限り、各学部教授会が単位を認定するとしたものであった。この単位認定は各学部に任されたので、学部により認定単位の上限が異っていた。しかし、五十五年七月四日の学部長会で、認定単位の上限をどの学部も三十単位とすることが了解されている。
学苑の国際教育交流は如上のように展開したが、政府も国際交流に力を入れて取り組み、四十七年度には国の補助金により「学生国際交流制度」が実施されるようになった。学苑では、四十八年度にシカゴ大学、GLCA、高麗大学校との交流計画がこの制度に採用され、大学院学生二人、学部学生四人を派遣し、これと交換にシカゴ大学、高麗大学校から大学院学生各一人を受け入れた。その後、この制度の適用は五十三年度まで見られないが、同年度以降は連年、同制度に基づいて留学生を派遣している。
なお、五十六年度に至り、いわゆる帰国子女の受入について新たな取組みが始まった。海外在住の日本人家族の増加に伴い、その子女の帰国後の教育が社会問題化してきたことを背景として、帰国子女の学苑への入学に関する問合せが急増し、受入条件の緩和が強く要請されるようになったからである。学苑では既に外国学生特別選考制度を準用して、「日本国籍者で中学校、高等学校の六年間を外国における通常の課程で修了した者」を受け入れてきたが、社会的な要請の高まりに鑑み、五十六年七月三日この条件の緩和を学部長会で承認した。新たな条件は、「外国の中等教育機関において最終学年を含めて三年の課程以上を修了した帰国子女」というもので、五十七年度から募集を開始した。この年度には十九人の志願者があり、このうち八人が入学を許可された。日本国内の偏差値偏重の中で育った日本の学生とは異るものの見方、幅広い視野、学問への取組み等が、一般の学生へ好影響を及ぼし、相互に啓発し合って、よりよい形で人間形成がなされるであろうと期待された。
本章では昭和四十二年度以降の学術研究交流および教育交流について述べてきた(三十年代の学術研究交流および教育交流については六七―一二四頁参照)が、本節では、昭和三十年代からの学生のサークルを中心とした国際交流を取り上げよう。
三十年代における部やサークルの海外渡航の件数を見ると、三十八年を境に爆発的に増加した。三十七年までの傾向としては、野球部とか水泳部といった体育系の部が、部活動の一環として海外に遠征することが多かったが、三十八年以降は研究会やサークルによるものが増えている。三十七年までのおもなものを挙げると、三十二年六―七月水泳部による中華人民共和国への親善試合、同年十二月―三十三年一月野球部による台湾への親善試合、三十三年六ー八月同じく野球部によるブラジルへの親善試合、三十六年五月ア式蹴球部による韓国への親善試合と、親善を目的としたものが殆どである。三十八年以降になると、三十八年二月からの早稲田精神昻揚会によるアメリカ大陸徒歩横断隊、七月からの探検部によるオーストラリア内陸調査隊、六月から翌年五月にかけての中南米諸国研究会による南アメリカ学術調査隊、三十八年八月の探検部による韓国親善旅行、三十九年二―四月の自動車倶楽部によるアメリカ、カナダの化学工業の調査研究隊など、研究調査が中心となっている。三十八年に件数が爆発的に増加したのは、我が国の海外渡航制度の変更と関係がある。それまでの海外旅行は、前述したように、二十四年十二月制定の「外国為替および外国貿易管理法」により制限が加えられていた。しかし、日本経済の高度成長や貿易為替の自由化の動きとともに、三十八年には業務渡航が、翌年には海外旅行の自由化が実現するなど、海外渡航の制限は緩和されたのである。三十八年はまだ規制下にあったが、規制緩和を求める社会的雰囲気を反映して、学苑の学生らの手によって多くの海外渡航が計画され、実現されていったのであろう。
これら三十年代のものの中から、特筆すべき国際交流を二点紹介しよう。昭和三十二年六月の水泳部の中華人民共和国遠征は、同月に中華全国体育総会の招きで同国を訪問した日本スポーツ代表団が結んだ「日中スポーツ交流協定」に基づき、その栄誉ある第一陣として招待されたものであった。部長・教授安井俊雄団長以下九人は、六月二十三日に出発、中国各地で親善試合を行い、大変な人気を呼んだ。三十日の北京での試合には六千人の観衆が詰めかけた。周恩来総理も予告なしにスタンドに姿を現し、早大選手一人一人と握手し、「日中の青年同士は仲良くしなければならない」と言葉をかけた。周総理が日本選手と直接会見したのはこれが初めてであると、同年七月一日付『毎日新聞』は伝えている。試合後、周総理は安井団長に、「私は日中の青年が仲良く試合をやっているのをみてとても楽しかった。日本の水泳選手はとても強い。私も中国の水泳が強くなることを望んでいる。どうか日本の青年によろしく伝えて下さい。青年はお互いに仲良くして世界の平和のために働かねばならない」と語ったという。安井はこの親善試合を回顧して、「親善試合のほか先方の希望で合同練習や技術研究会を開き、非常に喜んでもらった。日本水泳界については深い尊敬と関心を持っている。今後も大学同士の交流などを希望していた」(同紙 昭和三十二年七月十八日号)と、将来の日中交流の展望を語っている。しかし、翌三十三年三月二日長崎市の切手展で一青年が中華人民共和国の国旗を引きずり下ろすという「長崎国旗事件」が起ったことによって両国の関係は冷却し、学苑水泳部の播いた日中友好の種は、残念ながら大輪を咲かせる前に摘み取られたのである。
二つ目は、三十六年のア式蹴球部の大韓民国遠征である。訪韓が実現したのは、三十五年に第二次世界大戦後スポーツ界では初めて訪韓した日本サッカー・チーム一行の副団長であった学苑のア式蹴球部監督工藤孝一(昭八商)が、韓国の校友会と折衝した結果であった。日本と韓国とは、過去三十五年に亘る支配・被支配の関係にあったため、訪韓に当っては不測の事態が懸念された。このため、渡航に先立ち、部長の教授小松芳喬は学生を集め、「反日感情が厳しいに違いないから、どんなに不愉快なことがあっても、じっと我慢をするように」と異例の注意を行ったという。しかし、この心配は杞憂に終った。五月十日金浦飛行場に降り立った一行二十七人を、早稲田大学韓国同窓会の多数の校友が出迎えた。部長と監督の首には花環がかけられ、部員一人一人に女子学生から花束が贈られた。空港からソウルへ向う車は警察によって先導され、国賓待遇であった。ソウル市内の目抜き通りには「第一回韓日大学蹴球対抗戦」と記した宣伝塔が建てられ、大きなWの字の中に WELCOME WASEDA SOCCER TEAM と書かれており(小松芳喬『三つのゲイヂ』三七頁)、一行は国を挙げて歓迎されたのである。高麗大学校、慶煕大学校と親善試合を行い、一万二千から一万五千の観衆が集まり、更に試合場を見下ろす近くの丘から数万の人々が観戦したという。一行は尹潽善大統領、張勉国務総理、金相敦ソウル市長からも温かい接待を受け、延世大学校総長からガーデン・パーティーに、慶煕大学校総長から晩餐に、高麗大学校からはティー・パーティーに招待された。他方、部長小松芳喬は、崔文煥(昭一五政)が学長を勤めるソウル大学校商科大学で、日本人としては戦後初の学術講演「日本経済史学における発展段階説の変遷」を行うなど、両国の友好親善を深めるのに貢献するところが少くなかった。ところが、五月十六日未明、朴正煕による軍事クーデターが勃発し、サッカーの親善試合どころではなくなり、予定されていた残り二試合を急遽中止、十八日金浦空港を飛び立つことを余儀なくされたのである。
このように、正式に国交を結んでいない国々との親善交流の一翼を、学苑の運動部が担ったのである。その後も親善試合のために学苑運動部が海外に出かけることが続き、四十年度には、韓国アイスホッケー協会ならびに大韓氷上競技連盟の招聘によりスケート部が京城に赴き(十一月十七―二十七日)、また中華全国体育総会の招聘によりバスケットボール部が中華人民共和国へ出かけ(四十一年三月九日―三十一日)、それぞれ親善試合を行った。また、高麗大学校との定期戦のためア式蹴球部が韓国に派遣されている(四月八日―二十一日)。四十一年度には韓国陸上競技連盟の招聘により競走部が、四十二年度には大韓民国野球協会の招聘により野球部が、中華民国撃剣協会の招聘により剣道部が、同国棒球協会の招聘により軟式野球部が、同国網球協会の招聘により軟式庭球部が、同国柔道協会の招聘により柔道部と合気道部がそれぞれ派遣されている。運動部の海外派遣は、親善試合を目的とするものが四十四年度から激減し、代って国際ホッケー・トーナメント(約七ヵ国参加)出場のため香港へ(四十三年九月十八日―二十八日)、サンタ・クララ国際招待水泳競技大会参加のためアメリカへ(四十四年四月九日―二十日)、国際射撃競技大会に参加のため西ドイツに(四十五年四月二日―六月二十四日)というように、国際競技大会へ参加するために海外へ出かけることが主流になっていった。ユニバーシアードやオリンピックへ日本代表選手として参加する学苑学生も少くなかった。
学生の海外渡航は、四十年代に入ってますます盛んになった。四十年四月の『早稲田学報』(第七五〇号)は「学生版海外渡航熱」と題して学苑学生の海外渡航の様子を次のように伝えている。
昨年もおしつまって、全国早稲田大学学生会連盟が「早稲田大学欧州学生見学交歓旅行」を企画し、百二十人の学生をつのった。……三月初旬で申込み二百余名……(主催者側は)選考会をひらかねばならぬと、うれしい悲鳴をあげている。……要するに学生たちは海外旅行というものを、国内旅行の延長程度に考えているのだ。往復の旅費と機会さえあれば手がるにでかける、ということであろう。……昨年の主なものを拾ってみても第二次エクアドル登山隊、東南アジア農業問題学術調査隊、北米及びカナダの化学工業調査隊、ドイツ派遣学術使節団、インド婦人問題調査などがある。海外旅行熱といっても言いすぎではないだろう。 (四二頁)
このように述べた後、次のように、船上大学を意識したコメントで結んでいるのは興味深い。
アメリカには海洋大学というのがある。一年間で各国をめぐりあるき、勉強するシステムである。早稲田大学海洋班などというものがあり、歴史、哲学、文学、地理などを専攻する学生が半年間を船上で生活し、卒業論文をまとめるなどということになったらすばらしいことであろう。 (四三頁)
海外渡航熱はその後も衰える様子を見せず、四十二年にも『早稲田キャンパス』五月二十五日号は「高まる海外渡航熱・本年度すでに十余団体」と報じている。彼らの訪問地は、欧米に限らず、世界各地に広がっているが、特にアフリカ、中南米、東南アジアに関心が集まっている。当時の日本人には馴染みの薄い地域や国々を意識的に選び、積極的に知見を拡めようとしている姿勢が窺える。進取の精神に溢れていると言ったら言い過ぎであろうか。
さて、学苑で学生の海外渡航の先鞭をつけたのは、海外に関心のある団体や個人が集まってできた探検部である。三十四年四月に設立され、最初の活動として世界最長のアンデス河と世界最大の水量を誇るアマゾン河の調査を行う早大エクアドル・アンデス遠征隊を派遣している(三十六年)。次いで、オーストラリア内陸調査隊(三十八年)、ベーリング海峡調査隊(四十年)と続き、その後も、南ボルネオ調査隊(四十二年)、女子学生によるトンガ女子探査隊(同年)、第一次ナイル河全域踏査隊(四十四年)、西イリアン学術調査隊(四十九年)などを派遣した。海外に出かけることが困難な三十年代に創設され、その困難を乗り越えて海外調査を実現してきたことは、学生達に海外飛雄への大きな希望を与えた。三十四年の設立に際し探検部顧問の学生部長滝口宏が述べた、「諸君はなるべく若いうちに外をみてくるよう努めなさい」、「いま、大学としては何もしてあげられないが、できるだけ外に出してあげたい」(『探検研究会会報』昭和三十四年七月五日発行 第一号)との言葉が、実行に移されていったとも言える。
探検部と並んで、特徴ある海外活動を展開してきたのが早稲田精神昻揚会である。八三四―八三六頁に記すように、三十八年のアメリカ大陸徒歩横断隊は、早稲田の名をアメリカ中に拡めた。アメリカ西海岸から東海岸へ徒歩により横断し、各地でアメリカ人家庭に宿泊させてもらい、また夜には町の人々と会合して日本の姿を紹介するなど、多くの人々との交歓を果し、ワシントンではケネディ司法長官と会見して帰国している。四十二年にはメキシコ徒歩横断中南米踏査隊を派遣、六月から四ヵ月かけてメキシコのアメリカ国境の町メキシカリからメキシコ・シティまで約三千キロを踏破、各地で大歓迎を受け、ラジオや新聞などでも大々的に報道された。メキシコ・シティからは自動車で中南米諸国を巡り、各国で交歓を行った。
最もユニークなのは早稲田船上大学であろう。政治、経済、社会、文化の国際化が進み、日本の大学教育のあり方を探る中で、世界的な視野を涵養し、外国語教育を強化しようとして生れたのが洋上大学の構想であった。その構想を実現するため、商学部教授中島正信を会長に船上大学研究会が創られた。研究調査の結果、四十三年夏季休暇に東南アジアに行く船を利用して洋上大学の実験が行われた。学問上の理論を机上のまま終らせるのではなく、理論の検証、それに伴う新しい問題の発見の繰り返しによって、洞察力、摂取力、柔軟性に富む自己の理論を構築していく。このような考えに基づいて早稲田船上大学の授業が行われた。出航前の各国事情の研究により課題を設定、訪問による現地の観察、これらの船上ゼミでの討議と、生きた授業、ゼミを行うことを目指したのであった。
四十三年七月十三日から八月十一日にかけて実施された早稲田船上大学には、講師として教育学部教授山岡喜久男、同助教授大矢雅彦、商学部教授峰島旭雄、同専任講師渡辺正雄が参加、学生は百十一人で大半が三年生であった。学苑はこの企画を後援し、職員を二人随行させた。この第一回船上大学は、船上ゼミナールの受講、東南アジア訪問、各国の大学との交歓、ならびに現地の見聞とそれをめぐる学問的指導や討議を目的としていた。大学間の交歓には言語上のコミュニケーションの問題があったものの、互いの熱意によって概ね補うことができ、船上ゼミナールは現地見聞とリンクしていたためもあって、良好に消化されたが、現地の見学は広汎、多様な地域であったので、設定した課題を掘り下げるという意味においては不十分であったと総括されている(山岡喜久男「第一回船上大学の意義」早稲田船上大学研究会『一九六八年度第一回早稲田船上大学報告書』昭和四十四年三月)。一方、船上大学に参加した学生からは、(一)この旅行の主旨をよく理解しないで参加した学生がかなりおり、積極的に学ぶ姿勢に欠けていた学生が目についた、(二)船が世界一周の豪華客船であるために娯楽施設が整っており、エンターテインメント・プログラムが用意されていて、勉学に適さない環境であったので、夜遅くまでダンスに興じ授業中眠っている学生が目についた、(三)名所・旧跡めぐりとショッピングに追われて、農業技術や民衆の生活などを自分の耳目で確認できたか疑問である、などの反省が出されている(沢村裕元「今後の可能性に期待して」『早稲田キャンパス』昭和四十三年八月二十五日号)。第一回の成果と反省を踏まえ、翌四十四年インド、セイロンへの船上大学が実施され、以後四十五年地中海沿岸諸国、四十六年ヨーロッパ、ラテン・アメリカ、四十七年ヨーロッパ、北アメリカ、四十八年オーストラリア、南太平洋、四十九年ヨーロッパ、地中海、五十年エーゲ海、ヨーロッパ、五十一年地中海、ヨーロッパ、五十二年エーゲ海、ヨーロッパと続き、学生部がこの事業を後援した。しかし、訪問地がヨーロッパに集中して観光旅行的色彩が濃くなったと考えたからか、学苑は五十三年以降、船上大学の後援を打ち切った。
世界の名士が、折に触れ学苑を訪れている。当代一流の名士による生のメッセージ、講演は、学苑の教職員をはじめ学生にも深い感銘を与えている。目の辺りに接することの効果であろう。固定化したカリキュラムに囚われず、時宜に適った講演は、学苑の国際交流を支える一本の柱となっている。
昭和三十年代に学苑を訪れた世界の著名人は、三十年十二月八日の中国科学院院長郭沫若(中華人民共和国)をはじめ、三十一年には血清学者A・ウィーナー(アメリカ)、京劇俳優梅蘭芳(中華人民共和国)、歴史家アーノルド・J・トインビー(イギリス)、三十二年インド首相ジャワハルラル・ネール(名誉博士贈呈)、生化学者A・オパーリン(ソヴィエト連邦)、哲学者ガブリエル・マルセル(フランス)、三十三年歴史哲学者カール・レヴィット(西ドイツ)、三十四年インドネシア大統領アハマド・スカルノ、三十五年西ドイツ首相コンラート・アデナウアー(名誉博士贈呈)、三十六年歴史哲学者ディエス・デル・コラール(スペイン)、アメリカ駐日大使エドウィン・ライシャワー、アルゼンチン大統領アウトゥロ・フロンディシ(名誉博士贈呈)、三十七年アメリカ司法長官ロバート・F・ケネディ、ソヴィエト連邦宇宙飛行士ユーリー・ガガーリン、三十九年同国第一副首相アナスタス・ミコヤンなどを挙げることができる。
四十年代以降になると、学苑の国際学術研究交流の進展、我が国の国際交流の広がりを反映して、数多くの外国人研究者、政治家、音楽家などが来学しており、一人一人名を挙げることが不可能なほどである。名誉博士を贈呈した人物に限ると、四十年の前国際復興開発銀行総裁ユージン・R・ブラック、四十三年の大韓民国前国務総理崔斗善、五十四年のベルリン・フィルハーモニー交響楽団終身常任指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンなどが挙げられる。 本節では、これらの人々の来学の様子と学生や学苑の対応ぶりを、郭沫若、ケネディ、ガガーリン、崔斗善、カラヤンについて述べることにしよう。
昭和三十年十二月八日大隈講堂で催された大山郁夫平和葬に参列した郭沫若は、雄弁会の願いに応じて講演を行った。郭は文学者であり、政治家であり、歴史学者でもあった。中国科学院院長の職にあり、日本学術会議の招待で同院学術使節団団長として来日していたのである。約二千五百人を収容できる共通教室には、演壇から照明室まで学生でギッシリと埋まった。郭はジェスチャーたっぷりに、巧みな日本語を時折り混ぜながら、「中日文化の交流」という題で二時間近く、ユーモアに富んだ感銘深い講演を行った。千人ほどの学生は会場に入れず、場外に特設されたスピーカーから流れる声に熱心に耳を傾けた。郭沫若は中国と日本との交流二千年の跡をたどり、
今日からみて、二千年のこの歴史は、私達に経験若しくは教訓を与えてくれています。それはつまり民族と民族とのあいだ、両国の人民と人民とのあいだを平和的に共存せしめておきさえすれば、文化並びに物質生活は向上し人民に幸福がもたらされるということであります。……これこそ歴史上の一つの経験であるのであります。もう一つの経験――第二の経験があります。それは、つまり民族と民族がお互いに尊敬しあいお互いに虚心坦懐に学びさえすれば、両国人民の物質的文化的な生活に役立つということであり、若し驕りたかぶったり自己満足すれば、文化は阻害され、又甚しきに至っては多くの損失を蒙ることがあるということです。 (『高遠』昭和三十一年一月発行 第一輯 四九―五〇頁)
と、いわゆる「歴史の教訓」を歴史家としての透徹した史眼で語っている。そのあとで、日中戦争後の中国の状況を述べ、最後に早稲田の学生・日本の人民に、文化交流の隆盛、両国国交正常化、世界平和のための両国の提携などの希望を託して講演を終えた。講演が終ってから、学生達が御礼として「都の西北」を大合唱すると、郭沫若は手を振り拍子をとってこれに応えた。鳴りやまぬ拍手のうちに、郭は会場をあとにした。
三十七年二月六日のアメリカ司法長官ロバート・F・ケネディの来校は、学苑内外に少からぬ波紋を巻き起した。それは、当時の日米関係を象徴するものであった。
その日、ケネディは大隈講堂で開催される「R・K歓迎委員会」(会長小坂善太郎)主催の講演・討論会に出るために学苑を訪れた。前宣伝のためか大隈講堂の内外は他大学の学生を含む多数の学生で埋め尽された。ケネディの姿が講堂に現れると万雷の拍手が沸き起った。その拍手に混じって「帰れ、帰れ」のヤジ。そのヤジを制しようとする声。講堂は異様な雰囲気に包まれていた。ケネディの講演が始まると、来日反対を叫ぶ一部学生が、都内八学生自治会の名で発表した長官宛公開質問状を振りかざして「質問に答えろ」と騒ぎだした。この騒ぎにケネディは講演を中断し、「彼らの話を聞こう」と言って、最前列で大声を発していた学生(第一政治経済学部学友会委員長)を指名して壇上に登らせた。彼が公開質問状を滔々と読み上げ、沖縄の施政権返還問題について質問すると、ケネディは次のように学生達に語り出した。
われわれの国アメリカとアメリカ人は、国家が個人のためのものであり、個人は国家の道具ではないと信じている。AA〔アジア、アフリカ〕諸国が自分たちの将来についていろいろ異なった考えを持っていることは知っているし、日本の将来は日本国民が決めるものであることも知っている。この大学でも、アメリカの大学でも、自由に意見を発表することはできるが、共産圏はどうだろう。政府と異なる意見を自由に壇上に上って発表できるだろうか。 (『朝日新聞』昭和三十七年二月七日号)
こう語って、ケネディは壇上の学生を振り返り、「池田・ケネディ会談後、ケネディ大統領が沖縄に調査団を派遣、調査団はその報告書をいま作っているところだ」と沖縄問題について答えた。彼はなおも質問を続けようとしたが、「一人一問に限れ」「ヤメロ、ヤメロ」という怒号の中で降壇させられた。次の学生の質問とそれへの回答の後、第三の質問が促された時、一人の応援団員が壇上に立ち、大きなジェスチャーで「都の西北」を指揮しだした。すると、先程の騒然とした雰囲気はどこへやら、会場全体の大合唱となり、その合唱の中で総長大浜信泉からケネディ夫妻に「大隈講堂」の絵画が贈呈された。なおも続く「都の西北」にケネディ夫妻は手拍子を和し、壇上は和やかな雰囲気に包まれた。歌い終って長い拍手が場内を覆った。この拍手に包まれながら、夫妻は学苑をあとにした。
結局、大隈講堂におけるケネディの講演・討論会は、全くその体をなさなかったと言える。この騒動は、「ケネディ(討論会)事件」ないし「早大(討論会)事件」と呼ばれ、社会的な反響を巻き起こした。学生の間からは、この騒動に対し「あまりに礼を失し、醜態をさらした」との声が挙がり、反省のための集会を開き、代表者がアメリカ大使館を訪れて謝意を表したりした。また、この一件が一部始終テレビで放映されたため、それを見た人々から新聞各社に投書が相次ぎ、この事件に関する有識者の意見が更に新聞紙上をにぎわせた。また、ケネディ司法長官がアメリカに帰国してからも、同長官を訪れ、この事件を謝る日本人が多くいたのであった。
なお、ケネディ司法長官は帰国後、旅行記 Just Friends and Brave Enemies(波多野裕造訳『自由の旗の下に――正義の友として勇敢な敵として――』)を一九六二年に出版し、その印税を早稲田大学に学生の奨学金として寄贈している。二二一頁で触れたように、学苑では寄贈された百三十五万円を基金として「ロバート・ケネディ奨学金」を創り、院生・副手各一人に年額五万円を与えることとした。この奨学金は昭和三十八年四月一日から実施され、その後支給額が増加されて現在に至っている。
三十六年四月十二日人類史上初めて宇宙空間に飛び出して地球の姿を肉眼で確認し、「地球は青かった」という名言を地球に送ったユーリー・ガガーリン少佐が、三十七年五月二十三日科外講演部主催の講演会のために来校した。学苑には政治家や文化人など、さまざまな著名外国人が来訪しているが、ガガーリンはユニークな人物の一人であろう。米ソの対立が最高潮に達した時代で、学苑当局は、僅か数ヵ月前に生じたケネディ事件の再発を懸念し、会場である記念会堂に体育部の学生を配して警戒に当った。一方、学生達は「ガガーリンははたして社会主義の栄光か?」という立看板を立てたり、「平和と社会主義のシンボル・ガガーリン」というビラを配ったりして、それぞれの立場からガガーリン来学について見解を表明していた(『早稲田大学新聞』昭和三十七年五月二十八日号)。
この日、ガガーリンは来日以来初めて軍服を脱ぎ、ブルーの背広で会場に姿を現すと、会場を埋めた約一万四千の学生から一斉に拍手が沸き起った。ガガーリンは「宇宙旅行の準備を!」という題で講演した。宇宙旅行の歴史、技術、宇宙飛行士としての訓練、宇宙飛行の体験など、ジェスチャーを交えながら話した。宇宙船内の無重力状態、大気圏再突入の際に宇宙船を包む炎などの話に学生達は聞き入り、マス・コミの報道などを通じて有名になった「地球は青かった」という言葉を当人が話すと、歓声をあげる学生もいた。「この宇宙旅行の際、空から見た日本は美しかったが、いま私が見ている地上の日本の方がもっと美しい」(『朝日新聞』昭和三十七年五月二十四日号)とのお世辞も忘れなかった。最後に、
現在各国から宇宙空間を平和的に利用するために協力しなければならないという提案がある。……しかしそういう宇宙空間での協力が可能になるためには、まず第一にこの地上の条件で仲よくしていかなければならないと思う。そのためにはわれわれ一人一人がお互いに友好の気持で一ぱいにならなくてはいけないと思う。宇宙空間は未だに完全に研究されてはいない。もっと広くもっとよく研究しなければならない。いわば宇宙は人間を待っているのである。みなさんも早速準備をして下さい。
(『早稲田学報』昭和三十七年七月発行 第七二三号 五頁)
と結んで、これからの宇宙開発への希望を学生に託して壇を降りた。
先のケネディ来苑の時とは打って変って、講演はスムーズに進んだ。満場の学生・教職員の歌う「都の西北」に送られて、ガガーリンの顔は満足そうに上気していた。『毎日新聞』は「日程ぎっしり/『宇宙旅行』より疲れた?」と題し、「二十八才の若い『神経』には相当な負担だったようだ」と記したが、それに続けて、「少佐がもっとも感激したのは、二十三日午後の早大記念会堂における課外講演である」(昭和三十七年五月二十四日号)と報じており、ガガーリンにとって早稲田でのひと時が快いものであったことを伝えている。
四十三年十二月十六日、学苑は来日中の大韓赤十字社総裁・韓国前国務総理崔斗善を迎え、小野講堂において名誉博士の学位を贈呈した。崔は大正六年学苑大学部文学科哲学科を卒業した校友で、学苑の韓国同窓会会長を務め、同国に赴く教員・学生の面倒を親身になって見てくれており、学苑の日韓交流の要とも言うべき人物であった。
学位贈呈後の挨拶で、崔は世界情勢を述べた後、次のように語った。
日本はその優秀なる人的資源、豊かな生産力、抜き出た科学技術により、世界史創造に能動的作用を及ぼしうる強大国の一つであります。私はあえて日本がアジア人によるアジアの中核的位置を占めてほしいとは申し上げたくないのですが、日本国民が大国民としての自覚を持ち、アジア、特に極東の安定と平和と繁栄のために十分の寄与と協力をしてほしいといいたいのです。日本の隣に位置を占め、国土分断のかどで半ば恒久的不安状態におかれている韓国民の立場としては、国際政治における日本の出方いかんが自国の安全と平和維持に至大なる影響を及ぼすことをよく知っておりますので、日本の動向を注意深く見守っております。 (『早稲田学報』昭和四十四年三月発行 第七八九号 五五頁)
日本がその国力を基礎に、国際社会、とりわけ極東地域の政治・社会の中で重要な役割を果すことを、複雑な心境とともに期待していると述べている。国務総理を務めた政治家らしい言葉であった。
五十四年十月十三日、ベルリン・フィルハーモニー交響楽団終身常任指揮者カラヤンが来学、大隈講堂において名誉博士の学位が贈呈された。「肝心なことはただひとつ、音楽をその構造と美しさにおいて、可能なかぎり明確に表現することである」というカラヤンの言葉は、彼の演奏に対する基本的見解を示している。彼は二十九年に初来日してNHK交響楽団を指揮し、戦後の日本の楽壇に新鮮な印象を与えたのである。学位贈呈の後、挨拶に臨んでカラヤンは、「喜んで名誉ある学位をいただいた。大学から学位を受けるのは四度目であるが、特に今回は重い意味を持っていると思う。招待を受けて日本に来るようになって二十三年になるが、芸術を通じ、日本国民の考え方をよく知るようになった。特に感心するのは大学が音楽教育に力を入れていることである。たくさんの日本人が楽器を持ってヨーロッパへ来てその才能を見せてくれている。また指揮者としての日本人も世界中を駆けめぐっている」(同誌 昭和五十四年十一月発行 第八九六号 四八―四九頁)と、日本の大学の音楽教育を讃え、その基礎に世界の音楽界での日本人の活躍があると述べている。贈呈式が終って、カラヤンは、前年秋の国際青少年オーケストラ大会(ヘルベルト・フォン・カラヤン財団主催)で第一位金賞を得た早稲田大学交響楽団の公開練習を約一時間に亘って指導した。楽団員にとっては思い出に残るひと時であった。カラヤンは校歌の合唱に送られて学苑を後にした。