昭和四十七年に、学苑は創立九十周年を迎えた。そこで、この年には学苑内外で幾つかの記念行事が行われたけれども、記念行事としては、言うまでもないことながら、その十年後の創立百周年記念行事の方が、規模や内容の点で遥かに盛大であった。すなわち、数多くの校友、学生、教職員が参加して全学的規模で展開し、創立百周年記念行事はまさに百年に一度にふさわしい祝典となったのである。
学苑当局が創立百周年記念行事の実行プランの本格的な作成作業に着手したのは、昭和五十六年三月六日の理事会において、「創立百周年記念行事に関する基本計画を策定・実施する」ことを目的とする創立百周年記念行事実行委員会が設置されてからであった。同時に、この実行委員会には、式典関係行事専門委員会、学生関係行事専門委員会、学術関係行事専門委員会、国際シンポジウム専門委員会、校友関係行事専門委員会、その他行事専門委員会の六つの専門委員会が設けられ、各行事項目の実行計画の具体的検討および実施はこれら各専門委員会に委ねられた。
これ以後、各専門委員会の策定によるさまざまな記念行事が行われることになるのであるが、記念行事の皮切りとなったのは、実は創立百周年記念行事実行委員会の設置に先立って開催された五十五年八月の創立百周年記念地方講演会であった。これは第十一編第七章で説述した如く、エクステンション事業準備室(エクステンション・センターの前身)が中心となって行われたものであるが、地味ではあったものの、五十五年八月から五十八年三月までの一年九ヵ月という記念行事の期間全体に亘りほぼ毎月のように開催された点、また、開催地も北は仙台市から南は熊本市に至る全国二十六都市に及んだ点、更に、日頃接する機会の少い地方在住の校友、在校生父母らと学苑関係者とが直接交流し得た点など、記念行事の中でも重要なイヴェントの一つであった。
その他の記念行事が開始したのは翌五十六年度からであった。すなわち、五十六年度には、前年度から引続き地方講演会が開催された他に、五月二十五日には校友森繁久弥(昭三一推選)のヒット・ナンバーのミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」鑑賞会が開かれた。因に森繁はその後昭和六十年に、学苑芸術功労者の表彰を受けることになる。また、十一月には両度に亘り学生部主催の映画鑑賞会が、明けて一月十日には老侯命日展墓が行われた。
創立百周年に当る昭和五十七年度には、数々の記念行事が盛大に催された。先ず十月二十日に行われた学苑創設者大隈重信侯銅像献花式・墓前祭、および二十一日に挙行された早稲田大学創立百周年記念式典について詳述しよう。
十月一日、大隈誕生の地である佐賀市において、学苑関係者、校友など約三百人が集い、早稲田大学創立百周年記念祝賀会が開かれ、その翌日、同市赤松町の大隈墓所で大隈侯墓前祭が行われた。続いて創立百周年記念式典を翌日に控えた十月二十日、本部構内で創設者大隈重信侯銅像献花式、次いで文京区音羽の護国寺で墓前祭が行われた。墓前祭は修祓、祝詞奏上の後、清水総長の墓前報告、総長、大隈令孫大隈信幸らによる玉串拝を行った。清水総長はその墓前報告の中で学苑の近況に触れ、「百年という歴史的な節目にあたり、あらためて侯の抱負と理想に思いをいたし、新しい時代に向けて建学の精神を再構築し、新たな展開をはからなければならない」との決意を表明した(『早稲田学報』昭和五十七年十一月発行 第九二七号 三六頁)。
なお、小野梓、高田早苗をはじめとする功労者の展墓も、左のように学苑代表者が参列して行われた。
小野梓(三月二十七日宿毛市清宝寺、十月六日谷中墓地)、高田早苗(十月六日染井霊園)、市島謙吉(九月十日新発田市浄念寺)、天野為之(九月二十七日多磨霊園)、南部英麿(五月十六日盛岡市聖寿寺)、前島密(六月二十日横須賀市浄楽寺)、鳩山和夫(十月六日谷中墓地)、坪内雄蔵(八月十日熱海市海蔵寺)、平沼淑郎(十月六日染井霊園)、塩沢昌貞(十月六日染井霊園)、田中穂積(九月十一日長野市篠ノ井)、中野登美雄(九月二十七日小平霊園)、大浜信泉(九月二十七日上川霊園)
創立記念日の十月二十一日に記念会堂において挙行された早稲田大学創立百周年記念式典は、記念行事のメイン・イヴェントであった。翌十一月発行の『早稲田学報』(第九二七号)は式典の模様を次のように伝えている。
秋晴れの中、十二時ごろから色とりどりのガウン姿の外国大学の代表、外国公館各代表、国内諸大学代表、関係官庁、会社、団体、法人役員、教職員、校友、学生・生徒代表ら約五千人の参列者が続々と祝典に集まった。定刻、早稲田大学交響楽団の演奏による「早稲田の栄光」が流れる中、各国大使、外国大学代表が入場、中央前部の席に着いた。開式に先立って肥後一郎氏(昭三七政)作曲の「祝典序曲」(委嘱作品)が大友直人氏(NHK交響楽団指揮研究員)の指揮で早大交響楽団により演奏された。清水司総長、国内大学代表の石川忠雄慶応義塾長、外国大学代表のウンクウ・アドブル・アジズマラヤ大学副学長、校友代表の井深大氏が登壇、西原春夫常任理事から開式が告げられた。清水総長の式辞についで、慶応義塾長石川忠雄氏、マラヤ大学副学長・学園名誉博士ウンクウ・アドブル・アジズ氏、ソニー名誉会長・学園名誉博士井深大氏から祝辞が述べられた。壇の前に設けられた特別の舞台に再び交響楽団が上がり、武満徹氏作曲「オーケストラのための『星と鳥』」(委嘱作品)をNHK交響楽団正指揮者・岩城宏之氏の指揮により演奏した。さらに参会者一同起立して岩城氏の指揮により校歌を大合唱、閉式となった。 (一八頁)
開式に先立って演奏された「祝典序曲」を作曲した肥後一郎は、その意図を次のように述べている。
野人といえば、教養のない粗野な人、はたまた荒けなき武士といったところが世間の通り相場だが、早稲田の杜に棲む野人は違うと思う。人の弱さを、人の心の痛みを知る優しく繊細な人間なのだが内から滲み出る野暮ったさを拭いきれない、悪しき権力に対して立ち上るときはやたら凜々しく涼しい、私はそのような人間を早稲田の野人だと思っている。……「祝典序曲」には野人の優しき歌と杜にこだまする雄叫びが刺繡されている。あまりにも抒情的な歌は野人のものとは思えないほどに優しいが執拗に交される金管楽器の雄叫びを誘っている。創立百周年を讃える祝典曲となれば、「祝典風」「典礼風」というある種の鋳型があってそれを拒否することは無謀なのだが、野人の歌と雄叫びを意に反して回避することは私にとって早稲田の杜への裏切りとなるに違いないという思いから、あえて少し型破りの祝典曲とした。
(「『祝典序曲』を作曲して」同誌 昭和五十七年十二月発行 第九二八号 一四頁)
さて、式典において清水総長は、「創立百周年を迎えて」と題する式辞を行った。清水は先ず学苑の沿革、建学の精神および現状について説明し、続いて「早稲田第二世紀」の課題を明らかにするとともに、そうした課題に対し学苑当局が不断の努力を積み重ねていくことを誓約した。
今日、世界の歴史は大きな転換期にあります。先進国を築きあげてきた近代工業社会もゆきづまりに達し、異なった文化・価値観をもつ国々の共存が共通の地球的課題になっております。このような時代背景のもとで私どもは近代工業社会を支えてきた理念を問い直し、人類の未来について深く思いをいたさなければならないと思うのであります。大学こそこの歴史の現実をふまえ、新たな展開をはかり、時代を切り開く先達とならなければなりません。早稲田大学はこのたび百周年を機として、早稲田第二世紀が二十一世紀の世界を創造する叡智となり活力となることを願い、そのための記念事業を計画いたしました。これにより、新たにキャンパスを設け、現キャンパスの教育機関の一部を再編移転し、学問の新たな展開をはかるとともに現キャンパスを整備充実いたしたいと考えております。そして早稲田大学が社会の学術、文化の中心として、開かれた大学として、その機能を一層発揮することを強く念願しているものであります。この百年という歴史的な節目にあたり、私ども大学関係者はこれまでの足跡をたどり、先人の抱負と理想に思いをいたし、新しい時代に向けて建学の精神を再構築し、新たな使命に向って邁進することを決意いたしております。早稲田大学が人間の尊厳、人間の価値、人類の理想を追求し、人類が希求しております二十一世紀を創造する砦となることを願って、一層の努力をつづけることをこの式典において誓うものであります。
(同誌 第九二七号 二三頁)
慶応義塾長石川忠雄は次のような趣旨の祝辞を述べた。「慶応義塾の創立者、福沢諭吉は、その生涯のなかで、何回か慶応義塾の存続を断念しようという決心を固めたことがあるといわれています。しかし、その福沢の決心を変えさせたものは、実に慶応義塾の教職員、卒業生の熱意とその団結であったのです。このことは早稲田大学につきましても同じことであると私は考えています。早稲田大学も、この百年の間に、いくたびか困難なことに遭遇した時期がございます。……早稲田大学がこの困難を克服したのは、学問の独立と自由、在野の精神というものを基盤にしてその卒業生、教職員との強固な同志的団結によったものであります。そして、その過程で、早稲田大学がそれぞれの人人の信ずるところにしたがって、屈することなく潑剌とその使命を達成しようとする、独特の校風を形成してきたのです。この早稲田大学が自らのなかに培った独特の校風こそ、早稲田大学を早稲田大学たらしめている最も重要な要素であります。私は、この百年の間に培われた早稲田大学独特の校風に対して、深く敬意を表するものです。」私学は「独特の気風、校風」を守る一方で、絶えざる時代の変化に対応して「自らを変革してゆく努力」をしなければならないが、「早稲田大学が、過去の百年の栄光を土台にして、新しい時代へ一歩を踏み出されるよう、その成果を強く期待しながら見守りたい」(同前 二四―二五頁)。
ところで、学苑は、伝統的に海外の大学との教育・研究交流を発展させてきたが、この記念式典にも「世界の友」を招き、国際色を加えるために、協定を締結して教員・学生を交換している外国の大学および連盟、過去に交流を行った大学・諸機関、また国際交流において協力を得てきた外国の財団、協会等に記念式典の紹介状を発送し(小林千代子「海外からの来賓を迎えて」早稲田大学編刊『早稲田一九八二年 建学百年記念行事記録』六四頁)、記念式典には海外から多数の来賓を迎えることができた。
それら来賓の代表として、石川忠雄に続き、昭和十八年より二年間、学苑の専門部政治経済科に在籍していたマラヤ大学副学長ウンクウ・アブドル・アジズが祝辞を述べた。アジズは、「今日、発展途上にある国ぐにでは、大学が知的・物的進歩の中心的役割を果たすことが期待されております。その中の国の出身である私の心に、早稲田の歴史に関してまず浮かぶのは、日本の発展と近代化に対して早稲田が果たした重要な役割であります。早稲田の果たしたこの功績は、創立者大隈重信侯の高遠な未来展望に対する讃辞ともなるものであります。……一世紀にわたる早稲田の功績をたたえることは、今日の世界における日本の地位の成就をたたえることであります。世界の大学の中で、早稲田は学問の最先端に誇らしく立っております。……ここに集った私たちはこの記念式典が先進国のみならず発展途上国にある国の若い大学にとって、励ましであり、希望のメッセージであると考えるのであります。……十九世紀の西欧文明を創り出した近代的科学技術、西欧科学およびすべての知識を日本にとり入れ、これによって日本を近代化するための道を開く手段として、早稲田が構想されたのであります。早稲田は、近代日本の舵をとることのできる卒業生を生むべく構想されました。……新興国の大学にとって有益であり、関心が高いのは、この理想であります」と、日本の近代化において学苑が果した役割とその功績を讃えた(『早稲田学報』第九二七号 二六―三〇頁)。
来賓祝辞の最後は、校友代表井深大であった。井深は、早稲田大学の三十万余の校友は「いずれも各方面において頭角を現わして、日本のリーダーとして立派な働きをなしとげてきたし、またなしとげつつあると思うのであります。このことに対して……私どもはどんな感謝の言葉をつくしても、つくしきれないものがあると考えるのでございます。……この世の中を自由に引っぱってゆける人間を、早稲田大学こそ作り出す責務があり、そういう条件を備えていると私は信じます」と述べ、また「専門の学問を通して、そういう立派な人間を作り出」すとともに、そのために時代の変化に対応しながら今後一層学苑が充実することを要望した(同前 三一―三三頁)。
式典参列の諸大学等は、国内外六十二校に及んだ。その名称を左に記す。
〔国内〕東京大学、東京医科歯科大学、東京外国語大学、東京学芸大学、電気通信大学、高崎経済大学、愛知大学、亜細亜大学、青山学院大学、中央大学、独協大学、同志社大学、法政大学、実践女子大学、上智大学、城西大学、順天堂大学、関西大学、関西学院大学、関東学院大学、慶応義塾大学、神戸女学院大学、国学院大学、国際基督教大学、共立女子大学、明治大学、明治学院大学、武蔵野美術大学、日本大学、日本女子大学、立教大学、立正大学、立命館大学、流通経済大学、専修大学、芝浦工業大学、創価大学、拓殖大学、東邦大学、東洋大学、津田塾大学、学習院大学、杏林大学、工学院大学、国士舘大学、昭和女子大学、大東文化大学、高千穂商科大学、玉川大学、東海大学、東京女子体育大学、東京電機大学、東京農業大学、武蔵工業大学、明星大学、千葉工業大学、千葉商科大学、鶴見大学、愛知学院大学、愛知淑徳大学、名城大学、福岡大学、鶴鳴学園
(同前 一八頁)
国外からも、この頃学苑と交流協定を結んでいたラ・サール大学、高麗大学校、モスクワ大学、ボン大学、カリフォルニア大学バークレイ校・ロサンゼルス校、ワシントン大学(セント・ルイス)、カリフォルニア私立大学連盟、五大湖中西部私立大学連盟をはじめ、アーラム大学、ハーヴァード大学、ノースウェスタン大学、スタンフォード大学、ケンブリッジ大学、マラヤ大学、オックスフォード大学、エール大学、延世大学校といった各国著名大学の代表者が列席した。その他国連大学の代表、およびアメリカ、イギリス、大韓民国等の駐日大使館代表の出席も得た。
なお、式典の前日、学問の発展に寄与し、学苑との学術交流に貢献したボン大学前総長ハンス‐ヤコプ・クリュンメル、パリ大学区総長ピエール・タバトニ、モスクワ大学総長アナトリー・アレクセーエヴィッチ・ログノフ、高麗大学校前総長金相浹、マラヤ大学副学長ウンクウ・アブドル・アジズの五名に対する名誉博士贈呈式が小野講堂で行われた。彼らの経歴と業績は二一三頁で略述した如くである。
記念行事として、国際的な学術交流が行われたことも特筆に値するイヴェントであろう。先ず、創立百周年記念式典の翌二十二日と二十三日、大隈小講堂と小野講堂で、著名な外国の学者七名を招いて開催された国際シンポジウム「二十一世紀をめざす世界と日本」について述べよう。
このシンポジウムの開催については、昭和五十五年六月から検討が始まった。その目的は、創立百周年を記念して学苑として初めて国際会議を主催し、建学の理念の一つである「東西文明の調和」の現代的発展の途を探ることにあった。その後二年間に亘って準備が進められ、シンポジウムでは、世界各地の教授・研究者を学苑に迎えて学苑の教授・研究者と討論を行うことにより、二十一世紀に向けての人類のあり方と日本の任務を追究することとなった。なお、国際シンポジウムの開催は今後も継続したいとの希望を込めて、「百周年記念」を名称に冠さないこととした。
十月二十二日、十時より大隈小講堂で開会式が行われ、清水総長と、報告者を代表したマサチューセッツ工科大学総長ポール・E・グレイが挨拶を行った。引続いて報告者十二名と二十一名の討論者が二つの分科会に分れて翌二十三日昼過ぎまで発表・討論を行い、社会科学および理工学系の立場から全体テーマを追究した。
第一分科会では、「二十一世紀をめざす世界と日本」というシンポジウム共通テーマのうち、「自由、公正な秩序および世界平和」を主題に取り上げ、「世界の直面している深刻な危機と混沌を打破して現代文明を再構築するために人間の自由と尊厳という内面的基底を深く問い直しつつ、積極的平和の実現のための公正な国際秩序樹立の構想やモデルを包括的に吟味」した。最初に報告したデューク大学教授マーティン・ブロンフェンブレンナーは、先進国と途上国という二国間モデルを用いて資本・労働・技術の国際間移動の有効性を論じ、途上国側の強烈なナショナリズムや先進国の保護措置を撤廃して自由貿易が実現されるならば、途上国の発展が促進されると主張した。次いで韓国産業開発研究所長の白永勲が、東・東南アジアの文化的・気象的・風土的同質性を前提とする東・東南アジアの協力関係や有機的結合を媒介とした新国際経済秩序の構築を提唱した。また、ロンドン大学教授ピーター・J・D・ワイルズは、自由を人間の本質と規定し、経済的自由が市民権であり自己実現の基底であるが、平等、正義など他の善とトレード・オフ関係にあること、それが単なる自由放任とは異ることなどを指摘した。政治経済学部教授片岡寛光は、世界の各国民がカント的意味での世界公民であることの自覚を高める必要性が大きいと主張した。次いで、社会科学部教授霜田美樹雄が現実の社会主義における地域性を、信仰の自由のあり方を中心に述べ、続いて法学部教授浦田賢治が、今後、自由と平和を民主主義と関連させながら実現するためには、情報公開の徹底によって民主主義を深化させる必要があると論じた。
第二分科会では「科学技術の限界と再構築」を主題とした。ここでは、第一部「二十一世紀へむかっての情報化社会」、第二部「文化と環境」、そして第三部「核エネルギー問題と人類」の三部構成でシンポジウムが行われた。先ず第一部では、日本電信電話公社副総裁の北原安定が、日本が世界に先駆けて実施しようとしている総合的情報通信システムについて語り、これにより社会構造そのものが根本的に変化する可能性を論じた。次いでポール・E・グレイが、アメリカの諸大学における教育や各種企業活動におけるコンピュータの利用状況を紹介した。第二部の報告者は理工学部教授の渡辺保忠とアメリカの建築家・哲学者のR・バックミンスター・フラーであった。渡辺は、社会の近代化を、その社会文化に根ざす熟練労働を切り捨てて科学技術を背景とする未熟練労働に置き換えていく過程であると主張し、科学と文化を同一視するフラーと対立した。第三部では最初に理工学研究所教授の藤本陽一が核エネルギーの平和利用と核兵器問題について問題点を整理し、それを承けてインド政府科学技術大臣のM・G・K・メノンが、超大国と同盟関係のないインドの立場から、核エネルギーの平和利用と核兵器問題について語った。
更に二十三日午後には、参加者全員が再び小野講堂に会して全体会議を開き、夕刻シンポジウムを閉会した。なお、学苑は学生、教職員、校友を対象に参加者を募集したが、両日で延およそ八百人が集まった。また、モスクワ大学、パリ大学の総長ほか、記念式典参列の外国大学代表も参加して熱心に聴き入っている姿が見られた。このシンポジウムの成果はその後、堀江・山岡・並木編『二一世紀への展望』(学陽書房、昭和六十年)として出版された。
次に、国際シンポジウムと同じく十月二十二、二十三両日に亘って大隈講堂で開催された創立百周年記念講演について述べよう。この講演は「世界の大学」と「ロボット・生命・人間」という二大テーマで行われ、後者はパネル討論の形式で開催された。また、前者の「世界の大学」には、この講演会のために学苑が招待した三名の著名な学者による「世界の大学――碩学が語る哲学、社会、教育」と、百周年記念式典出席のために来日したパリ大学、ボン大学、アーラム大学の総長・学長および商学部教授鳥羽欽一郎による「現代における大学の役割」という二つのサブ・テーマが配された。
西原春夫常任理事の開会の挨拶により幕が開いた第一日目の午前の講演は、アメリカのウインスロップ大学名誉教授ノーラン・ジェイコブソンの「私たちは今なにをしているのか――喜びと悲しみのはざまで――」であった。同教授は哲学および宗教思想の世界的大家で、『仏教――分析の宗教』『日本道』などの著作により、特に日本の仏教研究で著名であった。ジェイコブソンはこの講演の中で、今日の世界的に活発な文化交流と緊密な相互依存関係とを前提に、異文化同士の交流を更に進めていく使命感とその哲学とを若き世代に育くむことこそ高等教育のなすべき第一の課題であり、日本人・日本文化の何たるかを世界に伝える青年を数多く育てることを早稲田大学に期待すると述べた(『早稲田フォーラム』昭和五十八年三月発行 第四〇号 一四―二一頁)。
午後には、パネル討論「ロボット・生命・人間」が行われた。話題提供者として、人工臓器の権威である東京大学教授渥美和彦、日本分子生物学会長の慶応義塾大学名誉教授渡辺格、ロボット工学の第一人者の理工学部教授加藤一郎、宗教哲学の文学部教授小山宙丸の四名が壇上に立った。パネル討論は加藤の司会で始まり、「人間はどこまで改造できるか」(渥美)、「生命操作の時代を迎えて」(渡辺)、「ロボットは心をもてるか」(加藤)、「人間は科学技術を制御できないか」(小山)の演題で、話題提供者がそれぞれ二十五―三十分に亘って講演した。そして講演の後、聴衆も交え白熱した討論を展開した。
翌二十三日は、鳥羽欽一郎の司会による「世界の大学――碩学が語る社会、教育」から始まった。先ず午前の部では、サセックス大学教授ロナルド・ドーアおよびミネソタ大学教授ジョゼフ・メステンハウザーの講演が行われた。ドーアは社会学者で、特に日本社会論を専攻し、『都市の日本人』『日本の農地改革』『江戸時代の教育』や、ベスト・セラーになった『学歴社会――新しい文明病』などの著書がある。ドーアは「大学は何のために存在するか」という題で講演を行い、大学の持つさまざまな社会的機能について、英米と日本における現状を述べた。またメステンハウザーは、政治学者である一方、長年に亘りミネソタ大学の留学生指導部長の職にあり、国際教育問題、留学生問題、異文化間コミュニケーションの権威であった。昭和五十五年にフルブライト招聘研究員として来日の際に学苑で「教育の国際化」と題する連続講演を四回に亘って行ったことがある。この講演会では「国際教育交流――文化を映し出す鏡」と題して、早稲田大学が大隈重信の時代から展開してきた国際文化教育交流事業を賞賛するとともに、現在の国際文化教育交流の実情と今後の課題について語った。
午後の部のテーマは「世界の大学――現代における大学の役割」であった。総長清水司の挨拶に続いて、鳥羽欽一郎により、早稲田大学における国際交流の歴史、ならびに今後の学苑の課題に関する講演が行われた。次いでパリ大学総長ピエール・タバトニ、ボン大学学長ヴェルナー・ベッシュが、それぞれの大学と学苑との間で一九六〇年代に結ばれた交換協定が、フランスやドイツの大学にとっていかに大きな意義を有していたかを語り、最後に、アーラム大学総長フランクリン・ウォーリンが現代社会における大学間の国際交流の重要性について講演を行った。
なお、入場者数は初日が延千四百人、二日目が千三百人と予想以上であった。これらの入場者には受付で百周年記念カセット・テープが贈呈された。『心のふるさと/我が早稲田』をタイトルとするこのテープには、大隈重信の肉声の演説「憲政における輿論の勢力」および大隈講堂時計台の鐘の音の他、ボニー・ジャックスが歌う校歌・応援歌等が収録されている。
創立百周年を記念して地方在住の校友や在校生父兄を対象に全国各地で講演会が催されたことは既に記したが、学内では、学生参加の記念行事として、映画鑑賞会、学部の歴史講演会、早稲田大学外史講演会、祝賀能など、実に多彩な学生関係行事が繰り拡げられた(『早稲田一九八二年 建学百年記念行事記録』七八―八二頁)。
映画鑑賞会は、五十六年十一月十八日から翌年九月二十四日までの間、「早慶戦物語」「巨人大隈重信」「大学の青春 Number Ⅱ」「人生劇場」「大隈侯と園遊会」「英霊たちの応援歌――最後の早慶戦――」「早稲田大学創立五十周年記念式典」「早稲田大学」「青春の門――筑豊編・自立編――」の九本の作品を数回に分けて上映した。入場者数は延四千五百人に達した。
創立百周年記念行事は、地方講演会を除けば、種々の華やかなセレモニーに彩られたから、そうした中で学部の歴史講演会は、ともすれば看過されがちである。事実、講演後、社会科学部教授木村時夫が嘆じたように、「正直言って聴衆がいかにも少く、百周年記念行事と銘打つには余りに淋しい会であった」(『早稲田学報』昭和五十七年九月発行 第九二四号 七頁)。しかし、この一連の講演を通じ、「われわれの先輩達がどのような態度をもって……教育、研究をおこなったのか、そして、その跡はどのような形で遺産として残されているのかを綜合的に明らかにし、その継承はどのような形でなされるべきか」(正田健一郎「ステーツマンシップの養成」同誌 同号 二頁)が、百周年記念行事において、とりわけ学生に対して問題提起されたことは、強調しておかなければならない。それは、記念式典で清水総長が述べた記念行事の趣旨――建学の精神を再構築する決意表明の場――に合致するからであり、かつまた記念行事を軽佻浮薄なセレモニーに終らせず、百周年記念にふさわしい奥行を与えているからでもある。
早稲田大学外史講演会についてもほぼ同様のことが言えるが、その講演者と演題は、政治評論家戸川猪佐武(昭二二政)「早稲田大学と政界」、日本経済新聞社代表取締役新井明(昭二四政)「新聞界に活躍した早稲田人」、NHK顧問家城啓一郎(昭二五政)「転機に立つ日本」、元NHK会長坂本朝一(昭一四文)「放送について」であった。
さて、学生部が中心となって企画されたその他の学生関係行事には、祝賀能、絵画会展、書道展、弁論大会、ライトミュージック・フェスティバル・イン・ワセダ、文芸コンクール、学術論文募集、クラシック記念演奏会があった。しかし、右の行事の他にも、記念特別展観演劇史料展、早稲田大学絵画展、百周年記念体育祭等々、多くの学生関係のイヴェントが催されたことも記しておかなければならない。
これらのうち、先ず祝賀能は十月の記念行事のトップを切って十月四日、大隈講堂で開演された。学生サークルから成る能楽連盟七団体が「一部」の仕舞、連吟、番外仕舞を演じた後、「二部」は観世銕之丞、野村万作(野村二朗、昭二八・一文)をはじめとする一流の能楽師・狂言師による公演が行われた。演目は素謡「翁」、舞囃子「高砂」、能「羽衣」(和合之舞)、狂言語「那須」、狂言「蝸牛」、半能「石橋」で、「一部」と合せてたっぷり五時間、千人の入場者がこれを鑑賞した。
また、クラシック記念演奏会は十月二十四日夕方、早大交響楽団と学内七合唱団で組織されるフロイデ・ハルモニーが中心となって開催された。曲は「千人の交響曲」とも呼ばれるマーラーの「交響曲第八番」で、指揮には岩城宏之が、ソリストには岡村喬生ら八人が当った。会場はクラシック音楽の演奏会としては異例の記念会堂で、仮設ステージには右の他大妻女子大学合唱団、共立女子大学合唱団、実践女子大学合唱団、白百合女子大学グリー・クラブ、聖心女子大学グリー・クラブ、東京荒川少年少女合唱隊の賛助出演者と、更に早大マンドリン楽部を加えた総勢役六百人の出演者が登り、約四千人の入場者が一時間半に及ぶ演奏を堪能した。
最後に、記念行事のフィナーレを飾った十月三十日の歌舞伎十八番「勧進帳」鑑賞会に触れておこう。「勧進帳」は周知のように歌舞伎中屈指の当り狂言で、弁慶、義経、富樫らによる勧進帳読み上げから山伏問答などが描かれ、弁慶の豪快な「飛六方」に至るダイナミックなもので、松竹株式会社の特別の配慮で実現の運びとなった。出演は歌舞伎界のホープ九世松本幸四郎丈(昭五一推選)・弁慶、二世中村吉右衛門丈(昭五二推選)・富樫、六世中村東蔵(昭五七推選)・義経ら学苑文学部に学んだ推選校友をはじめとする十一名であった(『早稲田ウィークリー』昭和五十七年十月十四日号)。会場の大隈講堂を埋め尽した学生・校友は熱心に舞台を見つめ、最後に弁慶が豪快な「飛六方」で花道から消えると、割れんばかりの拍手を惜しみなく送ったのである。
運動部関係では、昭和五十七年二月二十一日、全早大ラグビー部が百周年を記念して英仏遠征に出発、三月十日、最終戦のケンブリッジ大学との試合で、大接戦のすえ十三対十二で、五日の対エディンバラ大学戦に続いて勝利を収めた。日本の単独大学チームがケンブリッジ大学に勝ったのは初めてで、まさに「快挙」(『サンケイ新聞』昭和五十七年三月十一日号)であった。