校歌「都の西北」を裏切ってはならないと人々に思わせる如く、学苑は明治期創立の都の西北早稲田の地を一歩も離れることなくキャンパスの拡充整備を殆ど同心円的拡張として行ってきた。各学部・学校・付属機関が同じ構内に混在し、また近い距離を保って、大規模化にも拘らず学苑としての一体性を維持し、多様な個性が触れ合う条件に恵まれてきたと言える。しかし、入学希望者が押し寄せる一方、都心化する早稲田の地での校地拡張の困難の高まりは、キャンパスの過密・狭隘化をいよいよ抜き差しならぬ問題とし、その抜本的解決として校地を都心から離れた所に求めていかなければならなくなった。その先陣を切ったのが戸山町キャンパスにあった高等学院の移転であるが、これにはたんなる施設の移転だけにとどまらない問題が含まれていた。
旧制高等学院の時代、既にそれを大学の敷地から分離・独立させ、独自の教育環境と雰囲気の下で特徴ある人間形成の場としようとの考え方があり、終戦直後に千葉県佐倉にその地を求めたのも、そうした構想の現れであった。とはいえ、当時は校舎不足の解消の方が焦眉の問題であり、そうした遠大な構想も、粗末きわまる兵舎を校舎として使用しなければならない現実の前にしぼんでしまった。学苑はこの地に臨時佐倉設営部を設けるなど、それなりに力を入れたが、結局この案は種々の事情により挫折してしまった。従って新制高等学院は、戸山町校地で、戦後の急造校舎とその後に建てた新校舎とを併用し、暫く授業を続けていたのであった。
高等学院を戸山町キャンパスから移転させようと学苑当局が具体的に動いたのは、二十九年五月、練馬区上石神井一丁目二百十六番地(昭和六十年六月一日、新住居表示の実施に伴い上石神井三丁目三十一番一号と変更)にあった智山学園の土地および校舎ならびに周辺の土地を学苑が取得してからである。この年、竹野長次に代って第二代高等学院長に樫山欽四郎が就任していたものの、高等学院内部ではまだ移転は話題になっていなかった。学苑当局は新制高等学院の状況について悩んでいた。それは、旧制高等学院の気風を引きずっていたとも言うべきか、生徒がともすると学部学生と同じような意識を持ち、行動は自由放縦に流れ、規律の点で目に余る場面があったこと、また、教員の中にも学部と兼担する者がいたり、あるいは学部教員になるための腰掛けといった意識が抜けず、生徒指導の不十分さが懸念されたことであった。しかし、問題の原因を生徒や教員の意識や態度だけに求めるのは酷であって、実際に例えばクラブ活動などに大学の施設を使わざるを得ない場合があったように、施設の面でも一本立ちできないでいたことも考慮に入れなければならない。ともあれ、こうした事情が当局をして高等学院を学部キャンパスから引き離して新しい環境を整えるべく決意をさせたものとも考えられ、移転は学院教員の間に上がった反対の気運を押し切る形で行われることになった。
さて高等学院の新校舎は三十年十一月二十九日に着工、翌三十一年八月二十二日に竣工した。これは既存校舎を改造したものに新築校舎を接続した一号館が主体となっているが、一部地下つき地上三階建鉄筋コンクリートの明るい近代的建物である。ここには美術・音楽・物理・化学の教室や、実験室、読書室等も設けられ、最初から計画して造られたものだけに、周囲の緑地とともに理想的雰囲気の中に完成した。ほかに木造二階建校舎の二号館および三号館、食堂、生徒会部室、雨天体操場、プール等が付属施設として同時に完成した。これらに加えて、自転車置場、自動車
車庫、警手詰所、バスケットボール・コート二面、バレーボール・コート二面、テニス・コー上三面、三百メートルの走路を持つトラック等が、敷地内に設けられた。この時の校舎配置を第六図に示す。当時は、買収契約をほぼ終えた南面の畑地を将来の施設の予定地として残し、当面三万五九四平方メートルの敷地を全部活用することで出発した。ただし、公図面における坪数は、智山学園より入手した校地面積三万五九四平方メートル(二十九年五月十五日契約)に更に新規購入土地の四九六平方メートル(二十九年五月二十九日契約)を加えて合計三万一〇九四平方メートルであり、建物面積は三六〇九平方メートル、延六七三三平方メートルとなっている。更に三十五年度中には、学院南面の拡張予定の空き地にハンドボール・コートができ、その西側にはテニス・コート三面が完成、施設の一層の整備が図られた。この充実ぶりは注目を集めたようで、全国各地から見学者が多数訪れ、学院長樫山も、更に講堂が完成すれば理想的な高校ができあがると自讃したほどであった。
その待望の講堂は、三十六年八月十四日、学院東面のテニス・コートが設けられていた場所に完成した。鉄筋コンクリート造一部二階建、屋根梁鉄骨造、総床面積一五一九平方メートルの規模であった。この講堂について『早稲田学報」第七六六号(昭和三十六年十二月発行)は、「舞台装置、舞台照明、音響反射板使用、座席千五百余(補助席を含めると千七百余)、温風暖房装置、換気装置、映写装置――これはワイドスクリーン映写設備――等、設備の点では高校講堂の中では屈指のものである」(三四頁)と記している。
高等学院校舎の増改築はこの後も一期、二期と分けて行われた。すなわち、第一期工事として、三十九年三月三日、学院南面とハンドボール・コートおよびテニス・コートとに挟まれた場所に、鉄筋コンクリート三階建の新校舎が誕生した。一室当り七二・七三平方メートルの教室二十二を有し、一階の一部はピロティとなっており、屋上を含めて二九二四・五二五平方メートルある。なお同時に、一号館ボイラー室の改築や自転車置場等の新設も行われた。続いて起工された第二期工事により、二号館および三号館木造校舎が取り払われ、その跡に体育館が建設された。鉄骨構造ならびに鉄筋コンクリート造、平屋建の独立体育館で、バスケットボール・コート二面並置の広さを持ち、教員控室兼教材室等の付属室を含め延一一一四平方メートルである。なお一号館内の教室の増改築が同時に行われ、また生物学兼地学教室が生物学専用実験室になるなどの改修も施された。体育館新築および一号館教室増改築の竣工式は四十年九月十一日に挙行された。なお、この時取り払われた木造二号館は解体後三十九年十月九日に東伏見運動場に移改築が完了、木造二階建瓦葺、延六二五平方メートルの体育局総合脱衣所および合宿所として使用された。稲西寮がそれである。
戦時中に学徒錬成部の道場があった現東久留米市内の敷地および農地約七万六〇〇〇平方メートルのうち一万五四九平方メートルは、終戦後程なく施行された「自作農創設特別措置法」第三条に基づき手放されることが決定し、二十四年六月十日の維持員会で承認された。それから十四年後の三十八年に至り、残りの土地の売却が総長より五月十五日の評議員会に提案された。大学周辺の運動施設が都市計画等により縮小される情勢にあるが、一般学生の体育実技に使用するためには大学周辺にあるのが望ましい、しかし、必ずしも周辺にあることを必要としない野球場は将来東伏見へ移し、その跡にテニス・コート等を移そうと考えている、現在も東伏見には体育施設が幾つかあるが、同地の学生寮周辺に約三千坪の売り物があるので、久留米農場を売った金でこれを買い、残った金で近代的な鉄筋コンクリート建物を新築し、散在している木造の合宿所を一つにまとめてこれをスポーツセンターのようなものにしたいというのが、その理由である。この提案を承けた評議員会は、「北多摩郡久留米町前沢所在の大学所有農場一万八六九〇坪を東伏見学生寮ならびに同周辺土地購入のため山崎製パン株式会社へ約三億二七〇〇万円で売却すること」を決議した。その後九月十六日の評議員会での報告によると、久留米農場の実測面積は六万五四五八・四〇平方メートルであり、三億四六四九万七九〇〇円(三・三平方メートル当り一万七五〇〇円)で山崎製パン株式会社改め山崎食品工業株式会社に売却され、七月二十日売買契約に調印、八月十三日に大学はその代金を受領した。翌三十九年十二月十五日の評議員会は、右土地売却の代金の一部九八二三万五五四〇円で、北多摩郡保谷町大字上保谷字下野谷所在の土地購入を決定した。東伏見運動場の東南に当るこの購入土地の総坪数は実測一万一九五二・八〇平方メートルで、石神井川の南側に位置している。
昭和三十六年、都心から西北に約八〇キロメートル、埼玉県本庄市に敷地五十万坪の新しいキャンパスを開こうという破天荒なアイデアが学苑を動かし始めた。本庄市、児玉町、美里村の三市町村にまたがって大久保山と呼ばれるなだらかな丘陵地がある。延々と広がる関東平野の中にあって珍しく殆どが山林として手つかずのままである。この広大な丘陵地に大学を誘致したいという地元の気運と、校地を拡張したいとの学苑の希望とが相呼応し、両者の交流が始まった。
そもそもこの頃、三十一年制定の「大学設置基準」第三十八条が定めた必要校地の不足分充足策が学苑当局の頭を悩ましていた。学生数ならびに学部の性格に応じて確保すべき建物面積と校地面積が具体的に数値で示され、学苑としては、校舎面積はともかく、校地面積は明らかにこの基準を大きく下回り、法的には違法であると指摘されるのを危惧していたのである。
一方、この頃政府によって首都圏整備政策が推し進められていく中で、東京から北、高崎に至る間、たまたま緑地帯として残存していたのが本庄地区であり、町村合併により生れた本庄市としては、大久保山地籍の共有地をどう管理・活用し、ひいては地区の発展をいかに図るかが大問題となっていた。そこで、この地区を知る埼玉県在住の校友栗原福雄(昭二五政)がコンサルタント役となって学園都市構想を唱え、母校早稲田大学誘致案を市側に示す一方で、学苑には取得可能性のある広大な土地の存在を知らせたのである。懸案の問題を解決する意味で両者の思惑は一致した。学苑としては、本庄地区の地価がきわめて安いというだけでなく、地元金融機関より融資の申し出があることや、将来関越高速道路がこの近辺を通るという交通の便に対する見通しなど、この地の魅力は小さくなかった。
三十五年十月に前総長島田孝一が本庄市商工会議所で「首都圏整備に関し県北の地位」と題する講演を行い、翌三十六年二月には本庄市議会文教厚生委員が早大誘致の専門委員となって学苑を訪問・見学するという交流があって、五月に本庄市による早大誘致の陳情が行われた。これを承けて学苑側は大浜総長をはじめ理事達が現地を視察するなど一帯の実地調査を行った結果、校地とすることを適当と認め、大学将来の発展のためにこの地を入手する方針を立てた。次いで七月二十六日、三市町村と覚書を交換した。これは、関係市町村が文教地区設置の構想下に大久保山一帯を大学校地に予定する一方、大学もまたこの地帯を将来の発展の場として確保することで、両者が共通の理想を実現するという主旨のものであった。
土地買収は三十七年に開始した。特に本庄市は、市議会議員の全員が早大誘致実行委員となって協力態勢を整えるなど、大きな期待を寄せ、この話をかぎつけたマス・コミの報道はあたかも早稲田大学全体が近いうちに移転するかのような印象さえ与えてしまった。これに対して学苑側には既存学部移転の考えは全くなく、新しい学部の設置を「夢」とし、その「夢」を「青写真」に描いてみようかという程度の段階であった。実際、この時の大浜総長の方針は、「学園将来の発展のためにせっかく手に入れた土地をそのまま放置しておいたのではいかにももったいないし、なんとか利用方法を考えねばなるまい。そこでこの土地を利用して新たに学部を開設したらとの夢が生れ出るのである」(「夢――新設学部の青写真」『早稲田学報』昭和三十九年一月発行 第七三八号)という程度のものだったのである。しかし学部新設の構想が学苑首脳によって抱かれたことを公表したのは間違いないわけで、学内ではこれをめぐって論議が湧き起る一方、地元ではそれを早稲田新キャンパス構想の具体化と受け取り、四十一年度には工事が完了して四十二年度に開講するものと期待した。ところが、学苑内部では本庄用地活用の具体案について意見が一致せず、進展の徴候が一向に見られないので、地元では学苑と市当局への不信が高まり、遂に政治問題として論議されるに至り、新聞をにぎわすことになった。この間、市当局ならびに早大誘致実行委員会は学部開設の要望をたびたび寄せたが、折から勃発した「学費・学館紛争」のため具体案を策定できないうちに、四十一年五月、大浜総長辞任により学苑理事が全員交替してしまった。七月以降も市長や市議会議長らが来校して地元民の感情や当事者の苦境を訴えたが、翌年には本庄市議会議員が改選され、新議員を以て早大誘致実行委員会が再発足した。その間にも、大学側が評議員を現地視察に派遣したり、本庄地区百数十人の地主が来校して要望を繰り返すなどの動きがあった。
ところで、実際の土地取得状況を各年の『定時商議員会学事報告書』より再確認すると、三十六年に買収交渉に入って翌三十七年に「埼玉県本庄市および美里村の土地七五町六反七畝一四歩につき売買契約」し、三十八年にそのうち「本庄市の本地五五町二反九畝二〇歩を買収完了」とあり、その後の買収ならびに本庄市よりの市有地寄附分を加えて四十二年度末現在で八九万一七八六平方メートル(二六万九一六六坪)が校地と算定されている。しかし、この時点での未買収地の取得も難航し、本庄校地の規模そのものは当初構想された「五十万坪」には届かずほぼ確定した。学苑としてはあらためてその具体的利用方法を早急に明示しなければならなくなったのである。これについては次編第九章で詳述する。
海抜一三〇〇メートル、長野県菅平は夏期冷涼で、絶好の避暑地となる。この菅平と学苑とを先ず結びつけたのは、昭和七年以来同地に夏期合宿を張ってきたラグビー蹴球部である。戦争で一時中断後、二十六年にこれを再開した同部はOBや関係者を含めて、ホテルや旅館に宿泊してその所有のグラウンドを時間制で借りるという方式の窮屈さと不便さ、そして一方で観光地的な遊興施設を許さない教育的な土地柄と自然環境とから、ここに自前のグラウンドと宿泊設備を設けたいとの切実な希望を抱くようになった。部長竹野長次はこの希望を汲み、合宿所であった菅平会館(旧菅平ホテル)とその所有グラウンドの買い上げを理事会に働きかけ、当事者との話も進める熱心さであったが、実現を見ないまま逝去、後を継いで部長となった政治経済学部教授吉村正を中心に運動が続けられた。問題の一つは、遠隔の土地に一運動部のためだけに大学としてかなりの額の資金を投じられるのかという疑問であり、そこで同部は野球部など他の運動部にも応援を呼びかけ、吉村の積極的な働きかけを受けた当時の施設担当理事村井資長も、大学の正課体育に利用するという名目を立てて後押しした。
三十五年八月、菅平を知る長野県出身の理工学部教授十代田三郎を通じて、同地に土地を所有していた一之瀬尭二から「売ってもよい」との話がもたらされた。この時早速村井とともに現地を訪れた体育局長安井俊雄は、
こおどりして上田から真田町まで電車でそしてデコボコ山道をタクシーで菅平にたどりつき、早速、売却地を大学庶務、営繕の方々と検分、うんと廉価にしてくれたら購入しましょうと約束してしまったのです。大学が買わぬとなればラグビーOBや有志諸君と相談して募金することに決意したのです。〓(「菅平の魅力」『早稲田ラグビー六十年史』 二三三頁)
と当時の意気込みを回想している。熱意に押された形で理事会は菅平の土地および建物の購入を決定し、そして同年十一月十五日の定時評議員会は、「長野県小県郡真田町大字長菅平一二二三所在土地一万二五〇四坪(十七筆)及木造二階建一棟(電話付)延八八坪を所有者同県小県郡真田町大字長菅平六三九五、一之瀬尭二氏から五百万円で購入する」と決議したのである。
理事会は更に、この地を自動車、スキー、スケート、ワンダーフォーゲル等のシーズン実技、およびア式蹴球部やラグビー蹴球部などの合宿に利用する方針を立て、これを総合運動場にまで拡充する構想を練った。そのためには校地を拡げる必要があり、理事会は菅平グラウンド隣接地購入を翌三十六年五月十五日開催の評議員会に諮った。同日の評議員会は「長野県小県郡真田町大字長菅平所在小島峯男氏外三名所有の土地十二筆、合計八七六〇坪を約三百五十万円で購入する」と決定し、構想実現への第一歩が踏み出されたのであった。