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第十編 新制早稲田大学の本舞台

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第三章 大浜総長の十二年間

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一 戦後長期政権

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 戦後の歴代総長の中で最も長い三期十二年の在任記録を残したのが大浜信泉である。しかもその期間は昭和二十年代末から四十年代初めまでという我が国経済社会の劇的な発展・成長期と重なっており、この時期に大浜が「長期政権」を担ったことは学苑の歴史においても特に重要な意味があったと言い得る。そこで、大浜自身がどのような決意や抱負を以て三度の総長選挙に臨んだかについて、先ず触れることにしよう。

 第九編第四章第十節に既述したように、昭和二十九年九月二十二日の総長選挙人会における選挙で当選し、第七代総長に就任した大浜信泉を補佐する理事・監事は、十月二日の評議員会で次の如く選任された。

理事 阿部賢一 磯部愉一郎 黒田善太郎 佐々木八郎 上坂酉蔵 佐藤輝夫 内藤多仲 丹尾磯之助

監事 市川繁弥 反町茂作

そして校規第十七条に基づき教務担当常任理事として佐々木が、常任理事として阿部が嘱任された。

 大浜の総長就任式は十月十九日午後三時から安部球場で行われた。大浜は、学生と警察との緊張関係を念頭に置いた上で、「民主的な大学の総長として、学問の独立への圧迫には断固として処したい。学生も自ら学の独立を破るような行動はしないようにしてもらいたい」と、決意ならびに要望を表明した。次いで『早稲田学報』(昭和二十九年十月発行 第六四四号)には、教職員がそれぞれの部署で楽しく且つ効果的に能力を発揮できるようよりよき環境と条件を作り出すことが総長の主たる任務であり、大学の運営は、「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を学苑教学の理念に掲げる教旨の実現を目指して行われるべきものであると考えていること、新学部、短期大学、複数の高等学院の新設は差し当り考慮していないことを内容とした、次のような抱負を寄せた。

島田〔孝二前総長の任期の満了による選任に伴い、わたくしがバトンを受継いで新たに総長の重職につくことになったが、わたくしは総長としての職責をオーケストラの指揮者のそれにたとえたい。人も知る通りオーケストラにおいて楽を奏でるものはそれぞれの楽手であって指揮者ではない。しかしすべての楽手をしてそれぞれの持場において十二分に各自の技能を発揮させ、しかも全体としてのハーモニーと雰囲気を作り出すものは、指揮者の手腕と人格にほかならない。大学は教授と職員及び学生からなる構成体であるが、目差す共同の目標はいうまでもなく真理の探究と最高の教育にある。ところで総長としての任務は、研究室または教室における営みにあるのではなく、むしろこれらの人々をしてそれぞれの部署において楽しく且つ効果的にその能力を発揮することができるように、よりよき環境と条件を作り出すことこそ総長本来の任務でなければならない。民主的な大学においては、総長といえども行政的な首長ではあっても、決して全体主義的な指導者でもなければ命令者でもない。しかし全体の調和と秩序のために、コンダクターとしてのタクトの権威は、尊重されなければならないであろう。わたくしの任務は、すべての人々が校歌の精神を体し、足並をそろえ、しかもリズミカルに力強く、真理探究の場、最高の教育の府としての使命の達成に協力されるようにタクトを振うことである。

学問そのものには、官学と私学の区別がある道理はない。しかし研学の態度すなわち学風と教育の方針には、それぞれの大学について特色がなければならない。早稲田大学はもともと官学に対抗し、独自の理想を掲げて創設されたものであり、この建学の精神は独自の学風と独特の伝統を生みだした。そしてこの建学の理想は、早稲田大学教旨の裡に歴史的な文字をもって簡潔に要約されている。これこそ早稲田大学にとって最も本質的なものであり、従って大学運営の方針は根本において教旨から出発しなければならないと同時に、すべての施策はつねに教旨の実現を指向しなければならない。

早稲田大学は近年学制の改革に伴い、その規模を拡大し、威容を整え、外観・内容ともに一流の大学として、他の大学との比較においてはなんら遜色を感じない。その声価が年を追うて高まりつつあることは、入学志願者の激増と就職戦線における進出の成果が最もよくこれを証示している。むろんこれで完璧というのではない。また文化の淵叢としての大学に、完成ということがありえよう筈はない。高踏的な理想論は別として、施設の面はもとより、教職員の陣容や待遇についてみても、決して満足すべき状態にあるとはいえないのである。このほかに内外から医学部設置の要望があり、さらに綜合大学としての完成のために理学部、農学部の必要を唱える人もすくなくない。理論としては異論のあろう筈はないが、しかしどの一つをとってみても、資金その他の面ですぐ壁にぶっつかり、急速な解決は望めないかも知れない。といって、夢物語としてあきらめてしまおうというのではない。重点的に手近な問題から取上げながら、長期の計画を立て将来の目標を明確にしておきたいと思う。早稲田大学はたしかに校運隆々躍進の途上にあるが、しかし繁栄の蔭に入学難の悩みがつきまとう。しかもその及ぼす影響はひろく且つ深刻であり、それがやがては大学の伝統的性格の上に変化をさえもたらすのではないかと惧れるのである。その辺の考慮から、一部には短期大学、または地方分校設置の必要を唱える人さえあるが、ひたむきに量的の発展をはかることが果して大学の本質的向上といえるかどうか、大いに検討を要する問題である。

就任匆々さしあたり当面するであろう目立つ二、三の問題をひろいあげてみたにすぎないが、むろんそれで尽きているわけではない。私の切なる希いは、校友と母校とをもっと組織的に緊密なものとし、天下に散在する十万余の校友の力と熱誠を母校の発展のために捧げていただくようにしたいということである。 (二―三頁)

 大浜総長の第一期の任期は昭和二十九年施行の新校規により四年とされ、三十三年九月に終ることになっていた。任期満了を前に大浜自身は再選の意思を固め、選挙一週間前に行われた『早稲田大学新聞』記者との会見で、再選後の抱負と見られる談話を発表していた。九月二十日総長選挙人会が開かれ、百四十三名の選挙人中百三十二名の出席(十一名欠席)で投票が行われた。得票者は大浜、第一政治経済学部長吉村正、評議員小汀利得、理工学部長高木純一、第一法学部長斉藤金作、教育学部長竹野長次、常任理事阿部賢一、名誉教授北沢新次郎であったが、過半数の百三票を得た大浜の再選が決まった。

 この選挙について、同年九月二十三日付『早稲田大学新聞』は「総長選挙の舞台裏」「反対派も大浜支持に/対立候補なき哀しさ/浮沈のカギ握った校外票」という見出しを掲げて、「外形上の整備の点では自他ともに認める大浜総長の業績は、財界、業界では手ばなしで歓迎され……、大多数の校外票は前回選挙同様、大浜支持に流れたとみて間違いない。その予想が対立候補の出現を困難にし、その結果が大浜総長の勝利を確定した」と解説したほか、「大浜行政にはどこか周囲に遠慮するムキがあった。思い切ったことをやってもらうためには多数の教授のバック・アップが大切だ。有力な対立候補がなかったために、そんな意図から反対派も大浜支持に踏みきったのではないか」という、反大浜派の「急先鋒と目される某教授」の談話を掲載している。このような解説が正鵠を射ているか否かは別として、過去四年間の業績が各方面から評価され、今後への期待に連なって大浜再選となったのであろう。

 大浜は当選後直ちに『早稲田大学新聞』記者との会見で抱負を述べた。先ず学部教育については、第一に理工学部の拡充、第二に医学部および国際的な方面に向けての新学部の新設、第三に語学教育の根本的改善を挙げ、研究態勢の整備については、研究室の充実、図書費の拡大、私学共同研究所の設立を掲げている。そして「闘争的なふんい気を排し、学問の場にふさわしく静かな学園にしたい。安部球場に校舎をたてるなど、建物ももっと分散させたらと思う。いまの学生会館は満員なのでさらに大きなものを、留学している外人学生のためには国際会館を……と、つくりたいものはいっぱい」あると言い、「学生諸君には、やはりワセダ・カラーを生かしてほしい」と締めくくっている。なお、この中で、四年前の総長就任時に「学生とはできるだけ会う」と約束したものの、「会いに来るものは組織を背景にした代表者ばかりで話し合うというより押しつけだった。何度でも同じ話題をむし返される。こっちも忙しい身だからと断ったこともある。そのたびに『会うと声明したじゃないか』と責められ、つらい思いをした」と述懐している(昭和三十三年九月二十三日号)。これは、学生運動が次第に激化して、もはや総長の善意とか努力とかによってだけでは収拾できなくなりつつあったのを示しており、後年任期途中で総長退陣を余儀なくされる成行きを暗示していたと言えば、過言であろうか。

 また、大浜は『早稲田学報』第六八四号(昭和三十三年十月発行)にも「再び総長の座につくにあたって」という一文を寄せて、総合大学完成の理想を掲げてその実現にやりよいところから一歩でも二歩でも前進したい、社会的使命を達成するために学部・学科の改編の必要があり、特に外国語教育の改善に努力したい、学部の縦割制度を見直したい等々の意欲あるところを語っている。学生に語ったところとほぼ一致しているが、最後に、

理事者がいくら決意し勇気を出してみたところで、民主化の線に沿って地方分権化された大学の現機構の下では、すべての人々の同調と協力なしには何ひとつとしてその実現は覚束ない……。企画を強力に推進するには、分散した力を一つの目標に向って束ねることが不可欠であるが、信頼と協力の精神とその実践に頼る以外に途はない。民主主義の倫理を強調するとともに、共同の理想の実現へすべての関係者の協力を切望してやまない。 (三頁)

と校友・教職員へ呼びかけて、締め括っている。なお、十月三日付で嘱任された再選内閣の陣容は次の通り(*印は留任)で、常任理事には村井が就任した。

理事 小松芳喬 戸川行男 中西秀男 黒田善太郎 高木謙吉 末高信 村井資長 阿部賢一

監事 反町茂作 久保九助

 二期目も無事にこなした大浜は、総長選挙前の三十七年九月十日の『早稲田大学新聞』に「『三選』への意欲ほのめかす」との見出しの中で、八月に制定された名誉評議員制度(二四六頁参照)について説明したのに続いて、

創立八十周年記念事業のうち記念出版物『早稲田大学八十年誌』は今月中にできあがる予定であり、理工学部新校舎の設計も今月中に完成し、来月に請負会社を決め、三期に分けて着工する。学生会館の設計は進んでいるが、地所に未解決の部分が残っているものの、年内には着工できるであろう。当面の問題は記念事業を如何に完遂するかである。

教・職員組合が学校行政一般、人事などに口ばしを入れるようになると、将来に弊害を残すことになろう。

学生運動は実際には少数の学生の運動だ。学習の妨げになるようなやり方は遺憾である。

授業料は、本年大幅に値上げしたばかりなので、特に大きな経済変動がない限り、向う四、五年間は上げない積りである。

と所見を述べた。早くから八十周年記念事業を計画し、その完遂に努力を傾注してきた大浜総長が、その完成と記念式典・記念行事を目前にし、人的接触が重要な要素となる募金活動を中途で放棄して、退陣を決意するとは考えられないから、続投に意欲満々であったのは容易に察し得るところである。

 大浜総長の三選は、学苑創立八十周年祝典を目前に控えた九月二十日の総長選挙人会で決定した。この日出席した選挙人は定数二百二十名中二百十名(欠席十名)で、得票者は大浜、吉村正野村平爾斉藤金作、高木純一、大野実雄、末高信、久保田明光島田孝一で、今回も大浜は百十五票を得て圧勝したのであったが、前回に比し、大浜批判票と見られる吉村の得票が激増したのが注目された。これは、本編第十二章に後述する、この年に改正された校規および総長選挙規則により、学内票と学外票との比率は三対二で旧規則と変らないが、学内票が四十七票増加したのに対し、学外票が三十票の増加であったことと多少は関係があったのであろうか。いずれにしても、長期に亘る大浜行政に対する批判が徐々に高まる傾向があったと見られる。

 十月二十一日に挙行された創立八十周年式典において、大浜は、今回理工学部の規模の拡張と施設・設備の更新、法文系学部の施設の再整備、殊に学生生活を豊かにするための施設の拡充を計画したことにつき、次のように理由を説明している。

大学の前面にはすくなくとも二つの大きな課題が横たわっているように思うのであります。科学技術の飛躍的の進歩発達によって世界の情勢も一変し、経済界も急速に変貌を遂げつつありますので、これに対応して大学においてもその研究および教育の体制を刷新強化して科学技術の水準の向上をはからねばならないと同時に、経済界においては科学技術者の量的不足に悩んでいるのでこの面における社会の要望にも答えなければならないということがその一つであります。第二は、科学技術の進歩は、人類社会に偉大な建設的な力を提供いたしましたが、他面恐るべき破壊力をもたらした。ところで、科学の成果の悪用または誤用を防ぐ力は結局humanityに求める以外に途がなく、従って人文科学、社会科学が従前よりも一層重大となるとともに、大学教育においても人間の形成ということが重要な課題となって来たということであります。

(『早稲田学報』昭和三十七年十一月発行 第七二六号 八頁)

これが当時の大浜総長の信念であり、三選された総長の抱負を示したものであったのである。十月三日付で嘱任された理事・監事は次の通りであった(*印は留任)。

理事 戸川行男 時子山常三郎 村井資長 大塚芳忠 滝口宏 中島正信 野村平爾 中尾徹夫 市川繁弥

監事 安念精一 毛受信雄

常任理事には戸川、時子山、村井、中尾の四名が就任した。なお、十月十五日付で朝桐尉一が理事(十一月一日付で常任理事)に追加嘱任された。

二 大浜とその総長時代

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 大浜は明治二十四年十月五日、沖縄県八重山郡石垣村大浜間切登野城村に父信烈、母逸の三男四女の長男として誕生した。四十四年単身上京、兵役を勤めたのち、大正三年四月、六歳年上の姉(二女)栄の夫で学苑大学部政治経済学科第三学年に在学していた豊川善包を追うようにして高等予科に入学し、四年九月、大学部法学科英法科に進学した。在学中に留学生相手の講義ノート印刷・配付業を学費捻出手段の一つとして思いついたことは第二巻一一四六頁に、また学苑を揺るがした「早稲田騒動」の際には騒ぎをよそに法律書と首っぴきになっていたことは同じく九五三頁に、それぞれ記したところである。七年七月に首席卒業、三井物産に勤務したのち、のちに評論家として名を馳せることになる英子と結婚して間もない十一年五月より非常勤講師として母校第一高等学院の教壇に立った。十四年五月助教授になるとともにロンドン留学、昭和二年九月帰国後、商法担当の教授に就任した。翌年十二月に処女出版した『英国社会主義立法』は留学の成果であるが、九年刊行の『手形及小切手法』は、国際連盟の下で締結された手形法ならびに小切手法の統一的国際条約を高く評価した本文七百頁余の大著で、大浜の代表作と言えよう。十八年には『会社法大要』(二十四年に『会社法概論』として改訂)を、二十九年には『商法概論』を上梓している。

 大浜が大学行政に関わるのは、昭和三年二月、早稲田専門学校法律科教務主任に任じられてからである。その後、法学部教務主任、専門部法律科長を歴任したのち、終戦間もない二十年十月には法学部長に、更に二十七年には体育局長に就任。そして戦後民主化運動の激浪の中で、校規改正案起草委員会副委員長や教育制度改革委員会委員長や教旨改訂委員会委員長として中心的役割を演じ、また初の公選総長島田孝一の率いる執行部に理事として参画したことは、第八編第八章および第九編第一章ならびに第三章に既述したところである。大浜はのちに回想して、「法律は混沌のなかに一定の秩序を与える技術であるが、戦後の諸改革にあたっては法律技術をもって大いに奉仕したつもりである。戦後制定された学内の諸規則で私の手がけないものはないといってよいほど学内立法に関与してきた。そのおかげで条文づくりに関するかぎり、一人前の熟練工になってしまったと自分では思っている」(『総長十二年の歩み』三三一頁)と自負している。

 大浜の活動範囲は学内にとどまらず、第九編第二章第五節に説述した如く、日本私学団体総連合会を母胎として生れた日本私立大学協会の産婆役を務め、その副会長時代に「私立学校法」の骨格造りに全力を投じた。また、日本私立大学協会から分離・独立した日本私立大学連盟の第二代会長を引き受けるとともに、本編第六章第七節に述べる私学研修福祉会の理事長をも務めて研修助成制度を確立したほか、私立学校振興会の会長の重責を担うなど、終始一貫、私立大学の内容充実を目指して八面六臂の活躍を展開した。更に、日本学術会議第二部(政治法律)の第一期副部長および第三期部長、全国大学教授連合の第三代副会長および第四代会長、日本学士院会員をも歴任し、加えて、全日本学生空手道連盟や日本学生野球協会やユニバーシアード東京大会組織委員会の会長として学生スポーツの振興に尽力したのみならず、プロ野球コミッショナーの重責をも果しており、その活動はまさに超人的という表現にふさわしかった。逸することのできないもう一つの功績は、池田勇人首相の懇請により南方同胞援護会(のち沖縄協会と改称)第二代会長の要職を引き受け、アメリカ軍施政下にあった沖縄の日本への返還を実現するのに粉骨砕身したことである。復帰後、沖縄国際海洋博覧会の会長を務め、その会場跡地には大浜の胸像が建立されている。

 さて、戦後復興期と新制大学発足期に学苑の舵取りをした島田孝一から総長のバトンを引き継いだ大浜の最大の課題は、新制早稲田大学の中身を充実させることであった。とはいえ、大浜総長時代には新制大学が、否、我が国の教育体系そのものが、最初の大きな曲がり角を迎えて、それへの対応に並々ならぬ配慮を要求されたのである。

 そもそも新制大学は、民間団体の大学基準協会が決定する「大学基準」を参考にして、加盟大学が自発的に質を向上させることを理念に掲げた。新制発足当時、大学の設置認可は、総数四十五名のうち二十二名を大学基準協会が推薦する大学設置委員会(のち大学設置審議会と改称)により「大学基準」などを判定基準に行われていた。ところが、戦後になって誕生した大学の多くは「大学基準」の最低基準を満たすのが精一杯で、とても質的充実にまで手がまわらず、文部省は苛立ちを隠さなかった。こうして「大学基準」は決定後十年も経たないうちに壁にぶつかり、大浜総長就任の翌年十一月八日、大学設置審議会は「大学設置審査内規」を採択し、また財務状況を審査するための「学校法人設立等認可基準」が文部大臣裁定の形で定められ、更に翌三十一年十月二十二日、遂に文部省は「大学基準」に代る「大学設置基準」を省令で制定するに至った。大学の設置と水準維持が民間に任されていたのが、学生定員、必要とされる校地や施設の規模、専任教員数、カリキュラム、必要図書数、図書閲覧室の規模、資産状況とその運営方法等々、細かなところまで省令で規制されることにより、以後大学の整備が進められたが、その反面、大学の没個性化・画一化も進んでいく傾向も見られた。この省令化でもう一つ忘れてならないのは、二九三頁以下に後述する如く、我が国の経済発展と連動して一般教育科目縮小と専門科目拡大とが図られたことである。

 連合国の占領下にあって戦争の痛手からの回復に全力を投入していた我が国経済は、昭和二十五年に勃発した朝鮮戦争の「特需」を契機に目覚しい復興を遂げ、第二次世界大戦前の生産水準をも超えるに至った。三十年十二月には新発足の経済企画庁が作成した経済自立五ヵ年計画が閣議決定され、三十一年度の『経済白書』は「もはや『戦後』ではない」と高らかに宣言した。三十五年、日米安全保障条約の改定問題をめぐり国論が二分されたあとを承けて組閣した池田勇人は、所得倍増計画を表看板に掲げて高度経済成長政策を積極的に推進した。その政策の一環として重視されたのが「人づくり」であり、高度成長達成に欠かせない人材の大量供給が大学にも期待されることになった。早くもその年末には、科学技術振興を目標に掲げて、三十六年以降十年間に理工系高等教育修了者を十七万人、工業高等学校修了者を四十四万人養成するための具体的計画が、文部省や大蔵省などの間で協議された。当初、この増員計画は、多額の費用がかかるので私立大学では実現不可能との見通しに立ち、国公立大学に主力を置いていたのであるが、国公立大学中心の養成計画では人材を十分に供給できないとか、既に多数の理工系学生を世に送り出してきた私立大学が今後果すべき役割を軽視するものとかの批判が相次いだ。こうした経緯を経て、三十六年七月四日、文部省は大学設置認可基準を大幅に緩和する方針を発表、省令「大学設置基準」に則り厳格に審査してきた学科増設や学生定員変更を事前の届出だけで済ませられるように改めたほか、校地面積や教員資格に関しても要件を緩めた。

 学生定員拡大の要請の声は、時期的に数年遅れるが、別の方面からも起った。それは、戦後のベビー・ブーム期に誕生した子供達が十八歳に達するのが昭和四十一年であり、大学の入学定員を従来通り据え置くならば、激烈な進学競争が生じて大きな社会パニックが現出するのは必定との懸念である。これを避ける方策を検討するため文部省内に高等教育研究会が設けられたのは、三十八年四月であった。その結果、急増期が到来するまでに九万人、急増期間中に更に九万人という定員枠拡大計画が立てられたが、差し当っては私立大学の水増し入学に期待するとして、その増員配分は、国立大学が一万人、短期大学が三万人、公私立大学が六万人とされた。これに対して日本私立大学連盟は、「文部省のこの度の十万人増員計画はあまりにも一方的で、徒らに数のみを私立大学に押しつけている」(『日本私立大学連盟・二十年史』一九一頁)と批判した。ところが、こうした拡張政策に積極的に応えたのは、実際には国公立大学よりも私立大学であった。私立大学では以前より水増し入学が当り前で質的には問題が多かったが、入学定員を増やし、学費収入を増やして、施設を拡張し充実させる絶好の機会と捉えたからである。加えて、ここで文部省の要請を受け入れるならば、私学がかねてより切望してきた国庫助成が実現するかもしれないとの期待もあった。試算によると、六万の学生を収容する施設を造るためだけに私立大学は総額二千六百億円を支出しなければならない。これは特別融資により調達するとしても、やがては返済しなければならない金額である。従って、私立大学の窮乏した財政が更に悪化するから、私学にしわ寄せが押しつけられたとの解釈も可能であろうが、私学は寧ろ拡張政策を歓迎したと言うべきであろう。早稲田大学でも、第二学部縮小と縮小により生じる学生数の減少を償って余りあるほどの第一学部拡大との方針が採られた。これがもたらした帰結は本編第十五章で述べる。

 かかる時代背景を斟酌するならば、大浜が総長として常に念頭に置かなければならなかったのは、大量の学生を受け入れつつ教育・研究環境を改善することであった。総長就任早々、積極果敢に取り組んだのは、戦後も暫くの間不可能であった教員の海外留学の再開である。きっかけはアメリカ合衆国国務省国際協力局(ICA)から持ち込まれた棚ぼた式の提案であった。日本は戦争を挟んで二十年近く世界の学界から孤立していた間に科学技術や学問文化の水準に大きな遅れをとったので、このブランクを埋めるためには、研究者を大量に留学させる必要があると痛感していた大浜は、その提案にとびついた。詳しくは次章の第二節に譲るが、紆余曲折があったのちこれはミシガン協定として結実するとともに、それを実現するため大浜苦肉の策として生産研究所が誕生した。ミシガン協定そのものは大浜の思惑を裏切って対等の立場での教員交換制でないことが間もなく判明し短命に終ったが、後者は現在もシステム科学研究所として存続し、新たな役割を担っている。なお、ミシガン協定の更新断念後は、自前で教員を海外に派遣する財政的余裕が生れ、また次章の第三節で説述する外国大学との交換教授の制度も導入されるようになった。

 同じく戦争により中断に追い込まれたものに、外国人留学生の受入がある。学苑には古くは清国留学生部があり、それが廃部になったのちも外国、特にアジアからの留学生が引きも切らず学苑に学んだ。大浜はこの伝統を復活させたいと考えたが、総長に就任した頃は既に早稲田大学への入学はかなり難関になっていた。また教員の中には、何かと特別措置を講じなければならない外国人学生の受入に対して難色を示す雰囲気も見られた。それを押しきり、入学の特別枠を設けるために採った起死回生策が、本編第五章第一節で述べる三十年発足の外国学生特別選考制度であった。大浜の外国人学生受入に対する熱意はその後も衰えることを知らず、三十八年には国際部が創設された。本編第五章第三節に後述するように、国際部は、アメリカ合衆国の諸大学で実施されていた在外教育計画の受入機関として発足したのであったけれども、大浜自身はこれをアメリカ人大学生の短期留学機関だけにとどめず、ゆくゆくはその他の国々の学生にも開放して、前二年間は英語で講義を行い後二年間はそれぞれの学部で日本人と一緒に受講させるという四年制の「国際学部」に発展させたいとの構想を抱いていた。国際化の必要が叫ばれ、内容はともかく他大学では国際学部またはそれに類する名称を持つ学部が幾つか新設されている昨今であるが、学苑の国際部は依然「留学生別科」のままにとどまっており、大浜の構想は実現に至っていない。

 こうして大浜は戦後の国際交流の礎石を据えた。それを深化させるためには、新制になってから旧制時代よりも劣ってしまったと認識された学生の語学力を改善することが必須である。大浜が語学教育のあり方を抜本的に改めなければならないと痛感したのは、昭和二十五年三月に開かれたイギリス文化使節エドマンド・ブランデン歓送会の席上、英文学科の某教授が英語ではなく通訳を介して日本語でスピーチを行ったのを目撃したときに遡る。語学教育は外国文学専攻者に任せておけないと思い至った大浜は、外国語の教育方法を研究するための機関を設けて、各学部に分散配属されている語学担当教員を全員ここに集め、語学教育の専門家として育てたのち各学部へ派遣しようと決心したのである。総長再選直後、大浜は「語学教育の根本的改善」を抱負の一つに挙げたことは五三頁に指摘したが、語学教員の大供給源である文学部の教員からの猛反対を含めさまざまな議論があったのち、三十四年に語学教育研究室が教務部内に設けられ、諸外国語の教育方法を研究すると同時に、外国人留学生の日本語教育をも担当する部門となった。本編第六章第五節に詳述する如く、これは四年後に語学教育研究所として独立の教育・研究機関に昇格し、今日この研究所から更に日本語部門が独立して日本語研究教育センターが生れている。

 大浜はこのように機を見るに敏で、また、早稲田実業学校を大学に併合した際に「系属」という新語を案出したことからも窺われるように、なかなかのアイデア・マンであった。その大浜が最も心を砕いたのは何と言っても「大学設置基準」を充足するための施設拡充であり、傾注する熱意の余り「建築総長」との批判を一部から受けることにもなった。教職員組合が結成されたのは三十六年であり、大浜は両組合との交渉に臨むことが少くなかった。組合からは、教職員の待遇改善には熱意が不足しているとか、大学の人的要素と物的要素との軽重比が逆ではないかとかとよく指弾された。前者について大浜は、「これらの人びとは、平素は、教室が足りないとか、研究室の整備を急げとか、施設の拡充をせまっていた人びとである」(『総長十二年の歩み」三五頁)と受け流しても、人よりも物を重んじているとの後者の非難に関しては一家言を持っていた。彼が基本方針として腐心したのは、第一に、本編第十三章に説述する第二学部縮小・第一学部拡大の方策により同じ建物や施設を昼と夜間とで時間をずらして共用することが三十年代半ば以降不可能になったので、校地を拡張し学部を分散してキャンパス内の混雑を緩和すること、第二に、校地・建物の「大学設置基準」を充足させると同時に教員の研究室を整備すること、第三に、三十年代後期から数が急膨張する学生と教員とが人格的に接触する機会に配慮することであった。第一の校地拡張については、もとより隣接地を入手するのはもはや困難な時代であり、離れた土地に目を向けざるを得ない。一箇所にまとまっていた校舎が初めて分散したのは、大正九年、新設の高等学院(のち第一高等学院と改称)が戸山町に建設されたときである。同地に開校した新制高等学院の上石神井への移転は島田総長時代に決まっていたけれども、移転後のその跡地に教育学部か文学部を移し、更に新大久保の国有地を取得して理工学部を移転させることにより、再度の拡張期を迎えたのは、まさに大浜の総長時代であった。この拡張策は、第二の基本方針とも合致するものである。因に、二十九年度末(三十年三月三十一日)から四十年度末(四十一年三月三十一日)までの間に、学苑の所有地は取得分から譲渡分を差し引いて六万四千平方メートル弱、建物は新増築分から解体分を差し引いて八万八千平方メートル弱増えた。これらの取得価額は、土地が七億四千万円余、建物が三十二億七千万円余である。

 主な購入土地には、菅平(三十五年、四万千平方メートル、五百万円。三十六年隣接地購入、二万九千平方メートル、三百五十万円)と西大久保の理工学部用地(三十六年、三万七千平方メートル、三億五千万円弱)とがあり、昭和十三年に相馬永胤より購入した甘泉園(二万平方メートル。第三巻六三七頁、七五三―七五四頁参照)と交換する形で昭和三十八年に取得した西大久保の理工学部隣接地(七千平方メートル)および法商研究室棟建設用地の水稲荷神社(七千平方メートル弱)が学苑の所有地となった。甘泉園の残余の土地一万一千平方メートルはその後四十二年に約五億円で東京都に売却されたのであるが、この名園を手離したことは、研究・教育施設の充実のためにはやむを得なかったとはいえ、その判断が適切であったかどうかは今日なお評価の分れるところであろう。更に、在任中の三十七年に購入を開始して総長辞任後の四十五年に取得が完了する七十九万平方メートルという広大な本庄の校地も加えてよい。大浜は、本庄のこの広大な校地にアメリカ流の「リベラル・アーツ・アンド・サイエンス・カレッジ」に類する学部を新設し、新制大学が目指したにも拘らず軽視されてきた教養教育に力点を置いて人格形成の場とするとともに、全寮制を採用の上多数の外国人学生をも収容して国際的訓練の場にしたいとの夢を描いていた。

 建造された建物には、上石神井の高等学院校舎(三十一年)、創立七十五周年記念事業の記念会堂(三十二年、高等学院の跡地に建設)および法文系大学院増築、創立八十周年記念事業の第二共通教室(三十六年、旧二二号館の学生ホール二階に増築)、文学部校舎(三十七年)、理工学部校舎(三期の工事に分れ、三十八年から四十二年にかけて竣工)、第二学生会館と四号館増築(四十年)があり、ほかにも、任期中に着工したが竣工は辞任後となった一五号館(四十一年)と一六号館(四十二年)、着工も竣工も辞任後であったが既に計画が完成していた法商研究室棟(四十四年)がある。当然、建築費の捻出に苦労し、区切りのよい創立年を何らかの具体的姿で記念するという名目で募金を行って集め、賄いきれなかった分は学生の納入金で補う方法を採用した。例えば右の創立八十周年記念事業は二十億円という巨額の浄財を寄せられてはじめて実現したのであった。ところが、折からの高度経済成長のマイナス面が物価高騰となって現れ始め、キャンパスの整備と研究・教育環境の改善を積極的に推進中の学苑の財政を圧迫した。企業ならば物価上昇分を製品価格に転嫁させるが、私学の場合は授業料を値上げせざるを得ない。四一頁の第四図から分るように、専任教員一人当り学生数は、三十年度と三十五年度とを比べた場合かなりの速度で減少したけれども、その後五年間は横ばいまたは微増を示している。数が増大した学生相互の人間関係が疎遠になる惧れを防止し、学生生活に潤いを与える目的で、大浜は各学部に六百平方メートル前後の学生ラウンジを設け、更に第二学生会館を新築したが、学生の勉学環境を著しく改善するには至らなかった。

 そうした最中に文科系三万円・理工系四万円の授業料大幅値上げを発表したのであった。これに対する学生の反発は甚だしく、更に第二学生会館の管理・運営方法をめぐる考え方の亀裂も加わって、学苑の研究・教育機能は半年近くに亘り麻痺してしまった。本編第十七章および第十八章に詳述するこの「学費・学館紛争」こそが、オーケストラの指揮者を自任した大浜が教職員の支持を失い、三期目を全うせずに退陣する直接のきっかけとなったのである。確かに大浜は有能であった。有能であったが故に、自らよかれと判断したことは他を顧みることをあまりせず積極果敢に実行に移す傾向がなきにしもあらずであった。一期、二期と続くうちに大浜の自信は大きく膨らみ、大学行政にかける熱意は強烈な使命感となった。それが、四〇三―四〇四頁に述べるように、四十一年二月四日、学生との「総長団交」の席上で不用意にも「貧乏人はワセダに来るな」と解釈される発言を生んだのであった。

 次編第六章で説述する如く、大浜退陣後の昭和四十九年に総長三選が禁じられ、任期は最長でも八年と制限されることになった。従って、顧みれば大浜の総長在任十二年というのは戦後の最長記録である。この点で、大浜は、戦前に最高責任者として長期に亘り学苑の舵取りをした高田早苗田中穂積に比肩する。のみならず、舵取りの率直さ・即断即決という点でも三名は似通っている。第二期大浜内閣で理事を務めた小松芳喬は、会議が紛糾すると大浜はさまざまな意見を巧みに盛り込んだ条文をその場で書き上げて出席者を納得させたというエピソードを伝えている。大浜が高田や田中と大きく異るのはその社会的環境である。戦後は民主的な意思決定手続が重視され、大学構成員の多様な意見を軽視して事を運ぶのは不可能となった。意見を集約するため会議が幾つも開かれるわけであるが、そうした会議はとかく権利主張の場になるとともに責任の所在を曖昧にする傾向が強い。とりわけ大学は評論過剰の世界であり、危機に直面してもこれを自己の問題として考えない教職員が多く、当事者意識が稀薄である。大浜は三期目の半ば頃、総長の立場の難しさを次のように述懐している。

大学もやはり人間の集団であるから、いくら知性の府とはいっても、そこには意見の相違もあれば、利害や感情の衝突もあり、いろいろの面において対立緊張の契機が内包されている。それに大学には上命下従の縦の秩序がなく、すべての人が横に並んでいるといっても過言ではない。ことに学者はその専門によって尊いとされ、それぞれ唯我独尊の心境と姿勢で身構えているのである。要するに大学というところは、一般の企業とはちがって、体質的にワンマン経営には向かないところである。その上、戦後の民主主義による改革の嵐は、大学をも襲った。民主主義による機構の改革が、中央集権体制から地方分権化の方向を指向することはいうまでもない。さらに大学には、大学の自治と呼ばれる特有の原理があって、とくに各学部の自主性が強調される。この両面の要請にもとづいて、大学の機構においては、権限は大方下部組織に委譲され、総長は全体の総括者ではあるが、象徴的存在として空器を抱いているようなものである。しかし何か問題が起きると、対外的に責任を負うものは総長にほかならない。ともあれ権限の所在と責任の帰属とが、体系的にズレているところに悩みがあるともいえるのである。

(『総長十二年の歩み』 二九四頁)