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第十編 新制早稲田大学の本舞台

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第九章 キャンパスの整備

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一 記念会堂

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 第四巻一一一六頁に掲げた施設部長杉浦巴の回顧談では、学苑の戦災復興計画に、都電通りが都市計画道路として拡張された暁にはこれに正門をぶつけて、大隈講堂の時計塔を望んで左に大隈会館および庭園を、そして右に「大体育館兼大講堂」を配置する構想があったことが述べられている。この構想は実現しなかったが、大隈講堂とは別に「大講堂」を設ける必要は総長大浜の時代になっていよいよ痛感されるところとなった。

総長就任後卒業式と入学式に臨んでつくづく痛感したことは、この種の式典を行う大ホールがないことであった。大隈講堂は二千数百人の収容能力しかないので、卒業式は三回、入学式は四回に分けて実施するほかはなかった。総長として同じ式辞を三回、または四回も繰り返すことはいかにもテレくさいが、それは我慢するとしても、式典をこまぎれに実施したのでは式典としての効果があがらない。入学式と卒業式は父兄も参列し、学生にとっても生涯の思い出となるべき意義ぶかい式典であるので、できるだけ荘厳なものにしたい。それには大規模に一回ですむようにする必要がある。

大浜信泉『総長十二年の歩み』 三九頁)

もう一人、大規模な屋内体育館の必要を強調していた有力校友がいた。学生時代競走部で箱根駅伝で鳴らし、今や稲門体育会(昭和二十三年五月発足。各体育OBクラブの会員を以て組織)の会長を務める河野一郎(昭一二政)である。当時キャンパスには戦前武道館と呼ばれ戦後に体育館と改称された自慢の建物(のち体育厚生施設として改築)があったが、体育が正課となって使用頻度が激増したため非常に狭隘となっていた。増築も検討されたが、体育振興に熱意を燃やす河野は資金集めの協力を約し、ここに大浜は創立七十五周年を機として一万人収容規模の大講堂兼体育館の新築を決意したのである。「創立七十五周年記念会堂」を趣旨として「記念会堂」と命名したのも大浜である。

 建設候補地としては、最初、本部キャンパスに隣接し大きな空間を残していた安部球場が検討されたが、駐車場用地や経費の点を勘案して、結局戸山町キャンパスに白羽の矢が立った。

 当時、大型体育館として少し前に完成していた千駄谷の東京都体育館(現在は取り壊されて建て直されている)があったが、このたびの計画は更にその規模を上回ろうとの意気込みで進められ、昭和三十一年四月二十四日付の『早稲田大学新聞』も「計画すすむ『東洋一の体育館』/工費一億四千万で早大に」と報じた。この金額は学苑側の予算で、これに稲門体育会による募金が加えられる計画になっていた。

 学苑としても前例のない大建築物であり、理工学部建築学科および施設部のスタッフにより新機軸を打ち出そうと四種類の試案が提出されたほどであったが、新工夫には相当の実験期間が必要なこともあって、結局、理事でもあった内藤多仲の指示により、最も経験の多いダイヤモンドトラス方式に一歩前進を加えた三鉸式アーチ方式が採用され、カマボコ型の平凡な形に落ち着いた。こうして、三十一年九月二十五日起工、三十二年四月二十四日上棟式、そして創立七十五周年記念祝典の前日十月二十日に竣工落成式を迎えた記念会堂は、一階面積四〇三三・三二平方メートル、中二階五〇〇・五三平方メートル、二階一二三二・三四平方メートル、最高二一・四メートル、軒高一一・五メートル、天井高一六・八メートル、競技場としては四〇メートル×五七メートルの面積に一三三メートル・トラック、バスケットボール・コート三面、バレーボール・コート三面、バドミントン・コート三面、ハンドボール・コート一面、テニス・コート二面がとれ、更に卓球、レスリング、機械体操、ボクシングの競技も行うことができ、集会場としては一階に椅子席六千人、二階スタンド二千人、立ち席を含めて約一万人の収容能力を誇ることになった。恐らくは関係者の「記念会堂」に込められた当初のイメージとは違ったものになったろうが、式典挙行の役割を考慮して音響処理や照明設備に苦心が施され、広大なホールの中での反響や残響が問題とならないように吸音のよい材料を選んで天井や側壁に張りつけた配慮は我が国のこれまでの体育館建築にないものであったし、照明は夜間でも全面三百ルクス、中央部で千ルクスが確保されているのである。

 落成式の翌日、記念会堂において七十五周年の記念式典が挙行された。同月二十七日には学生の手によるベートーヴェンの第九交響曲の演奏会が催され、盛会を極めた。また十二月一日には、記念会堂の披露と、新たに購入したフルコンサート・グランドピアノ「ブリュットナー」の弾き始めを兼ねて、ハンス・カーンによる演奏会が行われたのも忘れることができない。翌三十三年五月二十四日から六月一日にかけて東京で開催された第三回アジア競技大会では卓球の試合会場となり、三十九年十月にはアジアの地において初めて開催されたオリンピック東京大会のフェンシングの会場として使用されたことも、大学施設としての充実度と先進性を物語るものであった。

二 本部キャンパスの整備と体育局校舎の建設

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 一方、本部キャンパスでは、本部各事務所と政治経済学部とが使用する一号館と後者専用の三号館とを連結するとともに改築を施す工事が三十三年四月に始まった。翌年二月の竣工後は、二階以上が結ばれることにより一つの建物として機能することになった。二階から四階までの増築部分には研究室や会議室が設けられ、俯瞰すると、中庭を持つ瀟酒な建物に一変したのである。この工事と殆ど時を同じくして、理工学部が使用する一四号館南北両棟の西端部が地上五層の鉄筋コンクリート造で連結、この増築部分には研究室や実験室が設けられ、コの字形からロの字形に変貌してここにも中庭が出現した。この結果、この校舎が建てられた頃の第二高等学院を象徴した中空に聳え立つ七本の装飾柱が消え、正面から見た凸字形も、全体を五階に増築したので方形となった。

 戸山町校地では前述の記念会堂に続いて体育局の校舎が建設された。場所は戸山町四十二番地(昭和五十六年六月一日、新住居表示の実施に伴い戸山町一丁目二十四番一号と変更)で、記念会堂敷地の西側に当り、旧騎兵連隊の跡地であったが、二十五年四月に関東財務局から学苑が払下げを受けたのであった。三十五年七月起工され、三十六年七月二十日竣工したが、鉄筋コンクリート造地下一階・地上四階建で、総床面積は五六一・四七二坪である。この建物は主として稲門体育会の募金をもとに建設された。それまでは体育関係の授業は法文系大学院の校舎を使用して行われ、事務所も二号館(現一号館)内にあった。従って何かと狭隘をかこっていたが、この新建築が完成してからはそうした不便も解消したのである。

三 創立八十周年記念事業の推進と本部キャンパスの整備

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 創立八十周年記念事業委員会は前章第二節で既述した如く三十五年五月に成案をまとめ、これを一部修正した上で建設五ヵ年計画を立てた学苑当局は十二月に「記念事業資金募集趣意書」を発表した。そして、緊急度に応じて三十六年から順次着工される運びとなったわけであるが、実際には既に工事は始まっており、また建設の進行状況に応じてなお紆余曲折を見た。その結果、創立八十周年記念事業として施行された主要工事は、第二共通教室増築、四号館(現八号館)増改築、一五号館および一六号館改築、法商研究室棟新築、文学部および理工学部の新キャンパス建設、

第七図 創立八十周年記念事業建築配置図(本部キャンパス)

第二学生会館新築である。学苑三箇所のキャンパスでは三十五年夏から四十四年春まで建設工事の騒音が響き続けた。その結果、学苑の外観は大きく変貌するとともに、校舎の用途も変化した。本節では本部キャンパスにおける工事の進捗を見ることとし、文学部と理工学部と第二学生会館については節をあらためて詳述する。

 記念事業の最初の槌音は二二号館で鳴り響いた。大正十四年に大隈会館敷地内に建てられた鉄筋コンクリート二階建の学生ホール(二二号館)は戦災を免れ、昭和三十一年二月から八月にかけて改装・増築工事が施され、教職員用食堂が二階に設けられた。その間、第四巻一一二四頁に既述した二十七年竣工の共通教室(二一号館)が学生数の増大に伴い手狭になっただけでなく、狭隘な本部キャンパスでの新教室建築が不可能だったので、三十五年八月二十日、この学生ホール二階の上に更に一階の増築に着手し、新三階を第二共通教室に充てた。三十六年九月六日竣工後は延一〇五二・二一坪となる。この結果、学生ホールの前面は二階までの吹抜けとなり、専用階段で三階の大教室に通じるよう改装された。第二共通教室は千二百余人を収容でき、各学部が共同で使用した。

 記念事業の建設について企画・設計を統一的に推進するため理事会直属の臨時建設局が設置されたのは、二二号館と戸山町の文学部で既に建設工事が始まっていた三十六年六月であった。局長は理事市川繁弥(のち同中尾徹夫)、次長は教授木村幸一郎、ほかに顧問として教授内藤多仲および松井達夫という顔触れであった。この局が管掌する事項は、同月三日施行の「記念事業臨時建設局規程」によると、「一、理工学部新校舎付置研究所およびその他付属施設、二、第三共通教室用校舎、三、商学部研究室、四、学生会館」の建設である。第二項の第三共通教室については、昭和四十年六月の『定時商議員会学事報告書』の「施設関係」の項に「第三共通教室四号館増築計画(設計中)」と記されており(一九頁)、第四節で述べる如く文学部が戸山町校地へ移転した跡に二号館から移ってくる予定の教育学部が使用する四号館に、もう一つ別の共通教室を増築しようとしていたことが分る。

 ところが、この第三共通教室は四号館に増設されるのではなく、場所も変えて独立の一五号館として新築された。すなわち、現一五号館と一六号館は後日八十周年記念事業に加えられて完成したのであったが、これらが本事業に加えられるに至った経緯について、当時の施設部長杉浦巴は『早稲田学報』第七七〇号(昭和四十二年四月発行)に、「この建物〔一五号館〕は……一六号館とともに、当初記念事業計画に含まれていなかったのであるが、昭和三十四年四月に布告された首都圏整備法により、四十年十月十四日以降、法文系普通教室の増設は一切出来なくなるため急遽建設に踏み切ったのである」(四三頁)と記している。当時、第二学部縮小と引替えに増員される第一学部学生を収容するためには、大小取り混ぜて約七十教室が不足すると見積もられた。狭隘な学苑キャンパスにこれを建てるには、既設の建物を取り払い、その跡地を利用するほかない。そこで、第一・第二理工学部が西大久保校地に移ったのを機に、本部キャンパス西北部にあった理工学部使用の木造二階建の校舎、電気・機械実験実習室、その他計七棟を整理した跡地約一七〇〇坪に、全学部が共同で利用する共通教室として一五号館と、理学科三専修と体育学専修とが増設されて学生数の増える教育学部の専用校舎として一六号館とを、同時に建設することとなったのである。前者は四十年十月九日着工、後者はそれより一日早い八日に着工した。地鎮祭は両棟合同で九日に行われた。一五号館は鉄筋コンクリート造、地下一階地上四階建、東西四九メートル・南北二九メートル、軒高二五・一〇メートル、延面積七一一六・四〇平方メートル(二一五二・七一坪)、総工費二億二千四百万円で、四十一年十一月五日に竣工した。一六号館は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下一階地上十階建、東西一九メートル・南北六一・二〇メートル、軒高三四・四〇メートル、延面積一万二三七〇・一七平方メートル(三七四一・九七坪)、総工費三億六千八百万円で、竣工したのは四十二年二月十五日であった。

 一五号館には八百人教室二、六百人教室三、四百人教室四、二百人教室三の計十二室のほか、学生休憩ロビーがあり、共通教室としての機能を果させるための配慮が行われ、普通校舎の七階建に相当する高さを持つ、他校に類例を見ない大教室の積み重ねに対して、構造上の苦心が払われている。一方、教育学部の使用する一六号館は、管理部門諸室、実験実習室、研究室、学部・大学院読書室、学生控室、学生部室等を有し、中小共用普通教室四十一室は、二階の管理部門を除き、五階までに分布している。一六号館は本部キャンパスに出現した最も高い建築であり、また最高階数を有する研究室・教室棟となっている。

 他方、この二棟より早く四十年八月十九日に着工され、一五号館と同じ日に竣工した四号館の増築部分は、鉄筋コンクリート造一部鉄骨造、地下一階・地上四階建である。増築完成後も一年余の間教育学部が使用し続けたが、一六号館が完成すると教育学部は四十二年四月にこちらへ移り、四号館には四十四年四月に法学部が二号館より移転した。そして二号館には、一号館で執務していた本部各事務所が四十四年十月に移り、一号館は政治経済学部専用の校舎となった。こうして本部キャンパスには、文学部と理工学部が別の新キャンパスに移転したことと相俟って若干のゆとりが生じたのである。

 商学部研究室計画が拡大された法商研究室棟は、八十周年記念事業の掉尾を飾るものとして、四十二年十一月九日、本部キャンパス西南に隣接する水稲荷神社跡の新敷地に戸田建設株式会社により着工された。この敷地について三十六年六月十五日の評議員会が議決した「水稲荷神社と甘泉園土地交換に関する件」は、宗教法人水稲荷神社所有地二〇六四・六七坪と学苑所有の甘泉園の一部三四六二坪とを交換し、神社ならびに所属施設の移築・新築工事は学苑の負担と責任において行うというものであった。しかし、甘泉園が公園緑地帯の指定地であったため、水稲荷神社への譲渡に当り、その指定解除を東京都に求める手続に手間取り、水稲荷神社の氏子間に誤解を与えるなどの問題が生じて難航しつつも、漸くその一切が解決し、三十八年四月十二日に本契約が交わされ、翌十三日に登記を完了した。

 こうして得た土地に四十四年五月四日竣工した鉄筋コンクリート建の法商研究室棟は、地下一階・地上九階・塔屋三階、東西八一・五一メートル・南北一八・五〇メートル、軒高二九・三五メートル、塔屋最高部の高さ三六・一五メートルで、建築面積一五〇七・七五平方メートル、延床面積一万五五一六・七五平方メートル、法学部と商学部の研究室二百を有し、会議室、指導室、事務室、書庫、図書室等の付属施設のほか、定員九人のエレベーター二基が据えつけてあり、古い建物の多い本部キャンパスに、淡いクリーム色のスマートな外観を以て新しいイメージを描き出した。総工費は五億三千万円。

四 文学部の戸山キャンパスへの移転

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 文学部は従来本部キャンパス図書館脇の四号館を使用していたが、高等学院が上石神井校地に移転した跡、すなわち戸山町四十二番地に、文学部専用の新校舎群が建設された。三十五年十二月八日起工式挙行、三十七年四月三日に完成し、第一、第二文学部ともここへ移った。二五号館は十一階(水槽・機械室の上二層を加えると十三階)最高高度三七・二三メートルの研究室棟を中心とし、これと直交する七階建の研究室棟が建てられ、これに接する一部は平屋一部二階建の大講堂棟となる。記念会堂に側面した部分には、その前庭から地上四階建の教室棟(二四号館)が建てられた。これらの建物は、改装された旧高等学院の鉄筋校舎(一八号館)や木造校舎(一七号館)と連絡するよう配置された。記念会堂前のスロープを登って教室棟の下をくぐり抜けた所は中庭の如き形となり、この中庭から直接出入りできる所に、七百人収容の前記の大講堂棟がある。また四階建の教室棟は、一階に学生食堂・学生控室・サークル部室等が設けられ、二階以上が教室となっている。以上の新築校舎の総坪数は三〇三七・七六坪である。なお、研究室棟には大学院が統合され、学部とその同系の大学院とがこのようにまとまったのは、早稲田としては最初のものであった。

第八図 創立八十周年記念事業建築配置図(文学部)

 設計には村野藤吾(大七大理、日本芸術院会員)が当り、教授内藤多仲が構造部分を担当したほか、多くの人々がこれに参画した。学苑として画期的な高層建築第一号が出現したのであるが、村野はその設計思想を次のように語っている。

早稲田の文学部は非常に長い由緒と伝統をもっています。果して私の設計が、それらの伝統にふさわしいものが出来たかどうか、私は恐れています。ただ建物というのは、出来た時よりも今後五年、七年あるいは十年以上経過してその味わいというものが出てくるものです。かつてハーバード大学の建物を見た時、つくづく感にうたれ、こういう風な学校で学生が勉強出来るなら幸せだと思った。私の念願は、何かそういった夢が何年か先に、当時いだいたような感じを人びとに与えたいということです。

(『早稲田学報』昭和三十七年三月発行 第七一九号 二〇―二一頁)

右の言葉によって知られるように、村野の夢がこの文学部校舎の中に盛り込まれ、そして今も、あの十三階にシンボライズされるキャンパスの中に生きているのである。研究室棟入口のエレベーター・ホール床に長谷川路可画伯による「杜のモザイク」が施され、アクセントを添えている。なお、文学部が使用してきた本部キャンパス四号館には、三十七年四月に教育学部が移転した。

五 理工学部の大久保キャンパスへの移転

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 前章第二節に述べたように、当初医学部設置を念頭に置いて取得に努めた旧陸軍戸山射撃場跡地は思うような面積を確保できず、結局これを断念したのであるが、理工学部新校舎建設に切り換えて再度申請し、三十六年一月十日に大蔵大臣の決裁を得、一月十六日の評議員会が売買契約を議決して、期待よりも狭くなったものの新宿区西大久保四丁目百七十番地(昭和五十三年七月一日、新住居表示の実施に伴い大久保三丁目四番一号と変更)の国有地一万一二三三・一三坪を三億四八七八万八六八七円で、また同地地上物件を一七九万八二一三円で払下げを受けることができたのであった。また三十八年六月十五日には、理工学部新築敷地に隣接する国有地二一一一・一〇坪と、学苑所有の甘泉園の土地の一部二九六三・二九坪との交換が決定し、ここに、更にその敷地を拡大した。現理工学部の建設用地は以上の過程を経て学苑の所有となったのである。

 学苑はここに八十周年記念事業の理工学部独立キャンパスを建設することとし、三十七年十二月に着工した。この工事は三期に分けて行われ、第一期に教室群、第二期に実験室群、そして第三期に研究室棟とその基部を成す事務所等が完成した。以上三つの工期を期間で示すと、次のようになる。

第一期 昭和三十七年十二月十二日着工、三十八年九月三十日完工

第二期 昭和三十八年十二月十六日着工、四十年三月完工

第三期 昭和四十年九月十一日着工、四十二年十一月二十日完工

 第一期の教室群は、建設予定の一号館研究室棟(現五一号館)の東側に、中央広場を間に挟んで南に二号館(現五二号

第九図 創立八十周年記念事業建築配置図(理工学部)

館)、三号館(現五三号館)、四号館(現五四号館)、北に七号館(現五七号館)、六号館(現五六号館)の順で建設された。中央広場の東端には五号館建設が計画されていたが、右の三期の間には、これは完成しなかった。なお、二・三・四号館は教室棟、六号館は物理化学棟、七号館は製図室棟であり、二・七号館は三階建、延面積は三八九一・五および四二一〇・八平方メートル。三・四号館は四階建、延面積はどちらも二六九二・五平方メートルである。六号館のみ五階建、延面積七一二〇・四平方メートルとなっている。以上の各建物には地階があり、総面積はこれを含んでいる。いずれも鉄筋コンクリート造で、素材面をそのまま生かした、近代的ながら質実な感を与える教室群である。第一理工学部長難波正人はこの教室群の機能について次のように説明している。

各教室の収容人員数は六十人、百二十人、百八十人、二百四十人、四百五十人の五種類であるが、六十人以外の教室には全部マイクの設備を持っており、音響的にも講義し易いように設計されている。特に二百四十人、四百五十人教室は視聴覚の設備を完備しており、例えば黒板は電動で全部下側に格納され、黒板の裏面はスクリーンになっており、映写などの操作は一切教壇上のボタンで制御できるようになっている。又教壇は実験台を兼ねており、ガス水道各種電源の配線がしてあり、デモンストレイション実験を完全に行なえるように設備されており、かつこれを工業用テレビジョンで写し、後方の席の学生にも細部まで観察できるようにしてある。

(「理工学部新校舎の完成に際して」『早稲田学報』昭和三十八年十月発行 第七三五号 一一頁)

 第二期の実験室群は、中央研究室棟の西側に建設された。鉄筋コンクリート造の各号館の規模と延面積は、八号館(現五八号館)が地上三階五七五五・五平方メートル、九号館(現五九号館)が同じく地上三階五七五五・五平方メートル、一〇号館(現六〇号館)が地下一階地上二階三六二八・八平方メートル、一一号館(現六一号館)が地下一階地上五階七六八三・六平方メートルであり、八・九号館は機械工学系の実験室棟、一〇号館は化学系の実験室棟、一一号館は電気工学系の実験室棟となっている。

 第三期工事において、理工学部キャンパスの象徴と言うべき一号館(現五一号館)研究室棟が竣工した。この研究室棟は鉄筋コンクリート造、地下二階地上十八階建、延面積二万九三一・九平方メートル、軒高六二メートル、最高高さ七〇・四メートル、研究室百八十室、基部は理工学部本部となり事務所等が設けられてある。学苑随一の高層建築であり、理工学部全体の設計の任に当った教授安東勝男は「創立八十周年記念事業中間報告」(『早稲田学報』昭和三十九年一月発行 第七三八号)に「もし特別街区の指定を受けられるならば、これを約七〇米の超高層建築としたい」(二六頁)と書いたが、この建物はその時の大綱をほぼ変えることなく四十二年十一月二十日に竣工した。因に、右の一文が書かれてから暫くして、三十九年四月一日、「建築基準法」における容積築成による高度制限緩和が東京都条例によって行われ、我が一号館は特別街区の指定とは関係なく竣成したのであった。三十九年九月完成し高度七二メートルを誇ったホテル・ニューオータニに次ぐ、我が国第二位の高層建築であった。

 こうして理工学部の新しい外観が着々と整い、本部キャンパス内の幾つかの校舎を分散使用してきた理工学部の全面移転が順次進められていくのに併行して、四十二年一月十三日、本部キャンパス内旧一三号館にあった高圧実験室を西大久保新キャンパスの西北角地、すなわち八号館の西側に移設する工事が始まった。鉄筋コンクリート造一部鉄骨三階建、総床面積八九六・四〇平方メートルのこの実験室は、右の第三期工事よりも一足先に七月に完成した。

六 第二学生会館建設と記念事業の終了

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 学生会館(第二学生会館竣工後は第一学生会館と呼ばれたが、双方の会館の名称の正式決定は五十五年十一月)が完成した折、施設部長杉浦巴が、

当初、学生会館の建設敷地について、現在の出版部の隣接地では土地も狭い上に建築上の高さの制限もあるので、むしろ正門の前の土地を買収しそこに規模の大きい会館を建てる意向で、理事会でも承認をえていたが、そのご区画整理などの関係もあり、土地の買収が思うようにはかどらず、結局現在の場所に落ちつかざるをえなかった。それだけに学生の厚生施設としての偉容を備えることができず、文化団体のすべてを収容するのに充分でなかったことは残念だ。しかし将来第二、第三の学生会館建設の計画を樹て、その実現に努めていきたいと思っている。

(『早稲田学報』昭和二十九年六月発行 第六四一号 三四頁)

と語っているように、第二学生会館の建設は第一学生会館建設時からの学苑の宿題であり、また、正門前の土地は本来から言えば第一学生会館の敷地として確保する筈であったが、それが解決されないまま、この土地の入手をまって第二学生会館の建設を行うこととなったのである。

 さて、三十九年十二月十五日開催の評議員会は、正門前の土地二二一・六二坪を、大学所有の山吹町や鶴巻町の土地と交換売買の形で購入することを決定した。当日会議に使用された資料の図面を見ると、現第二学生会館北半分の敷地と現在敬文堂書店に貸している土地とがこの時既に大学用地として確保されており、これを除いた二二一坪余が、この時大学の所有するところとなったのである。従って、第二学生会館の全敷地は、この日の議決を以て学苑の所有となった。現第二学生会館の敷地面積は、五十年八月八日の日付がある東京都市街地再開発事務所の公図写によれば、一二四六・一二平方メートル(三七六・九五坪)となっている。

 用地取得後、待望の地鎮祭が四十年二月三日に行われ、大成建設株式会社により当時の最新式工法と新材料を使用して約十ヵ月の短期間で竣工した。鉄筋コンクリート造、地下二階地上十一階建(渡り廊下・屋外階段・上屋・別棟店舗を含む)で、総床面積五八九二・八三平方メートル、工費は三億五四七万六〇〇〇円余であった。「早稲田大学創立八十周年記念事業計画」(『早稲田学報』昭和三十六年一月発行 第七〇八号)に公表された図面は、当時学苑当局が抱いていた構想を明らかにしている。当初の計画では、大隈会館敷地内の第二共通教室(二二号館)に連続する形で、放射七号線と大隈横丁(正門前から放射七号線に通じる、現在の大隈会館と都営早稲田アパートとの間の路地)の角地に四階建のものを建てる積りであったが、のち正門前の土地が確保されたので、この計画は変更されたのであった。

 建設以来、第二学生会館の管理・運営上の問題をめぐり学苑当局と学生との間で激しい議論が戦わされ、実際に使用されるに至らず、都内の廃墟としてジャーナリズムの話題に取り上げられたこともあった。この問題が漸く決着したのは昭和五十五年で、修復工事を行い、同年十一月十五日職員を配し、二十五日より一階から三階までのラウンジが開館され、翌月十一日には四、五階の共同利用の練習室が開かれた。

 ところで、本記念事業の最大の特色は学苑建築の高層化である。早稲田の建物が高層化に踏み切ったのは、三十五年十二月に着工し三十七年四月に落成した前述の文学部研究室棟を以て嚆矢とする。その契機は、「建築基準法」の高度制限緩和にあった。東京都の住居地域指定地区内における制限高度三十一メートルが実質的に緩和されたのは、三十八年七月十六日公布の「建築基準法」第五十九条二に基づき、三十九年四月十日公布の東京都条例に容積築成が採用された結果であるが、文学部研究室棟の建設はこれより以前に当る。三十年代前半の頃は高度制限緩和の過渡期に当っていたので、文学部研究室棟も「建築基準法」の許可基準内における特例許可を以て建設された。これについては、都知事の諮問機関である建築審議会に申請した結果、三十六年二月十四日に都知事より認可されたのであった。学苑建築物の高層化は、学苑の機能を空間に伸ばし、狭隘な校地を最も有効に活用する意味で、早稲田の建築史に一大エポックを画したのである。

 創立八十周年記念事業は、以上述べたように、従来の学苑には見られなかった高層建築の出現と、新しい土地の取得とにより、学苑キャンパスを面目一新させたのであったが、反面、東都の名園として有名な甘泉園が、交換用地として学苑の手を離れたのは、惜しんでもなお余りあると言うべきであろう。緑地の少い東京都が甘泉園に目をつけ、昭和三十四年頃から学苑に交渉を持ちかけた結果、学苑はこれを手放すに至ったのであるが、学苑は単にこれを譲渡するよりも国有地との交換を求めて交渉を重ね、既述のように、西大久保の既得理工学部キャンパスの隣接地を獲得したのであった。西大久保のこの土地と交換した場所は、かつて甘泉園入口からグラウンドにかけての地域で、現在ここには大蔵省の職員宿舎が建っている。また、この地域と池塘周辺緑地帯との間の土地は、法商研究室棟の建設敷地として学苑が得た水稲荷神社の土地と交換したものであるのも前述したところである。以上二つの交換土地を除く池塘周辺の緑地帯については、四十二年四月十五日の評議員会で、「新宿区戸塚町一丁目四百十番の十一所在の土地(三月二四日分筆分)一万一〇九六平方米(東京都実測一万一一七九・七五平方米)を総額四億九八六〇万四六四〇円で東京都に売却する」ことが決議され、甘泉園はここに完全に学苑の管理・運営下から離れたのである。

 創立八十周年を記念する新建物の建設は法商研究室棟が落成した四十四年五月を以て終了し、臨時建設局は翌月一日付で廃止された。