Top > 第五巻 > 第十編 第五章

第十編 新制早稲田大学の本舞台

ページ画像

第五章 教育の国際交流とその機関

ページ画像

 本編第三章と第四章で述べたように、大浜信泉は総長就任以来、国際的な学術文化の交流の必要性を説き、外国諸大学との学術研究交流を次々と実現させていったが、同時に学生の教育交流にも意を注いだ。本章では教育交流、すなわち外国学生の受入と学苑学生の外国諸大学への留学について述べよう。ただし、昭和三十年代においては、他の大学でもそうであったように、日本人学生の留学制度は不十分にとどまり、外国学生の受入が関心の中心であった。

一 外国学生特別選考制度

ページ画像

 大浜の考えを実行に移す第一歩は、外国学生の特別選考制度の創設であった。この制度は、通常の募集定員の他に一定数の外国学生の入学定員枠を確保し、一般受験者とは別に外国学生受験者の選考を行うものである。外国人卒業生を多数送り出し、それによって早稲田大学の名を世界に広め、以て国際交流の実をあげるのが目的である。当時既に学苑への入学は志望者の増加により難関となり始めており、外国人受験者を日本人受験者と同じ基準で選考したのでは、彼らの合格は覚束ない状況にあった。この状況を打破し、所期の目的を達成するために外国学生特別選考制度が案出されたのである。学内には、「自国の学生でさえ入学困難な状態にあるのに、世話のやける外国学生を受け入れて座席を埋める必要はないのではないか」との意見もあった由である(大浜信泉『総長十二年の歩み』二六頁)が、昭和三十年、学苑は敢えて「早稲田大学学則」および「早稲田大学大学院学則」を一部改正(二月一日施行)し、外国学生特別選考制度を設けたのである。これにより、外国学生が学苑に入学しようとする場合、通常の入学試験を受けるルートと外国学生特別選考制度によるルートの二つが用意されたのである。

 外国学生特別選考制度は、学部受験資格を「外国において通常の課程による十二年(大学院では十六年)の学校教育を修了した者、又はこれに準ずる者」とし、必ずしも外国籍である必要はなかった。「原則として、最終出身校が外国である」ことが求められたのである。従って、この条件を満たせば、いわゆる帰国子女も、この制度により受験することが可能である。また、アメリカ統治下の沖縄に在住していた学生についても、沖縄の高等学校を卒業後、文部省の選考に合格し、且つ同省の推薦を受けた者は、外国学生として扱われた。更に、三十年四月八日の学部長会で、最終学歴が日本国内の学校である外国人の取扱いについて協議された結果、原則はそのままとするけれども、特別の事情がある場合には教務部長の判断により外国学生として受け入れてもよいということになった。在日韓国人および在日朝鮮人の出願をも念頭に置いた措置であった。

 外国学生特別選考は、書類による第一次選考と、日本語の読解力、外国語および志望学部で必要と認める教科の学力検査、面接および身体検査を行う第二次選考(大学院の場合は、志望研究科で必要と認める基礎学科の学力検査、面接および身体検査)の二段階で行われた。出願時期は、制度創設が三十年二月であったため、三十年度に限り三月末までとされ、選考は四月末に行われた。翌年度からは、出願は十一月頃、第一次選考一月末頃、第二次選考は三月末から四月初め頃となった。この制度による入学者数は、学部においては「学部別入学定員の大体五パーセントを限度とし、一特定国の学生は〔外国学生総数の〕半数とし、可及的に集中をさける」、大学院においては「研究科別入学定員の大体一〇パーセントを限度(以下、学部に同じ)」とされ、全体のバランスをとって学生を受け入れるべく努めたのである。

第十表 外国学生特別選考制度による入学者数(昭和30―41年度)

第十一表 外国学生特別選考制度による主要出身地別入学者数(昭和30―41年度)

第十二表 外国学生特別選考制度による学部別志願者数(昭和30―41年度)

 右の外国学生の取扱いは三十四年度に若干手直しされた。すなわち、入学者数を「一特定国の学生は半数とし、可及的に集中をさける」としていたのを、「同一国籍の学生の入学はできるだけ集中をさけること」と改められた。これは、後述するように、中華民国(台湾)からの留学生が過半数を占めるという実態により、当初の規定が意味を持たなくなったからである。また、従来日本語試験を行わなかった大学院の入学試験に、学部入試と同一の日本語試験を課すことになった。日本語の習得レヴェルが低いと、研究を深める上で多大の困難が伴うのは当然であるが、そのことが現実の問題となってきたからである。

 外国学生特別選考制度により入学した外国学生の人数は第十表の通りである。初年度は学部三十二人、大学院八人であった。学部入学者のうち日本語の習得レヴェルの低い者に対し日本語クラスを設けたが、その受講生は入学者の半数を超えた。入学者数は、学部では三十一―三十二年度に激減したのちほぼ増加傾向にあり、四十年度に激増して九十四人に達している。大学院も三十一年度と三十四年度に激減したほかは全体として増えており、四十年度には六十人を超えている。彼らの主要な出身地を示した第十一表によると、学部、大学院とも中華民国と大韓民国の学生が大多数を占め、特に前者が群を抜いて多い。中華民国の学生は、学部では五〇―六〇パーセント、大学院では七〇―八〇パーセントを占めている。このように中華民国の学生が集中したため、前述した如く三十四年度に出身国取扱いが緩められたのである。

 第十二表は特別選考の志願者数を学部別に示したものであるが、見られる如く、圧倒的に理工学部に集中しており、常に五〇パーセント前後を占めている。次いで、商学部、政治経済学部の順である。彼ら外国学生が科学技術、経済活動についてのスキルの獲得を目指していたことが分る。彼らは母国の発展、なかんずく経済発展に必要な技術やノウ・ハウの吸収を目指していたのである。このような学部志望者のあり方、入学者の出身地別あり方は、東・東南アジア諸国の学生達が日本という国をどのように捉えていたかの反映であったと言える。

 なお、通常の入学試験により入学する外国学生は、それが判明している三十三年度は四十人、三十五年度は三十三人と、外国学生特別選考制度による入学者数とほぼ同数であり、その殆どは在日韓国人および在日朝鮮人であった。

二 沖縄県の学生

ページ画像

 戦後アメリカに占領された沖縄は、昭和二十六年のサンフランシスコ講和条約締結以後もアメリカ合衆国の信託統治下に置かれた。東西冷戦が深まる中、アメリカが沖縄の戦略的価値を重視し、その長期保有を意図した結果である。以後、昭和四十六年に日米間に沖縄返還協定が結ばれ、翌年五月十五日に日本に復帰して沖縄県となるまで、沖縄はアメリカの統治下にあったのである。

 沖縄の学生が高等教育を受けようとする場合、沖縄の大学、例えば琉球大学(昭和二十六年開学)に進学するか、統治権を有するアメリカ合衆国の大学に留学するか、日本本土の大学で学ぶかのいずれかであった。このうち、日本本土の大学で学ぼうとする学生が圧倒的多数に上っていた。しかし、日本本土の大学で教育を受けると、沖縄がアメリカの信託統治下に置かれていたため、法的には「留学生」として扱われたのである。沖縄籍学生は、外国籍の学生が日本の大学で学ぶ留学とは本来的には異るが、法的には同じ「留学生」として扱われたので、教育の国際交流の一つとして本章で述べることにする。

 沖縄から本土への「留学生」には、「契約学生」「国費沖縄学生(初め公費琉球学生)」「自費沖縄学生(初め自費琉球学生)」の三種の奨学生のほか、琉球育英会が送り出す「私費学生」(初め「私費留学生」)があった。「契約学生」はアメリカ政府が昭和二十四年から二十七年六月まで合衆国本土の大学へ送った学生のことである。政府が学資・生活費の全額を給与し、学生は卒業後沖縄に帰って建設的な業務に就く義務を負った。二十七年にこの制度が廃止されたため、琉球育英会が創設され、同会と日本政府とが費用を分担して行う「国費沖縄学生」の制度が二十八年三月から実施された。これは沖縄の人材養成を目的とするもので、学部学生を対象として、選定した学生を日本本土の国立大学に配置し、授業料と入学金を免除した上、国費により一定額の給与が支給された。琉球育英会からは生活費の一部が補助されたほか、学校に納入する諸費用、被服費、旅費、医療費等までも支給された。彼らは卒業後、給費を受けた期間に相当する期間、沖縄に帰って建設的な業務に就かなければならなかった。なお、同じ内容で大学院学生を対象とするものが三十六年から実施されている。

第十三表 沖縄籍学生数(昭和32―45年度)

(琉球育英会東京事務所『本土各大学在学沖縄学生調査書』各年度版より作成)

 「自費沖縄学生」は、「国費沖縄学生」の第一回・第二回の採用人数が四十人と少かったため、復興に向けて多くの人材を必要とする沖縄側の要請に応え、日本の文部省が三十年度から実施したものである。同省が、沖縄で選定した学生に対し、本土の大学への入学を斡旋するが、経済的援助は特に行わず、学費その他諸経費は自費により賄われる。従って、卒業後に義務は課せられなかった。この奨学生には、文部省によって国立大学に配置された学生、早稲田大学が三十一年度以降毎年十五人から十七人受け入れた学生、三十六年以降琉球育英会の推薦によって国際基督教大学への入学を許可された学生、三十八年以降中央大学法学部に無試験で入学した学生がある。「私費学生」は、日本の文部省や琉球育英会の手を経ず、一般の受験生と同じ入学試験を受けて自力で各大学に入学した学生のことをいう。

 さて、日本全国と早稲田大学の沖縄籍学生数は第十三表に示す通りで、全国総数は三十二年度には二千四百七十九人であったのが、年とともに増加して四十五年度には七千四百四十三人と、三倍にも達している。沖縄における高等教育への需要が増加したことの現れであろう。この変動は主として「国費沖縄学生」と「私費学生」の増加によるものである。「私費学生」は常に全体の七五ー八五パーセントを占めており、沖縄籍学生の中心の観がある。一方、学苑の沖縄籍学生は「自費沖縄学生」と「私費学生」で、「国費沖縄学生」はいない。前二者の数は三十二年度には百二人と全国総数の四・一パーセントを占め、日本大学の二百四十二人に次いで二番目に多い。しかし、三十五年度の百五十六人(四・三パーセント)をピークに漸次減少し、四十五年度には七十四人(一・〇パーセント)にまで減少している。

 学苑の「自費沖縄学生」の受入は、第一節で述べたように、大浜の意思により実現した外国学生特別選考制度を利用して行われ、沖縄の日本復帰の四十七年まで続いた。「自費沖縄学生」として入学した照屋佳男(昭三七・一文、のち社会科学部教授)は、「私は、昭和三三年に文部省の自費琉球学生として早稲田大学に入学したんですが、沖縄の方で一旦試験を受けまして、また早稲田大学でも形式的にやるという形のものでした。本土で正式に受けたらとても受からないような学力しか持ってない私のような学生にとっては、大変ありがたい制度だということが言えると思います」(「座談会 米軍政下沖縄籍早大学生の意識と態様」『早稲田大学史記要』昭和六十一年三月発行 第一八巻 二三八―二三九頁)と謙遜しながら同制度についての感想を述べている。また、「私費学生」であった宮武正明(昭五一政)も、「自費沖縄学生」制度があったので沖縄の高校生には「自分が努力すれば東京の大学に行けるという希望」が常にあり、同制度が「沖縄の教育レベルを上げたんじゃないかと思います」(同前二四五頁)と、その効用を語っている。

 右に見たように、学苑に沖縄籍学生が多かった三十二年から四十一年は、大浜信泉が総長であった時期である。大浜を慕って多くの学生が沖縄から早稲田に入学してきたのであろう。「私費学生」の多宇邦雄(昭四二教、のち早稲田実業学校教諭)は、早稲田大学への憧れを次のように語っている。

私は、八重山の石垣島の出身でございます。私が小学校の頃でしょうか、昭和三十一年だったと思いますが、大浜先生が総長になられて初めて石垣へ帰っていらしたんですね。その時の感激が、早稲田というものがイメージに残った最初でございます。その後早稲田大学八重山学術調査団の来島があり、早稲田への夢は膨らみました。 (同前 二四〇頁)

また、照屋は次のように語っている。

なぜ早稲田を選んだのかということですが、当時大浜先生が総長をなさっておられました。それが私の場合大きな影響を与えたと思います。何しろ、総長に就任した時は、湯川秀樹博士がノーベル賞を取ったのと同じような興奮を我々の間に引き起こしていたのです。それと、沖縄では早稲田大学出身の方が琉球政府の首席になったりしますので、とにかく早稲田大学は偉い人材を出す所だという信仰みたいなものがありまして、ひたすら早稲田に憧れていた訳です。 (同前 二三九頁)

 その大浜は、総長に就任して間もない二十九年十月八日、『沖縄学生新聞』のインタビューに答えて、「積極性に乏しい。ひっこみ思案だ。もっと大胆になり自己の生活体験をひろげる修業が望ましい。下宿屋と学校との往復だけの生活では駄目だ。それから、なんでもかんでも復帰問題と結びつけたがる傾向がある」と沖縄籍学生について苦言を呈したが、他方で、前掲の照屋は当時の学苑を次のように語っている。

ともかく解放感がありました。あの当時の沖縄は、基地を拡張するために米軍が次々に土地を接収していった時ですが、それに対する抵抗運動がありましたし、日本復帰運動を米軍当局が大変警戒しておりました。私達も高等学校にいて、日本復帰運動をした先生が罷めさせられるのを目の前で見ていますから、何となく伸び伸びしてないなという感じを抱いていただけに、早稲田に来て、何と自由な学園だろうと思いました。 (同前 二三九―二四〇頁)

沖縄にみなぎっていた抑圧感が滲み出るような言葉である。

 大浜と沖縄県学生との間は親しく、大浜は彼らの会合には総長職の激務を縫って大体出席し、三味線をひいて皆と一緒に歌ったり、また手許不如意の学生に金を工面したりしたという話も伝わっている。また、「沖英寮のことで困ったことがあると、総長室を訪ねて、大浜先生、何とかしてくれないかというと、よしよし、してやるぞという訳で、日照権の問題とか、そういう面倒なこともお願いした記憶があります」(同前二四〇頁)との回顧談も、大浜の人となりをよく表している。

 奨学金の支給されない「自費沖縄学生」は、ご他聞に漏れず貧しく、日本本土より値段の安いネスカフェのコーヒーやバンホーテンのココアを沖縄から送らせ、御徒町のアメ横で売った利ザヤで暮らす者もおり、沖縄の置かれた立場を利用して、それなりに遥しく生活していた。沖縄に対する他の学生や本土の人々の無知から、沖縄籍学生の心を傷つけることもあった。「日常の会話は英語なの」という無邪気な質問を、彼らは侮辱と受け取った。また、「自費沖縄学生」の場合、五十音順に配される学籍番号が一番最後に配されたり、フォリナーとしてFの所にまとめられたりなど、少からず被差別感を与えられていた。

 日本に復帰した四十七年以後、「自費沖縄学生」という優遇的受入制度はなくなり、沖縄県の学生は一般の学生と同じ試験を経て大学に進むことになった。とにかく、学苑の卒業生達は沖縄の政界、官界、教育界、財界等の多くの分野で活躍しており、沖縄の社会を支える大きな力となっている。

三 国際部の開設

ページ画像

 昭和三十八年四月に開設された国際部は、事実上アメリカの諸大学で実施されていた在外教育計画(Study Abroad Program)の受入機関として発足したものである。開設に至る学苑の動きは、以下の三つに分けることができる。

 第一は、スタンフォード大学の在外教育計画である日本研究センター運営への関与である。昭和二十四年頃から世界的にアジア地域への関心が高まり、三十年代に入ると日本研究も次第に盛んに行われるようになって、日本の大学に留学する学生・研究者も増加の一途をたどった。既にアメリカの諸大学では、国際的視野を身につけることを目的に外国で大学教育の一部を経験させる在外教育計画を、ヨーロッパの大学と提携して実施していたが、それをアジア地域に拡大しようとの気運が高まり、日本の大学への打診が行われるようになった。こうした中でスタンフォード大学は学部レヴェルの日本語教育・日本研究機関を東京に設立する計画を立て、東京大学との間で具体化していった。計画の進捗に伴い、慶応義塾大学、日本女子大学、それに本大学も加わって四大学で協力することとなった。その結果、三十六年四月、スタンフォード大学日本研究センターが、常任理事村井資長の尽力により、財団法人和敬塾の運営する学生寮の中に開設された。同センターの運営組織はスタンフォード大学の教授らによって構成され、それを援助する形で日本に委員会が置かれた。この委員会は、学生と日本の大学とを関係づけるために、前記四大学とその他の大学の学長を核として組織されるアドバイザリィ・コミッティと、その下部にあって、所長の顧問役として教育全般から学生の日常生活に至るまでを助言するコンサルタント・コミッティとである。コンサルタント・コミッティは、右の四大学からの各二名の代表者によって構成され、学苑からは村井資長と教務部長古川晴風がその任に就いた。講義については、学苑では十七人の学生を第一文学部委託学生として受け入れ、二つの特殊講座、すなわち"Master-pieces of Japanese Literature″(文学部助教授河竹俊雄担当)を第一文学部に、 "Japanese Economic History″(商学部教授鳥羽欽一郎担当)を教務部に開設して英語で授業を行った。三十八年、同センターは経済的な理由により、目白の和敬塾から三鷹の国際基督教大学へ移転した。ちょうどその頃、同センターの抜本的な改組が行われ、スタンフォード大学だけの機関からアメリカとカナダの十大学連合の機関になったのである。それだけ、アメリカとカナダにおける日本研究・日本語習得熱が高まったわけである。この十大学から選ばれた日本学研究者により構成されるインター・ユニヴァーシティ・コミッティが同センターの運営を行うことになった。このため、前述した日本の委員会は廃止され、学苑をはじめ日本の大学と同センターとの関係は解消した。

 第二はワシントン大学(セントルイス)との交流計画、第三は同時期におけるアーラム大学との交流計画である。これら二つの計画を協議するうちに、海外諸大学の在外教育計画のための学生受入機関を学苑が独自に創設しようとする構想が生れた。ワシントン大学との協議は、本編第四章第三節で述べたように、三十六年十二月から翌年一月にかけて派遣されてきた教授ジョン・W・ベネットと常任理事村井、理事小松芳喬、同中西秀男、教務部長古川らとの間で行われた。ベネットは、海外受講生の受入、研究者の交換・交流を効果的に運営するための機構の設立などについて提案を行った。その協議内容については、三十七年一月二十六日付の中間報告書に次のように記されている。

ベネット氏は、その〔学生受入機関の〕名称を The International College of Waseda University とし、アメリカ大学の Year-abroad 学生その他の受入を効果的に行うことができるよう、人文科学、社会科学系統の科目を主とし、そのなかに特に日本語、日本文化または文化史、国際問題、西洋文化または文化史を加えた日本人および外国人教員の担当する英語による講義を行う一年間の課程の設置から出発することを勧奨した。これに対し、その大綱は実施可能であり、適切であろうとの見解が支配的であつた。もつとも、名称については、現在学部と混同のおそれのある名称は避けるべきであるとする批判が行われた。

 三十七年一月十二日の学部長会で、学苑当局はワシントン大学からの派遣教員到着の件に関し、「東南アジアから日本留学生がふえてきているが、これら学生の為に英語で講義する組織があってもよいのではないかと考え、インターナショナル・デビジョンのようなものを考えている」と説明している。また先の中間報告書にも、「日本人ならびに外国人学生を対象としてすべて英語で講義を行う新学部を設置して、四年以上の課程を考えるべきであるとする少数意見もあつた。……ベネット氏の要望をまつまでもなく、近年における国際交流の増大に対処するため、本大学に外国学生の教育、外国研究の実施、ならびに国際交流の推進を目的とする特別の機関の設立が焦眉の急であるとの見解が支配的であつた」とあり、ワシントン大学の提議を契機として、単なる学生受入機関としてではなく、もっと広汎な教育・研究の国際交流を行う特別な機関の必要性が認識され、その設置が構想されていたのである。

 ワシントン大学との交流計画は、フォード財団からの多額の援助を前提に立案されていたが、援助の減少とともに計画も縮小され、学生の交流は見送られることになった。しかし、三十七年五月二十三日の学部長会の席上、大浜総長はワシントン大学学生の受入機関の名称として International Division を考えている旨発言し、この時まで同大学の学生受入が計画されていたのであった。

 第三のアーラム大学との交流計画は、三十六年十二月に同大学準教授ジャクソン・H・ベイリーを通じて話が持ち込まれた。学苑当局は、翌年五月ワシントン大学招聘教員として渡米する商学部非常勤講師松宮一也にアーラム大学との折衝を委ねた。松宮は同大学総長ランドラム・R・ボーリングとアメリカ人留学生受入問題につき協議し、一九六三年(昭和三十八)六月、フォード財団の援助によりアーラム大学とアンティオック大学とが共同で六ヵ月間日本へ送る学生二十四人を、「早大が計画中のインターナショナル・カレージ」に受け入れることで合意した。また、この席上ボーリングから、両大学の所属する五大湖私立大学連盟(Great Lakes Colleges Association――以下GLCAと略記)に対する学生受入交渉を勧められ、松宮はGLCAと学苑との関係を築くべく、デトロイトのGLCA本部に会長ジョンソンを訪れた。松宮の言う「インターナショナル・カレージ」とは、ワシントン大学との交渉過程で構想されたInternational Division のことである。この時点で学苑は、ワシントン大学だけでなくアーラム大学その他GLCA所属大学の学生の受入を図っており、International Division は広汎な教育・研究交流を行う機関としてかなり具体的に構想されていたと言ってよい。松宮・ジョンソン会談の結果、GLCA代表としてアーラム大学総長ボーリングの学苑来訪が決定した。八月、ボーリング、大浜総長、古川教務部長、教授小松芳喬らの協議が、来日中のアーラム、アンティオック両大学の学者・研究者も交えて行われた。協議の中で大浜は、 International College は主としてアメリカと東南アジアの学生を受け入れる積りである旨述べている。そして、その第一段階として一九六三―六四年度にアーラム、アンティオック両大学の学生を、第二段階として一九六四―六五年度にGLCA所属大学の学生を受け入れることを要望した。三回に亘る協議の結果作成に至った協定書はアーラム、アンティオック両大学との間に結ばれるものであったが、「さらにこの計画は初年度の経験を基礎として将来とも発展させることが要望」されると記録されており、大浜が述べた学生受入の段階的拡大が実行に移されることとなったのである。協定書は十二月一日に正式に交換された。そして、この協定書に基づき国際部が創設されたのである。

 交換された協定書から、交流計画の内容を見ていこう。この計画の目的は、「参加学生の一般的教養を昻めると共に、今後、より専門的な日本研究を目指す学生に基礎知識を与えるために、日本およびアジア諸国の歴史、文化、社会情勢等の研究に重要な糸口を与えることである」(第一条)とされ、それは「正規の授業課程」と、「アメリカ側学生と日本側学生・教員との合同課外活動を通して達成されるもの」(第一条)とされた。そのため、早稲田大学は英語による授業科目(文化人類学、現代日本政治制度史、日本文化における仏教および神道、日本における視覚芸術、日本経済史)、日本語授業、現代日本セミナー、日本の演劇・舞踊・音楽入門を設けるとされた(第二条)。そして何よりも重要なのは、「早稲田大学は、アメリカ側大学がその高等教育の方式に見合う条件で履修単位を登録できるように教務を進める責任を負う」(第三条)という条項であった。この責任を果すため、アメリカの大学暦と同じ秋・春の二学期制を採り、「学科の採点は、少くとも一科目について一回のレポートと最終筆記試験」を義務づけ、それを早稲田大学教員が判定して学業成績報告書を作成し、「アーラムおよびアンティオック両大学は、早稲田大学の成績報告書を、それぞれの大学の方針に適った単位数になおす責任を有する」(第三条)とした。そして、早稲田大学教員によるアメリカ側学生の評価基準は、早稲田大学学生の場合と同じとされた。つまり、学苑の教育機能をアーラム大学とアンティオック大学と同等のものと位置づけ、早稲田大学での履修単位が本属校の履修単位として認定されるわけである。この他、図書施設および書籍の整備(第四条)、アメリカ学生の課外活動参加への指導と助言(第五条)、この計画の運営と責任の所在(第六条)、財政上の取決め(第七条)が規定された。財政面については、「アラームおよびアンティオック両大学が、一学生一学期当り二百五十ドルの授業料合計額を、早稲田大学に支払う」ものとされ、学苑がアメリカ側学生の授業料を免除する方式ではなかった。

 協定を履行するため、翌三十八年二月七日の理事会は、四月一日を以て国際部を開設することを決定し、「国際部設置の趣旨」と「国際部規則」とを承認した。勿論どちらも、アーラム大学やアンティオック大学といった特定の外国大学の学生を受け入れることを謳っているわけではなく、「外国の大学」の学生一般を想定したものであった。広汎な国際教育交流を行う機関を目指していたことが、ここからも窺える。尤も、現実には「当分の間は、アメリカの大学の在外教育計画による委託学生を受入れ、その教育を実施することを主眼」(「国際部設置の趣旨」)としたのであった。国際部が開講したのは同年九月十六日であるが、大浜は将来の構想を次のように述べている。

学生は、いまのところ大学間の協定に基づいて派遣されたアメリカの大学の学生に限られているが、しかし本来の構想としては、ひろく諸外国の学生にも開放し、また希望者があれば日本の学生も受入れる建前である。現在一年間の授業を用意しているにすぎないが、行くゆくは四年制の国際学部にまで発展させる方針である。この場合、講義は当初の二年間は英語により、後の二年間は既存学部と合流して授業を受けるように編成することが適当であろう。

(「国際部への期待」『早稲田大学国際部』昭和三十九年三月発行 第一巻 一頁)

学苑の門戸を世界に開放し、「四年制の国際学部」への昇格が構想されていたのである。

 さて、開設された国際部は、法律上は「大学」の「学部」ではなく、「学校教育法」にいう「各種学校」であった。国際部での履修単位がアーラム、アンティオック各大学の履修単位として認定されるという協定内容から考えると、「各種学校」国際部ではいかにも不自然である。学部レヴェルの機関であることがふさわしいと考えられていたに違いない。国際部設立の日程を振り返ると、三十七年十二月一日協定書交換、三十八年二月七日の理事会で「国際部設置の趣旨」「国際部規則」の承認、四月一日国際部発足と、きわめて慌ただしいものであった。従って、恐らくこの慌ただしい日程のため、「学校教育法」第五十七条第二項に規定する「大学の別科」として文部省へ申請し、認可を受ける時間的余裕がなかったのであろう。その後の経緯を見るとこのことが頷ける。開校後間もない三十八年十一月二十九日の国際部運営委員会で早くも別科設立認可申請が決議され、約一年かけて「国際部学則」が作成され、三十九年九月三十日に本文十五条・付則一、別表二から成る「国際部学則」の認可申請書が文部省に提出されたのである。この申請書は翌年一月十九日に受理され、四月一日国際部は法律上「大学の別科」となった。つまり、この時初めて「大学」の一部となったのである。右の経緯を見る時、別科申請は当初からの既定の方針であり、更には「四年制の国際学部」への展開を意識したものであったと言える。四十―四十一年度以降に国際部修了生の学部編入を要請する後述の案も、この別科申請とは無関係ではあるまい。なお、別科として認可されたため、学割制度の適用を受けることとなり、留学生の経済的負担は幾分軽くなった。

 国際部には部長・副部長が置かれ、参与が委嘱された。部長は「国際部を統括し、部を代表」し、任期二年(再任を妨げない)とされ、初代部長に政治経済学部教授小松芳喬が就任した。参与は「本大学との協定に基き学生の教育を委託した外国の大学が、その学生の指導に関する責任者を推薦したときは、その者を参与に委嘱する」(第十二条)との規定によって置かれたのであるが、アーラム大学代表として在日中の準教授ベイリーと、三十八年七月学生の指導に当る「レジデント・ディレクター」として着任した同大学教授ジョゼフ・ウィットニーとが参与となった。教務担当常任理事、教務部長、国際部部長、副部長など職務上委員となる者のほか、教授・助教授中から選任された委員により運営委員会が構成され、参与も運営委員会に出席して発言することができた。国際部の事務は当分の間教務部外事課が取り扱うことに決められた。

 入学資格は、外国の大学と学苑との「協定に基づきその教育を委託された者」(「国際部規則」第二十五条第一項)または「外国において通常の課程による十二年以上の学校教育を修了した者またはこれに準ずる者」で「選考の結果適当と認められた者」(同第二項)とされた。特に第二項の規定は、アメリカの諸大学の在外教育計画の受入機関に甘んずることなく、広汎な国際教育交流を行う機関を目指していたことをよく示しており、大浜の言葉は全くの絵空事ではなかったのである。実際、「当分の間は、アメリカの大学の在外教育計画による委託学生」(「国際部設置の趣旨」)の受入を主眼としたものの、第二項の規定に基づく外国学生二人の入学が初年度から認められている。

 校舎は、当初本部キャンパス九号館(現六号館)の物理実験室を用いる計画であったが、最終的には、新たに成った理工学部大久保キャンパス内の新校舎四号館(現五四号館)一階となった。三十九―四十年度春学期からは本部キャンパス九号館一・二階に移っている。修業年限は一年で、協定書に基づきアメリカの大学と同じく秋学期(九月十二月、十四週間)、春学期(四月―六月、十二週間)の二学期制とし、英語により講義を行った。休講を認めず、実施不可能の際には補講を行うか代講を立てるかしなければならなかった。更に、特徴ある授業として「セミナー」があった。これは、「現代日本において第一線に活躍中の名士の謦咳に毎週一回ずつ、接する機会を与えることによって、日本ならびに日本が当面する諸問題について理解を一層深く」するために実施されたものであった。三十八―九年度秋学期には、毎週土曜日(土曜日には通常の講義は行われなかったが、春学期以後はセミナーも実施されないよう改められた)に昼食をとりながら話を聞く会が持たれ、衆議院議員松村謙三(明三九大政)の「中国と日本」、東京家庭裁判所調停委員大浜英子(総長夫人)の「日本における婦人問題」、一橋大学教授都留重人の「現代日本の経済問題」、全逓信労働組合委員長宝樹文彦の「日本の労働者階級と将来の明るい展望」、国立防災科学技術センター所長である日本学士院会員和達清夫の「日本の天災」など十二回に亘って実施された。また、「セミナー」実施の趣旨と同じく、現代日本の社会・産業・文化などを理解するため、実地見学をカリキュラムに組み、大相撲、歌舞伎、能、東京芝浦電気株式会社、早慶野球戦などの見学が行われ、また、十一月の早稲田祭期間を利用して行われた修学旅行では、伝統的な日本を理解するために京都・奈良方面が選ばれている。日本やアジアの理解や見聞を拡めるため、冬季・春季の長期休暇を利用して国内を旅行したり、中には香港や韓国等東南アジア諸国を訪問する学生もいた。

 国際部の学生はホームステイが原則であった。一般家庭で日本語を使って生活して日本語習熟の一助とし、また日本人の生活習慣を身を以て理解するよう指導された。学苑当局は学生を下宿させてくれる日本人家庭を捜すのに大変苦労したが、学生と家庭の人々との間が少しでも円滑にいくようにと、日本人家庭の家族を校友会館に招待し、学生・教職員とのパーティを開いて国際部を理解してもらうように努めた。時にはトラブルも起ったが、帰国する際に、どんぶり飯やたくあんなどが好きになったなどの感想を漏らす学生も多かった。

 初年度の授業は三十九年六月二十七日を以て終了したが、閉鎖的な授業形態のため同世代の日本人学生との交流の機会がきわめて限られており、この点につき学生から不満が出されている。アンティオック大学三年生シェリー・スコットは次のように述べている。

早大の国際部クラスは全部外国の学生だけでした。今まで私は一人の早大生も知っていません。どうしてか私も分かりません。けれど早大の友だちが出来てから私はほんとうに早大生になると思います。……私は日本へ来てから日本の学生と話したかったのです。当然私は古い日本(歌舞伎、能、茶道など日本的なもの)を見たり理かいしたいと思います。でも私は現在生きていますから今の出来事について話す方がもっと面白いと思います。

(「国際部に学んで」『早稲田大学国際部』昭和三十九年三月発行 第一巻 五頁)

そして、膨張する東京の交通問題、中華民国の承認問題といった日本が直面する国際問題、被差別民や在日朝鮮人・韓国人の問題、日本の将来などについて、教員とだけでなく同世代の日本人学生とも対話を望むと語っている。

 第一年度の経験に鑑みて、国際部は将来計画を立てた。三十九―四十年度には、(一)冬学期六週間を設置して三学期制とする、(二)東南アジアの学生を最大限四人収容する(推薦をアジア財団に依頼)、(三)ハワイ大学併設の東西文化センター(East-West Center)から委託学生のあった場合、年間五人を限度として受け入れるとし、更に、四十―四十一年度以降には、(四)国際部修了生の学部編入を要請することとし、その道を開くため英語による講義を二年または二年半に亘って設置する、(五)東南アジアの学生は定員の三分の一を超えない範囲で収容するなど、「国際学部」への昇格をも念頭に置いた計画を立案している。また、教員の交換については、GLCAが推薦する教員中から一人を招聘する一方、学苑からは毎年教員二人をGLCA加盟校へ派遣して、半年の教授法研究の後、半年講義を担当することを決定した。このほか、冬・春学期を通じて選択科目「インディペンデント・スタディ」を設け、学生の自主的研究を学苑の専任教員が指導したが、三十九―四十年度には十八人の学生が、日本史、日本の家族生活、現代日本芸術等のテーマについて指導を受けた。また学生の国際交流推進のため国際部を学苑の一般学生に開放する方針が採られ、日本人学生の聴講が認められるようになった。前記スコットの希望がかなう第一歩が踏み出されたことになる。最初は、第一理工学部の申入れに基づき同学部生十人が「他学部聴講生」として受講し、その単位は随意科目として扱われたが、理工学部が聴講を認められたのは、国際部の校舎が理工学部キャンパスにあったことによるところが大きい。翌四十―四十一年度には校舎が本部キャンパスに移ったこともあり、聴講生の対象が全学に拡げられ、初学期には八十七人の応募者を見、試験の結果二十六人が合格、受講している。また、学苑に在籍していない者の聴講も正式に認められ、イスラエル人、ブラジル人などの姿も見られた。三十九―四十年度から日本人学生のために、参与による「特別科外講義」を設けた。これは、「英語を英語のために学ぶというのではなく、英語を通じて知識を拡め深めるという機会を、早稲田の学生諸君に広く提供する」ことを目的としていた。同年度には、ウースター大学准教授フランク・ミラーの"Political Aspects of Social Change in Contemporary Societies″(七回)とサン・ホぜ大学準教授ハリス・マーティンの"My Impression of Japan″(五回)が開講された。定員は各百五十人であったが、開講が告示されると、その日のうちに応募者が定員を超えるほど好評であった。また、アメリカのフルブライト委員会の寄附により"American Area Study Lecture″(アメリカ研究講座)が国際部に設けられ、第一回講座として三十九―四十年度の秋学期にラファイエット大学教授モリソン・ハンドセイカーによる"Collective Bargaining in the United States of America″(アメリカにおける団体交渉)が開かれ、百四十七人の学生が受講した。

 第二年度には、受入学生の範囲が拡がり、カリフォルニア州立大学連盟(California State Colleges――以下CSCと略記)やフィリピン大学からの学生が入学した。国際部の存在を伝え聞いたCSCでは、国際部長トーマス・P・ラントスが三十八年秋に渡米した村井資長と折衝を開始し、三十九年七月二十日学生の交流計画協定が調印されたのである。国際部では八月、委託学生オリエンテーション・プログラムに嘱託池田百合子を派遣、一方CSCからはカリフォルニア大学教授ワーナーが来苑し最後の意見調整を行った。九月十日池田はCSC委託学生十九人を伴って帰国した。また、フィリピン大学からはアジア財団(Asian Fundation)の援助を得て学生を受け入れることとなった。

 四十年三月三十日に校舎を理工学部構内から本部構内九号館に移転したことによって、国際部は思わぬ事態に直面した。四十一年は正月から、学費値上げおよび第二学生会館管理問題に端を発した紛争のため、学生によるバリケード封鎖や当局によるロックアウトが続いたが、国際部は休講なしとの方針を堅持し、冬学期を実施した。しかし、遂に四月十八日、九号館がバリケードで封鎖される事態となった。国際部当局は当日の授業を休講とするとともに、共闘会議の学生二人を呼び、国際部の特殊事情を説明した結果、休講は一日のみで、翌日から授業再開に漕ぎ着けることができた。

 三十九年立案の将来計画に見られるように、国際部は人材交流をも目的としていた。GLCAからは初年度より教員が派遣されてきたが、学苑からは翌一九六四年度に文学部助教授鹿野政直がホープ大学へ、語学教育研究室助手加藤俊一がアーラム大学へ派遣された。鹿野は史学および史学教授法の研究を行い、同大学で"Japanese History and Thought″を講義し、また加藤は日本語講師として日本語を教え、国際部の教材作成に当った。

 ところで、国際部をはじめ各学部の外国人学生の増加に伴い、職員にも国際的修錬の機会を与える必要があるとの趣旨から、四十年四月より職員の海外研修が実施された。「国際部を将来学部にまで発展させる場合」をも想定していたと言える。学苑は小松国際部長をハワイ大学に派遣して東西文化センターと協定を結ばせ、職員を約六ヵ月間、毎年二人ずつ、差し当り三年間派遣することとした。第一回として四十年四月に外事課嘱託佐々木宜美と滝来啓子が派遣され、五ヵ月間の東西文化センターでの研修後、一ヵ月間アメリカ本土の諸大学を訪問して、九月に帰国した。大学職員の海外派遣は財団法人私学研修福祉会の助成によって既に行われていたが、大学による単独派遣は慶応義塾大学に次ぐものである。

 国際部の運営について忘れてならないのは、その趣旨に共鳴した諸団体や個人の財政的援助である。特にアジア財団からの援助は抜群であった。同財団は一九五四年カリフォルニア州の法律の下に設立された、利益を目的としない民間団体で、その主旨は、「アジアにおいて、平和と独立と、個人の自由と、社会の発達とをもたらすためにはたらいている、個人または諸団体にたいして、アメリカ民間の私的な援助を利用してもらう」(『アジア財団日本支部年次報告――』五頁)ことであった。日本に支部が置かれ、各種団体への援助、図書館活動、英語教育、国――自一九六二年八月一日至一九六三年七月末日際会議、海外研究視察、国際交流プログラム、「琉球」におけるプログラム等、多方面に亘る援助活動が行われた。国際部へは、初年度人件費補助として百四十五万円、図書購入費として五十四万円を寄附し、以後も昭和四十二年まで毎年行われた寄附の総額は千二百万円に達し、国際部の財政を大いに援助した。また、財政的援助にとどまらず、東南アジアからの留学生(前述のフィリピン学生など)の選考にも力を貸している。国際部図書室も各種団体や個人の助言や援助により当初九百四十七冊の蔵書を以て発足したものが、質・量ともに急速に充実した。すなわち、三十八―三十九年度には前述のアジア財団の寄附をはじめ、モービル石油株式会社や参与ベイリーなど多数の団体・個人から指定寄附を受けた。同室の二冊の図書目録 List of Acquisitions 1963―1971(一九七二年刊、約八千冊を収録)および Li-brary Catalogue of the International Division, Waseda University, Vol. Ⅱ, 1972―1981(一九八三年刊、約一万八千冊を収録)にはその充実ぶりが如実に窺われるが、蔵書中には約一五パーセントの和書も含まれている。

 国際部は事実上外国の諸大学の在外教育計画の受入機関として出発したとしても、我が国の外国人学生教育の上で新たな方式を提示したものとして国際的に注目を浴び、ニューヨーク州教育委員会のモレハウス、ハワイ大学教授ヘンドリックソン、セントルイス市のダンフォース財団のマッコイらの訪問・視察を受けた。学苑の教育国際交流は漸く緒に就いたに過ぎないが、大学の行う国際交流の一施策として内外から注視されたのである。

四 さまざまな留学生受入

ページ画像

 学苑は国際部以外にもさまざまな形で留学生を受け入れた。その一つが、三十四年に発足した「名誉教授内藤多仲博士奨学金」による留学生受入である。内藤は、日本の耐震建築の生みの親とも言われ、東京タワーを設計したことで有名である。その内藤が、三十二年に理工学部を定年退職した後、私費により地震多発地域の中近東から留学生を呼び寄せ、手続上学苑の留学生としたのが、前記奨学金による留学生受入である。内藤は、たびたび海外の地震の被害状況を視察したが、特に三十二―三年にイランを襲った大地震の惨状に衝撃を受け、震災から人々を救うのは、地震についての学問をその地域に移植することが「第一歩で在り、しかも有効適切な道」であると痛感し、「資金を提供し、早大当局と相談の上、大学のスカラーシップ」を創設したのである。そして、「大体のところ一年間を目標として、かねてゆかりの深い、トルコ、イランの両国から新鋭の学徒の留学」(『建築と人生』二七一頁)に期待した。

 記録によると、学苑はこの奨学金を活用して、三十四年十月三日イランのコンストラクション・バンクからモインファー・アリ・アカパー、同十日テヘラン大学大学院学生モハメッド・アリ・エナヤトルラー(三十四年十月から三十五年三月まで外務省技術研修生、同年四月から三十六年三月まで内藤多仲博士奨学金による招聘研究生)、三十五年七月トルコのイスタンブール工科大学地震研究所助手ムザフェー・イペックの三人を受け入れた。地震に関する指導は、三十三年に一緒にイランに出かけた東大地震研究所教授萩原尊礼に依頼し、建築関係は内藤自らが理工学研究所内の内藤多仲博士記念耐震構造研究館において指導に当った。内藤の指導は、いわゆる寺子屋式教育で、彼ら留学生が実際に自分で設計の仕上げができるまで手塩にかけて育成したのである。彼らは、建設省の建築研究所等にも出かけて、熱心に研鑽を積んだ。また、同奨学金の補助を受け、三十五年東京で開かれた第二回世界地震工学会議にイラン代表が出席している。

 ところで、昭和三十年代には日本政府と外国政府との協定による留学生が来日したが、本学苑が受け入れた中には「日墺交換協定」および「インドネシア賠償留学生受入制度」による留学生がいた。

 「日墺交換協定」は三十二年十月一日に締結され、この協定に基づき、ウィーン国際通商貿易大学学生ゲルハルト・リンヴィヒラーが翌三十三年六月から三十七年まで商学研究科に在学して、日本の法律学(商法)および商業学(貿易論)に関する研究を行った。本学苑からは第一理工学部助手大頭仁が、三十二年十月ウィーン工科大学に留学した。この協定による留学生は、結局、彼我合せてこの二人だけであった。

 「インドネシア賠償留学生受入制度」は、日本とインドネシア間の賠償協定に基づき昭和三十五年に創設されたもので、日本がインドネシアに支払う戦争賠償金によって留学生の諸経費を賄った。その目的は、日本とインドネシア両国の文化および経済関係の強化ならびに両国の友好関係の増進に貢献することであった。この制度は、インドネシア共和国が日本国政府に対し、賠償協定に基づき、留学生総計五百人と技術訓練生総計千七百五十人を九年間に亘って受け入れてもらいたいとの要請を行ったことによって発足した。この要請に対し、日本政府は留学生を毎年国立大学に六十三人、私立大学に三十七人、合計百人を向う五年間受け入れ、一年間の準備教育の後、四年ないし六年間の大学教育を行うこととし、また技術訓練生は毎年二百五十人、研修期間最長二年半として向う七年間受け入れ、語学・基礎科目の準備教育の後、公共職業訓練施設、民間団体や民間企業等で技術を習得させることとした。そして、昭和三十五年度に九十七人の留学生が来日して準備教育機関に配され、翌三十六年度から九十六人が各大学に配されることになった。そのうち、本学苑には十一人の留学生を受け入れるよう三月九日付で依頼されたのであった。依頼のあった時点では、学苑は既に昭和三十六年度外国学生特別選考の第一次選考を終了していた。しかし、「入学願書提出がおくれた特殊事情を認め」る処置を採り、三月二十日受験手続、二十三日日本語試験、二十四日学力検査および面接を行い、十一人全員(第一商学部三人、第一理工学部八人)を入学させた。全員合格とはいっても、日本語試験の結果を考慮して、入学後一年間は主として日本語を補習させる処置を採った。彼ら留学生を受け入れた大学は国立三十一校・私立六校であったが、このうち学苑の受入人数が最も多かったのである。学苑は、翌三十七年十人、三十八年十人、三十九年七人、合計三十八人の留学生を受け入れ、四十三年度を以て履修を終了した。

 また、技術訓練生は留学生より一年遅れて昭和三十七年度に、第一商学部委託学生として十二人(一年間)を受け入れた。三十七年度は教務部に経済地理学(商学部教授毛利亮担当)、貿易実務(商学部助教授朝岡良平担当)、商業英語(商学部教授山根行雄担当)など十科目の特殊講座を設け、英語で講義を行った。この制度は昭和三十八年度まで存続し、合計二十人が学苑に学んで帰国した。

 この「インドネシア賠償留学生受入制度」は昭和四十年に役割を終えたが、この間、三十五年度には九十七人、三十六年度には百人、三十七年度百十五人、三十八年度には五十八人、三十九年度六人、四十年度には六人、合計三百八十人余のインドネシア留学生(在日採用を含む)が来日した(宮山平八郎・山代昌希「戦後日本におけるアジア人留学生の受け入れ」『国立教育研究所紀要』昭和五十一年三月発行 第八九集 八三頁)。

 ところで、本学苑の国際交流の事務業務を担当していたのは教務部教務課であったが、以上述べてきたように、国際交流が活発化するにつれて業務も繁雑を極めるようになり、教務課では処理しきれなくなった。このため、三十七年四月一日を以て同部内に外事課を新設し、教職員の海外留学、出張、視察等の手続に関する事項、学生の海外留学に関する事項、外国人招聘教員および研究員に関する事項、外国人学生に関する事項、その他外事に関する事項を分担することにした。以後、同年十月一日教務部語学教育研究室が独立して語学教育研究所となり、学苑が受け入れた外国人学生の日本語教育を担当する体制が本格的に整い、また、翌三十八年四月一日には国際部(事務は四十四年五月まで外事課が担当)を開設するなど、早稲田大学の国際交流に向う姿勢が次第に整っていくのである。

 右に見たように、昭和三十年代の学苑の教育交流は、専ら受入が中心であった。第四章第三節でも述べたように、二十七年十月に私費留学の途が開かれたとはいえ、三十八年以前は外貨持出しが厳しく制限されていたのである。このような制約の中で、教職員の学術研究の国際交流が制度的に整備されるのが三十年代であった。三十年代当初から学生の留学制度の整備は望むべくもなかったのである。換言するならば、そのような制約の中で、教育の国際交流を実現するとすれば、国際部の開設や外国学生特別選考制度の創設のように、外国学生の受入を制度的に整えるのが現実的対応であったのである。しかし、日本経済の高度成長を背景に、三十八・三十九年に海外渡航の自由化が実現すると、私費留学は激増した。学苑においても、三十九年五月八日の学部長会で「学年の中途で海外留学する学生の取扱いについて」が議され、「外国諸大学の始業・終業の時期が我が国のそれと異る場合が多く、また漸次海外留学生が増加の傾向にある現状に鑑み、学生の本大学における学習の利便を考慮して、可能な限り留学前後の本大学における学習期間を通算して単位を与えるように取扱う」ことの申合せがなされていることに示されているように、学苑学生の個人レヴェルの海外留学が次第に増加していた。このような社会の趨勢を背景として、四十年代には学生の海外留学制度の整備が学苑の課題となっていくが、これについては次編第十章に譲ろう。