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第十編 新制早稲田大学の本舞台

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第八章 二つの創立記念祝典

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一 創立七十五周年記念事業・行事・祝典

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 昭和三十二年、学苑は創立七十五周年を迎え、四分の三世紀という区切りに祝意を表し、記念行事・事業を組むことになった。五年あるいは十年ごとに周年記念行事を催すのは恒例であるが、総長大浜信泉にとっては就任して初めての周年記念行事であり、しかも前年末、校友石橋湛山が学苑卒業生として初の内閣総理大臣の印綬を帯びたこともあって、年頭に当り「二重のよろこび」を嚙みしめつつ、意欲を披瀝した。

政界にとどまらず、学界教育界においても、また業界においても私学に対する評価は飛躍的に高まりつつある。その中でも、早稲田大学の進出は特に目立っているように思う。……どこの私立大学でも、その地位の向上に即応して施設の拡充に全力を注ぎ、あたかも建設の競争をしているかにさえみえる。早稲田大学も、戦災校舎の復興とともに新たな建設物を加え大いに外観の威容をととのえて来たが、これでそのすべてが完成したわけではむろんない。自己陶酔にふけることは禁物であって、内容の充実、教授の陣容の強化につとめるとともに、建設面においても能う限り力を伸すべきであろう。十月には七十五周年を迎えるが、大学の記念行事をただのお祭さわぎに終らせてはならない。五年ごとに記念式典を挙行するのは、竹の節ずけのように次の段階への発展を期するためである。 (『早稲田学報』昭和三十二年一月発行 第六六七号 三頁)

この意欲を体して、一月二十五日付で左の如く創立七十五周年記念事業実行委員が委嘱された。

委員長 阿部賢一(常任理事)

副委員長 佐々木八郎(常任理事)

講演会 中谷博 佐藤輝夫 高木純一 野村平爾 末高信 時子山常三郎

展示会 原田実 河竹繁俊 高木純一 平田冨太郎 安藤正輝

出版(社会科学部門) 吉村正 平田冨太郎

(文芸部門) 佐藤輝夫 暉峻康隆 河竹繁俊 谷崎精二 竹野長次 稲垣達郎

大隈侯生家模型 田辺泰 杉浦巴

記念室 吉村正 今井兼次 大塚芳忠

奨学金・記念賞 上坂酉蔵 大西邦敏 斉藤金作 高木純一 渡鶴一 大滝武 樫山欽四郎 帆足竹治 滝口宏 村井資長

名誉博士 吉村正 久保田明光 河辺㫖 中島正信 一又正雄 中西秀男 今和次郎 松本馨 武田良三

総務 理事、本部部課長

この時既に、高等学院が移転した跡の戸山町校地に七十五周年記念事業最大の事業である記念会堂が前年三十一年九月に着工され、式典に間に合せるべく完成を目指していたが、この建設経過については次章で詳述する。

 右の各事業計画のうち、先ず、教授吉村正を委員長とする「名誉博士に関する委員会」は数回に亘る協議を経て早くも二月二十八日に「名誉博士の設定に関する答申」をまとめた。その骨格は左の通りである。

一、目的 学問芸術または人類のため、顕著な貢献をした者の功績を顕彰する。その基準は、極めて高度のものとする。

二、名称 早稲田大学名誉博士とし、外国語をもって表示する場合は、三種の名称(Doctor of Letters, Doctor of Laws, Doctor of Science)を設け、貢献の性質にしたがって、あらかじめ大学がその一つを選定する。

三、学位贈呈の方式 学位記及び学位章(フッド)を贈呈することとし、その様式及び形状は、別にこれを定める。

学位贈呈に至る手順は、教授三名および評議員会の互選による者二名の計五名による名誉博士候補者諮問委員会をそのつど設け、これに理事会が候補者を諮問する。その結果を得て理事会は候補者を評議員会に推薦し、その議決により贈呈可否が決定されるというものである。「名誉博士に関する規則」は三月十五日に制定・施行され、これに関連して従来の式服の再検討が行われて「式服および学位章に関する規程」が四月四日に制定・施行となった。我が国では、昭和二十八年に慶応義塾大学がストレプトマイシン発見でノーベル医学・生理学賞受賞のアメリカの微生物学者S・A・ワクスマンに名誉博士号を贈ったのがその第一号と思われるが、これは、招聘外国人教師を処遇するため二十五年に設けられた「外国人に対する称号授与に関する規程」によるものであった(『慶応義塾百年史』下巻 八八頁)。同大学で名誉博士のみを対象とする規程が制定されたのは三十九年であり、その意味で、名誉博士そのものを規定した点では学苑が先んじたわけである。

 一方、理事上坂酉蔵を委員長とする「奨学金・記念賞に関する委員会」も審議を重ね、三月五日、「創立者大隈重信侯の偉業を記念し、建学の精神を顕揚して、学術の振興または学生生徒の奨学を目的とする」との趣旨で褒賞制度と奨学制度の創設を慫慂する答申をまとめた。すなわち、教職員を対象に大隈学術記念賞と大隈学術奨励賞、学生生徒を対象に小野梓記念賞を設け、それぞれの要件、対象、正賞・副賞、定数、授賞方式、選考手続、基金を定めている。奨学制度は、昭和三十年制定の大隈奨学基金規程を改定して、大学院生を対象とする「大隈記念研究奨学金」と学部学生・生徒を対象とする「大隈記念奨学金」を設けようというものであった。この答申は理事会の審議および学部長会の決定を経て規程化されることになるが、その内容についての記述は本編第十章に譲る。

 制度新設・改定の動きと並行して記念出版、大隈侯生家模型の製作、記念室の設置の事業も進められた。社会科学部門と文芸部門との二本立てで記念出版が企てられたのは、従来のような制度史あるいは組織発達史的な大学史を編纂するよりも、早稲田大学がこれまでにいかなる学問的成果を上げ文化の発達に貢献してきたかを検証しようとの趣旨からであった。社会科学部門では、大隈記念社会科学研究所の全研究員を糾合して編纂委員会が組織され、学問の府としての特色・役割を確認の上、学界で高く評価されあるいは研究水準向上に貢献したと見られる、学苑創立以来の専任教員か卒業生(現存者を除く)を厳選して、学問業績と人物像を紹介する方針が採られた。その成果が『近代日本の社会科学と早稲田大学』(A5判、五百二十七頁)である。佐藤輝夫を委員長とする文芸部門は主として文学部と教育学部の教員で組織され、文学の創作・評論・研究・翻訳から映画・演劇・放送・美術の分野に至るまで広い範囲で、坪内逍遙以来、早稲田大学がいかなる人材を供給してきたかを確認する作業を行い、『日本の近代文芸と早稲田大学』(A5判、五百三十八頁)として結実させた。記念出版としては更に、当初大隈重信の伝記編纂が予定されたものの担当実行委員が決まらないままに結局取止めになったのに代って、昭和十五年発行の英文伝記The Life of Marquis Okuma(伊地知純正著)が改訂再刊された。

 大隈重信生家模型の製作に当っては建築史専攻の理工学部教授田辺泰が佐賀市水ヶ江町に現存する生家を調査し、その結果に基づき縮尺一〇〇分の三の精密な復元模型が組み立てられた。佐賀藩鍋島家に砲術長として仕えていた父信保が天保三年(一八三二)居宅として買い取り、二階を増築して八太郎(重信)の勉強部屋とした、床面積一六五平方メートルほどの藩士邸である。生家そのものは昭和四十年に国の史跡に指定された。その模型を置く場所として設けられたのが、法文系大学院校舎として昭和二十六年に完成した一九号館(現七号館)の二階の講堂を改修して造られた大隈記念室である。広さ一三三・四平方メートルで、中央に大テーブルとゆったりした肘掛け椅子を配し、生家模型とともに、大隈の肖像画、遺品、著書、大隈宛名士書簡、関係文書等を陳列することになった(現在は二号館に移設)。なお、この一九号館北側に総面積三三二五・八平方メートルの増築工事が同時に施されたが、その一階部分に二百五十六席の小講堂が設けられ、建学の功労者小野梓を記念して小野講堂と命名された。演壇に向って右手の壁面に埋め込まれた小野の胸像は、五十年忌を迎えた昭和十年十一月二十三日に冨山房社長坂本嘉治馬の寄附により造られたもので、大隈講堂の裏手の大隈庭園内にあったのをここに移設したのである。

 こうして七十五周年を記念する事業および行事の準備が進められていく中で、理事会は、来日が決定していたインド首相ジャワハルラル・ネールと石橋湛山を早稲田大学名誉博士の候補者とし、名誉博士候補者諮問委員会に諮問、原安三郎・原田譲二・島田孝一・中村宗雄・吉村正の五名より成る同委員会は十月四日に全員一致でこれに同意した。反英独立運動を闘い、独立後の初代首相として社会主義型政策を推進し、東西陣営が対峙する厳しい国際政治環境の中にあっては非同盟中立政策を掲げて平和勢力の指導者を任じたネールの人気は絶大で、この世界的政治指導者を学苑は同月七日に大隈講堂に迎えた。そのときの様子を翌日の『朝日新聞』朝刊は次のように伝えている。

早大の大隈講堂では、一万余りの学生たちが講堂に入りきらず、前の広場までいっぱいあふれ出ていた。インド、日本両国歌が演奏され、大浜総長が紫の学位章をネール首相の首にかけ、学位記を渡した。そのあとネールさんが演壇に立ち、美しいさびのある英語で話をはじめた。その言葉は次第に熱を帯び、いつはてるともしれず、はじめ十分間の予定が三十分も延びてしまった。満場総立ち、アラシのような拍手。終わりにネールさんの望みで「都の西北」が合唱された。……ネールさんが講堂の前に現れると、校歌の大合唱は広場全体に拡がった。歌声と歓声のうちにネールさんの車はやっと動き出した。

早稲田大学名誉博士第一号の誕生に続いて、創立記念日前日の十月二十日、新築成った小野講堂で石橋湛山への名誉博士贈呈式が行われた。病を得て首相の座から降りていたものの、健康を回復した石橋は、総長から学位章と学位記を贈られたあと、これに応えて、「しばらく沈黙していたが、まだまだなすべき仕事は残っている。先日、インドのネール首相が来たが、私も仏のお思召によって世界平和のためできるだけのことはする」と活動再開を約束した。

 さて準備万端整い、十月から十一月にかけて左に掲げる如く多彩な行事・催し物が挙行された。

十月十三日―十一月三日 物故功労者展墓

安部磯雄(雑司ヶ谷墓地)、天野為之(多磨霊園)、市島謙吉(新発田市浄念寺)、浮田和民(多磨霊園)、大隈重信(佐賀市竜泰寺)、小野梓(谷中墓地)、金子馬治(雑司ヶ谷墓地)、塩沢昌貞(染井霊園)、高田早苗(染井霊園)、田中穂積(長野県篠ノ井町石川)、坪内雄蔵(熱海市海蔵寺)、寺尾元彦(青山墓地)、中野登美雄(札幌市豊平墓地)、南部英麿(盛岡市聖寿寺)、鳩山和夫(谷中墓地)、平沼淑郎(染井霊園)、前島密(横須賀市浄楽寺)

十月十五日 記念講演会・映画 日本橋白木屋(現東急百貨店)ホール

一、泥くささということ 作家 尾崎士郎

一、つむじ曲りの精神 作家 石川達三

一、角帽 劇作家 八住利雄

一、映画「早稲田大学」

十月十五―二十日 早稲田大学展 日本橋白木屋(現東急百貨店)ホール

十月十九日 学術講演会 大隈講堂

一、聖徳太子伝説の再検討 文学部教授 福井康順

一、現代建築音響学の趨勢について 理工学部助教授 伊藤毅

一、新しい経済学とは何か――経済学に於ける接近方法の批判を中心として―― 政治経済学部教授 久保田明光

十月二十日 老侯墓前祭 護国寺

記念会堂落成式 記念会堂

石橋湛山名誉博士授与式 小野記念講堂

記念晩餐会 校友会館

十月二十一日 記念式典 記念会堂

園遊会 大隈庭園

十月二十一―二十二日 記念演劇「高田早苗」大隈講堂

十月二十一―二十七日 記念展示会

七十五周年回顧展、日本近代化展、東洋美術展、特別図書展 図書館

早大演劇人の展望 坪内博士記念演劇博物館

十月二十二日 総長ラジオ放送 NHK第一放送「朝の訪問」

十月二十五―二十七日 理工学部展 理工学部校舎

十月二十五・二十七日 祝典演奏会 記念会堂

十一月二日 記念講演会 福岡市電気ビル・ホール

挨拶 常任理事 阿部賢一

一、日本の景気はどうなるか 商学部教授 中島正信

一、今日の科学技術 理工学部教授 帆足竹治

一、現代文学に於ける性道徳の問題 文学部教授 中谷博

十一月三日 記念講演会(阿部賢一の都合欠席のほか右に同じ) 佐賀市公会堂

十一月四日 記念講演会 大阪市中之島公会堂

挨拶 総長 大浜信泉

一、現代政党への不信 第一政治経済学部長 吉村正

一、大阪町人の生活と文化 文学部教授 暉峻康隆

一、現代技術文明の行方 第一理工学部長 高木純一

一、真の日本経済発展策 日本経済新聞顧問 小汀利得

 物故功労者展墓は、遠隔地以外はすべて十月十九日に行われ、翌二十日の老侯墓前祭では大浜総長が過去五年間の事業経過と将来の抱負を大隈に左の如く報告した。

高邁な達識と遠大な抱負によって創立されました早稲田大学は、堅く建学の精神を持し、不断の発展を続けて、ここに創立七十五周年の佳き日を迎えました。爾来歳と共に学園の内容は充実し、教職員は将に二千名に垂んとし、在学生三万を超え、校友また十三万に及び、教員諸君の学術研究はいよいよ深奥を究めて、学界の進運に貢献する所、実に顕著なるものを加え、校友諸君もまた母校を背景に、社会の各界において、その重鎮となり、中堅有為の人材となって、輝しい活躍を致し、殊に教職員及び校友が学園の進展に協力一致の実を挙げておりますことは誠に力強い限りであります。

施設の面におきましても、更に益々整備拡張を計り、最近五年間に建設された主要建造物を挙げますと、高等学院校舎、学生会館、校友会館等の新築を始めとして、理工学部応用化学科教室、原子物理学の一環としての同位元素研究室及び図書館の増築、さらに名誉教授内藤多仲博士を記念するために建設された耐震構造研究館の寄贈を受け、総計四千六百坪を加えることが出来ました。特に七十五周年記念事業の一つとして計画された記念会堂は千三百坪に及ぶ建造物であり、規模の宏大さにおいて内外諸大学にその比を見ないのみならず、全学園の教職員及び学生はここに会して式典を挙げるに足り、はたまた屋内体育館としても、音楽会その他の大集会場としても使用を充して余りあるものがあります。……

申すまでもなく、早稲田大学の精神は、すなわち老侯の精神であり、老侯の精神を体して創立に尽瘁された小野梓先生の精神でもあります。……この精神を鼓吹するために、大隈奨学基金、小野梓賞基金を設定し、優秀な学生の学習を助成しまたは特に抜群の業績を挙げた者を表彰することにいたしました。さらに学問芸術または人類のため顕著な貢献をした者を表彰するために名誉博士の制度を創設し、本学園の校友であってはじめて内閣総理大臣となった石橋湛山とわが国の国賓として来朝したインド国首相ジャワハルラル・ネールの両氏に対し、早稲田大学名誉博士の学位を贈呈いたしました。

早稲田大学はまさに四分の三世紀の歴史を重ねましたが、これを契機として更に想いを将来に致しますと、充満する学生によって既に狭隘の極に達した校地の拡張と校舎の再配置は緊急の時務であります。学問研究の急速な進歩と実社会の変動発展とに鑑みまして、研究施設の拡充と新しい時代に適応する教科課程の改廃もまた遷延を許しません。国家社会が我が学園に深い期待を寄せている所のもの、また普く全国からわが学園の風を望んで集って来る優秀気鋭の青年学徒が年々歳々に多きを加える実状などを考えますならば、老侯生前の御遺志を体して医学部を新設することはもとより、その他最も時宜に適合した新しい学部学科の増設にも着手すべきことを痛感致すものでございます。殊にまた昼夜を措かず学園に学ぶ三万余の学生のためには、新装の診療所をもって甘んずることなく学生厚生のための施設についても、更に十分な配慮を要するもののあることを痛感いたす次第であります。 (『早稲田学報』昭和三十二年十月発行 第六七五号 一二頁)

 記念式典は二十一日午後一時から、竣工したばかりの記念会堂で全教職員、学生・生徒、評議員、来賓と一万二千人を集めて開催された。早大交響楽団演奏のブラームス作「大学祝典序曲」の奏楽裡に、大塚芳忠庶務部長の先導で右側から総長以下各役員が、左側から村井教務部長の先導で名誉教授をはじめ各学部長、付属機関長、在日大公使らが粛々として入場し、壇上に居並んだところで、佐々木常任理事の開会の辞に始まり、総長の式辞、文部大臣松永東(代理)、慶応義塾大学理事野村兼太郎、広島大学学長森戸辰男、校友松村謙三の祝辞と続いた。

 学苑創立の沿革から説き起こしてその発展ぶりを顧みつつ課題を確認し、将来への決意を語るという総長式辞は、型通りと言えるが、ここでも、「早稲田大学は綜合大学として医学部を設置したいということを長く夢み、これが長年の宿願となっておったのでありますが、私どもはこの式典を契機としまして、年来の宿願である医学部設置の実現の方向に一歩でも二歩でも前進したいという心組で計画を進めておるのであります」と明言したのであった。計画は結局水面下での動きにとどまってしまうのであるが、ともあれ七十五周年記念に込められていた学苑当局の意気込みが窺える。また来賓祝辞の中で、国立大学協会長に代っての森戸辰男の祝辞は、たんなる代理にとどまらず、日本の私立大学の役割また学苑の歴史に対する森戸ならではの回顧と評価を語るものであった。

私の関心をもちます専門の学問、思想の分野では、私の母校であります当時の帝国大学が主流でありました思想傾向よりも、むしろ多くの点では私学のそれに興味をひくものがございます。この点で、私は日本の私学わけてもこの早稲田大学の学風が我が国の民主化に果しました役割を高く評価し、これに敬意を表しておるものであります。私は本学の出身の方々にしばしばお教えを乞い、御指導を仰ぎ、御協力と厚誼をかたじけのうしておるものでございますが、四十年の私の生活を顧て、直接私に関係のあった二、三のことを申上げたいと思うのでございます。

私が東京の大学を出まして、やや社会的な意義のある運動に関係いたしましたのは東京大学の高野〔岩三郎〕博士、一ツ橋大学の福田〔徳三〕博士等が中心になっておやりになりました社会政策学会の運動でございます。この運動の中には本学の平沼淑郎先生、塩沢昌貞先生等が有力なメンバーとして参加しておられたのでありますが、私はしばしばそのお教えを乞うたのであります。私が東京大学におります時に、クロポトキン事件があったのでありまして、その法廷に立たれた特別弁護人の一人には確か本学の安部磯雄先生があったと記憶いたしております。大学を去りまして、学問、思想の啓蒙を民間に行おうとする意図をもって我等社をたてましたが、その有力な同志の中には御承知の朝日新聞を統治されました長谷川如是閑氏にならんで大山郁夫氏があったのであります。大学を終えて私が職を求めましたのは大原社会問題研究所でございますが、その設立者大原孫三郎氏は本学に籍をおかれたようでございます〔明四四推選〕。そこにはまた本学の北沢新次郎氏があったのであります。戦後、敗戦の騒動の中に、日本の文化人は心を取りなおして奮起しなければならぬと思いまして、私ども少数のものと文化人連盟を結成いたしましたけれども、その中の有力な発起人には杉森孝次郎氏があったのであります。その後私は社会党に参加いたしましたが、社会党の中にはその長老として本学の安部磯雄先生があります。そして、浅沼〔稲次郎、大一二政〕、三宅〔正一、大一二政〕、平野〔力三、大一一専政〕等有力な錚々たる同志の大部分は実は本学の出身者であったのでございます。これは私の断片的な記憶でございますけれども、これらの場はことに戦前におきましては新しい日本の方向を指し示すものでございました。国立大学、当時の帝国大学のさし示した方向とは反対のものであったのでございます。これらの場におきまして、私今日回顧いたしまするに、御指導を受けた私学先輩名士の大部分が本大学の出身者であったことを、私は強い印象として残っておりますと同時に感謝の心に満ちておるのであります。

三十年前のことになりますが、私は思想闘争に関する一小論文を書いたのでございますが、その中で当時官学あるいは国立大学の教育に対抗いたします三つの代表的私学のことを論じたところがあるのでございますが、その第一は慶応義塾大学でありまして慶応が功利主義とその中心的な学問である経済学を強調したのに対し、同志社大学はキリスト教道徳の力説であったのであります。そして早稲田大学は政治的なデモクラシーの提唱により、官学に対抗したのでございます。……時の政治の権威に対して、不羈独立を説いております。学問の自由を尊重するとともに官僚的、国家主義に対して政治的デモクラシーの旗じるしを高くかかげて来たのである。かように三十年前に私は書いたのでございますが、私を指導して下さった、私とともに働いて下さった大学出身の方々はまさにこの本学の学風、また建学の精神によって培われ、育てられた方々にほかならないと存ずるのでございます。私は一昨年の秋、大浜総長と一緒にイスタンブールで開かれた国立大学協会の第二回の総会に参加いたしました。この総会の中心議題は急激に変化する社会に処する大学の役割を三つにしぼりまして、一つは教員の養成、第二は自然科学研究者の養成、第三は国の指導者の供給に対する大学の責任という三つの問題がとりあげられたのでございます。今日、高等教育機関としての大学はこれら三つの役割を果さなければならぬのでございます。その中で最も一般的な課題はそれぞれの国家の政治的経済的社会的文化的な生活において、国家的に国際的に影響することの出来るような、よい指導者を供給することであると思われるのであります。急激に変化する時代と申しますれば、日本は明治以来急激に変化する状態を続けて、殆ど危機の連続の中に国をおこして参ったのでございます。本学はその建学の精神の内に学の独立学問の活用とともに、模範国民の造就を掲げられておる、更にこれを説明して個性を尊重し、進化発達し、国家社会に益し、併せて広く社会に活動すべき人格を養成せんことを期す、とされているのでありますが、これはまさにその国の諸生活の部面において、指導的に二つの人格を養成することをしめしたものでございまして、危機に処しまする世界の代表、とくに我が国の大学の任務といたしましては、まことに重要なものであると思うのであります。 (同誌 同号 八―九頁)

松村謙三の祝辞を以てプログラムが終了したところで、全員が起立し、早大交響楽団の伴奏により校歌を斉唱して式典の幕を閉じた。なお、この日、学長または代理が出席した諸大学は、慶応義塾、明治、法政、立教をはじめ二十八校、参列海外諸大学は、ハーヴァード、ミシガン、スタンフォード、シカゴ、ダートマス等四十二校、メッセージを寄せた大学は、ケンブリッジ、ハンブルグ、アテネ等八十校に及ぶ。

 ところで、記念式典に先立ち十月十五日午後一時から日本橋白木屋で校友作家による文芸記念講演会が開かれた。それぞれが学生時代の思い出なり母校への思入れなりを語ったもので、同年輩の校友の共感を呼んだり、学生達の憧憬を受け、喝采裡に終演した。映画はその講演者の一人尾崎士郎の小説「早稲田大学」を東映が映画化したものである。同日から二十日まで白木屋で催された「早稲田大学展」は、学苑の鳥瞰を示したあと、創始期(東京専門学校時代)、発展期(専門学校令による早稲田大学時代)、拡充期(大学令による早稲田大学時代)、学苑現況(戦後の歩み)の四期に分け、それぞれ写真、印刷物、文書、大隈関係資料、演劇博物館資料、建築設計等で、なかなかの好評を博し、連日引きも切らない参観者で会場は大いに賑わった。

 二十一日と二十二日の二度に亘って大隈講堂で上演された記念演劇「高田早苗」は、先に科外講演部が広く学生・教職員・校友から「高田早苗」または「坪内逍遙」の演劇台本を募集していたところ、沼沢豊(昭三一・二文)作の「高田早苗」が当選し、加藤精一演出・劇団近代劇場によって上演されたものである。また、二十二日午前七時四十五分からのラジオNHK第一放送「朝の訪問」の時間では、大浜総長が「早稲田精神と早稲田気質」についてユーモラスな挿話を交えて十五分間放送した。

 学内展示会として、「七十五周年回顧展」は木造校舎三棟・学生八十人の東京専門学校草創期から教職員二千余人・学生三万人を超える現在の姿までの道程を視覚化した。大隈記念社会科学研究所による「日本近代化展」は、大隈文書、政党関係資料、明治二十年以降官吏関係資料、インドネシア関係資料、原子力関係資料の展示により、日本の近代化を跡づけた。「東洋美術展」は、会津八一が蒐集して会津博士記念東洋美術陳列室に秘蔵する中国の拓本ならびに古美術品を展示した。「特別図書展」は、学苑が誇る国宝三点を中心に、明代小説、馬琴の八犬伝の稿本等を展示したものである。「早大演劇人の展望」展は、早大演劇人の展望と映画、放送、舞踊等の関係者全般に亘る原稿、舞台写真等を展示した。「理工学部展」では、理工学部のあらゆる知能を駆使した大規模な公開実験等が催された。

 また創立七十五周年を記念する祝典演奏会が二十五日午後六時から、新装成った記念会堂で開かれた。M・グルリットの指揮による東京フィルハーモニー交響楽団のJ・ブラームス作曲「大学祝典序曲」、A・ドボルザーク作曲交響曲第九番ホ短調「新世界より」、チャイコフスキー作曲舞踊組曲「白鳥の湖」抜粋、J・シュトラウス作曲「皇帝円舞曲」、リスト作曲「ハンガリア狂詩曲第二番」の五曲が演奏され、会場一杯を埋める聴衆を感動と興奮の坩堝に巻き込んだ。越えて二十七日午後七時から同じ会場で、学苑の交響楽団、合唱団、グリー・クラブ、混声合唱団、コール・フリューゲル、女声合唱団に加えて玉川学園合唱団が賛助出演し、他にソプラノ毛利純子、アルト戸田敏子、テナー笹谷栄一朗、バリトン大橋国一の四部合唱が参加して、小船幸次郎の指揮の下、ベートーヴェン作曲「エグモント序曲作品八四」と「交響曲第九番ニ短調作品一二五」の二曲が、フロイデ・ハルモニーの催しとして演奏された。

 なお、記念行事と併行して、十月二十一日より二十七日まで早稲田祭が盛大に行われた。その他、映画会、スライド、録音等の構成による「早稲田大学の歩み」や、校友会主催の講演会、座談会が都内各所で行われ、学苑内でも連日種々の催しが行われた。その主なものを挙げると、校内スケッチ大会(共通教室屋上)、茶会(大隈庭園内完之荘)、囲碁大会(ワセダクラブ)、歌唱指導(大隈銅像前)、何でも市(二一号館前広場)、楽焼(同前)、各種研究会・学会・同好会の研究発表、展示会(二・三・四・五・二一号館と学生会館)がある。

 こうして学内の式典行事は二週間で終ったが、地方に残る祝賀行事を入れて通算すれば二ヵ月の長い期間、多少に拘らず早稲田大学の力強い印象を国民の間に残して、創立七十五周年の祝典は無事終了したのである。

二 創立八十周年記念事業の決定と資金募集

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 創立七十五周年を期しての学苑拡充の最大目標は医学部設置であった。そのことはこの時期の総長大浜の折にふれての抱負や構想発表において言及されているだけでなく、記念事業計画の項目として明文化され、現実に設置を念頭に置いて土地の取得が進められていたのである。すなわち、昭和三十年、アメリカ駐留軍に接収されていた旧陸軍戸山射撃場跡地(以下西大久保用地という)の接収解除に伴い、学苑は医学部および病院建設を予定して九万二五〇〇平方メートル余の国有財産の払下げを九月二十日に申請していた。しかし、学苑以外にも払下げを希望する機関・団体が幾つかあって競合し、大蔵大臣の決裁が降りたのは三十六年一月十日、しかも面積は削られて三万七一三六・七三平方メートルにとどまった。これは大蔵省による公務員住宅建設や新宿区の体育館建設計画が加わったためで、学苑として思うような結果にならず、この過程で同用地での病院と医学部の設置は費用等の問題も絡んで断念し、既存の医科大学との合併の可能性を探ることになる。

 この間、昭和三十七年の創立八十周年に向けて記念事業計画策定が、三十四年十一月、左の委員より成る創立八十周年記念事業委員会の設置によって開始された。

阿部賢一 安念精一 磯部愉一郎 市川繁弥 黒田善太郎 佐々木八郎 斉藤金作 島田孝一 高木謙吉 高木純一 原安三郎 前川喜作 村井資長 吉村正 浅川栄次郎 小林中 島田兵蔵 中尾徹夫 中山均 藤井丙午 松村謙三 谷崎精二

第一回会合を同月二十五日に開いて委員長に安念を互選した委員会は、総長の要望に基づき、また七十五周年の例に倣って、評議員、研究科委員長等の意見を聴取し、審議期間を約二ヵ月として、遅くとも翌三十五年二月末には答申することとし、また必要に応じ、評議員会に中間報告を行うことも考慮することにした。審議に付された「創立八十周年記念事業要目(案)」によると、事業計画の主要項目として、一、学部の新設、二、理工学部の革新強化、三、法文系学部の施設拡充、四、図書館の拡張、五、学生厚生施設の拡充(第二学生会館の建設)、六、校地の整備、七、記念出版と挙げられ、五ヵ年計画で三十六年度着手の方針が立てられている。

 新設学部として計画案に組み入れられたのは、管理工学部、医学部、文理学部、国際学部の四学部である。この時点での医学部設置案は、西大久保用地での新設を断念する代りに、既存のある医科大学と合併することを前提にしての計画であった。文理学部とはLiberal Arts and Science Collegeの翻案であって、専門教育は大学院で行うことを建前として基礎科目に関する高度の教育を目標とする。具体的には、既存の政治経済学部・法学部・商学部・理工学部に属する一般教育を引き受ける。国際学部は外国語に重点をおいて国際政治、国際経済、国際関係論、地域研究等に関する科目を配した学部とし、全学部の外国語教育はここに集中させる。設置場所は安部球場、一五号館跡(現在の教育学部一六号館および共通教室一五号館のある場所)あるいは上石神井が考えられた。

 特に強調・重視されたのは理工学部の強化である。折から高度経済成長を迎えようとする時期にあって、科学技術の研究・教育に対する要求が高まってきた。これに応えるため同学部は組織を改革し、施設と設備を拡充し、核物理学や電子工学等の新分野の研究・教育体制を確立する。加えて、生産研究所を土台に経営科学やオペレーションズ・リサーチの科目を配した管理工学部を設ける。それには施設の大拡張が必要であり、既存の建物での改革は困難である。そこで、払下げが予定されている西大久保敷地に理工学部と理工学研究所を移し、その跡の理工学部校舎(当時の九号館、現在の六号館)を管理工学部と生産研究所に転用するという案が浮上したのであった。

 委員会は審議の結果を五月十六日に評議員会に報告、ここに「創立八十周年記念事業要目」が正式に公表された。ここで前述の「要目(案)」と比べて大きく変更されたのは、新設学部の項である。先ず医学部構想が入っていない。新設も合併も正式に断念されたことが窺える。長年の懸案であり夢であってその設置を公表したにも拘らず断念に至った背景について、若干の説明が必要であろう。既存医科大学との合併問題は相手大学における反対の声の高まりによって頓挫するほかなかった。しかし、用地取得が希望通りに進まなかったことを含めて、学苑を取り巻く環境が必ずしも医学部設置に有利でなかったことは確かである。病院・医学部の設置に権限を持つ厚生省(医務局)が医師過剰等の将来予測を理由に都内での医科大学新設に消極的であった。早稲田大学に医学部が生れると既存の有力学閥と競合する惧れがあるという、医学界の内部事情もあったかもしれない。一方、それでも設置したいという願望に対して、例えば歯学部設置や遠隔の地方国立病院の買収から始めるという代案を提示されても、素直には呑めないというのが学苑側の姿勢でもあった。更に、現実問題として予想される経費の膨大さのみならず、既存の病院や医学部で露呈していた労使紛争の深刻さを学苑当局が目撃したことも、断念に追い込む要因となったのであろう。

 また医学部と並んで提案されていた文理学部と国際学部も削除され、入学志願者の状況、卒業生に対する社会的需要、財政的基盤の強化等の観点からあらためて研究を続行するという形に後退した。その中で唯一、管理工学部が経営工学部と名前を替え記念事業の主要な柱とされたのである。管理工学部または経営工学部の新設案には、それまでに既に活動実績を挙げていた生産研究所という背景があり、「企業経営の科学化の促進、販売面における技術者の進出、中小企業の体質改善策の進展に伴い、経営・管理工学その他オペレーションズ・リサーチ、マネージメント・サイエンス等の理論および技術を習得した技術者に対する社会的需要が増大しつつある趨勢に鑑み、その要請に応える」(『早稲田大学広報』昭和三十五年五月二十四日号)との趣旨が立てられた。他の事業計画、すなわち理工学部および付置研究所の拡充、法文系学部の施設拡充、図書館の拡張、第二学生会館の建設、校地の整備、記念出版は、最初の案とほぼ同じである。そして所要資金として、経営工学部新設費(設備を含む)が六億円、理工学部拡充費(建物・設備)が十一億円、共通教室、図書館、法文系学部拡充費が六億円、学生会館が二億円、計二十五億円が計上され、そのうちの二十億円分を募金するという計画とそのための組織が決定された。

 こうして「創立八十周年記念事業要綱」ができ上がったところで、事業の中心は完全に理工学部の革新・強化となったにも拘らず、理工学部各学科の意思はこの時点で必ずしも統一されていなかったようである。西大久保用地への一挙全面移転に積極的な科もあれば、慎重な科もある。更に、経営工学部構想自体についても全体の合意が形成されず、寧ろ類似の学部新設に懐疑的な意見が強まり、遂に経営工学部構想を吸収した形で理工学部全体の組織・機構の改革および入学定員の大幅増員の方針を立て、学苑当局の承認を求めたのである。この結果、「要綱」中「学部新設」の項は全文削除され、資金計画が改定された。最終的に決定された事業計画を掲げよう。

創立八十周年記念事業計画

本大学は、昭和三十七年に創立八十周年を迎えるにあたり、これを記念して、別項「記念事業要目」に掲げる事業を計画実施する。建設については五ヵ年計画をたて、緊急度に従い、資金との関係をにらみあわせて、昭和三十六年から順次着手する。所要資金は、二十億円を募金に仰ぎ、その他は自己資金によってまかなう。

記念事業要目

第一 理工学部の改革拡充と学生定員の大幅増員

科学技術の飛躍的進歩と産業の急速の膨張に伴い技術者の大量養成の必要が叫ばれている実状に鑑み、この緊切の社会的要請に応えわが国経済の将来の発展に寄与するために理工学部の規模を大幅に拡大して学生の入学定員を千七百名に増員する。学生定員の増加にあたっては、社会的需要の緊要度を勘案して、特に機械工学、電気工学、化学工学等に重点をおくとともに電子工学、原子力工学、オペレイションズ・リサーチ、マネージメント・サイエンス、ヒューマン・リレイションズ等の新分野を取入れるよう工夫する。なお工学の進歩が究極において基礎科学の発達に依存することを考慮し、この面の研究体制を強化する。これらの計画を実施し、研究・教育上所期の目的を達成するためには、学部の機構の改編と教育方法の刷新が必要であるが、他面実験設備の整備をはじめ施設設備を全面的かつ大規模に拡充することが必須の条件である。

第二 付属研究所

理工学研究所、鋳物研究所および生産研究所については、大学付置の基礎研究および共同研究機関としての機能の発揮に一段と工夫をこらすとともに、委託研究および産業人の再教育を通じて産業界との協力を強力かつ活発に推進することを指向し、この観点から組織機構を改革するとともに施設設備を拡充する。

第三 法文系学部の施設設備の拡充

教員および学生の増加に伴い研究室および教室が不足しているのでその補充をはかるほか、学生生活を豊かにしかつ安定感を与えるとともに学習に便益を与えるために各学部を通じて学生読書室を増設する。そのために約六千坪の建設を実施する。

第四 図書館の拡張

蔵書の増加に伴い書庫も狭隘を告げ、学生数に比し閲覧室も不十分であるので、現存の中央図書館と連結して約二千坪の建設を行い、その拡充を期する。

第五 学生会館(国際会館を兼ねる)の建設

学生の課外活動は、学生生活を豊かにするとともに教養と知見を高めその人格形成の上に極めて重要であり、この目的に沿う文化団体も百数十に及んでいるが、現存の学生会館は狭きに失するのでその補充をはかるほか、数百に上る外国留学生をして日本における留学の効果を十分に発揮させるために約二千坪の学生会館兼国際会館を建設する。

第六 記念出版

一 早稲田大学八十周年史 二 大隈とその思想または明治大正文化と大隈 三 高田早苗

資金計画の概要

以上の記念事業を実施するための所要資金は、おおむね次の通りである。

一 理工学部および付置研究所拡充費 建物および施設 二十億円

二 法文系学部拡充費 建物 七億九千三百万円

三 学生会館建設費 建物 一億三千万円

四 募金経費 七千七百万円

合計 三十億円

募金計画

一 募金目標額 二十億円

二 募集対象 法人、校友、学生父兄、教職員、その他一般篤志家

三 寄附の種別(払込は三年又は五年内の分割払を認める。)

一 単位額を定め口数によるもの

A 一口 五千円 B 一口 三万円 C 一囗 五万円 D 一口 十万円の四種とする。

二 単位額を定めないもの

A 主として法人を対象とするもの B 団体取扱によるもの

記念事業の運営

早稲田大学創立八十周年記念事業委員会 この委員会は、理事、監事、評議員、商議員会長・同副会長、学部長、大学院研究科委員長、専攻科委員長、体育局長、学院長、工業高等学校長、付属機関長、校友会常任幹事、稲友会会長・同理事長および稲工会会長をもって構成し、記念事業全体を統轄する機構とし、その委員長には総長がこれにあたる。

資金募集の組織

早稲田大学創立八十周年記念事業資金募集委員会 この委員会には、委員長一人、副委員長若干人をおき、募金運動は、募金企画委員会、募金実行委員の組織を通じて実施する。

一 募金企画委員会

一 資金募集委員会の委員長、副委員長がそれぞれこの委員会の委員長、副委員長となり、委員は、学校関係者および校友のうちから選任し、募金運動の実施に関する方針を議するとともに、募金運動を全般的に統括管理する。

二 募金企画委員会の定める基本方針に基づき、募金運動の具体的方策を議し、募金実行委員による募金運動の効率化をはかるため、募金常設委員若干人をおき、募金企画委員のうちから選定する。

二 募金実行委員

募金企画委員会の樹立した募金案を実施するため、次の区分により多数の実行委員を委嘱する。

一 法人その他大口寄附を担当する委員

二 校友、学生父兄、教職員を対象とし、地域別、職場単位、卒業年度別等により大学又は校友会の組織を背景として選出する委員

記念事業の後援

早稲田大学創立八十周年記念事業後援会 募金運動を側面から後援してもらうために後援会を組織し、主として校友でない財界の有力者のうちから、会長・顧問および委員を委嘱する。

 この間、記念事業資金の募集、記念出版および式典等の企画に関する事務を行うため、三十五年六月十五日、「記念事業募金事務局規程」を制定し、同日から施行した。また、各種委員会の委員が左の如く委嘱された。

記念事業委員会 委員長 総長大浜信泉 委員 阿部賢一ほか六十九名

資金募集委員会 委員長 原安三郎 副委員長 小林中島田孝一

募金企画委員会 委員長 原安三郎 副委員長 小林中島田孝一 委員 安部登樹ほか百五十一名

募金常設委員 委員 原安三郎ほか三十五名

募金担当理事 常任理事末高信(のち常任理事村井資長に交替)、阿部賢一小松芳喬

募金事務局長 大塚芳忠(のち時岡孝行に交替)

記念事業後援会 会長 足立正 顧問 石川一郎ほか十四名 委員 阿部孝次郎ほか百十三名

募金実行委員 菅野肇ほか全国各地の校友四千名

なお、これらの各委員にはその後若干の異動があった。更に三十六年六月三日、記念事業の建設につき企画および設計を統一的に推進するため、理事会の直属として臨時建設局を特設した。

 各種委員会は精力的な活動を展開していったが、長期に亘って進められたのは募金活動であった。上場法人千二百社および就職関係・出入業者等学苑に関係のある中小法人千八百社をこの募金活動の対象法人に選定し、目標額のうち十五億円は前者から集め、後者からはこれを補充する程度を予定額とした。個人関係の目標額五億円については、校友から三億三千万円、学生の父兄から一億二千万円、教職員から五千万円を割り当てた。教職員割当分は、当時の教職員人件費の月額が約五千万円であったことと、個人からの募金目標額の一割という線とを考慮して決定したのである。加えて、近隣商店に対しても、それぞれ適当な方法により協力を懇請した。募金事務局の主要業務は渉外係・庶務係・経理係に分けて進められたが、一、二名を除き募金活動は初めての経験であった。当初発送した趣意書は十余万通に及んだ。特に父兄に宛てた趣意書は、新入生の入学直後に一万通、賞与支給期には在学生の父兄をも含めて約三万通を毎年発送したので、合計すると実に数十万通に達した。

 三十六年二月の募金活動開始以来着々とその成果は挙がり、翌年十月の記念式典には十三億円が寄せられたと発表できた。そして三十八年十二月、理工学部第一期工事竣工を機に、一万円以上の寄附者約一万二千人および記念事業委員会、募金企画委員会、記念事業後援会に中間報告書を配付するとともに、これを『早稲田学報』第七三八号(昭和三十九年一月発行)にも掲載して一般への報告に代えた。四十年六月十八日、理工学部第二期工事が竣工し、記念事業としての各種建設も着々と進捗してそれぞれ完成の見通しがつき、募金目標額もほぼ達成したので、協力を賜った人々に深甚の感謝の意を表するとともに、経過報告を行った。またこの日を以て記念事業委員会、記念事業後援会、記念事業資金募集委員会を解散して組織的な募金運動を一応締め括り、今後は払込の促進に専念することとなった。こうした中で、四十年九月十一日、見事に目標額を突破し、申込総額は二〇億一四二四万一八二八円、払込総額は一六億一七五〇万五四一八円となったのである。この喜びは大浜総長の「募金目標二十億円を突破して」(同誌 昭和四十年十月発行 第七五五号)に、「奇蹟に近い」との感慨無量の叫びとなって表明されている。

第十九表 創立八十周年記念事業募金額(昭和47年3月末日現在)

(『定時商議員会学事報告書』昭和47年 19頁)

 募金活動はこの後も継続され、四十七年三月末日で申込総額二〇億一五三〇万一六一円に対し払込総額一八億九五七六万一七五八円となり、この日を以て活動を終了することにした。その内訳は第十九表に示す通りであるが、本募金に関する苦心の跡は、当時記念事業募金事務局庶務課長であった三木一郎が『早稲田大学史記要』第八巻(昭和五十年三月発行)に寄稿した「創立八十周年記念事業募金の概要」に、逐一語られている。

 この募金は一大学の行う募金としては画期的とも言うべき目標額であったが、これを達成し得たことはまことに喜ばしい。その経費もきわめて僅少にとどめ得たことは、関係者としては大いに誇り得る点である。大浜総長がその苦心談の中で、「記念事業というものは一部の人、金持が金を出すより多数の人が参加して、母校愛ということに結集するというのが精神的に一番いいのではないでしょうか。一人が何億を出したというのと皆んなが力を合わして作ったというのとはやはり違いますからね」(「創立八十周年記念事業の歩み」『早稲田学報』昭和四十年七月発行 第七五三号 一二頁)と語っているように、この大事業を成し得たのは、募金関係者の努力によることは勿論であるが、教職員、校友、父兄、法人等社会各般一人一人が早稲田大学に寄せる厚情の賜であったことは特筆されるべきである。

三 創立八十周年記念祝典

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 昭和三十七年の八十周年記念行事の幕開けはラジオ放送であった。先ずTBSは四月二十一日より十月二十七日までの毎土曜日二十八回に亘って、創立以来の早稲田大学の歴史を主題とする北条誠(昭一五文)作の連続ラジオ・ドラマ「都の西北」を放送した。この放送台本は同年五月より翌三十八年四月までの『早稲田学報』に七回に亘り連載されている。また、ニッポン放送は七月二十三日から十月二十一日まで十三回に亘り「早稲田大学八十年の歩み」を、放送劇、録音構成、座談会、実況中継等により番組に組んだ。両放送とも放送時間は夜の三十分間であった。

 夏を迎え、創立八十周年記念夏季地方文化講演会が次のように開催された。

七月三日 新潟市 科学と人間 理工学部教授 高木純一

思惟経済について 文学部教授 戸川行男

八月十一日 札幌市 科学と人間 高木純一

能力の限界について――子供の能力はどこまで伸せるか 戸川行男

八月二十八日 大阪市 これからの日本と外国語 教育学部教授 五十嵐新次郎

八月三十日 福岡市 これからの日本と外国語 五十嵐新次郎

これらの講演会には総長大浜信泉の挨拶があり、学苑グリー・クラブの合唱も披露された。各地の校友大会もこれらの日に開催されている。

 他方、十月二日から二十六日まで、歌舞伎座で第十七回芸術祭参加の「人生百二十五年――大隈重信――」が公演された。原案の作者は石川達三(文中退)で、久板栄二郎(予科中退)が脚本を書いて演出した。大隈重信が薩長勢力に放逐されるところを前半に折り込み、後半はそれから飛躍して創立三十周年記念祝典を見せ、尾上松緑演じる真紅のガウンを着た七十五歳の大隈をはじめ当時の名士が多数来賓席に並ぶ中で、学生達が演じる「三十周年の歴史」を見せた。ここに、若手俳優の扮する福沢諭吉、坪内逍遙、伊藤博文が登場する。抱月と須磨子の一件を絡ませるなどして、観客を大いに楽しませた。なお、この脚本は『新劇』第一一四号(昭和三十七年十一月発行)に掲載され、大隈を演じた松緑は『早稲田学報』第七二八号(昭和三十八年一月発行)に「人生百二十五年」の一文を寄せている。

 十日には、午後六時三十分から東京文化会館において、小沢征爾の指揮でフロイデ・ハルモニーによるベートーヴェン作「交響曲第九番」他の演奏が、聴衆二千余人を集めて行われた。

 またこの日、新応援歌「燃ゆる太陽」の贈呈式が行われた。これは佐伯孝夫作詞・吉田正作曲で、学苑創立八十周年を記念して応援部員OBの親睦団体である春秋会を通じ寄贈されたものであり、十四日にその発表会が行われた。>燃ゆる太陽

一、燃ゆる太陽 みなぎる若さ

勝利の伝統 華と咲く

われらの早稲田 精鋭早稲田

剛胆なるもの 堂々と

いざいざ進め はばむもの

押し切る 早稲田

早稲田 早稲田 輝く早稲田

二、赤き血潮の 学友達よ

勝利の歓喜 共にせん

われらの早稲田 精鋭早稲田

都の西北 栄光に

見よ見よ映えて 聳ゆるは

母校ぞ 早稲田

早稲田 早稲田 輝く早稲田

(牛島芳『応援歌物語』 一一八頁)

 更に十日から翌年一月十六日にかけて、学苑教授による左の記念学術講演会が順次開かれた。

十月十日 於二一号館一〇九教室

経済の本質についての再検討 酒枝義旗

十月十一日 於大隈講堂

奄美の信仰と芸能 本田安次 国際経済統合の理論 中島正信

同 右 於二一号館一〇九教室

大学管理をめぐる法律問題 有倉遼吉 賃金制度の現状と合理化の方向 西宮輝明

十月十二日 於大隈講堂

青年の神経症 本明寛 大地震の経験と将来の対策 那須信治

十月十六日 於大隈講堂

技術革新と世界経済の動向 時子山常三郎 刑法改正と保安処分 斉藤金作

一月十六日 於文学部講堂

映像の解体――現代映画論 倉橋健

なお、これらの講演速記は、翌年三月に科外講演部の機関誌『高遠』五・六に「創立八十周年記念講演集」その一、二としてまとめられている。

 十月十二日から十七日まで渋谷東横百貨店で早稲田スポーツ展が慶応義塾体育会の協賛を得て開催された。明治三十五年に剣道・柔道・野球・漕艇・庭球・弓道の六部が早稲田大学体育部の名称の下に発足して以来六十年、幾多の名選手を生み、数々のエピソードを残して、体育局制度の下三十九部の多きを数えるに至るまでの足跡が、写真、カップ、メダル、ペナント、その他各部の用具類とともに展示され、屋上では柔道、ウェイトリフティング、漕艇、合気道、水泳、レスリング、フェンシング、体操、ボクシング、応援の各部の実演があった。野球部育ての親安部磯雄、庭球の世界的名選手佐藤次郎、卓球理論の今孝の遺品の前に往時を偲ぶ人も多く、盛況であった。また体育局はこの月、『輝く早稲田スポーツ・六十年のグラフィック』を編集・刊行した。

 「早稲田大学八十年の歩み」展は十九日から二十一日までの三日間、「早稲田人主著四百選展」「学部、諸学校の歩み展」「図書館特殊文庫紹介」の三部構成で、図書館の第一閲覧室とホールで開催された。四百選展の展示品は明治、大正、昭和の各時代、伝記書物に分類され、参観者の注目を集めた。歩み展では、東京専門学校創立以来の学部、高等学院、工業高等学校、早稲田中学、早稲田実業の歴史や、早実の全国高等学校野球大会の優勝楯や、学院や工業高校の生徒が刊行した雑誌その他多数の展示がなされた。特殊文庫紹介では、大隈文書や逍遙文庫をはじめ十三名の人々の名を冠した数万冊に及ぶ蔵書の一部が陳列された。これらの展示会場には物故教職員や戦没者のための慰霊塔と感謝のためのコーナーが特設された。

 十九日午前八時三十分から十五分間フジテレビの「女性サロン」の時間と、翌二十日午前七時四十分から二十分間NHKテレビの「話の散歩」の時間に、大浜総長は母校の近況や抱負を語った。また二十日には午後二時より、ミシガン大学総長ハーラン・ヘンソン・ハッチャーと校友松村謙三への名誉博士号贈呈式が大隈講堂で挙行された。

 さて創立記念日の前日十月二十日、音羽護国寺での大隈重信墓前祭において、修祓・祝詞奏上の後、大浜総長が次のような奉告文を読み上げた。

都の西北早稲田の杜にと謳われました早稲田大学は、発展又発展、飛躍又飛躍、高等学院を上石神井に移し、理工学部は戸山ヶ原旧射撃場跡に新築することとなり更に近県の都市に早稲田学園を建設するのではないかと噂されるに至りました。この目ざましさは、学界、教育界における早稲田大学の栄誉を語るものでありまして、その基礎を築かれましたのは、正に老侯でございました。……ここに最近五年間の学園行事について概略を挙げますと、まず施設、建築のことであります。比較法研究所の設立、電子計算室、語学教育研究所の設置、教員養成のための専攻科の新設など、すでに完成いたし、建築は学生ホールの増築をはじめ、田無学生寮、高等学院講堂の完成、文学部校舎の建設、体育局校舎の竣工、教育学部校舎の修築の外、水稲荷神社旧敷地跡の第三共通教室と、戸山ヶ原射撃場跡の理工学部綜合校舎および設備が着手されるのであります。創立八十周年を記念して計画いたしました学園拡張案については、特に募金事務局を設け、教職員、校友、父兄は勿論、広く社会各階層に呼びかけ二十億円の寄付を懇請しておりますが、これにより、理工学部、付属研究所、法文系学部の拡充、図書館の充実、学生会館の建設などを予定しております。老侯には、学園創立に方って、標語「学問の独立」を以て建学の精神を示されました。学園の学的活動ならびに施設は、すべてこの理想実現のためのものでありまして、わが学園の魅力も、ここに存するのであります。……今次八十周年記念式典を契機としてミシガン大学総長ハッチャー氏および衆議院議員、自民党顧問松村謙三氏に名誉博士号を贈呈することになったこと、インドネシア大統領スカルノ氏、アメリカ法務長官ロバート・ケネディ氏夫妻、ソ連第一回人工衛星搭乗者ガガーリン中佐夫妻、モスクワ芸術座一行等々の来学が挙げられます。老侯が「世界の道は早稲田に通ず」といわれましたことが、今は御生前以上に賑わしくなっているのであります。これと共に、欧米諸大学との間に、教授、研究員交換の道が開かれ、ボン大学、パリ大学、ウィーン大学、スタンフォード大学、ソビエト科学アカデミー、カリフォルニア大学、マリエッタ大学よりの交換研究員、その他アジアの諸国からの留学生受入れをいたし、学園よりは毎月数名の教授、助教授、講師の留学、出張、短期視察があり、各学部への外国留学生も年を追うて増加しております。老侯が力説されました「東西文明の調和」は、今日にあっていよいよその実を示しているのであります。……現在早稲田大学は、教職員二千三百名、学生三万五千名、創立以来の校友約十七万人、誠に盛観でありますが、なお老侯御生前のこ意思を体し、欠けるところのない真の綜合大学の実現を期して邁進いたしたく一段のご加護を賜りますよう、教職員一同を代表し、心からお願い申上げます。

(『早稲田学報』昭和三十七年十一月発行 第七二六号 二―三頁)

この後、大浜総長に引続き教職員、評議員、商議員、校友、学生を代表して中村宗雄、森文作、阿部賢一外岡茂十郎、丹尾磯之助、井上善五郎、磯部繁通、土橋尚暉らが玉串を奉奠して、この祭式を終った。なお、この日には、ホテル・オークラで創立八十周年記念晩餐会も行われた。また、この祭式に準じ、佐賀市竜泰寺の老侯墓前のほか、学苑功労者小野梓高田早苗市島謙吉坪内雄蔵南部英麿天野為之平沼淑郎塩沢昌貞田中穂積中野登美雄の墓前にも大学の代表者がそれぞれ墓参して、感謝報告の行事を行った。

 さて学苑創立八十周年記念式典は十月二十一日(校友・来賓の部)、翌二十二日(学生の部)の両日に亘って、戸山町キャンパスの記念会堂で行われた。

 第一日目の校友・来賓を迎えての式典は、午後一時、東京放送管弦楽団吹奏の「都の西北」に幕を開け、時子山常三郎常任理事の開式の辞と総長式辞に続き、慶応義塾長高村象平、ミシガン大学総長・学苑名誉博士ハーラン・ハッチャー、校友代表・建設大臣河野一郎が登壇して祝辞を述べた。

 来賓の中で、高村象平慶応義塾長の祝辞は、特に静かに嚙みしめ、味わうものがあった。世上には早慶の二校は相対峙する好敵二大校と考えられ、両校の学生もそのように考えているようでもある。しかし本質的に言えば、日頃両校は互いに切磋琢磨し、より以上の向上発展を願っている。そのために当然起るのがライヴァル意識である。他校との間にライヴァル意識が生じなくとも、早慶両校に限ってのみこれが止めどもなく起ってくる。それは、両校の創立者である大隈と福沢との精神に遡及し、その精神が両大学の理念として確立しているからである。大隈の言う「学の独立」は福沢の言う「独立自尊」と相通じるところがあり、両大学はこの理念の下に、あらゆる官憲の抑圧に抵抗し、毅然としてその面目を維持してきた。高村はこの精神を大切にし、我が学苑の成長を祈念したのであった。

 東京放送管弦楽団によるブラームス作曲「典雅」の吹奏の後、校歌を斉唱して午後三時半に式典を無事終了した。当日式典に参列したのは慶応、東京、明治、法政、立教ほか国内二十一大学、ミシガン、シカゴ、コロンビア等アメリカの二十八大学およびヨーロッパの十大学、そしてメッセージを寄せたのは六十三大学であった。

 二日目の学生の部の式典は午後一時より同じく記念会堂で挙行され、集う者およそ五千人。時子山常任理事の開式の辞、大浜総長の式辞、海外諸大学から寄せられたメッセージの代表としてモスクワ大学総長の祝辞代読ののち、校友代表としてソニー株式会社長井深大が祝辞を述べた。

日本の政治界をみましても、どこをみましても、本当に日本を引っぱっていってくれるような人が何だか不足しているのではないかというような気がさかんにするんでございます。そういった時には私はこの早稲田の学園のようなところからそういうふうに世の中を引っぱっていってくれる人がもっと出てもしかるべきじゃないかと。しかるにもかかわらず、いままではどうもそういう人が出ずに何とか帝大に打ち勝とうということをあくせくして、平均点のいい人間を作りだすことを――これは先生の悪口を云って非常に悪いんでありますけども――そういう考えだったんじゃないかと。早稲田は早稲田で一つ独特のものを生みだしてゆこうというところに私はこれからの早稲田の生き方ってものを見出したいと思うんでございます。……私は早稲田の方々に申し上げたい、自分は早稲田を出たんだと。これは今日では確かに社会的一つのレッテルをはってもらう大きな素質を持ってると思うんでありますけども私はやはり早稲田を出たことは何も問題ないんで、これは或いは大きな会社に入る一つの楽な関門の手助けにはなるかもしれないけども、矢張り問題は早稲田に学んだ、出ていった一人一人がどれだけのことをするかというところにこれからの本当の問題は存しているんじゃないかと。本当にその人一人一人の価値というものが早稲田の名前も高めるし、しかしそれは重要なことではなしに、その人そのものの価値というのが私はより高く評価されるようなことにならなければならないんで、どこの学校であれその人はもっと正しく評価されなければならんと思うんであります。

(同誌 同号 一八―二〇頁)

こうして井深の祝辞が終り、東京放送管弦楽団の祝典歌をはじめ、当時流行の映画音楽「ベン・ハー」「遥かなるアラモ」「栄光への脱出」などが演奏され、最後に校歌を斉唱して記念式典を無事終了、続いて午後二時から記念会堂において、作家丹羽文雄(昭四文)が「文芸雑感」、また早慶野球の草分け選手泉谷祐勝(明三九大政)が「スポーツ雑感」と題して講演を行った。

 以上の諸行事の他、創立八十周年記念事業の一環として、『早稲田大学八十年誌』(定金右源二監修・中西敬二郎執筆)、『明治文明史における大隈重信』(柳田泉執筆)、『高田早苗伝』(京口元吉執筆)の三点が大学より出版された。前二著はA5判、後者はB6判で、いずれも非売品であるが、『早稲田大学八十年誌』は紙装B6判にも縮小印刷されて全学生に無料配布された。また、この年には、校友会が教授滝口宏の編集になる『早稲田大学八十年の歩み』と題する写真集を刊行したほか、早稲田大学アルバム刊行会(早稲田大学新聞会)も『早稲田大学アルバム・建学八〇周年記念』を刊行している。加えて、八十周年を記念して記録映画「大学の青春」(上映時間三十分)が校友橘逸夫(昭三二・一商)らによって企画・制作され、翌年完成している。