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第十編 新制早稲田大学の本舞台

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第六章 研究体制の整備と拡充

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一 社会科学研究所の改組

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 昭和三十年代には、大浜信泉総長のもと、全学的な規模での研究体制の再編および施設の拡張整備が図られた。

 先ず、大隈研究室で研究委員長を務める一方、人文科学研究所においては二十九年度政治研究委員会による共同研究を主宰していた政治経済学部教授吉村正を中心に、両機関を一つにして人文・社会科学系研究所として整備・再編成しようとの機運が高まり、大隈記念社会科学研究所として三十年四月発足させることになった。所長に吉村、研究所教授として政治経済学部から平田冨太郎、法学部から中村吉三郎、文学部から武田良三、商学部から入交好脩、教育学部から尾形鶴吉(裕康)が参加し、研究室を図書館(現二号館)旧事務所、事務室を出版部建物(旧二七号館)三階の旧人文科学研究所に置いて体制を整えたのである。目的は「大隈重信の事蹟の研究」と、それから発展させた「近代日本文化の綜合的研究」、更にこれを大きく取り巻く環としての「世界重要地区の地域的研究」と明示された。所長吉村は発足に当って、大隈研究室保管の大隈家文書、中御門家文書、伊藤家文書、伊東家文書などを用いて明治維新以来の我が国の発展を政治、経済、外交、法制、社会、教育、思想等の面で考察すること、年四回研究発表のための機関誌を発行し、また年一回英文で研究成果を発表すること、助手を採用することを具体的な目的および事業として掲げ、意欲を示した。左に三十年四月一日施行の研究所規則を抜粋しておこう。

大隈記念社会科学研究所規則(抜粋)

第二条 本研究所は、大隈重信の事蹟の研究、近代日本文化の綜合的研究及び世界重要地区の地域的研究をなすことをもつて目的とする。

第三条 本研究所は、前条の目的を達成するために、左の事業を行う。

一、研究及び調査

二、研究及び調査の成果の発表

三、研究及び調査の指導及び助成

四、研究及び調査の受託

五、研究資料の蒐集、整理及び保管

六、研究会、講演会、講習会等の開催

七、その他本研究所の目的達成に必要な事項

第四条 本研究所に所長一人を置く。

第十条 本研究所に、研究員若干人を置く。但し、研究員は、学部を本属とする教員をして兼任させることができる。

第十一条 研究員の身分は、教授、助教授及び講師の三種とする。

第十四条 研究計画又は調査計画の遂行上必要と認められるときは、嘱託を置いて、研究又は調査に参加させることができる。

第十八条 本研究所に若干人の助手を置くことができる。

 こうして研究所は研究活動を活発に展開、機関誌『社会科学討究』を中心に研究成果を発表し、また大隈研究の成果は復刻編集の『大隈文書』(全五巻)に結実したが、三十年代後半に入って隣接諸科学の研究の発展もあって研究分野の拡がりに応えるべく研究所体制の改革が要請されるようになってきた。折から学苑創立八十周年を目前にして三十六年一月に図書館に校史資料係が設けられ、大隈研究の受け皿となり得る芽が生じた。その後三十八年七月に、かつての大隈研究室の機能をもう一度二ヵ所に分離して、大隈記念社会科学研究所を社会科学研究所と改組、十二月に校史資料係は教務部所管の校史資料室と改称して大隈研究を継承した。そして四十年に入って校史資料室は総長室直轄の校史資料係と旧称に復し、学苑史の編纂がその事業目的に追加されたのである。

二 生産研究所の活動

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 本編第三章に既述の如く、ミシガン協定によって学苑に全く新たに設置された生産研究所はまさに今日言うところの学際的研究機関であった。昭和三十一年三月二十二日付で研究員として委嘱された四十名(青木茂男、稲田重男、伊原貞敏、岩片秀雄、宇野昌平、宇野政雄、門倉敏夫、木村幸一郎、蔵田久作、車戸実、小泉四郎、河辺㫖、小松雅雄、城塚正、鈴木英寿、洲之内治男、千賀正雄、染谷恭次郎、伊達邦春、田中末雄、田中正男、堤秀夫、鶴岡義一、中井重行、中野実、難波正人、長谷川正義、林文彦、葉山房夫、原田俊夫、藤井修冶、堀家文吉郎、松浦佑次、村井資長、村松林太郎、矢島保男、保田順三郎、米屋秀三、和田稲苗、渡辺真一)は実際、理工学部、政治経済学部、法学部、商学部に亘っている。「当面の研究課題」として着手されることになったプロジェクトと主任研究員は次の通りである。

作業研究に関する標準の設定 稲田重男(理)

工程技術に関する調査及び研究 宇野昌平(理)

生産性の測定と、工程、設備計画に関する研究 中野実(理)

市場開拓の方法とその管理 宇野政雄(商)

O・R的手法の経済及び経営への応用研究 林文彦(商)

生産性向上の雇用に及ぼす影響 河辺㫖(政)

 設立の経緯から、生産研究所は、学苑からの教員留学の事務的手続を行う案内所、ミシガン大学からの交換研究員の接遇所、そして生産性を基本テーマとする研究教育活動の実行本部という、三種類の役割を受け持つユニークな機関となった。これらの役割は、三年という協定契約期間が更に一年延期されたことにより、昭和三十五年まで維持された。左に、学苑側の協定受入の最大の動機でもあった教員のミシガン大学派遣の実績と相手ミシガン大学からの派遣教員の名前をそれぞれ表示しておこう。

第十四表 生産研究所からミシガン大学への派遣研究員(昭和三十一―三十五年)

(各年の『定時商議員会学事報告書』より作成)

第十五表 ミシガン大学から生産研究所への派遣研究員(昭和三十一―三十五年)

(各年の『定時商議員会学事報告書』より作成)

 生産研究所の実際の活動は殆ど右の二つの表に尽きていると言ってよい。本編第三章においても述べたように、学苑からの派遣教員の処遇に関して両大学の考え方に食い違いもあったが、我彼の技術格差が明白であったこの時期において、ミシガン大学に赴いた教員は貴重な体験を得たのであった。特に理工学系統の教員にとっては、コンピュータをはじめ先端テクノロジーの実態に直接触れることのできた効果は絶大で、その価値は、待遇をめぐる食い違いから生じた不愉快を忘れさせるのに十分なものであった。

三 理工学研究所の拡充

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 理工学研究所では、原子力の平和利用を謳い文句に昭和三十一年十一月、放射性同位元素研究室が開設された。この原子力の平和利用また核の問題は三十年代の自然科学・工学分野での最大のテーマであったと言ってよく、研究室の開設はその取組みの現れであるとともに、理工学関係のみならず考古学、史学までを含めた広い分野への研究の応用が期待された。また、内藤多仲博士記念耐震構造研究館の建設も逸することができない。初代理工学研究所長山本忠興を継いで十九年から二十九年までの最も困難な期間、所長職にあって学苑の理工学研究体制を復興した内藤の功労とその学問的業績に対して、これを記念すべく耐震構造建築の研究拠点を設置しようとの機運は、既に二十六年にそのための敷地が購入されていたことから窺えるように、早くから存在していた。三十二年の内藤の停年退職が学苑創立七十五周年と重なることもあって、博士の教え子により組織された稲門建築会が主体となり、大学が後援し、更に学界・実業界の協賛を得て、明石信道の設計になる鉄筋コンクリート三階建延五三〇平方メートル余の研究棟が四月に着工、十月十九日に竣工し、同日落成式を兼ねて贈呈式が挙行されたのである。内藤は退職後も嘱託として同研究館に通うことをこの上ない楽しみとした。新拠点での最初の研究テーマは原子炉の耐震構造設計であった。

 施設の充実とともに、三十年代について特筆すべきは、人的な面での研究体制の整備であり、理工学研究所にとって画期的とされた規則改正が行われた。最大の改正点は、専任研究員の設置が初めて明記されたことである。旧規則では、協議員会の議決を経て所長が研究員を嘱任し、研究員の研究・調査・試験への従事ならびに成果の報告、また研究員の打合せ機関としての研究員会を組織することが言及されていただけで、研究員は理工学部本属教員が兼務していたのである。更に、嘱託および助手に関する規定が新たに加えられて、三十三年四月一日施行の左の規則に見られるように人的体制が整えられた。

理工学研究所規則(抜粋)

第五章 研究員、研究部会および研究員会

第二十一条 この研究所に、研究員若干名をおく。但し、研究員は、学部を本属とする教員をして、兼任させることができる。

第二十二条 研究員の身分は、教授、助教授および講師の三種とする。

第二十三条 研究員の嘱任および解任は、管理委員会の議を経て、大学がこれを行う。

第二十四条 専任研究員については、早稲田大学教員任免規則を準用する。

第二十五条 研究員は、研究、調査または試験その他この研究所の事業に従事する。

2 所長は、研究員に対し、随時研究報告を求めることができる。

第二十六条 研究部会は、付託された研究事項ごとに、配属された研究員をもつて組織する。

2 研究部会には、その部会を統括するため、主任者一人をおく。

3 前項の主任者は、管理委員会の議を経て、所長が指名する。

4 主任者は、付託された研究事項につき、その進行情況を所長に報告するものとし、必要に応じて意見を具申することができる。

第二十七条 研究員は、研究員会を組織する。

2 研究員会は、研究、調査その他の重要事項について、所長の諮問に応じ、または所長に建議することができる。

第六章 嘱託

第二十八条 事業計画の実施上必要があるときは、臨時に嘱託をおき、研究、調査等に参加させることができる。

2 嘱託は、管理委員会の推薦に基き、大学がこれを嘱任する。

第七章 助手

第二十九条 この研究所に、助手若干人をおくことができる。

2 助手は、研究員を補佐し、その命を受けて、研究、調査その他この研究所の事業に従事する。

3 助手は、管理委員会の推薦に基き、大学がこれを嘱任する。

なお、鋳物研究所の規則もこの頃改正されたが、改正点は右の規則改正とほぼ同じである。

四 比較法研究所の設置

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 昭和三十二年の学苑創立七十五周年を記念しようとの意欲が研究機関の創設――あるいは復活と言うべきか――を促した例が比較法研究所である。直接のきっかけは、法学部教授中村宗雄が昭和二十九年八月パリで開催された第四回国際比較法学会に日本学術会議から派遣されたことに遡る。これに出席して中村が知ったのは、第二次大戦後の国際関係の緊張と緊密化という情勢の中で、外国の法制を研究する必要から各国において比較法研究所の設立がブームになっている事実であった。中村はこの時の感想を左の如く記している。

その際私が痛感したことは、これらの諸国においてはいずれも比較法研究施設が充実していたことである。ことに、ドイツについては、私が一九二〇年から三ヵ年間留学生としてドイツ、オーストリーに滞在した当時には、各大学にはこれという比較法研究所がみあたらなかったのである。当時、有名なイザイ教授(Hermann Isay)が、「ドイツ法思想の孤立」(Die Isolierung des deutschen Rechtsdenkens, 1924)という小論文を書いたのであるが、ドイツ法学は、むしろ孤立をもって光栄としておったように見受けられた。ところが、三〇年振りにドイツを訪問したところ、数多くの大学に比較法研究所が設けられ、ことに、刑法、労働法あるいは国際法などの特殊部門に限られた比較法研究所が設けられているのを見て隔世の感を抱いたのである。それと同時にわが国、わが早稲田大学に比較法研究所を設置することの急務を痛感したのである。(『茶涯学人』 八八―八九頁)

 法学部においては、第三巻九四二―九四五頁に既述した如く、昭和十六年「大東亜新秩序建設」の理念の下に法制の改革・樹立を目的とした東亜法制研究所が設立され、十九年、興亜人文科学研究所に統合されたという経緯があり、また中村自身にも東亜法制研究所時代に研究員兼総務部長の経験があって、研究所復興への願望は強かったのである。中村が立てた構想は、学苑創立七十五周年を機に、先ずは法学部比較法研究室の設置となって具体化され、翌三十三年四月には「比較法研究所規則」が制定され、また研究所人事も決定して(所長・管理委員・研究員兼任、中村宗雄。管理委員・研究員兼任、一又正雄、大野実雄、大浜信泉斉藤金作外岡茂十郎野村平爾、水田義雄。研究員、有倉遼吉、楠本英隆、杉山晴康、高島平蔵、高野竹三郎、中村吉三郎、林義雄、星川長七、中村英郎、内田武吉、佐々木宏、島田信義、矢頭敏也)、本格的に始動した。研究所規則を抜粋して左に掲載する。

比較法研究所規則(抜粋)

(比較法研究所設置の趣旨およびその名称)

第一条 本大学創立者大隈重信の建学の精神を体し、その創唱せる「東西文明の調和」という理想を時代に即して昻揚・実現するため、本大学に早稲田大学比較法研究所(以下「研究所」という)をおく。

(目的)

第二条 この研究所は、わが国および諸外国の法制を比較研究し、大学における法学教育に資するとともに、世界の学問に裨補することを目的とする。

(事業)

第三条 この研究所は、前条の目的を達成するために、左の事業を行う。

一、研究および調査

二、研究および調査の成果の発表

三、研究および調査の指導および助成

四、研究および調査の受託

五、研究資料の蒐集、整理および保管

六、研究会、講演会等の開催

七、その他この研究所の目的達成に必要な事項

(管理委員の嘱任およびその区分)

第十一条 管理委員は、左の区分により、大学が嘱任する。

一、第一法学部長、第二法学部長および大学院法学研究科委員長

二、大学院法学研究科の授業を担任する第一法学部および第二法学部本属の教授の互選による者 若干人

三、管理委員会が推薦する者 若干人

(研究員およびその任期)

第十五条 この研究所に研究員若干人をおく。但し、研究員は、学部を本属とし、比較法学ならびにこれと密接な関連のある研究に従事する教員をして、兼任させることができる。

(研究員の身分)

第十六条 研究員の身分は、教授、助教授および講師の三種とする。

開所後、直ちに管理委員会ならびに研究員会が開催されて、運営の大綱が決定されたが、「当面の課題」として、アジア各国、近東、南米の法制の研究に重点が置かれたことが特色として注目される。

五 語学教育研究所の設置

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 三十年代初めに大学関係者の間で問題にされたことの一つは、旧制大学卒業生と新制大学卒業生との学力比較であった。とりわけその比較の基準となったのが外国語能力である。新制大学卒業生のそれが旧制大学卒業生と比較して劣っていると感じられたのである。それがどれだけ学制変更に起因するかどうかはともかく、学苑としても問題検討のための機関を設けることとし、各学部の語学担当教員から選ばれた十八名を以て、文学部教授渡鶴一を委員長とする語学教育研究委員会が三十二年一月十四日に発足した。この委員会はそれから約一年間に六回ほど会合を重ねて検討を行い、翌三十三年三月三日に報告書を大浜総長に提出した。この間に委員によって分析・整理された問題意識の一端は、教育学部教授五十嵐新次郎の当時の所見に窺うことができる。

外国語教育を推進するには、先づ、外国語学習の際の抵抗を追求し、組織的にその解明を試みて行く必要がある。……外国語学習の際の抵抗の解明には、外国語自国語両者の(云はば形態学的、生理学的)解明が必要である。幸い、この面ではアメリカで、人類学から分化発達した構造言語学が言語分析の方法を発達させている。しかし……、併せて言語の意味論的解明、心理学的解明、社会学的解明、文化人類学的解明を行って行かなくてはならない。これは、またやがて、政治、経済、法律、文学、教育、思想その他文化一般を含む地域研究とも関聯して来る。外国語教育の分野は、もともと、外国語という言語と、教育との境界領域である。そこで、言語の多角的研究と共に、外国語の学習との関連に於て、教育面の研究、特に教育心理学、またその中でも特に学習心理の研究を行はなくてはならない。 (『早稲田大学新聞』昭和三十三年一月二十一日号)

報告書では、授業時間の増加といった現実的な改革案から外国語学部新設のような制度改革の見通しまで掲げられたが、特に力点が置かれたのは、教授陣の充実という要求であった。その具体的方法の一つとして、研究機関を設けて語学担当教員の研究活動とともに優れた担当者の養成が構想され、この研究機関を「外国語教育研究所」と仮称したのである。既設の研究所と同様の規程案まで練り上げられ、あとは大学当局の決断に委ねられることになった。

 実際、総長再選直後の大浜信泉も、「私が平素痛感していることは、外国語教育の改善の問題である。日本の語学教育ほど非能率的なものはないといえよう。……いままでは本が読めればよいとされていたが、国際交流がさかんになってくると、言葉のナシ。ナリズムにとらわれていたのでは損をするばかりである。この問題については、何とか適当な措置を講じたいと思う」(『早稲田学報』昭和三十三年十月発行 第六八四号 三頁)と改革に積極的な姿勢を見せた。この「措置」とは、三十三年九月二十三日付の『早稲田大学新聞』で報道された「語学研究所設置計画」を指している。報道は、総長再選後の初仕事として、ミシガン大学の語学研究所(The Language Institute)と提携して同種の機関を設ける計画で、その費用についてはアメリカのフォード財団と交渉中という内容である。

 この積極姿勢の所産として、翌三十四年七月一日、法文系大学院校舎(現七号館)三階に教務部所属の形で語学教育研究室が設置された。室長は、語学教育研究委員会が先に報告書を提出した時点で委員長を辞任した渡の後を襲った文学部教授川本茂雄で、研究員スタッフは宮田斉(英語)、五十嵐新次郎(英語)、川本茂雄(仏語)、中村浩三(独語)、小川利治(露語)、笠井鎮夫(西語)、安藤彦太郎(中国語)、それに教務部長の古川晴風であった。スタッフの専攻語学に見られるように、主要欧語と中国語を中心として、これら外国語に関する講座開設、図書・テキスト・教材および視聴覚機材の整備と利用サーヴィスを事業目的とする一方、設置翌年にはポルトガル語講座を開講して対象外国語の範囲を拡大、更に研究調査発表誌の発刊および語学教授者研修の計画を進めた。学生に対する科外講座として、英語二講座、米国語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ロシア語、中国語各一講座が設けられた。特に視聴覚機器を使って音声に重点を置いた教育が試みられ、教室不足・予算不足の実情を抱えながらも、研究室設置翌年の講座開講に当っては、「設備の整備に努力を傾注し、諸先生の教授上の御役に些か立ち得べき活動を開始する段階に到達いたしました」(『語研案内』昭和三十五年四月発行 第一号 巻頭言)と報告できるまでになったのであった。ここでもう一つ特筆しておかなければならないのは、外国人学生のための日本語教育が事業計画に加えられたことである。これは前記研究委員会の報告書には含まれていなかったものであるが、昭和二十九年以来教務部で行われていた学苑の外国人留学生に対する日本語教育の規模拡大の必要が迫られていたため、研究室規程制定の段階になって、これを語学教育研究室に移管するのが望ましいと判断されたのである。

 こうして研究室が軌道に乗ったところで、三十五年八月二十七日、川本室長がフォード財団およびフルブライト奨学金によりミシガン大学に留学し、また翌年九月十三日には宮田斉がフルブライト研究員として渡米した。研究課題は両名とも「外国語教授法の研究」であった。川本は三十六年一月のミシガン大学中間卒業式に来賓として出席し、その時行われた早稲田大学総長大浜信泉に対する同大学名誉博士号贈呈に立ち会った。翌三十七年三月十三日、川本の帰国を待って、研究室から研究所への昇格が日程に上り、同年十月一日、語学教育研究所が誕生した。

語学教育研究所規則(抜粋)

第二条 この研究所は、主要な言語につき、言語学的研究および教育方法の科学的研究を基礎とし、語学教育の向上に資することを目的とする。

第三条 この研究所は、前条の目的を達成するために、左の事業を行う。

一、語学および語学教育に関する研究、調査ならびに研究成果の発表

二、語学教育者および語学研究者の養成ならびに研修

三、語学および語学教育に関する資料の蒐集、保管ならびに貸出

四、語学および語学教育に必要な視聴覚教育器具、資料の整備、保管ならびに貸出

五、語学教育のための教材の作成

六、この研究所において実施することが適当と認められる語学教育

七、外国人のための日本語教育

八、研究会、講演会、講習会等の開催

九、その他この研究所の目的達成に必要な事項

研究所組織として、所長、教務主任、管理委員(および管理委員会)、研究委員(および研究委員会)、嘱託および助手、委託研究者、事務主任および事務職員の嘱任、任期、職務、資格等が定められた。設立時の中心スタッフとして管理委員と研究員を兼任した教授は、安藤彦太郎(政)、数江譲治(法)、小川利治(文)、川本茂雄(文)、古川晴風(文)、宮田斉(文)、渡鶴一(文)、五十嵐新次郎(教育)、中村浩三(理)、東浦義雄(理)であった。

六 電子計算室の開設

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 語学教育の改善要求の高まりとほぼ時期を同じくして急速に盛り上がってきたのは、科学計算の分野の整備・充実である。この点で先鞭をつけたのは理工学研究所で、昭和三十年度文部省輸入機械購入補助金八百万円の交付を受けてボーイング社製アナログ型電子計算機を購入した。電子計算機の導入で微分方程式の解法、自動制御法の解析にとどまらず、統計の処理も可能となった。三十一年二月には前述したように生産研究所が設立されて重点研究としてオペレーションズ・リサーチが採り上げられ、理工学部はもとより、政治経済学部や商学部でもシミュレーシ。ン・モデルを駆使した計量的研究が盛んになってくる情勢の下で、大型電子計算機設置を要望する声が急速に高まってきた。この機運の中で、学苑当局もそれの導入の必要を認め、機種の選定を生産研究所の計数型電子計算機研究部会に依頼した。同研究部会では、ミシガン大学派遣の研究員にアメリカにおける電子計算機の使用状況や性能を調査させ、国産品との性能や価格の比較・検討も併せて行い、その結果三十三年九月、ローヤル・マックビー社製LGP30号の購入が決定された。その直後、十月に富士写真フィルム株式会社より国産第一号電子計算機FUJIC1号および2号の未組立品が学苑に寄贈され、理工学部実験室で組立・調整が行われて、翌三十四年三月十四日に一般公開され、研究に供された。そして、同年八月にLGP30号が生産研究所(二七号館)に届き、稼働を開始するに至った。こうして、理工学研究所、理工学部、生産研究所と三箇所に分散された形で電子計算機が据えつけられたわけである。

 しかし、三機種もの電子計算機を個別に運営することは、経費・人員配置の上からも非能率であり、利用者の側からも不便であった。そこでLGP30号の設置を機にこれらを一括管理し、利用効率を高めることを目的に、電子計算室を教務部直属で二七号館の二階に設けることになった。そして十月八日には理工学部教授難波正人を室長、難波、古川晴風(文)、岩片秀雄(理)、河辺㫖(政)、林容吉(商)、保田順三郎(政)、井上勇(理)の諸教授を管理委員とする人事が、技術委員八名、計算委員七名、事務主任一名の人事とともに発令された。電子計算室は純然たる研究所ではなく、研究・教育を支援するための機関である。

 電子計算室開設の昭和三十四年の頃は、コンピュータの歴史から言えば、真空管を用いたいわゆる第一世代からトランジスタを用いた第二世代への移行期、つまり、性能が一桁以上向上する段階に当っていた。従って、機器・設備の拡充が速やかに図られなければならないと同時に、これを使いこなせる人員を早急に養成する必要があり、このため早くも同年十二月には教職員・大学院生を対象とした講習会が技術員・計算員を講師にして開かれ、以後、対象を学部学生にまで拡げて、夏季学期に講義と演習を課して正規の単位として認定されることになった。機器の充実は、三十六年に日本電気のデジタル型NEAC2203、横河電機製作所のアナログ型交流計算盤が、三十七年にはパッカード・ベル社のディジタル型Pb250、東芝のディジタル型TOSBAC3121、日立製作所の低速度アナログ計算機、また周辺機器としてIBMのパンチカード・システムが同時期に導入されて進められ、電子計算室は「機械が一杯でゆっくり計算する余地のない」(『早稲田学報』昭和三十七年四月発行 第七二〇号 三二頁)ほどになったのである。

 その後、四十年八月末に西大久保キャンパス理工学部一一号館へ移転、先端的研究設備を誇った電子計算室も、怒濤の如く進む技術革新とそれに伴う既設機器・システムの急速な陳腐化の波に翻弄されて必ずしも順調でない道を歩むことになるが、やがて学苑創立第二世紀に入って、学苑の情報システム化の中核の役割を果すべく情報科学研究教育センターへと改組されていくことになる。

七 派遣留学生制度から在外研究員制度へ

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 戦時中に中断されていた学苑の海外留学生制度を復活すべく昭和二十五年に設けられた「早稲田大学留学生規則」により実際に留学生が派遣されるようになったのは二十八年度からであり、その実績は第四巻一一五〇―一一五二頁に二十九年度まで示した。引続き、この制度による三十年度以降の派遣実績を、同制度が廃止されて在外研究員制度が設けられた四十二年度に入る前までについて先ず表示しておこう。

第十六表 早稲田大学派遣留学生表(昭和三十年五月―四十一年九月)

(各年の『定時商議員会学事報告書』より作成)

 本百年史においてこの一覧表(第一巻九三〇―九三三頁、第二巻七〇八―七〇九頁、第三巻七三九―七四二頁、第四巻一一五二頁)は五回目のものであるが、第四巻以降掲載形式が変更されている。それは留学の実態ないし性格の変化の反映でもある。変化の第一は派遣教員の高齢化であって、これは戦時中に留学生派遣が長期に亘り中断したことによる。表中の教員のうち、木俣が講師の身分、草川・平嶋・金沢・内山・矢作・矢島・本村・木村・戸室の九名が助教授の身分で出発したのを除けば、あとはすべて教授である。第二は留学期間が戦前と比べて短期化していることである。一年以上に及ぶ例はごく少数であり、大多数は一年以内、更に約半数は半年以内となっている。第三は留学内容の変化である。すなわち、航空機の普及の結果渡航時間が大幅に短縮されたとはいえ、傾向として、特定の大学なり機関なりで相当期間腰を据えて研究に従事するよりも、研究対象地域での現地視察、調査、資料蒐集、あるいは学会出席など、総じて現地調査や研究交流の色彩が濃厚になってきた。しかしやがて、外国政府なりその他の機関なりの奨学制度や研究者招聘制度、更には私費により海外に留学する助手・講師クラスの若手教員の数が増えてくるに及んで、既存の「留学生規則」では対応できないとの認識が生まれた。そこで、種々検討のすえ四十二年「留学生規則」が廃され、二月十五日、新たに「在外研究員等規則」が制定され、四月一日より施行された。この中で「在外研究員」とは「その専攻する学問分野について研究し、教授および研究の能力を向上させることを目的として、本大学の経費により、海外に派遣される専任教員」(第三条第一号)と定義され、その任命および義務については、

第四条 在外研究員……は、教授会等の推薦した候補者につき、大学が命ずる。

2 海外に出張しまたは留学しようとする者は、教授会等の議を経て、大学の承認を得ることを要する。

第七条 在外研究員は、帰国後、研究の成果をもって大学における研究および教育に寄与するよう、努めなければならない。

(『早稲田大学広報』昭和四十二年三月三日号)

と規定されており、特に第七条は「留学生規則」第七条の奉職義務規定を帰国教員への信頼規定に代えたものである。

 新規則に基づき、規則施行に必要な事項が「在外研究員等規則施行規程」として二月十六日付で明示された。その要点は、先ず、在外研究員を長期派遣在外研究員と短期派遣在外研究員との二種類に分け、長期を十ヵ月以上一年以内、短期を四ヵ月以上六ヵ月以内と定めたことで、これは前記「留学生規則」の下での実績の追認と言えなくもない。派遣人員の決定、候補者推薦の必要手続、必要書類(研究計画概要書、誓約書、出発届、帰国届、研究経過報告書)についての規定に続いて、とりわけ腐心したのが俸給および研究費についてで、旧規定では「留学生」に対しては俸給・諸手当の支給が出発の翌月から停止され、その代りに留守手当が被扶養者数に応じて支給されるとなっていたのが、新規定では「在外研究員」に対し三年を限度として俸給・諸手当の全額が支給されることになった。これは、当時の在外研究費の金額、国立大学を含めた他大学の給与、旅費のあり方、海外派遣の現実の性格、更には在外研究員の現地での出費状況を考慮しての改定である。在外研究費支給額についても長期派遣の場合と短期派遣の場合との二本立てとなり、しかもこの金額は個人に対してというより派遣箇所(学部等)への割当という性格を持ち、「派遣箇所は、……割当てられた金額を適宜配分することができる」との規定により、教授会は事情に応じて長期派遣一名を送る代りに短期派遣二名を送ったり、短期三名分で長期二名を送ったりするなどの弾力性が与えられた。更に、在外研究員が現地で資料蒐集に当るとか、研究期間を延長するとか、特別の視察旅行を計画してそのための経費を必要とするとかの場合には、在外研究費の四分の一を限度として貸付を行うことができるとの規定も設けられており、とりわけ在外研究活動のフィールドワーク化への対応がなされていることが特徴として指摘できる。

 なお、派遣留学生や在外研究員の制度とは別に、外貨割当が窮屈であった時期にあって、私立学校教職員の研究助成を目的として昭和三十一年に発足した財団法人私学研修福祉会が三十二年度から開始した海外研修助成事業も、学苑教職員にとって貴重な機会を提供してくれるものであった。この事業が五十年度に政府予算の私立大学経常費補助の枠に組み込まれる前までの十九年間に、学苑からは三十六名の教職員が助成を得て海外に赴いている。概ね半年以内の短期滞在が多いのは、学会や国際会議などの出席または調査・視察を目的とした例が多いことの反映であるが、若手教員が一年ほど滞在して留学の成果を上げている例も少くない。

八 研究助成

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 昭和二十六年四月一日に始まった特殊研究助成費の制度(第四巻一一五四―一一五六頁)は実に十四年間に亘って、意欲溢れる教員に研究の便宜を図ってきたが、四十年四月に至り方針が変更された。すなわち同月二十一日の理事会で、「特殊研究助成費規程」の廃止と、これに代る「教員図書購入費規程」の制定が決定し、四十年度から実施されたのである。新規程の主旨は、「専任教員が各自の選択により、研究上必要な図書その他の資料を購入し、かつ、在任中その専用に供することができ」(第一条)、「配分を受けた金額の範囲内において、各自の選択に従い、その研究の推進上必要な図書、標本、その他の資料を購入することができる」(第四条)点にあった。各教員への配分基準は各学部、体育局、学校、研究所に任されたが、いわば選択的・重点的研究助成から全面的研究助成への転換だったのである。四十三年度の政府予算に私立大学教育研究費補助金が新たに計上されると、その趣旨に則り四十三年十月に「教員図書購入費規程」を廃して「教員研究費規程」を制定、四月に遡って適用したが、研究助成費はこれにより、図書購入に限らず学会・研究出張や教育・研究用の機械・器具購入などの費用にも充当できるように拡大された。更に、次編第十一章に後述する如く文部省が四十六年四月一日に「学校法人会計基準」を定めた際に研究費が個人研究費と共同研究費とに区分されたのに伴い、同月「教員研究費規程」は「個人研究費規程」に衣替えして現在に至っている。

 ところで、教員全員に対する研究助成費は一定財源の細分化が避けられず、研究の継続あるいは深化のためには不十分となることがある。そこでこの制度とは別に個人ないし共同による特定の研究課題を指定して、これに集中的に補助費を配分する制度が昭和三十一年度より「指定課題研究助成費」として発足した。その規模ならびに実態を同年度の実績に限って例示しよう。

第十七表 指定課題研究助成費(昭和三十一年度)

(『定時商議員会学事報告書』昭和三十二年 三三―三四頁より作成)

因に同年度に教員個人に対して割り当てられた特殊研究助成費は、学部ごとに配分方法が違っていたものの、一人当り平均で一万円から二万円台の水準であったから、これに比べると指定課題研究助成費は、単純に計算して一件当りその十倍から四十倍ほどが支給されたことになる。その後の推移を見ると、四十五年度までは各年度とも十件前後、金額も一件当り三十万円から百万円までが殆どであったのが、四十六年度以降になると助成費総額も件数も増え、年度によっては十九件を数え、一件で四百万円を超える例も出てきた。五十四年四月、この制度を充実させるべく「研究助成基金」が設定され、「指定課題研究助成費(個人)」と「特定課題研究助成費(共同)」との二種類に分けて一層きめ細かな研究助成が行われるようになった。五十七年度実績を見ると、前者は三十件、一件当り平均助成額約二十万円で、後者は十七件、最高助成額四百九十五万円、平均二百六十万円となっている。

 研究活動には当然成果が伴う。その成果を世に問う一つの方法が出版であるとすれば、出版の実現に資することを以て研究助成は点睛の運びとなる。昭和三十五年度より「学術出版補助費」の制度が設けられたのは、かかる意義を持っていた。左に初年度実績を掲げる。

第十八表 学術出版補助費(昭和三十五年度)

(『定時商議員会学事報告書』昭和三十六年 五四頁より作成)

以後、これにより、営利図書として市場に流通することが見込めない、地味ながら貴重な研究成果が日の目を見ることになった。一例だけを挙げれば、法学部教授外岡茂十郎らが編纂し、学士院賞を受賞した『明治前期家族法資料』(全十一冊、早稲田大学刊、昭和四十二―五十三年)は、四十二年に学術出版補助費が支給された労作である。

 なお、第四巻一一五三頁に前述した人文科学研究所への派遣研究員制度は、三十年四月に同研究所が大隈記念社会科学研究所に改組された際に消滅した。しかし、教員を一年間講義の負担から解放して研究に専念させるという研究助成制度はその後も引き継がれ、三十二年度には「国内研究員」と呼ぶようになったが、これを裏付ける規程が制定されたのは漸く四十五年三月のことである。