第六次校規改正は、三十六年二月、「法人役員の選挙を明年に控えているが、先の改正〔第四巻一〇九四―一〇九五頁に述べた二十八年の第四次改正〕より六年余り経過した校規を検討する必要があるのではないか」と、丹尾磯之助が定時評議員会で質問したのが発端であった。五月の定時評議員会でも野島寿平が「理事会には校規を改正する意思があるのか」と質した。こうした質疑の背景には、理事が多忙を極め、評議員らが理事に面談したいと思ってもなかなか会えず、会って相談しても理事が即決できないという事情があった。島田孝一総長時代の二十七年に理事会自ら理事増員案を評議員会に諮って否決された経験に鑑みて、内心渡りに舟と思ったであろう大浜信泉総長は、小冊子にまとめられた『早稲田大学校規』を七月の定時評議員会で全員に配付して、「改正の必要性を夏休み中に検討していただきたい」と依頼した。九月に開催された定時評議員会は、法人役員の定数や任期その他について改正する必要があると認め、校規及び同付属規則改正委員会の設置を決めた。
理事会、各学部教授会、主事会等より選出された学内委員二十名と、評議員会および商議員会より選ばれた学外委員十五名との左の合計三十五名で構成される委員会は、十一月八日に初会合を開き、委員長に安念を、副委員長に外岡を選んだのち議事に入った。改正を要すると各委員が考える点についてさまざまな意見が出されたので、問題点を整理するため、九名(*印)より成る小委員会を発足させることになった。
学内委員
岩崎務 大塚芳忠 大西邦敏 大野実雄 樫山欽四郎 北村正次 黒田善太郎 斎藤一寛 末高信 杉山博 高橋赳夫 鶴田明 外岡茂十郎 中島正信 難波正人 野村平爾 平田冨太郎 村井資長 山崎秀夫 吉村正
学外委員
浅川栄次郎 阿部賢一 安念精一 磯部愉一郎 市川繁弥 黒板駿策 中尾徹夫 中山均 難波理一郎 丹尾磯之助 原安三郎 前川喜作 松本元 毛受信雄 渡辺伊之輔
小委員会は十一月十五日、二十五日、十二月二日の三回に亘り校規および付属規則について全面的に検討し、特に改正を要すると思われる問題点を整理して委員会に報告した。それは、校規に関しては、理事増員、理事選出区分、理事および学部長の任期と選挙期との関連づけ、評議員に図書館長や付属機関選出者を加えることの可否、評議員に欠員が生じた際の補充方法、顧問制の新設の六項目であり、「総長選挙規則」については、直接選挙と間接選挙の得失、総長候補者選考制度の得失、選挙人の数および選出区分の三点、「商議員会規則」に関しては、商議員の増員であった。委員会はこれを承けて十二月十八日と翌三十七年一月十九日に意見を出し合い、更に右問題点につき具体案を練るための小委員会を、先の小委員会のメンバーに大塚、大西、黒田、難波正人、野村、黒板の六名を加えて発足させた。同小委員会も二月三日、十七日、三月三十一日、四月十六日、五月八日、十五日、二十四日、六月七日と精力的に会合を重ねて項目ごとに審議した。理事会に機動性を持たせるため常任理事に専決権を与えた上で理事を増員すること、および、理事の欠員補充を容易ならしめるため、学内理事・総長推薦理事・学外理事の選出区分枠を取り払う代りに学外理事は三名を下らないよう歯止めをかけることに関しては異論なく意見がまとまった。また、学内評議員の欠員は直ちに補充され易いので、評議員の欠員補充は学外評議員に五分の一の欠員が生じた場合に限定することと、職務上の評議員に図書館長を加えることも、比較的容易に意見がまとまった。更に、評議員の若返りを意図して、長老評議員に名誉評議員の名称を与え顧問として遇する制度は、校規でなく別の規約で定めることとなった。他方、学部長の任期を二年から四年に伸長して理事の任期四年と同一にし、役職者の改選期を一致させてはとの提案は、校規を改めるほどのものではないという理由で採択されずに終った。
最も論議を呼んだのは総長選挙制度であった。学苑では、限られた人数の選挙人を各選挙区で先ず選び、次いでその選挙人が集まって総長を選挙するという間接選挙制を採用している。しかし、既に選挙人選挙の段階で、選挙人が資格により制限され、また、当選した選挙人が誰に投票するか分らないので白紙委任に近いという不満がある。次に総長選挙人会の段階では、総長候補者が前以て絞られていないため総長となるべき人物がどのような抱負を抱いているか分らないという曖昧さがある。総長選挙制度発足以来根強く存在していたこれらの不満は、今回も学内委員の多くが訴えただけでなく、教員組合も選挙方法民主化の要望書を小委員会に提出した。小委員会は総長候補者選考制度について協議したものの、選考委員の選出方法や構成に関して妙案が浮かばず、暗礁に乗り上げた。選挙人を拡大した直接選挙制も検討されたが、文学部や理工学部のように多数の教員を擁する学部と政治経済学部のように教員数が少い学部との投票の比重をどう扱うかという問題が絡んでくるし、校友を無制限に参加させるのも不可能というわけで、これも見送られた。しかし、選挙に参加する人数を増やすことには誰も異論を挟まず、選挙人の選出母体と人数とが検討された。学内選挙人を増やせば学外選挙人も増やさなければならないから、付置研究所の教員を評議員に選ぶことは見送る代りにこれらを新たに商議員に加えるのと同時に、学外の総長選挙人の母体である学外商議員も増員することで決着を見た。間接選挙制は維持するけれども、直接選挙制に近づけるための努力が払われたのである。
小委員会の検討結果は委員会に報告され、委員会は六月十三日第四回会議を開きこれを採択、十五日に評議員会長小汀利得に「校規および附属規則改正要綱」を提出した。この要綱は、理事・評議員・名誉評議員に関する三項目と、総長選挙方法と、「商議員会規則」に関するものとから成り、少数意見をも付記する形でまとめられている。
七月十六日に開かれた定時評議員会ではこの要綱が議題となり、若干修正された改正案が採択された。「総長選挙規則」と「商議員会規則」については次節に譲り、校規に関して改正の要点を摘記すると以下の如くである。すなわち、理事を二名増員して十一名以内とする(第十一条)。理事の選任につき、教職員の評議員からは三名以内、教職員でない評議員からは二名以内、総長の推薦する評議員は三名以内と区分ごとに定められていた人数制限を削除し、その代りに、「この法人の教職員でない校友のうちから選任する理事は、三人を下ってはならない」と謳った第三項を新設する(第十三条)。総長職の代行について定めた第十六条を第十七条とし、常任理事に関する第十七条を第十六条に繰り上げ、任意制であった常任理事を必置機関と明定したほか、総長代行者を常任理事に限定して総長があらかじめ順位を指名することとし、更に、常任理事でない理事にも業務の一部を担当させることができるように改める。また図書館長を評議員に加えて評議員を五十八名とし(第二十五・二十六条)、評議員の欠員が定数の五分の一以上に達したときの補充は学外評議員の場合に特定する(第三十七条)。このように決定されたので、翌十七日付で文部大臣宛に申請書を提出し、八月三日認可、九月一日より実施した。
第四巻に前記した如く、昭和二十七年、理事の七名から十一名以内への増員案は流産し、二十八年の改訂でも九名にとどまった。それがここに至って、大きな反対もなく実現したのであった。それが可能になったのは、助手を除く教員数が約千二百七十人に、臨時雇用者を除く職員数が約七百六十人に、学生・生徒総数が約三万六千五百人を数えるという学苑の大膨張に伴い、円滑な運営に支障を来すようになったためであった。
ところで、今回の校規改正に際し、総長の諮問機関として顧問の創設が考慮されたことは先述の通りであるが、これは名誉評議員に結実した。当初の案では長老評議員のみが対象と考えられていたが、評議員会に諮る段階で範囲が拡げられた結果、「本大学の特別の功労者又は特別の縁故者であって、その識見、経験、地位等に照し、その協力を求めることが特に大学の発展に寄与すると認められる者を委嘱する」(第二条)ことを趣旨とする「名誉評議員規則」が八月八日付で制定、九月一日から施行されることになった。同月、この規則に基づき石橋湛山と松村謙三が、三十九年六月には大隈信幸と島田孝一が委嘱されている。なお、今日の「名誉評議員規則」は昭和六十一年四月に全面改正されたものであり、ここで述べた規則とは性格を異にしていることを付記しておく。
校規が改正されるたびに、法人の構成員に変化が生じた。ここで、戦後の変化を要約し、趨勢をたどっておこう。
前節に説述した校規改正後の昭和三十七年九月に法人役員が改選され、十月に学苑は創立八十周年記念式典を挙行した。その時点での早稲田大学の組織は第十図に示す通りである。すなわち、最高議決機関である評議員会と、執行機関である理事会と、業務および会計の状況をチェックする監事と、諮問機関である商議員会とで学校法人が構成され、この法人が、大学院・専攻科・学部・体育局・高等学校の教育機関と、図書館や研究所の付属機関を設置し、これらを円滑に運営するために事務機構を組織する。法人組織に関する大変化は、第一に昭和二十六年の財団法人から学校法人への変更であり、第二に昭和二十一年の総長公選制採用である。財団法人時代には最高議決機関は維持員会、諮問機関は評議員会と称し、第二十三表に示すように維持員はすべて評議員の間から推挙または選挙されていた。そ
の評議員は、第二十四表に示すように、維持員会が推薦する者と、学部・付属学校の教員から選挙された者と、職員が組織する主事会で互選された者のほか、校友会本部が互選した者と、校友会規則に基づき各支部で選出した者とで成っていた。最後者は若干名とされているが、第四巻四一九頁に解説した如く、その人数は百名を大幅に上回る。第四巻一〇七九頁以下に既述した如く、学校法人への組織変更により、維持員会は評議員会に、評議員会は商議員会に改称されるとともに、新評議員会の構成が手直しされたが、特に二十八年の改正が重要な意味を持っている。それは、第四巻一〇九四頁に指摘したように学部教授会と職員の意見が直接反映されるようになったにも拘らず、校規及び同附属規則改正委員会がまとめた学外評議員三名増案が評議員会に提示された際に評議員会の強い要請で八名増と修正され、学外評議員の比重が増したからである。この増員は次に述べる総長選挙人の増員とも連動していた。
第二十五表 総長選挙人の選出母体と選出員数(昭和21―43年)
さて、法人の代表者である理事長と、教育・研究部門の最高責任者である学長とを別個に戴いている私立大学が多い中で、早稲田大学はこの両者の機能を同一人に兼務させて総長と称している。学苑がこの方式を初めて選択したのは財団法人時代の大正十二年五月であり、それは昭和二十六年の財団法人から学校法人への組織変更の際にも堅持された。しかし、総長制は校規改正のたびに問題となり、理事長・学長分離論が必ずと言ってよいほど現れたが、大学のような教育・研究機関では組織運営上の意見の衝突が生じないように、理事長・学長非分離論が一貫して多数を制してきた。こうした性格を持つ総長は、昭和二十一年、理事の互選制から総長選挙人による公選制へと大転換した。その総長選挙人の選出母体と人数の推移は第二十五表に示す通りである。これから二つの局面変化が窺われる。第一は、先に述べた二十八年の学外評議員増員と連動して、校規及び同附属規則改正委員会がまとめた学外選出総長選挙人十名増案が評議員会で二十名増に修正されたことである。とりわけ学外商議員選出の総長選挙人の数が増えたが、これは校友が十万人を超えたことが理由とされた。総長選挙規則のこの改正により学外と学内との総長選挙人の比率は一対二から二対三へと変り、学外の比重が高まったわけであるが、この比率は以後も遵守されている。第二の局面変化は三十七年に見られ、前節に述べたように総長選挙を少しでも直接選挙制へ近づけようとの趣旨により、総長選挙人が大幅に増えた。年一回開催される商議員会の員数が三十三年の三百四十五名から三十七年には四百七名へ増加したのも、これと関連していた。なお、四十年代に入ってから社会科学部の創設や第二理工学部および工業高等学校の廃止や産業技術専修学校の開校に伴い校規および付属規則が手直しされたが、こうした法人組織が抜本的に見直されるのは、「学費・学館紛争」後の昭和四十五年である。それについては次編に譲る。