学生運動は、極論すれば、高等教育機関のあるところ常に存在した超歴史的事象である。その理由の第一は、学生は精神的・肉体的に最もエネルギッシュな人々だということである。理想の実現や立身出世への野望を抱き、そのために猪突猛進することのできる人々であると言ってもよい。だから、心身にみなぎる精力のはけ口として、喧嘩・口論は、少くともつい最近まで、学生達の日常生活の一部であった。学生運動は集団的な喧嘩・口論であると言っても決して誣言ではない。
第二の理由として、学生は観念性・独善性が最も強い人々であるということが挙げられる。人間の生活は――動物の生活も同じであるが――他者との折り合い、つき合いの中でのみ営まれる。一人孤立しては決して生きられない。人々の依存関係を社会と言うならば、人間は社会的存在なのである。しかし、あるいはそうであるが故に、人間は自己確認の衝動を持つ。それを主体性の確立と言ったり、個人主義と言ったりする。人々の依存関係すなわち社会と、自己確認すなわち個人とは、従って、本質的に対立関係にある。この対立関係は年齢とともに変化する。大体において、青年期の人々、なかんずく学生は個の主張が強く、社会と対立する度合いが最も高い。学生は社会的合意――それは常識、慣習、あるいは法律といったさまざまなレヴェルにおいて存在する――なるものを総じて軽蔑し、無視することを以て個の確立であると考えがちである。
しかし、歴史的に生成された社会的合意の壁は厚い。青年期を過ぎた人々は学生達を世間知らずとして憫笑し、嘲笑し、学生達の行為の度が過ぎると、これを憎み、抑圧しようとする。抑圧されると、当然、反発が起る。それが結集されたものが学生運動なのであり、それ故に、学生運動は超歴史的な事象なのである。世間知らずの世代と世間にどっぷりとつかった世代との間の深刻にして、華やかで、また見方によっては滑稽な対立・抗争、それが学生運動なのである。
第三の理由は、学生はイデオロギーと呼ばれる歴史的・社会的思想に不思議な魅力を感じる人々であるということである。ここでイデオロギーとは何かとの解釈学に耽る余裕はない。一言だけ触れると、イデオロギーとは、この世――現世――にユートピアを描く共同幻想である。宗教もユートピアを求める観念であるが、宗教の場合のユートピアは彼岸の世界である。この点において、イデオロギーと宗教とは根本的に異る。イデオロギーは思索・思弁によって身につくものであるから、学生のすべてがイデオロギッシュな人間であるわけがない。イデオロギーと最も近親的なのは、知的能力が高く、勉学の労苦を厭わない学生なのである。青年期のエネルギーのみなぎる心身を持ち、世間の常識を軽蔑し、しかもイデオロギーの鎧を着した学生、彼らが学生運動の中心、つまりリーダーになるのは当然であろう。
学生運動は、従って、三つの類型に分けられる。第一の類型は集団的喧嘩・口論である。何か不満があれば――不満のない人はいないが、青年期の人々、特に学生達は強い不満を持つ――煽動者、組織者の手によって、すぐに火をつけて運動化することができる。しかし、喧嘩・口論であるから、長続きはしない。心身に溜ったエネルギーが一定量発散されると、多くの学生は運動に飽きてしまう。次に、第二の類型は、反社会・反常識のレヴェルで曖昧な思想を持っている学生とイデオロギーを信じる学生とによって明確な指導・同盟関係の下に展開される運動である。当然、運動の規模は量的には第一類型より小さいが、質的には大きく、激しい。しかし、それも長続きしない。社会の壁の厚さを実感するにつれて、運動から脱落するからである。いわゆる日和っていくのである。日本の場合、社会は世間と言われる。世間とは多分に感性的、ウェットな人間関係である。欧米における社会は理念的でドライな人間関係なのである。運動を持続させるのは信念であるから、感性的、ウェットな世間に生きる個人は運動の持続には不向きであるとも言える。
学生運動の担い手として最後に残るのは、イデオロギーの鎧を固く身につけた学生達である。彼らの行う学生運動は大きく異る。それは反体制、より端的に言えば革命を目指す政治運動となるのである。大学を拠点とする限りにおいて学生運動と言えるが、運動の性格は政治運動・革命運動となるのである。この第三の類型においては、殆どの学生は学生運動から離れて、いわゆるノンポリになる。政治運動・革命運動を目指す学生は、殆どの学生を自分達から離れた状態のままにしておくわけにはいかない。学生運動と擬装することもできなくなるからである。
ところで、冒頭に、学生運動は超歴史的事象であると言ったが、本章の趣旨に沿えば、より限定する必要がある。先ず、学生運動における前近代と近代の相違である。敢えて過度な一般化を行うならば、前近代は、人間が身分制度によって仕切られた宗教的世界である。それに対して、近代は、身分制度が建前として撤廃された平等社会である。前近代における学生は特権層に属し、学問も宗教的な学問であった。学生数も少く、意識も近代のそれとは著しく異っていた。近代になると、学問を志す人は原則的には大学で学ぶことができ、学問も非宗教的・非教会的となった。とはいえ、近代に入ってもかなり長い間、学生は身分的・経済的には特権層に属した。
高等教育機関たる大学の門が広く人々の前に開かれたのは十九世紀であると言っても大過あるまい。デモクラシーという政治・社会理念が国家・社会の大原則となり、大学はそれぞれの社会を構成する人々の共有物となった。国家・社会は急速に世俗化した。世俗化したということは経済社会化したということである。医学を先頭として、法学、経済学、そして工学が、国家や社会にとって非常に有用な学問となり、それを教える大学の数も増えた。それに伴って、学生数も飛躍的に増加した。学生数の著しい増大は、当然のことながら、大学問題を頻出させることになったが、日本の場合、それは歪と言ってもよい特殊性を持った。特殊性の根源は、マルクス主義的社会主義の著しい流行である。大学に学ぶ勤勉な多くの学生はマルクス主義的社会主義に強く惹きつけられた。ということは、それが学生運動を貫くイデオロギーになったということである。
それだけに、明治半ば以降、政府はマルクス主義的社会主義の浸透を過度なまでに警戒し、大正十四年にはボルシェヴィズムと言われるマルクス主義を原理とする運動を徹底的に弾圧する「治安維持法」を公布した。それは明治三十三年の「治安警察法」を引き継ぎ、罰則を著しく苛酷化したものであった。「治安維持法」によって、イデオロギー色の強い学生運動は窒息せしめられたが、戦時体制の強化に伴って、同法はデモクラシーやリベラリズムをも反国家的な運動根拠として峻巌な取締り対象とした。明治初期以来掲げられてきた学問の独立・自由は、「治安維持法」によっていとも簡単に否定されたのである。
以上、学生運動が前近代と近代とではその意義・形態を異にするところを述べ、更に近代の学生運動も欧米と日本とでは著しく相違することを、日本の特殊性に引きつけて述べた。近代デモクラシーと学生運動との関係、日本の学生運動の多くが異常とも言うべき熱心さでボルシェヴィキ・マルクス主義にコミットした歴史的理由等について、より立ち入った説明を施す必要があるが、本章の主題を超えることになるので、筆をとどめる。戦後の新制大学における学生運動が以上に述べたところと深く関わることはあらためて言うまでもないであろう。それは戦前期の否定、裏返しとして展開した。著しく狭められたデモクラシーは金科玉条となった。そして、真のデモクラシーはブルジョア・デモクラシーの止揚、マルクス主義的社会主義の実現によって果されるとの思い込みが、人数としては少数であるが、イデオロギーへのコミットメントにおいてはきわめて強力であった。異常なほどの大学の増加によって異常なほど増大した学生は、程度の多少こそあれ、ボルシェヴィキ・マルクス主義からの影響を受けた。それは一流大学と言われるところにおいて顕著だったのである。学苑は前記の三つの類型の学生運動をないまぜにする形で、最も華やかな舞台となったのである。
戦後改革、それに続いて経済復興が本格化に向うが、その流れは安保改定反対の大デモンストレーションの渦の中から高度成長の怒濤となっていった。高度成長は社会にさまざまな変化をもたらし、それに伴って諸種の複合的変化が政治運動を作り出していった。しかしながら、これはもともと大発展が引き金となって出てきたことであるから、必ずしも社会革命を目指すような状況が生れてきたということではない。マルクス主義という考え方に立って事態を見ていた人々が、もっと大きな変化すなわち革命の徴候が現れつつあると捉えたという点は、戦前の政治的学生と同様であった。しかし革命は実現せず、現実の中で彼らを待っていたのは、戦前においてとこれまた同様に政治的な挫折であった。街頭で挫折した彼らはどこにもどっていったのか。戦前でも、戦後でも、もどっていく場所は大学しかなかった。彼らは社会的にはあらゆる部分から排除されてしまったため、落ち着き先は大学という場しか残されていなかったのである。高度経済成長が本格化する時期において、政治闘争に挫折した学生達が再起する契機は学生運動であった。社会という場で挫折した結果として、大学が、政治運動を展開する場所(社会)、換言すれば最後の拠点となったのである。
まさにその時、高度成長に伴う多様な歪みが大学内に逆に高まっていた。社会から排除された学生達が新しい運動の拠点を作り、新しい栄養分を得て増殖していく条件が、大学という場では逆に強まっていた。言葉を換えて言えば、世間という圧倒的現実における政治運動の挫折が、戦前においてと同様に、戦後においても、大学紛争昻揚の条件であったという、逆説めいた表現だが、そのような陽極と陰極にもたとえられる関連が見られる。
大学内にあった、学生運動を作り出す条件を二点挙げておこう。一つは、高度経済成長期には所得と物価とにタイム・ラグが必ず出てくることである。大体において所得の遅れの方が大きく、失業などをも含めると、平均的な所得の伸びは物価上昇よりもかなり遅れる。昭和四十年代初頭において、収入増加よりも寧ろ支出増加の方が大きかった。物価水準の方は跳ね上がり、所得水準の上昇はそれよりもだいぶ遅れている。家計で見ると、支出が非常に増えていくのに収入の方はそれほど増加せず、平均的には赤字を生む傾向が家計に現れた。当然のことながら、更に支出を増やすような事態に対しては、学生は非常に大きな不満を抱く。次編第十一章第六節に述べる如く、戦後には小刻みながら何回も学費値上げが行われ、学生の不満・不安は高まっていた。四十一年一月に発表された学費は、それまでよりも三万円も高い八万円であった。実に六〇パーセント以上の値上げである。付帯的な納入額を加算すると、値上げ幅は更に大きなものになった。戦前においても戦後においても、学生はそのような学費値上げを、不満というよりも不当・不公正と感じた。従って、問題なのは、家計への打撃そのものではなく、不当・不公正の感情の醸成である。これこそが深刻な結果をもたらしたのであった。
再言すれば、高度成長期には、物価と所得、あるいは物価と賃金との間にギャップが生じた。それは、賃金または所得がいつまでも物価上昇についていけないという、家計にとっては実に大きなタイム・ラグであった。しかし、大学も消費者であり、支出が急増しているわけであるから、授業料収入を増やさざるを得ない。大学が収支のつじつまを合せようとすると、それは、大学に通う子弟を抱える個々人の家計における収入と支出のギャップを更に拡大する。収入不足と支出超過、すなわち家計の赤字という問題に対し、学費はきわめて大きな影響を及ぼす。従って学費問題は、今日のように高度成長が完全に一段落した時期とは異る、高度成長のある段階に随伴する現象の一つとして、特殊な意味あるいは意義を帯びたと言える。そうした点が戦前にも戦後にも認められる。そこに共通性が見出せるのである。
もう一つの問題は、これは戦後特有の問題と言ってよいであろうが、例えばジョン・K・ガルブレイスが『豊かな社会』とか『新しい産業国家』とか『不確実性の時代』とかという一連の、啓蒙的ではあるが、問題の本質を捉えた著書を出版している。また、デイヴィッド・リースマンが『孤独な群衆』や『何のための豊かさ』を書いたり、エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』を書いている。すなわち、豊かさというものが個人化というものを推進し、個人化というものが孤立化というものをもたらす。そしてその孤立化というものが社会構造の中から滲み出てくる。物質的――商品と言ってもよい――豊かさは人間の物に対する欲求をますます高め、多様化させる。物的欲求は、それが満たされると、より高度の物的欲求をつくり出すという悪循環運動をつくり出す。欲求の増大とそれを満たす手段(所得)との間に大きなギャップが生じるのは不可避である。従って、豊かさは欲求不満という心理的には非常に辛いフラストレーションの原因であると言われているが、それは豊かさの逆説、すなわち、豊かさが不足をつくり出すという人と物との闘争関係にほかならないのである。
それとともに、豊かさがもたらす孤立化というものがある。豊かさは、いい意味で言えば個人主義化・自立化を生むが、個人主義化・自立化は一般にマイナス面をもつくり出す。豊かな社会には、心理的な状況としては孤立感というものが存在して、事実的な現象としては孤独感というものが存する。しかし、孤独と孤立とは異る。孤独は状況を示す言葉であるが、孤立は精神的症状を示すのである。孤独という存在状況は、孤立という非常に辛くて不安な心理状態を産む。孤立が人々に与える大きな不安感は、著しく大きな破壊エネルギーを生産する。
これは一般的に、現代欧米社会で生起した。だからリースマンなどが書いているわけであるが、日本という独特の社会においては、この不安・不満の感情は一層大きかった。すなわち、日本は、必ずしも家族国家であるとは言えないが、集団を中心とする国家であって、それはしばしば家という言葉で表現されてきた。高度成長が進行すると、家という名で呼ばれた群れが壊れていき、また個人というものが既成の組織から疎外されていった。発展・成長過程は深刻な疎外過程を随伴したのである。それは戦前に既に進行していたけれども、戦後においては遥かに大きな規模で進行した。そして両者はともに存在的状況・社会的状況としての孤独というものをつくり出し、心理的には、より深刻な孤立という状況を拡大させた。
孤立と孤独という社会状況と心理状況から出てくるものは何か。それは、例えばガルブレイスが言う依存効果とか、あるいはリースマンが言う他者志向というような、広い意味での群衆的な、悪い意味で言うと付和雷同的な群衆心理を、自己の救済として強く求める態度のことである。これは個人の精神的危機に対する救済手段であり、単に付和雷同として一笑に付することはできない。現代は一見するときわめて主体的なものを持するかに見えるが、本質的にはきわめて非主体的な社会である。救済方法も個人的ではなくて社会的である。強力な主張に依存することにより、自己を救済しようとする。言説や行動の面では、確かにそうである。現代の若者は他人の思惑など気にしない、自由で主体的な人間と言われているが、この解釈は全くの誤りである。彼らをそう見せているのは幼児の持つ無分別――非常識、非社会性――なのである。だから、現代は流言蜚語の社会と言ってよい。こうしたあり方においても、戦前と戦後とは非常に似ている面がある。すなわち、昭和五年を頂点として起った学苑紛争――第三巻四五六頁以下に詳述した早慶野球戦切符事件――は学生の不安・動揺の表現であり、戦後になってそれらは戦後デモクラシーの美名の下に、より大規模に再出した。そのクライマックスが百五十五日紛争なのである。
そうした全体的状況の中で戦後の大学紛争の性格について考えると、如上の状況を前提として、その前提を最大限に利用したのが政治的学生である。戦後の学生運動のリーダーは、「民青派」とか「革マル派」とか「三派連合派」とかの名称からも窺える如く、きわめて党派的な学生達の間から補充されたのであるが、一般学生というフォロアーと指導者との関係は戦前も戦後も変っていない。切符事件に際してそのような政治勢力を特定することは容易でないし、それだけに慎まなければならないが、やはり政治的指導勢力は存在したと考えられる。戦後には、それはきわめて明瞭に存在した。当時の各種の調査、また学苑学生が独自に行ったアンケートなどによると、本当の意味での活動家は学生全体の三パーセントぐらいである。しかし、そのような少数集団によってみごとなまでにリードされたという事実は、三思に値する。彼らは非常に高度に訓練された政治的煽動のプロ集団であり、自己の欲する方向へ一般学生を誘導できるかなり高度のテクニックを身につけていた。そのテクニックを具備していない五千人は、それを備えた五十人に対して無力である。このような言い方は可能であるが、そうした状況はあまり長く続くものではない。従って、学苑の過激な、まさに闘争の文字を使ってよい指導部として、その役割を担った者がきわめて少数であったために、実際には問題は解決されたし、その後は学生が運動についていかなくなることにより、事実上、大学紛争そのものが次第に政治的対立集団(セクト)間の争いとなり、学生運動としては無意味化していった。
集団は団結を強めれば強めるほど国家に似てくると言われる。国家とは懲罰、徴税、言語や服装など生活様式の統合に関わる権力の独占である。非政治的学生から遊離するにつれて、政治的学生の諸集団(セクト)が暴力(懲罰)と資金(徴税)と生活規範の独占に乗り出し、その結果、対立者を殺害することをも正当化するほど過激な行動に走ったのは必然であった。セクトは自己を国家化したのであるから、右に挙げた三つの国家の属性(国家権力)を死守しないわけにはいかなかったのである。いわゆる内ゲバについては本史では論じない。セクトは国家に似てくるとの考え方は、「拠点」の思想・主張、具体的には「学館」の管理権獲得の思想・主張、および「産学協同」排撃の思想・主張をよく説明し得るものであることを以下に述べよう。
政治的には中立の立場をとる大多数の一般学生が圧倒的少数の政治的学生の指導に積極的についていった理由は何か。第一点は、日本における孤独という社会的状況と孤立という心理的状況が作り出す態度、すなわち、一つの大きな群れに依存しようとする心理的な傾向であって、それが最も強い理由ではなかったかと考えられる。第二点として、そのような態度に正当性を与えたものが、これといって特定するのは難しいが、大学に対する大きな不満である。戦後には特に、非常に大きな希望を抱いて大学へ入学したものの、現実の大学は実にくだらないところだ、我々の期待に何ら応えない、入学試験を突破するべく苦労に苦労を重ねたのは一体何のためだったのか、こんな筈ではなかったとの思いが、学生の間に根強い。強くはあるが、特定できないその不満を特定したものが学費問題であった。
学費値上げがなければ不満は意識のレヴェルにとどまっていたろうが、学費値上げは学生に大きなインパクトを与えることにより、それまで漠然としていた不満に形を与えた。問題の顕在化・具体化は、学生の漠然たる不満を抗議行動というエネルギーに変換したのである。高度成長期の家計における収入と支出との大きなアンバランスは、多くの学生に学費をきわめて切実な問題とさせた。それだけに、学費値上げは大きなインパクトとなった。そして、ひとたびそうした状況の中で学費が問題化すると、他者(全体)志向的なメンタリティが加わることにより、一般の学生個々も、大学と自分、すなわち総長や教職員と自分との関係について、考えさせられた。単に考えるだけでなく、その疑問に解答を得ようとした。こうして彼らは学生運動の一員となり、抗議する学生は短期間のうちに甚だ大きな勢力となっていったのである。このように考えると、多くの学生が少数の政治的学生に振り回されただけとは言い得ないものがあるということになるであろう。
しかしながら、一般の学生について右のように言えるとすれば、政治的学生にとってはどう言うべきか。後者にとっては、大学紛争はあくまでも手段であったと考えられる。一般の学生にとっては目的であったものが、それを指導する政治的学生にとっては手段であったという問題が、もう一つの特徴として指摘できる。これは戦前も戦後も同様であったように思われる。
では、政治的な学生にとっては取るに足らないような大学内部の問題がなぜ深刻に取り上げられたのか。それは、戦術として取り上げるに値したからである。その前提には、彼らが政治闘争に挫折したという基本的事実がある。街頭での政治運動に挫折して大学に追い返された政治的学生は、当然のことながら、自己の戦力を再編・強化しなければならない。戦力を再強化するためには組織を再構築しなければならないという切実な問題があった。組織論は彼らにとっては国家論だったのである。学生の間に漠然とした不満があって、それが戦後には学費の大幅値上げにより意識化されたことは、既に述べた。それは政治的学生には組織再編の絶好の機会と捉えられた。政治的学生は一般学生の意識化を煽り、自分達の路線に引き入れようとした。これは当然のことと思われる。しかし、セクト政治路線には、一般学生は殆ど同調しなかった。一般学生は政治目標や行動については政治的学生と終始同床異夢の関係にあったが、学費問題については共同戦線を張った。しかし、両者は次第に離反していった。戦前の切符事件の場合、両者の連合はひと月ぐらいの間であり、戦後の百五十五日紛争においては約二ヵ月である。戦前には各種の状況から分離は学生運動の終息に直接つながったが、戦後においては事情は異る。一般学生と政治的学生との分離が非常に長期に亘って続いたにも拘らず、状況としては、学生運動として闘争が継続していったように見える。
この相違をもたらした事情は何か。政治的学生が活動し得る社会的条件が戦前とは比較にならないほどに整ったことが直接的理由であるが、より根本的には、政治的学生集団相互の激しい競合が各集団を国家たらしめたことを挙げなければならない。一般の学生は政治的な学生を全然支持せず、また積極的に何事かを行う気持も持ち得ず、行う方途もないまま、政治的学生集団から離反していった時期に、学生の政治組織が強烈な形で存在し続けたのは、政治組織がミニ国家化したからである。戦前に社会科学研究会に依った政治集団と戦後に学生会館闘争を担った政治的学生集団とは大まかには対応するけれども、質的には全く異る。戦前の学生政治集団は国家を目指したが、全くそうなり得なかった。それに対して、戦後の政治的学生集団はミニ国家化した。政治闘争を行うためにはどうしても拠点が必要となる。拠点を一般社会の中に得るのは、二つの理由からなかなか難しい。一つは、どこかのビルなどを借りるには多大の費用を要することである。これは学生という政治集団には甚だ難題である。もう一つは、警察権力に対する防衛という視点である。これも、社会の中に拠点があると簡単に潰されてしまうという不利がある。警察権力に対して最大限に防御できる場所はどこか。それは、学問の自由を高く掲げる大学である。加えて、大学には費用が一切かからない場所がある。学生会館や学生ラウンジがそれである。そのような場所は大学以外にはどこにもない。客観的には自らを国家になぞらえた戦後の政治的学生集団は会館やラウンジの管理権をあたかも徴税権のように看做し、この見方を正当化したので、それを大学に要求し、獲得することに何のためらいもなかった。
学生運動本格化の第一歩が学館闘争として始まったのは、この故である。右の如き事情から、学生自治というものが特に拠点という思想と結びついて大幅に拡大したために、以後、学生にとっては拠点はまさに自治的に運営されるべきものと考えられるに至った。自治的に運営されるということは、無料同様に使用できるという意味を持つ。ただ同然で使用するというのは、運営費を全額大学に負担させることにほかならない。それを自治の名において正当化し、そのような利点の上に、政治的な学生の拠点という意味があるわけである。拠点という意味が加わってくると一層、自治の正当性において護られている大学内施設はきわめて切実な意味を帯びる。そのようなものとして存在していたのが学生会館であった。
学費闘争で学生の対大学闘争は開始されたが、それより二年ほど前から学館闘争が続いていた。その際、学生と大学との間で管理・運営権をめぐる問題が協議され、大学側としては管理権を渡すわけにはいかないが、運営権は譲ってもよいとの考えを示したことがあった。しかし、学生側、特に政治的な学生は、管理権・運営権ともに学生が握るべきだと主張した。その主張を認めると、学館はすべて学生のものとなってしまう。一般学生の間では運営権だけでよいとの意見が大勢を占めたが、政治的学生は、運営権のみではだめだ、管理権もなくてはならないと言い張った。管理権に彼らがこだわったのは、直接には拠点の論理であったが、根本的思想は国家のそれであった。そのような形で、戦前そして戦後にも、次第に大学という場に追い返された政治運動に挺身する学生は、爾後の活動拠点をどこに築くかということに最大の戦略目標を置いた。これが学館問題の本質であった。しかし、一般の学生はその目標を共有せず、使用できればよいと考えた。運営権のみならず管理権まで学生が握るとなると、非常に強力な組織がそれをすべて牛耳ってしまう。そうなると、一般の非政治的な学生は逆に使えなくなるという不利益が生じる惧れがあるので、寧ろ管理権は大学に帰属するのが正当であるとの議論が展開された。ところが、政治的な学生の論理はこれと全く異り、拠点の論理すなわち国家の論理に立脚しているから、その論法は認められないと強硬に主張した。こうして新築の第二学生会館をめぐる問題はこじれにこじれて、建設されたままの姿で雨ざらしになるという事態が現出した。
政治的な学生の焦りも強かった。その焦りを解消する絶好の機会が、学費問題という形で現れた。「百五十五日闘争」と呼ばれる大騒動の導火線は、前述した諸状況と心理的なあり方からみなぎっていた一般学生の不満であったが、もう一本の導火線は、政治的な学生が自分達の勢力の拡大を図ることのできる最大の機会と捉えたことである。政治的な学生は学費問題を手段と考えた。一般の学生は学費問題をまさに目的と考えた。このように両者の意識は正反対と言ってよいほど異ったが、結果的には結合することになった。しかし、その終息期に近づくにつれて両者の意図の食い違いが大きくなったのは、当然と言えば当然と言わなければならない。
学生運動に対する大学当局の対応は本質的にきわめて難しいものであるが、大学側の態度が学生運動に与える影響は頗る大である。これは勿論、本学苑だけに限られるところではない。早慶野球戦切符事件がこじれにこじれ、とうとう中野正剛という学苑出身の政治家が調停に乗り出し、それが奏功して大学と学生の和解が成立、最後は「都の西北」を歌って涙を流すという結末を迎えたわけであるが、第三巻四八一頁に引用したように、その際中野は、自分は学生だけが悪いとは思わない、大学側も悪い、大学はまるで株式会社みたいになっている、総長や理事と話をしているとどこかの営利会社の経営者と話をしているように感じた、自分は学生を非常に叱責したけれども、これからは大学の総長や理事のあり方を自分は責めなければならないと語った。中野が指弾した点は戦後にも引き継がれた。というよりは、寧ろ戦後はこの傾向が一層強まったとも言える。総長や理事の主観においては決して営利会社ではないのであるが、客観的には一種の経営優先主義ととられてもやむを得ないような状況が生じてきたことは否定し得ない。総長や理事は学苑発展のための基盤強化を意図したのであったが、財政基盤の強化や大学の発展が学生にとってはマイナスになるということに十分に考えが及ばない。考え及んでも、その影響の深刻さをあまり実感できなかったらしいことは、やはり否定し難い。
新制大学発足に伴い、学苑は昼間学部(第一学部)と夜間学部(第二学部)との二本建となっていたが、それらが次第に統合されて昼間の単一学部になった。三九頁の第三図に示したように、第二理工学部が廃止される前あたりから第一学部の学生数は徐々に増大し、廃止された時点でほぼ倍になった。これは極端に言えば、第一学部の学生の勉学条件が一挙に二分の一に切り下げられたことを意味する。我々は今にして考えれば不明を恥じなければならないが、第一学部に入りたい学生を少しでも多く受け入れるために採った措置であったとはいえ、それが直ちに学生個々のためにはならなかったのである。入学した学生にとっては施設が二分の一になり、教員の増員は徐々にしか行われなかったので、教育環境が却って悪化するのを免れなかった。それを反映するかのように、マス・プロ教育という多分に非難をこめた表現が使われるようになった。学生数の増加に見合う大教室も多々造られ、定員枠が拡げられて、学生は入学時には喜んだが、それはすぐに失望に変った。大学関係者――これは決して総長や理事だけでなく、教職員全員をも含めなければならない――の対応は、入学時には学生を喜ばせるが、その後はじわじわと失望させ苦しめようというようなものであったと言われても、これを悪声として断固否定するわけにはいかなかったのである。学生には非常に深い失望感、挫折感があり、そこまでいかなくとも多くの学生は大きな不満感を抱いたのである。こうした観点に立つと、戦前中野正剛が指弾した事態が戦後には一層大規模に展開し、しかも悪いことに、大学進学に対する社会の大きな需要に大学側が応えてやるのだという傲慢さで、客観的には学生に甚だ不利なことを行ったのであった。四〇一―四〇二頁に後述する如く、昭和四十一年二月四日に大浜信泉総長が記念会堂で説明会を開いた時、自分の行っていることには誤りはない、だから学生全員が反対しても断行すると、会場にいた学生には受け取られても仕方がない発言があり、学生をひどく失望させ、反発させた。あの時、諸君が不満を抱くのは当然だ、我々も学費値上げなどしたくないのだ、しかしせざるを得ないのだと言い得なかったのであろうか。結局、値上げ幅は総額で二万円縮小された。と同時に、大学の施設および教員のあり方を誠意を以て改善すると約束する羽目に立ち至ったのである。これを総長がその当時に発表していれば、事態は大きく変ったと思われる。結局はそのようなことを行ったのであるから、それならばもっと早い段階で公表した方がよかったのではないか。これは後知恵かもしれないが、そこには、やはり、早稲田大学に学びたいという社会のニーズに応えてやっているのだとの一種の傲慢さが意識の底にあったことは否定し難いように思われる。
その傲慢さが学生の非常な反発を呼び、対立が一挙にエスカレートする結果を招いた。私学が世の期待に背かないだけの内実を備えるにはどうすべきかという客観的状況認識と、一人一人の学生がどのように考えているのかという状況認識とは、どちらも重要であるが、問題としては別物である点を、大学経営の任に当る理事者は常に考慮しなければならないであろう。大学側が学生をマスとして捉えてしまうと、学生個々人への配慮は全部脱落してしまい、彼らの痛みを全く理解できない方向に進んでいく。そうした問題に直面したとき、大学は堕落したと学生が考えるのは無理もない。もとよりこの問題は戦前期にもあったのではあるが、大学進学率の異常な速度での上昇、急激な経済成長に伴う所得変化と格差拡大、これらの諸条件が戦前期に見られた問題を巨大化かつ深刻化させたのである。
学生は一貫して「産学協同」に負のイメージを持った。明確な言葉で表現してはいないが、戦前においても事情は同じである。戦後には産学協同ということを公然と問題視した。産学協同的な大学運営というあり方が、学生をないがしろにするとともに、大学そのものを好ましからぬ方向へ導くとの主張である。これは、八〇頁以下で触れた如く、ミシガン協定締結の際にも言われたことである。
産学協同とは何かと考えると、その定義は難しい。学生も定義していないようである。あえて定義すれば、独占資本に有利な労働力商品を作る路線とか、独占資本を肥大させるために教育面においてその役割を担う路線などと言えようが、要するに、国家独占資本主義に大学が汚染されていくという論理になろう。確かにそのように言えなくはないが、科学、技術、マネージメントその他の分野がより高い理解力を具えた労働力を欲求するのは、世界共通の大勢であり、日本だけに見られる特殊な要請ではない。しかも、産学協同はけしからぬと憤激する学生達は、これもまた責められないのであるが、まさにそういう路線を目指して大学に入学したというのが現実である。それゆえ、産学協同というものを真に問題視するならば、大学での勉学を断念せざるを得ない。産学協同でない大学はあり得るかと問うならば、恐らくあり得ないであろう。学の蘊奥を究めることを主眼とし、企業は卒業生を採用しなくてもかまわないとか、エンプロイメントとかジ・ブというものと全然無関係な大学こそが優れた大学なのだというのであるとしたら、そうした大学に学生は入学するであろうか。入学志望者は皆無に近く、大学は存在し得なくなるであろう。この意味で、産学協同こそが近代の大学のすべてであると言ってよい。産学協同がけしからぬとの批判は、資本主義的産学協同がいけないのであって、社会主義的産学協同ならば大いにけっこうであると言い換えなければ、論理のつじつまが合わなくなる。だがそうなると、政治的な学生を除けば、反産学協同に賛成する学生は殆どいないのではないか。
産業界が大学に要求し大学がそれに応えるものは、政治経済体制が資本主義であれ社会主義であれ共通している。それを資本主義特有の現象であると看做したところに、当時の問題があった。現今においては、産学協同ということは恐らく誰も口に出さないであろうし、口に出しても通用しないであろう。
戦前と戦後とでは、社会的条件その他から発生する現象そのものの規模は甚だ異るとはいえ、あり方は一致している。すなわち、ともに広義の高度経済成長が基底を形成し、その高度成長がもたらした豊かさはマイナス面として個の不安を醸成した。その一方で経済的豊かさは大学進学熱を煽ったので、個の不安を大量に抱えた大学という場は、政治的な学生を育む不断の温床となった。戦後は、戦前に現れたものが、連続しつつも規模において恐らく十倍にも二十倍にもなって現出したところに違いがあると考えられるのである。