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第十編 新制早稲田大学の本舞台

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第十六章 新制発足頃の学生運動

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一 レッド・パージ反対事件

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 学苑の学生自治会が敗戦直後の胎動期の中で、二十一年五月に大学当局によって承認され、翌年四月には「自治会規程」が施行されて、制度的に本格化していったことは、第四巻四五二頁以下に前述したところである。しかし、全七章六十三条の厖大で整備された内容を持ちながらも(その後、二回修正)、現実の自治会活動の実態は、その運営よろしきを得ずして十分に機能することができない結果となってしまったことは、大学当局、学生自治会双方にとって、まことに不幸なことであった。当時、学生生活課長であり、戦後の学苑における学生運動の対応に深く関わった教育学部教授滝口宏は、次の如く回想している。

早大学生自治会規程は、各部科校学生全員を会員とし(自動加入方式)中央に中央委員会をおき、代議員による自治議会をもつ仕組みである。執行部としては中央に中央執行委員会をもち、委員長、副委員長がある典型的なものであった。さらに別個に教職員学生の協議会が毎月定期に開催される規程を付属させていたし、これが正常に運営されれば、当時としては理想的なものであったと私は今でもそう思っている。この規程は、不幸にして旧制大学と共に消失して了った。その処置は大学が行なったのではあるが、実態は、当時の学生自治自体に問題があったのである。自治議会は流会をつづけ、機能が麻痺してしまったし、中執はその力を次第に絶対権的なものに進めるという、およそ、設置の精神に逆行する形が連続し、これ以上、存続させることが学生を不幸に陥れるのではないかとさえ思わせる状態になっていた。話し合いの場である筈の教職員学生協議会さえ、満足な運営ができないで、時には徒らに感情を高ぶらせる空気を育てるような有様であったといっても過言ではなかった。

(「戦後学生運動物語(一)」『早稲田学報』昭和三十八年一月発行 第七二八号 二〇頁)

 このように、大学当局は、新制大学への移行を翌年に控え、右の「自治会規程」を旧制の学部・学校のみに限定して、新規程の作成を準備中であった。しかし、自治会側は、新・旧学部を一本化した中央集権主義を守ろうとして、政・法・文・理(商は二十五年五月に脱退を声明)の第一・第二学部と教育学部、および高等工学校、工業高等学校の全学生・生徒から二十五人に一人の割合で選出された自治委員八百余人が各学部・各学校の自治委員会を構成し、大学非公認のまま活動を続けていたのである。非公認ということは、この自治会を大学側が学生の総意を代表する正式なものと看做してはいないことを意味する。新しい「自治会規程」によれば、全自治委員で開く自治議会(当時、出席が悪く流会しがちで、殆ど開かれなかった)が最高決議機関で、中央委員会がその代行処理に当っていた。この中央委員会は各学部・各学校から比例代表制で当時九十六人が出ており、このうちから更に中枢機関としての中央執行委員会(委員長一人、副委員長二人のほか、各学部・各学校から二人ずつ)二十七人が選出されていた。また、自治会費は年三十円で旧制の学生から徴収されていたが、新制の学生には旧規程が適用されないので、自治会側では各クラス単位で直接徴収して、運営費に充てていた。そして、二十五年五月より自治会から脱退した商学部自治委員会は商学部学生会(第一・第二学部とも)として新発足して、政治活動を排して学生の文化厚生の面に力を入れており、教育学部自治会もこの年末に同様の動きを示して、両者とも全学組織から独立して活動を展開していたのである。これが、当時の学生自治会の現状であった。

 昭和二十五年、夏季休業が終って間もなく、学苑は大揺れに揺れた。GHQ(連合国最高司令官総司令部)と政府が強行したレッド・パージをめぐって、これに反対する学生達と大学当局との間に激しい対立が生じ、多数の学生が処分される事態となったからである。

 そもそも、敗戦後、GHQが行ったパージ(追放)には二種類ある。一つは「ホワイト・パージ」である。これは二十一年一月四日に、GHQが、軍国主義者の公職追放および超国家主義団体二十七の解散を指令し、これに基づいて、政府がポツダム緊急勅令による公職追放令と関係の閣令・内務省令を二月二十八日に公布して実行したものである。この結果、幣原内閣の閣僚五人をはじめ、進歩党が旧議員二百六十人中二百四十六人、自由党が三十人中十七人、社会党が十人中三人、協同党が二十一人中十九人がそれぞれ追放されたことからも分るように、政治的な影響が甚だ大きかった。もう一つは「レッド・パージ」である。これは、二十一年の読売新聞社第二次争議から始められ、二十四年の全日本進駐軍要員労働組合横須賀分会での忠誠審査事件である横須賀事件、約千百人の教員パージ、十三省庁約五万二千人・都道府県職員約一万八千人・国鉄約九万五千人等の行政整理、約四十三万人に及ぶ企業整理(『戦後史大事典』九三八頁)を経て、二十五年に入り、本格的なレッド・パージが展開された。

 二十五年五月三日、連合国最高司令官マッカーサー元帥は憲法記念日の声明の中で、国際的な共産党の連絡組織コミンフォルムによる野坂参三の平和革命論に対する批判を日本共産党が受け入れたことに対し、国外からの支配に屈伏したものとして同党の非合法化を示唆した。次いで六月六日には、吉田茂首相宛書簡の中で、「大衆の暴力行為を扇動」して「民主主義的傾向を破壊」しようとしているとして、共産党中央委員二十四人の公職追放を指令するとともに、翌日、その機関紙『アカハタ』編集関係者の追放を指令した。この直後の二十五日に朝鮮戦争が勃発すると、パージは七月末にマス・コミ関係に移り、やがて労働組合、官公庁、民間企業に拡大していった。そして、この年、民間では、新聞・放送(五十社)七百四人、電気産業(十社)二千百三十七人、映画(三社)百十三人、石炭(六十六社)二千二十人、私鉄(三十七社)五百二十五人、化学(百二十二社)千四百十人等、合計一万九百七十二人、公務員では、電通省二百十七人、郵政省百十八人、大蔵省四十人、厚生省七人、農林省百九十六人、国鉄四百六十七人、合計千百七十七人のパージが行われた(『資料・戦後二十年史』第一巻七七頁)。このような一連のレッド・パージは、GHQの実質的主体をなすアメリカ合衆国における米ソ冷戦の展開についての思惑および反共ムードの進展という側面と、占領下の日本におけるコミンフォルムにつながる共産党の運動の活発化という側面との二つがあって、占領政策を容易に推進するためには、こうした政治勢力は排撃されるべき存在と看做されたためであった。

 こうした過程で、九月一日、天野貞祐文相は、「学園の自由と社会秩序を防衛し、ゆきすぎた行動を阻止するため、近く教職員の適格審査が行われる」と教職関係のパージを表明し、やがて実行していった。

 ところで、大学関係のレッド・パージのキャンペーンは、実は、前年から開始されていた。いわゆる「イールズ旋風」がそれである。GHQのCIE(民間情報教育局)の教育顧問W・C・イールズ博士は、二十四年七月十九日、新潟大学の開校式で演説し、共産主義の教授を大学から追放せよと勧告した。その演説の中で彼は、

共産主義教授の除外を勧告する根本の理由は彼らが「自由でない」ところにある。……米国の委員会〔教育政策委員会〕の議論はきわめて簡明で論理的で納得のゆくものである。つまり「思想の自由は米国の教育精神全般の基礎である。共産党員は思考の自由をもっていない。彼らは共産党に入党したときその自由を放棄したのである。したがって彼らは民主主義国では大学教授であることは許されない」ということである。私はこの問題が新潟大学の平和と自由を乱すことのないよう希望するが、万一そのようなことがおこった場合には大学当局および文部省が法律上大学の政策および人事について最終の権限をもっているのだから、教授団の中の共産主義教授にたいして積極的に断固たる立場をとることをちゅうちょしないものと確信する。真の学問の自由を守り共産党員が教授団に加わるのを拒絶するのは大学の権利であるとともにまた義務である。

(『朝日新聞』昭和二十四年七月二十日号)

と述べ、この発言は「赤い教授除外せよ/許されぬ学生スト」との見出しで報道されたのであった。そして、イールズは、十一月に岡山大学と広島大学、十二月に大阪大学等で講演し、翌年五月の北海道大学に至るまで全国およそ三十大学で、共産主義者の教授を学問の自由そのものの名において除くことを繰り返し勧告した。これに対して、この間、大学人の間から強い反対の声が挙がった。例えば、二十四年十月十二日、南原繁東京大学学長は談話を発表して、「わが国においては米国とは事情を異にし、戦前戦時を通じて長い間、国家の『思想統制』下に多くの犠牲を払いつつ、学問の自由を確立するために苦闘し来ったのである。幸いに新憲法において思想信仰の自由と並んで特に『学問の自由』が保障されるに至った今日、われわれ大学人は何を措いてもこの『学問の自由(アカデミク・フリードム)」を擁護しなければならぬ。真理と理性の府としての大学は、いかなる思想学説であれ、これを研究し、その学問的研究の結果を教え発表し、思想には思想を以て相競い争わしめるところ、真理の発見と学問の発達が期待されるのである。故に国立大学において教授が単にいかなる政党――しかも合法的に公認された政党――に所属しているということだけの事由で、教授としての適格性を云々することは理由ないことである」(「学問の自由と大学の責任」『戦後日本教育史料集成』第三巻四四四頁)と反論を加え、他の国立大学に対しても同様のことを望んだ。特に、日本教職員組合(日教組)では機関誌紙で毎号、イールズ博士の見解と文教当局の姿勢に批判の論調を展開し、『日教組教育新聞』昭和二十四年十月十三日号は、「教員のかく首をこうみる――各界の意見」と題して、学苑の法学部教授戒能通孝、政治経済学部教授大山郁夫や、南原繁東大学長、社会党代議士森戸辰男、総同盟教育局長大門義雄、労農党参議堀真琴など各界からの批判の声を特集している。こうした日教組の行動とともに、東北・北海道両大学をはじめとする全学連、全国大学教授連合、日本学術会議などの各団体もレッド・パージ反対行動をとり、特に急進化しつつあった全学連は一大闘争を展開した。

 学苑の学生も自治会中央執行委員会が中心となって活発な反対運動を繰り拡げた。二十五年六月十一日に戸塚警察署が、十日ほど前の五月三十日の「五・三〇人民大会事件」(民主民族戦線東京準備会が五・三〇共産党防衛、平和擁護、祖国(朝鮮)統一戦線人民決起大会を皇居前広場で開催し、労働者、学生らがMPに逮捕され、軍事裁判にかけられた事件)に関連して、学生厚生部長中谷博立ち会いの上で、当時演劇博物館の横の藤棚の奥にあった自治会事務所(この自治会室の隅には衝立を置いて東京都学生自治会連合が間借りしていた)および法学部地下の共産党細胞事務所(非公認)を捜索したことを契機にして、これらに対する学生の動向が注目されていた。学生自治会中央執行委員会は、教職員から共産党員およびその同調者を追放することは学問の独立・研究の自由を侵すものであるとの見解を表明し、この追放には全学挙げて反対すべきことを教職員・学生に訴えた。そして、夏休み明けの九月二十八日に自治会主催の全学学生大会を大隈講堂で開催することにした。二十六日、吉田嘉清中央執行委員長は自治会を代表して島田孝一総長にレッド・パージに関して意見交換の会見を申し込んだが、大学側はこの会見を断り、政令六十二号によるレッド・パージには大学は反対しない旨を回答した。また、大学当局は、この日および二十八日午前の緊急学部長会議の決定により、全学学生大会の開催禁止を通告、掲示した。しかし、二十八日の当日、学生側はこれを無視して東大、法大、都立大等約千人の参加者を含めておよそ二千五百人が閉門中の講堂に入って大会を強行し、レッド・パージ反対を決議し、彼らの行動を支援しようという柳田謙十郎、宇野重吉、山本薩夫らの学者や演劇人の演説で気勢を挙げたのであった。そして、大会終了直後、学生と警察官との間に、次のような衝突が起った。

大会終了後、プラカードを先頭に東大、法大、都立大、本大学の順序で約千五百名が学内デモに移り、老侯銅像から演博をへて本部前を通過しようとした午後四時頃、約二十台のトラックに便乗した警官隊約六百名が次々に講堂前に到着し、デモ隊の学外への行動を阻止するため、学校側に通告なしに銅像方面に向つて行進した。これを見たデモの先頭の東大生ら約四百名が衝突を避けて本部内にスクラムを組んで侵入し、警官隊また直ちにその後を追つて玄関内で混乱したため、各所ではしなくも乱闘を生じた。かくして九名の検束者(本大学生六名、東大生二名、都立大生一名、翌朝東大生を除く七名は釈放)が出て、間もなくデモ隊は銅像前、正門前の二本の警官隊のピケット・ラインの外に押し出され、両者対峙したまま一応平静化した。

あまりに多数の警官隊が、物々しく右のピケ・ラインを堅持して、本部前へあらゆる学生の入るのを阻止したためか、傍観していた学生もその非を鳴らすもの多く、特に第二学部の登校時間の頃とて、正門前に乗りつけるスクール・バスから続々降りる学生が、ピケ・ラインに阻まれて、警官隊と小ぜり合いが起り、付近の市民も見物に集まつて大変な騒ぎとなつた。午後五時すぎ、学生厚生部長中谷教授、自治会中央執行部、警官隊代表の間に交渉が重ねられ両者同時に解散することになり、警官隊は六時半頃夕闇せまる本部前から学生デモの校歌合唱のうちに引揚げていつた。学生側は文学部校舎での学生大会に結集することになつたが、この頃から足並みも乱れて浮足立ち、午後七時すぎには学園はようやく平静に帰した。

(「最近の学生事件の全貌」『早稲田学報』昭和二十五年十一月発行 第六〇六号 二二―二三頁)

 翌二十九日の学苑は、嵐の過ぎ去った後の静けさの感があり、一部少数の学生が今度は東大でのレッド・パージ反対学生大会に参加した以外は、平常通り授業が行われ何事もなかった。この日、大学は前日の「九月二十八日事件」について、「矯激な行動が決して大学の自由、学園の伝統を守る途でないこと、政令六十二号がポツダム宣言に基くものであることを認識し、軽率に行動することのないよう、戒心を望む」との告示を出した。

 一方、学生側はその直後に、早大学生自治会中央執行委員会「『九・二八レッド・パージ反対早稲田を守る会』真相報告」(十月付)の中で、次のように記している。「六時四十五分、一斉に警官隊が引き揚げ始めた。学生は一斉に校歌『都の西北』を合唱した。大隈講堂の前は学生の波で埋った。七時十分警官隊の引き揚げた後、直ちに文学部四〇一教室で全学学生大会が開かれた。我々の本日の行動は正しかったか、について真剣な討議が展開された。『正しかった』それが第一番の結論として出された。本日警察官が学内に侵入して来たのは我々が大隈講堂で大会を開いたからではない。学内デモンストレーションを行ったからではない。彼らが一〇〇〇名の警官を動員したのは実に我々が政令六十二号によるレッド・パージに反対したからである」(『資料 戦後学生運動』第二巻 一八四頁)と総括し、「レッド・パージは一歩一歩後退している」と、自分達の運動の「正しさ」を意義づけている。

 この時期は、新制の各学部の前期試験が始まった頃で、自治会中央執行委員会は、パージ反対の有力な戦術の一つとして試験ボイコットを企画し、政・法・文の各学部で学生大会を開いてその可否を問い、ボイコット反対派と激しい論争を展開した。特に第一文学部では十月二日に、ボイコット派が校舎入口で受験学生の入構阻止行動に出たため、学部側はやむなく試験中止の措置を執った。第二政治経済学部でも小ぜり合いがあり、第一政治経済学部では十月四日に試験ボイコット賛成・反対両派学生が立ち会いの上で無記名投票が行われ、八百対五百四十一でボイコット反対と決定されて、試験は平静に行われたのであった。一方、全学連では、翌五日に都下大学にゼネ・ストを号令したが、学苑そのものは全く平常に授業が続けられた。この日、島田総長は大隈会館に教職員五百余人の出席を求めて、レッド・パージに関する学生達の一連の反対運動、特に「九月二十八日事件」に対する大学としての姿勢についての見解を次のように述べて、大学側の対応に理解を求めた。

思うに、この学生運動の原因は何であるか。若し学生諸君が非常に純真に、学問の独立或は研究の自由を擁護する意味合から運動を起されるならば、この考えは大いに尊重されなければならないのであります。併し、赤色教授追放問題をこの面からだけで処理出来るでありましようか。一体政府は学問の独立、研究の自由を奪つて迄、この問題を処理するのか、或はこれを尊重しつつ一定の枠内で処理しようと考えているのか?この点につきましては、文部大臣の談話を通じ、また昨日の夕刻、直接天野文相からお伺いしたところでは次の通りであります。

これは、昭和二十二年政令第六十二号を根拠として今後の追放問題は必ず処理するのだということがはつきりしているのであります。大体政令第六十二号第三条によれば、教職追放者の種類は四通りでありまして、第一が職業軍人、第二が著名なる軍国主義者、第三が極端なる国家主義者、第四が連合軍の日本占領目的、若しくは政策に対する著名な反対者であります。即ち唯単に日本共産党の一員、或は同調者という故で第四の部類に入るのであるかといいますと、この点文部大臣からはつきり、右の故を以て追放しようとするのでない、それより進んでいわゆる教職にたずさわることの不適格者と見られる方を今回の措置の対象にするのであるとの御返答があつたのであります。しかも最初の審査会の適否判断に不服な諸君は第二次審査機関に再審を、更に第三次審査機関の審査を要求することが出来るのであります。第二次審査機関としては中央教職適格審査委員会があり、第三次審査機関は文部大臣が当ることになつているのであります。但しこの場合従来は必ず文部大臣は中央適格審査委員会に諮問されております。……

九月二十八日、丁度午後四時半頃、数百名の警官が出て参りました。昨日の読売新聞でありましたか、早大が警官を要請したとありましたが、これは事実無根であつて、大学の敷地の間にたまたまある一本の公道での無届デモ集会を取締る為に警察官が出動したのであります。当日出動した第四方面本部の池田隊長も都条例違反を取締るつもりで来たといわれたのに照しても明らかな様に、早稲田大学として警官隊を要請した事実はありません。何故警官隊を退去させなかつたのかと言われましても、いかに私が公安委員と雖も警官を直接指揮する権能はありません。最後に今後の対策のことを申し上げます。第一に全学連の解散ですが、まだその時期でない様に見受けられるのであります。第二に自治会の解散。これが実行は相当困難なことであります。最後に今回の運動の中心人物は如何に多数であろうと、全部退学処分に付して、この問題を処理する。これら三つの対策については、大学としてとるべき態度を決めた上で進みたいと考える次第であります。

(『早稲田学報』第六〇六号 二四―二五頁)

 こうして学内は一時平穏にもどったかに見えたが、十月十七日、学生の反対闘争は再燃し始めた。この日正午頃より学苑生約二百人に中大、東大、法大、外語大など、学苑生の倍の外部学生約四百人が加わって、学生生活課の前で「レッド・パージ反対、平和と大学擁護大会」を開始したからである。これに対して、大学側はこの日の集会禁止を告示するとともに大隈講堂を閉鎖し、大学本部の鉄扉も閉ざす措置を執った。やがて、三時二十分頃、学生デモ隊は学内を一巡して本部前で気勢を挙げた。この間、吉田嘉清自治会中央執行委員長らは決議文を持って総長に面会を求めたが、大学側はこれを容れなかった。四時頃、本部前の学生達は大隈講堂前に移り、折から本部第一会議室で九月二十八日以降の事件の責任者処分を審議中の学部長会議の公開要求を決議して、五時頃本部前に殺到した。そして、他大学を含む学生約二百人は、既に開かれていた本部入口にスクラムを組んで突入し、職員の制止を押し切って二階の会議室に乱入した。このため会議は一時中止のやむなきに至った。学生達は更に、大学当局が処分者を出さないと確約するまで本部を占拠すると言って、居坐る挙に出た。この事態に直面して、島田総長は、学部長らと協議した上、遂に、学苑の秩序を保つためやむなく戸塚警察署に警官隊の出動を要請したのであった。六時頃、十数台のトラックに分乗した七百九十人の武装警官隊は直ちに本部に入り、数十人の学生を一斉に検束した。またこの間、本部前にいた学生約百五十人は机や椅子でピケを張って警官隊と対峙していたが、六時半頃より、警官隊が学外生を含む百四十三人(学苑生百三人)を検束した。こうした事態に興奮した学生の一部は、折から取り壊し作業中の旧恩賜館の煉瓦のかけらを警官隊に投げつけたり、また、本部三、四階から学生達が投げつけた小石などにより、学生・警官合せて十五人が重軽傷を負った。八時頃、中谷博学生厚生部長がマイクにより、本部前に坐り込んでいる学生達に退去を命じて収拾を図ろうとした。こうした後の十時半頃、検挙学生を乗せた三台のバスは車内で歌う学生達の「都の西北」の声を残して校門を後にし、彼らを都内十九の警察署に分散留置したのである。これが「十月十七日事件」である。

 他方、この騒ぎにも拘らず、夕刻より、二政・二商・二法の各学部の教室では平常通り授業が行われていた。だが、このように、一度に二百人近い学生が検挙されたことは、学苑としてはまさに未曾有の出来事であり、学苑関係者はショックを隠しきれなかった。

 十月十九日、大学当局は次のような告示を発表した。

去る九月下旬から十月十七日に至るまで、本大学の禁止を犯して強行された一連の学生大会、学内デモ、試験ボイコット等々の暴挙は、これら一部の学生に他大学生を交えて行われた前例のない不当行為であつて、これにより遂に警官隊の学内導入を招来せしめるに至つたのである。この事態は、平素自治を標榜する学生が自治の範囲を著しく逸脱し、むしろ自ら好んでこれが破壊を企てたものに外ならない。これらの暴状を目撃した学生は勿論、これを伝え聞いた多数の校友が、何れも首謀者たちを平和の攪乱者、自治の破壊者として糾弾しつつあるのは当然のことである。今回の不祥事に対して大学は、学園の平和を熱愛し七十年の輝ける自治を守り抜く責任上、昨十八日、学生二十六名の懲戒処分を発表した次第である。

全学生諸君は真に早稲田学徒たるの誇りに生き、平和を愛し、秩序と規律ある自治の何たるかを体得し、学園を暴力のじゅうりんから護つて、あくまで真理探求の場所たらしめるよう特に要望する。本大学はかかる不祥事の続発を防止するため、今後の状況如何によつては随時警察官の派遣を要請する決意あることを表明する。

(『早稲田学報』第六〇六号 二四―二五頁)

 右の告示に記されているように、大学が、「九月二十八日事件」およびこれに続く試験ボイコット事件について、学部長会議での審議を承けて、一部学生の行動を不都合の行為であると確認して、十八日に学則に基づき処分した者は、除籍正副中央執行委員長を含む十三人、無期停学前中央執行委員長以下八人、本学年停学一人、停学三ヵ月三人、譴責一人であった。そして、更に二十七日、学部長会議は「十月十七日事件」の責任学生の処分を審議して、当日検挙された者のうち八十六人を全員除籍することに決定し、翌朝、この件を総長談話とともに発表した。また、二十八日付で、島田総長は、校友に対しても、大学の執った措置に関して理解と支持を得るために、「校友各位に真情を披瀝する」と題する次のような声明を発表した。

思うに、今回の不祥事件は、所謂赤色分子たる少数学生の暴行によるもので、良識ある大多数の学生諸君は事件の当日においてさえも、平常どおり勉学にいそしんでいたのである。こうした学園全般の学生の動向については特に遠隔の地に在られる校友各位に御認識を新たにして頂きたいものである。……ここでは詳細はさけるけれども、多数の検束者を出した十月十七日において、何故に警察隊を要請しなければならなかつたか、この点に関して要点を述べたい。

当日、大学本部において緊急学部長会議を開催中のところ、当局の制止をきかず、全学連の指導下にある本大学並に他大学の学生二百余名が本部に侵入し、遂にその一部は暴力をもつて扉をあけて、会議室に闖入し、本部占拠などの暴言を吐きつつ狼藉を極め、不退去の態勢に出た。その態度たるや、既に学生たる本分を逸脱して、学園の秩序を乱すこと甚だしいものがあつた。学生に関する問題は学園当局の手で解決するというのが私の念願であつて、十月十七日以前においては、一、二度不穏の形勢はあつたが、ただの一度たりとも、本大学みずから警察隊の要請をなしたことはなかつたのである。しかしながら問題の日は、最後の断を下すほか学園の秩序を維持する方途がなかつたのである。蓋し、大学の使命は学問の研究と同時に、教育の府たることを、私は確信する。過激な行動に出た学生とても、私たちは教育の力によつて善導すべき責任をもつものである。万策をつくしてこれら中央執行委員会の指導下にある不穏の学生をも正道にもどしたいという親心から総長告示をはじめ各学部長の訓示などによつて、幾度も反省をもとめたが、誤まれるヒロイズムの虜となつたこれら学生は、既に何等の反省を示さなかつた。今回の事件発生以来、一般社会の世論も、全学連傘下の学生運動なるものは、平和欣求の精神に立脚するものでもなく、学問の自由を擁護するものでもなく、むしろその反対方向にあることを認めている。明らかにそれは暴力革命を標榜する極く一部のものの政治運動である。私はその実態を当日まざまざと目撃した。今は既に容赦の時でなく、私は学園平和維持のため、断乎たる処置を執らざるを得なかつたのである。今後ともいやしくも学園の秩序を乱す者あらば、仮借なく、学則に照らして断然たる処置をとるであろう。

こうした決意にもとずいて、今般相当多数の学生に停退学を命じた次第である。処分せられた父兄各位に対しては惻隠の情禁じ難きを覚えるが、「泣いて馬謖を斬る」思いをもつて今回の挙に出たことを諒とせられたい。

(『早稲田学報』第六〇六号 二〇―二一頁)

 こうした推移や一連の学苑当局の執った措置に対して、新聞はどのような論調を展開したであろうか。以下に社説や記事を幾つか紹介しておこう。

学校当局が共産党に踊らされている全学連幹部の手口や心ならずもこれに動かされている多数学生の心理状態などに十分の認識をもつならば自ら対策は生まれるはずである。……政府が全学連に断乎解散を命ずるも一つの方法であるが、政府が手を下す前に学校当局は従来の優柔不断な傍観的態度を棄て、勇気を奮い起して、眼前の事態を速かに収拾すべきである。

(『読売新聞』十月六日号 「社説」)

早大学生自治会の十七日行つた「平和と大学擁護全国学生大会」は、その名称とまつたく反対の「闘争と大学破壊全国学生大会」となつてしまつた。……こんなバカバカしい運動に無関係な大部分の学生諸君は、同僚のためよろしく道義的批判をあびせるべきだ。 (『東京新聞』十月一九日号 「筆洗」欄)

学長や教授連が騒ぐ学生とスクラム組んで正しい流れに流そうとする理解も愛情も示そうとしないのは、どうしたことか。競輪騒動であるまいし警官隊にケ散らしてもらい余勢をかつて処分でケリをつける。……学校当局のこのような高みの見物的処置は「保身術」としか見えない。悲しむべきかな。 (『毎日新聞」十月十九日号 「余録」欄)

事態がこのようにこじれて来ると、当事者は目前の対立にのみ目を奪われて、問題の中心を忘れ勝ちになる。……政府がパージの基本的基準をさらに明確にし、それぞれの大学当局もこの基準にもとづく良心的な措置を講ずることに努めるならば、この問題に関する大多数の学生の判断は、いまのような混乱と興奮と陰惨の空気から脱することができるのではあるまいか。

(『朝日新聞』十月二十二日号 「社説」)

学生達の行動に対する批判とともに、学苑の対応に厳しい目を注いでいるかに見える。しかし、島田総長の声明にも記されているように、対症療法的には、「学園平和維持のため、断乎たる処置を執らざるを得なかつた」ことも了解されよう。かくして、十一月七日、自治会中央執行委員長の吉田嘉清はじめ十五人が起訴され、ここに学生によるレッド・パージ反対運動は終息することになったのである。

 学苑内ではこの運動が峠を越したというものの、各大学における一連のレッド・パージ反対運動の展開に注目し、学生の検挙に発展してきている事態を重視した国会(第八回臨時国会)では、十一月十一日に衆議院文部委員会が学苑の島田総長と東京大学の南原繁学長を参考人として招致してこの問題を論議することになった。島田総長は、議員の質問に答えて、「十月十七日事件」に言及し、「学生のみならず、学生以外の諸君……が十月十七日の場合にはかなりの多数に及ぶまでに学園内に現われて参りまして……、学部長会議の席上に侵して参りました者の中にも、相当の数を私どもは数えることができた、こういうふうに考えられるのでございまして、この点は私どもとしては非常に遺憾に考えておるのでございます」と、学内の学生の運動が、いわゆる外部勢力と強く結びついて展開されていることに大学としては大変迷惑で遺憾に思っていると述べるとともに、レッド・パージをめぐる学内の教員の様子を、「大学の教授の諸君のこの問題について考えておりますところは、私どもの大学においてはきわめて冷静であり、平静である……。もちろん大学教授としての適格性というものは、かつてから行われ、また現在においても継続しておりますところの、適格審査委員会において審査というものがございますので、私どもは一応この審査を受けまして、あらゆる者が適格性を持つておるという一応の結論が出た後において、私どもは教壇との関係を持つておるということは、言うまでもなく皆さまの御承知のところだと思うのであります」(『戦後日本教育史料集成』第三巻四七三―四七四頁)と伝えて、レッド・パージに限らず、教員の適格性については、学内の適格審査委員会という正式な機関でかねてより行われている旨を強調した。更に、議員の質問に答える形で、順次、次のように明言したのである。

私個人の考えといたしましては、早稲田大学の教員たるべき資格を考えます場合において、単にある政党に所属しておるから、あるいはその政党が持つておりますところの考え方に同調をするから、そこで適格性はないのだというようなことを考えられるのは、これは大学の立場からしていかがかと、私は少くとも考えておるのでございます。……相当多数の教員の諸君が、いわゆるレッドパージによつて、教壇から追放されるのではないかという危惧の念が〔学生の間に〕あつたということは、否定すべからざる事実ではないかと思うのであります。先ほども申し上げましたように、事実私ども大学の当局といたしましては、まつたくそういうことは考えてもおりませんし、そういうことを考えられる余地はほとんどなかつたと思うのであります……。私は大学の立場といたしまして、重ねて申し上げますが、ただたんに共産党員であるから、いわゆるレッドパージに該当するとは考えておりませんのでございます。あるいはその同調者であるがゆえに、適格性が失われるとも、私は考えておりませんのでございます。さらにそれに程度を越えまして、学園の秩序を破壊し、あるいは学園の平和を乱すような行動なり、あるいは論議なりをされる方が現われた場合において、初めて考えられる問題ではないか、こういうふうに私自身は考えておるわけでございます。 (同書 同巻 四七四―四八一頁)

すなわち、島田総長は、ただ単に共産党員であるからレッド・パージに該当し、こうした教員は排除されるべきであるとの考え方を真っ向から否定したのである。学苑における「学問の独立」を堅持する姿勢を明確にした総長のこの国会証言は銘記されるべきである。レッド・パージの断行に対する学生の強い危惧を充分に把握しつつ、この問題は学苑存立に関わる重要な懸案になり得るとの認識が当初からあって、慎重な上にも慎重に対応していたことが推知される。こうした姿勢が、図らずも議会において、明確な形で現れたに過ぎないとも言える。

 学生によるレッド・パージ反対運動が終息して一年半余の二十七年一月二十三日、起訴された自治会中央執行委員長の吉田嘉清は、法廷に立つに先立って、連座した学生を代表して島田総長に公開質問状を発した。その中に、

たしかに「十七日」、警官の学内導入と百四十三名の検束は、新聞紙上で言われたのとは違った意味で「空前の不祥事」であったと言うことができます。大学という、真理を求め、自由を愛する若者たちの教育の場が、どう言う理由があるにしろ、警察官の干渉の下に、欲しいままにじゅうりんされたと言うことは、早大の輝やかしい伝統・歴史を誇る者にとって許し難い汚辱であると思います。総長先生。先生もそう思っておられるように私も自由の学園早稲田を愛し、誇りに思っています。そして、そうであるだけに、再びこのような事件を起したくはない。師弟が相争い、その上師と仰ぐその人の面前で教え子が、捕縛されて行く……「治安維持法下の時代ならいざ知らず」……。総長先生が学生代表である私と、一回も話し合おうとなさらないで学外者である警官と提携されたことは、今もなんとしても私には理解できません。私は最後まで、こと警察の干渉に対しては、総長、教授、学生たることを問わず、一致して当たることが出来ると早稲田人としての共感を信じていました。……私が「進歩的教授追放」を憂慮する一人の学生として先生にお話することは、当然のことであり、先生が会われないことは、早稲田の伝統的師弟関係を信ずる私として、到底理解できないところです。この点について先生のお考えをきかせて戴きたいと思います。 (「『――」学生生活編集部編『戦後学生運動史』 五一―五三頁)

学の独立』都の西北にひびく――レッド・パージ反対闘争

との訴えがあった。吉田は、この質問状を、「裁判に臨むに当り早稲田の発展を心から思いつつ」との辞を署名に冠して発送した由である。これに対する島田総長の回答があったか否かは不詳である。しかし、島田総長は、前述の国会における証言の中で、「学生代表が面会を申し込んだにもかかわらず、全部拒絶されておるということを、学生諸君の方から聞いておるわけですが、そういう事実はあつたのですか」との議員の質問に対して、「私は決して学生諸君にお会いすることを、拒否してはおらないのであります。学生諸君が正式なる立場において私に会見を申し込んでおいでになりましたならば、私は喜んでいつでもお会い申し上げる。しかし……、しからば何がゆえに学生諸君は、私があれだけ長い間努力し、私があれだけ懇切にお話をしておるこの新旧違いました過渡期における大学各部の推移を、今見ております際において、規定に照らし合せて合理的ならざるところの組織をもつて私に会見をお申し込みになるのか、その点を学生諸君みずから振り返つていただきたいと私は申し上げたいのであります。私が申し上げておりますように、旧制の諸君だけの学生自治会規程によつて、その代表者として私のところにおいでになるならば、私は決して会見を拒否するわけではございません。何がゆえに、新旧混合したところの、しかも規定に照し合せて、いわゆる学園内において合法的ならざる組織をもつて、私にそういうことをおつしやるのか、私はむしろその点をお伺いしたいと思います」(『戦後日本教育史料集成』第三巻四八二頁)と答えている。ここには、いくら吉田達が総長に面会を求めても、前述したように、大学側では、吉田達を指導者とする新制学部の自治会を規程の上で承認するまでには至っておらず、従って、「規定に照らして合理的ならざるところの組織」の代表者とは会うことができないとの立場を採っていたわけである。後述するように、吉田達の世代の学生運動家は、政治的党派性を濃厚に持ちつつも、「早稲田」という学苑に対する愛着をもまた強く抱いていた、いわば学生ロマンの持主も少くなく、立場を越えて「早稲田人としての共感」を求めようとした吉田の如き心情も、あながち無視し、冷淡視するわけにもいかなかったであろう。しかし、責任ある立場の者が、規定を無視して行動することは無責任である。無責任な対応を行うべきでないことは勿論であった。島田総長としては、正式な手続を経た自治会代表者であったならば会う用意があったことが窺われる。総長は基本的には、レッド・パージに対して国会で毅然とした学苑の姿勢を示す一方で、学生にも、規則に照らして責任ある態度を貫いたものと思われる。

 ところで、当時、レッド・パージに反対した学生の行動に対する批判的な意見は決して少くなかった。例えば、第一商学部四年生で、前ワセダ・ガーディアン編集長であった朝岡良平は、「その動機が如何なるものにせよ試験ボイコット、ストのような社会的支持を得られる筈のない手段を強行し、終には大学本部に乱入して暴行に至つたことは、学生の特権を濫用した恥ずべき行動であつた。今後は学生大衆の厳粛な反省の上に立つ新しい学生運動が、少数者の極左的活動に対抗して必ず生れてくるであろう」との意見を述べ、文学部教授の山路平四郎は、「学校が学生運動の在り方について一大啓蒙運動を展開すべきであると思う。学生運動は従来から労働運動などとともに、社会運動の一環として考えられ、今後それらが連合してくることも当然予測されるので、大学も積極的に社会によびかけてこれを正しい方向に導くよう努力しなければならぬ。教授と学生との接触にももつと考慮が払わるべきであつて、新制学部クラス主任制採用などもその一方法であろう」と、学生運動のあり方についての論議の深まりとともに、教員と学生の日頃の緊密な関係を制度的に確立させる必要性のあることを説いている。また、大正期の軍事研究団事件(第三巻三一三頁以下参照)で果敢な学生運動を展開したことのある日本社会党書記長の浅沼稲次郎は、「私も学生運動から社会運動に入つて現在に及んでいるのであるから、学生が赤追放並びに便乗追放に際して進歩的教授を守らんが為の反対運動を展開せんとする気持は分るが、闘争形態としての試験拒否や、不法侵入、公務執行妨害等の疑いをうける手段については諒承できぬ。また学校当局が警官を学園に迎え入れたり、警視総監が団体等規制令の適用を政府に要請するが如きは、自己の職務に自信を失つた姿であつて、反省を要すべきであると思う。大学も学生も取締当局も、冷静をとりもどして、すべてを合理的に平和的に処理しなければならぬ」と述べて、学生の行動に自重を求めるとともに、学校当局にも慎重な対応を求めたのであった(「私はこう思う(文責在記者)」『早稲田学報』第六〇六号 二八―二九頁)。

 かくして、大学当局は、翌年六月の定時商議員会で、この学生達によるレッド・パージ反対運動に対する公式報告を「学生厚生部関係」の項で次のように行っている。

学生騒擾事件

所謂レッド・パージ反対闘争事件であつて、全学連を中心として少数左翼学生が活動した。

イ 九月二十八日事件

学生自治会主催の学生大会を、東大、法大、都立大等の学生も参加し、大学の禁止を犯して大隈講堂で強行し、その後約一〇〇〇名が学内デモを行い、警戒中の警官隊と衝突し、九名の検束者を出した(本大学六、東大二、都立大一)。この事件に対しては、その後の試験ボイコット事件と共に、除籍一三、無期停学八、本学年停学一、三ケ月停学三、譴責一の処分をした。

ロ 十月十七日事件

「レッド・パージ反対、平和と大学を守る大会」を中大、〔旧制〕東大、新制東大、法大等の学生も参加して強行し、終には本部会議室で開催中の学部長会議に乱入したので、一四三名の検束者を出した。この事件に対しては、九三名の学生を除籍したが、その後改悛の情顕著な者六五名を四月に再入学を許可した。 (『定時商議員会学事報告』昭和二十六年)

 では、これだけ紛糾した事件の中で、学苑では、一体どれくらいの教職員がパージされたのであろうか。諸記録を見る限り、資料の上では確認することができない。結果としては、学苑にはパージ該当者がいなかったとしてよいであろう。このことは、実態としては、学生運動家達が危機意識を持ったほどには大きな出来事ではなかったことを意味する。しかし、学生の意識の中では、深刻な大問題としてあったのであり、かかるが故に、大きな学生運動として盛り上がったのである。

二 昭和二十七年「五月八日早大事件」

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 昭和二十七年五月一日の第二十三回メーデーは、会場として使うことが戦後慣例となっていた皇居前広場(当時、革新勢力は人民広場と呼称していた)の使用が政府によって禁止されたため、明治神宮外苑で行われた。閉会後、五つのコースに分かれてデモ行進が展開されたが、このうち、予定のコースを変更して皇居前広場に流れる者が続出し、同広場で都学連の学生や労働組合員ら数万のデモ隊とこれを規制しようとする警官隊との間に衝突が起った。警官隊は、警棒で学生や労働者を乱打し、催涙弾に加えて拳銃も発射して、遂にデモ隊に二人の死者と千数百人の負傷者が出るという「血のメーデー」の大惨事となってしまったのである。そして、警視庁と東京地方検察庁はデモ隊に騒擾罪の適用を決定して、煽動者特定の目安として負傷者を検挙し始め、七月までに千二百余人を逮捕し、二百六十一人を騒擾罪などで起訴した(その後、昭和四十七年東京高裁で騒擾罪は成立せずとして多くの被告が無罪)。このように、このメーデー事件は、講和発効後の占領の軛から解き放たれた政府・治安当局の強硬な弾圧の姿勢を示す象徴的な出来事となったのである。「五月八日早大事件」はこうした過程の中の一事件ではあるが、学苑にとってはまさに予想だにし得なかった大事件となってしまった。

 以下、この事件の推移について、当時、学苑当局が、大学の立場を明らかにするために、「判明した事実を基礎として一応これを取纏め、関係各位の御参考に供する」ことを目的にして配付した『五月八日事件報告』(早稲田大学発行、全十三頁の小冊子)に準拠して大まかにたどってみよう。

 五月一日のメーデー事件を「騒擾罪」として捜査中であった学苑に近い神楽坂警察署では、検挙学生の陳述に端緒を得て学苑学生一人に嫌疑をかけ、五月六日に同署公安係巡査が電話で第一文学部事務所にその住所を照会した。同学部事務主任は、調査の上電話で回答したのであった。翌七日、警察当局は逮捕状を用意して捜査に当ったが、その学生は既に転居して行方不明であった。このため、担当巡査は、更に第一文学部事務所で調査する必要があると考え、八日午後四時頃に、途中で出会ったという同署の公安係巡査を同道して私服で学苑構内に入り、同巡査を文学部正面玄関向い側のベンチ付近に待機させて、一人で事務主任を訪ね、捜査中の学生の身元につき適確な資料を得ようとした。その際、担当巡査はその学生に対する逮捕状を所持していた由であるが、この時、事務主任にこれを示して来意を告げたのでもなく、また、事前の連絡もなかった。

 従って、こうした経緯から見て、逮捕状を所持していたとはいうものの担当巡査の行動は逮捕を目的とするものではなく、検挙の手掛かりを得るための資料を収集しようとの予備的な捜査に重点が置かれていたようである。こうした推移のあとに、『五月八日事件報告』は、「このような、特に緊急を必要としない場合には、警官の学内立入を原因とする学生対警察官の紛争が頻発している最近の実情に鑑みて、警察当局があらかじめ大学当局と十分な連絡をとり、その諒解を得て捜査に着手するのが適当と思われるにも拘らず、そのことなくして大学構内に立入り、捜査を開始したのであつた」(二頁)と遺憾の意を表している。最近頻発している「学生対警察官の紛争」とは、二ヵ月余り前の二月二十日に勃発した東大のポポロ事件などを指している。この事件は、東京大学の学生演劇集団のポポロが教室で松川事件をモデルとした劇を公演中、会場に潜入していた私服警官四人が発見され、三人が学生に包囲されて詰問を受け、警察手帳を取り上げられた上に始末書を書かされるという事態に端を発し、翌日暴行容疑者として二人が逮捕され、のちに起訴された事件である。この事件により、大学内での系統的な警察情報収集活動が明るみに出たわけで、当時、学内への立入りは文部省と警察との規定に違反する恐れのあるもので、大学の自治を侵害する行き過ぎた警察活動として国会でも取り上げられたものであった。学苑当局が、こうした事態の中で今回の事件に遺憾の気持を抱いたことは、無理からぬことであったとしなければならない。

 右にいう文部省と警察との規定とは、当時、通達されていた文部次官通達に関連するものである。これは、二十五年七月三日に出された東京都条例第四十四号「集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例」の第一条に規定されている、道路その他公共の場所で集会もしくは集団行進を行おうとする時、または場所の如何を問わず集団示威運動を行おうとする時は、公安委員会の許可を得なければならない云々に関連して、同月二十五日に剣木文部事務次官から東京都内所在の国公私立大学長・短期大学長・専門学校長に宛てて発せられた「集会、集団行進及び集団示威運動に関する東京都条例の学校内における解釈適用について」という通達である。これは、右の都条例の学校内における解釈適用について「警視庁と協議の結果」決定したもので、その第三項に、「学校構内における集会、集団行進、集団示威運動等の取締については、当該学校長が措置することを建前とし、要請があつた場合警察がこれに協力することとする」(『近代日本教育制度史料』第二六巻一二〇頁)となっている。従って、当時、学苑当局は、今回の警察官の学苑立入りは大学構内の集会や集団行進等とは全く関係のない行為であるとの認識を示したのである。そして、学苑当局は、大学の要請がなければ、いかなる場合でも警察官の学内立入りはできないかの如く解釈するのは誤りであり、また、大学の自治権は正当な捜査権の行使をも拒否し得るほど無制限ではないとの見解を明確にしながらも、「しかし、大学が研究と教育の場所であるという特殊の事情に鑑み、大学に関係する捜査権の行使に際しては、研究や教育の使命と効果とを減殺しないで、なお且つ、捜査の目的を達することができるよう、特別の苦心と考慮とが払われてしかるべきである」(『五月八日事件報告書』二―三頁)と、警察当局に慎重な対応を求めたのであった。

 では、学生はもとより学苑当局が警察官の捜査のあり方にきわめて遺憾な気持を表したこの事件は、どのように推移していったのであろうか。

 前述したように、五月八日午後四時頃に学苑にやってきた公安担当と同行の両巡査のうち同行巡査は、特別の必要がなかったにも拘らず、構内で担当巡査の帰りを待ち続けていた。やがて、不審に思った学生に身分を問われ、公務員は身分を明らかにしなければならないにも拘らず、同行巡査は飴屋に会うために学校に来たなどと頗る曖昧な返事をしたため、間もなく多数の学生が包囲する事態になっていった。そして、一部の学生が同行巡査を文学部校舎三〇二番教室で「吊し上げ」た。学生達は同巡査に身分確認のため警察手帳の提出を求め、受け取った学生がこれを読んだ。そして、一部の学生が、所持しているかもしれない拳銃を取り上げようと提案した。この時、同教室へ急行してトラブルを収めるべく努めていた第二文学部教務主任の荻野三七彦は、学生達の再三の要求を拒んでいたが、事態に万やむなしと考え、同行巡査の承諾を得た上でその上着とズボンのポケットに手を触れて拳銃の有無を確かめたが、見当らなかった。そこで、学生達の追及の矛先は、同行巡査に対して、学苑への立入りは前述の文部次官通達に違反する不法侵入であるから、始末書もしくは陳謝の書面を差し出すよう強く求めるものとなっていった。従って、大学側にも学生達にも、同行巡査の公務を妨げたり不法に監禁するなどという意思のなかったことは明らかであった。とはいえ、この間に多少の時間が経過していた。三〇二番教室は午後五時から普段通りに第二文学部の授業が行われる予定であったため、同行巡査と荻野教務主任らや、既に学外に立ち去っていた担当巡査の連絡によって三〇二番教室へ来合せていた神楽坂警察署警備主任の警部補らは、六時頃、学生生活課前に移動した。やがて学生が四百人ほど集まってきたため、その場所での折衝の続行を余儀なくされてしまった。

 ところが、学苑でのこうした状況をめぐって、警察側の動きが慌ただしくなってきた。午後七時四十分頃には戸塚警察署警察官約七十人と第四方面予備隊員約百六十人、八時頃には神楽坂警察署警察官約百人がそれぞれ正門前に到着して、学生達と対峙する情勢となった。その頃、外出中であった学生厚生部長滝口宏が駆けつけて、島田総長と連絡を終えて正門前に行き、神楽坂警察署長に武装警官を構内に入れないよう要望するとともに、学生生活課前の交渉現場に行って学生達に平静を保つように強く注意した。次いで、滝口は平穏裡に解決を図るため同行巡査と警部補に対し、「既に一応の御承諾を得たそうであるが、本日の場合警察側にも多少の手落ちがあったのであるから、今後こうしたことをしない、という趣旨の書面を一通書いてもらいたい」と述べて、事態収拾を斡旋したのであった。これに対して学生達も警部補も同意した。だが、警部補は署長の承諾をも得る必要があると言ったので、学生生活課員らが少くとも四回に亘って同署長にその旨を連絡したが、一向に要領を得なかった。更に八時五十分頃には、第五方面予備隊員約百六十人も二号館の北側付近に到着した。

 このように緊迫した状況の中で、これより前に第二文学部の講義を終えた教育学部長佐々木八郎が現場にやってきて、事件の円満解決に微力を尽そうと試みた。佐々木は、正門前で待機中の神楽坂警察署長に会い、学生・警察官・大学当事者の三者会談を開いて、その妥協を俟って双方が同時に解散してはどうかと提案した。これに対して署長、次いで滝口部長および学生達が同意したので、協議の場を二号館一一〇番教室に移すことになった。そして、学生の代表として系統学部別に六人と、その他この日の事情を知っていた学生四人の計十人、警察側として同行巡査・署長・警部補・署員の四人、大学側として滝口部長・佐々木学部長・荻野教務主任・根本誠教務副主任の四人が、午後十時頃より会合を開いたのであった。この場には、右記の者のみがいたのではなく、私服の警察官や報道関係者らも多数立ち会っており、協議の状況が公開されていたのであった。この会談では、前述の文部次官通達の解釈と担当巡査の行動をめぐって、それぞれの意見の開陳や質問などが繰り返され、時間が経過していった。やがて、署長は席を立って滝口部長を招き、担当巡査に一筆書かせましょうと耳打ちしたので、滝口はこれを了承し、署長はそのように手配した。しかし、警察側では、容易に署長の指示に沿うような回答をもたらさなかった。更に交渉は遷延して八日中には解決せず、とうとう九日の午前零時を過ぎて、二日がかりの会談になってしまった。大学側は、「一筆書かせる」との警察上部からの回答を今か今かと待っていたが、一向に回答は届かず、いたずらに時間が過ぎるばかりであった。そのうち、佐々木学部長は、問題の一筆が到着するまで同行巡査を休憩させてはどうかと署長に勧めると、署長は早速これに応じたので、同行巡査の腕を学部長が抱え、学生四、五人と新聞記者数人とともに学部長室に案内した。こうした一連の佐々木学部長の処置は、同行巡査をいたわり安静に休ませるために採られたものであって、この時、同行巡査は何ら不法監禁というが如き状態には置かれていなかったのである。こうして一一〇番教室での交渉が妥結に近づいているように思われたにも拘らず、なかなか解決せず、再三再四延引する事態となったのは、警察側が言を左右にしていたためであった。しかし、学生には、今にも解決できるような状態に見えたため、その結果を知ろうとして約三百人が屋外に坐って待ち続けていたのである。そして、依然として相当数の私服警官が彼らを取り巻き見守っていたことは、当時、報道関係者が目撃したところであった。ところが、そうした最中、突如として警官隊の実力行使が始まったのである。『五月八日事件報告書』は次のように記している。

午前一時十分実力行使の命令が下されたと、後になつて認められるその時刻、学校側も学生達も、それを全く知らず、伊藤署長の本部長への電話連絡を懇請しその結果を待つていたのであつた。署長らが協議の室を去つて、その室内に警察側の人々の姿もなく、電話によつて妥結点を得ると信じ、期待していた学生達の群に、同二十分頃、突如武装警官隊襲撃のかん声が迫つたのである。……武装警官の群は窓ガラスを破損して気勢をあげ、逃げまどう学生を追つて校舎内四階にまで入り、二階図書室の如き鍵をかけてある扉はこれを打壊し、又、現場より数十米の通路上(例えば理工学部校舎前)でさえ学生を乱打して重傷を負わせ、しかもこの間、報道員その他学生服以外の人々までを殴打し負傷させたのである。後に、警察側の発表した警官負傷二十数名がこうした無秩序の暴挙のための同士打であつたか、血気にはやり自ら負傷したものであるかは明らかではないが、学生達の積極的抵抗は全くなかつたということができるのである。警察側の主張する山本巡査の救出が、実力行使の目的であつたとしたならば、この行動は許され難い程過激なものであつて、負傷した学生の大部分が頭部を強打されていることは、平素の訓練に於いて十分の周到さを欠いた結果とも思われる。 (一一―一二頁)

 以上の如き学苑当局が公表した警官隊の実力行使の経過の記述が、決して誇張の言ではないことは、この九日未明の事件を報道した新聞記事によっても裏づけられる。『朝日新聞』九日朝刊は、社会面のトップ・ニュースとして紙面の半分を費やし、「集合の学生を追払う警官隊」との説明をつけた写真などを掲げて、「警官隊、早大に踏込む/学生ら三十余名負傷/メーデー騒乱事件捜査から紛争発生」「学生は『無抵抗』」との大見出しで、深夜にずれ込んだ大詰の交渉と実力行使の状況をつぶさに報道し、『毎日新聞』九日朝刊なども、こうした事態を同様の筆致で報道した。更に、十日の『サン写真新聞』は、「扉をコジ開ける警官隊」や、「教壇占領」の武装警官隊や、負傷して倒れたままの「警官にやられた学生の姿」や、「負傷者続々」との説明がついた、手拭い等を頭に巻いて机や椅子にうずくまっている多数の学生に加えて、武装警官二人に両腕を押さえられて連行されていく「佐々木教育学部長検束」の姿などの生々しい現場写真六枚を掲載して、「警視庁予備隊三〇〇名が早稲田大学に踏み込んで建物をコワし、学生をナグリ、さんざんに威力を発揮した上学生三〇余名に重軽傷を負わせて引揚げた。九日午前一時過ぎの出来事である。こんどの『学園ジュウリン』事件は、メーデー事件の容疑者をさがしに行った巡査が、学生に『つるし上げ』られ『軟禁』されたのを引渡せ、渡さぬの捕虜引渡し問題から起ったのだが、も少し時間をかければ円満に政治的に解決できたものを、警察側が面子と力をたのんで一挙に踏み込んで荒れたためで、学生側は『無抵抗』に近かった。負傷者は最初一〇〇名と伝えられたが、少なくてすんだのは幸いだった。が、公然とピストルとコン棒を持っているのは警官ばかりの世の中に、政治的不手際が暴力にまで発展。取材中の新聞記者まで警官のコン棒でやられ、ケガさせられるようでは、実にこまった世の中である」と解説している。

 こうした一連の報道ぶりに比べれば、学苑の報告書の方が却って控え目で、節度を以て「事実」を公表している感を与える。そして、九日の各紙は、田中栄一警視総監と島田孝一総長双方のそれぞれの記者会見の模様を報道している。『東京新聞』朝刊は、「警視庁としては隠忍自重し六時間以上も交渉を続け、穏便にすませたいバラだつたが、学生側はワビ状を書かなければ釈放しないと突ツぱつた。こちらとしてはワビ状を書く必要は全然ない、不当監禁されている署員を救出するにはやむをえなかつた。このことは島田総長にも実力を行使するということを連絡しておいた」という田中の談話を報じた。「実力行使の際学生は無抵抗であつたのに警察が一方的な暴力を揮つたとみられているが」との問いに対して、田中は、「警官が実力を行使する場合は無用なトラブルを起さないように厳重に戒めてあり、公務執行を妨害したような事実があつたからやむをえずやつたのではないか」と答えている。この警視総監の会見に対して、『毎日新聞」夕刊は、九日午後零時半の島田総長との記者会見の模様を、「(問)総長は警察の実力行使に対して事前に通告を受けたか。(答)全く受けていない。(問)午前一時戸塚署から電話があったというが。(答)電話はあったが、話をしないうちに向うから切れてしまった。(問)神楽坂署員が大学へ来る以前に通告があったか。(答)全くない。(問)こんどの警察の実力行使をどう見るか。(答)あくまで円満解決に持って行こうとした学生側の態度に対して警察のとった行為は許し難い。特にもう一歩で妥結が出来るというとき一方的に実力を行使したのは警察自体の品位を落すものだ。(問)今後の対策は?(答)大学としては各学部でばらばらに抗議するというような型をとらず、全体として警察に決定的な追及をするつもりである」と報じている。このように、警察からの「事前通告」を学苑は一貫して否定しており、両者の対立が生れたのであった。

 九日は普段通り授業が行われたが、事態を知ったその他の学生達も続々登校して、午後一時より、大隈講堂でこの事件に関する学生大会が開かれることになった。これに対して大学側は自重を求め、更に大会開始後も解散を命じたが、学生側はこれを拒否して討議を続行した。この日、学苑では、早速、事件究明の調査団を設置するとともに、島田総長は、午前十時半、文部省を訪れて天野貞祐文相、日高第四郎次官、稲田大学学術局長と約三十分に亘り懇談し、事件の経過を報告するとともに大学側の態度を表明した。また、午後一時より八時間に亘って緊急学部長会が開かれ、事件の正確な把握と今後の対策が協議された。この結果、問題を徹底的に追及することを全会一致で確認した。

 この間、午後二時頃に島田総長と佐々木教育学部長が警視庁を訪れ、田中警視総監に警官隊の激しい実力行使に対する学苑側の遺憾の意を強く伝えて厳重な抗議を申し入れた。この時、総長らは「三時間にわたってかなり激しい口調で警察当局に詰めよった」といわれる。総監は「多少行過ぎた」と漏らしたが、会見を終えた総長は、「総監は不法監禁したから実力行使の止むなきに至ったと説明し、不法監禁でないとする学校側と大きく食い違っていた」と語って、一層態度を硬化させたのである(『朝日新聞』五月十日号朝刊)。そしてその夜、学部長会での協議の結果、とりあえず総長告示を発表して、十日に登校してくる学生達に自重を望んだのであった。このように大学当局は、この段階で、これ以上の混乱を避けるため極力学生達の自重を求めるとともに、「調査のうえ善処」することを約束して、学苑側の一部の非を認めた上で警察の行動に対して遺憾の意を明確にしたのであった。

 この事件は早速翌十日に国会の取り上げるところとなり、午後一時五十四分より開かれた衆議院本会議で、与党を代表して佐瀬昌三(自由党)、野党各派を代表して受田新吉(右派社会党)が緊急質問に立った。その様子を五月十一日付『朝日新聞』朝刊は、「政府側は天野文相、木村法務総裁が答弁に当ったが、一、警察側の実力行使に遺憾な点があった、一、当日の学生の態度は全体として自重しておった、一、島田早大総長の声明を了承する、など警察側の処置に対して不利な意向を明らかにし、野党側をよろこばせた」と報道している。また、午後二時半より衆議院の法務委員会でもこの事件が緊急に取り上げられ、早大事件はこの日大きな論議の的となったのである。この法務委員会には島田総長・滝口学生厚生部長、田中警視総監、稲田文部省大学学術局長が出席を要請されて、主として「警官の軟禁」と「次官通達」および「実力行使」について証言した。この証言の模様を『毎日新聞』五月十一日朝刊は、「対立する『軟禁』の解釈/学生達をほめる島田総長」との見出しで、「軟禁問題については長時間にわたって大学、学生、警察の三者で話し合っている間も同巡査の発言と身体の自由は何等拘束されていなかった。私は実力行使を待ってくれと数回お願いして来た。それを時間が長すぎるということを理由に、また増井警備第一部長が私が了解したかのようにいって命令したことについては納得することは出来ない。実力行使に当っての学生の態度は実に立派だった」と伝えている。このように、学苑側は警察側の行き過ぎを衝き、新聞もバランスを保ちつつも、論調は幾分学苑に対して好意的とは言わないまでも、非は学苑よりも警察側にあるとするような書きぶりであった。

 次いで十二日には、参議院の法務委員会に「集団暴力に関する調査小委員会」が設置された。これは、早大事件のほかメーデー事件、東大事件、愛知大学事件など最近の類似の事件を総合的に取り上げて、検察と警察行政運営の立場から調査するもので、各事件の真相のほか、警察側の処置が適切であったかどうか、行き過ぎの点がなかったかどうか等についての究明を目的とするものであった。そして同小委員会は、十二日午後、学苑と神楽坂警察署で現地調査を行った。また、早大事件の際、共同通信記者と東京新聞自動車課員が警官隊に警棒で殴られ負傷したことについて、警視庁内の新聞記者団は、同日、田中警視総監に対し抗議文を手渡した。一方、東京地方検察庁では、警視庁とは別な立場から調査を進め、東京高等検察庁大越検事、同地検鶴田検事を係り検事として、捜査を開始した。

 事件の早急な真相解明の動きの中で、学苑は、九日に設置していた事件究明の調査団の調査がまとまったので、十二日の理事会にその結果が報告された。そして、更に十三日の学部長会に諮った上で、大学当局の報告書として発表し、関係当局と全国の大学に送ることにした。この調査は、事件に関係した教職員や学生の陳述に基づいて行われたもので、十二日中に報道陣にも伝えられた。その要旨は、

▽学生に捕った山本巡査は、学内をかなり歩きまわった形跡がある。▽三者会談の情報は、警察側にひとつ一つ伝えられ山本巡査は軟禁されていないことがわかっていたはずだ。会談が長びいたのは警察側の責任である。▽警官隊がなぐりこんで来たとき、学生たちは座っていた。校舎の中にいた学生は四階まで追い詰められ両手をあげて無抵抗の意志を表したものがあったが、そういう学生もなぐられた。 (『朝日新聞』五月十三日号朝刊)

というもので、これは、第一次報告と言うべきものであった。この調査結果に基づいて、十三日、島田総長は田中警視総監に対して、抗議文を学苑の丹尾磯之助庶務部長を通じて手交した。実は島田は、東京都特別区公安委員を二十三年三月よりこの事件の前年の二十六年三月まで務めていたことがあり、事件の最初の報道の段階で、「事件の発端になつた山本、荻野両巡査の行動につき事前了解があつたといわれているようだが、わたしはこのことについて全く知らない。わたしは都特別区公安委員をやつていたから、田中君はじめ警視庁の幹部諸君はよく知つているが、今度のやり方については全く遺憾だ」(『東京新聞』五月九日号朝刊)と語っている如く、警察側を熟知しているだけに、警察側のこのたびの姿勢と対応に対してきわめて心外な気持を抱いたものと見られるのである。学苑側の対応を考える場合、島田総長のかかる立場をも考慮に入れて考える必要もあろうかと思われる。そして、『毎日新聞』は五月十五、十六両日(朝刊)に亘り、評論家の阿部真之助を聞き役とする島田総長、田中警視総監、日高文部次官の「早大事件を語る 当事者座談会」を掲げているが、総長と総監の見解は平行線のままで、とりわけ田中総監の主張する「実力行使」の警察側からの「事前通告」と、これに対しての島田総長の「了解」については、総長はきっばりと否定して、「その点が違う。実力行使について増井部長から最終的連絡を受けていない。増井部長もおそらく連絡したいと考えて電話をかけて来られたものと思うが、その電話を何故お切りになったかが判らない」と、強く疑念を表明したのであった。

 以上のような学苑側の抗議や国会での証言そして報道ぶりに対して、警視庁は十四日、増井警備第一部長らが記者会見して「早大事件の全貌」を発表した。「実力行使の行過ぎは認めるが、交渉経過は当局に落度はない」との「調査事実」の発表であった。これは、各紙十五日朝刊の伝えるところとなったが、ここでは、比較的詳しく報道している『毎日新聞』の記事「交渉経過に落度なし/早大事件 警視庁で全貌発表」を次に掲げておく。

事件の発端 メーデー暴動事件容疑者として早大生藤田某を検挙取調べたところ、さらに二名の容疑者が判明した。うち一名は女子学生山下某であることがわかったが、住所姓名がはっきりしなかったので、それを調べるため七日午後零時二十分ごろ神楽坂署荻野巡査から早大滝口学生課長に電話、滝口課長から市川事務員に連絡するよういわれた。市川事務員から山下某の住所は中野区野方町と教えられたが、該当がないので八日午後荻野、山本両巡査は直接学校を訪れた。その時山本巡査は図書館横のベンチで待っていたが、学生に取囲まれた。荻野巡査が帰ろうとすると学生は「ドロボー」と叫びながら追いかけたので同巡査は、付近の民家に逃げ込み一一〇番で事件を急報した。

不法監禁 山本巡査はたちまち数十名に囲まれ四号館内二階に連れ込まれて教壇上に立たされた。ここで早大荻野教務主任が山本巡査の身体検査をして警察手帳をとり上げた。戸塚署藤原警部補らが応援にかけつけてからは一号館と二号館の中間広場に連れて行かれ大衆討議で吊し上げられた。午後七時半ごろ予備隊が到着したところ「このまま警官が突入したら二人を殺す」と叫んで、山本巡査をだき上げもみ抜いた。

交渉経過 三者会談では次官通達が問題になったが、これは学生側の解釈の誤りであることを指摘した。次に巡査が学生に囲まれたとき最初身分を明らかにせずアメ屋だといつわったことが問題になった。これに対し伊藤署長はその点学生側のいうことを真実と信じわび状を書かせると約束した。しかしこれはその後警視庁からの指示ではっきり拒否した。

実力行使 増井警備第一部長は八日午後八時ごろから九時半ごろまでの間、島田総長宅を訪問、善処方を申入れた。島田総長は川原田〔僖一朗〕事務員に連絡させると約束、帰りに止むを得ないときは実力行使をすることもあると申入れた。九日午前一時ごろ川原田事務員から電話があり、次官通達違反だと主張してきた。そこで増井部長は島田総長に電話し、現場で解決の見通しがないから実力行使も止むを得ないと伝えたところ総長も止むを得ないと答えた。

行過ぎの有無 実力行使の際、最初警官隊は静かに押して行った。建物の中へ入ってからは確かに行過ぎのあったことを認める。しかし学生側もガラスの破片や石をなげつけゲタでなぐり警官隊は二十七名が負傷した。

 以上が、報道された警察側発表の「事実」であった。このうち、特に「不法監禁」、「実力行使」と、その事前承認をめぐる食い違いとが注目され、学苑側が一貫して主張し、抗議し続けてきたこの点に関する見解とは異った「事実」認識を示したものであった。

 さればこそ、学苑としては、こうした警視庁の「事実」発表を黙認することは到底できず、前述した『五月八日事件報告書』を作成して、関係個所に正確な「事実」の伝達に努めたのであった。これは、一連の新聞報道や警視庁からの「事実」公表の後に、五月十七日現在までに判明した「事実」を大学側の公式見解として出したもので、去る十二日に学苑の事件究明の調査団がまとめ十三日に報道された報告書に次ぐもので、いわば第二次報告と言うべきものであり、「事実」経過と警察側の見解に対する「反論」の意味を込めた内容となっている。それだけに、これだけは間違いなく明確にしておきたいとの大学の姿勢を関係者に強く訴えるものであった。「実力行使」に至るまでの事情について、同報告書は次のように記している。

山本巡査の救出ということはむしろ名目に過ぎず、実は、実力をふるつて一挙に学生を退散させ、交渉を打ち切るということがその目的であつたと推察される。元来、民間の手落については、些細な出来事についても始末書を提出させるのが警察のとつている方針であるにも拘らず、警察側の手落については、殆んどそのような書面を出していないのがわが司法警察の風習となつているのであるが、最近、東京教育大学事件において、警察側がこれに類する書面を差出したという事例もあつたので、今回の事情は異つているけれども、藤原警部補や伊藤署長がこれに類した書面を書いてもよいと言明し、且つ、命令してでも書かせると約束までしたことでもあるので、学生や学校側がこれを期待して、長時間の交渉に当つたのも無理からぬことであり、決して非常識なことではなかつた。……そこに至る経緯を知つていたならば前述のような冷かな処置を採ることはできなかつたものと思われる。警察側が自ら時間の遷延を敢えてしながら交渉が遷延して深更に至つたから、実力を行使したものであるとするならば、それは甚だしい誤謬であつて、それでは時間の経過が暴力を正当付けるというに等しい論理を認めることになつてしまうのである。

なお又、前記の警視庁が発表したとみなされる文書に拠るならば、実力行使の命令は、九日午前一時十分に発せられたとのことであるが、それまでの間に島田総長がこれを承認した事実は全然なかつた。即ち、同夜増井警備第一部長、衛藤第四方面本部長等が総長の自宅を訪ね、一時間近くに亘つて事件解決について会談した。更にその会見後に於いても、総長は少くとも三回にわたり、警察側と電話連絡によつて実力行使を避け、平穏に解決すべき旨を強調した。殊に、実力行使について総長にかけられた電話の場合にあつては、先方より総長を呼び出しながら暫くの間放置し、「失礼致しました」という一言のもとにその電話を切つてしまつたというが如きは、極めて不可解な事実であつたと断ぜざるを得ない。 (七―一一頁)

学苑は、このように「事実」を伝えることに努め、関係各位に真相の理解を求めたのであった。

 さて、こうして学苑と警察側の主張が、いわば真っ向から対立してしまった事態を重視し、憂慮して、ここでその解決に乗り出したのが学苑関係の国会議員であった。先ず早大関係参議院議員団の大山郁夫(第一クラブ)、大隈信幸(民主クラブ)、小野義夫(自由党)、波多野林一(緑風会)、下条恭兵(右派社会党)、宮坂完孝参院委員部長ら十八名が五月十四日午前十時半、参院副議長応接室に島田総長以下学苑当事者を招き、事件の経過を詳細に聴取して、問題の取扱いを検討し解決に尽力することにした。また衆議院側でも、校友の代議士浅沼稲次郎(右派社会党)、石田博英(自由党)、川崎秀二(改進党)の三議員が精力的に調停に乗り出した。これら議員の具体的な調停工作の過程は、当事者が記録に残していないため不詳であるが、その結果、事件の大きさにも拘らず、実に急転直下の形で解決への運びとなった。すなわち、二十一日に、事件発生以来十二日にして両者の「和解」が成立することになったのである。

 学苑当局および学生と警視庁との間に、こじれた関係が深まるのを憂慮した浅沼、石田、川崎三代議士は、警視庁発表の「事実」と大学の「報告書」発表内容とを検討し、また、世論の動向をも勘案して、いわば双方の面子をたてる形での斡旋案の作成に努めた。そして、その案を五月二十日に大学、警視庁の両当局者に手交して検討を委ね、諾否を諮ったのである。学苑では、この和解案を翌二十一日朝の緊急理事会および臨時学部長会に付議して、それぞれから応諾の同意を得ることができた。他方、警視庁でも、同様にこの案を受諾するところとなった。これを承けて、三代議士は、二十一日午前十一時から、衆議院内の常任委員長室に学苑側の島田総長・佐々木教育学部長・滝口学生厚生部長・時子山常三郎第二政治経済学部長の四名と警視庁側の田中警視総監・大岡総監室長・野呂山弘報課長の三名を招いて、正式に調停交渉を行った。この結果、双方とも互いの行き過ぎを認め、遺憾の意を表明した。そして、三代議士が、作成した「覚書」を示して了解を求めたところ、島田総長と田中総監はともにこれを承認したのである。この和解のニュースは、同日各紙夕刊が「解決の握手」などとの説明のついた写真入りで大きく報道するところとなった。以下に掲げるものは、要旨を伝えた新聞報道ではなく、学苑が五月二十二日付で刊行した『早大事件に関する覚書』(早稲田大学発行、全六頁の小冊子)所収の「覚書」の正確な全文である。

早大事件に関する覚書

衆議院議院運営委員長 石田博英

改進党国会対策委員長 川崎秀二

日本社会党書記長 浅沼稲次郎

私共三名は早稲田大学校友として五月八日夕刻より九日早暁にかけて発生した所謂「早大事件」に対し深い関心を持ち、事情を調査してその責任を明らかにすると共に、学校当局と警視庁との対立について公正、妥当なる解決をはかり、以て昨今各地に頻発するこの種事件の根絶を期することに意見の一致を見た。

よつて三名は直に事件の経過と主張について双方の見解を訊した結果、次の如き結論に達した。ここに文書を以つて学校側代表者たる早稲田大学総長島田孝一氏、警察側代表者たる警視総監田中栄一氏にこの結論を通知し双方共いたずらに相手方の非を追究することなく深く自省されてその実をあげることを要望するものである。

一、警察側に対する意見

(イ)荻野、山本両巡査の行動は次官通牒に違反するものではない。然し、山本巡査が図書館脇において学生の質問を受けた際「アメやを待つている」と虚偽の返答を行なつたことが事件を悪化する一因をなしている。警察官として適法の行動を行つているのであるから、その旨を正しく述べるべきであつた。

(ロ)適法な行動でも、客観的な情勢に対する慎重な考慮が望ましい。

(ハ)警察官は「不法の行為」に対しては最も峻厳でなければならない。力の圧迫に押されて自から「不法」に屈するならば、それだけで警察官の適格性が疑わしい。この事件の場合、学生側の「詫状を書け」という要求には応ずる必要はない。特に一部の学生が多数を頼み自由を拘束しての要求であるからなおさらである。

従つて山本巡査、藤原警部補がこれを拒絶し続けた態度は正しい。このため学生側の暴力によつて受けた犠牲は償われなければならぬ。

これに反し、神楽坂警察署長は「学校側との連絡に過誤があるならば荻野巡査を捜して詫状を書かせる」と約束しているが、この署長の言動が明確を欠き事件を長びかせ深更にいたらしめた一つの原因を為しているのであるから、その責任は明らかにすべきものと考える。

(ニ)実力行使に当つて、学校側に対する連絡については双方の主張に食い違いがあるが、公平に見て完全であつたとはいい難い。

この場合、後日の異論を生じないよう措置をとるべきである。

(ホ)また実力行使を行うに至つた情況判断については、必ずしも適当とはいえない。

実力行使発令後の行動は冷静適当を欠き、行き過ぎのあつたことは否定できない。警察力は常に必要最少限に止むべきであり、背後より、実力を使用した例を見ることについては警察側の反省を求めなければならぬ。

指揮者の責任を明らかにすると共に、警察官の訓練、教育について再考を要するものと考える。

二、学校側に対する意見

(イ)この事件の発端は必ずしも偶発的であつたとは考えない。一部学生の行過ぎにあつた。

(ロ)午後九時五十五分第二号館一一〇番教室において、学校側、警察、学生の三者協議が行われるまでは一部の学生によつて山本巡査及び藤原警部補に対する不法拘禁、強制的な訊問、身体検査が行われたことは認めなければならない。法によらないこの種の行為は何人に対しても許さるべきではない。学生の行為は不法であつて、この責任は明らかにすべきである。

従来各学校における事件をみるに所謂「次官通牒違反事件」については「大学の自治」を護るために警官に対する自由拘束、調査訊問、身体検査の特権があるかの如き行動が多い。これは美名の下に不法を行うことである。必要あるときは学校当局において交渉解決することでなければならない。

(ハ)今回は、従来の学校事件と違つて、学生側に在つては比較的静粛であり秩序もあつた。然し集団の圧力による自由の拘束、強制は一種の暴力であり、且つ山本巡査を四号館から後手にさせて連行し、広場に終始起立させ、また一時一部の者が直接暴力を加えたことは事実であつた。

(ニ)学生側が山本巡査及び藤原警部補に「詫状」を書くことを要求したことは強制且つ脅迫的行為であり、山本巡査及び藤原警部補がこれを拒否したことは当然である。

(ホ)学校側の教授及び職員が事件の円満な解決をはかつた努力と善意は認めるが、前述の学生の不法を抑えて、山本巡査及び藤原警部補の自由を恢復し、学校側が引取つて警察と交渉する方向に強く指導すべきであつた。然るに自ら身体検査(本人の承諾を得てはいたが)を行つたり、詫状を書かせる斡旋を行つたことは遺憾である。

(へ)次官通牒を正しく学生に徹底せしめる努力に欠けていた。勿論一部学生は故意に誤解乃至拡張解釈し利用していることも認めなければならぬ。

付記

一連の学校事件と共に早大事件においても最も警戒すべきは学生と警察官との間に無用の敵対心が存在することである。学生の思想傾向の如何を問わない。警察側は大部分の学生は穏健で真面目に勉学に努めていることを知らなければならない。

メーデーの際宮城前広場で暴行を働いた学生と早大事件の学生は極めて一部を除いて同一人ではない。それを同一人視し、感情的に行動したことは遺憾である。

また、警察官の職務は尊敬さるべきである。同時に尊敬に値いすべきものでなければならない。今回の事件は警察官の年令・教育・訓練・待遇について再考すべき問題を残している。

大学は学問と共に社会的良識と教養の付与について、将来国家の最も優れた中核たらしめるための教育について、更に積極、且つ指導的でなければならない。

また、大学の自治、学問の自由は護らなければならない。この点について現在の警察の行動に必ずしも満足するものではない。然し大学に決して治外法権が認められているものでないことも勿論である。所謂「次官通牒」の検討によつて両者の調整をはかることを文部・法務両当局に要請するものである。

なお、この覚書は「早大事件」に関連する各種の刑事事件の訴追をも中止せしめようと考えているものではない。

昭和二十七年五月二十日 (二―六頁)

 このように、双方が、その行き過ぎを認めるという形で、右の覚書に同意することによって、膠着していた対立に一応の終止符を打ったのであった。しかし、学苑としては、この覚書に必ずしも一〇〇パーセント満足していたわけではなかった。それは、この『早大事件に関する覚書」の前文に、「覚書に使用されております法律上の用語に関しましては、意にみたぬ点が数箇所ありますが、法律的な評価は終局的には裁判所の判断すべき事項でありますので、その点までも大学側が承認しているのではありません。要するに、司法的な関係をはなれての両者の了解であることに御留意願いたいと存じます」と記していることにも窺えるのである。

 この「五月八日早大事件」は、東大その他の大学で発生したこの年の学生対警官の衝突事件の一つであった。中でもこの事件は、警察側の過剰な行動が社会の最も注目するところとなり、国会でも論議されるに至った。こうした一連の事件は、いずれも警官の学内立入りに端を発し、「次官通牒違反」とする学生が警官を「吊し上げる」行為を行って、紛争が拡大するというパターンとなっている。学苑の場合でも、島田総長が、「一部学生が警官に対し、いわゆるつるし上げを行った事実は学生の行為として穏当を欠くものがあった」と認めているところであった。前述の「早大事件を語る当事者座談会」で、日高第四郎文部次官が「一部学生には職業的に破壊活動に没頭しているものがいる。……そうした職業的な一部の学生は国家権力で取締ってもらうよりほかはないが、その前にやはり大学の指導にまちたい」と発言したことを承けて、島田総長が、「正直にいって極端な学生は早大では二十名ぐらいで大部分の学生は問題にしていなかった。それがああいう事件が起ると、かえって逆効果で、あんなにやられるのでは黙っておれないという気分を真面目な学生にまでうえつけたのではないかと思う」と、学生の持つ微妙な心理に言及している。そして、日高次官が更に「学生は何といっても国家の一番優れた分子だからこれを国家権力の不手際から敵にまわすことは日本の重大な損失だ」と語っている。このあたりが、大学側と警察側との和解、すなわち、「高等政策」的な妥協を速めた要因と見て大過ないであろう。

 しかしながら、警官隊による実力行使で無抵抗のまま重軽傷を負った当の学生達は、この調停のテーブルについていたわけではなかった。大学と警視庁との和解が成った五日後の五月二十六日、中央抗議委員会が十分な数の委員が出席しないまま行われ、三十日に大隈講堂で全学学生大会を開催することを決定し、そのスローガン全十五項目を決めた。その中に、「恥ずべき政治的協商『手打式』の覚書を破棄せよ」「官憲に屈服し、警察の立入りを無条件許可した、反早稲田島田総長の即時退陣」「大学当局者よ!特高的警察と手を切り、学生と手をくめ」などの文言があったが、学生大会そのものは実現されず、事態は終息していった。だが、大学と警視庁の妥協に対して、「この覚書は、事件直後から警視庁の堅持してきた見解に全く妥協したもので、我々は学生として之に到底満足することは出来ない」として、第一商学部学生委員会が『五月八日事件綜合報告書』を六月十日に発行するなどしており、大学当局と警視庁に対する不満と不信が残されたままとなった。そもそも、明治以来、警官と市民の間には相互に不信感が持ち合わされており、戦前を通じて、特に学生には、とりわけ学生運動に大きな役割を演じてきた学苑の学生達にとっては、ややもすれば警官を以て権力の走狗視する偏見が強く、この時期においても、そのような心理が必ずしも払拭されてはいなかった。そして、この事件もまた、「和解」の枠外において、却って、そうした偏見を学生達に更に根深く残してしまうことになった面もあったことは否定できなかった。これは、日々の市民生活の平和を守り、秩序維持に努めようとする警察側にとっても、実に不幸なことであったと言わなければならない。

三 学生運動家の意識

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 新制大学発足頃、大学をめぐる情勢に大きな危機感を抱いて対応した学生の大部分は、学生運動の推進者であったが、そうかといって、一般の学生が全く無関心であったわけではない。当時競走部の部員で、後に映画監督になった篠田正浩(昭二八・一文)が回想して、「演劇とレッドパージと陸上競技。これが私の学生生活の三題話である」(早稲田アスレチ。ク倶楽部編『早稲田大学競走部七十年史』一七七頁)と記しているように、この時期の多くの学生にとっては、在学中に体験した中で最も大きな衝撃を受けた事件であったことは疑う余地はない。

 そして、この頃の学生運動のリーダーの気質というものは、後年のそれとは、大分異っていたことが窺われるのである。そうした特徴の一端を、当時のリーダー自身に語ってもらおう。

 昭和二十六年に政治経済学部を卒業して、後に大東文化大学教授となった村田克已は、「レッド・パージ事件のころ」と題して、次のように回想している。

戦後、昭和二十三年に早稲田に再入学しましたころ、教材、文房具、住いなど、学生自身の手で学生生活を守ろうということで、既に全学連はできていました。在学中の大きな事件はイールズ事件とレッド・パージです。蜷川譲君が最初の指導者として頑張ってましたが、レッド・パージのころは吉田嘉清君が委員長でした。われわれのころは軍隊帰りが多くて、海軍将校や潜水艦の艦長だったものも友人にいましたし、学内にはヨレヨレの軍服のようなものを着た連中がよくいました。学生運動の組織は学院から続いて上ってきた人たちがつくっていったようでした。自治会委員の選挙があって、私も政治学科の委員になったのですが、他に現在社会党衆議院議員の武藤山治、同じく共産党の津金佑近、……の諸君らがおり、私は自由主義にひかれ、日本自由党の青年部の委員長ということで、ちょっとした政界のミニチュアのような状態でした。……

レッド・パージ反対の時だったと思いますが都庁にデモをかけたことがありました。このとき私一人反対したのですが、委員会でよく意見を聞いてくれました。大声で怒鳴ると構内デモがやめられたり、その面ではいまよりずっと民主的だったと思います。……夏休み前に〔共産党の〕細胞の連中と高田馬場あたりを歩いていると「村田さん、新学期が始まるころには革命が起っていますよ」、「俺は実現しないと思うよ。じゃあ、ラーメン一杯賭けるか」というようなことがありました。彼らは革命が起きるということを相当確信していたようです。しょっちゅう左翼運動をしている連中と議論してましたが、いまのように索漠としてなくてそれはそれとして、食ったり飲んだり仲良くやってました。

(『早稲田学報』昭和四十八年十一月発行 第八三六号 一六頁)

 革命幻想は昭和初期においても強かったし、三十年代、四十年代においても強かったのである。革命幻想が学生をして現実行動に駆り立てたのである。また、三十年に第一文学部を卒業して、後に評論家となった中島誠は、共産党の学生党員としての学苑時代を「六年の早稲田」の中で、次のように回顧している。

私は昭和二十四年に早稲田の第一文学部の英文科に入って、その年の秋に日本共産党に入党したんです。非常に印象的だったのは、あの秋に猛烈な台風が来たんです。江東、墨田の方にわれわれが救援に行こうという話が持ちあがった。赤い腕章をつけ、長靴をはいて、雨ガッパを着て、出かけたわけです。われわれが行ったって足手まといになるくらいで、いまから考えると暢気というか滑稽なんですが……。そこには中小企業の工場地帯がありまして、労働者がこういうひどい目に合うのもアメリカ占領軍の、ないしは吉田内閣の政治が悪いんだ、という初歩的なビラをまいたりして帰ってきた。そして理論からというより、世の中の不条理に学生として反抗したいために、私は党へ入ったんです。

ところが、翌年の一九五〇年一月にコミンフォルムの批判があって、野坂参三を中心とする占領軍を解放軍とみなしつつ平和的に日本の革命を移行させるという議論は、間違いであるという国際批判が出るわけです。それを受けて共産党が中央から二つに割れる。所感派〔コミンフォルムの日本共産党指導部批判に反発する派〕と国際派〔同批判を全面的に受容する派〕に割れる。私もまったく未熟な党員のはしくれで、何が何だかよく分らない。その当時の学生党員の活動といったって、朝早く「赤旗」がドサッと何百部も配られる、それをおまえ売ってこいということで割り当てなんですよ。そのノルマを消化するために教室へ行ったり、新宿の駅頭に立って、本日の「赤旗」一部いくら、いかがですか、とどなるわけです。それが最初はいやでいやで、とてもつらかった。そういういわばだらしない兵隊党員だった……。

五一年の暮れから五二年のころに武井昭夫君の第一次全学連が崩壊してゆく。そのあおりをわれわれもくらって党内でも冷飯くい、早稲田の学生運動のなかでもやることがない。五二年五月八日に第二次早稲田事件があったんですけれども、そのころ、ぼくは国際派の学生運動の大衆部隊というかたちで作られた反戦学生同盟の文学部の責任者みたいなものをやっていた。大した活動もできなかったんですが……。これはと思って飛び込んだ党活動も十分にやれないし、勉強も手につかない。しょうがないから小説ばかり読んでいたわけですね。そういうことをしている分にはまことに早稲田は居心地のよいところで、六年いるとか、八年いるとかがゴロゴロいて、大学なんてのは卒業するところじゃないよ、そうだ、そうだ、ということで友達の下宿にコロガリ込んじゃ、一緒に飯くったり、酒飲んだりしていた。新宿西口・小便横町の「ぼるが」、「残飯シチュー」にはよく通ったもんです。 (同誌 同号 一四―一五頁)

 学生党員活動家の学生生活の一端が垣間見られる証言である。また、当時、革新系の団体とは一線を画して「反全学連派」として活動を展開し、二十八年に政治経済学部を卒業して、後にフジテレビ報道局長になった石川士郎は、「早稲田民族主義」の中で、学苑の学生と他大学の学生が入り乱れての活動や活動家達の気風について、次のように伝えてくれている。

私が学生運動に関係したのは、昭和二十四年から四年間、ちょうど私がシベリアから帰ってきた直後、全学連ができた直後でした。当時全学連というのは、一応主流派と国際派とに分れておりまして、日本共産党の直轄下、一枚岩といってもいいような状態でした。いま日中文化交流協会の事務局長をやっている白土吾夫君だとか、共産党の代議士の津金佑近君、原水協の事務局長の吉田嘉清君などがわれわれのけんか相手でしたけれど、彼らも学校当局と団体交渉をやったあとは、ちゃんと「先生、きょうは失礼いたしました。若干はげしい言葉を使って申しわけありませんでした」ていうような、最終的な段階では、師弟の分をわきまえた行動をしていたように思います。

ただ当時非常に気になったのは、ほかの大学、東大の駒場や都立大の諸君が早稲田の中へ乗り込んできて、学生運動の天王山、決戦場としての早稲田を設定した行動がございました。そういうほかの大学の介入をわれわれは拒否して早稲田民族主義らしい学問の自由、学園の自治を守ろうとしたのであって、当時、だいたい昭和二十六年の後半から二十七年というのは全学連の諸君も一歩後退して、われわれの時代があったように思います。……私どもの時代は、戦後の大きな流れのうちからは若干ちがうかもしれませんけれど、私どもは私どもなりに、早稲田の民族主義を守ったと思いますし、そのうらでは全学連、共産党の諸君も、師弟の分をわきまえた礼儀正しさというものを持っていたように思います。議論をして最後に採決で負ければ、彼らは暴力をふるうことなく、正々堂々と次の機会をねらって退場していったように記憶しております。……最近の新左翼の人たちの理論や行動は、私どもにはどうしてもわかりません。……極右的理論でも極左的理論でも「学ぶ」ということが学問の自由、学生の本分のように思います。私どもの時代は全早稲田の学生二万人といわれましたけれども、少なくとも過半数以上の参加する学生大会の決定で行動に移った。ところが最近は、きわめて限られた一〇パーセント以下の諸君の暴力によって学園――ことに早稲田――が左右されているようで、残念でなりません。 (同誌 同号 一四―一五頁)

 当時、「世の中の不条理」に憤って実践活動に入ったり、学苑当局から見て「誤まれるヒロイズムの虜」となった学生もいれば、夏休みが終る頃には「革命」が起っていると熱っぽく語る学生もいれば、あるいは、「早稲田民族主義」を守ろうと努力した学生もいるという具合に、その様相は実に多様であった。しかし、新制発足頃の学生運動に情熱を注いだ学生達にほぼ共通していたものは、大正期以来の学生運動に残っていた「学生の分」という意識に加えて、一種独特な学生ロマンの香りであったようにも思われる。以後の、こうした学生運動家気質の変質が、その後の学生運動の変質と沈滞への過程と無縁ではあり得なかったのである。

四 昭和三十年代の学生運動

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 この後の学内における最大の学生運動としては、十四年後の昭和四十一年に勃発した「学費・学館紛争」(第十七章と第十八章に後述)があるが、この間、学苑固有の運動ではないものの、特に言及しておいてよいのは昭和三十年代の「安保闘争」における学苑の教職員、学生の動向である。

 昭和三十五年は、「安保」の年と一口に言われるくらいの政治の年で、戦後の日本の歴史に非常に大きな画期をなしている。この年早々、一月二十日(日本暦)、米国ワシントンで日米安全保障条約改定条約と日米行政協定に代る新協定とが調印された。この新安保条約は、休会明けの第三十回国会に承認を求めて提出され、二月十一日には衆議院に安保特別委員会が設置されて十九日から審議が始まり、以後六月にかけて国会内外で賛否の激しい攻防が展開されていった。安保の改定を控えて、既に前年三月に社会党、総評、原水協など百有余の団体で結成されていた安保改定阻止国民会議は地道な活動を行ってきたとはいうものの、国民的な盛り上りは十分ではなかった。

 しかし、この反対運動で最も行動的であったのは、全日本学生自治会総連合(全学連)の学生達であった。彼らは特に前年の十一月二十七日の安保改定阻止運動の第八次統一行動で「国会突入」を行い、先鋭的な闘争戦術を展開していた。この行動に対して、彼らを指導する立場にあった日本共産党では、党中央の幹部が翌日の二十八日の安保国民会議で「国会乱入は、誘発にのったものであり、全学連の一部トロッキストの意識的挑発があった」と発言し、更に同日の『アカハタ』号外で、「反共と極左冒険的行動を主張していたトロッキストたちは、右翼の暴行や警官の弾圧などによって緊張した情況を逆用して、挑発的行動にいで、統一行動をみだす行為にでた」と強く非難した。こうした批判に対して、例えば学苑の場合、「日本共産党早稲田大学細胞」は、十二月四日の臨時総会において党の見解を批判する態度を明確にし、「トロッキストの発言だけで二万名のデモ隊が、国会構内に突入する事態が起りうる筈はない。国会突入の闘いは、国民会議の指導を大衆が乗りこえて進んだ、半ば自然発生的な激烈な闘いであり、それゆえに多くの弱点を持っていたとはいえ、そこで党がとるべき基本的な態度は、まず人民大衆の激しい闘志と自発性とを高く評価することであった。……『国会突入』は、政府・支配階級が安保改定の強行を急ぎ、当日未明の衆院本会議で南ベトナム賠償批准案を強引に成立させたことに対する、人民大衆の憤激のあらわれであり、その戦闘性の証左である。全学連の行動はいわばその触媒の役割を果したにすぎない。……十一月二十八日以降の指導の問題について、われわれはもっと深刻な疑問と批判とを党中央委員会に対して提起せざるを得ない」(昭和三十五年一月十日「見解」『戦後日本教育史料集成』第五巻二三〇―二三三頁)と反論して、強硬な実力闘争の戦術を主張していた。同様の傾向は他大学の系列組織においても見られた。かくして、戦後、学生運動を指導してきた共産党と全学連との間に大きな溝が顕在化してきたわけで、全学連主流派は「安保闘争」の中でこの路線をますます強め、学生運動は政党の系列下を離れた独自の勢力として、社会運動の中に突出した運動体としての位置を占めていくのである。そして、全学連主流派は、その後の最も過激な行動の先頭に立つことになった。それとともに、中でも社学同を中心としてきたそれまでの学生運動の指導部に対しても異論が唱えられて、新しく社会主義学生戦線(略称フ・ント)が結成される(一月二十八日)など、複雑な党派性を内包したままで安保反対運動が展開されていったのである。

 新安保条約の調印そのものを阻止するという運動は有効的には展開されなかったが、三十五年に入り、審議のための舞台が「安保国会」へ移る局面になると、反対運動は層を拡げて急速に活発化した。それは、条約に掲げる「極東」の範囲、日本の執るべき「行動」、事前協議の取扱い、国会の条約修正権など、新条約の「危険性」が明らかとなって、政府・与党の自由民主党と野党の日本社会党・民主社会党・日本共産党とが真っ向から対立し、国論は二つに割れて、連日白熱した論議が戦わされ、審議が長引いていったからである。それとともに、院外での行動は、国会請願、全国各地での集会を重ねて、「安保闘争」は戦後最大の国民的大政治運動に高まっていった。そうした最中の五月五日ソ連のフルシチョフ首相は、ソ連最高会議で、一日に米国の秘密偵察機U2型機が領空侵犯してきたので撃墜した、と衝撃的な演説をして世界を驚愕させた(米U2型機撃墜事件)。折から、パリで予定されていた東西首脳会談とアイゼンハワー米国大統領の訪ソも中止され、せっかく動きだした米ソの緊張緩和への胎動が一頓挫してしまった。それにもまして、同様のU2型機が日本の厚木基地にも駐留していることが暴露されて、日本の国民が受けた衝撃はますます大きなものとなっていった。日米安全保障の問題は、つまるところ、日本がいつ戦争に巻き込まれてしまうかもしれないとの疑惑と恐怖心を国民の中に高めていくものとなった。何しろこの時期は、もはや戦後ではないと言われつつも、僅か十五年前に長かった戦争が漸く終結し、ほんの十年前には隣国で朝鮮戦争が勃発していたのであり、当時の国民は戦争はもう懲り懲りで、直接的には言わずもがな、間接的にせよ国際間の紛争や戦いには巻き込まれたくないとの思いが強く身に染みていたのである。人々が、安保改定とその運用をめぐる諸問題についてのさまざまな情報を得て武力紛争や戦争への危惧を抱くにつれて、世論が安保反対へと急傾斜していったのは無理からぬ「国民感情」の現れであった。与党の自民党員であり、校友初の首相となった石橋湛山は審議の最中の三月に、新安保の批准の延期論を主張して次のように語っている。

ほんとに国のためを思えば、……新安保は批准を延ばした方がいい。…‥また考えてみれば、たしかに危険はある。それは三国同盟(日独伊三国軍事同盟)の例を見たってそうだ。当時(一九三一年)ぼくら反対したが、松岡(洋右)外務大臣はじめ、時の政府(第二次近衛内閣)はあれが戦争を防止する唯一の方法なんだという。なるほど理屈の上からいえばそうらしくもあるんだ。そのときには将来のことはわからんから、まあわれわれも黙っちゃっていたんだが、とうとうああいうことになって結果を見ればまるで逆。ぼくらが心配した通りだった。……実際のところ危険がなくはないよ。

(「国内・国際政局への私の所信」『朝日ジャーナル』昭和三十五年三月二十日号 一〇頁)

単に戦争忌避という感情だけでなく、犯した歴史の過ちに学ぼうとする健全な良識を有する者は、決して少くなかったのである。

 四月二十六日、安保反対の第十五次統一行動が提起されるに及んで、学苑では生活協同組合も組合内に安保対策委員会を結成してアピールを発表し、多くの組合員に参加を呼びかけた。そして、この統一行動に対し学苑の幾つかの協議団体は全学ストライキの方針を打ち出し、各自治会もクラス討論の中で授業放棄を決定していった。特に、四月に入学した一年生の場合、学年度初めにこの「安保闘争」に否応もなく直面する日々を過ごすことになり、これを契機に「政治」に目覚め、反体制運動の「洗礼」を受けてしまった学生が非常に多かった。生協もこの日午後の営業を取り止めて全職員が統一行動に参加したのである(『早大生協三十年のあゆみ』一二〇頁)。この統一行動には全学連が総計一万五千人を結集させるという組織始まって以来の動員力を示し、学苑生だけでも約二千五百人が参加したという(『早稲田大学新聞』昭和三十五年四月二十七日号)。

 だが、批准断固阻止の運動や批准延期の主張がさまざまな形で展開される中で、岸信介内閣は五月十九日の深夜に、衆議院の安保特別委員会に続いて本会議で野党と自民党反主流派を除く自民党主流派だけによって、安保条約を強行採決してしまうという強硬作戦に出た。しかし、この挙は却って「安保闘争」のそれまでの運動の担い手の層を拡げるとともに、運動を質的に深化させる大きな契機となり、新たな局面に入っていった。すなわち、二十日からは、いわゆるプロの活動家や労組員らに加えて、学者・文化人、一般学生、一般市民、そして高等学校の生徒に至るまでの幅広い層に亘る国民が、「安保」に強い関心を寄せるようになり、やがて、そうした人々が関心から行動へと、主体的に、自発的に身を投じるようになっていったのである。その反対運動に積極的に加わった一人の西部邁は、当時を回想して次のように記している。

安保闘争が全国規模の渦巻となったのは、いわゆる五・一九事件以後の一ヵ月間であった。五月一九日、安保特別委員会で強行採決が行われ、衆院本会議で質疑・討論を省略したまま、新条約が承認された。このとき、安保闘争の争点ははっきりと「民主主義」の問題に移行したのである。民主主義は平和とならぶ戦後の大義名分であった。それもまたもう一つの魔語だったのであって、民主主義の本質に疑念を呈することは暗黙の禁忌であり、また、議会制という民主主義の機構も疑問なしに守護されてしかるべきものとされていた。五・一九事件は「民主主義の危機」にほかならず、この危機に対して街頭の示威行動をもって起ち上がるのは国民の抵抗権に属すると考えられたのである。民主主義の危機は、とくに年配の世代において、強く意識されたようである。戦後民主主義のなかに育った若年の世代は、民主主義の対極にあるものを実感しえないために、その危機に際してさほど鋭敏に反応することができなかった。しかし、戦前・戦中の軍国主義体制の経験者にとっては、五・一九事件は戦後の否定であり、戦前へ向かう反動なのであった。まして、戦犯追放の経歴をもつ岸信介が、首相の座にいるのであってみれば、民主主義の危機は反動を脅威と受け取られて不自然ではなかった。

(「安保闘争は何であったか」『決定版昭和史』第一五巻 二一八―二一九頁)

 こうして、反安保のデモは連日国会を取り巻く事態にまで高まり、五月下旬には、正月頃には予想だにしなかった大運動となった。東京都立大学の一教授が十九日の政府の強硬措置に抗議して辞職したのも、この頃である。二十八日、岸首相は「デモは国民の一部で、『声なき声』の支持がある」と述べ、反対する国民に対決する姿勢を更に強硬にした。この発言は却って国民の失笑と忿懣を買うこととなり、反安保の国民運動は一層高揚した。六月に入り、四日、国鉄労働組合を中心にした交通関係労組その他の五百六十万人参加という空前の大規模な抗議ストライキ(六・四スト)が行われ、マス・コミの取り上げ方も、交通に重大な支障を及ぼしたこの政治ストライキを必ずしも強く非難するものとはならなかった。十日には、折から日米修好百年を記念して十九日に来日が予定されていた米国のアイゼンハワー大統領の事前打合せのため羽田空港に着いた大統領新聞係秘書ハガチーが空港出口で、大統領訪日反対を叫ぶ激しいデモ隊に包囲され、辛うじて米国海兵隊のヘリコプターに救出されて現場を脱出し米国大使館へたどり着くという有様であった(ハガチー事件)。

 この「安保闘争」の大きなうねりが学苑内外を包むと、学苑では、前述の生協や、前年来この運動に取り組んできた学生運動の活動家や一般の学生のほか、教職員の間でも、新安保を危惧する人々の積極的な動きが表面化してきた。安保条約改定阻止国民会議の呼びかけた統一行動には学苑の教職員も連日のように参加したが、政府・自民党による安保条約改定の強行採決という事態に、民主主義蹂躙を憂慮した大学関係者の活動組織として「民主主義を守る学者・研究者の会」(民学研)が結成され、学苑の教員にも参加が働きかけられた。これに応えて、後に教員組合結成の母体となった文化問題談話会(二三二頁参照)が加わった。同会ではメンバー以外に更に輪を拡げ、五月二十八日、中村吉三郎(法)、中島正信(商)、堀江忠男(政)ら五教授の連名で学内の教員七百余名に呼びかけがなされ、六月四日、法文系大学院会議室で集会を開いて早稲田大学教員民主主義を守る会を誕生させた。そして、反政府の意志を明らかにした同会の声明に賛同する署名者は六日までに大浜総長をはじめとして、政治経済学部二十八名、法学部四十一名、文学部七十三名、教育学部二十七名、商学部二十九名、理工学部八十三名、高等学院三十七名、工業高校六名、体育局二名、生産研究所二名の合計三百二十八名を数えるまでに瞬く間に運動が拡大した(『早稲田大学新聞』昭和三十五年六月八日号)。一つの政治問題で、学苑の個々の教員が個人の意志で同一の見解でこれほど一丸となって意志表示に結集したのは空前の出来事である。同会は、統一行動への参加や民学研独自の自動車デモ(全部で十三台のうち学苑からは四台、十八名が参加し、錦糸町、池袋、新宿、八重州口、渋谷等の盛り場で街頭演説を行う)への参加など活発な活動を繰り拡げた。当時法学部助教授であった島田信義もその一人で、彼は、

早稲田から日比谷公園での集会場まで出むくために、しばしば都電の貸切りを利用(早稲田車庫―日比谷公園間、六月一一日、貸切り二台片道二三八〇円、教職員その他百数十名が参加)していたが、たまたま六月四日の統一行動には、東交労働者による一二年ぶりの抗議スト(二時間)にぶつかってしまった。しかし、世話人が統一行動参加のための事情をうちあけたところ、東交労働者も喜んで出庫を承諾してくれ、拍手のなかを日比谷公園まで出むいたこともあった。

(「安保闘争から組合結成へ」『早稲田大学教員組合 十五年の歩み』 七―八頁)

と回顧して、当時教職員がいかに熱意を込めてこの反対運動に参加したかを証言している。こうした高まりは全国のグループ等との提携によるもので、例えば六月十二日の模様は、「都内各所で学者、文化人らによる『民主政治を守る講演会』や学者の自動車パレードなどがおこなわれた。憲法問題研究会(代表・大内兵衛氏)では正午から千代田区平河町の都市センターで『民主政治を守る講演会』をひらき、『衆院即時解散」を訴える声明書を発表した。つづいて千五百人の満員の聴衆を前に、宮沢俊義、南原繁、丸山真男、竹内好、鵜飼信成、我妻栄氏らの講演がおこなわれた。いっぽう、『民主政治を守る全国学者・研究者の会』では百五十人の大学教授らが十三台の自動車をつらねて、新宿、上野などの各盛り場で『岸退陣』、『国会解散』をおりから日曜日道ゆく人々に静かに訴えた。この自動車パレードに学園からは堀江忠男、中村吉三郎、杉山晴康、暉峻康隆、実藤恵秀、舟木重信教授ら十五人が参加した」(『早稲田大学新聞」昭和三十五年六月十五日号)と伝えられている。

 だが、このように高揚した国会内外における大小の反安保運動を担った主体の内実は複雑に絡み合っていた。安保絶対反対・完全阻止を目標にするもの、タカ派で強硬路線を採る岸政権の倒閣を目論むもの、民主主義の理念・機構の擁護に重点を置くものなど、さまざまな考え方があった。更に、運動の具体的な進め方をめぐっても違いがあった。統一戦線方式で共同闘争を展開する運動主体でも、社会党、総評、原水協などを主力とする安保改定阻止国民会議は、国民各層に亘る広範な国民運動路線を採用し、整然としたデモ行進や国会請願運動を重視した行動をとろうとした。他方、行動力のある全学連内部でも意見が対立して、整然としたデモ戦術では飽き足らないと考える主流派は聳動作戦を採って首相官邸や国会突入を敢行しようとした。運動の主体側は、こうした目標や方法に対する十分な調整を実らせないまま行動しているという内実を抱えていたのである。このような経緯の中で、新安保条約が国会で法規上自然承認されてしまう六月十九日が刻々と迫ってきていたのである。

 十五日、労組による第二波の実力行使が行われた。午後には右翼勢力が新劇人グループと主婦のデモ隊にトラックを突っ込んで襲いかかり、警察はこれを傍観したため多くの負傷者を出し、次いで、夕刻からは最悪の事態を迎えた。全学連で強硬闘争を主張する集団が、衆議院南通用門から国会構内に乱入したのである。警備の機動隊は一時後退して双方の睨み合いが続いたが、やがて乱入者排除命令が発せられ、警棒を構えた機動隊が実力を行使したため激しい大乱闘となった。その渦中で東京大学の一女子学生が死亡し、事態はますます悪化した。国会東南側の路上でも機動隊の車輛に火が放たれ次々に炎上した。「税金泥棒」、「岸の番犬」などと同年輩の学生達が罵言を浴びせ続けるのに堪えていた若い機動隊員の間にも、警備心得の原則をも確守し難い心理的状況が生れてきた。機動隊と全学連をはじめとする反対派との攻防は夜を撤して展開され、十六日未明にかけて、国会正門周辺一帯には機動隊の発射する催涙ガス弾の煙が充満し、日本人同士がぶつかり合うという戦場の様相が現出した。この過程で、各大学の教員を中心とする教授団グループは多数の学生が負傷したことを知り、救護策や警察への抗議などのために参集していたが、首相官邸前や総理府周辺などで「騒擾罪だ、全員逮捕だ」などの掛け声とともに警棒で次々に襲われるというような無秩序状態がここかしこで発生した。十六日午前零時過ぎの状況の一端を、雑誌は左の如く伝えている。

〇時一〇分ごろ、東大理学部の伴野助教授は茅総長に電話で事情を説明、茅総長は同四〇分ころ国会に到着し、議面〔議員面会所〕に入った。このころ、大浜早大総長もKRテレビから国会にやってきた。両総長をまじえた大学・研究者グループは協議の上、学生に対する警官の暴行に抗議し、これ以上ケガ人を出さぬよう、両総長が警視総監に申し入れることになり、両総長は教授グループの二人をともなって自動車で警視庁に行った。警視総監は両総長に「もうデモ隊は解散したから安心して下さい」とのべた。両総長は再び国会に引き返した。だがもうそのときは、これまで大学・研究所グループのいた場所には、傘や袋がちらばっているだけであった。逃げのびた教授グループは特許庁前で解散した。二時ごろであった。チャペルセンター前の学生たちは、数グループに分かれて有楽町方面に向かった。一時四五分、学生約二〇〇人が有楽町駅前交番を襲い、窓ガラスをこわした。三宅坂、半蔵門の交番などもガラスなどをこわされた。四時三五分、全学連の主力は有楽町で解散した。

(「特集 6・15流血事件の記録」『朝日ジャーナル』昭和三十五年七月三日号 二〇―二一頁)

機動隊によるデモ制圧の現場に夜を徹して頑張り抜いた前述の学苑の守る会の教職員らは、同日帰校して、実情を報知するための学内報告会を大学院の会議室で開催した。

 国会構内と周辺における大衝突事件(六・一五事件)は、一女子学生の死亡の報道と相俟って安保反対の世論を一層沸騰させ、国内はもとより世界に強い衝撃を与えた。岸内閣は警備上の不安から、遂に十六日、アイゼンハワー大統領の訪日延期の閣議決定に追い込まれた。反対運動はこの日、翌日、翌々日と続けられ、十八日には夜に入り道路一杯を手を繫ぎ合って遮断するフランス式デモ行進が銀座通りで繰り拡げられ、学苑の教職員もこれに加わった。そして、実に三十三万人にも及ぶ国民が国会を包囲するまでに盛り上がった。しかし、その高まりの中で十九日午前零時を期して新安保条約は参議院で自然承認となった。これを見届けた岸首相は二十日に辞職を表明し、二十三日批准書が交換されて発効となったのである。

 学苑では、学生紙『早稲田大学新聞』が六月二十二日号で安保自然承認に至る闘いの跡を「くちびる、キッとかんで/教授団も徹宵、語りあかす」「きびしい静けさのうちに新安保『成立』/友の死をムダにするな/国会周辺憤りの声にみつ」「安保粉砕の日まで/闘いはなおつづく」と大活字で報道して、闘争継続の意志を明らかにしているが、大学当局は、大浜総長が、「直接的に大学が官憲のアタックを受けたわけでもないから、大学が時局批判などの意志表示をすることは本来の任務ではなく、大学は研究・教育が本来の目的と考え、学内を早急に正常化することのほうがさきの問題」(『早稲田大学新聞』六月二十二日号)との姿勢を明確にして、十七日に、「六・一五事件」を中心とする一連の安保闘争における学生の動きに対して次のような告示を発表したのである。

現政局の混迷については、われわれのひとしく憂慮するところであり、学生諸君が公民として、これに対して深く関心を寄せることは当然である。しかしながら大学がその本来の使命である研究・教育を中断することは許されない。なお最近とみに暴力を是認する行動、暴力による紛争が顕著にみられるが、これは民主主義の精神に反するものであることも銘記すべきである。大学は学生諸君に対し、学の内外における行動が一層慎重であることを切望する。 (同紙 同日号)

 この総長の談話に見られるように、「安保闘争」は我が学苑に生起した固有の出来事ではない。しかし、一つの政治問題をめぐって学苑の教職員および学生のきわめて多くが同じ態度の表明と行動を展開し、特に教員陣が自己の意志で同一見解の立場に立ち、これほど一丸となって意志表示を行い、実践運動に結集したのは空前の出来事であり、学苑の歴史に記されるべき「事件」であったのである。

 なお、これより三ヵ月後の十月十二日、日比谷公会堂における自民・社会・民社三党首立合演説会で演説中の浅沼稲次郎社会党委員長が一右翼少年によって刺殺された。浅沼は「安保闘争」や折からの日中友好運動の先頭に立っており、こうした運動の高まりに危機感を抱く勢力の犠牲となったのである。大正デモクラシー期からこの安保反対運動まで一貫して在野にあって政治活動を精力的に展開し続け、「人間機関車」の異名をとり「ヌマさん」の愛称で親しまれ党派を超えて人気のあった浅沼の悲報は、前述した「五月八日早大事件」の解決や大久保キャンパスの取得に際しての尽力等、彼の母校への多くの功労を想起させ、学苑関係者は挙ってその死を悼んだのである。