大浜総長時代の昭和三十年代に国際交流の基礎が固められ、研究体制は一段と整い、キャンパスも整備・拡張された。本章では、この時期に新設された名誉博士や客員教授の制度、学位章や名誉教授の変遷、教員を対象とする大隈記念学術褒賞や学生を対象とする小野梓記念賞を紹介するとともに、経済的に恵まれない学生の学業継続に欠かせない奨学金について説述する。
本編第八章に前述した如く、創立七十五周年を期して記念事業実行委員会が設置され、その検討事項に名誉博士制度制定の件が含まれていたが、その分科会である名誉博士に関する委員会は、昭和三十二年二月二十八日付で、名誉博士と式服・学位章に関する答申を理事会に提出した。これを承けた理事会は、三月七日、答申通り、「学問芸術または人類のため顕著な貢献をした者に対し」て贈呈する名誉博士に関する規則の制定を決定、十五日より施行した。のち三十九年十一月十六日に規則が一部改正され、受贈者は「学問、芸術、社会、または人類のため顕著な貢献をした者で、本大学において特に顕彰することが適当と認められる者」に改められた。昭和三十年代に名誉博士の制度が誕生したのは、早稲田大学の社会的地位の向上が国内のみならず国際的にも広く認められたのを反映すると同時に、
学苑が自己の自信を内外に表明しようとの意志表示でもあったと言えよう。学苑創立百周年までに学苑が名誉博士を贈呈した三十名の氏名を、贈呈理由とともに左に掲げよう。
日本人が十一名(うち校友九名)なのに対して外国人は十九名(うち校友一名。ただし廖とアジズは学苑中途退学者)を数える。贈呈理由で目立つのは「国際社会に対する貢献」である。新制大学期の早稲田大学が国際化を目指していることが、この表からも窺われる。
我が学苑で式服・式帽が制定されたのは、第二巻六八〇―六八一頁に既述の如く、大正二年十月の創立三十周年記念式典に遡る。その時の式服は、黒地のガウンに襟が緋、袖には金袖章が二本縫いつけてあり、総長のガウンだけは緋色であった。昭和三十二年、創立七十五周年記念事業実行委員会の分科会が答申し、四月四日の理事会で採択された新しい式服は、襟が黒、袖章が黒色ビロード三本となり、総長のガウンも黒に改められたが、総長の袖章は金線で囲まれた。また、取得学位の種別を明示するため、肩にかける学位章を色分けすることになり、政治学が緋、経済学が淡青、法学が緑、文学が銀灰、商学が濃青、経営学が黄緑、工学が橙、理学が黄、医学が白、農学が浅黄と定められた。勿論当時は医学部も農学部も存在しなかったが、総合大学として将来はそれらの学部も設置すべきであり、また設置されるであろうという抱負と期待とを窺うことができる。
第四巻一一三〇頁に述べた「教員任免規則」は三十七年六月に一部改正され、従来教員を教授・助教授・講師の三種としていたのを、ほかに必要な場合には客員教授を置くことができることとした。これは、他大学を定年退職したのちに学苑で教鞭を執ることになった教員の処遇を考慮した措置である。教授会の構成員に含まれない客員教授は、「他に本務のあると否とを問わず、その者の学識、経験、地位等に照し、教授に準じて学生の教育指導にあたらせることが適当と認められる者」か、「外国人であって、教授会の構成員とはしないで、教授に準じて学生の教育指導にあたらせることが適当と認められる者」か、あるいは「年齢その他の理由により教授会の構成員としての義務を負わせることが適当でないと認められる者」かのいずれかの該当者で、所属学部教授会の議決を経た上で嘱任された。因にこの年にはバートン・E・マーティン(教育)と除村吉太郎(文)の二名が客員教授に選ばれ、翌年には田辺貞之助(政)が嘱任された。
大正四年八月制定以来ほぼ半世紀の間に「名誉教職員規程」(第二巻九七三―九七四頁参照)に合致したのは、名誉学長が一名、名誉理事が一名、名誉教授が四十三名である。昭和三十九年十一月、同規程の第三条は名誉教授のみの規定に改められ、「教授として満二十年以上在職し、教育または学術上功績の大なる者」との年限要件を原則として満たすよう求めた。なお、旧規程による名誉教授は在職中と同一の待遇を受けていたが、四十年三月以降の名誉教授はこの恩典を受けず、純然たる称号のみにとどまることになった。そして昭和五十七年の創立百周年記念日までに、新規程による名誉教授の称号を贈呈された教員は百二十五名に上っている。
本編第六章第八節に説述した研究助成制度や、学会や研究のための出張補助金(昭和三十年より実施)や、学術出版補助金(昭和三十五年より実施)は、教職員個々人の研究に対する直接的な助成制度である。研究条件の整備にとどまらず、更に昭和三十三年五月、本編第八章で述べた創立七十五周年記念事業実行委員会の答申に基づき、研究意欲を刺戟する意図をこめて、学苑は大隈記念学術褒賞制度を発足させた。その規程の第一条は、「創立者大隈重信を記念し、学術の振興をはかる目的をもって、学術褒賞制度を設け、研究上顕著な業績をおさめた教員に対して、この規程により授賞する」と謳い、褒賞を、「研究上の業績が抜群であって、学術の水準の向上に寄与するところ極めて顕著なものに対して、授与する」(第三条)大隈学術記念賞と、「学術の研究上特に顕著な成果をおさめたものに対して、授与する」(第四条)大隈学術奨励賞との二種に分け、対象となる研究成果は学位論文あるいは既に外部団体により授賞されたものでも格段に秀でていれば差支えないとされた。学部で候補者が推薦されると、各学部二名ずつ合計十二名の教授より成る褒賞審査委員会が設けられ、その厳格な審査を経て、前者には賞状と賞金二十万円、後者には賞状と賞金十万円が与えられる。発足以来、賞金は四十五年二月に記念賞が三十万円、奨励賞が十五万円に、四十八年七月にそれぞれ五十万円と三十万円に、五十七年五月に更に百万円と五十万円へと引き上げられた。創立百周年までの受賞者と研究題目ならびに賞の区分は第二十一表の通りである。
第二十一表 大隈記念学術褒賞受賞者(昭和三十四―五十七年度)
二十四年間のうち受賞者のいない年
度は十四年に上る。受賞件数を学部別に見ると、文学部と理工学部がそれぞれ六件、教育学部が二件、法学部が一件で、政治経済学部と商学部と社会科学部からはまだ出ていない。
この大隈記念褒賞制度と時を同じくして、創立七十五周年記念事業実行委員会の答申に基づき昭和三十三年に誕生したのが、学部・大学院・専攻科の学生を対象とする小野梓記念賞である。これは、「創立当初の功労者小野梓を記念し、建学の精神を顕揚する目的をもって、小野梓記念賞基金を設定し、学術、文芸、スポーツ等に特に抜群の成果を挙げ、学生の模範と認められるもの(団体を含む)に対して」(規程第一条)授与された。戦前の小野梓賞の基金となった小野奨学基金は、第三巻六三九頁に既述したように今回この小野梓記念賞基金に繰り入れられ、更に大学からの繰入金と指定寄附金が加わって、小野梓記念学術賞と小野梓記念文芸賞(四十五年七月に芸術賞と改められる)と小野梓記念スポーツ賞との三種に分けられた受賞者には、卒業式の席上、賞状と記念品が授与された。
第一回以降昭和五十七年度までの受賞者は、学術賞が三十九件三十九名、芸術賞が二十二件二十五名一団体、スポーツ賞が七十五件六十三名十二団体に上っている。ただし、当然と言ってしまえばそれまでだが、学術賞は大学院学生が、芸術賞は文学部学生が、スポーツ賞は運動部所属の学生が比較的多く受賞していて、三種の賞を同列に評価するわけにはいかない。
第四巻一一三六頁に表示したように、早稲田大学奨学基金の恩恵を受ける学生の数は昭和二十年代後半を通じて着実に伸びた。しかし、一人当り交付額が一定のまま奨学生を増やせば、やがては財源が底をつくので、奨学生を厳選して、一人当り交付額の増額を計る目的で、昭和三十年三月、早稲田大学奨学基金を廃止して新たに大隈奨学基金を設定した。これは奨学生を一般奨学生と特別奨学生との二種に分け、前者には当該年度限り授業料相当額を、新入生のみを対象とする後者には通常の年限により卒業するまでの期間、学費(授業料、実験実習費、体育実習費、入学金および施設費)相当額に加えて、自宅通学者には年額一万円、その他の学生には年額四万円を上乗せして支給した。三十年六月と七月の理事会での第一回採用決定者数は、志願者千六百三人に対し、一般奨学生が四百四十七人、特別奨学生が二十一人で、のち前者には十八人が追加されている。特別奨学生制度は優秀な高校生を優先的に入学させるための画期的方策であったが、奨学生を推薦する高等学校側の理解が十分でなく、また、現実に多額の研究費を必要とする大学院生が一般奨学生として扱われたため、この基金は短命に終り、代って昭和三十三年二月、創立七十五周年記念事業実行委員会の答申に基づいて「大隈記念奨学基金規程」の制定が理事会で決定し、三十三年度より施行された。新規程は奨学生を大学院奨学生と一般奨学生との二種に分け、大学院生を対象とする前者には所属研究科の学費相当額と五万円を、学部学生および学校生を対象とする後者には当該年度の授業料相当額を支給するもので、初年度の大学院奨学生には十六人、一般奨学生には三百八十四人が採用された。第二十二表で四百十八人とあるのは、前年度より引続き特別奨学生であった者が十八人いたからである。その後、三十九年に大学院奨学生の規定が一部改正され、学費に上乗せする金額が、修士課程第一年度生は五万円、同第二年度生は六万円、博士課程は各年度生とも十二万円へと、大幅に増額された。
(各年の『定時商議員会学事報告書』より作成)
一方、日本育英会の奨学制度は昭和三十年代に入って一層充実した。尤も、三十四年度の大学および大学院の志願者四千二百十四人に対し新規採用者が千三百二十九人と、約三分の一が望みを果し得たにとどまったことから分るように、すべてを満足させるにはほど遠かった。また、貸与を旨としたため、返還のことを考えると、安易な増額もかなわなかったであろう。昭和三十二年秋、一人の奨学生はこう語っている。
父はいなかの教師、高校と中学の弟がいて、母が病気、その上、昭和二十八年の紀州水害で流失した家の再建もある。初めから無理を承知の大学入学だった。下宿は知人宅なので、安くてすむが、交通費と通学時間がばかにならぬ。奨学金は学校納付金に当て、アルバイトは家庭教師と某調査所の調査。どちらも時間が自由で、かえって勉強になるくらい。書籍は図書館でたいてい間に合うので、専門書を月平均一冊くらい買う。娯楽交際費はおもに映画。それに友人とお茶をのむ程度。以上まずまず健全(?)で平凡な経済生活だが、サークル活動への参加や、多くの人ともっと交際できるような時間的ゆとりのある生活がほしい。
(『育英』昭和三十二年十一月発行 第四三号 二頁)
企業や地方自治体が給付する奨学制度も、第二十二表から窺われるように、重要な役割を担うようになった。これらの団体の数は、三十年度は四十七、三十六年度は百一、四十年度は九十一を数え、五十七年には百十以上に上っている。三十六年に創立されて翌年から給付事業を開始した竹中工務店の竹中育英会も、そうした団体の一つである。その奨学金に支えられて学苑を昭和三十九年に卒業した一人の受給生は、次のように回想している。
奨学金は高額で、支給、俗にいうひもつきではなく、親会社・竹中工務店のライバル企業に就職した人も多い。理工系だけではなく、広く文科系学生も採用されてきている。ただ、学業に励み卒業後は社会に貢献すること、それだけが条件であった。東京には寮も完備していて、寮生になればほぼ自活できる。……会みずから奨学生の面接審査をし、奨学生には卒業後も毎年「会誌」が送られてくる。そうした育英会の姿勢に応じるかたちで、各大学内外の奨学生の交流が生まれ、卒業生が出始めてまもなく「竹門会」と名乗る全国的な同窓会組織もできて、毎年なにかと催しをしている。この交流の気運が高まったそもそもの始まりは、早稲田の学生部奨学係の発案によるものであった。毎月奨学金を渡しているだけでは惜しい、奨学生同士の交友関係が育てられれば奨学業務としてもなお理想的だ、創立後まもなく、採用学生数が毎年若干という手ごろさもあり、モデル・ケースとして助成してみよう、というのが、その動機であったと聞いている。この助成は、きわめて有意義であった。
(『早稲田学報』昭和五十六年十二月発行 第九一七号 一六―一七頁)
第二十二表の各種育英団体の欄に掲げた数字は、学生生活課を窓口に募集された奨学生に関するものである。武田薬品工業のように、早稲田大学を通さずに育英団体が直接学苑生を奨学生に採用した例もあるが、その数字はつかめていない。
昭和三十六年以降、学苑に寄せられた基金をもとに、寄附者の名を冠した奨学制度が幾つか発足した。その嚆矢は、三十六年二月に設定された久野奨学基金である。これは、カリフォルニア州立大学名誉教授故久野義三郎の寄附金とその利子合計百二十万円を基金に、日本文学、経済学、または政治学を専攻する大学院生に年額三万円を支給するもので、毎年三人ずつ選ばれた。翌三十七年十二月には、アメリカ合衆国司法長官ロバート・ケネディの寄贈による百三十五万円でロバート・ケネディ奨学基金が設けられ、翌年四月より大学院生二人に年額五万円ずつ(初年度のみ合計九万円)が支給された。基金が三十八年十月に発足して翌年度より支給された津田奨学基金は、第四巻四二六頁に既述した津田奨学資金とは別物であり、三十六年十二月四日に死去した左右吉の未亡人つねの寄附金約二百七十五万円が基金となっていて、対象を第一・第二文学部および大学院文学研究科の在籍者とし、前者は年額四万円、後者は年額七万円である。初年度は四人に支給されたが、三十九年十二月の基金増額により、四十年度からは学部奨学生の給付額が五万円に増えるとともに、合計五人が選ばれている。四十年二月には、十代田三郎先生古稀停年記念の会が寄附した二百万円で、十代田奨学基金が出発した。大学院理工学研究科の建築学専攻生中から、建築学科専任教員で構成する選考委員会が審査し、四十年度より二人に一人当り年額七万円が渡された。同じ年度に給与が開始されたのは、故山内弘名誉教授記念事業会の寄附金百五十万円をもとに三月設定された山内奨学基金である。機械工学を学ぶ学部学生および大学院生を対象とし、機械工学科の専任教員で組織する選考委員会の審議を経て、月額八千円(年額九万六千円)が毎年一人に支給された。日本芸術院会員村野藤吾の寄贈による基金で制定された村野賞委員会が学苑に寄附した約三百二十万円を原資に、学苑は昭和四十一年一月村野奨学基金を発足させた。建築学専攻学生を対象とするこの基金の使途は、奨学金と褒賞との二つであった。前者は大学院生に一人年額七万円を支給し、後者は学部学生で卒業計画の優秀な者に賞状と記念品を贈呈するものである。その人選には建築学科専任教員で構成する選考委員会が当り、四十一年度は三人の奨学生が選ばれた。
同じ昭和四十一年度に発足した早稲田大学商学部奨学基金は、商学部専任教員の組織する選考委員会の議を経て、商学部第一学年生の中から給費生と貸与生とを選定した。学費値上げを一因として四十一年に起った全学的ストライキ事件が、右基金誕生のきっかけになっている。すなわち第一商学部長葛城照三はこう述べている。「二月二十二日、警官隊の再導入によって、学園が静かになるや、私の指導演習の学生を含む商学部教授の指導演習の学生多数が、申し合わせたように、学園に集り、服は汚れ顔は真黒になってまで、教場の掃除、椅子机の整備に加勢してくれた姿を見た。それのみではない。学校が出した弁当には弁当代を無理に置いて行くし、学校が決めた労働手当は受取らない。……学生が受取ってくれない金が十五万円あり、昨年、昭和十四年商学部卒業の本間正治氏他数人の方々が商学部発展のためとして指定寄付してくれた金が八十万円金庫に眠っているが、この合計九十五万円を商学部奨学資金として、経済力の乏しい家庭の新入学生に支給したらどうだろうかと、私が教授会にはかったところ、全員の賛成を得たのみならず、我々も醵出しようではないかとの議が、期せずして青年教授や助教授からおこり、忽ちにして、八十万円の申込があった」(『早稲田』昭和四十一年三月二十日発行 第一巻第一号)。この百七十五万円をもとに商学部奨学基金が生れ、四十一年度は二十人の学生がその恩典に浴したのであった。同じく「学費・学館紛争」が引金となって誕生したのが、早稲田大学一般奨学金である。四十一年二月六日付『朝日新聞』は教育欄で「先輩よ母校の面倒をみよう」と呼びかける百円募金運動を紹介した。また同月二十一日には『毎日新聞』名古屋版に校友有志によって百円募金運動が提唱されると同時に、総長宛に百円単位の金が郵送されてきた。一方、学苑には、奨学生の休退学その他の都合で毎年度残額が計上され、それが積り積ってこの頃までに約九百七十万円に達していた。学苑当局は以前よりその活用を考えていたが、七月に実現した早稲田大学一般奨学金は、この蓄財に今後の大学予算の剰余金を繰り入れるほか、広く一般に寄附金を募って基金の充実を計り、大学院・学部・高等学院の学生に年額二万円を給与して、これを授業料の一部に充当するものである。実施が年度途中であったため、初年度は一年生にのみ適用されたが、その採用者は四百九十六人にも上ったのである。
こうして各種奨学金の恩恵に浴した学生・生徒の数も、奨学金の総額も、年を逐うごとに増加の一途をたどったが、学苑の全学生・生徒数に占める奨学生の比率は、二十九年度および三十年度に一七パーセントを達成したものの、三十一年度から三十四年度までは一三パーセント台から一六パーセント台の間を上下し、三十五年度に二〇パーセントのピークに達したのち、以後は一六パーセント台となった。ただし、この数字は学苑を通じて採用された奨学生に関するものであり、学苑を介さず直接各種育英団体が学苑生を奨学生として採用した数を加算すれば、以上の比率は若干上昇するであろう。ストライキ最中の四十一年二月四日、記念会堂で行われた学生相手の総長説明会で、大浜総長は奨学生が全学苑生の三〇パーセントを占めることを目標に努力したいと決意を表明したが、同年七月発足の早稲田大学一般奨学金によりその目標への第一歩が踏み出されたのである。