学苑が終戦の翌月、昭和二十年九月に、早くも授業を再開したのは、第八編第七章第四節に詳述した如くである。しかしそれは単に授業を再開したというだけで、必ずしも学苑が敗戦を境に新しい時代を展望し、新しい構想を以て再出発したと、胸を張れるものではなかった。校舎や施設の多くを戦災で焼失し、教員数も極度に不足していたから、やむを得ぬ窮余の策であったにしても、夜間授業を含めれば三部制という、率直に言えば惨めな再開であった。
当時教職にあった人々の回想に徴しても、授業再開に再生の思いを抱き、戦争下の厳しい諸統制や窮迫した日常生活からの解放感に浸った者は少数でなかったにせよ、今後の教育のあり方や学制の改革にまで思いをいたした者は決して多数とは言えなかったと察せられる。しかし授業の再開が少くともそれまでの教育の単なる継続であってはならず、何よりも戦時中の軍部や官憲による極端な思想弾圧や教育に対する干渉から脱却し、自由な研究、自由な教育を夢見た点では、若干共通したものがあったようである。
文部省は終戦の翌十六日から重要書類の焼却を始め、それが約一週間続いたという。それは来るべき連合国軍による占領政策に対する事前の処置ではあったろうが、教育行政の頂点にあった文部官僚の、戦時下における教育に対する反省も皆無とは言えなかろう。地方によっては、授業を再開した国民学校において、文部省からの指示以前に、校長や教員の自主的な判断で、教材中の軍国主義的字句を墨で消去させたところもあったという。教育に携わる者も一般国民も、戦時下とはいえ、必ずしも全部が全部その教育が最善のものと考えていたわけではない。ただ上からの強制と、いわゆる時局の要請という大義名分とが、それへの反対を沈黙させていたのが実情である。そこで敗戦が契機となって、それまでの教育が抜本的に改革されなければならないとの叫びが、世論の大勢を支配するに至ったが、敗戦という衝撃と極端な生活困憊とのため、国民の多くは、いわゆる虚脱状態に陥り、その新しいものをどのように形成していくかに思いをいたす余裕はなかったのである。
このような混迷と摸索の状態にあった教育界に新しい指針を示すためであったろう、文部省は九月十五日、「新日本建設ノ教育方針」なるものを発表し、その中で「従来ノ戦争ノ遂行ノ要請ニ基ク教育施策ヲ一掃シテ文化国家、道義国家建設ノ根基ニ培フ文教諸施策ノ実行ニ努メテイル」と述べ、また「今後ノ教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムルト共ニ軍国的思想及施策ヲ払拭シ平和国家ノ建設ヲ目途トシテ謙虚反省只管国民ノ教養ヲ深メ」云々と言っている(『近代日本教育制度史料』第一八巻四八八―四八九頁)。確かにこの方針の中には、その後の日本が国是ともしたような、幾つかの重要な理念を含んではいたが、戦時中の継続と思われる理念もまた含まれていたし、具体的な施策が示されていないのは、文部省も混迷する国民と変ることがなかったのを物語っている。
連合国軍は八月二十八日以降、逐次日本に進駐、九月十七日にはマッカーサー元帥を総司令官とする連合国最高司令官総司令部(GHQ)が横浜から東京に移転し、同月二十二日には「降伏後における米国の初期の対日方針」を発表、占領政策の輪郭がほぼ明らかになったとはいえ、日本の教育の分野にそれがどのように適用されるかは不明であった。それが次第に明確な形をとるのは十月以降のことである。
すなわち十月四日には、政治的・民事的・宗教的自由に対する制限の撤廃を求める「政治警察廃止に関する覚書」が日本政府に手交された。同覚書も直接日本の教育改革に言及はしていないが、少くとも日本の教育の再出発の基礎となるべきものの多くを指示していた。従来日本の自由な学問研究および教育の重大な障碍となり、また桎梏ともなっていた諸法令、例えば治安維持法をはじめ思想犯に対する数々の法令を、廃止させたからである。
次いで十月十一日には幣原喜重郎首相に対し、GHQのいわゆる五大改革といわゆる社会改革の即行に関する見解が表明された。五大改革とは、日本女性の解放、労働組合の奨励、権力濫用の禁止、経済の民主化等の要望に、教育の自由化を加えたものを指すが、GHQの指令が日本の教育に最初に触れたものが、この第三項に示された教育自由化の要望であった。しかしその内容も「より自由主義的教育を行ふための諸学校の開校」を掲げ、その理由を「国民は政府が国民の主人といふよりは寧ろ下僕となる如き組織を理解することによつて」(『戦後日本教育史料集成』第一巻三三頁)将来の進歩に寄与するであろうと言うのみで、具体的施策については述べていない。
その後GHQは同月二十二日から十二月三十一日までに、教育制度そのものを対象とした四つの指令を相次いで発表した。すなわち二十二日のそれは「日本教育制度ニ対スル管理政策ニ関スル件」で、軍国主義ならびに超国家主義教育の禁止を定めたものである。そしてそれに対する具体的措置を示したものが事後の三つの指令である。すなわち十月三十日には「教員及教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」で、教職員から職業軍人や軍国主義者を追放するとともに、適格審査を指令した。次いで十二月十五日には「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」で、学校行事としての神社参拝等を禁止した。また同月三十一日の「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」は、この三教科の授業の停止を指令したものである。しかしこれら一連の指令も、要するに戦時中の教育から、GHQが好ましくないと考えたものを除去もしくは禁止しただけで、教育再建のための新しい提案というものは見られない。
事実、当時のGHQは占領政策を開始したとはいえ、その具体的施策として確たる成案を持っていたわけではなかった。それは彼らの予想よりも早く対日戦が終了したという時間的関係もあったが、日本の占領そのものをきわめて楽観的に考えていたためで、まして教育制度というような細部に関しては何らの具体案も持ってはいなかったのである。マッカーサー元帥が本国アメリカの陸軍省に対し、専門教育家から成る使節団の派遣を要請したのはそのためで、その時期も年を越した昭和二十一年一月四日であった。マッカーサー元帥の要請を受けた陸軍省は使節団の人選を国務省に依頼し、国務省の手で、ジョージ・D・ストダードを団長とする、二十七名から成る教育使節団が結成された。既述(三〇七頁)の如く、同使節団は同年三月五日と六日とに二組に分かれて訪日したが、日本の教育改革が漸く胎動を始めるのはこの前後からである。すなわちGHQは本国に使節団派遣を要請するのとほぼ時を同じくし、一月九日、「日本教育家ノ委員会ニ関スル件」という指令を発した。この指令は、教育使節団派遣の目的と経緯を日本政府に説明するとともに、これを受け入れて協力する日本側の機関として、教育専門家より成る二十名前後の委員会の結成を要求したものである。同時にその指令には、その委員会は使節団がその任務を完了した後も、常置の委員会として存続し、日本の教育制度改革の推進力となることが指示された。
文部省はこの指令に基づき、同年二月七日「日本教育家の委員会」を発足させた。委員は東京帝国大学総長南原繁をはじめとする二十九名で、その大部分は大学や専門学校の教授であったが、中には中学校や国民学校の校長も含まれ、長谷川如是閑や柳宗悦のような学識経験者の顔も見られた(その後、委員七名の異動があり、学苑からは総長事務取扱・教授林癸未夫が加わった)。そして互選の結果、南原が委員長に就任した。なお同委員会は使節団が研究および勧告を予定されていた四つの項目に歩調を合せ、「日本における民主主義教育」「日本の再教育の心理的側面」「日本の教育制度の行政的再編成」「日本復興における高等教育」の四部門に分かれることになった。
さて、アメリカ教育使節団の来日とその活躍については後述するが、同使節団がその報告書を提出する同年三月以前においても、日本側に幾つかの独自な改革の動きのあったことを記しておかねばならない。
その一つは、東久邇宮稔彦内閣崩壊の後を承けた幣原喜重郎内閣が、昭和二十年十二月四日の閣議で「女子教育刷新要綱」を申合せていることである。それは先ず第一に女子に対し高等教育機関を開放し、第二には大学における男女共学の実現、第三には女子の中等教育をその修業年限および内容において男子並にするということであった。その結果、昭和二十一年度からは女子の大学入学が実現したのである(第三巻第七編第七章第二節に説述したように、学苑においては、女子の学部への正式入学許可は昭和十四年度より実施)。当時の文部大臣は前田多門で、戦後暫く続いた学者文相の一人であったが、前田の職見と情熱とがこれを実現したもののようである。それは戦後の混迷した教育行政の中で、僅かに新時代の到来を期待させる曙光のようなものであった。
その二は、成立した日本側教育委員会が独自に教育改革を論議し、使節団の報告書発表以前の三月頃、安倍能成文相ならびにストダード団長宛に報告書(実際には、その草案か?)を提出したことである。そしてその中には義務教育を三年間延長して六・三制とするという、戦後の教育改革の核とも言うべきものの萌芽が盛り込まれていた。
その三は、南原が総長であった東京帝国大学で、二十一年二月に教育制度研究委員会が発足したことである。その発足時期から見て、既に教育使節団の来日が予定されていただけに、南原もこれを迎える日本側の委員会の長として、使節団の勧告を鵜呑みにして全面的に受け入れる結果になるのを潔しとしなかったことと、日本の最高学府と称された東京帝国大学が、この段階で手を拱いていることへの反省が、その契機になったのではなかろうか。同委員会がマッカーサー元帥に建議書を提出するのは使節団の帰国後、二十一年五月であるが、その建議書の中で、小学校五年・中学校三年を義務教育とし、従来のそれを二年延長しようとした点、および高等学校を四年、大学を四年とした点は、それがそのまま戦後の改革において実現はしなかったが、事後の改革に示唆を与えた点は大きかった。
これと関連して付け加えておかなければならないのは、日本においても戦前、学制発布以来、教育制度の改革について何らの議論も施策もなかったわけではないことである。大正八年四月には臨時教育会議の審議の結果、従来のナンバー・スクールと言われた官立高等学校八校以外に官立高等学校が新設される緒を開いた。更に五月には臨時教育会議を廃止して臨時教育委員会を発足させ、高等教育機関拡張計画を審議し、幾つかの成果を見た。これは第一次世界大戦後の新事態の進展に即応させるためのもので、教育制度改革そのものには取り組んでいないが、昭和に入ると義務教育の修業年限延長が論議されるようになった。先ず昭和八年、後に首相となった近衛文麿のブレーン集団である昭和研究会が生れたが、同会は内部に教育問題研究会を発足させて教育制度改革を論議し、やがてその成果を踏まえて十二年、前農相後藤文夫や東京帝国大学助教授阿部重孝(教育行政専攻)を中心に、実行促進団体としての教育改革同志会を発足させ、青年学校の新設、高等学校の廃止、および大学・専門学校の区別廃止をはじめ、小学校・中等学校・大学の構想で六・三(青年学校は前期二・後期三の計五)・三制の実施など、戦後の改革に直接つながるような提案を議会や文部省に行った。こうした背景の中で、十六年三月一日「国民学校令」の公布により、昭和十九年度からの義務教育八年制の実施が予約されたのである。この義務教育年限延長は人的資源開発という国防力強化の観点から初等教育の徹底化を目指したものであった。その後、十六年十二月の太平洋戦争勃発と、それに続く戦局激化のため、それが実現されることはなかったが、そのような志向があったのは記憶されなければならない。戦後における教育制度の大改革がアメリカ教育使節団の勧告に直接刺戟を受けて占領下という異常な状態において行われたものではあったが、その勧告を受け入れる母胎が既に日本にあり、また勧告自体も、日本における従前の改革論議の骨組みを取り入れたものであることを明らかにしているからである。
とはいえ、我が国における戦後の教育制度の根幹となったのは、何と言ってもアメリカ教育使節団の報告書と、それに基づくGHQの対日勧告である。それでは、同使節団の報告書とはいかなるものであろうか。それは今日では歴史的な文書ともなっているから、煩を厭わず、その項目のすべてを列挙しておこう。
はじめに
序論
一、日本の教育の目的および内容
教育の諸目的、カリキュラム、教科書、道徳と倫理、歴史と地理、保健と体育、保健教育、体育、職業教育、結論
二、国語の改革
三、初等学校および中等学校における教育行政
基本的教育原理、基本的変革、必要な調整、国家的レベルでの権限、都道府県レベルでの権限、市町村レベルでの権限、財政的支持、教員の給与、供給と備品、校舎、一般的支持
四、授業および教師養成教育
含まれる問題、すぐれた授業の特徴、個人的差異、個人の発達、社会参加、公民教育における教授実践上の提案、教師の再教育、臨時再教育計画、教師の現職教育、教師の会合、研修会と協議会、教師用の出版物、教師相互の授業参観、監督官、旅行、教師の福祉の改善、教師の養成教育についての概観、師範学校における教師養成教育、勧告、単科大学および総合大学における教師と教育関係職員の養成教育
五、成人教育
公立図書館、博物館、結論
六、高等教育
日本の高等教育の過去における制約、公立および私立の学校機関、高等教育の機構、基準の向上、私立および公立機関の地位、個人の地位、機会の多様性、専門学校および大学のカリキュラム、調査研究、技術教育および職業教育、大学図書館、講座の公開による教育、国際関係
報告書の摘要
日本の教育の目的および内容、国語改革、初等学校および中等学校における教育行政、授業および教員教育、成人教育、高等教育 (村井実訳『アメリカ教育使節団報告書』)
使節団は前述したように昭和二十一年三月初旬に来日したが、既にアメリカ出発前、ワシントンにおいて協議を重ね、途中においてもホノルルおよびグアム等において討議を行っていた。討議とはいっても、そこで日本の教育制度の改革に対する構想を練ったというのではなく、委員のすべてが教育の専門家で、日本の教育改革についてもそれぞれ一家言を持っていたので、それらの協議や討議は相互の意見の調整であったようである。
使節団を迎えたGHQは、新設の民間情報教育局(CIE)教育課が編集した『日本の教育(Eduoation in JaPan)』を委員の参考に供した。同書はアメリカ国務省が蒐集した、日本の戦前・戦中の教育制度や法令に関するあらゆる文献に基づいて編まれたもので、それが使節団に与えた影響は非常に大きかった。例えば使節団の報告書は、日本の教育制度が文部省を頂点とする中央集権的支配の下に官僚的支配を受けていたことや、帝国大学の特権的地位等を批判しているが、それらの指摘は主として同書からの知識に基づくものであった。
さて、使節団は約二十五日の滞日期間を会議と視察とに精力的に費やし、三月三十一日には報告書をマッカーサー元帥に提出した。その間、勿論、前述した日本教育家の委員会との間に意見の交換が行われたし、同委員会もまた使節団の要求に基づいて独自の調整を行い、改革に必要な資料を提供したのであった。報告書は同年四月七日GHQの手で公表され、同時にその報告書の趣旨に基づく「日本の教育制度刷新に関する指令」が政府に正式に手交された。
指令を受けた後の我が国が、それに対応するための新しい機関を設置し、改革の具体案を作成していく過程については後述することとし、ここには報告書の概要とも言うべきものを紹介しておく。
今その報告書(前掲『アメリヵ教育使節団報告書』所収)を一読してみると、「われわれは決して征服者の精神をもって来たのではなく、……経験ある教育者として来た」(一九頁)と言い、改革に関する意見の「大部分は、すでに日本の教育界に強く現われている傾向を支持するものである」(一七頁)と言うなど、極力その意見が強制でないことを強調し、また日本の教育家に不要な刺戟を与えることを避けようとする心遣いと言うか、アメリカ人のいわゆる善意というものを随所に看取することができる。しかしその意見には、教育の理想やその原則を縷々述べ、また民主主義の理想を日本人に手を取り足を取るといった形で説明した箇所など、マッカーサー元帥の「日本人十二歳説」と軌を一にする態度が感ぜられる。また短期間のうちに団員すべての意見を満遍なく取り入れようとしたためか、真意の捕捉し難いところもある。我々はこの報告書の中に、戦後における六・三制をはじめとする諸改革の骨子が箇条書にされているかのように思いがちであるが、報告書の実態はそのようなものではない。例えば、日本語の書き言葉をすべてローマ字にせよといった、国語改革の意見のようなものは、殆ど恣意に近く、大学を含めた高等教育の改革についても、具体的に触れるところはきわめて少い。それはともかく、戦後の教育改革と関連の深い部分を、大学教育の改革に重点を置いて、その概要を項目に従って次に略述しよう。
先ず第一の「教育の目的および内容」においては、何よりも教育制度、組織およびカリキュラムの中から、軍国主義ないし超国家主義的なものを除去し、民主主義に基づくものとしなければならないとし、被教育者の個人差、独創性、自発性に配慮すべきことを強調しているが、それは日本の戦時中の誤った方針を是正するというのではなく、そもそも日本の教育全体が「高度に中央集権化された十九世紀的パターンに基づいていた」から、それを「近代の教育理論に基づいた」(二七頁)ものにしなければならないのだと言い、具体的には、従来のカリキュラムが「生徒を現実社会に適するように育てることに失敗した」(二八頁)のに鑑み、民主主義に適する教育制度の下におけるカリキュラムは、「学問研究の自由、批判的に分析する能力の訓練を大切にする」(三〇頁)ように編成されなければならないとしている。また教科書については、その「作成および発行は自由な競争にまかせるべきである」と言い、その「選定は全面的に教師の自由選択に委ねられることはできない。それは一定地域の教師たちの委員会によ」る(三六頁)としている。これらの提案は、戦後の我が国の教育改革の過程において殆どすべて取り入れられ、また実現された。カリキュラムの民主主義的改編はもとより、義務教育課程における教科書が国定から検定となり、その選定に当って広域採用制が採られるようになったことなどがそれである。道徳、倫理、歴史、地理等の諸科目に対する批判と提言とは省略するが、体育に関し、「学生が長時間、なんら身体的娯楽も与えられずに学習ばかりしがちな大学のレベルでも、同様の課業が加えられるべきである」(四九頁)との提言や、大学における職業教育の重視等の提言は、戦後の大学における体育の必修制などとの関連から見て重要である。
第二の「国語の改革」においては、それが、内側からなさるべきものではあるがとは断りながら、「いずれ漢字は一般的書き言葉としては全廃され、音標文字システムが採用されるべきであると信ずる」(五六頁)と言い、そのような改革は「来るべき世代のすべての人々がかならずや感謝するであろうことがら」(五三頁)であるとしているのは、漢字学習の弊害面だけに偏った、過度の理想論であった。
第三の「初等学校および中等学校における教育行政」については、大学教育改革とは直接関係がないが、その提案の中には、戦後の教育改革との関連から、重要と思われるものが幾つかある。その一つは義務教育三ヵ年延長と三年制の上級中学校新設の提案で、小学校を無料、男女共学、六ヵ年の義務教育とする点では、従来と異るところがないが、その上につながる中学校をそれぞれ三年制の下級と上級とに分けるとの提言は、戦後の六・三・三制の原型として注目される。提言は下級中学校は無料、男女共学の義務教育とし、その内容は「万人に対する同一タイプのカリキュラム」とすべきことを主張している。これはいわゆる戦後の新制中学として定着しており、しかもその内容を「普通科」一本とし、「職業科」の中学校を置かないとしたのは、従来に比して画期的な改革案であった。また上級中学校は無料、かつ希望者の全員入学を認めるべしとし、上級中学校では、進学のための普通科(男女共学)とは別に、家政、農・工・商業の職業課程(男女別を認める)の設置を認めることとしている。
右の提言には、その名称などをも含め、戦後の改革においてそのまま実行されなかったものもあるが、従来の小学校に続く中等教育が、高等小学校、中学校、高等女学校、実業学校、青年学校、師範学校予科等に複線化していたものを単一の中学校に改め、いわゆる単線化しようとした点は、そのためにまた事後に種々な問題を残すこととなったとはいえ、画期的な提案と言うべきであろう。次に重要と思われるのは、教育行政における文部省の権限を極力削減し、地方に分散しようとした点であり、公立の初等、中等(現在の高等学校を含む)教育の行政責任を府県、市町村の地方自治体が負うべきものとし、それとは別にこれら自治体に、「政治的に独立の、一般投票による選挙で選ばれた代表市民によって構成される教育委員会」(六八頁)の設置を提言していることである。
第四の「授業および教師養成教育」において重要な点は、師範学校の改革および大学学部における教員養成の改革等の提言である。前者においては、先ず従来の師範学校が国家の教育方針に対する単なる随順の機関に堕し、画一的教育の弊害を生んだのを批判するとともに、その内容および修業期間の短いことを指摘して、内容を高度化し、上級中学校(現高等学校)につながる四年制の単科大学にするよう、その改革を提言している。また従来の大学学部における教員養成が安易に過ぎたのを指摘し、一般教育および教育についての課程(現在の教職課程)を集中し、同時に教育実習の機会を用意すべしと提言している。これらの提言がやがて戦後の教育改革においてすべて実現されたのは周知の事実である。
第五の「成人教育」については省略するが、ただ、その提言に基づき、その後図書館や博物館が各地に増設され、社会教育もまた進展したので、そのために必要な司書をはじめとする専門職員の養成のため、それに必要な社会教育や図書館学、博物館学などの諸科目が大学に新たに設置されるようになったことは注目されるべきである。
第六の「高等教育」においては、先ず「大学は現代のあらゆる教育組織の首位に立つものである」とその存在意義を定め、更に大学の持つ三つの機能を説いている。すなわちその第一は「自由の思想を刺激し、探究の方法を完成し、知識の向上を推進し、科学と学問を培い、真理を愛する心を養い、社会に不断の啓蒙の源泉として奉仕する」、第二に「大学は、才能ある若い男女を、あらゆる年代、あらゆる民族の最善の思想、最高の精神的刺激に触れさせることによって、……指導的地位を占めるように育て」、第三には「選ばれた若い男女を新しい職業についても昔からの職業についても、その技術に熟達するように訓練する」(一〇六頁)ことである、としている。
このような前提に立ち、過去の日本における高等教育を顧みて、その機会が一部の者のみに独占されていた欠陥を指摘して、「高等の学術に進む権利の認識は、少数者のものであった特権が多数の者に開放され、その限界が定め直されるに応じて、国民にも、またさらに高等教育を統御する行政権力者にも、より一層明確になされなければならない」と言い、最後に「こうした認識によってのみ、今日帝国大学の卒業者に与えられている優先的待遇の修正への道が開けるのである」(一〇七―一〇八頁)と付け加えているが、そこには、日本における教育の禍根が文部省による強権的支配と帝国大学の特権的地位とにあるとした、使節団に共通する意識をにじませている。
なお、高等教育の内容の改革においては、一般教育の不足を指摘し、それは単に大学の数を増すだけでは補うことができないので、カリキュラムを自由化し、「職業的および技術的教育の計画においても、一般教育の科目は可能な限りさらに自由に採り入れられるべきである」(一〇九頁)と提言するとともに、カリキュラムに関連して、一般教育の他に、「専門分野の関連的諸科目が、現在よりもっと自由に学生の専門的学習の課程に採り入れられるべきである」ことと、大学における外国語の重要性に触れて、「外国文学研究は、望ましくはあるが、読み書きという実際的な言葉の使用も強調されてしかるべきである」(一一七頁)こととを提言している。
この他、医学教育強化のため「医学上の訓練については特別な研究が行われるべき」(一二〇頁)ことや、「正規の大学課程に入学する資格のない成人の聴講生」(一二二頁)のために大学が公開講座を開くべきことなどの提言もある。更に重要と思われるのは、高等教育機関の創設の認可や必要基準の維持のために、何らかの政府機関を設立すべきこと、および、高等教育機関相互の質の改善と大学の研究の質の改善とのために、その連合会の設置を提言していることであるが、前者については、後に文部大臣の諮問機関としての大学設置審議会や、国公私立大学の構成する大学基準協会として、また後者については、国立大学協会や私立大学連盟、私立大学協会等々の連合機関の発足により、結実することになる。
ただ戦後の高等教育機関の改革で重要なのは、それまでの専門学校、高等師範学校をすべて大学に一本化し、従来の複線型を中学校と同じく単線化したことであるが、報告書は専門学校の廃止には触れていない。また大学の修業年限は、医学部の六年制や短期大学の二年制を例外として、すべて四年制に定着することになるが、それについても触れていない。短期大学の構想も、その後の改革の経過で生れたもので、報告書にはそれに関する提言は見られない。
これを要するに、学校教育の内容および方法の民主化、学校制度の複線型から単線型への転換、学校行政の文部省主導型から地方分権主義への転換、教員養成法の変革、大学間格差の解消、大学における一般教育の重視および社会教育の推進、教育費の問題等々、アメリカ教育使節団報告書は従来の日本の教育制度に画期的な変革をもたらす諸提言を含むものであった。
しかし、この報告書に対する国内の反響はさまざまで、南原繁は、使節団を招聘してこのような報告書を提出させたマッカーサー元帥の構想を卓見であると賞揚しているが、使節団来日当時の文部大臣であった安倍能成は、「アメリカが日本の国情を知らず、又アメリカ役人の中に軽佻ないはゆる進歩主義者もあつて、日本を新しい学説の稽古台にしたり、戦勝国の威を借りて権力を振ひたがつたりする者もあつて、色々の過と誤とを犯したことも否定できない」(『戦後の自叙伝』五九頁)と言っている。確かにアメリカ人的善意の所産であったとはいえ、日本の敗戦という事態の下で、戦勝国が派遣した一種の調査団とも言うべき使節団の作成した報告書ともなれば、その作成の過程においても、またその結論に対しても、日本側教育委員との間に多少の摩擦を生じ、批判を生んだのもやむを得なかったであろう。当時の文部次官、福田繁の証言によれば、使節団と日本側委員との最初の会合は華族会館で行われたが、アメリカ側団員が正面玄関から出入りしたのに対し、日本側委員は裏口からの出入りを強制されたという。また、戦前の日本の教育行政が文部大臣を頂点とするピラミッド型であったのを説明するために、文相の安倍をはじめ次官、局長、県知事等、すべて現職の官僚が、アメリカ人の前で演壇上に並ばせられたという(読売新聞戦後史班編『教育のあゆみ』二二九頁)。アメリカ人的な率直な演出も、安倍をはじめとする多くの日本人には、敗戦国民なるが故に耐えねばならぬ屈辱と感じたであろう。しかしその安倍も、旧制高等学校の廃止には未練を残しながらも、義務教育年限の三年延長には賛意を表しているのである(『戦後の自叙伝』七六頁)。
使節団の報告書が日本政府に対する教育刷新の指令となったことは前にも記した。報告書の内容は勧告の形式を採っていたが、政府は今後の教育改革の諸方策を樹立する上での重要な指針として受けとめて、昭和二十一年八月十日には、新たに教育刷新委員会を発足させた。これは、使節団と折衝討議を重ねた前述の日本側教育委員会を母胎とし、委員長一、副委員長一を含む、五十名以内の委員から成る、総理大臣所管の委員会であり、その任務は、教育に関する重要事項の調査・審議の結果を首相に報告し、併せて首相の諮問する教育上の重要事項について答申することとされた。実際には三十八名の委員で発足し、委員長には、既に文相の地位を田中耕太郎(第一次吉田茂内閣)に譲っていた安倍能成が、副委員長には、前記教育委員会の委員長であった南原繁がそれぞれ就任し、我が学苑からは総長島田孝一が委員として参加した。この教育刷新委員会は、その後二十四年六月一日に名称を教育刷新審議会と改めたが、これは、同委員会が勅令によって成立したのに対し、新憲法下では政令によらなければならなかったための措置で、その性格、権限、構成には何らの変更もなかった。
同委員会は発足直後の九月七日第一回総会を開き、(一)青年学校、(二)義務教育年限、(三)教員養成制度、(四)教員の待遇、(五)教職員の身分保障、(六)教育内容、(七)国語改革、(八)教授方法、(九)教育行政、(十)教育財政、(十一)公民教育、(十二)体育保健、(十三)科学教育、(十四)その他の重要事項の各項目について審議を行うこととした。これを見ると、審議の範囲が報告書の内容に限定されているとも考えられるが、教員の待遇やその身分保障等の項目は、戦後の厳しい経済事情や、あるいは戦時中における教員に対する外部からの不当な圧力に対する反省を反映したものと思われる。この委員会は、二十七年六月六日に中央教育審議会として発展的解消を遂げるまで、六年十ヵ月の長きに亘り、総会を開くこと百四十二回、また専門委員六十二名の下に特別委員会二十一を設置して三百五十回の特別委員会を開き、三十五件の建議を行うなど、実に精力的な審議を行い、戦後教育改革の骨子を作成したのである。
同委員会が最初に取り組まなければならなかったのは、教育勅語の取扱いに関する問題であった。教育勅語は、その冒頭に「我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ、此レ我カ国体ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス」とあり、その後に教育の基本となるべき徳目を列挙しているのであって、我が国には、この勅語によって示されたもの以外には、正式に教育の基本となるべきものは何もなかった。しかし敗戦後の現実においては、いかに国体の護持が高唱されたとはいえ、国民の一方的な国体への奉仕を骨子とする教育勅語が、そのまま新時代の教育の基本とされることは許されない。そこで勅語の取扱いが問題となったのである。さすがに教育勅語の存続を主張する委員は一人もなかったが、教育勅語に代る、新しい勅語を奏請すべきであるとの意見、すなわち教育の根本方針は依然として勅定によるべきであるとの主張は、少くなかった。しかし、かつて新しい勅語の発布に強く反対した使節団の意向を反映してか、新時代の教育方針は国民の総意として、国会の議決による法律の形式を採るべきであるとの文部省の意見に委員会が賛成して決着を見た結果、明治五年に制定された学制以来の画期的快挙とされる「教育基本法」が、昭和二十二年三月三十一日に法律第二十五号を以て公布されたのである。なお、教育勅語は、翌二十三年六月十九日衆参両院において、軍人勅諭その他とともに排除・失効確認の決議がなされた。
その後の委員会の審議過程を詳細に述べることは省略するが、従来の高等小学校と中学校とを一本化して修業年限三ヵ年の中学校とし、義務制、全日制、男女共学、独立の校舎として各市町村に設置すること、およびその昭和二十二年四月からの実施が決議された。すなわち義務教育の三年延長がこの段階で正式に決定を見たのである。そしてその上に全日制と定時制との二つから成る三年制の高等学校を設置し、その内容は普通教育と専門教育を行う二部制とし、この段階では男女共学でなくてもよいとし、一年遅れて二十三年四月からの実施を決定した。
なお、高等教育については、従来の大学、高等学校、専門学校、師範学校、高等師範学校等をすべて統合再編して四年制の大学(三年制ないし五年制も認め、歯学、医学等の学部は六年以上とした)とし、二十四年実施(例外的には二十三年発足を認めた)を決定した。この、いわゆる新制大学の構想決定に当っては、旧制高等学校が帝国大学への予科的存在となり、この課程を終えた少数の卒業者に対する特権的待遇を改めるべきであるとの意見や、専門学校がそれとは別に、一種の袋小路的存在となって、大学進学の道が閉ざされている現状を改革して、教育の機会均等の原則に立つべきであるとの意見が、委員会の大勢を占めたが、それに対する反対意見も強かったことは言うまでもない。しかしそれらについては後に記すことにする。また教員養成は、従来の師範学校や高等師範学校だけに任せず、新制の教育大学や学芸大学の他に、各大学に教育学部もしくは教育学科を置くことともした。更に大学の上に、修士と博士との二課程を持つ大学院や研究科の設置も決定された。
これら学校制度の改革と同時に、法制整備の建議も行われ、教育基本法と時を同じくして、法律第二十六号を以て「学校教育法」が公布された。因に同法による大学は、その第五十二条に、「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」と定められている。これを、それまでの「大学令」第一条の「大学ハ国家ニ須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ竝其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養ニ留意スヘキモノトス」という規定と比較するとき、新しい時代の教育や大学に対する理念を読み取ることは容易である。
さて、委員会のこれら一連の建議に基づき、戦後の教育はその制度と内容において著しい変貌を遂げることになったのであるが、審議の過程において種々の議論があったことは言うまでもない。その主要なものを挙げれば、先ず義務教育年限の延長がある。委員のすべてが延長に賛成ではあったが、二十二年四月実施というのが、戦後の窮迫した経済事情を考慮すれば時期尚早に過ぎ、その経済的負担は政府、国民ともによくするところではないとの反対意見があった。しかし、戦後の再建は何よりも教育からという意見や、改革の時期としては敗戦という衝撃の強いこの時期を除いては他にないという意見が、反対意見に打ち勝ったのである。
六・三・三制そのものについても、日本の実情に適しないとの反対意見が多かった。前述した東京帝国大学の教育制度委員会の結論も五・三・四制であった。また使節団の一員パール・ワナメーカー女史は最後まで初等六年・中等五年の六・五制案に固執したという(『毎日新聞』昭和五十九年十月十八日号)。女史の中等教育五年案は、これを下級三年・上級二年に分け、下級三年間を義務教育とするものであった。報告書が下級中学校と上級中学校との名称を掲げているのは、その名残りであろう。しかしそれらの異る諸案を調整し、最終的に六・三・三制に決定させたのは、教育家の委員会委員長南原繁と、使節団団長ストダードとの直接交渉の結果であったという(『朝日新聞』昭和六十一年九月十四日号)。実情に適しないとの反対意見は、中学校が普通科に一本化され、職業科が切り捨てられたこと、ならびに高等学校段階においても職業科が軽視されていることに対してであり、職業教育にもっと重点を置くべきであるという主張がその背景となっていた。一つには、この学校体系では一部普通科高等学校出身者に大学が独占されるのではないかとの危惧もあり、この立場からは大学を予科二年・本科三年とする六・三・五制が主張されたが、それは本科三年における職業教育の徹底を目的とするものであった。職業教育重視の立場からは、専門学校廃止に対しても強い反対意見が出された。また旧制高等学校廃止に対しては、それが人格形成に大きく貢献した実績を挙げ、その温存を主張する者がかなりあった。しかしこれらの反対意見は、袋小路的専門学校の廃止、身分的差別にも連なりかねない旧制高等学校→帝国大学という一種のエリート・コース的課程の廃止、すなわち学校制度の単線化を主張する多数委員によって超克された。なお大学の課程については、前期一般教育課程と後期専門教育課程とに二分すること、および前期課程修了者に他大学への転学を原則として認めるべきであるとの建議も行われた。
このようにいわゆる新制大学の構想が進展していく段階で、その設立認可の基準が問題になったのは当然の成行きであった。従来は「大学令」により官公私立大学の設置認可が行われていたが、認可基準は必ずしも明確でなく、実際の運用に際してかなり妥協の余地があった模様で、私立大学については文部省が一応の基準を作り、その適用も文部省の手に委ねられていて、設置を認可された私立大学は二十八校であった。ところが、前述の如く、教育使節団の報告書中にも、高等教育機関の創設認可および必要基準の維持のため、何らかの政府機関を設置すべきであるという一項があったので、文部省は昭和二十一年十一月、東京およびその周辺の官公私立大学十校の学長を委員とする、大学設立基準設定に関する協議会を発足させた。しかし当時のCIEは、日本の民主化のため、大学の設置基準は大学人や専門家によって自主的に定められるべきであるとして、内面指導を行っていた。このような気運に立脚して、翌二十二年五月十二、十三日の両日に亘り、全国の大学関係者が東京に集り、大学設立基準に関する全国大学連合協議会を結成し、文部省に建議するところがあった。そこで文部省は同年七月、同協議会を母胎に、新たに大学基準協会を設立した。この大学基準協会は全国四十六大学の代表者を会員とし、東京工業大学学長和田小六を会長とする純然たる民間団体であった。我が学苑からは常務理事の伊原貞敏がその常務理事としてこれに参加した。同協会は内部に各種委員会および分科会を設け、大学の設備、編成、学部、学科等の具体的基準を作成するために活動し、その成果はそのまま、その後の新制大学の実質上の設立認可の審議基準として機能した。中でも、一般教育の履修を学生に義務づけるとともに、その設置を大学に義務づけたこと、単位制を導入し、その単位の中に学生の自習時間を組み入れ、自発的学習の気風を向上させようとしたこと、および、これらの単位の認定や入学資格、入学定員等の決定には当該教授会の議を尊重すべきこと等を定めたのは、新制大学の大きな特色として今日にまで及んでいる。なお、文部省は当面した新制大学の設立認可を審議するため、二十三年一月十五日、政令第十一号で、文部大臣の諮問機関として大学設置委員会を設置した(翌二十四年六月、大学設置審議会と改称)。しかし設立認可の基準は、前記大学基準協会が採択した基準をそのまま採用し、また審議会の委員そのものも、定員四十五名の半数を基準協会からの推薦によるものとするなど、民主的な構成が行われた。
さて、昭和二十二年四月段階での官公私立大学の数は四十九校で、新たに新制大学に再編統合されるべき高等学校、大学予科、専門学校、教員養成諸学校等の数は計六百九校であった。このうち大学設置審議会により新制大学として発足を認可されたのは、例外的に昭和二十三年度において十二校、そして、新制大学発足の正式年度とされた翌二十四年度には計百六十八校(国立七十、公立十七、私立八十一)(文部省『学制八十年史』六〇四頁)であった。因に昭和五十七年度の大学数は国立九十五、公立三十四、私立三百二十六で、合計四百五十五校である(文部省編『学校基本調査報告書』昭和五十七年度版)。
最後に、戦後の教育改革は私立学校制度に画期的変革をもたらしたものであるから、それについても記しておかなければならない。
前記教育刷新委員会は、昭和二十一年十二月の第十七回総会において、私立学校の経営主体の健全な発達を助成し、これに公共的・民主的性格を付与するため、私立学校を従来の民法法人とは別個の特別法人である学校法人とすることを目的に、学校法人法の制定を建議した。また翌二十二年一月の第二十一回総会においては、国公私立学校の平等化、私立学校の財政面の強化、教職員の待遇改善、ならびに私立学校に対する形式的監督の廃止等を建議している。
また私立学校の財政面の強化については、同年十二月の第四十八回総会において、私立学校に対する国家からの財政援助を立法化するため、私立学校法の制定を建議した。当時結成されていた日本私学団体総連合会はこの問題に関し、文部省とも密接な連絡を取り、一方政界にも働きかけるところがあった。しかし、私立学校に対する国家からの財政援助は、憲法第八十九条の規定「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」に抵触するとして、一時難航した。しかしこの問題も、法務庁が憲法の条文の「公の支配に属しない」という文言の解釈について、私立学校といえども、教育基本法や学校教育法等の適用を受けている限り、公の支配に属するものと考える(昭和二十四年二月十一日法務庁調査二発第八号)という見解を発表するに至って解決した。そこで、刷新委員会の建議に基づく学校法人の規定(第三章)や、国または地方公共団体からの財政援助の規定(第十九章)等を含む「私立学校法」が、昭和二十四年十二月十五日に公布された。なお、同法公布に伴い、「私立大学に関する重要事項について文部大臣に建議する」(第十八条)ことを目的に、文部大臣の諮問機関として私立大学審議会が同日設置され、学校法人の設立、学校法人が経営する大学の設置等について、主として経営面より審査して、その可否を文部大臣に答申することになった。更に、私立学校に対する経済援助の具体的方策を講ずる特殊法人私立学校振興会が発足したのは、二十七年三月のことであった。
さて、昭和二十五年八月、アメリカはウィラード・E・ギヴンズを団長とする、五名から成る第二次教育使節団を、第一次使節団の提出した報告書の実効を日本の教育の実情について視察し、必要があれば更に補助的勧告を行うために、我が国に派遣した。二十七日に来日した一行は約一ヵ月の視察を終えてその報告書をGHQに提出した。これは、我が国においては、既に六・三・三・四制の実施をその前年に終え、幾多の試行錯誤はあったにせよ、ともかくも新しい教育制度をその軌道に乗せていた時期である。使節団は、第一回使節団の報告書提出以来実に四年数ヵ月という短期間に行われた、日本の教育制度改革の現況に驚嘆したもののようで、ギヴンズ団長は、その報告書に添えたマッカーサー元帥宛書簡に、「日本の民主化が、第二次世界大戦より以上にアジア及び全世界にとつて重要なものであろうという閣下の御説に同意であります」(『第二次米国教育使節団報告書』七―八頁)と記した。
戦後の教育改革の意義は、我が国でしばしば第三の教育改革と評価されている。それは、明治五年の学制発布を第一とし、戦時中の軍国主義的改変を第二の改革として捉えてであるが、戦後のそれは単に戦前・戦中の弊害を一掃したというにとどまらぬ大改革であった。その大要は、以上の簡略な叙述によっても知り得るように、一、国民の義務とされた教育が権利とされ、それを国家が保障することとしたこと、二、従来の教育の目的を国家主義から解放し、個人的、平和的、自主的なものとしたこと、三、教育に関する規定の勅令主義を改めて法律によることとし、教育を国会の権限下に置いたこと、四、教育行政の中央集権主義を改め、地方分権化し、官僚支配の外に置いたこと、五、複線型の学校体系を単線型に改めたこと、六、教育内容に対する国家統制や画一主義を廃したこと(教育委員会制度や教科書検定制度の援用)、七、国公私立学校間の格差の除去、八、教員養成法の改革、その他教育費負担問題の改革、社会教育の振興等、その内容は多岐多様であるが、その変革の意義はきわめて大きい。それが第三の教育改革と評価される理由であろう。しかしそれは、後世、戦後改革の成果に対して初めて言い得ることで、当時、敗戦の衝撃と占領という異常な事態の下で、しかも未曾有の経済的苦境の中で行われたのであったから、その進展の過程にあっては、その成果に明確な見通しと自信を持ち得た者は恐らくなかったであろう。改革の理想を高く掲げ、実施の情熱に燃えてはいたが、旧い理念や制度の一掃と新しいそれらの建設とを同時に進めなければならない過程においては、多くの迷いと危惧とがつきまとったものと思われる。新しい教育制度を実施してきた現在の時点では、それらの迷いや危惧が、新制度の欠点として、その改革が論議されるに至った問題も決して少くはない。それはともかくとして、右記のような改革の骨子を、学苑がいかに受けとめ、どのように実現していったかが次の問題である。
昭和二十二年三月三十一日、「教育基本法」と「学校教育法」が制定された。「学校教育法」は、小学校令、中学校令、専門学校令、高等学校令、大学令などの「勅令」によって学校種別ごとに定められてきた教育法体系をすべて破棄し、あらゆる学校を包括する一元的教育法体系を目指した「法律」である。それは六・三・三・四の単線型体系を定めるとともに、私立学校については監督庁の権限を縮小し、その自主的な運営による自由な発展を期待するものであった。因に学苑に関連する高等学校および大学についての条文は、左の第四章および第五章に見られる。
第四章 高等学校
第四十一条 高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。
第四十二条 高等学校における教育については、前条の目的を実現するために、左の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。
一 中学校における教育の成果をさらに発展拡充させて、国家及び社会の有為な形成者として必要な資質を養うこと。
二 社会において果さなければならない使命の自覚に基き、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な技能に習熟させること。
三 社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努めること。
第四十三条 高等学校の学科及び教科に関する事項は、前二条の規定に従い、監督庁が、これを定める。
第四十四条 高等学校には、通常の課程の外、夜間において授業を行う課程又は特別の時期及び時間において授業を行う課程を置くことができる。
高等学校には、通常の課程を置かず、又は前項の課程の一のみを置くことができる。
第四十五条 高等学校は、通信による教育を行うことができる。
通信による教育に関し必要な事項は、監督庁が、これを定める。
第四十六条 高等学校の修業年限は、三年とする。但し、特別の技能教育を施す場合及び第四十四条第一項の課程を置く場合は、その修業年限は、三年を超えるものとすることができる。
第四十七条 高等学校に入学することのできる者は、中学校若しくはこれに準ずる学校を卒業した者又は監督庁の定めるところにより、これと同等以上の学力があると認められた者とする。
第四十八条 高等学校には、専攻科及び別科を置くことができる。
高等学校の専攻科は、高等学校若しくはこれに準ずる学校を卒業した者又は監督庁の定めるところにより、これと同等以上の学力があると認められた者に対して、精深な程度において、特別の事項を教授し、その研究を指導することを目的とし、その修業年限は、一年以上とする。
高等学校の別科は、前条に規定する入学資格を有する者に対して、簡易な程度において、特別の技能教育を施すことを目的とし、その修業年限は、一年以上とする。
第四十九条 高等学校に関する教科用図書、入学、退学、転学その他必要な事項は、監督庁が、これを定める。
第五十条 高等学校には、校長、教諭及び事務職員を置かなければならない。
第五十一条 〔略〕
第五章 大学
第五十二条 大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。
第五十三条 大学には、数個の学部を置くことを常例とする。但し、特別の必要がある場合においては、単に一個の学部を置くものを大学とすることができる。
第五十四条 大学には、夜間において授業を行う学部を置くことができる。
第五十五条 大学の修業年限は、四年とする。但し、特別の専門事項を教授研究する学部及び前条の学部については、その修業年限は、四年を超えるものとすることができる。
第五十六条 大学に入学することのできる者は、高等学校を卒業した者若しくは通常の課程による十二年の学校教育を修了した者(通常の課程以外の課程によりこれに相当する学校教育を修了した者を含む。)又は監督庁の定めるところにより、これと同等以上の学力があると認められた者とする。
第五十七条 大学には、専攻科及び別科を置くことができる。
大学の専攻科は、大学を卒業した者又は監督庁の定めるところにより、これと同等以上の学力があると認められた者に対して、精深な程度において、特別の事項を教授し、その研究を指導することを目的とし、その修業年限は、一年以上とする。
大学の別科は、前条に規定する入学資格を有する者に対して、簡易な程度において、特別の技能教育を施すことを目的とし、その修業年限は、一年以上とする。
第五十八条 大学には学長、教授、助教授、助手及び事務職員を置かなければならない。
大学には、前項の外、必要な職員を置くことができる。
学長は、校務を掌り、所属職員を統督する。
教授は、学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する。
助教授は、教授の職務を助ける。
助手は、教授及び助教授の職務を助ける。
第五十九条 大学には、重要な事項を審議するため、教授会を置かなければならない。
教授会の組織には、助教授その他の職員を加えることができる。
第六十条 大学の設置の認可に関しては、監督庁は、大学設置委員会に諮問しなければならない。
大学設置委員会に関する事項は、命令でこれを定める。
第六十一条 大学には、研究所その他の研究施設を附置することができる。
第六十二条 大学には、大学院を置くことができる。
第六十三条 大学に四年以上在学し、一定の試験を受け、これに合格した者は、学士と称することができる。
学士に関する事項は、監督庁が、これを定める。
第六十四条 公立又は私立の大学は、文部大臣の所轄とする。
第六十五条 大学院は、学術の理論及び応用を教授研究し、その深奥を究めて、文化の進展に寄与することを目的とする。
第六十六条 大学院には、数個の研究科を置くことを常例とする。但し、特別の必要がある場合においては、単に一個の研究科を置くものを大学院とすることができる。
第六十七条 大学院に入学することのできる者は、第五十七条第二項に規定する者とする。
第六十八条 大学院を置く大学は、監督庁の定めるところにより、博士その他の学位を授与することができる。
博士その他の学位に関する事項を定めるについては、監督庁は、大学設置委員会に諮問しなければならない。
第六十九条 大学においては、公開講座の施設を設けることができる。
公開講座に関し必要な事項は、監督庁が、これを定める。
第七十条 〔略〕
さて、戦後の新たな教育理念を指示する教育基本法と、学校体系を規定した学校教育法とが公布されると、高等教育の改革が急速に具体化し始めた。すなわち前節で見たように、先ず両法公布の約四ヵ月後の二十二年七月、純然たる民間団体である大学基準協会が創立され、同協会の会員校の資格審査の基準として「大学基準」が制定された。文部省が新制大学設置認可資格の審査に当らせるために二十三年一月に設置した「大学設置委員会」は、審査の基準としてこの「大学基準」を採用したのである。
昭和二十三年、先ず十二枚(公立一、私立十一)が設置認可を受け、更に翌二十四年には、国公立、私立合せて百五十校以上もの新制大学が誕生した。早稲田大学が新制大学設置の認可を受けたのも、東京専門学校創立から数えて六十八年目、この二十四年である。
ところで「大学基準」が、政府が独自に作成して大学側に押し付けたものではなく、大学人・専門家が自主的に立案・作成したものであり、我が国大学教育史上重要な意義を持つものであることは、既に前節で述べたとおりであるが、ここで留意すべきことは、これが先ず第一に、大学の最低基準を示すものであり、各大学に審査合格後も教育内容の充実向上が要請されたことである。しかも第二として、それは決して各大学の画一化を目指したものではなく、寧ろ個々の大学の伝統、自主性を尊重するものだったことである。すなわち「夫々の目的使命に即し、独自の伝統と学風とに従い、個性豊かな而も自主性ある大学」(『昭和廿三年二月『大学基準』及びその解説』(『大学基準協会資料』第二号)一〇―一一頁)となることを、また設立後も教育内容の充実向上に努めることを、これから生れ出る新制大学に要請するものだったのである。
では、我が学苑では、建学以来継承され涵養されてきた「独自の伝統と学風」と戦後教育改革の理念とが、いかなる形で結び付けられたのであろうか。
学苑における新制大学設置への胎動は、昭和二十一年末に始まる。先ず同年十二月、「総長に直属してその諮問に応じ、または自発的に学術の振興教育の徹底及び普及等大学の発展に関して調査、審議或は企画し、その結果を総長に答申または建議する」ことを目的とし、委員長に常務理事吉村正を据え、各学部・専門部、学院その他から選出された「中堅人材」を中心とする企画委員会が設置された。その発足時の全委員は左の如くである。
大西邦敏(政治経済学部教授)、時子山常三郎(専門部政治経済科長)、江家義男(法学部教務主任)、野村平爾(法学部教授)、中島正信(商学部教務主任)、佐藤孝一(専門部商科教授)、川又昇(第二高等学院教授)、佐々木八郎(高等師範部教務主任)、山本研一(理工学部長)、山崎秀夫(専門部工科教授)、中谷博(専門部工科教務主任)、小林正之(第一高等学院教務主任)、安藤常次郎(第二高等学院学生主任)、安部民雄(専門学校長)、吉村正(常務理事)
同委員会は大隈精神の昻揚、六・三・三・四新学制、通信教育制度、夜学制度その他さまざまな問題について審議したが、二十二年三月の第二回(臨時)委員会で、委員長吉村が「本会は起草委員会でなく、案を提出する会だということである。従って一つの成案にキチンとまとめる必要はないのであって、甲案、乙案、丙案というふうに幾つもの案を出すことにしたいと思う」と述べ、各委員の支持を得たことから分るように、学部、専門部、専門学校、学院等の学校群を含む「複線型」の一つの学校集団を、何時、どのような形で六・三・三・四の新しい体系に、すなわち「単線型」に切り換えるかについての実行プランを立案・作成するものではなく、それは、同じく総長の諮問機関で、理事、維持員、学部長等のいわばトップ・マネージメントが構成する教育制度研究委員会(二十一年十二月設置)、およびその後を承けて設置された教育制度改革委員会(二十二年十月)に委ねられた。企画委員会の任務は、「学校の現状および将来に関して、いろいろな夢を語る」如く活発に論議し、教育制度研究委員会および教育制度改革委員会に種々のアイデアを提示し、両委員会が立案・作成する新制早稲田大学の具体的プランに、先に示したような「中堅」教員の声を反映させることにあったのである。
さて、具体案を練った教育制度研究委員会(委員長島田孝一)を構成したのは、この企画委員会の委員長吉村正および委員山本研一を含む左の十名であった。
大浜信泉(維持員・理事)、久保田明光(維持員・政治経済学部長)、谷崎精二(維持員・文学部長)、山本研一(理工学部長)、島田孝一(維持員・総長)、伊原貞敏(維持員・常務理事)、伊地知純正(維持員・商学部長)、赤松保羅(維持員・理事)、原田実(維持員)、吉村正(維持員・常務理事)
なお、二十二年三月の第六回委員会での決定に基づき、高等学院を代表する竹野長次(第二高等学院長)、専門部を代表する堤秀夫(専門部工科長)・外岡茂十郎(専門部法律科長)が新たに加わり、以後委員は十三名となった。
同委員会は、左表に示すように、十一回に亘って討議研究を重ね、翌二十二年九月、答申書「学制改革に関連して本大学の採るべき方策について」を総長に提出した。
第六十九表 教育制度研究委員会審議経過(昭和二十一年十二月―二十二年九月)
「今次の学制改革は教育基本法の示すところにしたがい、教育の機会均等と学問の自由を主眼としている」の一句で始まる答申書は、先ず従来の学部、付属学校は全部解消し、新たに発足させる新学制による学苑の基本的機構を、大学院―大学(学部)―高等学校と単線化させ、その他に「夜間大学及び工業に関する夜間高等学校」を設けることを主張する。そして各組織体の概要については、高等学校を「予科的性格を持たしめ、これを我が早稲田学園の伝統的中核たらしめる」と位置づけ、普通科三年制(総定員千二百人――一学年当り四百人、学部一学年当り収容人員の約八分の一)とする。四年制学部としては、従来の政、法、文、商、理工学部に師範学部および工業経営学部を加え、更に「理工学部関係では将来応用数学、応用物理に関する学科を開き、更に純粋科学に関する学部を設けたい」、大学院の規模は大学定員の半分、マスター(修士課程)二年、ドクター(博士課程)三年以上、としている。その他旧制生徒・学生の措置にも言及し、学部学生は「現在の儘逐次卒業」、高等学院生は無試験で新制高等学院もしくは新制学部に編入、そして専門部、高等師範部および専門学校の在学生については「希望者のみ試験の上新制度による大学に編入」、その他は「卒業まで旧制を存続」させることを要望している。その全文は左の如くであった。
学制改革に関連して本大学の採るべき方策について
今次の学制改革は教育基本法の示すところにしたがい、教育の機会均等と学問の自由を主眼としていることは云うまでもないことである。この意味に於て本大学がその教育目的並びに学術研究上の目的を達成するために採るべき方策も自らこの線に沿って行はれなければならぬと思う。
本委員会がこの精神を基調として研究討議をした結果、意見の一致した事項を挙げれば次の通りである。
一、新学制による本大学の機構
現在の学部、付属学校を全部解消して新なる発足をすることとし基本的の機構を左の通りとする。
大学院―大学(学部)―高等学校
以上の他別に夜間大学及び工業に関する夜間高等学校を設けること。
尚新学制が一応整備された上別科を作るもよい。
二、各組織体の概要
1 高等学校
普通科(三年)
高等学校は高等学校設置基準によること勿論なるも、本大学に於いては予科的性格を持たしめ、これを我が早稲田学園の伝統的中核たらしめる。定員は一、二〇〇名(各学年四〇〇名)とする。これは学部の収容定員の約一割に相当し且つ一校長の下で管理の出来得る範囲内の数である。
2 大学
学部(四年)
新制の大学では取敢えず従来の政経、法、文、商、理工学部の他師範学部及び工業経営学部を置きたい。但し師範学部を置く場合は、その内容につき大いに検討を要する。また工業経営学部は現在の工〔業〕経〔営学科〕を拡充して新生面を開きたい。
尚理工学部関係では将来応用数字、応用物理に関する学科を開き、更に純粋科学に関する学部を設けたい。大学の定員は財政的必要を考慮して一二、〇〇〇名(各学年三、〇〇〇名)とし、本大学付属の高等学校から毎年進学する四〇〇名の他はすべて全国の高等学校から優秀な人材を編入する。
学科課程その他については昭和二十二年五月十二日全国大学協議会に於けるウィグルウォース氏講演の要旨等を参考として充分研究しなければならぬ。
3 大学院(二年以上)
本大学は大学院を以て学術の淵叢たらしむべく努力しなければならぬ。
大学院には全国の大学の卒業生を入学させる。但し入学条件は厳重にする必要がある。
定員は六、〇〇〇名としこれは大学定員の半数を予想したものである。大学院に於いては主としてゼミナール式を採用し二年でマスター、三年以上でドクターの学位を得られるようにする。
4 夜間大学
夜間大学は学部第二部とする。
学部は政経、法、文、商、理工学部とする。但し理工学部では機械、電気、建築、土木、応用数学等の学科に止める。
修業年限は五年とし、これを前期後期の二期に分けたほうがよい。
定員は未定である。
5 その他
工業に関する夜間高等学校設置の必要を認める。
別科等は正規のものが一応整備された上で作るとよい。
三、新学制実施の時期
可能ならば高等学校及び大学学部は昭和二十三年度から実施したい。
四、旧制の学生の措置(明年度から新制度に移行する場合を仮定して)
1 学部
現在の儘逐次卒業させる。
2 高等学院
一年は新制高等学校三年へ
二年は同学部一年へ
三年は同学部二年へ
編入する。(無試験)
3 専門部(高師、専門学校を含む)
(第一案)
一年は二年に進級、明後年新制大学一年へ
二年は新制大学一年へ
編入する
三年はその儘卒業させる。
(第二案)
一年は新制大学一年へ
二年は同二年へ
編入する
三年はその儘卒業させる。(希望ならば新制大学二年へ編入する)
(備考)専門部、高等師範部及び専門学校の処置については、文部省の方針が決定しなければ確実に決められないが、本委員会の案では希望者のみ試験の上新制度による大学に編入し、その他は卒業まで旧制を存続することにしたほうがよい。
五、明年度の募集について
文部省の意向を確めて至急対策を考究する必要がある。
教育制度研究委員会の後を承け、左の委員を以て昭和二十二年十月十日に発足した教育制度改革委員会(委員長大浜信泉)によって、新制早稲田大学の構想は更に煮つめられていく。
伊原貞敏、吉村正、池原義見(以上常務理事)、久保田明光、大浜信泉、谷崎精二、伊地知純正、山本研一(以上学部長)、竹野長次、外岡茂十郎、堤秀夫、赤松保羅、安部民雄(以上付属学校長)
同委員会は、九二七頁以下の第七十表に示す如く、先ず二十二年十月十四日から翌二十三年一月二十七日までの約三ヵ月間に九回の会合を開き、二十三年二月五日、総長に答申案『学制改革要綱』に関する報告を行い、更にその後も三月十六日まで審議を継続して『学制改革要綱(案)追補』を作成し、この『学制改革要綱(案)追補』を盛り込んだ、後述の『早稲田大学設置要項』の原型とも言うべき答申書、すなわち『学制改革要綱(案)』を完成させた。
この教育制度改革委員会では新制早稲田大学構想をめぐってさまざまな論議がなされたが、その一つは新制大学開設時期に関するものである。専門部、高等師範部、高等学院、専門学校の各委員および池原理事が、二十二年十二月十三日の第七回委員会で、既述の教育制度研究委員会の答申と同様、二十三年度開設を主張したが、その論拠は以下のとおりである。
(一) 財政的立場によるもの
(二) 在学生を対象にしたもの
在学生の不安に対処するため
特に高等師範部においては四年制度の第四学年に対する措置に困難のあること
(三) 教員の身上に関するもの
一般教養科目を担任すべき教員の配置の便宜がよいこと
高等師範部においては明年第三学年が新たに増加するため大量の教員を委嘱せねばならぬこと
(四) 開設に甚しく困難がないとの推測によるもの
当分は下二学年であるから、一般教養科目が主となるから実施しても甚しき困難はないこと
専門学校の政経、法、商の既存三学科はそのまま実施に移行し得る体制を持っていること
これには左のような反対論があった。
(一) 実験設備等の整わぬこと
(二) 大学院の課程との関連において再検討する必要上、時間的に無理のあること
(三) 他の大学の状勢から見て、拙速を避け自重完備を期すべきこと
(四) 情報によれば、六・三・三・四の本系の形式は変わらぬが他の種の傍系的学校の設置が予想されるから、それとの睨み合せを必要とするにより、早稲田のみ先じて開設することに多少の不安の伴うこと
(五) 旧制学部在学生が新制学部又は新制大学院に移行を希望したる場合の措置に関しては方針が未確定であることをも考慮に入れねばならぬこと
これらの論点は二十三年一月十六日の第八回委員会で再審議され、結局、新制学部は二十四年度開設に決定されたのである。同時に、旧制度から新制度への移行問題については、「移行研究委員会」を新たに設け、これにその研究を委嘱することとなった。また、大学院の開設は、新制学部が最初の卒業生を出す二十六年度とされた。なお、新制への移行措置として昭和二十二年に工業学校に置かれた付設中学校の第三学年が二十三年三月に新制中学卒業生となるため、これらの生徒を収容するため、二十三年度に開設しなければならない事情にあった夜間四年制の工業高等学校については、至急具体案が作成され、新制学部より一足早く二十三年度に発足することとなった。
次に、同委員会の審議過程において、新制大学開設時期問題とともに活発に論議され、遂に決着を見ることなく終った、第一高等学院教授会提案の「文理学部」設置案については、その提案者たる第一高等学院教授会の意図は本章第三節に後述するが、ここでその経過に簡単に触れておこう。
高等学院の改革については、前述の第一回教育制度研究委員会で、高等学院を「グラヂュエート・コースに進む階梯としてのアメリカ式カレッヂ」に昇格させるとの意見が委員の間から出された(九一九頁以下の第六十九表参照)が、同委員会の答申はこの点に何ら触れていない。しかるに第三回教育制度改革委員会において、第一高等学院教授会は「文理学部」設置を同委員会に建議した。十一月八日の第三回委員会でこの問題が協議され、「具体的内容についての案の提出をみた上で、更めて検討する」とされた。そして十一月十二日には「提案者たる第一高等学院から渡〔鶴一〕院長及び両教務主任の出席を求め具体的内容について説明を聴取したる上宿題として学科目に関し他学部と比較検討をすることを申し合せた」。けれども十一月二十九日の第五回委員会では、(一)同学部案中文科系専攻の面は文学部の企画と大同小異である、(二)理科系専攻の面もまた理工学部的性格と小異である、(三)本案の趣旨は高度の教養を授けることに重点が置かれているが、かかる大学の設置は我が国の現状に照らして当分無理である、(四)右趣旨による大学を第一志望にして入学する学生は、現状においては少く、従って私立大学がこれを経営することは甚だ困難であるとして、この問題についての審議を一応打ち切ることに決定、その後翌二十三年一月二十七日第九回委員会で文理学部設置案について再び各委員から所見が述べられた模様であるが、追って研究することとなり、結局この問題は決着を見ず、その当否はやがて設置される学部増設案審査委員会における審議に委ねられるのである。
第七十表 教育制度改革委員会審議経過(昭和二十二年十月―二十三年三月)
さて、こうした熟議の産物たる『学制改革要綱(案)』は、以下の十二項目から成る。
先ず第一項の「学制改革の基本方針」では、左に示すように、先に見た教育制度研究委員会の答申書と同様に、この学制改革が戦後教育改革の理念を法制化した、教育基本法および学校教育法に基づくものであることを明記し、併せて、この改革を徹底し新制早稲田大学を円滑に運営するための適正規模を、教育制度研究委員会の答申書の一万五千名の二倍近い二万五千名としている。戦時期における学苑の学生・生徒の総数は大体二万ないし二万五千名であったから、この二万五千名という規模は戦時期のそれの維持を図ったものと言えよう。
一、教育基本法及び学校教育法に則つて、今次教育制度改革の精神の徹底を期すること。
二、新制度による綜合大学としての理想の実現に努めるとともに、本大学の現状に照らして実施可能の計画を立てること。
三、大学教育の民主化を期し、且つ財政的基礎の強化を図るために、差し当り学生数を二万五千名とすること。
四、新制度への移行過程においても可及的に学生数の著しい減少を防止するよう工夫すること。
第二項から第十一項までは、先の教育制度研究委員会答申「学制改革に関連して本大学の採るべき方策について」では十分に触れられていない新制学部・付属高校の学科、定員、修業年限、開設年度、移行措置等の具体的プランを提示している。例えば学部・付属学校の定員に関しては、第一学部を教育制度研究委員会答申の一万二千名とほぼ同数の一万千八百名(一学年当り二千九百五十名。以下同様)とし、高等学院は千二百名から一・五倍増加の千八百名(六百名)、また教育制度研究委員会答申では未定であった第二学部と工業高等学校については、それぞれ八千四百名(二千百名)、二千名(五百名)としている。しかし具体的なカリキュラム、教員配置等については未定であった。
大学院についても同様である。すなわち、設置さるべき研究科については、一応「第一、第二学部を通じて各学部の系統毎に研究科を設け」るとし、また、開設年度(二十六年度)、修業年限(修士二年以上、博士三年以上)も示してはいたが、カリキュラム、学位授与の条件等の具体的事項は未定で、教育制度研究委員会の答申で六千名とされていた定員にさえ全く言及せず白紙状態であった。後述するように、大学基準協会がこの段階では「大学院基準」をまだ決定していなかったので、大学院に関しては、学部以上に具体的プランの立案が困難だったのかもしれない。
以上の如く、この教育制度改革委員会の答申は、教育制度研究委員会が提示した新制早稲田大学構想をかなり煮詰め具体化したものではあったが、しかし実行プランとしては、なお十全とは言えなかった。最後の第十二項で、各学部および高等学院設置委員会をはじめとする各種委員会を設置し、この各種委員会が右のような諸問題を審議し、プランの細部を更に煮詰め実施可能なものとすることを次のように建議しているのは、そのためである。
一、学部(大学院研究科を含む)および高等学校各別に設置委員会を設ける。
二、設置委員会の委員長は総長において嘱任し、委員は委員長の推薦に基づいて総長がこれを嘱任する。
三、教員の配置は、大学と各設置委員会とにおいて協議決定する。
四、学部・高等学校の初代の長は総長において嘱任する。ただしその任期は昭和二十四年九月末日までとする。
この建議に基づき、二十三年二月、先ず工業高等学校設置委員会が設けられたのを皮切りに、以後四月から九月にかけて各学部設置委員会、高等学院設置委員会、一般・自然科学・社会科学・人文科学・体育の五部門を持つ教養科目研究委員会、学部増設委員会、新制大学学則起草委員会、教員銓衡委員会等が相次いで設置された。これらの各種委員会で、先の教育制度改革委員会答申である『学制改革要綱(案)』に示された新制早稲田大学の構想が更に具体化され、『早稲田大学設置要項』に結実して昭和二十三年七月三十日、文部省に対し新制早稲田大学設置の認可申請が行われ、翌二十四年四月二十一日に新制早稲田大学が誕生した。学苑は同月二十四日、新制大学記念式典を安部球場で挙行した。その式典の模様は次のように伝えられている。
式は午前十時佐々木教務部長の開会の辞に始まり、ついで島田総長式辞が行われた、最後に来賓代表として、上原前商大学長の祝辞が寄せられた、上原教授は我が学園が日本に於ける模範的な新制大学を開設したことを称揚し世界の大学として、雄飛する日の近いことを祈ると力強く結んだ、閉式は十一時、教職員と数千の学生の校歌合唱裡に行われた。
(『早稲田学報』昭和二十四年五月発行第三巻第五号 二頁)
島田はその式辞の中で、学問の研究、職業人の養成は大学の重要な使命であり、「等閑に付せらるべきでない」が、新制大学の戦後社会における「第一にして最大の責務」は「人間の育成」に他ならず、「我が早稲田大学の学問の伝統を新時代に順応せしめ、更に大隈老侯の建学の精神を顕揚し得るやうにしたい」と、次のように述べている。
戦後の我が国に於て、将来に対して多少なりとも希望をいだくことが出来る途を求めるならば、それは恐らく全く新しい精神と性格とをもつ日本国民、就中青年男女を創造するといふことでなければならないと考へる。……その目的達成のために手段として採用せらるべきは、教育を通じてでなければならないと思ふのである。私は戦後の我が国の教育を通じてこの目的が達せられるのを確信すると共に、この教育といふ手段を通ずることのみによつて始めて真に自由な新しい日本人が創造され、新しく教育された彼等によつて我が国にとつて百年の計である文化国家の建設は徐々にその歩をすすめゆくものと期待するのである。……我が国のあらゆる領域に於て新しい秩序を積極的に建設して行くと共に、人類の生活に対して何ものか新しい価値をプラスして行く創造的な国民を育成して行くといふところに我が国今後の教育の真の狙ひがある。私は現代の我が国の教育はこの線に沿つて推進されなければならないと確信するものである。果して然りとすれば、我が国の大学は如何なる具体的な方法を採用してこの職能を果すべきであるかを熟考しなければならない。……学問の研究が大学の第一の使命であることは論を要しない。また職業人の訓練も決して等閑に付せらるべきでないことも勿論である。然しながら現代の我が国の大学が第一にして最大の責務として意識しなければならないことは、人間の育成ということである。大学に於ける学問の研究の領域にあつても、尚吾々は新しい精神と態度とを兼備した研究者たることが重要であると共に、またかくの如き新研究者の養成に向つても努力を払ふべきであらう。大学としてはこの種の研究者を一人でも多く育てあげるのを忘れてはならないのである。大学教育の責務はこの点に深い関連があることを銘記すべきである。このことは職業人の養成の場合に於ても同様にいひ得るのである。大学としては学生に対してある程度の職業的技能を修得せしめるだけでは未だ不充分であつて、寧ろ職業的技能の担当者たる人間そのものを出来得る限り完全に育成するところに大きな意味が発見されるのである。いづれにしても現代の我が国の大学の使命は先づ第一に人間の育成にあるといつても過言ではないのである。……幸にして大学制度の変革に伴ひ、従来の弱点であると認められていたところは一掃されて、ここに新しい出発をする機会を迎へ入れたことは御同慶の至りである。が、この際吾々としては新に発足した新制大学の使命を正しく認職すると共に、斬新な構想と機構の上に立つて、創立以来七十年に垂んとする我が早稲田大学の学問の伝統を新時代に順応せしめ、更に大隈老侯の建学の精神を顕揚し得るやうに全力をつくしたいと思ふのである。 (「新制大学発足にあたつて」同誌昭和二十四年四月発行第三巻第四号 一頁)
既述のように、昭和初頭において、学苑では「独逸の顰に倣ひて智的方面に偏傾」した我が国の大学を「英国に於けるが如くキヤラクターの修養」に改め、学苑創立以来の教育理念――「進取の精神」「学の独立」――を新たな時代環境の中で実現すべく、かなり大掛かりな学制改革が断行されたのであるが、それは戦時において後退を余儀なくされてしまった(第三巻六七一頁、七三八頁参照)。戦後の学制改革もまた、かかる理念に基づくものであることを右の島田の式辞は端的に示している。換言すれば、敗戦の余燼がまだ消えやらぬ社会的経済的混乱の中で、戦時下に一時後退を余儀なくされた昭和初頭の学制改革の精神に立ち返り、しかし、それよりも遙かに大規模かつ根本的な学制改革を完遂するまたとない好機が到来したのである。二十二年十一月の第九回企画委員会における中谷博の「今までは、軍部の圧力のため学校としての個性を発展せしめえなかつたが、今日ではすつかり事情が変つた。今こそ早大創立の精神を、十分世に認識させるよい機会である」との発言は、学苑の学制改革推進者がこの点をはっきりと自覚していたことを示すものに他ならない。なお来賓代表として祝辞を寄せたのは、前東京商科大学長で、かつ大学基準協会等で大学設置基準の制定に尽力した碩学上原専禄であった。
昭和二十四年四月に発足した新制早稲田大学の中核をなすのは、言うまでもなく新制学部である。本節では、この新制学部について詳述することにしよう。
先ず学部・学科編成から始める。新制学部は、左に掲げる四年制十一学部から成る。このうち六学部は昼間授業を行う第一学部、他の五学部は夜間授業の第二学部とされた。
第一政治経済学部
政治学科、経済学科、新聞学科、自治行政学科
第二政治経済学部
政治学科、経済学科
第一法学部
第二法学部
第一文学部
哲学科―東洋哲学専修、西洋哲学専修、心理学専修、社会学専修、教育学専修
文学科―国文学専修、英文学専修、仏文学専修、独文学専修、露文学専修、芸術学専修
史学科―国史専修、東洋史専修、西洋史専修
第二文学部(哲学専修、心理学専修、社会学専修、教育学専修、日本文学専修、外国文学専修、芸術学専修、史学専修)
教育学部
教育学科、国語国文学科、英語英文学科、社会科
第一商学部
第二商学部
第一理工学部
機械工学科、電気工学科、鉱山学科、建築学科、応用化学科、金属工学科、電気通信学科、工業経営学科、土木工学科、応用物理学科、数学科
第二理工学部
機械工学科、電気工学科、建築学科、土木工学科
なお、新制学部発足時の各学部長は左のとおりである。
第一学部について先ず指摘すべき点は、旧高等師範部を母胎とする教育学部の発足である。それは中・高等学校教員および教育行政家養成を目的とする、私立大学中唯一の存在だったからである。尤も、当初は高等師範部を文学部に合併させる計画もあった。しかし、これには「文学部に相当抵抗がありますし、また高等師範部が教員の養成機関として、相当日本の教育界に貢献しておる沿革もあるし」(「新制早稲田大学の発足」『早稲田大学史記要』昭和五十七年三月発行第一五巻二一五頁)、結局合併案は棚上げされ、教育学部の設置を見たのであった。なお、同学部の名称は、教育制度研究委員会答申書では「師範学部」という呼称が用いられていたけれども、教育制度改革委員会において、師範という一種の因襲的観念を伴う文字を避けるために、上述の如く「教育学部」と改められたのである。この教育学部には教育学科、国語国文学科、英語英文学科、社会科の四専攻科が置かれたが、教育制度改革委員会の審議経過を見ると、その他に体育学科および数学科の設置の要望もあった(九二七頁以下の第七十表参照)。しかし大浜信泉によれば、体育学科は「施設を整備した上で設立を考えようということで宿題」(「座談会学生スポーツの在り方」『私大連盟会報』昭和二十八年三月発行第四号三一頁)になり、また数学科の開設も見送られ、結局両学科ともこの時点では設置を見なかったのである。その後昭和三十九年に至り、同学部に数学等の三専修から成る理学科が設けられ、また教育学科には体育学専修が併設されたが、この点については次巻に後述する。なお、同学部には教職課程が設置され、教員志望の学苑学生は学部を問わず全員受講できた。
次いで、第一政治経済学部の自治行政学科の新設に触れておこう。既に述べたように、旧制下の昭和二十三年度に「地方自治体の指導者を養成して地方自治の健全なる発達に寄与せしめ」、以て「政治、経済、社会の各般に亘」る「民主化の実現」という「国家的要請」に資するために専門部政治経済科に自治行政専攻が設置されたが、政治経済学部には自治行政学科が置かれなかった。しかるに新制への移行に伴い専門部が廃止されることとなり、その一方で従来政治経済学部卒業生が「地方自治体に大なる勢力を占めてきた歴史にかんがみ、かつ新憲法の下、地方自治の充実の緊要に目ざめ、この分野での卒業者の大きな活動を熱望した結果」(『学園生活』昭和三十五年版一一頁)、第一政治経済学部に同学科が設置されたのである。すなわち、新制度発足直前の二十三年度に設置された専門部政治経済科の自治行政専攻と同様、その趣旨は地方自治の理想的実施によって民主主義の理想的運営の実現を図るという点にあり、戦後の民主主義再建の動きに照応するものだったのである。また、後述するように、旧制から新制への移行に際し、専門部政治経済科に在籍する学生は新制の政治経済学部に移籍することもできたから、この専門部政治経済科自治行政専攻が、第一政治経済学部自治行政学科の前身をなすと考えてよい。
第一理工学部においても、新制大学開設に際して、「多年要望されていた理科方面の学科」、すなわち応用物理学科、数学科の二学科増設、従来の採鉱冶金学科の二分(採鉱部門は独立して鉱山学科に、冶金部門は応用金属学科と合せて金属工学科に)、燃料化学科の応用化学科への合併等の改革がなされた(『早稲田学報』昭和二十五年四月発行第四巻第四号二六頁)。ところで第一理工学部には右学科を含め都合十一学科が設けられたが、その中に工業経営学科がある。当初理工学部には、これを独立の学部として、すなわち「工業経営学部」として設置する意向があり、教育制度改革委員会でその設置が同学部から提案された。けれども同委員会での審議の結果、当分は理工学部の専攻科とし、一学部としての新設は寧ろ将来において考慮するのが適当であろうという結論に達し、その新設は見送られることになった。この点については後に再び触れる。
なお、旧制の文学部には人文地理学専攻(三五六頁参照)が設置されていたが、新制の文学部では、地理学科の設置が見送られてしまった。大浜信泉の言うところによれば、
定金右源二さんですけれども、地理学科を作れという強い主張がありました。ところがこれには人がないですね。人がありますかというと、余り人もない。文学部で専修をたくさん加えることへの全体の反撃もあるものですから、引っ込めてもらったんです。 (「新制早稲田大学の発足」 二一七頁)
学部・学科編成に関して、こうしたこととともに、あるいはそれ以上に重視されなければならないのは、夜間学部たる第二学部の設置、すなわち、教育学部を除く五学部(政・法・文・商・理)を昼間と夜間とに分け、それぞれ第一学部、第二学部と称したことである。第二学部の設置は終戦後の経済的・社会的混乱の中で夜間に通学するより他ない勤労学生に大学の門を開き、学問研究の場を与えるという重大な役割を担っていたからであり、第二学部の新設が新制学部の最も特異な点と言われる所以もここにある。尤も、第二学部の創設以前、すなわち旧制下の学苑においても、勤労学生に学習の場が提供されていなかったわけではない。否、寧ろ学苑では早くから勤労学生を対象とする教育活動を行っていた。すなわち、明治十九年以降通信教育による「大学教育普及運動」を展開し(第一巻第二編第十五章参照)、大正十四年には、早稲田専門学校を開設して政、法、商三科を包摂する夜間授業を行うに至った(第三巻第六編第七章参照)。第二学部が旧制下のこうした伝統を継承・発展させたものであること、換言すれば、旧制度下の勤労学生教育重視の姿勢が、この戦後の一大教育改革に際しても貫かれていたことは、疑いようのない事実である。なお、教育学部には夜間学部が設けられなかったが、同学部に併設された教職課程は夜間にも設けられ、第二学部学生の便宜を図った。
ところで夜間学部の修業年限は、大学基準協会の母胎となった大学設立基準設定協議会では当初五年以上という見解が支配的であった。それが四年でも可とされるに至ったのは、学苑側の強い申入れによるものであったという。
夜間授業を行う大学あるいは学部における在学年限は、大学設立基準設定協議会当時には時間的に見て六カ年以上を妥当とする意見が多かったが、無理をすれば五年でも可能であるとの見方から、五年以上にすることに傾いていた。しかし、基準委員会では、夜間授業の大学あるいは学部に通う学生中には昼間十分勉学し得る時間的余裕を持っている学生もあり、これらの学生にも五年在学しなければならないと強制することは不都合であるとの意見が早稲田大学代表によって強く唱えられ、結局、やりよう如何によっては昼間の大学と同じ年限に所定の単位を取らせることもできるということになり、大学基準中在学年限に関し「(夜間授業を行う学部の場合は別に定める)」と注釈してあるのを削除することを決議した。
(『大学基準協会十年史』 一一三頁)
ここでは、「夜間授業の大学あるいは学部に通う学生中には昼間十分勉学し得る時間的余裕を持っている学生」の存在が夜間学部四年制の主張の直接的理由とされているが、実際にはそれは、「勤労の青年は早く学校を出て働かなきゃならぬ時代」という点にあったようである。当時教務部長であった教育学部教授佐々木八郎は、こう回顧する。
第二学部についての一番の裏話といえば、修業年限です。これは、教育刷新委員会というのが内閣にありまして、夜間の学生の修業年限はどうするかという問題が議題になっておりまして、昼勤労していて夜学校に来たんでは、プレパレーション〔予習〕の時間がない。従って、所定の単位を四年間では取れないはずだと、どう考えても五年以上というのが一致した意見でした。けれども、とにかくあの時分には勤労の青年は早く学校を出て働かなきゃならぬ時代でしょう。何とかして、これはどうしても四年にしなきゃならぬと思った時に知恵が出てきたのが、商学部の林容吉君〔当時、商学部設置委員会委員〕でした。林君などが中心で、問題は確かにそうだけれども、夏休みの夏季学期というものを考えるというので、夏季二十日間やって、一日一回に三時間やりますと六十時間になるでしょう。そうすると、スクーリング六十時間ということは四単位ですよね。あとはずっと家で勉強すればいいというような計算をお出しになって、私もこれにはほっとしました。それで、夏季学期というものを、私ども在任中はずっと正直にやってきたんです。夏季学期は必要ないといろんな批判が出ましたけれども、裏づけにはこれがあった。夏季学期は、夜間の学部を最低四年にするためには当然必要だった。むしろあの時分には勤労しなきゃならぬ時代ですから、第一学部にもこれを及ぼしまして、第一学部の学生でもずいぶん休んだ学生は、あれを受けることによって単位を取〔れるようにしました。〕 (「新制早稲田大学の発足」 二二一―二二二頁)
かくて第二学部生に修業四ヵ年で所定の単位を取らせるために、通常の授業とは別に、夏季学期が設けられたのである。二十四年度においては、授業時間は午後六時十分から八時五十分までで、一般教育科目、専門科目を通じて一科目を選択、聴講することができることとなり、また、それとは別に外国語(英・仏・独語)の補習授業も行われた。当初の担当教員は左のとおりである。
一般教養 (哲学)佐藤慶二、(論理学)小山甫文、(心理学)本明寛、(文学論)中谷博、(法学)林義雄、高野竹三郎、杉山晴康、高島平蔵、(政治学)市村今朝蔵、吉村健蔵、服部弁之助、吉村正、(経済学)中村佐一、(社会学)鈴木二郎、(生物学)本間誠、向坂道治、(自然科学論)高木純一、大滝武
専門 (美学)青柳正広、(簿記)染谷恭次郎、(金融論)矢島保男、(配給論)原田俊夫、(会計学)佐藤孝一、(経済地理)毛利亮
教職課程 (教育学)小沢恒一、(教育心理学)三島二郎、戸川行男
外国語 (英語)西野入徳、渡辺栄太郎、鈴木幸夫、千葉恒心、(仏語)鷲尾猛、斎藤一寛、近藤等、根津憲三、(独語)小柳篤二、中村浩三、志波一富、江間道助 (『早稲田学報』昭和二十四年七月発行第三巻第七号 一頁)
なお、先の佐々木の談話からも分るように、夏季学期は第二学部生の他、第一学部学生も受講でき、更に学苑生以外の者でも新制大学入学資格を有する者は聴講できた(『早稲田大学新聞』昭和二十四年六月下旬号)。
こうして修業年限の面で第二学部は第一学部と同等となり、また組織の面でも第二学部は「いわゆる第二部的な存在ではないということから」(「新制早稲田大学の発足」二二一頁)独立学部としての陣容が整えられたという。
けれども、すべての面で第一、第二両学部が軌を一にしたわけでは勿論ない。先ず学科編成に関して、第一学部と第二学部とでは若干の相違があった。すなわち、第一政治経済学部に先の自治行政学科を含む四学科が設置されたのに対し、第二政治経済学部には政治学科、経済学科の二学科しか置かれなかった。第一、第二両文学部の場合、前者の三学科十四専修に対し、後者には学科は置かれず八専修であった。更に、第一理工学部が十一学科であったのに対し、第二理工学部においては、「やがて時をうれば理科関係学科をも増設する意図」(堤秀夫「夜間大学について」『早稲田学報』昭和二十四年二月発行第三巻第二号一頁)があったとはいえ、工学関係の四学科に過ぎなかった。なお第一文学部では、二十六年度に文学科芸術学専修が廃止され、新たに演劇、美術の二専修が設置されている。
(『早稲田大学一覧』昭和二十五年版 30頁)
学生収容定員についても第一学部と第二学部とでは異り、第一・二商学部を除くすべての学部で第二学部の収容定員は第一学部のそれをかなり下回った。新制発足時における全学部の収容定員の総数は、先に見た教育制度改革委員会答申(『学制改革要綱(案)』)の第一学部一万千八百名(一学年当り二千九百五十名、以下同様)、第二学部八千四百名(二千百名)の合計二万二百名(五千五十名)からかなり減じて一万五千六百名(三千九百名)、うち第一学部は九千七百二十名(二千四百三十名)、第二学部は五千八百八十名(一千四百七十名)とされた。各学部の内訳は第七十一表のとおりであり、五つの第二学部のうち、商学部を除く四学部がそれぞれ対応する第一学部の定員よりも少かったのである。なお、学則上の新制学部収容総定員は以上の如く一万五千六百名とされたが、それは、この時点ではなお多数の旧制学部・専門部・専門学校・高等師範部の学生が在籍していたためで、こうした旧制度下の学生が概ね卒業した二十九年度には、二万三千百二十名(五千七百八十名)にまで増加されている。
ところで、戦前には学部課程の履修が認められていなかった通信教育は、昭和二十二年の学校教育法の公布、および大学基準協会の通信教育課程の基準作成により制度的に確立し、新制大学発足とともに慶応・法政・中央・日本・日本女子の五私立大学に大学通信教育の開設が認可されたが、言うまでもなくスクーリングに通常の学生よりも制約がある勤労学生にとって、通信教育は夜間学部以上に弾力的な履修が可能で、それゆえ広く普及し得るものである。しかるに新制早稲田大学の発足に際して、学苑では右に述べたように勤労学生のために第二学部は設置されたものの大学通信教育は開講されなかった。学苑における勤労学徒教育は、明治十九年に通信教育による「大学教育普及運動」として出発し、戦後も六・三・三・四制の新学校体系が制定・整備される中で、出版部は二十四年四月から従来の中学講義、女学講義、商業講義を全面的に改正した中学科講義、商業高等科講義、および新たに新制高等学校講義を刊行した(早稲田大学出版部編『早稲田大学出版部一〇〇年小史』九九頁)が、中学科講義は「旧小学校を出ただけの過渡期の人々」(中西敬二郎「早稲田大学出版部小史(五)」『早稲田大学史記要』昭和五十二年三月発行第一〇巻一七一頁)に用意されたもの、また後二者も、「高校程度の学識教養を得せしめ」、学苑が行う後述の「認定試験への受験資格を与え、之れを経て早大の受験資格を与える」ものに過ぎなかった(同前一六七頁)。これらの講義録の売行きは、刊行当初こそ好調であったものの、昭和二十三年五月に文部省令第五号により公布された「高等学校通信教育規程」に基づき各都道府県の高等学校で高等学校通信教育が漸次完備し普及したためにやがて不振となり(同前一六一頁、一七七頁)、遂に三十一年、すべての講義録の講読者募集停止のやむなきに至り、三十三年三月、最後の受講生の修了をまって七十年以上に及ぶ学苑の校外教育の歴史に終止符を打ち、以後出版部は教科書と書籍の刊行に主力を注ぐことを余儀なくされた。二十一年十二月の第一回(臨時)企画委員会の席上、理事で同委員会委員長を兼任した吉村正が述べたように、大学「通信教育はうつかりすると失敗する公算が多い。自分の知るところによると、一年半終了の講義録ですら、最後まで講読した率、つまり継続率は僅かに一〇パーセントぐらいのものであつた」し、また「実施となれば慶応と競争ということになるだろう」との危惧があったのかもしれない。新制大学発足時の学苑としては、夜間学部の開設と通信教育の復活とは、二者択一の問題であり、手持ち教職員から見ても、資力から見ても、両者の同時実施は不可能と言わざるを得なかった。学苑が選んだのは前者であったが、その選択が最善であったか否かの判断は、甚だ困難の一語に尽きるであろう。
以上、新制早稲田大学の特徴につき、学部・学科編成に力点を置いて縷々説明してきたが、高等教育機関の戦後の改革は教授内容にまで及ぶものであり、その中で特に重視されなければならないのが一般教育科目の設置であることは、第一節で既述した如くである。では、その導入の意義は奈辺にあったのか。第一商学部長伊地知純正は次のように言う。
新制高等学校を出た学生がいきなり専門学科を学ぶとすれば、とても狭い眼界のもとに自分の専門の知識だけしかわからなくて、云はば不具の人間になる。今度の新制大学では一般学科と専門学科をうまく織込んで専門の学科を修めるにも一般学科の知識を背景にするから、従つて視野が広くなるのである。この一般学科と専門学科の両者を適当に体得させるのが新制大学の狙ひである。そこで新制大学を出た学生は新しい日本の社会即ち近代的自由社会(free society)に処して自分の職業とする専門の知識を働かせると同時に、民主社会の一員としての役目を果すに適する学問を教へたいといふのが新制大学の根本理念である。 (「新制大学の教養科目について」『早稲田学報』昭和二十四年四月発行第三巻第四号 三頁)
なお、一般教育科目の導入は占領軍の民主化政策の一環をなしていたが、専門教育偏重を改め、一般教育(「教養教育」)を充実させる必要は、第三巻第七編第五章で触れたとおり、既に昭和初頭に学苑当局により痛感され、昭和七年の学制改革断行の一因となっていた。そうした経過があったからこそ、戦後改革に際しても、その理念は受け入れられやすく、迅速に導入されたのかもしれない。尤も、一般教育科目の導入が何の抵抗もなく受け入れられたのかと言えば、必ずしもそうではなく、一般教育重視は専門教育低下につながるとの反対があった。佐々木八郎によれば、旧制と異り新制では、学部で十分な職業教育ができないというのは「誰でもの一致した意見」であったという。
これはもう誰でもの一致した意見になつていますが、今の新制大学で果して高度の教養を身につけた職業人が出来るかということです。法学部を出ても、あれではいわゆる弁護士とか司法官になるには十分ではない。理工科を出ても立派なエンジニアは出来つこないだろうということなど聞いています。
(「抱負を語る(新学部長座談会)」同誌昭和二十六年十一月発行第六一六号 六頁)
けれども新制下では大学教育における大学院の位置付けも旧制下とは当然異り、学部における専門教育の不備は大学院で補足される筈だと、伊地知純正は次のように説明する。
新制大学では専門知識が在来の大学より低下するとの非難は多少の理由がある。しかしこれは二年後に新設さるべき新制の大学院を考へない議論である。より高度な専門学科を履修したい者は当然大学院まで進むべきである。日本全体としての専門知識は大学院まで延長するのが新しい制度の建前である。 (「新制大学の教養科目について」 三頁)
また大浜信泉によれば、一般教育科目の導入に際し、教員の配置に関しても問題が生じたという。
新制大学はご承知のように、専門科目の他に一般教育科目を必修にしなきゃならぬわけです。社会科学、人文科学、自然科学、その上に外国語と相当な分量のものがある。従来の学部は、それぞれみんな専門の学科だけが主になっておって、一般教育科目の先生は配置されておらないんです。だから今まで高等学院や専門部の中に一般教育科目を持っておられる先生方を、六つの系統の中で配置がえをしなきゃならぬわけです。これは、特定な人の配置の場所をどう決めるかということで、相当デリケートな問題なんですが、しかしいろいろな経緯はありましたけれども、どうやら人の配置の問題も解決いたしました。
(「新制早稲田大学の発足」 二一六頁)
ところで右の大浜の談話から分るように、学苑においては教養部を作らず、一般教育科目担当の教員はすべていずれかの学部に属することとなったが、それは当時の早稲田大学の特徴であったと、佐々木八郎は言う。
いずれの学部を通じましても、一般教育というのができたんですが、それをどう置くかという問題です。我々の方ではあくまでも教員はいずれかの学部に属するというのを原則として、そこで教養部というのをやめまして、全部縦割りにしたというのが、当時早稲田大学の特徴でございました。従って、一般教育担当の教員も、学部にいずれも属するという形が、恐らくは早稲田大学の特徴であったと思います。これは第二学部も第一学部も問わず、そういうふうにしました。
(同前 二二〇頁)
尤も、保健体育の教員は全学部共通の体育部に属していた。つまり「横割り」であった。昭和二十二年七月制定の「大学基準」はその後何度か部分的修正を見たが、同年十二月十五日の改訂では専門科目、一般教育科目の他に、更に保健体育(講義、実技)が必須科目として付け加えられた。この点につき『大学基準協会十年史』は、GHQに置かれた教育担当部局で日本の教育制度改革を任務としていたCIEの指示によるものだと、次のように述べている。
〔二十二年〕九月三〇日の第四回基準委員会でマグレール氏から体育のことを考慮するよう要望があり、第八回理事会(一〇月一四日)でホルムズ女史から重ねて要望があったが、日本のように結核の多い国では保健を組合わせ考慮する要があるため……研究することになった。……米国教育使節団報告には、保健体育については「学校における保健教育なるものは、個人的ならびに家族的の良き保健法実践指導とあわせて細菌学、生理学、公衆衛生法の基本的教育をも含むべきだということは、大多数の権威者の意見の一致を見ているところであろう」と述べ、また体育については、「大学では学生が大した運動、娯楽もなしに長時間研究を行う傾向がある」から、下級学校で豊富な体育の時間が設けられているのにならって「同様のことが大学にも加えらるべきである」と勧告している。文部省では昭和二一年九月に学校体育研究委員会を作り、CIEの指導で小学校から大学までの体育問題の研究に着手し、翌年、学校体育指導要綱を発表した。その中に大学体育がとり上げられているのである。当時のCIEの体育担当者グラハム少佐(Major W.J.Graham)は大学に体育を入れることがCIEにおける自分の最大の仕事だといっていたと伝えられている。これらが、ホルムズ女史およびマグレール氏の前述の発言となった背景と見られる。
(一一〇―一一一頁)
しかし、当時大学基準協会が発行した小冊子『昭和廿三年二月 『大学基準』及びその解説』は、これは「新制大学では、年齢的に見て、大体旧制高等学校の二・三年生に相当する学生が這入つて来る関係上、特に体育保健に関する授業を課し、その指導に当つては飽くまで科学的にして而も明朗に行い、知育、徳育と並んで体育の目的を十分に達成し、学生をして心身共に健全なる発達を遂げしめる」(一五―一六頁)ためであったと述べ、CIEの意向については何ら言及していない。あるいはCIEの意向とは全く別に、日本側でも六・三・三・四制に基づく学校体系の再編に伴い、大学において必須科目としての保健体育の授業を学生に課すことの必要性を認識し、自発的意図に基づいて保健体育の導入を図ったのかもしれないが、それはともかく、学苑に目を転ずるならば、昭和二十四年四月一日付で体育部が新設され、佐々木八郎が体育部長事務取扱に就任し、新制度への移行と同時に、学部全学生を対象とする体育科目の授業が開始された。その際、膨大な数の学生にどのように実技を履修させるか――とりわけ施設の不備、教員不足――が問題となった。そこで体育会各部の諸施設が活用されることとなり、また教員についても、体育部専任教員は日影董のみで、他は体育会OBが非常勤講師となって協力したと、佐々木八郎は次のように言う。
何と言っても保健体育というものは全部必修科目になっていたでしょう。その中で、ことに体育実技というものが全部必修になったんですが、あれだけの膨大な昼夜の学生を擁しながら、これをどうやっていいかということがちょっと苦労しました。その結果考えついたのが、何たって体育の施設はもう共用しなきゃなりませんから、あの当時は各選手体育は体育会と言っていましたが、その体育会に所属する各部と協力する。殊に施設の面において協力する必要がありますから、そこでこちらの方には別に体育部というものを特設しまして、私が初め部長事務取扱をした覚えがあります。そして、もう一つは教員の問題。保健は合併授業でも済みますけれども、体育の実技だけはどうにもなりませんので、それで思い切って体育会に所属する各部のOBにご協力願おうということで、OBを全部非常勤講師にお願いしまして、一週間に一回か二回来てご指導願うことにしました。 (「新制早稲田大学の発足」 二二二頁)
ここに体育会は従来の選手体育管掌だけでなく、正課体育の指導、管理をも担うようになったのである。『早稲田大学新聞』昭和二十四年二月十二日号の「躍進する体育会」と題する記事は、新制度下、体育会の使命の重要性につき、
体育会の存在が大きく意義づけられる所以は、新学制の実施により体育が必須科目として登場してきたことである。それによると、学生が自分の好きな競技種目を選択し、OB又は現役選手の指導の下に実施されることになつている。その結果、技術の良好なるものは推せんによつて現役に編成せられる道も開かれている訳である。この様な重大なる使命を帯びた学園体育会は、伊地知商学部教授を会長としてそのさん下に二十八部があり、全学生の一割約一、二〇〇名の会員を擁している。その他全国各地には多数の先輩が活躍しており、常に体育会に対し援助の手を指しのべている。学園体育会は施設の充実、先輩の変らぬ援助、という最良の客観条件の下益々発展する段階にあり、今後の活躍が期待される。
と述べている。なお、その後二十七年四月に至り、右の如き緊密な関係にあった体育部と体育会は結局統合され、体育局が新設された。
新制度の発足とともに履修方法も変化した。すなわち従来の学年制が単位制の全面的採用に変ったのである。既に四〇二頁以下で述べた如く、終戦直後の昭和二十一年度に、昭和初頭の学制改革の精神に立ち返って各学部の学科課程を改正し、学科目制を一部復活させ、理工学部では単位制をも導入した。新制への移行に際しては、こうした二十一年度の改正の主旨を更に徹底すべく学年制の廃止、単位制の採用となったのである。このように単位制の導入は、戦時下に後退を余儀なくされた昭和初頭の学制改革の精神を継承しつつ、それを更に徹底したものであるが、第一商学部教務副主任林容吉は、従来の学年制と単位制との差異を次のように説明している。
新制大学は従来の高等学校や専門学校に行われている学年制度を採用しないで、単位制度を採ることになつている。学年制度であると、与えられた一群の学科目について全体として一定水準に達するかどうかで進級したり落第したりする。一つ二つの科目が水準以下でも、平均点が及第点であればその学年の科目はすべて修得したことになるし、仮に落第でもすると、よくできた科目でももう一度やりなおさなければならないことになる。単位制度の場合は、一科目毎に何単位かをとつていつて、一二〇から一三〇程度の単位を修得すれば学士号を与えられることになるのであつて、在学期間は四箇年以上なら何年でもかまわない。 (「新制大学と単位制度」『早稲田学報』第三巻第四号 三頁)
なお、学部における在学年数の上限が現在のような八年となったのは、昭和三十二年度のことである。
それでは何故こうした制度を導入するのかと言えば、学生を受動的な立場に置く従来の教育方法とは異り、学生自身の積極的自習に重点が置かれているからなのだと林は言う。
ある科目を履修して単位をとるということは、内容的にいえば教師の指導の下にその学科を学生自身で自主的に研究して身につけてゆくことを意味するのであつて、どちらかといえば学生が受動的な立場におかれる従来の講義のやりかたと、全く違つた形のものになるのである。 (「新制大学と単位制度」 三頁)
だが、こうした理念に基づく単位制を実際上も意味あるものとするためには、学生が自主的に予習・復習を十分に行うための図書室が、従来の図書館とは別に各学部に設置されることが不可欠であった。こうして各学部に学生読書室が設けられたのである。林容吉は次のように説明する。
こんな風にして一箇年で三〇単位とることは、むろん、なかなか忙しい。しかし、本を買う金がたいへんだ、と考える必要はない。それぞれの学部にある学生読書室が、充分にその機能を発揮するからだ。学生のためのリーディングルームを、充実完備するということは新制大学の成否を決するほどの重要性をもつ。単に、漫然と辞書や参考書をふやすということでなく講義と直接に結びついて、アサインメントの与えられた本を三十冊五十冊と(同じ本を!)用意して多数の学生が自由にこれを利用することができ、講義に対する完全な準備ができるようになつていて、はじめてほんとうに意味があるのだ。
(『早稲田大学新聞』昭和二十四年二月十二日号)
そして次に引用する佐々木八郎の談話から、各学部に読書室を設置するというのは、当時にあってはきわめてユニークな発想であったことが分る。
各学部に学生読書室を置くという制度は、日本のどこの大学でもない格好です。中央の図書館の他に各学部に学生読書室を置いた、そして自学自習の便宜に供するというのも一つの特徴だと思います。 (「新制早稲田大学の発足」 二二一頁)
なお、読書室の図書は参考書(辞書、教科書、教員の特に指定した参考書を中心とする)を整備し、書棚は自由接架式を原則として学生の中から委員を選出し自治的に利用させていた。いずれにしても、自学自習の学風の重視は、「学問の独立」とともに学苑創立以来のものであったが、そうした学苑年来の理想が、新制下では単位制の実施、読書室の設置という形で体現されたのである。
とはいえ、単位制が学生あるいは教員の間に定着するまでには、多少時間が必要であったようである。新制度が発足して一年後、第一商学部教務主任池田英次郎は、「新制大学の画期的な制度を昨年四月に開設してここに一年、新制大学の理想を実現しようと努力して来たが、種々の障害にあい未だ理想的のものになつていないのは残念である。こうしたことは経済的面からもおこるが、教員と学生との両方に新制度を理解していないということから起つたことが多い」(「単位制度の諸問題」『早稲田学報』昭和二十五年三月発行第四巻第三号三頁)と述べ、教員、学生の双方に単位制に対する真の理解を促している。
また、学生読書室の状態も理想からは程遠かった。佐々木八郎は言う。
新制大学における教育的機能を十分ならしめるための当然の処置の一つとして、二十四年度には、他の大学に率先して、各学部に学生読書室なるものを新設した。しかし、予算の関係からその施設は主として調度類の調達に留まつたが、二十五年度以降は学生諸君の協力のもとに、参考図書の充足とその活用とに努めたい。 (「新発足一ケ年」同誌同号 三頁)
新制学部の特徴と言うべき点はおおよそ以上のとおりであるが、発足初年度における各学部の開設は、第二理工学部は第二学年まで、第一政治経済学部自治行政学科、第一理工学部応用物理学科および同数学科は第一学年のみ、その他は第三学年までとなり、一応の完成は昭和二十六年度のこととされた。その際、旧制の第一高等学院、第二高等学院、専門部、高等師範部および専門学校在学中の学生は、二十四年三月時点における第一、第二、第三学年修了者をそれぞれ新制学部第一、第二、第三学年に移行させるとの基準に従い、各系統の新制学部へ移行させることとなった。ただし専門部、高等師範部および専門学校の第二学年以上で新制学部への移行を希望しない者は、旧制度のまま順次卒業させるとともに、旧制の学部・専門部・高等師範部・専門学校は二十四年度より新規募集を中止し、在学生不在の時点で廃校とすることとなり、その結果、高等師範部・専門学校は二十六年五月三十一日、専門部は同年十月三十一日、旧制学部は三十五年三月三十一日にそれぞれ廃校となったのである。
新制学部が一応完成した昭和二十六年度の学科配当は第七十二表の如くであった。ただし、二十四年度に第一学年のみが開設された第一政治経済学部自治行政学科と第一理工学部応用物理学科および数学科とは第三学年までしか揃っていないので、これら三学科については、二十七年度の第四学年配当科目および担当教員名を添えておく。
第一政治経済学部
一般教育科目(各学科共通)
外国語科目(各学科共通)
第一学年
第一外国語
英語(毎週四時間十一組) 大内、鈴木(悌)、鈴木(和)、海江田、吉田(周)〈一組は植田分代講〉、古川(晴)、長谷川(晃)、西野入〈一組は植田分代講〉、南(英)、山田(良)、北田
新聞学科英語(毎週六時間六組) 吉田(周)、鈴木(悌)、海江田〈新聞学科は第一、第二外国語とも英語〉
独語(毎週四時間一組) 小柳
仏語(毎週四時間一組) 山内(義)、鷲尾
第二外国語
独語(毎週二時間六組) 山崎(八)、堀内(明)、島村(教)、大山(聡)
仏語(毎週二時間四組) 桃井、安井(源)、恒川
露語(毎週二時間一組) 佐藤(勇)
華語(毎週二時間一組) 安藤(彦)
英語(毎週二時間一組) 北田
第二学年
第一外国語
英語(毎週四時間十一組) 安部、大内、鈴木(悌)、佐竹、南(英)〈一組は一年特一英〉、杉村、北田〈一組は一年特一英〉、佐野(英)、山田(良)、長谷川(晃)
独語(毎週四時間一組) 小柳
仏語(毎週四時間一組) 山内(義)、鷲尾
新聞学科英語(毎週六時間一組) 鈴木(和)、山田(良)、河辺〈新聞学科は第一、第二とも英語〉
第二外国語
独語(毎週二時間六組) 山崎(八)、堀内(明)、大山(聡)〈一組は一年特二独〉
仏語(毎週二時間五組) 根津、恒川〈一組は一年特二仏〉、小林(竜)
露語(毎週二時間一組) 佐藤(勇)
華語(毎週二時間一組) 安藤(彦)
英語(毎週二時間一組) 鈴木(和)
第三学年(不合格者組)
特一英(毎週四時間一組) 北田、南(英)
特二独(毎週二時間二組) 大山(聡)
政治学科専門科目
経済学科専門科目
新聞学科専門科目
自治行政学科専門科目
〔昭和二十七年度第四学年配当科目および担当教員〕
専門必修科目 財政学(時子山)、地方行政(後藤(一))、地方財政(藤田(武夫))、行政法(各論)(田上(穣))、社会政策(平田(冨))
専門選択科目 近代社会思想(井伊)、商法(大浜)、労働法(吾妻)、外国書研究(後藤(一))、統計利用(森(数))、経済政策(小松(雅))、金融経済論(堀家)、協同組合論(古沢)、労働問題(藤林)、外国書研究(石川(準))、演習(伊藤(道機)、後藤(一)、古沢、藤田(武夫)、松村(勝))
随意科目 独語(小柳)、仏語(安井(源))、英会話(高木(友))、露語(佐藤(勇))、華語(安藤(彦))
第二政治経済学部
一般教育科目(各学科一・二年共通)
外国語科目(各学科共通)
第一学年
第一外国語
英語(毎週四時間十組) 石井(保)、大内、海江田、鈴木(和)、西野入、本田、南(英)、山田(良)
第二外国語
独語(毎週四時間四組) 小柳、大山(聡)、中村(浩)、米田(順)
仏語(毎週四時間四組) 大沢(武)、斎藤(一寛)、恒川、村上(菊)、桃井
露語(毎週四時間一組) 佐藤(勇)〈二時間は二法と合〉
華語(毎週四時間一組) 堤(留)
第二学年
第一外国語
英語(毎週四時間十組) 大内、海江田、北田、佐野(英)、鈴木(悌)、長谷川(晃)、南(英)、山田(良)、吉田(周)、渡辺(利)
英会話(毎週二時間二組) 河辺、長谷川(晃)
第二外国語
独語(毎週二時間四組) 島村、山崎(八)
特別独語(毎週二時間一組) 島村〈不合格クラス〉
仏語(毎週二時間四組) 川島(順)、斎藤(一寛)、恒川
特別仏語(毎週二時間一組) 大沢(武)〈不合格クラス〉
露語(毎週二時間一組) 佐藤(勇)〈二法と合〉
華語(毎週二時間一組) 安藤(彦)
政治・経済両科共通専門科目
政治・経済合併専門科目
政治学科専門科目
経済学科専門科目
第一法学部
一般教育科目
外国語科目
第一学年
第一外国語
英語(毎週四時間九組) 工藤(直)、石井(保)、渡辺(栄)、酒井(賢)、千葉(恒)、椎名、内山(正)
独語(毎週四時間一組) 浦上、小口
仏語(毎週四時間一組) 鷲尾、数江
第二外国語
英語(中級)(毎週二時間一組) 安部
独語(初級)(毎週四時間四組) 岡田(幸)、桑木、川原
独語(中級)(毎週二時間一組) 岡田(幸)
仏語(初級)(毎週四時間四組) 数江、町田(徳)
仏語(中級)(毎週二時間一組) 村上(菊)
華語(初級)(毎週四時間一組) 実藤
露語(初級)(毎週四時間一組) 宮坂
第二学年
第一外国語
英語(毎週四時間六組) 工藤(直)、石井(保)、酒井(賢)、千葉(恒)、椎名
独語(毎週四時間一組) 浦上、小口
仏語(毎週四時間一組) 鷲尾、数江
第二外国語
英語(中級)(毎週二時間一組) 渡
独語(中級)(毎週二時間三組) 岡田(幸)、浦上
仏語(中級)(毎週二時間三組) 村上(菊)、数江
華語(中級)(毎週二時間一組) 実藤
露語(中級)(毎週二時間一組) 宮坂
専門科目
第二法学部
一般教育科目
外国語科目
第一学年
第一外国語
英語(毎週四時間九組) 酒井(賢)、渡辺(栄)、石井(保)、千葉(恒)、高杉、今西、松田(秀)
独語(毎週四時間一組) 岡田(幸)、浦上
仏語(毎週四時間一組) 数江、町田(徳)
第二外国語
英語(毎週四時間一組) 酒井(賢)
独語(毎週四時間五組) 浦上、岡田(幸)、杉野、米田(順)、加藤(経)
仏語(毎週四時間五組) 数江、大沢(武)、室(淳)、町田(徳)
露語(毎週四時間一組) 佐藤(勇)〈二政合併〉、亀井
華語(毎週四時間一組) 実藤
第二学年
第一外国語
英語(毎週四時間七組) 工藤(直)、河辺、石井(保)、千葉(恒)、堀口、松田(秀)
独語(毎週四時間一組) 岡田(幸)、杉野
仏語(毎週四時間一組) 鷲尾、大沢(武)
第二外国語
英語(毎週四時間一組) 酒井(賢)、松田(秀)
独語(毎週四時間四組) 浦上、岡田(幸)、杉野、御牧
仏語(毎週四時間三組) 数江、大沢(武)、室(淳)、町田(徳)、鷲尾
露語(毎週四時間一組) 佐藤(勇)〈二政合併〉、亀井
華語(毎週四時間一組) 実藤
専門科目
第一文学部
一般教育科目(各学科共通)
外国語科目(各学科共通)
第一学年
第一外国語
英語(毎週二時間十七組) 渡、飯島(小)、ライエル、大沢(実)、鈴木(悌)、柳田、鈴木(幸)、帆足(図)、今西
仏語(毎週二時間六組) 小林(竜)、桜井(成)、新庄、斎藤(一寛)
独語(毎週二時間六組) 浦上、青柳、山崎(八)、浅井(真)、中村(英雄)
露語(毎週二時間六組) 横田(瑞)、丸山(政)、宮坂、小川(利)
第二外国語
英語(毎週二時間四組) 飯島(小)、鈴木(幸)、杉山(玉)、小沼
仏語(毎週二時間六組) 桜井(成)、室(淳)、斎藤(一寛)、安井(源)
独語(毎週二時間二組) 青柳、中村(英雄)
露語(毎週二時間二組) 松尾、小川(利)
第二学年
第一外国語
英語(毎週二時間十四組) 渡、杉山(玉)、増田(綱)、大沢(実)、鈴木(悌)、柳田、鈴木(幸)、帆足(図)、倉橋、市川(又)、古川(晴)
仏語(毎週二時間六組) 根津、桜井(成)、恒川、川島(順)、鷲尾
独語(毎週二時間三組) 浦上、青柳、山崎(八)
露語(毎週二時間三組) ブブノワ、松尾、宮坂
第二外国語
英語(毎週二時間四組) 倉橋、鈴木(悌)、柳田、小沼
仏語(毎週二時間六組) 根津、室(淳)、安井(源)
独語(毎週二時間二組) 青柳、山崎(八)
露語(毎週二時間二組) ブブノワ、小川(利)
専門科目外国語(各学科共通)
第三学年
第一外国語
英語(毎週二時間五組) 飯島(小)、市川(又)、植田(清)〈鈴木(幸)代講〉、杉山(玉)、岡村(千)
仏語(毎週二時間二組) 小林(竜)、桜井(成)
独語(毎週二時間一組) 逸見
露語(毎週二時間一組) 横田(瑞)
第二外国語
英語(毎週二時間二組) 鈴木(幸)、大沢(実)
仏語(毎週二時間五組) 川島(順)、恒川、村上(菊)、安井(源)
独語(毎週二時間一組) 浅井(真)
露語(毎週二時間一組) 小川(利)
ギリシャ語(毎週二時間二組) 古川(晴)
ラテン語(毎週二時間二組) 古川(晴)
第四学年
第一外国語
英語(毎週二時間七組) ブライス、市川(又)、柳田、岡村(千)、植田(清)〈大沢(実)代講〉、渡
仏語(毎週二時間二組) 鷲尾、川島(順)
独語(毎週二時間二組) 山崎(八)、中谷
露語(毎週二時間二組) 松尾、宮坂
第二外国語
英語(毎週二時間二組) 杉山(玉)、市川(又)
仏語(毎週二時間二組) 川島(順)、村上(菊)
独語(毎週二時間一組) 中谷
露語(毎週二時間一組) 小川(利)
ギリシャ語(毎週二時間二組) 古川(晴)
ラテン語(毎週二時間二組) 古川(晴)
哲学科専門科目
文学科専門科目
史学科専門科目
第二文学部
一般教育科目
外国語科目(各専修共通)
第一学年
第一外国語
英語(毎週四または六時間四組) 今西〈英文〉、大沢(実)〈英文〉、東浦〈英文〉、新島(通)〈国文、哲学系〉、古川(晴)〈国文〉、吉田(周)〈芸術、史学〉、倉橋〈芸術、史学、哲学系〉
仏語(毎週六時間一組) 小林(竜)、桜井(成)
独語(毎週六時間一組) 青柳、石関、中村(英雄)
露語(毎週六時間一組) 野崎(義)、丸山(政)
第二外国語
英語(毎週二または四時間一組) 吉田(周)、倉橋
仏語(毎週二または四時間三組) 室(淳)<英文〉、川島(順)〈哲学系、国文〉、村上(菊)〈独・露文、芸術、史学〉、室(淳)
独語(毎週二または四時間一組) 青柳、石関
露語(毎週二または四時間一組) 野崎(義)
第二学年
第一外国語
英語(毎週四または六時間四組) 倉橋〈英文〉、今西〈英文〉、吉田(周)〈国文〉、高杉〈国文〉、渡辺(均)〈芸術、史学〉、新島(通)〈芸術、史学、哲学系〉、大沢(実)〈哲学系〉
仏語(毎週六時間一組) 桜井(成)、斎藤(一寛)、恒川
独語(毎週六時間一組) 青柳、石関、中村(英雄)
露語(毎週六時間一組) 野崎(義)、松尾、丸山(政)
第二外国語
英語(毎週二または四時間一組) 吉田(周)、鈴木(悌)
仏語(毎週二または四時間三組) 安井(源)〈英文〉、室(淳)〈哲学系、国文〉、村上(菊)〈芸術、史学、独・露文〉、新庄
独語(毎週二または四時間一組) 青柳、石関
露語(毎週二または四時間一組) 野崎(義)
専門科目外国語(各専修共通)
第三学年
英語(毎週四時間五組) 五十嵐(新)〈英文〉、西崎〈英文〉、倉橋〈英文〉、今西〈哲学、国文、心理、社会、教育〉、杉木〈哲学、国文、心理、社会、教育〉、鈴木(悌)〈芸術、史学〉、渡辺(均)〈芸術、史学〉
仏語(毎週四時間三組) 斎藤(一寛)〈仏文〉、安井(源)
独語(毎週四時間一組) 浅井(真)、中谷
露語(毎週四時間一組) 松尾、横田(瑞)
ギリシャ語(毎週二時間一組) 古川(晴)
ラテン語(毎週二時間一組) 川本(茂)
第四学年
英語(毎週四時間三組) 増田(綱)〈英文〉、西崎〈英文〉、市川(又)〈哲学、国文〉、飯島(小)〈哲学、国文〉、杉山(玉)〈芸術、史学〉、鈴木(幸)〈芸術、史学〉
仏語(毎週四時間一組) 川島(順)、桜井(成)
独語(毎週四時間一組) 中谷、舟木
露語(毎週四時間一組) 黒田(辰)、宮坂
ギリシャ語(毎週二時間一組) 古川(晴)
ラテン語(毎週二時間一組) 川本(茂)
哲学系専門科目
文学系専門科目
史学系専門科目
教育学部
一般教育科目(各学科共通)
外国語科目(各学科共通)
第一学年
英語毎週四時間八組うち一組は本年度休講西江、中西(秀)、西山、新島(通)、矢吹、安井(曠)、西尾(孝)
独語(毎週二時間二組) 桑木、有田
仏語(毎週二時間四組) 斎藤(一寛)、川島(順)、桃井
中国語(毎週二時間一組) 陣内
第二学年
英語(毎週四時間八組) 五十嵐(新)、西尾(孝)、工藤(直)、西山、増田(綱)、矢吹、東浦、新島(通)
独語(毎週二時間二組) 逸見、桑木
仏語(毎週二時間三組) 阿部(敬)、川島(順)
中国語(毎週二時間一組) 陣内
教育学科専門科目
国語国文学科専門科目
英語英文学科専門科目
社会科専門科目
各学科共通専門選択科目(二―四年)
教職課程科目
第一商学部
一般教育科目
外国語科目
第一学年
第一外国語〈英語のみセメスター制採用〉
英語講読A(毎週二時間五組) 鈴木(金)、山根、鈴木(和)
英語講読B(毎週二時間五組) 村尾、増野
英語作文文法(毎週二時間五組) 佐竹
英語会話(毎週二時間五組) 五十嵐(新)、伊東(克)、時田(忠)
第二外国語
フランス語(毎週二時間五組) 小林(竜)、桃井、近藤(等)
ドイツ語(毎週二時間五組) 有田、石関、北、杉野
露語(毎週二時間一組) 横田(瑞)
中国語(毎週二時間一組) 実藤
第二学年
第一外国語
英語講読A(毎週二時間六組) 影山、篠原(新)
英語講読B(毎週二時間六組) 渡辺(均)、篠原(新)
英語作文文法(毎週二時間六組) 渡辺(栄)
英語会話(毎週二時間七組) 山根、伊東(克)、五十嵐(新)、グリッグス、伊地知〈二商と合〉、ハンセン〈二商と合〉
第二外国語
フランス語(毎週二時間四組) 近藤(等)
ドイツ語(毎週二時間四組) 中谷、大山(聡)、杉野
ロシヤ語(毎週二時間一組) 横田(瑞)
中国語(毎週二時間一組) 陣内
専門科目
第二商学部
一般教育科目(各学年共通)
外国語科目
第一学年
第一外国語
英語講読A(毎週二時間五組) 山根、鈴木(金)
英語講読B(毎週二時間五組) 渡辺(均)、鈴木(和)、鈴木(金)
英語作文文法(毎週二時間五組) 渡辺(栄)、増野
英語会話(毎週二時間五組) 五十嵐(新)、伊東(克)、山根
仏語(毎週二時間四組) 近藤(等)、桃井
独語(毎週二時間四組) 石関、北、杉野
露語(毎週二時間一組) 横田(瑞)
中国語(毎週二時間一組) 実藤
第二学年
英語講読A(毎週二時間四組) 影山、篠原(新)
英語講読B(毎週二時間四組) 鈴木(金)、村尾
英語作文文法(毎週二時間四組) 鈴木(和)、村尾
英語会話(毎週二時間五組) 伊地知、ハンセン、山根、伊東(克)、松宮
仏語(毎週二時間三組) 近藤(等)
独語(毎週二時間三組) 植田(重)、有田、杉野
露語(毎週二時間一組) 横田(瑞)
中国語(毎週二時間一組) 陣内
専門科目
第一理工学部
一般教育科目(各学科共通)
外国語科目(各学科共通)
第一学年
英語(毎週四時間十二組) 市川(又)、杉村、西野入、高杉、今西、東浦、小沼、佐野(英)、神吉、ブリンクリー、倉橋
独語(毎週二時間十二組) 米田(順)、中村(英雄)、中村(浩)、志波
仏語(毎週二時間二組) 桜井(成)
第二学年
英語(毎週四時間十二組) 市川(又)、杉村、高杉、鈴木(幸)、今西、東浦、小沼、新島(通)、篠崎(茂)、堀口、神吉、ブリンクリー
独語(毎週二時間十二組) 米田(順)、中村(英雄)、中村(浩)、志波
仏語(毎週二時間二組) 桜井(成)、川島(順)
機械工学科専門科目
電気工学科専門科目
鉱山学科専門科目
建築学科専門科目
応用化学科専門科目
工業経営学科専門科目
応用物理学科専門科目
〔昭和二十七年度第四学年配当科目および担当教員〕
専門必修科目 電磁気学(小泉(四))、量子力学(戸田(盛))、物理数学(小泉(四))、化学物理(Ⅱ)(上田(隆))、物性論(斎藤(信))、演習(全教員)、卒業論文(全教員)
専門選択科目 物理数学特論(未定)、機械設計(未定)、分子構造論(新楽)、放射線学(篠原(健))、応用物理学特論(宮部)、精密機械(蓮沼)
専門随意科目 名著研究(小泉(四))
土木工学科専門科目
金属工学科専門科目
電気通信学科専門科目
数学科専門科目
〔昭和二十七年度第四学年配当科目および担当教員〕
専門必修科目 微分方程式論(田中(忠))、微分幾何学(佐藤(常))、微分幾何学演習(野口(広))、数学研究(西垣、小林(正))
専門選択科目 位相数学(野口(広))、数学特論(Ⅰ)(西垣)、数学特論(Ⅱ)(佐藤(常))、名著研究(田中(忠))
第二理工学部
一般教育科目(各学科共通)
外国語科目(各学科共通)
第一学年
英語(毎週四時間七組) 高杉、大沢(実)、東浦、椎名、遠藤(嘉)、篠崎(茂)
独語(毎週二時間七組) 中村(浩)、中村(英雄)、志波
第二学年
英語(毎週四時間四組) 鈴木(幸)、東浦、大沢(実)、遠藤(嘉)、篠崎(茂)、椎名
独語(毎週二時間四組) 中村(浩)、中村(英雄)、志波
機械工学科専門科目
電気工学科専門科目
建築学科専門科目
土木工学科専門科目
体育部(各学部共通)
実技(一―二年)
講義(一年前期のみ)
さて、新制学部では、旧制学院・専門部・高等師範部からの移行者の他に、「収容力等を勘案し」て学外から若干名を入学編入試験で公募する方針であった。実際の移行者数は不明であるが、公募による学部別の入学編入試験受験者数、合格者数および定員を学部ごとに示した次頁の第七十三表から、二十四年度には移行者が学生の大半を占めていたことが分る。すなわち、第二学年以上は、いずれの学部も公募による編入試験合格者数が定員を遙かに下回り、また第一学年についても全十一学部中、第一政治経済学部、第一法学部、第一商学部、第一理工学部、第二政治経済学部、第二商学部の六学部の入学試験合格者数は、それぞれの定員をかなり下回っている。定員から合格者数を差し引いたものが移行者数にほぼ相当する筈であるから、発足直後の新制学部は旧制学院・専門部・高等師範部からの移行者を中心とし、学外からの一般公募による学生は全学生中少数に過ぎなかったと考えてよい。こうした狭い一般公募枠に多数の受験者が殺到した。同じく第七十三表を見ると、受験者総数は合格者総数を遙かに上回り、第一政治経済学部第一学年の場合には、競争率は二十倍を超える程である。これは、一面では新制度発足当初における学苑の隆盛ぶりの一端を示すものではあるが、同時に、学外からの一般受験生にとっては学苑への入学編入が文字どおり狭き門であったことが窺われる。
第七十三表 一般公募入学編入試験受験者数・合格者数および各学部定員(昭和24年度)
(『早稲田学報』昭和24年4月発行第3巻第4号 4頁,『昭和二十三年七月 早稲田大学設置認可申請書(一)財団法人早稲田大学』より作成)
尤も、新制学部が旧制学院・専門部・高等師範部からの移行者を中心としたのは二十四年度のみで、二十五年度からは一般公募により広く全国から学生を募集する方針であり、また今日に至るまで、こうした方針に大きな変更は加えられていない。旧制学部入学者の大半が第一、第二両高等学院の卒業生であったことを思えば、新制はかなり趣を異にしているが、そうした方針の下で当初実施された入学試験制度は、現在のそれとも相違している。そこで本節を終えるに当り、新制発足当時の入学試験制度について若干触れておこう。
新制発足当初の入学試験制度の特異な点は入学資格認定試験と進学適性検査の実施である。新制大学の入学資格者は、主として高等学校卒業者、もしくは通常の課程による十二ヵ年の学校教育修了者であるが、その他にもさまざまに規定され、それらの中には「各都道府県において行う新制大学の入学資格を認定する試験に合格した者」もしくは「その他大学で、相当の年齢に達し、高校卒業と同等以上の学力があると認めた者」にも入学資格を与える、との規定があった。前者は、旧制度下において「向学心に燃えつつも境遇その他の事情で中等学校へ通学できなかった独学の青少年とくに勤労青少年の向学心にこたえ、これを助長育成する」(『近代日本教育制度史料』第二六巻三一五頁)ために行われた専門学校入学者検定および高等学校高等科入学資格試験に代るもので、各都道府県が二十四年度から実施したが、翌年度限りで廃止された(『学制百年史』七五五頁)。二十六年度からは文部省がこの認定試験に代る「大学入学資格検定試験」を行ったが、その主たる目的も、やはり旧制下と同様、「境遇上恵まれない青少年教育の一環として……全国多数の独学者、勤労青少年の向学心にこたえる」(『近代日本教育制度史料』第二六巻三一六頁)点にあった。後者の各大学で行う認定試験とは、第三号の都道府県または文部省による入学資格検定でも機会の与えられなかった者に対して、当該大学が必要ある場合に入学期に際して行うものであるが、国立大学では行われず、公立大学一校(愛知県立女子大学)と、学苑を含む私立大学四十一校とで実施された(文部省大学学術局大学課『大学入学試験に関する調査』一三―一六頁)。本学苑で新制大学の入学無資格者に対する資格認定試験が実施されたのは昭和二十四年度からで、出題、採点、合否決定等の実務は高等学院教員が担当した。因に同年度の志願者総数は二百六十六名、うち受験者総数、合格者数はそれぞれ二百六十四名、百六十二名であった。なお、この試験は昭和四十五年度以降、施行されなくなった。
ところで、新制大学の入学志願者には「進学適性検査」の受験が課せられた。この検査の狙いは、高等教育履修に十分な資質能力の有無を測定するとともに、文科、理科のいずれに適するかを検出することを目的としており、国立では昭和二十二年に進学適性検査的な知能検査が文部省により行われ始め、二十四年度からは新制大学選抜試験の受験者は必ずこの検査を受験しなければならないことになった。私立大学の場合、この文部省施行の検査に合流するも、それぞれ独自に試験を行うも自由であったが、学苑では新制大学入学試験開始の二十四年度から独自に実施した。尤も、二十六年度からは文部省施行の検査に合流し、この検査で成績不良の者に対してのみ、学苑が独自に行う試験に「二回乃至三回位」受験の機会を与えることになった。しかし、受験生には学科試験の準備と二重の負担となり高校教育に支障が生ずる、その成績を大学が積極的に利用しない等の理由から、三十年度以降は希望校のみ実施することになったが、結局、進学適性試験を実施するのは全国四百九十九大学中二校だけになり(同書四二―四三頁)、学苑も二十九年度を最後にこの試験を廃止した。