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第九編 新制早稲田大学の発足

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第二章 新学制と学苑(下)

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一 新制大学院の発足

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 大学基準協会は、昭和二十二年七月に大学設置基準を決定後、直ちに大学院基準の審議に取り掛り、学苑の新制学部が発足した二十四年四月、同協会評議員会において「大学院基準及びその解説」が決定されたが、翌二十五年に大学設置審議会がこれを大学院設置基準として採用し、大学院設置審査の活動を開始した(海後宗臣・寺崎昌男『大学教育』(『戦後日本の教育改革』第九巻)三〇七頁)。二十三年に新制学部の開設を見た関西大学、関西学院、同志社、立命館の四大学が先ず二十五年に、次いで二十六年には学苑を含む私立十二大学が、それぞれの大学の新制学部最初の卒業生を迎え得るよう新制大学院を設置した。これはいずれも修士課程のみで、博士課程の開設は、修士課程が最初の修了者を送り出す二年後とされたから、二十六年に修士課程を設置した学苑では、二十八年四月に、大学院基準および二十七年十月に大学設置審議会が決定した「学位に関する要項」に基づく新制博士課程が開設され、修士、博士両課程から成る新制大学院は、新制学部の発足後四年にして漸くその全容を明らかにしたのである。

 既述の如く、本学苑では新制大学院に関しても、教育制度研究委員会・教育制度改革委員会において新制学部・付属学校等とともに一応審議されてはいたが、新制学部が発足し、同時に大学院基準が決定された二十四年四月の時点では殆ど白紙の状態で、その具体化が開始するのは、約半年後の二十四年九月に大学院制度研究委員会が設置されてからであった。この大学院制度研究委員会は、大学設置審議会第八特別委員会に委員として参加している理事山本研一の諮問機関で、各学部長、および大西邦敏、和田小次郎、原田実、大滝武、中島正信、伊原貞敏各教授がその委員に嘱任された。翌二十五年二月、新たに吉村正他九名の委員から成る大学院設置準備委員会が設けられ、三ヵ月後の五月二日、新制大学院の具体的プランたる「報告書」が総長に提出された。この報告書は冒頭で、新制大学院を構成する六研究科――政治学研究科、経済学研究科、法学研究科、文学研究科、商学研究科、工学研究科――の設置、および各研究科に置かれる専攻課程を提示し、次いで修士課程の定員、カリキュラム、履修方法等の具体的プランを掲げ、更に学位の種類、大学院専用校舎の建設等にも言及している。しかし教員の配置に関しては、別に「大学院教員銓衡委員会」を設けて同委員会に委ねること、また博士課程についても「大学設置審議会の審査要領の確定を待つて研究の上答申すること」と、後日に委ねられた。「大学院教員銓衡委員会」は、六月に「大学院設置委員会」として実現し、大学院設置の企画と準備は具体化へと歩み出したが、十一月、修士課程に関する「大学院学則」を文部省に申請し、翌二十六年四月五日、遂に設置認可を得たのである。

 修士課程開設後間もなく、博士課程の企画・準備が着手された。先ず昭和二十七年五月、博士課程の実行プランについて審議するために大学院博士課程設置研究委員会を設けることが決定された。同委員会は八回に亘る審議の結果、各研究科の博士課程の学科編成と履修方法に関する成案を十月十八日に総長に提出したが、同時に「博士候補者の決定をはじめ、博士課程設置に当たつて考慮せねばならぬ他の諸点は、すべて本大学の博士課程設置委員会にゆずること。従つて速かに右委員会を設置されたきこと」をも筈申した。この答申は、この前日に開かれて、「博士課程設置委員会」について審議し、同委員会の構成委員の決定方法を提議した臨時学部長会議の提案を容れたものであるが、こうして設置された博士課程設置委員会は十月三十一日から活動を開始し、細部の問題を煮詰め、プランを一層具体化して、十一月二十一日には、翌二十八年度からの開設の認可申請を行うことについて評議員会の了承を得た。その結果、大学設置審議会委員の実地視察にも特に問題はなく、二十八年四月、予定どおり博士課程の新設を見たのである。なお、旧制大学院は旧制学部と同様、三十五年三月三十一日に廃止された。

 こうして開設された学苑の新制大学院の構成・目的・性格は、具体的には次の如きものであった。

 先ずその構成を見ると、大学院設置準備委員会が設置を建議した六研究科、すなわち政治経済学部に対応する政治学研究科と経済学研究科、法学部に対応する法学研究科、文学部と教育学部とに対応する文学研究科、商学部に対応する商学研究科、および理工学部に対応する工学研究科より成るものであり、博士課程が設置された昭和二十八年度における各研究科の専攻ならびに総定員は、左のとおりである。

政治学研究科―政治学専攻(修士課程九十六人、博士課程三十人)

経済学研究科―経済学専攻(修士課程百二十八人、博士課程四十八人)

法学研究科(修士課程百六十八人、博士課程六十人)―民事法学専攻・公法学専攻・基礎法学専攻

文学研究科(修士課程四百八十八人、博士課程百六十八人)―東洋哲学専攻・西洋哲学専攻・心理学専攻・社会学専攻・教育学専攻・日本文学専攻・英文学専攻・仏蘭西文学専攻・独逸文学専攻・露西亜文学専攻・芸術学専攻・史学専攻

商学研究科―商学専攻(修士課程百六十人、博士課程四十八人)

工学研究科(修士課程二百二十四人、博士課程八十四人)―機械工学専攻・電気工学専攻・建設工学専攻・鉱山及金属工学専攻・応用化学専攻

 右の六研究科合計の総定員は千七百二人、二十九年の学部総定員二万三千百二十人の約七パーセントに過ぎない。定員に関しては、先の教育制度改革委員会の答申には何ら言及されなかったが、同委員会に先立つ教育制度研究委員会の答申では学部総定員の半数の六千人とされていた。しかし実際には、教員・施設面への配慮から、大学院基準決定以前の見通しは大幅修正の余儀なきに至ったのである。また、いずれの研究科でも博士課程の定員数は修士課程の半分以下に過ぎず、現在と同様、後者から前者への進学が容易でなかったのを窺わせる。なお、教員数の不足で開設が一年遅れた文学研究科史学専攻は、その博士課程設置も一年後の二十九年度からとなり、法学研究科基礎法学専攻もまた教員数不足で修士課程のみであったが、本専攻には今日に至るまで博士課程が設置されていない。

 さて、各研究科に設置された修士課程はアメリカのマスター・コースに倣ったもので、「学部の教育の基礎の上に、……広い視野に立つて、専攻分野を研究し、精深な学識と研究能力とを養う」ことを目的とし、また博士課程は「独創的研究によつて、従来の学術水準に新しい知見を加え、文化の進展に寄与するとともに、専攻分野に関し研究を指導する能力を養う」ことを目的としていたが、前者、すなわち修士課程の設置こそは、新制大学院が、博士の学位授与を目的とするのみの旧制大学院に比べて顕著な差異を示す点の一つであった。大学院基準制定に先立ち、GHQの教育担当部局であったCIEは、「日本の博士は研究事項については実によく知っているが、それから少し外れたことになると同じ分野のことであってもあまり知らない。専攻の分野についてはある程度の学力を持つようにすべきである」との意向を大学基準協会に伝えていたと言われる(『大学基準協会十年史』一一六頁)が、我が国でも、例えば戦時下における大学院制度の一部手直し、すなわち特別研究生制度の発足に際し、学苑総長田中穂積が「我が国の学者の最も大きな欠点としては、由来研究の領域があまりに狭い専門の立場に偏しすぎたこと」(第三巻九八五頁)と述べていたように、既に戦前から単に博士の学位を授与することだけを目的とする大学院制度の「欠点」是正の必要性が指摘されていた。戦時下であったがゆえに、そうした認識が直ちに大学院制度の抜本的改革に結び付かなかったのは既述の如くであり(同巻九八四―九八五頁)、従って新制下における修士課程の設置は、単にアメリカの大学院制度に倣っただけでなく、旧制度下で不十分であった改革を更に推進するとの意味もあったと考えてよい。ただ、ここで注意すべきは、修士課程の教育目的の重点が博士課程へ進むための一階梯、すなわち研究者養成にあったことである。これまで述べたところのみならず、学苑大学院のよりどころとなった大学院基準の備考欄に「この基準は、学術の研究者及教授者の養成を主たる目的とする大学院について定めたものである。専門の職業に従事する者(例えば医師、弁護士等)の養成を主たる目的とするものについては別に之を定める」(『大学教育』三七三頁)とあるのを見ても、この点は明らかである。しかしその一方で、かかる修士課程のあり方に対する反対意見も存在し、そうした意見によって学苑の新制大学院制度は他大学のそれとはやや異るものとなるのであるが、その点に触れる前に、先ず旧制との比較で新制大学院制度のもう一つの特徴について述べておこう。

 新制・旧制両大学院制度の顕著な差異は、単に修士課程の有無のみでなく、更に、課程に関し厳格な規定を欠き、ただ二年以上在学して研究し、論文を提出できると規定したに過ぎなかった旧制とは異り、新制では各課程について必要な条件を規定して従来よりも厳格な制度となっている点にもあった。カリキュラムは存在せず、指導教授による個人的指導が原則で、学苑では大学院生の納付する授業料の全額が指導教員に与えられていた旧制大学院(第三巻四七―四八頁)と比べると、まさに雲泥の差が存した。修士課程では、二年以上在学して所定の科目につき三十二単位を取得し、かつ学位論文および最終試験に合格した者に修士の学位が授与されるが、学位には所属研究科名が冠せられるとともに大学名が明記され、例えば「政治学修士(早稲田大学)」「工学修士(早稲田大学)」のように呼称されることになった。また博士の学位は、修士の学位を持つ者は三年以上、その他の者は五年以上在学して所定の科目(前者は二十単位、後者は五十二単位)を履修した後、それら履修科目の成績、学位論文および最終試験の成績の総合判定に合格した者に授与されることになり、修士と同様、学位には所属研究科名および大学名が明記された。なお「大学院基準及びその解説」では、修士課程で「少くとも一ヶ国の外国語によく通ずることが研究能力の一条件として要求される」とされ、また博士課程については「二ヶ国語以上の外国文献を自由に利用し得る能力が必要である」とされているが、学苑では「候補者試験制度」を設け、修士、博士の学位を得ようとする者は、いずれの課程においても先ず語学試験中心の候補者試験を受け、修士候補者もしくは博士候補者になることが必要とされた。

 尤も、旧制下と同様に、大学院の博士課程を経ないで論文を提出して博士の学位を請求することもできた。その場合の審査規定は大学院学則第二十六―二十九条に掲げられているが、この点については第五節で詳述するように、日本とアメリカの大学院制度とが著しく異る点の一つである。戦前の我が国では、単に論文を提出するだけでも博士の学位を取得することができ、寧ろ実際にはこの「論文博士」の方が主であったが、アメリカでは大学院の博士課程の単位を取得した後に論文を提出し、特定の試験を受けてそれに合格して初めて博士号が授与される制度であった。このようなアメリカの大学院制度の導入を「泣く子もだまる」と言われたGHQが我が国に強く要請したのであるが、一〇六四頁に詳述するように、学苑総長で日本私立大学連盟会長でもあった島田孝一および同連盟加盟大学理事達の尽力により、そうしたアメリカの制度をそのまま日本の制度とすることを何とか回避し、戦前の学位授与規程をも存続できたのである。尤も、昭和三十五年五月に「博士課程によらない学位請求者の審査規程」が新たに制定され、博士課程によらない学位請求者の場合にも、単に論文審査だけでなく、外国語の読解力検定等の資格審査が行われることになった(『早稲田大学広報』昭和三十五年六月三日号)。

 ところで、修士課程の修業年限は二年以上とされているが、昭和二十四年四月に決定を見た「大学院基準」では、「修士の学位を得んとするものは、全日制にては一ヵ年以上、定時制にてはこれに相当する期間在学し」(『大学教育』三七二頁)とあり、必ずしも二年以上とする必要はなかった。学苑を含む多くの大学が二年以上としたのであるが、例えば慶応義塾大学では一年以上であった(『慶応義塾百年史』下巻一四四頁)。大学院基準決定の経緯を見ると、修士課程を「一ヵ年以上」としたのは、そもそもCIEの主張によるものであったという。文部省の「特別研究科学生は前期二年・後期三年になっているから、その程度にするか、あるいは前期三年・後期二年としたものであってほしい」(『大学基準協会十年史』一一六頁)との意向が示された後、大学基準協会は、「日本の実情」を基に、アメリカにおける実情調査資料を参考としつつ、昭和二十三年一月に「米国のマスターに相当する学位に達する課程は二年以上在学で三〇単位以上と論文」と決定したが、これに対しCIE側は、「マスター・コース一年以上三〇単位以上、博士課程三年以上九〇単位以上……もし〔修士〕二年、〔博士〕四年ならばそれぞれ六〇単位以上、一二〇単位以上にすべきである」と主張した(同書一一六―一一七頁)。両者の「意見の相違は、CIEは大学院基準として学力をつけるための最低要求を定め、それ以上は各大学が自由に決めればよいという立場をとっていたのに対し、日本側は最低要求を研究に十分なように決めておかないと程度の低い博士ができる恐れがあると暗々に考えていたところからきていた」(同書同頁)。結局、大学院基準はCIEの主張どおり修士は一年以上三十単位以上となったのであるが、恐らく学苑当局の判断も、大学基準協会と軌を一にするものだったのであろう。因に、二十七年十月に大学設置審議会総会で決定された「学位に関する要項」では、大学院の課程により修士の学位を授与される者は「全日制にあっては二年以上、定時制にあってはこれに相当する期間在学する」ことが要件の一つとされた。慶応義塾大学でも二十八年四月より修士課程の年限は二年となり、今日に至っている。なお修士の年限に関する大学院基準の規定が改訂され、「学位に関する要項」が定める年限と同一、すなわち二年以上となったのは、三十年七月のことである。

 さて、他大学の大学院は、ほとんどすべて修士課程を修了した上で博士課程に進む構造になっており、いわば二段式であったのに対し、既述のように学苑では修士課程を経ないで初めから博士課程に入ることもできた。すなわち、通常は博士課程の入学資格者は、主として修士の学位を持つ者とされるが、早稲田大学では、その他に学部を卒業しただけの者も博士課程に進むことができた。ただし、修士の学位を持つ者の博士課程修業年限は三年以上であるのに対し、修士の学位を持たない者には博士課程修業年限は五年以上となるが、いずれにしても、こうした「二本立て」の制度となったのは、大学院基準がどちらにも解釈できたことに起因すると、佐々木八郎は言う。

博士課程の方では、二本立てか一本立てかという問題です。というのは、大学院基準〔昭和二十四年四月決定〕は、修士課程は二年間で博士課程は五年間で二本立てにすることにしてもいいし、二年の修士の上に三年の博士を置いてもいい、どちらでもという幅のある解釈が可能だったんです。ところが、その当時の理事会の一部では、いやそうじゃない、どう考えても、この文面を見ると二本立てだと。結局二本立てに決まったんです。

(「新制早稲田大学の発足」『早稲田大学史記要』昭和五十七年三月発行第一五巻 二二五頁)

かような制度を採用したのは、学苑理事久保田明光によれば、「修士と博士とではもともとその目指す処が異るわけで、博士たるために修士の学位を心ずしも前提条件とはしないからであ」った(『早稲田学報』昭和二十八年四月発行第六二九号三〇頁)という。では両者の「目指す処」が具体的にどう異るのかと言えば、将来研究者たらんと欲する者には、修士課程は博士課程進学の一階梯に過ぎず、制度的には「二本立て」の必要はなく、「一本立て」でよい。実際、大学院基準あるいは学苑の大学院学則でも修士課程の主目的が研究者養成にあるとされていたのは先述の如くであるが、「二本立て」を「強く主張した」商学部教授中島正信は、左のように、異る見解を持っていた。

修士課程というのは「基準」に出ている形ではいけないんだ、と思う。やはりこれは旧制の学部に相当するものなんだ、そういう考え方をしたほうがいい。具体的にいえば、高度の職業専門教育ということなんです。

(「大学院創設のころ〈鼎談〉」『早稲田学報』昭和四十六年六月発行第八一二号 一〇頁)

また、昭和二十六年七月に創設された日本私立大学連盟の機関誌『私大連盟会報』の第二号(昭和二十七年七月発行)では、中島は次の如く記している。

修士課程、即ち修士候補に対する教育目的が、学者または研究者の養成にあるという現行の新制大学院の基準を改正する必要がある。しからば、教育目的は如何ようにこれを変更するかと言えば、それは実社会に於て指導的役割を果す人を養成することを目的とすべきである。私に関係のある商学部方面で言えば実業界に於てまず企業に於ける幹部候補者を養成することが修士課程の目的でなければならない。それは旧学部と何等異らないのである。 (「旧私立大学と新制大学院」 六頁)

研究者養成にではなく「高度の職業専門教育」にこそ修士課程本来の教育目的があるとの見解を中島が持っていたのは、新制大学院の修士課程を旧制学部と同一視していたため、言葉を換えれば「早稲田の特色は須らく大学院にありとせねばならぬ」と、学部よりも寧ろ大学院を重視していたためであることが分るが、中島説の同調者も僅少にとどまらず、修士課程の主目的を研究者養成とする見解と対峙していたと、佐々木八郎は次のように回顧している。

新制大学院のマスターコースの基準は職業人の養成ではなく、学問研究者を養成するということにおかれているのです。ところが、法、商、工あたりでは新制大学四年間では到底求める職業人ができないから、高度の職業人を養成するところの大学院もあつて然るべきだとの意見も強かつた。そのために、大学基準協会の大学院基準の中にも、職業教育を主とする大学院の基準は別に定めるというだけで、何も決まつておらず、この二つの考え方が対立しているというのが実情なんです。

(「抱負を語る(新学部長座談会)」『早稲田学報』昭和二十六年十一月発行第六一六号 六頁)

学苑当局は「二本立て」を選択したのであるが、制度的にはともかく、実際にはすべての研究科でこの方式が採用されたわけではなかった。例えば経済学研究科では「一本立て」、すなわち二段式のみであり(「新制早稲田大学の発足」二二五頁)、また、開設当初「二本立て」であった文学研究科も、数年を経ずして「一本立て」に修正されたという(同前)。中島が商学研究科について次の如く回顧するように、「二本立て」方式が有名無実のものとなってしまったのは、修士課程に進む学生の大半が初めから博士課程を目指していたためであったと思われる。

商学研究科の場合は研究者養成という教育目的をひとつ掲げてしまったんです。だから一応マスターを通ってドクターへ行きますけれども、もう就職する人はいないわけですよ。初めから研究者、学者になる人たちばかりなんですね。……マスターを通ってドクターへ行くという連中しか大学院へはいってこないわけです。 (「大学院創設のころ〈鼎談〉」 一二頁)

 これまで述べた如く、戦後の大学院制度は、アメリカの大学院制度を、我が国の戦前からの伝統および戦後の国内事情を斟酌して導入したものであり、アメリカの大学院制度と異る点も少くないのであるが、学生の意識面でも、急速な改革は容易ではなかったのである。尤も、修士課程の教育目的が研究者の養成にあり、また同課程進学者の大多数が博士課程進学を強く望んでいたとしても、実際には、既述の如く博士課程の定員数は修士課程のそれの半分以下でしかなく、博士課程への進学は厳格な審査により選別された少数の者に限られたから、当然のことながら、修士課程修了者の多くは大学を去り企業等への就職を余儀なくされた。例えば、二十八年三月の新制大学院修士課程の最初の修了者二百四名中「求職者数」は七一パーセントに当る百四十五名であり、このうち、二十八年六月の時点における就職決定者は百二十三名であった(『定時商議員会学事報告書』昭和二十八年)。

 なお、既述の大学院設置準備委員会の「報告書」どおり、本編第四章第五節に後述する如く、新制大学院開設に伴い法文系、理工系両大学院専用校舎が新築されたが、大学院基準には、新制「大学院を置く大学は、その課程に必要な施設並びに講義、演習、実験等の授業を用意しなければならない」とあるだけで、施設・設備についての具体的基準が示されているわけではなかった。にも拘らず、大学院専用校舎が二十六年の開設に向けて新築されたことについては、「関西の方が一年早く二十五年に大学院を作った。そのために、どんな審査を受けるのか、一応勉強しておく必要があると思って、関西大学へ行ったんです。そうしたら、空き地に大学院校舎建設予定地と書いてあるんだ。私〔佐々木八郎〕は大学院なんていうのは、別に各学部の先生がなるんだから、学部の教室でいいし、研究室も同じでいいし、何も必要ないと安易に考えていたんです。これは大変なことになったと思いまして、しかしもう何と言ったって審査は通らなきゃならないんですから。殊に無条件で通すためには、それで急遽早稲田大学では人文系の大学院の校舎とか理工系の校舎を置いて、それから研究室を置いたり事務所を置いたりした」(「新制早稲田大学の発足」二二四頁)との裏話も残されているが、結果的には、こうした大学院専用校舎設立の早さは他大学には類例が少く、先見の明ある英断だったのである。

 修士・博士課程が完成した三十年度の学科配当表を掲げよう(表中の「講」は講義、「演」は演習、「文」は文献研究、「実」は実験を示す)。

第七十四表 昭和三十年度大学院学科配当表

政治学研究科

経済学研究科

法学研究科

民事法学専攻

公法学専攻

基礎法学専攻

各専攻共通科目

文学研究科

東洋哲学専攻主要科目

西洋哲学専攻主要科目

心理学専攻主要科目

社会学専攻主要科目

教育学専攻主要科目

日本文学専攻主要科目

英文学専攻主要科目

仏文学専攻主要科目

独文学専攻主要科目

露西亜文学専攻主要科目

芸術学専攻主要科目

史学専攻主要科目

各専攻共通科目・科外授業

商学研究科

工学研究科

機械工学専攻

電気工学専攻

建設工学専攻

鉱山及金属工学専攻

応用化学専攻

応用物理学専攻

各専攻共通科目

二 新制度による付属学校の発足

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 新制への移行に伴い、付属学校、すなわち工業高等学校、新制高等学院がそれぞれ昭和二十三年、二十四年に発足したが、本節では両校開設の経緯について、もう少し詳細に述べておこう。

 昭和二十三年に発足した早稲田大学付属早稲田工業高等学校(夜間四年制)は、明治四十四年に技手もしくは職工長の養成を目的として創立された夜間の付属早稲田工手学校(第二巻第四編第十三章第四節参照)を継承・発展させたものである。工手学校を高等学校に昇格するには「修業年限に多少の無理はあったが、正規の学校としては高等学校にする以外に途がないので、高等学校として存続させることにした」(大浜信泉「工業高等学校と工手学校の関係」『〔早稲田大学工業高等学校〕創立五十周年記念誌』二頁)のである。尤も工手学校は青年学校令に準ずる各種学校であったため、新制への移行とともに、直ちに工業高等学校に昇格されたわけではなく、その間には移行措置として二つの学校が設立されている。今、この工手学校から工業高等学校に至るまでの経過を見ると、先ず昭和二十一年四月、新制への移行を見越して、四年制の夜間中学校に相当する早稲田工業学校を発足させ、同時に工手学校は生徒募集停止、同校生徒は工業学校の第一、二学年に移行することとなった(早稲田大学工業高等学校『研究年誌』昭和四十一年十二月発行終刊特集号一六七頁)。なお工手学校は残留生徒を翌二十三年十月に送り出し、十一月一日に廃校となった。この工業学校は二十二年四月には併設中学校を置いた。三年生だけを収容し一年間のみ機能したこの中学校は、国民学校高等科卒業生を受け入れ、一年間の教育を施して新制中学校卒業の資格を与えた上で、二十三年度設立予定の新制工業高等学校の第一学年へ入学させるためのものである。すなわち、二十二年の工業学校「入学者は入学と同時に新制中学の課程に入り、現在付設中学校第三学年生として在学中であり明年は新制中学卒業となるから、これらの生徒を収容するため是非明年から夜間高等学校として開設しなければならぬ事情にあ」った。こうして学部、高等学院に先立ち昭和二十三年四月に発足することとなった早稲田工業高等学校は、二十三年度には、併設中学三年、工業学校二年修了生徒をそれぞれその第一、第二学年に移行させ、更に補欠生徒募集を行って、先ず第一学年および第二学年を組成した。なお、補欠生徒募集応募資格者は、第一学年においては中等学校三年修了者、「文部省でこれと同等以上の資格と認むる者」もしくは「高等小学校を卒業し一年以上他に適当な所で勉学を行つたもので銓衡に合格の学力を有する者」、第二学年においては中等学校四年修了者、「これと同等以上の資格を有する者」もしくは「高等小学校を卒業し二年以上勉学を行つたもので入学銓衡に合格の学力を有するもの」とされた。工業高等学校初代校長山内弘は、同校発足に際し、その使命・抱負を次のように語っている。

工業高等学校の教育は実習即ち実技の習熟を中心としこれに関係諸学科を配して専門的内容を強化すると共に一般的教養や倫理的教育の面をおろそかにしないように努めた。この点において六、三、三制度のねらいがここに在るといはれているように新制度の義務教育の年限を延長して人間として或る程度まででき上つた後に職業的智識技能を修める制度を十分に活かしたいと思つております。義務教育の内だけでは人間教育はまだ不充分であることは勿論でありますから徳性を涵養し心身を練成して更に社会人としての教養訓練に完きを期し、真の意味における職業人社会人の養成に力を注ぐ必要があります。……本校は大学付属学校としての特色と機能を充分に発揮して教育の点に万全を期し、大学の施設の併用の外に適当な施設の増設や各学部に夫々適応する学科目の担当を委嘱して産業界の現在及将来について実際に通暁するように努めるべきであります。

(『早稲田学報』昭和二十三年四月発行第二巻第四号 一頁)

なお同校の校名は、二十五年三月の私立学校法の施行に伴う早稲田大学の校規改正により、二十五年十二月十日付で、発足時の「早稲田大学付属早稲田工業高等学校」から「早稲田大学工業高等学校」と改称された。

 同校に設置された学科およびその一学年当り定員は左の如くである。

機械科 百名 電気科 百名(第一分科―電気工学五十名、第二分科―電気通信五十名) 金属工業科 百名 建築科 百名

土木科 百名

尤も、これらのうち電気科の両分科(第一分科、第二分科)は発足一年後の二十四年度に廃止され、単に電気科とされた。また金属工業科、土木科はそれぞれ二十六年度、二十九年度に「応募者年々漸減」のため生徒募集停止となったが、これについては次編に譲る。四学年が揃った二十五年度の学科配当は左の如くであった。

第七十五表 昭和二十五年度工業高等学校学科配当表

機械科

電気科

金属工業科

建築科

土木科

備考 四年の自由研究に於て大学進学希望者のために数学、英語の補講を行ふ。担当教員は左の如し。

数学 深沢(富)〈時数4〉 英語 矢島(正)〈時数4〉

理科は二組合併にて二人の教員にて隔週に行ふ故、各教員の持時間は左の通り。

飯泉〈時数8〉 中曾根〈時数8〉

体育は助手二名を使用して数組合併授業して行ふ故、担当教員の持時間左の通り。

浜部〈時数10〉

 なお、右の五学科の他に、二十三年度に本科の生徒募集が中止されることになっていた工芸美術研究所付属技術員養成所から工業高校に、同養成所の代りに同校に工芸図案科を設けたいとの建議があったが、これを審議した教育制度改革委員会は、「設備及び教室の現況に照し、即時に設置することは困難であるので、当分見合わせる」との結論に達し、実現を見なかった。また、工手学校の上級学校として昭和三年四月に開校した高等工学校(夜間二年四学期制)は、「帯に短く襷に長しのたとえのように、高等学校にすれば格下げになり、といって学部では釣合がとれない憾みがあるので、結局終止符を打つほかな」く(大浜信泉「工業高等学校と工手学校の関係」二頁)、二十四年度より学生募集停止、二十六年十月三十一日に廃校となった。ただし、同校の二十二年度以降の卒業生に対しては、高等学校高等科もしくは大学予科と同等の卒業資格が認定され、大学学部への進学の道が開かれることになった(『稲工会報』昭和五十五年一月発行第七九号八頁)。

 前述のように二十四年度に全生徒を新制学部へ移行させた旧制両高等学院は二十四年三月三十一日を以て廃校になり、代って新制高等学院、すなわち「早稲田大学建学の精神に基き、中学校における教育の基礎の上に高等普通教育を施し、一般的教養を高め、健全な批判力を養い、国家及び社会の形成者として有為な人材を養成するとともに、更に進んで深く専門の学芸を研究するに必要な資質を育成することを目的とする」早稲田大学付属早稲田高等学院(三年制)が、昭和二十四年四月に新設された。当時第二高等学院教務主任であった逸見広によれば、その設置認可は、工業高等学校とは異り、やや難航したという。

二十三年から開校した学校〔工業高等学校〕は、戦後間もなくでもあるし、移行と称して校舎関係その他も将来の条件だけで簡単に許可されたようであった。しかし学院は一年遅れたために新設という事になり、校舎、設備など、可なり詳細な検査を受けなければならなかった。当時はまだ戸山町には現在の木造校舎だけだったし、検査が通過したのは早稲田大学の信用の方が大きかったのではないかと思っている。

(江袋辰男「学院初期の資料について」『研究年誌』昭和五十八年三月発行第二七号 一七九頁)

 新制高等学院は昭和二十四年度には各学年とも全生徒を一般公募し、第三学年まで一斉に開設した。この点につき、当時学院事務主任の時岡孝行は次のように回顧している。

最初二十四年に切りかわりましたときに、三学年を一度に試験をして入学をさせた。二年、三年は編入でしたので、かなり混乱があったように思います。一年生は初めから新入生として採るわけですが、二年、三年の編入は初めてのことで、学院は途中編入は一人も許していなかったときですから、この編入試験は非常に異例の形で行われたわけです。多少の混乱はありましたが、新制学院としての形を整える意味でやむを得なかったと思うんです。生徒も、中には大学を一遍受験して落ちて、ことしは学院からやり直そうといったようなのもおったように思います。

(「三十周年回顧座談会」早稲田大学高等学院『三十周年記念誌』 九二頁)

 この新制高等学院と旧制高等学院の際立つ差異は、大学予科たる旧制高等学院では、当然のことながら、高等学院修了生が旧制学部入学者の大半を占めたが、新制度下においては、新制学部の一学年当りの定員三、九〇〇名に対して新制学院のそれは四八〇名、すなわち高等学院の卒業生が新制学部全入学者に占める割合が約八分の一、また第一学部のみの入学者総数と比較しても五分の一に過ぎなかったことである。新制への移行とともにこのような高等学院の規模縮小を見たのは、逸見広によれば、次のような事情によるものであったという。

現在の新制高校は昭和二十三年から発足する事となって、旧制中学の四年生以上はそのまま新制高校に移行する事になった。しかし早稲田ではそう簡単には行かなかった。……旧学院は早稲田大学の純然たる予備門で、学部進学者は殆んど全部学院修了生で占め、学院生も日本全国、というより支那大陸はむろんのこと、フィリピン、タイ、ビルマからさえ集まっていたのである。しかし新制高校生の年令の低下と、戦後の食料事情、住宅の払底、経済的変動などのために、全国から集り来るであろう事は到底考えられず、新制学院から学部進学者の全部を送る構想を墨守すれば、将来の早稲田大学は京浜地区のいわゆる地方大学に顚落する事が明らかに予想された。しかし新制学院を全然置かないとなると、子飼からの早稲田ッ子がなくなるわけで、それではというので、年間学部に採用する全学生数の、約五分の一の定員という事で、新制学院の設立がまづ決定された。そして新制学院の設立の趣旨は、将来早稲田学園の中核をなす学生を育成するという点にあった。

(江袋辰男「学院初期の資料について」 一七七―一七八頁)

 第一回入学式は昭和二十四年四月二十三日に大隈講堂で開かれた。式は先ず竹野長次高等学院長の式辞から始まったが、その要旨は昭和二十四年五月一日発行の『早稲田大学新聞』の報ずるところによれば、左のとおりである。

入学生諸君におよろこびを申し上げる。わが新制学院は設備の万全を期し、また学部と歩調を合わせて今年度より開校のはこびとなつた。本学院は高等普通教育の完成を目指すものであるが、学部進学を目指す諸君はあくまでも早稲田精神の中核体となつて勉強し、生活に密着した学問を心掛け豊かな人間性を培つてもらいたい。次に諸君は自主性と独創性を涵養したまえ。自由の天地は自主性ある人間にのみ開かれ、自らの判断による行動は尊い。記憶だけの智識を排し、実生活や実際活動と遊離せぬ学問をしよう。早高第一回入学生たる諸君は新しい歴史を創る責任を自覚してもらいたい。

初年度の学科配当を左に示そう。なお、「早稲田大学付属早稲田高等学院」という発足時の名称は、工業高校と同様、二十五年の早稲田大学の校規改正に伴い、同年十二月二十日に「早稲田大学高等学院」と改称された。

第七十六表 昭和二十四年度高等学院学科配当表

必修科目

選択科目

 ところで、先の逸見広の談話から知られるように、新制学院は戸山町の旧第一高等学院校舎に置かれ、また第三学年は第一学院と同様、理科クラスと文科クラスとに分かれていた。学院は昭和三十一年に上石神井に移転し、第三学年の理科と文科の区別も四十年度から廃止されたのであるが、それはともかくとして、発足当初の新制学院と旧制第一高等学院には、以上のような類似性が見られたのである。しかし、新制高等学院設立に際し、中心となってプランを練り、また新制学院のスタッフの主体となったのは第二高等学院であり、これに対し、小林正之の次の言に見られるように、第一高等学院の教員の多くは文学部を中心に「方々に散った」のであった。

第二学院の場合は、新制の高等学院の設置委員会というものができて、その委員長に最後の旧第二学院長の竹野長次先生がなられたんです。それで、最初の新制高等学院のスタッフは旧第二高等学院の先生が主体、それに新しい人が少し加わるということでスタートしたわけで、第二学院の場合には、相当数の先生方が学部と兼担で教諭として新しい学院の教育に従事されるということになりました。……新制高等学院の本流はあくまで旧第二学院にさかのぼるといえましょう。……これに対し、旧第一学院の先生方は直接に方々に散ったわけです。比較的文学部が一番多かったと思います。

(「新制早稲田大学の発足」『早稲田大学史記要』昭和五十七年三月発行第一五巻 二三一―二三二頁)

 実際、新制学院設置委員会のメンバーを見ると、第二高等学院長竹野長次が委員長に嘱任されたのに対し、第一高等学院長渡鶴一は、同委員会の設置を答申した教育制度改革委員会が「新制学院の設置委員には必ず現第一、第二高等学院長を入れるよう総長に要望することを申し合せ」ていたにも拘らず、左に掲げる委員名に見られるように、委員に加わっていなかった。

小林正之(第一学院)、小林正(第一学院)、稲垣達郎(第一学院)、逸見広(第二学院)、樫山欽四郎(第二学院)、萩原恭平(高等師範部・第二学院) (『早稲田学報』昭和二十三年五月発行第二巻第五号 二頁)

また、高等学院教諭江袋辰男によれば、新制学院教員中、第二学院から移ってきた教員は約三分の一を占め、その他新任が約三分の一、残りは第一学院、高等師範部、専門学校等であった。

〔新制高等学院創立当時の教員は〕大体七十四、五名いるんですが、第二学院で解散するときに青牛会というのが発足して、あのメンバーにのっているのが大体三八パーセント、約三分の一です。それでぼくとか三觜〔秀郎〕さんとか、そういう新任が大体三分の一ぐらい。それからあとの三分の一が第一学院、高等師範、専門部、そういうところから来たんです。大体三分の一ずつ、そんな割合なんです。 (「三十周年回顧座談会」 九三頁)

なお、第一高等学院から移ってきた教員は「理科関係が多」かった(同前)という。とまれ、第二高等学院が中心となって新制高等学院の実行プランを構想し、スタッフの多数を占めたために、「新制高等学院の本流」と目されるに至ったのであるが、他方、第一高等学院教授会は、次節で触れるように、かなり早い段階から旧制学院の学部昇格構想を持ち、熱心にその運動を推進していた。しかし、この点については節を改め詳述することにしよう。

三 消えた新学部構想

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 新制早稲田大学が具体的プランとして登場し、そして実際に発足を見るまでの過程において、結局実現することなく終った構想が幾つかある。それらのうち最も長期に亘り、かつ最も活発に論議された「文理・人文学部」案、「女子学部」案、および「工業経営学部」案を、以下に取り上げよう。

 既に本編第一章第二節で触れた如く、文理・人文学部問題の発端は旧制高等学院の学部への昇格問題であった。すなわち、昭和二十一年十二月十日の教育制度研究委員会の第一回会合において委員の間から出された「学院はグラヂュエート・コースに進む階梯としてのアメリカ式カレッヂに昇格させる」との構想がこれである。翌二十二年九月十六日同委員会が決議し総長に提出した答申書では、この点には全く触れられていないが、その約二ヵ月後の十一月八日の第三回教育制度改革委員会で、第一高等学院教授会はその具体的構想たる「文理学部」設置案を同委員会委員長に建議した(九二七頁以下の第七十表参照)。なお、教育制度研究、教育制度改革両委員会と併行的に新学制問題について論議していた企画委員会においても、委員の安部民雄が「一般教養学部」の設置を、二十二年の三月と五月の二度提案していたが、後に見る第一学院教授会の提案した「文理学部」案の草稿と思われる『新学制実施に伴ふ本大学教育制度改革に関する建議(案) 昭和二十二年十月二十七日 第一早稲田高等学院教授会』では、「文理学部」が「教養学部」となっているから、この安部の提案は、第一高等学院教授会の新学部増設運動を側面から支持するものであったと考えてよいであろう。ただし、企画委員会は、安部の提案を二度とも反対多数で否決している。

 さて、教育制度改革委員会における第一高等学院教授会の建議書を見ると、その前半で新制早稲田大学の大まかな枠組みを提示しているが、ここで重要なのは、第一に、新制の付属高校について、「一般高等学校設置基準により」設置するが「特に予科的性格をもたしめない」とし、付属高校の学苑における位置付けがあまりはっきりしていず、上述の教育制度研究委員会の答申が「予科的性格を持たしめ」るとしているのとは際立った対照をなす点である。第二は、問題の「文理学部」設置案であるが、その具体的構想が示されている本建議書の後半を左に転載しよう。

文理学部(仮称)設置に関して

第一高等学院教授会は新学制実施に当り、本大学に於ける在来の各学部名を冠する五学部とならべて文理学部(仮称)を新設することを、理論的にも実際的にも最も妥当かつ適切なものと確信する。それは……例へばハーヴァード大学内におけるハーヴァード・カレッジの線に沿はうとするものであるが、構想の要点は左の如くである。

一、目標

思ふに新学制における重要な狙ひの一つは近代的教養を身につけた、知識人、行動人の育成にある。それは必ずしも従来の通念における専門的指導訓練によってのみ期待すべきものではない。故に後述するやうな独特な学科編成をもつ文理学部(仮称)のごときは、他の諸学部と並んで別に独自の存在理由をもつものと信ぜられる。それは卒業後直ちに実社会に出でて活動する場合も、大学院に進んで更に専門の学術研鑽に従ふ場合にも、他学部の卒業生に比し能力において遜色なく、かつ人間的にも学問的にも独特の持味と可能性とを具へた人物を卒業生として期待するものである。

二、特徴

(1)いはゆる専門教育重点主義を排し、広い分野にわたる基礎的専門学科および一般学科を共に高度の教養学科を授ける見地から履修せしめる。

(2)低学年においては特に文科系、理科系の区別にとらはれずに教育し、その間の学習により自己の適性傾向を認識して、爾後の専攻コースを決定させる。

(3)高学年においては文理に大別される。専攻科目は別記の如く分化はするが、科目の選択は文理相互間及文理それぞれの内部においてはできるだけ流動性をもたせる。

(4)学科編成については、前記のごとき特徴を生かすために格別の注意が払はれる。なかんづく外国語に大きな比重がおかれるが、それは学生が学問的或は実際的に将来いづれの方面に向ふにしても最も基礎的なものであり、又学問的訓練のためにはもちろん品性陶冶のためにも好箇の課程であるとの考へに出発する(具体的内容に関しては別表参照)。

三、定員

一、八〇〇名(毎学年四五〇名、内文科系二五〇名、理科系二〇〇名程度にとどめる)

ここで、その目的が「近代的教養を身につけた、知識人、行動人の育成にある」とされていること、そして、その特徴の第一に「いはゆる専門教育重点主義を排し、広い分野にわたる基礎的専門学科および一般学科を共に高度の教養学科を授ける見地から履修せしめる」が掲げられているところから明らかなように、この新学部の狙いは、戦後教育改革の重要な課題の一つ、すなわち大学教育における専門教育偏重の是正を、既設学部のカリキュラムの手直しだけでなく、更に一般教育科目を中心とする学部、いわゆる教養学部をも新設することによって、一層徹底させることにあった。なお専攻科目は「別記の如く」、また学科編成の「具体的内容に関しては別表参照」とあるが、この建議書に添付されていた筈の「別記」「別表」は現在のところ不明であり、従って、この段階における専攻科目および学科編成の「具体的内容」については知る由もない。

 さて、この第一高等学院教授会の提案は、同年十一月八日の第三回教育制度改革委員会では、協議の結果「具体的内容についての案の提出をみた上で、更めて検討する」とされ、また、同月二十二日の第四回委員会では「提案者たる第一高等学院から渡〔鶴一〕院長及び両教務主任の出席を求め具体的内容について説明を聴取したる上宿題として学科目に関し他学部と比較検討をすることを申し合せた」ものの、その一週間後の二十九日の第五回委員会で審議を一応打ち切ることが決定した。その理由は明らかではないが、先の企画委員会・教育制度研究委員会といい、そしてこの教育制度改革委員会といい、こうした再三再四に亘る第一高等学院教授会の熱心な提案について、かくも短時日のうちに学苑当局が審議を打ち切った背景には、教員、施設の両面において、この新学部プランの実現可能性に重大な難点があったからではないかと推測される。

 既述の如く教育制度研究委員会は、新制度下においても旧制と同様に「予科的性格」を持つ付属高校として高等学院を開設すべき旨答申し、また前節で述べたように、その後第二高等学院教授会が中心になって企画した新制高等学院設立の趣旨も、「将来早稲田学園の中核をなす学生を育成するという点」にあった。しかるに第一高等学院教授会のプランでは、一応付属高校の設置を認めてはいるが、それは単に「予科的性格」を持たせないとするだけで、いかなる付属高校とすべきかが明確にされていず、しかも旧制学院の学部への昇格により、旧制学院とは無縁に全く新たに設立される新制学院の教員と施設をどのように工面すればよいのかとの問題が生ずるのであり、この新学部構想は、全学的見地からすれば、実現性に欠けていたと言わざるを得ない。これに対し、第二高等学院を新制学院の「本流」とする第二高等学院教授会の構想には、そうした欠陥がなく、しかも、新制学院が旧制学院の伝統を継承し「予科的性格」をなお持ち続ける一方で、学院一学年当りの定員を学部のそれの約八分の一に押さえるという方法で、学院卒業生が学部入学者の大半を占めることなく、首都圏以外の地方からも学生を募るという配慮がなされているから、建学の精神とも合致し、多くの支持を得たものと察せられる。

 以上のように、第一高等学院教授会の新学部構想には重大な難点があった。ところが第一高等学院教授会がその後も熱心に主張したためか、審議打切りが決定されていたにも拘らず、二十三年一月二十七日の第九回委員会で再び協議されたものの、「追って研究する」として結局この問題は決着を見ず、この後学部増設案審査委員会が、文理学部案の変形である「人文学部」案の当否を審査することとなるのである。

 「人文学部」案の初登場は、安部民雄(専門学校長)、伊地知純正(商学部長・渉外部長)、煙山専太郎(政治経済学部教授)、小林正之(第一高等学院教務主任)、渡鶴一(第一高等学院長)ら、「高度の人間教育を主眼とする学部の構想を練直すべく学院外の長老、中堅諸教授と学院数教授」(第一高等学院『学友会雑誌』昭和二十四年二月発行解散記念号一一〇頁)が結成した人文学部研究会が、総長に「人文学部設置に関する建議」を提出した昭和二十三年三月三十一日である。左の小林正之の回想からも分るように、これは文理学部案を母体とするものであった。

二十三年になって始めたものではない。二十二年七月でしたか、大学基準協会ができて大学設立の基準が発表となって以後、早稲田大学でも新制度をいつどのようにして実施するかという問題がだんだん顕在化してくる。その関係で新学部問題が第一学院で共通の話題にのぼってきたもので、それは二十二年中のことです。確か一月頃、文理学部の名で相当具体的な案をガリ版にして検討した記憶があります。その後さらに曲折を経、教授会と連絡をとりつつ苦心と研究を重ねて順次練り上げ、人文学部案となったのでした。

(「新制早稲田大学の発足」『早稲田大学史記要』昭和五十七年三月発行第一五巻 二三二頁)

 この人文学部案とは具体的にいかなるものであったかは、左に掲げる設置建議により知り得られよう。

人文学部設置に関する建議

我々は新学制実施に伴ふ諸問題や本大学今後の在り方などについて幾度か会合を開き慎重に研究討議した結果、新学制実施に当り、その設置が既に予定せられている政経・法・文・商・理工・教育の諸学部と並んで、本大学内に人文学部(仮称)を創設することが理論的に望ましいばかりでなく、実際的に必要であるとの結論に到達した。而してこの我々の結論は、本大学教育制度改革委員会の報告書に示されている如き本大学の学制改革に対する基本方針に矛盾しないばかりでなく、それと全面的に一致している。我々はここに人文学部設置に関する草案を作製し、これを大学当局に建議する。審議検討の上採用せられんことを切望して止まない。

一、人文学部の目標

いはゆる専門教育の枠のない自由な教育を施して、豊かな教養・高い見識をもつた精神的に健全な人間を育成することを目的とする。

ここにいふ教養とは単なる知識の雑然たる集積ではなく、人類の文化的遺産の摂取継承と、合理的な科学精神の涵養体得を意味する。これは文化的創造力の基礎であり、厳格な学問的訓練によつてはじめて獲得せられるものである。

また、この意味の教養は、如何なる職業に従事するにしても極めて必要であり、さらに、学究として特殊な専門の研究に従ふ場合にも、かかる高度の教養のなかに深くその根を張つた精神を前提としないかぎり、その研究から真に独創的な成果を期待することは出来ない。

二、人文学部の特色

(1)文化科学と自然科学の綜合・交流が可能である。

(2)基礎的な学科を豊富に修得せしめ得る。

(3)特殊な天分・傾向をもつた学生にとつて、自由かつ個性的な学習が可能である。

(4)大学院を最終目的とする教育を行ふためにもふさわしい学部である。

(5)専門学科に重点をおいて学んだ者とは別趣の持味と可能性とを具へた社会人の淵叢たり得る。

三、学習指導上の特色

(1)学生がその素質・能力に応じて自由に学科目を選択し、自発的に研究し得るやうに学部全体が組織されている。

(2)各学科目は常に他の学科目との聯関を顧慮して教授され、学生に学問相互の聯関性を自覚せしめる。

(3)あらゆる学科目に於いて歴史的展望を与へると共に、思想的背景を知らしめることを特に重視する。

(4)学生をして直接原典に親しましめ、語学力を涵養せしめると共に教養を向上せしめる。

(5)教室に於ける講義とは別に、学生に対して読書指導をなし、学生に自主的な研究を行はしめ、その独創力・批判力を涵養せしめる。

四、人文学部設置の意義

(1)前述の如き特色ある学部の社会的意義は、欧米著名の諸大学における実例をひいて論ずるまでもなく自明のことといふべく、この点は、実際的見地からかかる学部の設置に反対する論者も認めている。その創設を不可能ならしめる如き重大な障碍がないかぎり、本大学が他に率先してかかる学部を設けることは、社会的に、また本大学発展のために、最も時宜を得たものと思はれる。

(2)実際的に新制大学卒業生の一般教養は、実質的には旧制大学卒業生よりも低下することが予想されるから、人文学部的なものに対して、特別な関心を寄せる者は相当多数存在すべく、かかる学部を志望する者の払底、学生素質の劣悪を憂へることには遽に同調しかねる。(別紙「主として技術的側面から見た人文学部設置の必要性」参照〔略〕)

(3)従つて、前述学制改革委員会報告書にいはゆる財政的基礎の強化のためにも、又新制への移行に際して学生数の著減を防ぐためにも、本学部の設置は極めて高く評価さるべきものと思ふ。

五、学科配当

(1)科目の群列と選択必修の単位数

a科目の系列と群別

b必修単位数の配分

一、A群中(イ)(ロ)(ハ)の各系列にわたつて二科目以上、通計十科目四〇単位必修。

二、甲系列(BC両群)より通計二〇単位必修。

三、乙系列(BC両群)より通計二〇単位必修。

四、右の外ABC三群中より適宜四〇単位選択必修。

以上通計一二〇単位。

但、外国語は通計四〇単位以上必修のこと。

六、学科目一覧表(別表)

〔以下略〕

 ここに示された人文学部案の意図するところは、第一高等学院の学部昇格案たる文理学部案と全く同一である。第一高等学院教授会が人文学部案提案に踏み切った動機に関する小林正之の、

動機と言ってよいか、ある種の気持はありました。自分たちが旧制時代に学生として経験して以来の早稲田大学についての不満ないし反省があったと思います。新制早稲田大学というものが、旧制の観念と惰性から抜けきれなかった場合、早大の教育は将来実質的にどうなるのだろうか。旧制度の手直しだけで新制度の理想が十分に生かされうるだろうか。この機会に全く新しい四年制人文学部を増設して教育的実験を試みる英断があってもよいではないかと思ったわけです。も一つ、三十年間に築きあげてきた第一学院教育の特徴や慣行に、口はばったいことですが、多少の自己評価を持っていたということは言えましょう。これを簡単に廃止するのでなく、それを根幹として新しい一学部を作ることによって、新制の早稲田大学に独特の貢献をさせることはできないかという気持はあったと思います。 (「新制早稲田大学の発足」 二二七頁)

という回顧からもこの点は明らかであるが、上述の旧制学院の学部昇格に伴って生ずる新制学院設立問題は、ここでも配慮されていない。

 さて、こうして提案された人文学部案は大学当局の取り上げるところとなり、先ず二十三年四月八日開催の第二回理事会で協議された。次いで同月二十二日の第四回理事会では、人文学部建議案審査委員会委員につき協議されている。ここで興味深いのは、人文学部建議案と同時に、「女子学部」建議案も協議に付されていることである。企画委員会で「一般教養学部」の設置を提案し、人文学部設立案の建議者の一人でもあった安部民雄は、この女子学部について「人文学部をつぶすためで、女子学部のことを言えば『そんなばからしいこと!』と言って、これも一緒に葬るための手段だった」と述べているが、真偽の程は定かでない。ただ、人文学部案と同じく三月に柳田泉吉村正中島正信・中谷博・和田小次郎・佐藤輝夫の連名で大学当局に建議された、この女子学部建議書の中で、「一般教養学部……を女子を対象とする学部とすれば早稲田大学の名と実を以てすれば恐らく天下の才媛を収容することが出来ます」と述べられているところを見ると、この提案者達が男子学生を対象とする人文学部設置案には賛成意見を抱いていなかったことは確かである。建議書の全文は左のとおりである。

早稲田大学女子学部設立に関する建議書

新制学部が創設されて男女共学制が新しい理解の下に出発いたしましたことは当然の次第でありますが、これを諸外国の例に見ましても由来男女共学制は、男子の為めの教育が主で女子はこれに便乗するの結果に陥り易いのであります。我が国教育が民主主義的な出発を開始するのを契機としてここに女子を対象とし、主体とするところの高度な大学学部が必然的に設立されるべきは識者の等しく認めてをるところであります。殊に世上問題とされてをります一般教養学部の如き、これを男子を対象とする学部とすれば、必ずしも天下の人材を吸集し得る自信は持ち得ませぬが、これを女子を対象とする学部とすれば早稲田大学の名と実を以てすれば恐らく天下の才媛を収容することが出来ますのみならず、今後の早稲田大学が日本に於て占めるべき地位と立場から考へても重要な関心事であるべき筈であります。従来早稲田大学は日本全国に卒業生を持つてをりましたが、今後は女子卒業生を加へることによつて更に一層その威力を増し得られませう。就中八万人に及ぶ校友がその子女を托するに足る高級な女子教育機関を要求していることが察知し得られる今日に於ては女子学部の設立は全くその機を得たるものと確信されます。従つて女子学部は授業に際してその程度を下げることを許されません。全く男子を対象とする場合と同じく早稲田大学の教授陣容そのものを以てこれに当り、従来の女子大学に見られた如き女子教授を主とすることを避けるべきであります。

昭和二十三年三月 建議者 柳田泉 吉村正 中島正信

中谷博 和田小次郎 佐藤輝夫

早稲田大学総長 島田孝一殿

 学部増設案審議委員会は、この人文、女子両学部新設案のいずれについても、その主旨にはある程度の理解を示したものの、結局は実施上、殊に「設備及び教員」面での難点を主たる反対理由として、両学部案とも実現し難い旨を答申した。同委員会が二十三年五月二十八日に総長に提出した答申書の当該箇所は以下の如くであった。

一、人文学部設置案について

一、建議書に示してある様に、国民に高度の教養をつけることを目的とする教育施設を新設する必要について必ずしも意見の一致はみられなかつたが、かくの如き教育方針によつて文化的創造力の基礎を与え得るであろうという点は仮令その実施方法如何によるとはいえ、概ねこれは認められる。

二、然しその実施上については左の様な難点がある。

(イ)独立の学部として設置するには本大学の現状に照らし相当多数の学生を収容することが必要であり、建議書も亦この事を予想しているが、然し多数の学生を擁したのでは建議書にある様に、自由かつ個性的な学習によつて特殊な天分を発揮させることは困難であろう。

(ロ)尚その主旨に則り相当多数の学生を教育し得るとしても吾国現下の国民生活の実情に鑑み真にかくの如き目的に副う多数の志望者を期待するのは困難であろう。

(ハ)又仮りにその目的にそうとそわざるとを問わず多数の志望者があつたとしても、新制大学(学部及び大学院)開設を目睫の間に控えている本大学の現状、就中設備及び教員の点からみて、その実現は殆んど不可能にちかい。この点について既設学部の人員を減らせばその実施は可能であろうという意見もあつたが、それによつて此施設の為めに要する教員を得る事の困難は解消しないであろう。

三、尚一般教養については、建議者は実質的には旧制大学卒業生よりも低下することを予想しているが、寧ろ新制大学学部の教育方針に於いてこそ教養学科を重視しているのであるから右の様な懸念はない。

以上の理由により、人文学部の即時実施は困難と認められる。

二、女子学部設置案について

一、男女共学制と併行して女子のみを収容する此種の学部を新設する必要があるという点については、必ずしも意見の完全な一致はみられなかつたが、内外の実例に鑑み一応その必要は認められる。

二、本大学の名と実とを以つてすれば、八万人に及ぶ校友が、特に女子のみを収容する此種施設に安んじてその子女を託するであろうという建議者の予想は概ね首肯されたところであつた。従つて本大学の将来の発展という見地からみれば、設置することが望ましい。

三、然しその実施上については、これ又人文学部の場合と同様に、新制大学(学部及大学院)の開設を急務とする本大学の現状に鑑み、設備の点からは不可能にちかく、且つ建議者の言う様に「早稲田大学の教授陣容そのものを以つて」これを開設することは困難である。

以上の理由により、本案に関しては何等か他の施設の教育機関乃至設備を合併或は収容するというが如き方法による他目下のところその実現を期し難い。よつてその様な問題は理事会において考慮すべきである。

こうして人文学部案は女子学部案とともに潰え去った。

 実現しなかった新学部構想には、昭和二十一年六月二十日の第八回教育制度研究委員会において理工学部教授会が提案した「工業経営学部」案がある。その意図、性格は、左に掲げる「工業経営学部設立要綱(案)」から窺い知ることができる。

工業経営学部設立要綱(案)

一、設立の主旨

工業が近代社会に於て占むる地位は次第に重要性を増し、凡ゆる人間の文化生活の繁栄は工業の発展進歩の如何に懸つている。そして今日の工業の発展は基礎工学と生産工学及び経営技術の綜合によつて始めて期待されるところであり、且つ之は適切なる教育と研究とによつて裏付されるものであるが、一方過去に於ける本邦工業教育の実情は殆んど基礎工学に偏して、工学を生産に結合し、経営技術の関連の下に広く生産活動を場とする教育研究が省られなかつた点に大なる欠陥を持つていたのである。

アメリカ、ドイツ及フランスに於ては既に早くより工業経営学が工業教育の重要なる部門として実施せられてをり、此所が日本工業界が之等の国々に遅れている最大原因の一つである。之を要するに今日の工業教育に於ては基礎工学と相俟つて生産工学、経営技術を包含した工業経営学部の創設は必然の過程であり、その設立と育成とは自然科学と人文科学の包含せられている綜合大学に於て始めて行ひ得るものであり、早稲田大学にこの新学部の設立を提案する所以である。

二、学部の目的及性格

1生産工学を基盤として経営技術並に関係諸科学を修得した、教養高き技術者を育成する。

2学問の性質上学科制を採らず、教授の適切なる指導の下に自由なる課目の選択により努めて学生の個性を伸張せしめる様に教育する。

三、大学院の目的及性格

1研究を通じ自然科学に人文科学を調和せしめ優れたる業績を生み学問の源泉たらしめる。

2研究は実験を通じ研究者として、又工業経営の指導者として将来性に富んだ人材になる様育成する。

〔以下略〕

この提案を受けて、同委員会の答申書「学制改革に関連して本大学の採るべき方策について」は、「新生面を開」くものとしてその設置を要請した。更に翌二十二年十月二十九日の第二回教育制度改革委員会でも工業経営学部設置案が提案され、同委員会はこの提案について山本研一委員から趣旨を聴取した結果一応設置する方針のもとに具体案提出を求めた。しかし、その後教育制度改革委員会は審議の結果、当分は理工学部の専攻科とし、一学部としての新設は寧ろ将来考慮するのが適当であろうという結論に達し、この新学部構想もまた消え去ったのである。

四 昭和二十年代後半の学科の改廃

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 昭和二十年代後半における朝鮮戦争を契機とする日本経済の急速な復興、続いて三十年代に開始した高度経済成長、そうした中で、戦後の日本社会は大きく変動・変貌し始めた。すなわち、物がきわめて豊かになり経済生活にゆとりが生じ始めた反面、そこには幾つかの社会問題が顕在化して国民に新たな不安を抱かせることとなったし、また石炭から石油への資源の移行は産業界や労働者の様相を一変させたのである。更に、こうした社会状況の変容は旧来の価値体系をゆさぶり、人々の生活秩序を改変させ、意識を変容させたのであった。このような中にあっては、当然のことながら大学もまた大きな影響を受けたのであり、社会の要請に従うようさまざまな改革を求められたのであった。学苑もまた、その例外ではなかった。創設の理念、真理探究という根本目標は些かなりとも失ってはならないが、学校の存立が社会と不可分の関係にあり、社会の要請に応えていく使命をも担っている以上、学部・学科の改革は常に考慮されなければならない。新制早稲田大学の発足に際しても、新しい時代環境の中で学苑創設の根本目標を実現するために、機構面で多くの配慮が行われたことは、既に詳述したが、新生の本学苑も、その後、右の如き社会状況の変容に伴い、学部・学科編成の手直しを迫られたのである。

 先ず二十六年度に、第一文学部の文学科芸術学専修が廃止、新たに同科に演劇、美術両専修が設置され、内容の充実が図られた。

 続く二十七年度には、教育学部が教育学科を三課程、社会科を二課程に分けた。すなわち、教育学科では従来の教育学課程の他に、教育長、指導主事、学校長等の資格を得ようとする者を養成し、教育行政に人材を提供するための教育行政課程と、社会教育主事および広く社会教育に従事する者の教育を目的とする社会教育課程とを新設した。また社会科では、高等学校社会科教員志望者で地理・歴史専攻者を対象とする地理歴史課程と、経済学、政治学、法学の社会科学を主たる教授内容に持ち、高校の社会科中の一般社会、時事問題の教員養成だけでなく、広く社会科学全般に亘る教養を持った社会的指導者の養成にも資せんとする社会科学課程とが設置されたのである。

 更に大学院も手直しされた。先ず新制大学院開設一年後の二十七年度に商学研究科が経営学専攻を廃止して商学専攻のみとなり、次いで二十九年度に工学研究科に応用物理学専攻が創設された。もとより理工学部は「その名称の示すごとく、理学的基礎とその上に立つ工学的応用の両面を調和融合することを目標として」(『学園生活』昭和三十五年版一七頁)創設され、工学研究科の設置の際も「理学方面をも考慮したる専攻の設置」が一応企図されたのであったが、一つには第一理工学部数学科、応用物理学科の一層の「発展充実」が必要であったことにより、また一つには、第一理工学部開設時に両学科は第一学年のみの開設であった関係上、新制大学院開設の二十六年には両学科の卒業生が皆無であったことにより、応用物理学科および数学科の発展充実を待って、新たに新卒業生を出す時に、応用物理学専攻を設置することが最も妥当であるとの結論に達し、同専攻の設置は見合せられた。しかし、応用物理学科・数学科が最初の卒業生を送り出す二十八年には施設の整備が間に合わず、工学研究科応用物理学専攻の創設は予定より一年遅れて二十九年となったが、同年には修士課程のみが置かれ、博士課程の設置は三十六年度となった。

五 日本私立大学連盟の結成と学苑

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 戦災と戦争終結とに基因する経営事情の悪化により重大危機に直面した私学の大同団結の気運が、昭和二十一年に澎湃として高まってきた。大学については慶、日、明、中、法、早の六大学総長会議が同年九月七日に開催され、三ヵ月の準備期間を経て、十二月十六日開催の全国私立大学総学長会議において、「全国私立大学連合会」が結成された。一方、同年九月十八日、日本教育会長佐野利器が私学振興の目的で、在京の大学から中等学校にまで及ぶ代表者を糾合して、私学振興協議会を開催した。更に、その十日後の二十八日には、「全国私学団体連合会」の名で全国私学時局突破対策大会が開かれ、議会と政府とに対して私学振興を要請する建議を議決した。これが契機となり、同連合会の恒久的設置を熱望する私学関係者は会合を重ね、十二月十六日に、大学から幼稚園に至る各私学団体を結集した「日本私学団体総連合会」が結成され(『日本私学団体総連合会史』六頁、一〇八頁)、全国私立大学連合会は同会に所属することになった。この日本私学団体総連合会初代会長には日本大学総長呉文炳が、第一、第二副会長には明治学院長矢野貫城、明星中学校長児玉九十が就任し、学苑からは総長島田孝一が理事として参加した。発足時の日本私学団体総連合会が担った使命につき、当時学苑理事であった大浜信泉は、後年、次のように回顧している。

戦後、私学が直面した共通の問題はいろいろあるが、大ザツパにいえば、二つの方向に分けることができよう。第一は経済に関することであるが、敗戦に伴う社会的混乱、経済的窮乏、インフレの激化の中から、いかにして学校の再興をはかるとともに関係者の生活をまもるかということがそれである。第二は民主社会における私学の地位に関することであるが、……新しい国家機構及び社会秩序の下において私学の比重が急激に増大することは必至であり、そこでこの新しい秩序の中に正しい位置を獲得し、安定の座を見出すことが焦眉の急務となつた。ところでこれらの問題を解決するには、全私学の総力の結集が絶対に必要であつて、この要請に応えたものが日本私学団体総連合会にほかならなかつた。 (同書 四六五頁)

 ところが、六・三・三・四制への移行に伴う大学教育の改革、すなわち新制大学への移行の動きが具体化し始める中で、昭和二十三年三月二十六日、日本私学団体総連合会の傘下にあった、先の全国私立大学連合会は発展的解消を遂げ、新たに「日本私立大学協会」が設立された。この間の経緯につき、大浜信泉は左の如く語っている。

終戦後、私学にとっては社会の混乱と経済的窮乏をどう乗り切り抜けるかが共通の当面の課題であり、そのために私学の力を結集する必要があったので、私学団体総連合会というものができたわけである。当時中学・高等学校は中高連、専門学校は専門学校協会、幼稚園は幼稚園協会と学校体系の階程ごとに協会が組織されその大同団結として私学団体総連合会が形成されたが、大学について独立の組織がなく、私〔立大〕学団体連合〔会〕が大学部となっていた。……ところで私学全体の結束となると大学がリーダーシップをとる必要があり、そうでないと政治運動するにしても力が弱い。この観点から独立の大学協会をつくる必要を感じ、慶応義塾大学の賛成を得てほかの大学にも呼びかけて日本私立大学協会を発足させたのであった。このような経緯から初代会長には、慶応の塾長潮田〔江次〕さんを推薦し、私が副会長となって会の実務を手伝うことになった。

(『日本私立大学連盟二十年史』本編 五四三頁)

加入校は創設当初は旧制大学四十三校であったが、その後新たに昇格した新制大学も加わり、翌二十四年三月には百十六校の大所帯となった。なお、同協会創設二年後の二十五年三月の総会で役員改選が行われ、会長校に明治大学、副会長校に神奈川大学が選任された。

 さて、この私立大学協会が最初に直面した重要問題は、「私立学校の特性にかんがみ、その自主性を重んじ、公共性を高めることによって、私立学校の健全な発達を図ること」を目的とする私立学校法の制定である。

 先ず二十二年十二月、私学団体総連合会がCIEから今後の教育行政方式のあり方について、私学は公共の教育委員会の管理下に立つか、あるいは自主的教育行政の機関を設置するか打診され、同会が緊急理事会を開き協議の結果、自主的行政の実施を要望する旨をCIEに回答するとともに、同会内に新しい委員会を設け、私学行政基礎法案の草案作成に取り掛かった(『日本私学団体総連合会史』二七四頁)。この委員会は私学法委員会と称し、そのメンバーは、大学、短大、中・高等学校、小学校、幼稚園等それぞれの団体から選任された二十四委員、および専門委員一名の都合二十五委員とされた。日本私立大学協会側からは、松岡熊三郎(明大)、大浜信泉(早大)がそれぞれ委員長、副委員長に就任し、その他五名が委員として加わった(『日本私立大学連盟二十年史』本編三九六―三九七頁)。

 同委員会は国会側の意見を徴し、文部省とも密接な連絡をとりながら、高度の自主性を基本的性格とする私立学校法案を作成し、二十四年二月に私学団体総連合会の原案として発表した。文部省は、この案を骨子として政府案の原案を作成し、第五回国会に上程することにしたが、監督事項に関して私学側の意向を無視した条項を加え、また免税規程を除く等の問題点を持っていたため、国会上程を私学側が反対し、その旨をCIEに申し入れるとともに、全国的反対運動を展開した(同書三九五―三九六頁)。この間の経緯につき、大浜信泉は後年次のように回顧している。

戦災校舎の復興をするのに募金運動をしたわけです。他面やはり国の援助が必要です。ところが、私もずいぶん運動をしたんですけれども、国の援助には憲法第八十九条〔公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない〕が障害になりましたね。もとに戻りますけれども、文部省が私立学校法の中に非常な監督規程を設けたんです。それでは私学の自主性が失われるというので、この監督規程は削除すべきだと強く主張したんですけれども、文部省側はこの位の監督規程を入れないと、憲法第八十九条の関係上、国の補助金は出せないんだという主張なんです。そこで私ずいぶん論争したんですが、まだはっきり結論が出ない前に、たくさんの監督規程を入れた法案を閣議決定してしまったんです。それで私怒りまして、GHQのCIEに飛び込んだわけです。その時の教育課〔Education Division〕のヘッドがルーミス〔A. K. Loomis〕です。私立学校法の条文の十項目を削除しろと持っていって、ルーミスに、文部省は私学を監督していじめようとしている、これだけの規程をあなたの方で削除を命じてくれと言ったんです。あの当時、CIEは私学には非常に同情的でした。補助金をもらうこともアメリカ人だから賛成しないけど、監督することはなおさら気にくわないわけですから、承知したということで、閣議決定した後に文部省が私の言うとおりに十ヵ条を削除するなり、文章を書きかえるなりしたわけです。

(「新制早稲田大学の発足」『早稲田大学史記要』昭和五十七年三月発行第一五巻 二一八―二一九頁)

結局、政府当局は私学側の修正案を入れて一部修正され(『日本私立大学連盟二十年史』本編三九六頁)、国会の承認を経て昭和二十四年十二月、「私立学校法」の公布を見た。

 以上のように、私立大学協会は「終戦後の諸制度の民主的変革と、経済的混乱とに対処し、私立大学の社会的地位の向上と財政的基礎の強化とに貢献するところがすくなくなかった」のであるが、その後、戦後に新たに昇格した新制大学が次々に加盟し、協会が拡大すると、「とかく会の運営と雰囲気の上に、次第、次第に大きな変化がもたらされ」(同書一八頁)、やがて、少数ではあるが戦前からの伝統があり、また規模も大きく、私立大学協会の創立以来、運営の衝に当っていた「旧制大学のグループ」と、規模は小さいが数の上では圧倒的な戦後新たに「昇格したグループ」(同書五七二頁)との間に「対立的の空気が醸成され」、後者が前者を「とかく横暴に振舞い、またはなんらかの利権を得ているかの如」くに非難さえするまでに至った。そこで明治大学の同協会会長鵜沢総明が、二十六年五月に「使命を完うすることの不可能なることを痛感」し辞表を提出すると、「単なる機構の改革や、役員の改選などの方法によって到底改善の余地なきことを覚った」旧制大学グループのうちの慶応、日本、明治、中央、青山学院、上智、早稲田の七常任理事大学が常任理事校たることを辞退し、遂に翌六月、この七校に立教大学を加えた八大学が同協会を退会し、左のような声明を発表して、新たに「日本私立大学連盟」を創設したのである。

日本私立大学協会退会声明

一、日本私立大学協会は、各私立大学が、その自由と自治に基き、私学としての権威を保持しつつ、最高の教育と研究機関としての使命を達成するため組織された全国的の協力機関であって、終戦後の諸制度の民主的変革と、経済的混乱に対処し、私立大学の社会的地位の向上と、財政的基礎の強化とに貢献するところがすくなくなかった。そして歴史および伝統を異にするあらゆる種類の大学を包容しながら、その創立以来、大学人の組織にふさわしく、つねに高い知性と品位を保ってきわめて円滑に運営されてきた。

二、その後、学制の改革に伴う協会の拡大に及んで、会の雰囲気と運営のうえに大きな変化がもたらされるに至った。この変化は、究極において、協会内に対立的の空気が醸成されたことに基因する。この対立感は、協会の運営の上に表面化され、ややもすれば、協会本来の使命の達成を困難ならしめ、ひいては協会の権威を失墜する恨みをまぬがれなかったことはまことに不本意の至りである。

三、そもそも日本私立大学協会は、ひとえに私立大学の向上を指向する文化的協力の組織であって、政治的意図をもった団体でもなければ、なんらの利権を伴なう利益団体でもない。従って、われわれは今日まで協会の一員として、各大学の規模の大小、歴史の長短とにかかわらず、あくまで平等の原理に立脚して、偏えに協会の民主的運営に協力してきたのであるが、とかく大きな大学が横暴に振舞い、またはなんらかの利権を得ているかの如き言説を耳にするに至っては、真に遺憾に堪えぬところである。

四、鵜沢総明博士は、昨年五月会長に就任されて以来、最も熱心に協会の運営の指導にあたられたが、現在の協会それ自体の雰囲気に照し、到底この儘ではその使命を完うすることの不可能なることを痛感され、遂に辞意を表明されるにいたった。かかる事態を招くに至った責任の所在はさて措き、われわれもまたこの機会に根本的に協会の在り方について検討した結果、単なる機構の改革や、役員の改選などの方法によって到底改善の余地なきことを覚った。

今やわが国諸大学は、官私の如何を問わず、学制改革以来の経過に鑑み、大学の制度およびその在り方につき再検討を加えるとともに、さらに他方講和会議を目前に控えて、国際社会への復帰に対処すべき段階にある。私学の権威の保持と、学問研究の向上充実こそわれ等の急務と信ずるが故に、大学人としての良心を活かし得て、なおかつ、よりよき大学の建設を果し得るため、その志を同じくする大学が相倚り相援けて強固なる協力態勢を確立することの必要を痛感し、ひとえに私学の振興を祈念するの余り、この退会を決意するの已むなきに至った次第である。

以上の観点に立って下名の各大学は昭和二十六年六月二十二日の理事会上において独自の立場により、それぞれ協会から退会することを声明した所以である。

昭和二十六年六月二十二日 青山学院大学 中央大学 上智大学 慶応義塾大学

明治大学 日本大学 立教大学 早稲田大学

(同書 二一―二三頁)

当時学苑総長として、この私立大学連盟の創設に深く係わった島田孝一は言う。

昭和二十年代のはじめの頃には、既に日本私立大学協会が存在していたのであって、われわれもこの協会の会員となっていたのであるが、その中の二十四大学が協会から別れて、別個の団体を構成して、日本私立大学連盟として発足したのである。このような新団体を組織した所以は、個々の大学にはそれぞれ独自の理想もあり、色彩の相違もあるから、自らものの考え方にも様々のものがあるのは当然である。出来ることならば、理想や、色彩やものの考え方の同じものが、同志的結合ともいえる形で集って進むのが望ましいという考えが、結局日本私立大学連盟の成立に結びついたのである。 (同書 五四一頁)

「詳しい事情は知らなかった」関西の同志社、関西、関西学院、立命館の四大学が斡旋調停の衝に当り、「脱退組を説きふすため」上京し、学苑の会議室で「脱退組」と話し合ったが、結局「退会の根本的理由を了解」(同書五七九頁)、同調して私立大学協会を退会し、私立大学連盟創設に加わった。

 こうして結成された日本私立大学連盟の会長に学苑総長島田孝一、副会長に慶応義塾大学常任理事永沢邦男がそれぞれ就任し、昭和二十六年七月二十八日午後二時、早稲田大学大隈会館において、その発会式が挙行された。同連盟発足時の加盟校は、右の八校の他、斡旋調停の衝に当った関西四校、その他に連盟の趣旨に賛同し加盟した十二校を加え、左記の如く都合二十四校となった。

(『日本私立大学連盟二十年史』資料編 一―四頁)

 なお、私大連盟は創設とともに、私大協会が加盟している日本私学団体総連合会から必然的に分離してしまったが、改めて総連合会に入会して私学全般の向上のために総連合会を通じて協力すべきであるとの方針を、その創立総会において決定した。しかし、総連合会加盟に当り、私大連盟は総連合会の機構改革を主張した。すなわち、総連合会の傘下には、既述のように大学から幼稚園に至るまでの各私学団体があったが、重要事項の議決は、従来の各団体から選出された役員による票決ではなしに、協議によらねばならない、というのである。そこで私大連盟と総連合会との間で協議会が開かれ、以後、総連合会の意思決定は同会を構成する全団体の意志の完全一致によるとの申合せがなされ、昭和二十六年十二月、私大連盟は総連合会に入会したのである。しかし総連合会の運営は、実際には十分な協議体形式で行われず、結局二十八年八月の「私学多年の宿望たる」(同書本編三八頁)私立学校教職員共済組合法の成立によって、私立学校法(二十四年制定)、私立学校振興会法(二十七年制定)と合せていわゆる私学三法が実現されたのを機会に、翌九月、私学連盟は総連合会を脱会してしまった。そのために私学の代表団体たる私学団体総連合会は著しく弱体化し、全私学の大同団結問題が再燃するが、この点については後述する。

 さて、この日本私立大学連盟の目的は、その定款第六条によれば、「会員相互の協力によって、私学の権威と自由を保持し、大学の振興と向上を図り、学術文化の発展に貢献し、もって大学の使命達成に寄与すること」(同書資料編一二頁)にあったが、同連盟初代会長に就任した島田孝一は、同連盟の機関誌『私大連盟会報』創刊号(昭和二十七年三月発行)において、同連盟の根本的使命につき、次のように抱負を述べている。

わが国の将来を真に望ましい姿に形成し得るか否かということは、全く新しい精神と性格とをもつ日本国民、なかんずく青年男女を創造するか否かということにかかつている。……この目的達成のための手段として万難を排して採用せらるべきことは、教育を通じてでなければならないと思う。この教育という手段を通ずることによつてのみ、始めて真に自由な新しい日本人が創造され、新しく教育された彼等によつて、わが国にとつて百年の計である文化国家の建設は漸次その歩をすすめていくものと期待するのである。……学問の研究が大学の第一の使命であることは論を要しない。また職業人の訓練も決して等閑に付せらるべきでないことも勿論である。しかしながら以上のように観来たる時、人間の育成もまた現代の大学のもつ大きな責務といわなければならないのである。……教育本然の姿が高邁な理想に向つて自主独立して研究に勉めるところに見出され、ここに人間育成の目的が達せられることを思えば、このような雰囲気に最も恵まれているのは私立大学であるといい得るのである。およそ私学の特徴は創立者の高遠な理想を中心に独自の学風を樹立して、自由に研究し、教育し得るという点にある。母校に対する愛校心は私立大学においてのみあり得るものであつて、このような環境をもつ私立大学こそ教育に、殊に人間の育成に最も適した場である。大学の使命を正しく認識するとともに私立大学連盟の健全な発展に努めて、加盟の私立大学がそれぞれその伝統を新時代に順応せしめ、その建学の精神を昻揚し、ますます発展し得るよう努力したい。ここに本連盟存在の意義があると思う。 (「大学の使命と私立大学」 二―三頁)

 私大連盟における島田の活躍には、刮目すべきものがあった。その中で特筆に値するのは、私立大学だけでなく、国公立大学にも係わる大学院制度、特に学位授与制度に関してである。一〇一〇頁に述べた如く、戦後の大学院制度は、アメリカの大学院制度を、我が国の戦前からの伝統および戦後の国内事情を斟酌して導入したもので、アメリカの大学院制度と異る点も少くない。その一つが博士号授与に関する規定である。すなわち、戦前の我が国では論文の提出だけでも博士の学位を取得できたが、アメリカでは大学院の博士課程の単位取得後に論文を提出し、特定の試験に合格して初めて博士号が授与されるのであった。かかるアメリカの大学院制度の導入をGHQは我が国に強く要請したのであるが、我が国では、アメリカの制度をそのまま採用せず、戦前の学位授与規定をも存続させ、「アメリカ方式と日本方式の二本立て」とした。それには私大連盟会長島田孝一の寄与するところが少くなかったと、同連盟発行『私大連盟会報』の編集委員であった学苑助教授陣内宜男は次のように回顧している。

島田会長の私大連盟在任中の業績は多岐に亘るが、その一斑を紹介することにする。それは新制大学院の博士号に関してである。GHQは大学院で博士号を取得するためには、まず最初に大学院の博士課程の単位を取得した後さらに論文を提出し、また特定の試験を受けてそれに合格しなければならない。すべての博士号は必ずこの方式そのままを適用しようとした。しかし、日本には戦前から、単に論文を提出して審査に合格すれば、博士号を授与されるという制度がある。島田会長はGHQの指示に対して、この日本従来の制度も温存すべきだと強く主張された。加盟大学の理事たちもこのご提案を総力をあげて支持された。「泣く子もだまる」といわれたGHQの命令に対して示された島田会長の反骨精神は生かされて、アメリカ方式と日本方式の二本立てになって今日に至っていることは周知のとおりである。

(『大学時報』昭和六十二年五月発行第三六巻一九四号 七三―七四頁)

 さて、同連盟自身の組織的活動としては、定款第七条が次の五つの「目的とする事業」を掲げている。

一 大学における研究、教育に関する相互援助並びに情報の交換

二 大学の管理運営に関する調査研究

三 大学の管理運営、研究・教育に関する会誌及び著書の出版

四 大学の教職員並びに学生の福祉、厚生に必要な事業

五 その他の目的を達成するに必要な事業 (『日本私立大学連盟二十年史』資料編 一二頁)

第三項の「大学の管理運営、研究・教育に関する会誌」は、先に触れた、「学術及び教育の向上のための相互援助、情報の交換或は私立大学の行政、経営並びに学生生活等に関係のある調査研究発表」、ならびに私大「連盟の主義主張をも明らかにし、時には欧米における諸大学の実態をも調査報告して、新生日本の大学教育の振興の一助」(創刊号一頁)とすることを目的とする『私大連盟会報』の発行となって実現を見た。同誌は昭和二十七年三月に創刊号が発行され、三十一年四月に第一六号が発行された後は『大学時報』と名を変え、今日に至っている。この『私大連盟会報』の殆ど毎号に掲載された学苑教員の論説、調査、研究のうち、主なものを左に列挙しておこう。

創刊号(二十七年三月発行) 島田孝一「大学の使命と私立大学」

第二号(二十七年七月発行) 中島正信「旧私立大学と新制大学院」

第四号(二十八年三月発行) 原田実「中央教育審議会の各委員に寄せる」

第四号(二十八年三月発行) 吉阪隆正「カルチエ・ラタンとパリー大学都市」

第五号(二十八年六月発行) 堤秀夫「工業教育の新しい盲点」

第七号(二十九年一月発行) 中村宗雄「学術会議の在り方」

第九号(二十九年七月発行) 末高信「改正された厚生年金保健法」

第一一号(三十年一月発行) 中村宗雄「欧米の大学生活」

第一三号(三十年八月発行) 大浜信泉「私学振興の理念」

 日本私立大学連盟の活動はこれ以外にも多岐に亘るが、最後に、同連盟の運営が軌道に乗り始めた昭和三十年代以降の根本的な活動目的に触れよう。三十年三月に同連盟会長に就任した大浜は、『私大連盟会報』第一二号(昭和三十年六月発行)掲載の会長就任挨拶の中で、同連盟の当面する課題について左の如く述べている。

終戦後私学の地位は高まり、その存在が特に目立って来たように思う。……一口に私学といっても、各学校にはそれぞれ独自の建学の理想、伝統、学風があり、その事情や立場は必ずしも一様ではない。しかしこの学校差や個別相の反面、私学としての最大公約数ともいうべき共通の基盤のあることは否めない。そこには、ともに守るべき共通の名誉と共同の利害がある。しかもそれは対社会的のものであり、総力の結集なくしてはこれを守り、その利益を伸長することは困難である。殊に政治上の要求となると、正しいことであっても、求めずして与えられないことが多い。そこに私学団体の存在理由があるのだが、小党分立では力を分散するばかりでなく、却って他に隙を与え侮りを招く惧れがある。この意味において、たとえ微温的な形式にせよ、全私学連合の結成をみたことはまことに心強い。ただ気にかかることは、大学が連盟、協会、懇話会の三つに分れていることである。むろん、それもそれ相応の理由があってのことではあるが、しかし何時までもこのままの姿でよいものか、なんとか一本化の途はないものか、今後の問題として、考え直してみる必要があるのではなかろうか。……私学の当面する問題は種々雑多であるが、その根をたどってゆくと、財政の問題につながっていることが多い。私学は、近年、その増大する経費の財源をもっぱら学費の増額に求めて来たが、国公立との比較はともかく、父兄の負担力などを考えると、そろそろ限度が近づいて来たような気がする。この意味でも文部省で取り上げられている私学振興策は是が非でも実を結ばせたいものである。助成を恩恵としてこれを乞うのではなく、当然の権利として主張したいのである。 (二―三頁)

 昭和二十八年、私大連盟の脱会によって私学団体総連合会は私学の代表団体たる機能を失い弱体化し、私学の大同団結問題が再燃した。しかし大浜が私大連盟会長に就任して三ヵ月後の三十年六月、私大連盟の機構改革案を容れた総連合会が発展的解消を遂げ、新しい機構による私大連盟と、私立大学協会をはじめとする総連合会傘下の六団体とが協調して「全私学連合」を創立し、私学の大同団結問題は、「微温的な形式にせよ」一応の決着を見た。そして大浜が熱望した私立大学の一層の結束は、これ以後、全私学連合傘下の各私学団体がさまざまな形で私学振興のために同一歩調を取り始めることで徐々に実現していくのであるが、一例を挙げれば、三十一年六月に全私学連合を構成する先の七団体が設立した、私立学校教職員の福利厚生および研修を目的とする財団法人私学研修福祉会がある。同会は、総連合会の発展的解消による再度の私学大同団結の気運の高まった三十年五月に設置された、一大私学センターたる私学会館の建設を目的とする私学会館小委員会を発展させたもので、三十三年十月に念願の私学会館を予定どおり完成させた(『私学研修福祉会十年史』六四頁)が、その他にも、加盟私立学校の教職員を海外に派遣して、学術研究、教育事情、または私学の振興に関する研究調査等を行う機会を与えるための経費を助成する在外研修(海外研修)や、同じく加盟私立学校の教職員に国内の国公私立の大学、研究機関に派遣し研修させるための研修委託費を助成する国内研修(内地留学)など、私学振興へ多くの貢献を行っている(『日本私立大学連盟二十年史』本編四五九―四六〇頁)。次巻に後述する如く、この私学研修福祉会の研修制度によって、学苑の教職員も大いにその資質向上の機会を得、また私学の発展に関する知見を拡めたのであるが、この私学研修福祉会の初代理事長には大浜が就任した。

 こうして戦後の私学の大同団結運動は、紆余曲折を経ながらも、徐々にその実現に向い、成果を収めていたのであるが、大浜のもう一つの悲願である、政府による本格的な私学助成は、昭和四十五年の私立大学等経費補助金の開始まで待たなければならなかった。この点については、次巻に譲ることとする。