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第九編 新制早稲田大学の発足

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第六章 福利厚生制度と職員組合の萌芽

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一 教職員の福利制度

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 高田早苗が夙に教職員の福利厚生に強い関心を懐き、年金制度や退職手当制度等の確立を志したことは、第三巻六四八頁以下に既述したが、当時の大学財政では、その意図が十分に報いられたとは言い難かった。戦後になると、社会一般に見られる福利厚生への強い関心ならびに関係諸法の制定・施行と、これらを反映した大学当局の努力とが相俟って、本学苑でも種々の福利厚生のための制度と施設とが発足し、次第に充実した。以下、年金制度、退職金制度、生命保険による遺族慰藉・高田基金・出版部基金、教職員厚生会、教員共済会・職員共済会について説述する。

 高田早苗が教職員の退職後の生活保障にと考えた年金制度は、実現困難のため、結局教職員退職手当、生命保険による遺族慰藉、および教職員積立金制度、出版部基金による退職慰労金または弔慰金支給制度を整えたにとどまったのは、第三巻に既述した如くであるが、昭和二十六年に至り、本学苑にも漸く年金制度の確立を見るに至った。すなわち、二十六年三月一日と八日との理事会は年金規則に関して協議し、「早稲田大学年金規則」と「早稲田大学年金支給規程」との原案を作成、十五日開催の定時評議員会に提案して、総長島田孝一は左のように趣旨説明を行った。

本大学教職員の退職手当は、御承知の通りでありまして、漸次改善して参りましたが、尚不十分でありますので、これを補うものとして、この年金制度を考えた次第であります。この制度を考えるに当りましても、或は終身年金を差上げるとか、或は退職後十年間差上げるとか種々の案があるのでありますが、財源の関係もありまして、この規則の案に落着いたのであります。この年金は、現在の退職手当はそのままで、その外に差上げるものでありまして、幸い御承認を得て実施することができますならば、大学に永年御勤務になられた教職員各位の御老後にいささか報ゆることができるのではないかと存ずる次第であります。

この時当局が示した「退職手当支給額表」によると、在職三年の講師では二千七百円、同十年の教授では四万六千八百円、同三十年の教授では三十七万八千円となっている。これに対し評議員会は、扶助料を受ける配偶者および子がない場合は孫に扶助料を支給するとの条文の追加と、若干の字句修正とを理事会に一任して、原案を承認した。同月二十二日の理事会は修正を施し、同月二十六日付で新規則を公布した。ただし付則によれば、昭和二十六年四月一日から施行し、満十七年以上在職し同年三月三十一日に定年退職した者にはこの規則を適用すると定めている。

 こうして定められた「早稲田大学年金規則」の要点は、満十七年以上在職して定年退職した時と、満二十年以上在職して六十歳以上に達し大学の都合または病気により退職した時には、専任の該当教職員に年金を給付すること、また年金額は退職当時の俸給および物価手当の合計額の六ヵ月分相当額とし、退職の翌月から起算して満五年間支給すること、遺族に対する扶助料は年金の半額とし、配偶者、専任教職員の死亡当時生計を一にしていた未成年の子、同じく未成年の孫の順に支給することであった。年金額の算定方法といい、給付期間といい、総長の説明にもあった通り十分とは言えないものであったが、初めて年金制度が確立したという点で画期的な意味を持つと評価できよう。

 退職金は、今日では給与の一部を構成すると考えられているが、並大抵の努力では退職金支出制度の設定は私学の乏しい財源からは不可能であつた。戦前の学苑では、既述の如く、大正十年に職員につき「職員退職手当規定」が、続いて教員に関し「退職教員慰労金算出基標」なるものが制定され、その後、この退職金制度を補完する三つの制度が設けられた。すなわち、大正十四年発足の生命保険による遺族慰藉、高田早苗の勇退に際し昭和六年に設けられた高田基金、昭和十五年に早稲田大学出版部の指定寄附金を以て設けられた出版部基金の三つであり(第三巻六五二頁以降参照)、このうち後二者は勤続五年以上の専任教職員を対象にしたのに対し、生命保険による遺族慰藉は同十年以上の者に限定するとの差があったものの、退職金の不足を幾分でも補うという趣旨は、いずれも同様であった。

 しかしこうした制度は、相次ぐ物価上昇により戦後の混乱期にはすべて運用が困難になったため、そのままでは維持できなくなり、先ず昭和二十一年二月二十一日に新しい「教職員退職手当規程」が理事会で決議された。教員・職員の二規程を一本化したこの新規程は、退職手当の支給額を、専任講師および教務補助は専任教職員の二分の一、臨時講師は三分の一、雇員は三分の二と定めるとともに、在職中成績の特に優秀であった者、特別の功労のあった者、校務に原因して負傷しまたは疾病に罹った者等に対する特別退職手当を考慮できるとした等の点に特色があった。

 二十四年に至り更に新規程が作成されて四月一日から施行されたが、前規定との相違は、専任講師・教務補助・雇員が専任教職員と同額になり、十円未満の端数を十円として支給する条文を追加したことであった。しかし、その後、経済情勢の変化に対応して俸給の改訂がしばしば必要であったと同時に、退職金の算出方法もそれに応じた改訂が必須であったので、これは猫の目のように変った。それらのうち比較的重要と思われる改正としては、先ず同年十二月に、臨時講師の退職金に勤続年数に応じて差別を設け、次いで二十五年七月には、退職手当の計算方法を改訂して若干の増額を図った。更に二十六年、従来の教職員退職手当規程の廃止とともに、新たに「早稲田大学教職員退職金支給規則」の制定が六月十五日の評議員会で決定、即日施行されたが、字句・体裁の修正にとどまっている。その後、二十九年二月には臨時講師への支給が、三十一年四月には特別退職金および特別準備退職金の支給が廃止された。なお同年十一月から、後述の如く、教職員の経済的厚生を目的とする教職員厚生会が、「弔慰金および餞別贈呈内規」により、定年退職者には一万円の餞別を贈ることになった。続いて三十五年九月には、退職金の算定基準の「俸給」とは俸給の八割七分とする旨が決められて四月一日から適用された。これらの金額は三十四年以降数次に亘り改訂されている。そして三十六年に教員組合・職員組合が結成され、当局との交渉の過程で、やがて退職金を給与の一部と看做す考えが徐々に定着していったのである。

 こうした中で、退職金制度を補足する趣旨で設けられた生命保険による遺族慰藉・高田基金・出版部基金の三制度も、見直しが図られた。先ず、退職慰労金または弔慰金の算定基準が改正されることになったが、その始めは、昭和二十一年十一月二十一日に開かれた理事会で黒田善太郎監事から「高田基金、出版部基金ノ運用ヲ改善サレタキコト」との要望が出された時であった。これにつき二十八日の理事会は「支給率ヲ引下ゲ其ノ減少額ハ一般退職金ヨリ支給スルコト」との島田総長の提案を検討した結果、翌二十二年一月二十三日の理事会で、上坂酉蔵理事から「支給率ヲ一律ニ引下ゲ両基金ニヨル退職慰労金支給規程ヲ改正スルト共ニコレニ伴ヒ一般退職慰労金支給規程ヲ改正スルコト」が提案、可決されたのに伴い、同月三十日の理事会は具体的な数字を承認し、二月一日施行した。次いで同年九月一日付で、時間給を受ける者に関する給付を廃止し、同時に給付金の計算方法を改めた。しかし、その後、退職金制度が徐々に充実するにつれ、高田基金からの支給率は低下し、また出版部基金の重要性も薄れていった。

 生命保険による遺族慰藉の規程も、高田、出版部両基金と同様の理由で昭和二十二年二月一日に改訂され、新たに給付金(退職慰労金または弔慰金)が追加された。その後も二十二年九月と二十三年二月・四月とに改訂があり、特に二十三年四月には保険金額が十倍に引き上げられた。二十六年には、これまでの「生命保険ニ依ル遺族慰藉規則」が「生命保険による慰藉金支給規則」に改正、字句が改められ、条文が整えられるとともに、保険金額が倍額となった。更に二年後の二十八年にはそのまた倍額となったが、四十二年に至って、「弔慰金贈呈規則」の制定に伴い、これまで一定の役割を果してきた「生命保険による遺族慰藉」制度は廃止された。この間の事情は、総長室参与・教授川合幸晴の「弔慰金贈呈規則制定の企図について」(『早稲田大学広報』昭和四十二年十一月十日号)に、「比較的退職金や年金の少ない若年の教職員が亡くなった場合、従来その不幸を慰めることが甚だ薄かった」ので、これを改めようとしたのが新規則制定の目的であり、「五年以上勤続の教職員が在職中に死亡すれば一律に五〇万円以内が遺族に贈呈される。なお、勤続五年未満の人の場合にも二〇万円以内が贈られることに」なろうと説明されている。こうして、財源不足による退職金制度の不備を生命保険を利用して補うというユニークな発想による制度は、大学財政の充実とともに姿を消したのである。

 なお、昭和十年四月に施行された「教職員積立金規程」(第三巻六五六頁参照)は、二十二年九月、積立金額と払戻または給与金額の算定に際し円未満を切り捨てることに改定されたが、翌二十三年四月一日の理事会でこの制度は廃止されることになった。年金制度等が整備されて、その役割が終ったからである。

 教職員の経済的厚生を目的として教職員厚生会が設置されたのは昭和二十八年であり、その前身は、前年十二月発足の早稲田大学教員互助会であったが、職員側には、その前身と見られる組織はない。一一六九頁および一一八〇―一一八一頁に後述する職員会がこれに近いが、職員会を直接継承したのは職員共済会であった。

 さて、二十七年十月二日の理事会は「教職員厚生資金運用に関する件」を取り上げ、「教員互助会、職員会は夫々別個のものとし、夫々自主的に運営する」旨と、「教員互助会及び職員会には大学から二〇〇万円を資金として貸出す。二〇〇万円の両会への配分については両会代表者と打合せの上決定する」こととを決めた。次いで十一月十三日と二十七日に「早稲田大学互助会規程に関する件」を審議するとともに、大学出資金二百万円の五百万円への増額を決定した。十二月五日に制定された「教員互助会規程」によると、本会は会員の経済的相互扶助を目的に基金の設定・借入・貸付を行うが、基金設定のため会員は毎月一口二十円以上を積み立てることを要し、貸付は二千円を単位として二万円を超えることはできないと定め、貸付利子は月割計算で二千円につき月十円(年利六パーセント)とするものであった。このように学苑は多額の基金を設定したが、会員が積立金を負担しなけれぱならない点で、教員互助会は共済組合的な性格を持っていたのである。

 こうして教員互助会は発足したが、半月後に「早稲田大学教員互助会規程の施行の停止に伴う臨時措置について」通達が出され、その活動は停止された。これは異様なことのように見受けられるが、二十八年二月に理事会の諮問機関として設置された、教員の待遇改善を目的とする給与委員会の、教員と職員を一本化した「教職員互助会」を作れば基金を一千万円の大台に乗せるのが可能とする提案を、教員互助会の運営委員会が了解した結果であり、また新規程原案を給与委員会と協議していた二十八年二月の段階では、なお共済組合的発想を持ち、教・職二本立構想も消え去ってはいなかったのであった。三月および四月には設立準備機関を設けて更に検討を継続、五月一日の理事会はその原案を一部手直しして新たな「教職員厚生会規程」を決定、四月一日に遡って適用した。ここに至って、従来の互助会は厚生会に改組され、教・職員は一本化されて、大学直営でない点は変らないが、会員の出資が不必要となり、共済組合的性格は払拭されたのである。

 この教職員厚生会は各箇所選出の二十人で構成する運営委員会により運営され、一口千円につき月割利息五円(年利六パーセント)で限度額二万円の貸付を行うよう定められた。運営委員選出方法が学部・学校等の改廃により変更されたことと、貸付金額・貸付利子が経済情勢に応じて修正された以外は、会員子弟の進学資金貸付の条項が追加されただけで、他の条項は殆ど発足当時のまま今日に及んでいる。また、規程には該当条文を欠くが、「弔慰金および餞別贈呈内規」が定められ、二十九年十一月十六日に施行された。厚生会貸付金利子収入の三分の一以内の金額を財源に、最高五万円までを弔慰金として贈り、また定年退職者には一万円の餞別を贈るのが、その主旨であった。これらの金額は三十四年以降数次に亘り改訂されている。また、教職員厚生会規程には「特別貸付細則」が付せられて、住宅の新築・購入・増改築および宅地の購入・借入と、本人および家族の結婚・病気・不慮の厄災等、運営委員会が適当と認める者に、退職金相当額以内(ただし十万円を限度とする)の金額を、年六パーセントの利息で貸し付けるよう定められた。

 次に、会員の相互扶助を目的として組織されたものに、教員共済会と職員共済会とがある。

 学苑におけるこの種の組織としては、大正十二年十一月に生れた早稲田大学職員相互会が最も早い。同会規約によると、職員全員を会員とするこの会の目的は会員相互の親睦を図ることにあり、会員は各自月俸の百分の一を醵出することになっていた。本会の活動の主たるものは、会員に対する慶弔費の贈与と、会員一人につき百円を年利六パーセントで一年間を限度に貸与することとであった。付則に「本会ハ委員会ノ議決ヲ経テ年二回(盆、暮)本大学給仕及小使ニ一名金五十銭ノ範囲内二於テ心付ケヲ与フルコトヲ得」とあるのは、当時の学苑の牧歌的な面を示す規定でほほえましい。この会の規約も、経済情勢の変化に伴い慶弔費・貸与金額の限度、貸与利息の変更のための改訂が行われたが、昭和二十二年十二月一日施行の規約が最後のものとなり、二十四年末には、本章第三節に後述する早稲田大学職員会が誕生した。職員会の目的が「会員相互の親睦を厚くし、社会的、文化的地位の向上を計り教育職員たるの責務を完うし、以て学苑の興隆に寄与すること」(会則第三条)と定められていることから見て、職員会は相互会を発展的に継承したものと考えられよう。ただし、幹部職員をも包摂する職員会は、相互扶助を行うだけでなく、幹部職員の集りである主事会とも密接な連絡・協調を保ち、かつ経済的・社会的地位の改善向上をも目指す点で、互助会的性格と人事協議機関的性格と労働組合的性格とを併せ持つ複雑な存在であった。

 一方、教員の共済制度は立ち遅れていたが、漸く昭和二十九年十二月に早稲田大学教員共済会が発足した。早稲田大学教職員厚生会の会員たる教員で組織する同会は、会員の経済的相互扶助を目的に掲げ、会員が毎月醵出する会費(発足当時は百円)と寄附金その他で、慶弔費の支給を賄った。

二 診療所・健康保険組合・保養所・双柿舎

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 昭和二十五年六月の『早稲田学報』(第四巻第六号)は、「教職員並びに学生の保健衛生の面から待望せられていた大学診療所は、旧健康相談所(二号館地下)を改装・拡充、新医療器具、手術台、レントゲン等を備えつけてこのたび発足したが、その開所式が五月二十日午後二時から本部第二会議室で行われた」(二七頁)と、診療所の発足を報じた。整備された診療所は漸く戦後に開設されたのであるが、その前身は大正十四年に遡る。すなわち、それより以前、大正十一年に校医の医学博士前田実は学校衛生視察のため欧米を巡遊し、施設の詳細な報告を行うとともに、学生健康相談所の設置を当局に進言した。前田は、アメリカで行われている一種の学生健康保険制度「インファーマリー〔infirmary〕」を導入するのが理想的であるが、「日本に嘗てこのシステムがないのだから、此システムを直ちに施行するのは突飛過ぎるから、……インファーマリー設置の第一階程として今の健康相談所を開設し」たのである(「健康相談所開設の由来」同誌昭和二年七月発行第三八九号三―四頁)と回顧している。

 学生健康相談所は医師大沢梅吉から百円で医療器械を譲り受けて施設を整え、第三巻三七一頁に既述の如く大正十四年五月二十七日に開所したが、当初は毎週一回月曜日午後が学生の診療日であった。当時どの程度の受診者があったか正確な記録は残っていないが、前田は「開設後二年になる今日、追々盛んになつて来て、此節では仲々忙しい」(同誌同号四頁)と記しているから、昭和初期にはまさか門前雀羅を張るという程ではあるまいが、ことによるとそれに近かったのではなかろうか。一般に医学への関心が乏しかったことに由来すると考えられるが、そのような時代に、他大学に魁けて学生健康相談所を開いた学苑当局者の見識は評価されるべきであろう。

 さて、次第に学生健康相談所の利用者が増加し、健康への関心が高まると、医師の充実、施設の完備が望まれるようになったので、昭和四年七月前田の逝去後、学苑は所長に医学博士草野宏次郎を迎え、ほかに医師二人を増員し、器械も漸次整備したが、十年六月に至り名称を健康相談所に改め、更に医師を増員、レントゲン等の施設を具備し、診療も毎日午後行うようになった。「学生」という冠辞が取れたのは、教職員の厚生施設の重要な一環として健康相談所を捉えたからであり、レントゲン装置の整備に力を入れたのは、当時若者の間に結核患者が多く、その治療が困難であったため、なるべく早期に発見し、低簾な実費で治癒させようとの狙いがあったのである。学生に健康票を持たせて、毎年実施する身体検査の結果を学生身体検査の全国統計と比較して、自己の健康を反省させるという処置を採ったのも、健康に留意させるための施策であり、また、当時の国際情勢下で、強健な身体を持つ若者に対する国家の必要に応じたものであったろう。

 こうして拡充された健康相談所は戦前、戦中、戦後を通じてそれなりの効果を上げたが、二十四年夏、健康相談所を拡大して診療所を設置しようとの気運が現れ、同年七月十日の臨時理事会で本部事務組織の改編が審議された際、健康相談所を拡充することで理事の意見が一致した。そこで翌二十五年五月十八日の理事会は診療所に関して次のような決定を行った。

一、内外科を中心とし、レントゲン、歯科に改良を加えて実施する。

二、診療所長には教授日影董を嘱任し、診療所人事は所長に一任する。

三、健康相談所は廃止し、その予算は診療所の予算とし、一時、運転資金に流用する。但し教職員身体検査の費用は将来新たに要求しない。

四、五月二十日に診療所開設式を行う。

新任の所長日影医学博士は、大正七年東京帝国大学医科大学卒業後、ベルリン大学に学び、帰国後日本医科大学付属病院外科部長、シンガポール博愛病院長、馬来医大学長、日本医療団大阪事務局長、大阪女子医科大学教授(のち名誉教授)等を歴任した社会的名声の高い医師であり、『医社会学』の著書がある視野の広い人物であって、昭和二十四年新制体育部の発足に際し、教授に招かれたのであった。なお、六月十五日の維持員会における総長の報告には、右のほかに「経理は独立会計で行う」旨が付け加えられている。また、歯科設置には予算を必要としたので、診療所の運営が軌道に乗るまで見送られたが、結局予算四十四万円余を計上して設置することが二十五年九月十四日の理事会で決定した。独立採算制については、医師三名、看護婦三名、助手三名、書記二名の人件費を別枠で大学が負担したにも拘らず、二十六年度決算は三十一万五千九百六十六円の欠損を生んだ。しかも施設・器具等の費用は当然大学負担であったから、診療所の運営は必ずしも容易ではなかったが、診療所の設置とその拡充は、連年多数の学生と教職員およびその家族とに恩恵を与え、厚生施設として多大の貢献を行ったから、大学の企図は十分に報いられたと言えよう。なお、二十五年十月からは歯科とともにレントゲン科も増設されたのであった。

 次に、労働者の生活を守ることを目的として大正十一年に制定された健康保険法は、昭和十八年四月に、その適用事業所の範囲を広げ、それまで認められていなかった「教育、研究又ハ調査ノ事業」に従事する者を新たに被保険者に加えたが、学苑でこの健康保険に加入していたのは、月俸百五十円以下の職員だけに過ぎなかった(『早稲田大学新聞』昭和十八年五月十二日号)。当時の法には教員を除外する定めはなかったが、また加入させる規定もなかったので、教員は同法の恩恵を受けなかったのである。ところが、敗戦後の二十二年に至って教員の中から健康保険に加入を望む声が高くなり、社会保障制度の拡充強化に努めていた商学部教授末高信が中心となって、その実現に向けて努力が傾注された。新宿社会保険出張所との折衝が繰り返されると同時に、学苑当局への働きかけも熱心に行われた。理事会は二年間に亘って教員の加入問題を協議、二十四年五月二十六日の理事会に、漸く五月一日付で教員の加入が実現した旨、池原義見理事から報告された。健康保険法第十四条に言う「任意包括被保険者」として加入が認められたのである。この頃他大学でも同様の動きがあったが、学苑が許可第一号で、しかも他大学では実現できなかったことを思うと、末高以下学苑関係者の並々ならぬ熱意と努力とが偲ばれるのである。

 慶応義塾は加入の目的を遂げられなかったので、独自に健康保険組合を結成することになり、二十五年十二月一日付で慶応義塾健康保険組合が認可された。私学における最初の組合である。これに刺戟を受けて学苑にも組合結成の動きが二十五年暮から二十六年初頭にかけて現れた。教員では末高が、職員では庶務部長丹尾磯之助と職員会長大塚芳忠とが中心となり、それを推進した。この時設立事務を担当した庶務課員山領万吉は、政府管掌保険と全く同じ保険料率で同じ給付を行うという原則で試算したところ、年間約六百万円程度の剰余金が生れることが判明したので、設立作業に意欲的に取り組んだと述べている(「本組合の草創期を顧みる――異例だった私大教員の健保加入」『健保だより』昭和四十一年十月十日号)。山領が作成した資料は末高の手を経て島田孝一総長に提出され、理事会は組合設立のための準備委員会を設けて準備を進めさせた。総長は委員会の答申に基づき直ちに厚生大臣黒川武雄に設立申請の手続を執り、二十六年七月一日付で早稲田大学健康保険組合が認可された。このように円滑に事が運んだ裏には、厚生省や東京都保険部との間で常に密接な連絡を執り、その指導を仰いだ末高や山領らの努力があったのである。

 専任教職員を被保険者とする健康保険組合の管理運営は、事業主たる大学の選定する議員二十名と組合員の互選する議員二十名(教員十名、職員十名)とで構成される組合会の議決に基づいて、選定議員・互選議員の互選する各五名の理事が執行し、保険料は事業主と被保険者とが半分ずつ負担した。組合規約は「健康保険法施行令」に副って作成されたが、施行令改正などにより何回も手直しされた。保養所関係のものは別に記すことにし、重要と思われる改訂のみを以下に説述しておこう。先ず二十七年四月一日の改訂は、健康保険法第六十九条ノ三による改訂で、法定給付以外の付加給付を認めたものであり、健康保険組合の場合、政府管掌に比し一般に保険料収入が多額で、疾病発生率が低くて給付が少いとの理由に基づく措置であった。健康保険組合を結成する利点の一つと言えようが、学苑の場合、この利点を生かす試みはこの改訂により始められたのであり、この時、付加給付として埋葬補給金、家族療養補給金、家族埋葬補給金、配偶者分娩補給金が定められた。次いで二十九年四月一日には、前年一月六日付厚生省保険局長通牒「健康保険組合の規約例について」に準拠して規約を全面改正し、かつ、二十八年十一月の健康保険法一部改正による療養の給付期間延長に伴い、付加給付として実施中の延長療養補給金、家族延長療養補給金、延長傷病手当補給金を廃止したほか、組合会議員の任期を従来の三年から二年に短縮した。更に十二月一日には、理事の定数を十二名(教・職各六名)に増員した。

 さて、このように組合規約が整えられる間に、組合の実際の活動状況は如何であったか。組合の事業は、健康保険法第一条に「健康保険ニ於テハ保険者ガ被保険者ノ業務外ノ事由ニ因ル疾病、負傷若ハ死亡又ハ分娩ニ関シ保険給付ヲ為シ併セテ其ノ被扶養者ノ疾病、負傷、死亡又ハ分娩ニ関シ保険給付ヲ為スモノトス」と定められた目的の範囲内で行われるのであるが、二十九年四月一日施行の組合規約は、付加給付として、傷病手当補給金、埋葬補給金、分娩補給金、哺育手当補給金、家族療養補給金、家族埋葬補給金、配偶者分娩補給金、配偶者哺育手当補給金、療養補給金の九種の保険給付を定めている。従って組合の主たる業務は、以上の如き保険給付の実施にあったが、そのため、法の定めに従い組合員よりの保険金の徴収も、当然ながら重要な仕事であった。組合は当初政府管掌健康保険に倣い保険料を標準報酬の千分の六十と定めたが、二十九年以降千分の五十五に引き下げ、組合業務が順調に進み、組合財政が豊かであったのを示している。なお、事業主たる大学と教職員との保険負担割合は一対一とされた。

 二十六年、組合の発足に当り厚生省に提出した事業計画は左の通りであった。

一、常時における被保険者数 一、〇八四人

二、平常における一箇年度収支状況

収入 支出

保険料 七、六六八、二〇〇円 保険給付金 五、六七九、〇○〇円

国庫負担金 八一、三〇〇円 保険施設費 八一六、五〇〇円

其の他 一二、九〇〇円 事務費 七八六、六〇〇円

計 七、七六二、四〇〇円 其の他 四八〇、三〇〇円

計 七、七六二、四〇〇円

三、療養施設 附属診療所あり、特定病院、療養所を指定し療養に当らしめる予定である。

四、保険施設 衛生思想涵養の宣伝、健康増進のための施設、保養所の設置等をなす予定である。

組合業務等については法と施行令による厳しい枠があって自由な計画は立て難く、特に右の予算ならびに事業計画は、組合設立申請のため厚生省に提出したものであったから、いわば型通りに終始している。しかし翌二十七年度予算以降は組合会の議決によって定められるようになったから、自然、組合としての特色が見られるようになった。保険金を減額し、前述の如く規約を改正して埋葬補給金等を増額したこと、保険施設の整備に力を入れ予算を増額したことなどは、その一例である。

 組合活動の充実に果した役員の努力は重要であるが、その一例として、組合理事長末高信が昭和二十七年二月十四日付で総長に提出した「健康保険組合の運営に関連する教職員の厚生福祉対策に関する要望の件」について記しておこう。同年一月八日付の厚生省保険局長通牒「組合の運営に関する件」がこれに添付されていることからも明らかな如く、この要望書はその通牒に触発されたものであった。要望書は大学診療所の整備・拡充および経営の合理化を希望し、また診療所との診療契約について初診料の一部負担金の減免、診療報酬一点単価の十三円から八円への引下げ(四割引)を訴えている。更に、教職員の厚生福祉に関する事項を所管する部課や教職員の校内休養所の設置、保険料の負担割合の変更(大学と被保険者との比率を一対一から二対一に改める)と専任教員の厚生保険金加入手続についての要望をも盛り込んでいる。負担割合の変更は直ちに大学当局に受け入れられ、二十七年四月から組合の要望どおり二対一と改められた。その後、この負担率は二十九年四月の規約改正で三十八対十七と改正され、大学側の負担割合が更に引き上げられた。また厚生年金加入も、私立学校教職員共済組合への加入問題が起ったときに実現した。

 この共済組合は、私立学校の教職員が公立学校の教職員と対等の保障を得るために、従来の財団法人私学教職員共済会(短期給付を目的とする)と財団法人私学恩給財団(長期給付を目的とする)とを一本化したもので、共済組合法は健康保険法と厚生年金法の特別法として制定されたのである。もともとこうした構想は、健康保険法と厚生年金法とを改正し、私学の教職員全員を両保険に強制加入させようとの厚生省の意向を察知した私学側から生れたのであったが、私学の希望を十分に汲み取らずに政府が一方的に法案を作成し、国会にこの共済組合法案を提出してしまったのである。この法案は、社会保障制度審議会が内閣総理大臣および文部大臣の諮問に答えた答申書に、「本制度は官僚主義的強制制度であるためにきわめて非民主的であり、将来において私学の自主性とその利益を害する結果が生ずる危険がある。のみならず、本法の給付内容や財政的負担等は特別法としては十分な条件を充すものとはいえない。……本審議会はこのような内容を持つ特別法をもつて私立学校教職員のために特別の共済組合制度を作ることには反対である」(私立学校教職員共済組合編『私学共済十年史』六二頁)と述べているように、私学には不満なところの多いものであった。そこで、特に日本私立大学連盟(会長島田孝一)は原案の修正に努力し、衆議院文教委員会に折衝を重ね、都道府県の補助に関する規定の挿入と付則に言う強制加入を選択強制加入に改めることとに成功した。しかし国の補助を一〇パーセントから二〇パーセントに高めること、都道府県よりの助成を義務づけること(法案には、都道府県はその予算の範囲内で補助できるという規定が漸く挿入されたにとどまった)等の要望は満たせなかった。特に文部大臣の共済組合に対する監督権限が広範かつ厳重を極めたものである点は、私大連盟の強硬な反対にも拘らず、そのまま残ってしまったから、せっかく作られた共済組合であったが、私学にとり不満な点が多く、社会保障制度審議会の答申にもあるように、政府等の財政的負担が少いので掛金(健康保険や厚生年金の保険金に当る)の負担が重く、しかも給付内容が十分ではないと考えられて、選択強制加入制度が取り入れられたのを幸いに、短期給付、長期給付ともにこれに加入しない私立大学が慶応義塾をはじめ三十校に達し、その教職員は一万七百六十五人に及んだ(同書一〇一頁)。本学苑もその一つであったが、共済組合法付則第二十二項による適用除外申請は、同法の施行される二十九年一月一日から三十日以内に申請しなければならなかった。しかるに当時職員は健康保険、厚生年金保険(十九年以降)の両方へ加入していたが、教員は厚生年金へは未加入であり、選択には学校ごとに教職員の過半数の同意が必要であったから、健康保険にとどまることはできても、このままでは長期給付に関しては全員が共済組合に強制加入させられることになってしまうのであった。そこで、理事会も組合会も、共済組合加入には不利な点が多く、健康保険および厚生年金保険にとどまるのが得策であると考えて、共済組合へは加入しない、健康保険・厚生年金保険にとどまる、そして組合は存続すると決議し、共済組合法の内容、現行との得失、組合の方針、および、特に教員には厚生年金保険へ任意包括被保険者として加入する必要があることの説明を、組合機関誌『早稲田大学健康保険組合 弘報』の特集号を通じて行った。こうして組合案は教職員の賛成を得、教員の厚生年金保険への新規加入と共済組合への非加入との申請が遺漏なく行われたのであった。

 さて、「被保険者の保養並びに健康保持増進を図るため」(昭和二十九年四月一日施行「早稲田大学健康保険組合保養所(海の家)利用規程」第一条)に、保養施設の整備と組合による運営は当初から組合の念願であった。しかし財政基盤の確立しなかった初年度は、保養所設置までの臨時的便法として一泊に限り三百円の保養宿泊券の補助を行うにとどまった。それも二十六年度は対象旅館が無制限であったが、二十七年度には、千葉県勝浦市、群馬県水上町などの四指定旅館利用者に限り、年一回に限り宿泊券を支給することに改められた。この宿泊料補助は、三十年三月以降、宿泊料を特約して組合員の便宜を図る指定旅館制度に変った。なお、この年の指定旅館は七軒であったが、その後徐々に増加し、現在では四十以上の旅館と契約している。

 ところで、二十七年に四旅館を保養所に指定したとき、別に逗子に二階建瓦葺四十坪の民家を賃借して「海の家」を開設した。これは七月と八月の二ヵ月間「海の家」とし、九月から翌年四月までを組合員専用保養所として使用するものであったが、その後家主から契約解除が申し入れられたため、翌二十八年、東側に隣接する土地三百坪、建物二階建草葺五十四坪を二百七十万円で購入し、組合は初めて保養所を所有するに至った。二十九年の前記利用規程によれぱ、食事を別にして一泊二十円であり、指定旅館の場合は二食または三食付で六百ないし七百円であったから、格安の利用料と言えよう。その後、物価と所得が上昇する中で、この利用料は漸次引き上げられたが、指定旅館のそれを遙かに下回っていることは現在も同様である。次いで二十九年には、水上町湯檜曾に「奥利根荘」を、東京都西多摩郡檜原村に「山の家」を開設、翌三十年三月、利用規程から「(海の家)」を削除した「早稲田大学健康保険組合保養所利用規程」を定めたので、組合直営保養所の収容人員は一日につき五十人となった。

 熱海市水口町にある双柿舎も教職員厚生施設の一つとして利用されているが、これはもと坪内雄蔵の邸宅で、昭和五年に坪内から坪内創立の財団法人国劇向上会(昭和四十年一月財団法人逍遙協会と改称)に寄附されたものを、一一二二頁に既述したように、二十四年二月夫人センの没後、同会から学苑に寄贈されたものである。双柿舎の名は、庭園に並んで立つ二本の柿の老木(そのうち一本は惜しくも昭和五十四年十月台風に倒されてしまった)に因んで、坪内が門下の会津八一と相談して命名したのであるが、この双柿舎の由来や建物・庭園のたたずまい、あるいは双柿舎における坪内夫妻の生活等については、坪内の高弟で、長く演劇博物館長を勤めた河竹繁俊の『双柿舎物がたり』に詳細に記されている。同書によると、明治四十四年以来約十年間に亘って坪内が利用した熱海荒宿の別荘が騒音などのため思索に不向きとなったため、大正八年水口村に土地を求め、自らの設計による邸宅を建てたのが今の双柿舎で、その後離れ屋と書庫を増築し、庭を自然の風に整えた。特に「逍遙書屋」と名付けた書庫は、「阿蘭岩」(梵語で「寂静処」の意、寺の略称)に模して自ら設計し、技術的には理工学部教授佐藤武夫の協力を得て、昭和三年に建築したもので、「和漢洋の連合したもの」と坪内自ら評した特色ある建物である。これの寄贈後、二十五年二月二十六日に国劇向上会・熱海稲門会主催で逍遙祭を開催、三月一日より一般公開し、三月二十三日の理事会は「早稲田大学双柿舎使用規定」を定めた。その主たる内容は、利用者の範囲を教職員、双柿会員、大学特別縁故者に限定したことであり、また宿泊料や申込方法等をも決定しているが、当時の収容人員は十人強であった。また、右の「規定」に見える二十五年三月一日結成の双柿会につき、総長は四月十四日の維持員会で、「双柿舎の保存と利用につきましては、その後学内に於て種種研究致していたのでありますが、……双柿会を設けて熱海校友会の御協力を得て運営に当ることと致したのであります」と説明している。

三 職員会

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 四七六―四七八頁に一瞥した如く、昭和二十一年二月、全十六条より成る「早稲田大学職員会規約」の下に職員会が誕生、理工学部事務主任吉田初雄が委員長に選出された。「勤労条件の維持改善、政治的、経済的地位の向上、職員相互の親睦、相互扶助、明朗学園建設に関する諸要件の自主的解決」(『国民のための大学づくりをめざして 職員組合二五年史』一五頁)を目的とするが、労働組合的性格の希薄な職員会のあり方にもの足りなさを感じたのであろう、四七四頁で触れたように、同年十二月、二百七十人の職員が結集して早稲田大学職員組合を結成した。しかし、学生課長大塚芳忠を委員長とするこの職員組合は、「労働組合無用論や、私学経営の採算論、教育職場での労働運動は適当でないという教育職員聖職論などが醸成されて、遂には規約改正と団体協約締結をめぐって意見が対立し、分裂解散をよぎなくされ」た(松坂伊智雄「職員組合結成をふりかえって」『職員組合結成一五周年記念誌十五年あれこれ』七頁)。当時鋳物研究所の技手で、のちに誕生する職員組合の結成準備会の臨時代表を勤めた松坂は、二十年代初期を回顧して、組合解散の原因を、第一に職場の一人一人の自覚に基づいて下から築いた組織ではなく、幹部職制が先頭に立って創生したという運動の未熟さ、第二に実践的・階級的に鍛えられていない組織としての脆弱さにあったとしている。組合幹部すなわち大学幹部職員と、脱退を主張する若手組合員すなわち下級職員との話合いを経て解散を決定したのは、二十四年十二月であった。

 こうして消滅した組合に代り、職員の経済的地位の向上と親睦を図るために生れたのが職員会であった。当時図書館事務主任であった先の大塚を会長とするこの職員会が活動を開始したのは、二十四年暮であるが、この職員会と先述の職員会とは別組織であり、職員会(第一次)の結成と消滅→職員組合の結成と解散→職員会(第二次)の結成という経過をたどったのである。すなわち、職員組合解散後、職員全員を構成員とする職員会が、「形式的には労働組合を呼称しないが、実質的には労働組合法にのっとった運営をおこなう、いわば『精神的労働組合』としての機能をめざして発足」したのであった(同書七頁)。この職員会は、文化・スポーツなど各分野を通じて親睦を深め、また全国私立大学連合懇談会や都内私大教職員組合連合会にも代表を派遣、オブザーバーとして参加するなどの活動を展開したが、松坂の記すところによれば、この職員会は「天下りの全員組織で、事業項目に『職員の経済的地位の向上』をうたいつつも、親睦・共済を強調し、運営のかなめは幹部職制によってがっちり握られる、まさに御用組合そのものの形態を完全にそなえ」たもので、その後の会運営は「会則目的から次第に後退していき、親睦団体か共済団体かとその本質が問われるようになり」、やがて多くの会員が「身分制年功序列型賃金体系の諸矛盾に対する大きな不満とともに、労資対等の原則に立った真の労働組合の必要を考えるようになっ」たのである(同書七―八頁)。