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第九編 新制早稲田大学の発足

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第四章 新酒を入れる革袋

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一 島田総長の再選・三選

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 昭和二十一年六月に初の総長選挙で選出された島田孝一総長の任期は二十四年、新制学部発足直後に切れるので、同年六月二十八日開催の総長選挙人会において次期総長選挙が行われた。第一回の総投票数は八十九票、うち無効二票で、得票者は島田孝一北沢新次郎大浜信泉堤秀夫大山郁夫津田左右吉吉村繁俊であったが、過半数を得た者がなかったため、規定により上位得票者たる島田・北沢の両名に対し再投票が行われ、島田四十七票、北沢三十五票(無効票四、白票三)で、島田の再選が決定した。再選された島田は七月五日の定時維持員会で、「御承知の様に大学は新制大学を今年四月設置致しましたのでありますが、その内容の充実はむしろ今後にかかって居るのでありますし、殊に昭和二十六年を期して発足致します新制大学院こそ当大学の最も力を致すべきものと考えられるのであります。この様な極めて重要な時期に当りまして、大学が将来益々発展致します様に致しますには、各位並に新たに選任されます理事各位の従来にも増した格別の御支援と御指導を戴かなけれぱなりません」と挨拶し、この維持員会で伊地知純正大浜信泉・反町茂作・山本研一・吉村繁俊吉村正の六人が理事に選出された。

 前章に既述した如く、二十六年、学苑は私立学校法の規定により財団法人から学校法人に変り、校規も改正された。一〇八九頁に掲げたように、新校規第五十三条に総長・理事・監事・評議員の選任は速かに行うという規定があり、同年九月三十日までに終了することが既に二十五年十二月十五日の定時維持員会で決定していたため、第二期島田総長の任期満了を待たずに、二十六年九月二十二日に総長選挙人会が開かれた。当時選挙人は百八人であったが、二名欠席し、百六人の出席で投票が行われた。このときも第一回投票で得票したのは島田、北沢、大浜、堤康次郎で、過半数を得た者がなく、上位得票者の島田と北沢の両名を候補者とする再投票が行われ、島田六十一票、北沢四十二票(棄権一、白票二)で、島田が三選されたのであった。

 実はこのとき上位得票者であった島田・北沢・大浜の三名は、かねてから総長候補者として下馬評の高かった人達である。大浜は、前述のように島田総長の下で理事として活躍していたが、私立学校法に対する見解において他の理事達と意見が合わず、前年六月渡米を機に理事を辞任し、研究に打ち込んでいた。しかし第一回総長選挙のとき既に島田とともに有力候補の一人で、学内では教育制度改革委員会委員長、第一法学部長、教旨改訂委員会委員長、大学院設置委員会委員、校規及び同附属規則改正案起草委員会委員等を歴任し、学外でも日本学術会議会員(三期連続)、大学設立基準協議会委員、日本私立大学協会副会長、法制審議会委員等で活躍していた有力者であった。また北沢は、早くから労働問題研究で頭角を現し、二十四年には学士院会員に選ばれるほどの学究であったが、他方実践活動の面でも、大正末期以来労働・農民・学生運動の指導者として知られ、建設者同盟の顧問としても大きな業績を残し、人望の厚い教授であった。昭和二十六年九月二十一日付『早稲田大学新聞』は、島田を交えた三人に質問し、「三総長候補は語る」というトップ記事を編んだ。このとき大浜は「現職を擁して〔盛りたてて〕いきたい。……私としては出馬の意向は全くない」と前置きしつつも、アンケートに答えて教授陣の充実、学苑の復興、大学院等について意見を述べた中で、前年のいわゆる十月事件(レッド・パージ反対運動と大量の学生処分)に言及し、騒ぎを大きくした責任は学苑当局にあり、大量処分は遺憾であったと述べているのが注目される。北沢は一層積極的にそれらについて意見を述べ、この選挙に対する意欲を窺わせているが、十月事件については大浜同様学苑当局の責任であると述べている。しかし大浜は「学生側には若干の行過ぎはあったと思う」と言っているのに対し、北沢は学生の責任については一言も触れていない。この辺りに大浜と北沢との本質的相違が現れていたと言えよう。島田はアンケートに答えなかった。このとき島田は、有力な対立候補と見られた大浜・北沢を抑えて三選されたのであるが、新校規への切替のための島田の任期中の辞任に伴う選挙という事情や、学校法人としての学苑の新生にその穏健な手腕が期待されたこと、あるいは戦災復興に示した業績に対する評価等があって、結局このような結果になったのであろう。

 島田は選挙後『早稲田学報』第六一五号(昭和二十六年十月発行)に「重任に際して」という所感を寄せているが、今後の抱負として「教授陣の一層の強化」を挙げ、次の時代を担うべき人材を養成するため研究費の充実を考えたいと語っている。次いで学苑の運営に積極性が不足しているとの批判を取り上げ、積極的な施策は、

一歩をあやまればそれは放漫な施策の採用となり、名のみに走つて実の伴わない状態に到達する虞がある。今後私が問題をとりあげる以上は、常に正義の立場に立つて誠実をもつて堅実な計画を樹てて、その線に沿つて進む考である。慎重なる研究の結果あやまらざる結論に達したと信じ得る場合には、それが如何に積極的な方針であつたとしても、これを推進せしめるために決して吝ではないつもりである。 (三四頁)

と述べている。また『早稲田大学新聞」(昭和二十六年十月一日号)の質問に答え、教授陣充実や研究補助に努力すること、学生自治は奨励すべきものであるが、政治運動となり暴力に走った場合は容認できない等の見解を示した。

 選挙後一週間を経て開かれた新校規による評議員会で、島田総長を補佐する理事には伊原貞敏・外岡茂十郎・河竹(旧姓吉村)繁俊・久保田明光・反町茂作・小林八百吉(十一月逝去し安念精一に替る)が、監事には黒田善太郎・安念精一(理事転出により中山均に替る)が、選任された。

 三選後の島田総長は、連合国進駐の圧力の下に発足した新制学部および修士課程大学院につき、サンフランシスコ講和条約調印によりもたらされた自由を十分に活用して、充実に努めるとともに、学苑の創意を発揮して博士課程大学院を新設することにより、旧制大学より新制大学への移行完成の司令長官として学苑百年の歴史上特筆されるべきであったが、学苑が創立七十周年の記念祝典を挙げたのも、その在任中であった。

二 大隈記念祭

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 昭和二十四年に新制早稲田大学誕生の時点で学苑は創立六十七年を数え、創設者大隈重信をはじめ学苑草創期の辛苦を分かち合った先覚達も既に物故し、それら先覚の謦咳に接するどころか、もはや名前すら知らない世代が陸続と学苑に入学し大勢を占める時代が始まった。しかし、学苑存立の基盤と理念とはこれら先覚によって築かれたものであり、いかに世代が代ろうと受け継がれていくべきものである。いかに時間が学苑新世代と先覚との間の距離を拡げていこうと、その新世代自身の存在理由もまた何らかの点で先覚の築いたものにより規定されているからである。学苑が機会を得るごとに先覚の功績を偲ぶ行事を催してきたのはそれ故であり、以下はその記録である。

 最初の行事は、新制早稲田大学開設の記念式典が挙行されて間もない昭和二十四年五月六日から十三日までの一週間余りに亘った第一回大隈記念祭であり、戦後の学苑蘇生のために大隈精神を確認し顕揚するための公式行事が確立されたのであった。六日午後一時よりと十日午後七時よりとの二回に亘って、大隈講堂において島田総長の挨拶に続き大山郁夫教授の「私学の恩人大隈老侯」と題する講演があり、十日午後一時には学生自治会主催の大隈銅像への花輪贈呈式が行われた。式は、島田総長の式辞に続いて大隈の盟友でなお健在の尾崎行雄のメッセージが代読され、更に校友政治家斎藤隆夫浅沼稲次郎が交々立って大隈精神を説き、大隈家当主大隈信幸の謝辞があって、学生代表五人により大花輪が大隈銅像に捧げられた。また期間中十一、十二、十三の三日間各二回、先に公募した当選戯曲「大隈重信」三幕六場が、学内の主な学生演劇団体がこぞって協力し、河竹繁俊・中谷博両教授指導の下、印南高一教授の演出により上演された。一方、大学図書館では、大隈の遺品、肖像、伝記資料ならびに大隈文書百点などが展示された。この大隈文書は、大隈の没後大隈家から学苑に寄贈された約五千部六千冊に及ぶ種々の建議書・意見書等を含むものの一部で、日本近代政治史・文化史の卓越した根本史料という性格を持つ。なお大隈信幸はこの大隈記念祭への謝意を表するため、大隈家篋底深く蔵するところの、伊藤、岩倉、井上、板垣、更にパークスやフルベッキなど明治維新の元勲や立て役者達からの大隈宛書簡三百六十七巻ならびに未整理書簡二千百七十四通を学苑に寄贈し、一一四八頁に説述するように、これが大隈研究室設立の契機となったのである。そのほか、記念祭の一環として早大音楽協会による記念音楽会、第一回大隈杯争奪雄弁大会、体育祭などが盛大に挙行されている。因に雄弁大会では「大隈精神とは何か」を演題とした政治経済学部三年寺村辰也が大隈杯を獲得した。

三 創立七十周年記念祝典と記念事業

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学園がかもし伝ふる雰囲気の七十年の歴史を思へ 窪田空穂

ここにしてわが見し人も面影の重なり繁くこころ及ばぬ 同

いまもなほ眼閉づれば思ひ出の早稲田田圃に霧降るらむか 吉井勇

早稲田の自由の中に我がありて我が見出でしは我といふもの 都筑省吾

若若しくさやるものなき早稲田なりこの若若しさは永遠のもの 同

鳴り出でし塔の晩鐘秋風の豊けきに乗り室に揺らぎ来 谷馨

謹みて先進に告ぐ学園は七十年の後いまわれらあり 土岐善麿

新しき世代のために七十年の自由の歴史を語りつぐべし 同

早稲田に入り早稲田を出でし追憶は老境にしていよいよ愉し 同

(『早稲田学報』昭和二十七年十月発行第六二四号 七頁、一八―一九頁)

 昭和二十年の終戦より五年前の「皇紀二千六百年」の祝典時に、二年繰り上げて創立六十周年記念式が行われたときは、日中戦争の只中で軍部の指導下にあり、皇御国の超右翼的思想の氾濫に対して、学苑の創立記念祝典も遺憾ながら全く超然たり得なかったが、終戦七年後の七十周年式典は、前者と対照的な民主主義に則って執り行われた。学苑百年の歴史は基本的には官憲に対抗するものであり、その根底には反逆と革命と自由思想とが培われ育てられていたことは覆うべくもない。従って、従来の創立何周年かの記念式典ごとに設立者大隈重信の事蹟が繰り返し讃えられ、時代の変遷によって多少ニュアンスが違っていても、同工異曲の回顧談が語られてきた。しかし我が国の歴史を百八十度転回させた今回は、大隈の主義主張を新しく見直す必要があった。『早稲田学報』第六二四号は「早稲田大学創立七十周年記念特輯号」と題し、総長島田孝一、徳富蘇峰、石橋湛山ら三人の大隈に関する回顧録を掲載しているが、このうち特に部外者の徳富に対しては、学報編集者陣内宜男を熱海に派遣してその感想を聞いた。徳富は初め大隈を目して奸物だと理解していたが、明治十九年の夏、島田三郎(島田総長の父で、東京専門学校創立時の議員の一人)の紹介で初めて大隈に会い、その後ジャーナリストとしてしばしば彼に接し、その人柄を知悉するに至ったという。ここに摘出する談話の表題は「大隈重信侯の特色」とあり、陣内の筆記によるものであるが、徳富は創立七十周年を祝して次の如き感懐を寄せている。

早稲田は今秋創立七十周年を迎えるそうだが、地下の大隈侯もさだめし、大きくなつた学校をみて御満悦のことであろう。明治時代創立された時はほんの早稲田田圃の田舎学校といつたところで、当の大隈侯は勿論、誰一人として今日のように大きくなろうとは夢想だにしなかつた。『早稲田学報』を読むと、学生二万数千、教職員千五百人とあるが、これにはわたしなども驚いている。「大隈の学校」といわれたものが、今では「世界の大学」といわれるくらいになつた。日本みたいな貧乏国では国立だけで大学教育が出来よう筈がない。一大私立学校がぜひ必要だが、大隈侯の希望どおり早稲田が一大私立学校として慶応とともに日本私学の両雄となつていることは日本文化向上のためにまことによろこばしい。大隈侯の気宇からいうと、単に早慶のみならず、どの私立学校も立派になつて、国立学校を凌ぐものとなることが大隈侯の私学建設の精神に叶うものと思う。

七十周年記念に際して、わたしが早稲田の人々に贈りたいこと、それは「校祖の精神に還れ」という一言である。創立の当初の大理想を学園の全部の人々が忘れないことだ。大隈侯の持つていた独立の精神、自らを恃み、愛国の至情に燃え、日本のために、日本の代表として世界狭しという気宇を持つこと、早稲田の人々は大隈侯と気宇を同一大にしてやつてもらいたい。日本の歴史に残る人物をその校祖に持つたことは早稲田大学の幸せだ。万世のために私立学校を開いた校祖大隈の建学の精神にのつとつて篤信特行、勇往邁進してもらいたい。これが早稲田大学に贈りたいわたしの言葉である。 (一五頁)

 ところで、創立記念祝典挙行の際には、いつの時代にも委員を挙げて、それぞれ企画準備をしてきたが、七十周年記念祝典はサンフランシスコ講和条約発効の年のことでもあり、これを跳躍板として学苑の飛躍的発展に寄与したいとの念願が全学に漲っていたので、この年の一月十八日の学部長会議では、七十周年祝典委員委嘱の件が審議され、全学的な協力態勢を整えた上で行事を執行することに決定し、次いで各学部教授会にもこの主旨を伝え、それぞれの案を提示するよう依頼した。一方古記録および『早稲田学報』等により前例をも調査し、教職員一般の意見をも徴し、既に二月初旬に決定された八百万円の予算に基づき一応の行事案を得たので、これを理事会に付議した上、学苑内外の評議員・商議員らを網羅した記念事業協議委員会を組織して、三月七日に第一回会合を開き、先に理事会に提出した行事案を検討した。この際委員・幹事に委嘱されたのは左の二十九名で、河竹繁俊が委員長に推薦された。

(同誌昭和二十七年十一月発行第六二五号 三六頁)

 この席上で決定された行事は日程に従い順次実行に移されたが、その第一着手は「早稲田の森」の再建であった。校歌に歌われ学苑の象徴ともなっていた「都の西北早稲田の森」は戦災で三分の一が焼失したので、将来の景観を考え、樫・椎・桜・楓の苗木四百本を水稲荷の境内その他に植えることとし、梅雨期に入る前の五月末に完了した。

 この植樹祭は季節の関係もあって逸速く行われたが、そのほかプロローグ的な記念行事の最初のものは二つの懸賞文芸の募集であった。その一つは新作歌二種の募集で、従来歌い続けられてきた荘重な校歌以外に、これと併行して新時代のセンスを盛った、学生が気楽な気持で歌えるような歌と、応援部の希望する新鮮な応援歌の学内からの募集であり、他は、記念の祝祭劇にふさわしい演劇脚本の募集であった。前者に対しては、それぞれ当選歌に賞金一万円、佳作二編には一編ごとに二千円とし、後者は四百字詰原稿紙五十枚以内で題材は自由とし、当選作には二万円、佳作二編に対しては三千円ずつを贈ることとし、六月中に募集計画を発表した。歌詞の選者には西条八十服部嘉香とが、脚本の選者には坪内士行と印南高一と加藤長治とが依嘱されたが、歌詞は両者とも二十五編ずつ、脚本は二十九編の応募を見、左記の如き当選作を得た。

(同誌同号 三七頁)

歌詞の当選作は西条八十が補修したのち芥川也寸志が、応援歌はこれまた西条八十が補修したのち古関裕而が、それぞれ作曲し、十月十四日大隈講堂において新作歌二種の発表会を催し、併せて授賞式を行った。更に、次に述べる日本橋三越本店の大隈重信展でも連日吹奏されて、あたかも祝典の前奏曲を奏でる観を呈した。なお、演劇脚本もなかなか優秀な作品であったが、行事日程の都合上、他日機会を見て上演することとし、今回は一応中止となった。

 次いで、学祖大隈の人柄とその功績の再認識を企図する大隈重信展が、記念祝典に魁けて十月七日から十二日までの一週間、日本橋三越本店で挙行された。会場には、往年の大隈が政治、経済、外交、教育、啓蒙運動等あらゆる分野で活躍した経緯を明らかに伝える遺物や、大隈家から本学苑に寄贈された未公開の豊富な資料が展示された。また、かつて第二次大隈内閣を組織していた時の総選挙で、一般大衆を対象として吹き込んだ演説「憲政に於ける輿論の勢力」の録音盤を披露して、在りし日の大隈の雄弁を来会者に印象づけた。

 続いて十月十八日、午前七時四十五分からラジオのNHK第一放送「朝の訪問」の時間に島田総長が、本学苑の建学の精神や、七十周年を契機とする大学の教育方針について、遠大な抱負を述べた。学苑全体に渉る記念行事は、記念式典前後、華々しく展開されたが、各箇所でもこの機会を利用してそれぞれ記念行事を行った。例えば理工学部は、三年に一度の理工学部祭をこの時期に開催し、第一・第二学部合同で十月十九日から三日間教室を利用して十一学科が苦心の作品を展示し、定評ある早稲田理工学部の全貌を誇示した。早稲田大学回顧展もこの例に漏れず、十月十九日から二十五日まで図書館大閲覧室で開催され、会場入口には草創期の校舎の玄関を型どった模型が設けられ、図書館所蔵の図書、雑誌、新聞等のほか、学苑関係の写真、図表、レコード等の視聴覚資料を概ね年代順に配置し、七十年史をトピックス別に概観できるよう意を注いだ。特に「早稲田騒動」、大隈重信の死、軍事研究団事件、スポーツ王国早稲田の今昔、学苑の戦災とその復興状況、戦後の早大生の動向、学苑の現状、早稲田文教地区設置委員会の遠大な計画案などの展示の前にはしばしば人垣が作られた。これと併せて、我が国および我が学苑が世界に誇る演劇博物館の展覧会も、十月二十日から十一月中旬まで開催され、「近代演劇史上に活躍した早稲田人の面影」、「明治以後歌舞伎の変遷」、「新派新劇の変遷」、「山本久三郎御寄贈欧米舞台芸術家の面影」等が展示された。このほか特別展示品としては、画壇の巨匠が寄贈したその代表作、すなわち、

が十一月五日まで陳列された。かくておよそ四ヵ月間に亘り間断なく催された各種の記念行事は、教職員、学生、校友達の学苑に対する関心を最高度にまで昂揚させたのであった。

 昭和二十七年十月二十一日挙行の創立七十周年記念式典の前日、二十日午前十時から大学と大隈家との共催で大隈三十年祭を執行し、島田総長らが参列、またこの日に前後して学苑功労者である小野梓をはじめ鳩山和夫高田早苗天野為之坪内雄蔵塩沢昌貞平沼淑郎の塋域に大学幹部が参拝して感謝報告を行い、それぞれの地方では校友会の代表者が南部英麿前島密市島謙吉田中穂積中野登美雄の墓前に参拝した。次いで午後二時から同じく音羽護国寺内大隈重信兆域で大学主催の墓前祭が行われ、斎詞奉読ののち島田総長が墓前にぬかずき、創立以来の歴史と現況を述べて、左の如き「墓前報告文」を表した。

早稲田大学が世界教育史上稀に見る急速度の発展を遂げ、わが国私学の最高権威として輝やかしい功績を挙げておりますことは、学園の内外における早稲田精神即ち大隈精神の支持顕揚の結実に外ならないのでありますが、最近の十年間は、特に苦難の一路でありました。申すまでもなく太平洋戦争のためでありますが、前半は、主要建物の焼失、学徒の動員及び出陣、授業の一部停止等物心両面に亘り莫大の損失を蒙りましたものの、当局者の善処と、教職員学生の協力一致とにより難局を打開したのでありますし、後半は、終戦後の社会秩序の回復と各方面における新制度の実施に伴い、新制十一学部及び高等学院、工業高等学校の開設、大学院の設置、その他専修学科課程の充実、法文科系及び理工科系大学院校舎、共通校舎の竣工、大隈会館の再建築等、着々内容外観を整備し、更に、待遇紀綱、設備等の改善により最高学府としての学的活動に積極性を持たせ、幾多の困難を克服しつつ、今日の盛大を見るに至りました。苦難は苦難でございましたが、希望を以てこれに打ち克つことを得ましたのは、偏に先生の御加護の賜でありまして、感謝に堪えぬところでございます。

現在、学園には、教職員一千四百余名、在学生二万数千、校友十万余。これを、教員七名学生七十八名を以て出発しました七十年前に対比しますと、まことに今昔の感に堪えぬものがあります。十万の校友は、政界、経済界、法曹界、学界、言論界、新聞雑誌界、文学界、美術界、演劇界、教育界、工業界等到る処に、文化の創造乃至促進の先駆者として活躍しております。二万の学生は又、次の時代を荷うべき準備をしつつあります。教育は永遠の道、不朽の事業であります。私共は、わが早稲田学園の歴史的生命の矜持と光栄を伝承して、永遠の大隈精神、早稲田精神を以て日本の新運命を開拓したいと思います。

先生は、早稲田大学建学の目的として、学問の独立を標榜されました。更に、太平洋を世界通商の十字街とし、日本を東西文明調和の地とすべきことを持説とし、力説されました。先生の先見と達識は今や事実として実現しておりますが、七十周年に当り、これらに含蓄された大隈精神を新たに認識、自覚して、今後の活動に入りたいと思うのであります。

(『早稲田学報』第六二五号 九頁)

告文朗読後、傍らの令孫の参議院議員大隈信幸をはじめ、遺族、総長、安念・伊原・河竹・久保田・反町・外岡の理事、教職員、原安三郎・中山均・小汀利得らの校友が玉串を奉呈して、午後三時過ぎに祭典の幕を閉じた。その後これに参加できなかった教職員、学生および一般参拝者の拝礼があり、その列は夕暮れまで続いた。

 創立七十周年記念式典は、十月二十一日午後一時半、大隈講堂で開かれた。先ず来賓および国立・私立大学の学長ら五十有余名、校友代表約四百名、学生代表千五百名が入場し、次いで大隈会館前に整列した学苑幹部、外国の大学三十四校および研究所三機関の代表者ら、教職員は庶務部長丹尾磯之助の先導で、校旗を先頭に、島田総長、大隈信幸、河竹式典委員長、理事・監事・学外評議員・来賓・教職員の順序で、粛々として歩を式場内に移し、ブラスバンドの校歌吹奏裡に所定の席に着いた。かくて午後二時河竹委員長の開式の辞を皮切りに、島田総長の式辞に次いで、吉田茂総理大臣、岡野清豪文部大臣、佐藤尚武参議院議長(以上代理)、潮田江次慶応義塾長、ハーヴァード大学総長代理J・K・フェアバンク教授、校友代表原安三郎の祝辞が述べられた。盟友慶応義塾の潮田塾長ならびにハーヴァードのフェアバンク教授の祝辞は、同じように紆余曲折の歩みを通して今日の隆盛を来している大学だけに共感を呼ぶものがあった。この両式辞は『早稲田学報』第六二五号に収載されているが、特に後者については英文とともに和訳要旨が載せられているので、その和訳文を転載しよう。

自由教育と知的自由主義は今日国際間に多くの難問題と障害が存在するにもかかわらず、日本、米国その他自由諸国間において確実に前進しつつあることは慶賀すべき事柄である。この機会において、知識と研究の自由及び自由教育の伝統とその価値を再認識することは極めて必要である。由来思想と教育の自由は幾多の犠牲の結果獲得したもので、これを軽視するならば、社会進歩の原動力たるこの尊き遺産は忽ち滅び去るであろう。

自由は不断の努力に依りて獲得維持せらるべきもので、民主主義的文化を存続させるために必要なる基本的原則を要約すれば、第一に個人の尊重である。不断の進歩と変化を遂げつつある人間社会の諸問題を解決するために個人の自由と創意は不可欠のものであり、これが尊重さるる限りにおいては、社会にはつねに清新活発なる創造進化が行われる。我々は時として指導者を欲するが、我々の頭脳に代つて思考するが如き指導者を必要としない。第二は、自由は基本的権利であると共に責任を伴うことを自覚せねばならぬ。自由教育は個人と社会の均衡を求めるのであつて、個人が責任を以て創意を発揮し建設に従事せねばならぬ。第三は、大学教育は共同の理想に向つて精進する一つの協同体であり、直接国家の干渉を受けざる自律性を要求する。第四は、自家権力の一方的集中は百弊の禍因であり、権力に対する多元的な考えこそ自由と進歩の基礎である。この点においてハーバード大学と早稲田大学は私学としてその教育の目的に共通した目的を持ち、自治的精神が建学の特質となつている。最後に、私学の運営に当つて最も必要なることは、校友会の愛校精神と物質的援助であつて、大学の知識活動と校友会の経済的活動とは飽くまで協調して行かねばならない。 (一九―二〇頁)

アメリカの私立大学が自由主義を基盤として教育を施しているのは周知のところであるが、我が学苑の起伏七十年の歴史が、アメリカと共通の目的を以て貫かれていると述べられたのは、我が意を得たものであった。更に数人の簡潔な祝辞が続き、校歌斉唱後、矢内原東京大学学長の発声で早稲田大学万歳を三唱し、午後三時滞りなく式典が終了した。式後、関係者一同の茶菓の会が大隈会館庭園に用意された野外テント内で行われ、来賓、教職員は茶菓を共にしながら、暮色が漸く早稲田の杜を包む頃まで歓談した。なお、この日『早稲田大学七十年誌』(稲垣達郎編、山路平四郎・鵜月洋・高橋春雄執筆)および校友会発行の『早稲田学報』「早稲田大学創立七十周年記念特輯号」(第六二四号)が一同に配付された。

 式典は参列人員に制限のある大隈講堂で行われたため、式典らしい式典として厳粛に執行されたが、翌二十二日午後の全学的祝賀式は家庭的な、和やかなものであった。式場は安部球場で、定刻前に校友ならびに学生約四千名が入場して威儀を正す中を、宮川庶務課長の誘導により、校歌演奏の応援部吹奏楽団を先頭に、ガウン姿の教職員千名が三塁側の入口から入場、所定の位置に整列した。時まさに一時三十分。式典委員長河竹繁俊の開式の辞に続き島田総長の式辞があった。島田は『早稲田学報』の創立七十周年記念特輯号に「草創期の学風を憶う」と題する一文を寄せ、大隈墓前祭には既述の如き告文を読み、また大隈講堂で行った式典でも式辞を述べた。言うところはすべて創業以来の功労者の経営と、それによる発展、将来学苑が進むべき道を説いたのであったが、全学生を前にしての式辞では、左に掲げる一部にも窺われる如く、総長としての諭しと、訓戒と、全学徒修学の決意を促す点に主眼が置かれた。

大学の評価は、その大学の卒業生がその国の文化にどのように貢献しているかによつて決定するものと信ずるのでありますが、こうした立場から観ますならば、日本の近代文化史上において、わが早稲田大学が占めている地位はまことに重要なものがありまして、私学中随一と申しましても敢て自画自讃ではないと確信いたすのであります。……本日の祝賀式は単に過去のわが学園を礼讃することではないのでありまして、むしろ先輩の偉業の上に、更に光彩陸離たるものを添えようとする新発足の契機としたいためのものであります。

私は特に若い世代の、教職員、学生諸君に申上げたいのであります。独立国としての将来の日本は、青年諸君の双肩にかかつているのであります。わが学園にあつては、明治の草創期におきまして青年学徒諸君が大学当局と協力一致してわが学園を盛りたてました如く、今後とも諸君の一人一人が名誉あるわが学園の継承者として、十分な誇りをもつて大学当局に御協力を願いたいのであります。大隈侯が僅か三十歳にして参議として明治政府の枢要な地位につかれた故智にならいまして、「青年大隈」の広大な気宇をそのまま諸君のものとして、崇高な人格の形成と、高邁な識見の涵養に努めていただきたいのであります。幸にして、既に幾多の先輩が、あらゆる分野において諸君の活躍する舞台を開拓しておられるのであります。諸君は先輩の開拓された鍬の跡に身を挺して、更に一段とその精華を発揮していただきたいのであります。「早稲田学園の選ばれた使徒」として、建学の理想を体して、わが日本の文化の向上のために、勇往邁進していただきたいのであります。

(『早稲田学報』第六二五号 二四―二五頁)

 総長式辞のあと、別記の如き永年勤続教職員四十九名の表彰があり、次いで教職員総代として商学部伊地知純正教授、校友総代元参議院議長小山松寿および在学生総代花城邦光(一法四年)の祝辞があった。花城の祝辞には時代の大きな転換に直面した若き学徒の決意が表明され、従来各期の創立記念式典に述べられた学生代表の祝辞とは、自ずから違うものがあった。彼は言う。

吾々は輝く伝統の下、この偉大な学園に学ぶ事をこの上もない誇りとし、且つ大きな幸福と感ずる者でありますが、今七十年の歴史を回顧して、ローマは一日にして成らなかつたという先人の言葉を想起し乍ら、学園の建設及び発展の為に捧げられた多くの人々の労苦と犠牲に対し、感謝の念を新たにすると共にそこに学ぶ者の責任の重要性を痛感する次第であります。……吾々の前途には、国際的にも国内的にも幾多の難関が横たわつております。眼を国の内外に巡らして見ると、真理の探究、最高の教育の場としての大学の使命も愈々重大となり、そこに学ぶ吾々学徒の任務及び責任も、亦益々重きを加えつつある事を痛感致します。

大隈老侯が「一国の独立は国民精神の作興に由来し、国民精神の作興は学問の独立に由来する」と喝破されました。この言葉は、明日への期待を青年に託し、吾国の発展と共に早稲田大学の隆盛を希求されたものであります。そしてこの願いこそは、又吾々の理想でもあり、擔うべき使命の指標でもあります。吾々はこの自覚の上に立つて、遺訓に遵い、時代に阿ねる事なく、学徒としての使命の達成に専念し、諸先生、諸先輩の期待に副わん事をお誓い致し、早稲田大学の永遠の発展を祈ります。

(同誌同号 二八頁)

 このあと、前述の岩崎巌作詞の新学生歌「早稲田の栄光」が応援部員の合唱で発表された。

早稲田の栄光

一、栄光はみどりの風に 重ね来し歴史尊く

花ひらく若き日の歌 承け継ぎて輝く早稲田

早稲田、早稲田、我等の早稲田 翻えす校旗の紅に

二、ふり仰ぐ時計の塔に 感激の血潮は沸る

青春の眸は澄みて 早稲田、早稲田、我等の早稲田

雲と湧く文化の理想 四、先哲の面影偲ぶ

擔い立つ我等たくまし なつかしき真理の森を

早稲田、早稲田、我等の早稲田 彩るは七色の虹

三、昂然と高張る胸に とこしえに輝く早稲田

伝統の息吹通いて 早稲田、早稲田、我等の早稲田 (同誌同号 二九頁)

また田中千恵子作詞の応援歌当選作は左の通りであった。

永遠なるみどり

一、朝風になびくみどり 若き早稲田の稲穂 伝統ある勝利は わがもの

日輪のひかりに映ゆる姿たのもし 往け往け グリーン早稲田

仰ぎ見る栄光の下 早稲田 早稲田 永遠なるその名よ

伝統ある勝利は わがもの 三、白銀のドームのもと こぞり集まる精鋭

往け往け グリーン早稲田 ほまれある校旗を高くかざし進むよ

早稲田 早稲田 永遠なるその名よ 万丈の英気はあふれ

二、くれないの花と匂り 清き真玉と砕けん 伝統ある勝利は わがもの

若人の命を揺すり雲はかがやく 往け往け グリーン早稲田

わだつみの果にもひびけ 早稲田 早稲田 永遠なるその名よ

(牛島芳『応援歌物語』 一一一頁)

新作歌の発表が終ると参列者一同校歌を斉唱し、名誉教授日高只一の発声で早稲田大学万歳を三唱、河竹委員長の閉式の辞で式典の幕を閉じた。この間、朝日新聞社の「あさかぜ」号が安部球場上空に飛来して、この祝典を慶祝取材した。なお、先に述べた三十年以上勤続で表彰を受けたのは、左の教職員であった。

(『早稲田学報』第六二五号 二三頁)

 なお、北海道、青森、秋田、山形、岩手、福島、栃木、群馬、埼玉、茨城、神奈川、千葉、新潟、長野、福井、鳥取、静岡、愛知、岐阜、富山、岡山、和歌山、兵庫、広島、石川、福島、長崎、鹿児島、山口、大阪、香川等の地方校友会の代表およそ千二百名が式典に参列したのを機会に、十月二十二日午後二時半から大隈会館庭園で、昭和二十七年度の秋季校友大会が開催された。会は丹尾常任幹事の司会により、島田会長の挨拶の後、特にこの会に招待された新代議士を代表して右派社会党の吉川兼光が謝辞を、地方校友会を代表して広島校友会長島田兵蔵(中国電力社長)が挨拶を、それぞれ述べた。続いて二十五年以上勤続の左記校友会幹事および職員、常任幹事担当者に対して会長から感謝状ならびに記念品が贈られ、学苑監事の黒田善太郎が一同を代表してこれを受け、謝辞を述べた。

(同誌同号 三〇頁)

このあと大隈会館書院を舞台に見立てて各種の余興が行われ、庭園内に設けられた模擬店は校友の子供達で賑わい、中秋の一日をこころゆくまで楽しんだ。

 一方、記念演劇と名付けた会合は、十月二十二日の午後四時から六時までと、二十三、二十四、二十五日の三日間、午後一時と五時との二回開催され、来賓、校友、教職員、学生ならびに一般に公開され、連日盛況を極めた。出し物は坪内逍遙作「霊験」三幕、中村吉蔵作「大隈重信」三場、および中野実作「美術の秋」一場で、演劇博物館長河竹繁俊が総指揮に当り、坪内士行・印南高一・加藤長治が演出を分担、近代劇場・第三劇場の俳優および文学部芸術学専修の学生が出演し、新劇の長老加藤精一が特別参加して一段と光彩を放った。

 学術講演会は十月二十三日午後一時から共通教室校舎講堂で次の如く開催された。

(同誌同号 三二頁)

他方、一般に公開された講演会は十月二十八日午後二時から有楽町朝日新聞社講堂で行われたが、その演題ならびに講師は左の通りであった。

(同誌同号三二―三三頁)

 各種記念行事の他に、高等学院の第二回学院祭が行われた。学院祭は前年の二十六年に始まり、以後定期的に実施されたものであるが、この年はたまたま創立七十周年記念と嚙み合せたのであった。生徒会主催で、期間は十月二十三、二十四、二十六日の三日間、先ず初日には戸山町の高等学院グラウンドで午前九時半から体育祭が開始され、学院生徒による各種競技が展開され、中でも生徒有志の仮装行列は傑作揃いで、宛然現代世相風刺劇の感があった。また学院の一七号館校舎では、二十三、二十四の両日展示会が開かれ、美術部、写真研究部、映画研究会、放送研究部等の研究発表を展示し、鑑賞客を啓発した。更に二十六日には、午前十時から文化祭が挙行され、竹野学院長の挨拶に続いて、第一部音楽、第二部旧制学院出身の芥川賞受賞者尾崎一雄の講演ならびに演劇、第三部音楽演奏等のプログラムを展開し、聴衆を倦ますことなく、午後六時に至って閉会した。

 学苑挙げての記念大運動会は、予定日の十月二十四日が雨のため延期となり、二十六日戸山町グラウンドで挙行された。この日は雲一つない小春日和で、その上日曜日のこととて、早朝から家族連れの教職員や学生、それに一般の観衆が陸続として詰めかけ、さしもに広いグラウンドも立錐の余地がない程の盛況を示した。運動会の開始に先立ち、午前九時半から体育式が行われ、スキー部を先頭に三十三の部が入場し、各種リーグ戦や学生選手権大会に優勝した庭球部等九部に名誉賞状が贈られ、大浜体育局長の挨拶、島田総長の式辞、スキー部主将加藤菊造の選手代表宣誓、先輩代表河野一郎稲門体育会長の挨拶、ならびに校歌合唱があって、式を終了した。運動会は十時半に開始し、百足競走、煙草火付競走、三人四脚等学生創案の珍競走に観衆一同の臍を捩らせ、特に最終種目の仮装行列は、祝賀気分を更に盛り上げ、時の経つのを忘れさせた。かくて暮色漸く至る頃運動会は終了し、午後六時から恒例の「早稲田おけさ」踊りが始まり、隣接町内の有志も学生に交じり夜を徹して踊り狂った。

 かくて一週間に亘る記念行事は滞りなく終了したが、今回は学苑の規模拡張や修理改築に要する寄附金の募集はなく、七十周年記念事業としては各種出版物の刊行にとどまった。学苑が刊行し一般関係者に頒布したのは、A5判・二百十六頁から成る『早稲田大学七十年誌』で、上段には約三百枚の写真、下段には上段に対応する学苑七十年の歴史が略述されてある。また出版部は創立七十周年記念として「早稲田選書」を順次発行した。執筆者は学苑関係の諸教授で、昭和二十七年から三十一年にかけてB6判・二百頁前後の次の二十九冊が刊行された。

岩崎勉『倫理学要論』、戸川行男『自我の崩壊』、今和次郎『造形感情』、津田左右吉『日本の皇室』、和田小次郎『法学序説』、高木純一『現代技術は何を示唆するか』、青木茂男『原価管理と標準原価計算』、向坂道治『植物渡来考』、川副国基『島村抱月』、小栗捨蔵『日本紙の話』、北沢新次郎『資本主義・民主主義・共産主義』、坪内士行『坪内逍遙研究』、帆足竹治『現代生活と電気』、信夫淳平『国際政治論』、上坂酉三『商品学序論』、小松芳喬『英国資本主義の歩み』、今井兼次『建築とヒューマニティ』、斎藤一寛『フランス思想劇の成立』、島田孝一『米国鉄道政策研究』、森茂雄『野球守備篇』(Ⅰ・Ⅱ)、佐藤慶二『実存と愛と神』、大西鉄之祐『モダン・ラグビー・フットボール』、福井康順『現代中国思想』、印南高一『映画社会学』、鈴木幸夫『アメリカ文学主潮』、佐藤輝夫『系譜的にみたフランス文学』、飯島小平『シェイクスピア覚え書』、外岡茂十郎『家か個人か――身上相談と法律――』

 また大隈研究室では、膨大な大隈家寄贈文書の目録を『大隈文書目録』として編集し、図書館より十月に刊行した。B5判・二百九十五頁のその内容は、官庁関係文書・和文書翰・欧文書翰の三部より成る。この刊行は、明治・大正期の政治、経済、外交をはじめ広範な分野に亘る一級史料の目録として、学界に裨益するところ多大であった。

 なお、一一二六頁に説述する如く、校友会は学苑創立七十周年記念事業として校友会館建設資金三千万円の募金を行い、三十年十一月三日に校友会館が落成し、以来、校友・教職員の各種会合や宴席の場として広く利用されている。

四 学苑キャンパス再建への夢

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 学苑施設部に一枚の青写真が保管されている。年代は記入されていないが、建物配置の状況から見て明らかに二十三年末から二十四年半ば頃までのものであり、従来の学苑建物の配置図とはいささか趣を異にしていて、現在図ではなく未来図であるという点に特色がある。すなわち、学苑が実現を期した新制早稲田大学キャンパスの建設プランであるが、残念ながらこの案は実現しなかった。しかし、この構想の骨子は二十四年以降のキャンパス造りに生かされており、この点、夢のプランとして等閑視し得ないものを含んでいるので、それを第十一図、第十二図、第十三図に掲げよう(破線は実際の道路を示す)。

 当時の施設部長杉浦巴は次のように回顧している。

戦災をうけた学園の復興計画図は最少限の夢を盛って作ってからもう十年になる。その計画図は都電の車庫を取り入れ、ここに大体育館が描き込まれてある。今の電車道は高速度路線として拡張され、高田馬場から下落合に抜ける放射線としての都市計画路線である。大学はこれに正門をぶっつけて、大隈講堂の時計塔を中心に望んで一大緑の広場を設け、右に大体育館兼大講堂、左に大隈会館及庭園という構想であった。

(「記念会堂落成まで」『早稲田学報』昭和三十二年十二月発行第六七六号 三〇頁)

右に言う杉浦の主旨は全面的に第十一図に取り入れられている。ただ違うのが、「右に大体育館……」以下の部分である。ここには、右にテニスおよびバレーボールのコート、左に大学院研究室の建物が、現在の放射七号線寄りの大隈庭園内に描かれていることである(第十一図および第十二図)。原図を見ると、杉浦の言葉はその中の一部に触れているだけである。では、全体の構図はどういうものか。第十一図を見ながら更に説明を加えれば、次のようになる。

第十一図 本部キャンパス再建構想

 この図には、大学本部ならびにその周辺を含めて、広大な学苑キャンパスの線引きが示されている。すなわち、旧都電車庫(現在は都営アパートと都バス車庫の敷地となっている)からグラウンド坂下一帯の地域がこの中に含まれるのは

第十二図 大隈会館敷地再建構想

第十三図 戸山町キャンパス再建構想

勿論、安部球場と甘泉園(現在新宿区の公園となっている場所と、その丘上一帯の地域を含む)が直結し、本部キャンパスともつながるようになる。西は学苑から早稲田通りまでの地域(現在の西門通り商店街や住宅地)を取り込むという壮大なものである。これによって、グラウンド坂通りは学苑キャンパスを抜け、安部球場の外れから右折して下り、放射七号線に直交する形となる。なお学苑の旧都電道路寄りの境界線も、大隈庭園から面影橋まで、一本の線でつながるというものである。この図は東京都の道路拡張計画に合せて企画されており、中の一部には多少の変更があったとしても、おおよそこの図による道路が完成している。

 次に、この図で、その後のキャンパス造りと共通する数点を挙げてみよう。現在理工学部は西大久保に独立・分離しているが、この図では、学苑から早稲田通りまでの地域に、新たに共用教室と理工学部建築学科の校舎と電気工学科・機械工学科の実験室とを建てるように計画されていて、理工学部用の地を別途に開拓しようとの学苑の意図の一端がここに見られる。早稲田奉仕園を使用中の燃料化学科を北門脇の建物に移す計画も、図上に示されている。大学院研究室は、前述のように、現在の校友会館事務所の辺りに独立建物として描かれているが、実際には、後に位置を変えて旧恩賜記念館跡地に二十六年十月竣工した。完成当時、この建物は、大学院専用の教室を持つ独立建築として、都内私立大学間における嚆矢と見られていたが、これに先立つこと約二年有余、既にこの計画が立てられていたことを、この図面は物語っている。他方、第十三図の戸山町キャンパスに目を移すと、ここも都の計画路線に沿って隣接地を拡張し、主として運動設備を設けるようになっているが、これは実現せず、代りに記念会堂が建つことになる。

 こうした学苑建設構想は、杉浦の一文から推して、早稲田文教地区計画案(三一四頁参照)が完成した後頃から立案されたと思われるが、該計画案が学苑の外郭整備なら、まさにこの構想は内堀内部の整備計画である。両者はいずれも計画の段階で消えてしまったが、これが実現したならば、都の西北に、一箇所にまとまった広大な敷地を持つ早稲田大学が出現していた筈である。

五 キャンパス再建の息吹

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 新制早稲田大学発足以後の施設・校地の拡充ぶりは、戦前とは比較すべくもない刮目に値するものがある。勿論発足当時は、戦災で傷ついた建物の補修等、未だ完全に回復を見ない痛手が残っていたが、早稲田大学復興会等を通じて解消の努力が傾注されてきた。次表はその最初の五年間における施設・校地の変遷の概略を示すものである。

第七十七表 施設・校地変遷一覧(昭和二十四―二十九年)

 第三巻七五二―七五三頁に既述した如く、昭和十八年、諏訪町の学苑所有の土地および建物と交換して、理工学部石油工学科(昭和二十一年に燃料化学科と改称し、二十四年に第一理工学部の応用化学科に吸収)用に取得した早稲田奉仕園の土地および建物は、戦後、旧所有者の手に復した。すなわち、二十四年四月一日、早稲田大学と基督教新生社団(日本バプテスト伝道社団の後身)との間で、同年八月末日までに交換を完了する旨の返還契約が結ばれた。尤も、学苑側の施設移転が速やかに実現しなかったので、早稲田奉仕園本館のスコット・ホール等一部が両者の使用するところとなって残った。二十六年七月二十三日には、翌年三月までに現在使用中の建物を明け渡してほしいとの要請書が新生社団から総長島田孝一宛に提出されたが、これに対し大学は、新生社団へ更に建物の使用延期願を提出し、二十八年七月十六日、二十九年三月末日までの期間延長が双方において了承された。学苑は二十九年に九号館(現六号館)北側に後述の三階建応用化学科教室を増築し、スコット・ホールに残存していた施設をここに移して、早稲田奉仕園の土地建物をすべて返還した。一方、右契約により学苑の手に戻った諏訪町の土地建物に関しては、三十年十二月二十二日、財団法人東京都住宅協会と早稲田大学との間に土地売買契約が成立し、二千万円で学苑の所有から離れた。現在高田馬場二丁目の交差点を高田馬場駅方向に向う左手に都営住宅が建っているが、ここが、かつて学苑が所有していた諏訪町の土地である。

 二十四年五月、戸山町敷地に高等学院および工業高等学校使用の木造モルタル塗り二階建延三七四坪、一般教室十より成る校舎が竣工した。当時としては精一杯の建築であったこの一七号館は、その後四十五年九月の号館ナンバー変更により三四号館となり、取り壊される五十五年末まで戸山町文学部唯一の木造校舎として残存していた。この竣工に引続き、物理・化学実験室と生物学実験室の新築が着工された。戦後の、また新制大学の、鉄筋コンクリート建築第一号であるのを誇る歴史的建造物で、二十五年四月十日に完成した。現在文学部校舎として利用されている三二号館(旧一八号館)がそれである。着工後設計変更による増築が行われ、物理・化学教室の一・二・三階部分と階段教室および生物学教室の一階八〇八・四三坪が先ず完成し、二十七年十月には生物学教室の二・三階部分二七三・〇八坪が増築された。

 二十四年六月十日、坪内雄蔵所縁の熱海双柿舎が坪内夫人セン逝去(二十四年二月二十日)を機に財団法人国劇向上会から学苑に譲渡され、その原形保管と有効活用には大学が責任を持つとの覚書が交わされた。学苑はこれを研究・厚生施設として使用し、現在は「早稲田大学双柿舎」と呼んでいる。

 二十四年十月二十五日には、鉄骨スレート葺二四坪の理工学部土木工学科水工実験室が完成している。これは現一三、一四号館の間に建てられたもので、今はない。

 翌二十五年一月二十一日の維持員会は東伏見の学生寮三棟の買収を決定した。戦後、富士産業株式会社所有の施設を学苑が学生寮として借用していたものを、たまたま起った売却の話に乗って買い取ったのである。

 二十四年から翌年にかけて、戦災で焼失した大隈会館の復旧が行われた。この復旧は、教職員、学生、校友の要望にも拘らず、資金難のため見送られていたが、学苑維持員・評議員の前川喜作(大九大理)の全面的資金援助により、漸く着工の運びに至った。二十四年十月二十一日地鎮祭挙行、二十五年六月二十八日竣工、翌日開館式が行われた。木造平屋建、和洋折衷式、延一五〇・九六坪、総工費五百八十七万六百四十円を要した。なお、二十七年五月から九月にかけて、小倉房蔵(明四一大商)寄贈の、六、七百年以前の建築と推定される完之荘三五坪が庭園内に移築された。完之荘は飛驒の山村に残っていた民家の一部を小倉が東京渋谷の邸内に移し、雅号「完之」に因んで命名したものであるが、現在、広間のほか一室と土間ならびに屋根裏室があり、栗材の柱がすべて直接礎石上に立ち、囲炉裏と火棚と自在鈎など旧のままで、建築学上貴重な資料である。小倉は移築の完成を見ることなく七月に没した。

 戦災で大破焼失の被害を受けた喜久井町の理工学研究所の復旧工事は、二十五年十一月に着工、二十六年四月二十五日に竣工した。焼け残った建物の一部外壁を利用して完成させたもので、現在の四一―一号館一二三・五四坪、四一―二号館一七七・四六坪、四一―三号館五〇・六二坪がこれに当る。当時、理工系大学院校舎が完成するまで授業を行うために企画されたもので、更に二十八年二月には、四一―一三号館一五・〇〇坪が完成している。

 その他この頃には、文学部・商学部校舎の戦災復旧工事が行われるなど、戦後の立直りにも懸命な努力が払われ、早稲田大学復興会も、次節に後述する如く、二十六年七月末日一応その成果を挙げて廃止されるまでは、復興・再建・新生へのひたすらな歩みを続けていったのである。

 恩賜記念館は戦災により破壊されたままであったが、二十五年まで、大学はその再建・復旧のための設計費などを支出している。しかし再建計画はこの段階以上には進展せず、後日この場所に法文系大学院の建物が建てられることとなるが、ここに決定を見るまでは、大隈会館敷地の一隅に大学院校舎建設を予定していたのは、既述の如くである。

 二十五年から二十六年にかけて、新制大学発足後の本格的大工事が開始する。その第一着手が法文系大学院の校舎建設であった。早稲田大学は二十六年四月新制大学院を開設したが、開設に際して大学院の教室を具えた独立校舎を準備した大学は珍しかった。法文系の校舎は二十五年九月に、理工系の校舎は二十六年一月にそれぞれ地鎮祭を行い、二十六年十月二十一日に両者は同時完成を見た。

 法文系校舎は鉄筋コンクリート造地上五階建・地下一階、延一、三〇八・八四六坪で、従来の本部キャンパス建物に色調・構造を合せ、位置も旧恩賜館跡に建てられた関係からその名残を偲ぶ陸屋根形式の瓦葺となっており、総工費は五千四百九十五万余円を費やした。後年この建物は創立七十五周年記念事業の一環として増築され、大隈銅像に対する背面の部分が三十二年十一月三十日に完成、内には大隈記念室、小野記念講堂等が設けられた。増築部分は延面積一、〇〇六坪、鉄筋コンクリート一部鉄骨造四階建・一部五階であり、もとの建物に色調・構造も合せ、同じ陸屋根形式を踏襲した。総工費は一億一千四百三十二万円余。現七号館は以上二つの工程により完成したものである。

 理工系大学院は、右の法文系とは形式も異り近代的な明るさが異彩を放った。位置は、法文系大学院北側の道路を西門へ向った所の左手で、旧木造三階建の理工学部建築学科製図教室があった場所である。最初の計画では鉄筋コンクリート造四階建延九八五・五坪の筈であったが、のち更に一階を加え、ここに土木工学科研究室・実験室の二一七坪が増築され、地上五階を以て完成した。なお一階には、戦後理工学部本校舎前に暫定的に造られていた材料試験室が移転し、二階以上が工学研究科十二科の設備および指導研究室に充てられた。総工費六千八百二十三万九千余円。

 昭和二十七年は早稲田大学創立七十周年に当るが、二十七年から、この七十周年記念事業による校友会館が完成する三十年まで、鉄筋コンクリートの建造物が相次いで竣工した。大きく目につくものには、共通教室校舎、既述した戸山町一八号館(現三二号館)の生物学教室二・三階増築、応用化学科教室、学生会館、図書館増築がある。

 共通教室は専ら一般教育・語学の講義用の各学部共通の教室として、商学部校舎の西南に、大隈銅像に向って建設された。この地には戦災で焼失するまで理工学部の電気・機械実験室の一部と木工所、鋳物実習工場があったが、戦後は空地であった。工期は二十七年二月より十月まで、鉄筋コンクリート造一部鉄骨地上四階建、延一、二三八・六三坪(建坪四四九・六〇坪)、事務室、会議室、講師室などのほか、普通教室三十二(六十三名収容のもの三十と三十六名収容のもの二)と九百六名収容の大教室とがあり、大教室の内部は二階に分かれ、映写機二台を備え、演劇も可能であった。

 応用化学科教室は、前述の如く、早稲田奉仕園を使用していた応用化学科の施設を九号館(現六号館)北側突端の増築部分に移す予定で、二十三年から二十四年にかけての未来図にも「燃料科」として描き込まれていたものである。これの増築後、早稲田奉仕園の土地建物を基督教新生社団に全面返還することとなり、学苑との関係がここで一切解消したのであった。この増築部分は前後二回に亘って建設された。第一回は、鉄筋コンクリート三階建延三三六・〇四坪(ほかに非常階段二六坪)のもので、一・二階各七室、三階は記念室を含め九室あり、記念室は、特に石油工学科設置に際し資金百万円を寄贈した小倉房蔵を偲ぶものとして設けられた。着工は二十八年七月、竣工は二十九年一月である。なお第二回増築は、前記の部分を四階にするとともに、新たな四階部分を新築し、第一回建設部分に接続したもので、延五九九・九〇坪(地階と塔屋を含む)が増築された。この部分には物理と化学の講義室、実験室、ほかに研究室十三が設けられた。着工は三十四年十月、竣工は三十五年五月二十五日である。

 さて新制早稲田大学は、旧制大学時代と比較すると、学部数も学生数も増加し、学生の厚生面にも、大学施設に当然考慮しなければならなくなったので、学生に歓談・休息の場を設けるとともに、各学部建物地下の部室を一堂に収容し、今までの悪条件を解消する目的を以て、二十八年十月、学苑は学生会館建設の挙に踏み切った。竣工は翌二十九年五月である。敷地は南門筋向いにある早稲田大学出版部からの借地一四八・三七坪が充てられた。鉄筋コンクリート造延面積四六八・五坪、地階・中二階を具えた三階建で、地階から中二階までは学生の休憩室・談話室に充てられ、二・三階は大学公認の「学生の会」部室を主としたものである。また、二十三年に図書館内貴賓室に移されていた会津博士記念東洋美術陳列室が、一一四六頁に記述する如く学生会館一階に移って開室した。学苑当局はこの学生会館を、正門前に新校地を獲得した上で建設したいと考えていたのであったが、区画整理の関係から土地買収が思うように捗らず、敷地の狭隘を覚悟の上で建てたので、将来の第二学生会館の建設に施設面の不備を補うとの含みを持っていた。第二学生会館は創立八十周年記念事業の一環として実現したが、これについては次巻に説述する。

 二十九年六月には図書館増築工事が開始した。学苑における研究機関の中枢たる図書館も、収蔵図書が六十万冊を超え、利用者も増加したので、従来の施設のままでは狭隘となり、対応を迫られたからである。こうした諸要件を満たすための増築部分は図書館の南面に接続され、文学部(現法学部)校舎の向い側に建てられた。鉄筋コンクリート造の近代的な明るさを持っ建物で、一階は事務室、二・三階は座席数四百五十を有する学生閲覧室に充てられた。書庫は旧二階から七階までを延長・増築し、六層の新書庫を予定したが、建設当初は下部四層分を教室等に充て、書庫は二層であった。三十年二月に竣工したこの増築部分の総面積は四八〇・〇七坪(建坪一一八・二〇坪)である。

 校友会館は、既に戦時中に建設が企画されたものの、時局の進展に伴い無期延期のまま戦後に及んだところ、学苑創立七十周年を迎えるに当り校友間に建設要望の声が昂まり、年来の夢実現の気運が湧き起って、二十七年五月、校友大会の決議に基づき校友会が全国各地の校友に檄を飛ばし、一口千円、総額三千万円の募金に踏み切ったことにより建設が実現したのであって、鉄筋コンクリート造二階建、延面積二五六・八〇坪、校友会事務所、談話室兼社交場としての広いロビーのほか、校友の宿泊設備、学内外関係者の集会設備、結婚式場等を具えた近代的建物で、瀟酒な明るさを持つ開放的な集会場として、大隈庭園内、大隈会館に接続して建てられた。二十九年十一月三日に磯部愉一郎校友会総務委員の筆になる礎石が大浜信泉同会会長の手により定礎され、大隈庭園の造園工事と時を同じうして、工事は恙なく進捗し、満一年後の三十年十一月三日に竣工落成式を挙行した。

六 早稲田大学復興会の消長と寄附金募集

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 戦後の混乱期における早稲田大学復興会の活動については五二八頁以降に既述したが、昭和二十四年十月六日の理事会で復興会に結末をつけるよう決定されたのにより知られる如く、その募金能力には衰えが見られ始めた。尤も、復興会による募金が断念されたのでなく、十一月二日の理事会では、新制大学院発足までに、五年計画を立てて恩賜記念館の再建、教員の研究振興などにつき復興会に期待しようと話し合われたが、決定は保留された。翌二十五年一月五日には資金獲得方策審議のため臨時理事会が開かれ、復興会で申込済寄金取立てに努力し、大きな団体には係員を派遣して募金に当らせ、『早稲田学報』に地方校友会の活動状況を掲載して現況を把握し、募金の適任者を学苑に置くことを決めている。しかし、前年の十二月十五日の維持員会に寄附生命保険に関する件が提案されたのは、復興会方式による寄附金募集の困難が加速されたのを反映しており、苦境打開の一策であったと考えられる。

 この寄附保険制度は、河竹繁俊理事の説明によれば、アメリカで広く行われているBequest Life lnsuranceで、日本でも既に慶応義塾大学が中央生命と契約して実施しているものであり、戦災復興というよりも大学永遠の対策で、校友・在校生・父兄・一般篤志家に、学苑を受取人とする年千円以上の保険料を支払う生命保険に加入してもらい、契約期間は取敢えず一年とし、保険金(ただしその三割は遺族に贈呈する)と、保険料の三分および解約時の返戻金を学苑に寄附してもらうという内容であった。この提案は直ちに承認され、十二月二十二日付を以て朝日生命保険相互会社と契約した。しかし、二十五年一月より十月までの契約件数・契約高・一件当り金額は、千五百二十四件・四千八百七十万円・三万円で、見込高の二万件・十億円・五万円には到底及ばなかった。契約更新に先立ち、この実情を踏まえて朝日生命側は、寄附保険の場合どうしても保険金が少額となる、そのため外務職員の募集意欲が乏しい、また校友名簿が不正確という三点を挙げて、現行制度の不備をつき、寄附保険契約と普通保険契約との一本化、すなわち保険契約に当り、学苑に寄附する保険金額を契約者の裁量に任せる方法を提唱した。理事会は契約期間の一年延長を決めたが、寄附保険と普通保険との割合を四対六程度として一本化することに固執した。しかし翌二十六年二月二十二日、結局朝日生命の提案を呑むことに決定し、最低寄附金額を、保険金十万円未満の契約の場合は三万円、十万円以上二十万円までは三万円以上、二十万円以上三十万円までは四万円以上、三十万円以上五十万円までは五万円以上、五十万円以上の場合は保険金額の一割以上とした。それでもなお十分な成果は得られなかったようで、結局三年目以

第七十八表 早稲田大学復興会収支明細書(昭和26年7月31日現在)

降の契約は継続されず、この制度は廃止された。

 こうして新たな構想を立てる必要に迫られた学苑は、復興会の廃止と資金部の設置とに踏み切り、昭和二十六年九月十二日の評議員会には「早稲田大学復興会は昭和二十六年七月三十一日限りこれを廃止し、常設機関として資金部を昭和二十六年九月十五日より設置する」件が提案された。総長は、復興会は既に所期の目標一億円に近い約九千七百万円を集め得たこと、もはや復興会の名称が時勢にふさわしくないことを挙げて、東京都に届け出た寄附募集期間が満了した七月末を以て復興会を廃止したと述べるとともに、資金拡充は今後とも最重要課題であるから、学苑の常設機関として資金部を設置し、常設的に資金拡充に努めたいと提案して、承認を求めたのである。このとき「早稲田大学復興会決算報告書」と「早稲田大学復興会収支明細書」が評議員に配付されたが、復興会の果した学苑への貢献を明らかにするため、右の収支明細書を第七十八表に掲げよう。ただし、決算報告書の「註」には「寄附金申込額五六、六七八、〇二九円〇九、寄附金納入額四六、〇〇一、〇九〇円四八、寄附金未収入額一〇、六七六、九三八円六一」と記されている。未収入金が申込額の一九パーセント近くに達したのは、二十五年六月勃発の朝鮮戦争による軍需景気を梃子に日本経済が漸く立直りを見せたにせよ、未だ十分とは言えない経済事情を反映して、復興会の運営が困難であったのを示している。従って、寧ろこの程度の未収にとどまったのは、関係者の尽力の賜と評価すべきであり、総長も提案理由説明の中で、原安三郎、磯部愉一郎両復興会副会長以下関係者に深甚の謝辞を呈したのであった。

 資金部設置が承認されると、翌二十七年三月十五日付で丹尾磯之助が庶務部長・第二事務部長兼任のまま資金部長に嘱任され、活動に入った。昭和二十七年度の寄附金は百五十二口・六、三七〇、三七二円(納入額三、九三八、七〇六円)で、また復興会へも九、六三九、七八七円(納入額一〇、〇〇六、四七一円)が計上されている。二十八年度には寄附金申込額は六、四三二、六一八円(納入額六、四二八、六一八円)、寄附未収金納入額三二一、五一〇円(うち復興会分一七七、五一〇円)であった。

七 教員任免規則と学部長会

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 戦前の教職員任免規程は昭和二十二年に戦後のあわただしい状況下で全面改正され、教員任免規程と職員任免規程とが制定されたが、前者は、新制大学設置に即応するためと、文部省の大学設置委員会で審議された大学教員の嘱任基準を考慮に入れるために、改正が必要となり、二十四年度早々から委員会を設けて作業に入り、八月に成案を得た。この新改正案は、学部長会議と理事会の審議を経たのち、十月十五日の維持員会で可決され、今日の教員任免規則の原型となった。その要点は、従来、大学、高等学院、専門部、高等師範部等につきそれぞれ嘱任条件を規定していたのを、新学制に準拠した大学・高等学校・工業高等学校についてのみ規定し、他は当分の間大学の規定を準用するよう整備し、従来の趣旨を誤解のないよう明瞭に規定したことで、内容的には、教員の嘱任・休職・解任は所属部科長の申請に基づいて大学が行っていたのを、所属学部または体育部協議員会の決議にょる旨明記し、在職五年未満教員の六ヵ月を超す欠勤の場合の休職命令、体育実技担当教員の満五十五歳定年、教授会における教員解任決議の要件として三分の二以上の賛成規定などが眼目であった。規程の名称が規則に改められたのは二十六年七月である。

 ところで、この頃の規則の休職および解任に関する条文に「教職不適格者としての判定を受け」云々の字句が見受けられる。敗戦後暫くの間、採用または解任に関しては、学部決定の人事の理事会通過を前にして、四三七頁に述べた如く、人事委員会への諮問という手続を踏んでいたが、これとは無関係に、三〇五―三〇六頁に説述したように、GHQ下の文部省は戦争責任者の教育現場からの排除を目指して学校・大学に全教員の適格審査の実施を求め、それを承けて学苑では教員適格審査委員会が設けられ、各人につき膨大な調書が作成されたのであり、教員任免規則にもこの歴史的事情が反映されているのである。のち二十五年七月以降の共産主義者の教職追放(レッド・パージ)にも一役買うことになったが、二十七年四月二十八日対日平和条約が発効し、日本占領が終り、GHQ等も廃止され、占領政策の落し子である教職適格審査制度そのものが同日午後十時三十分限りで廃止されるとともに、学苑の教員任免規則から、「教員不適格者としての判定を受け」云々の字句は、同年六月の同規則改正により四月に遡って消滅したのである。一方、人事委員会は、諮問機関としての性格を明確にするため二十六年十一月に理事が委員を兼務できないよう制度を改めた上で、活動を継続していたが、学部の人事決定を尊重するためか、それともチェック機関として不人気だったためか、あるいは諮問の手続が不要と考えられたためか、二十八年七月以後その存廃が理事会で討議され、十一月二十六日に、総長が当時の人事委員会委員長と懇談して結論を出すことに決定した結果、遂に十二月十日付で廃止に至ったのである。

 ここで、前章で言及した学部長会議の変遷に触れておこう。早稲田大学と改称して大学部と高等予科、専門部、高等師範部等が置かれた頃の学苑はまだ機構が簡単で、例えば専門部各科の代表者は、第二巻三九三頁に述べた如く、大学部各科長の兼務であった。大学令による大学に昇格すると専門部は付属学校となり、各科に教務主任が置かれるようになったことは、第三巻八九頁に既述した。因に専門部長が置かれたのは大正十三―昭和五年、専門部各科の教務主任が科長に改められたのは昭和二年七月のことである。こうして教務上の事項が各学部、各科で個別に扱われるようになると、相互に共通する問題処理のため、各代表者が一堂に会して協議する必要が生れてくるのは、当然の理である。大正十三年九月、各学部二名ずつで構成される学部協議委員を置いて「各学部ニ亘ル事項ヲ審議スル」ことが定められた(第三巻一六三頁参照)が、この制度は昭和六年一月に廃止され、以後、全学に亘る教務上の打合せのためには、総長が学部、専門部、高等師範部の各部長および教務主任ならびに第一・第二高等学院長、専門学校長を招いて「懇談会」を開くのが通例となった。いわばインフォーマルな形で水平的連絡および協議がなされたわけであるが、当時は総長から一方的に「上意下達」の形で意見が述べられることが多かったようである。ところが、四一四頁で触れたように、敗戦後の民主主義的校規改正に際し部科長会が誕生して制度化され、以前とは比較にならないほど大きな権限と重要性を付与されるに至った。一〇七七頁に説述した如く、新制大学への切換えで専門部、高等師範部、専門学校等の廃校決定に伴い、その名を学部長会議と改めたが、昭和二十五年に学部長会議規程改正作業が進められ、翌二十六年十月十五日の評議員会で、今日の学部長会が拠って立つ左の学部長会規程が承認、決定された。

早稲田大学学部長会規程

第一条 本大学に、二つ以上の学部に共通する教務に関する事項を協議する機関として、学部長会を置く。

第二条 学部長会は、総長及び各学部の学部長をもつて、これを組織する。但し、早稲田大学学部規則第二十条第三項の規定による学部長代理は、この規程の適用に関しては、これを学部長とみなす。

2 理事は、何時でも、学部長会に出席して、発言することができる。

3 学部長会は、必要に応じて、体育部長、早稲田大学高等学院長、早稲田大学工業高等学校長及び附属機関の長に対して、学部長会に出席して、発言することを求めることができる。

第三条 学部長会は、左に掲げる事項を議決する。

一 研究及び教育に関する基本方針

二 教則又は学則若しくは学部規則の制定、改廃及び運用に関する事項

三 大学の諮問事項

四 その他教務に関し必要と認められた事項

第四条 学部長会は、総長がこれを招集し、且つ、主宰する。

第五条 学部長会は、定時又は臨時に、これを招集する。

2 定時学部長会は、休業中を除き、毎月一回、臨時学部長会は、必要に応じて、それぞれこれを招集する。

3 総長は、二つ以上の学部から理由を明示した請求があつたときは、遅滞なく、臨時学部長会を招集しなければならない。

第六条 学部長会は、その構成員の過半数が出席しなければ、これを開くことができない。

2 学部長会の議決は、出席した構成員の過半数による。

3 学部長会の決議は、各学部長により、すみやかに当該学部の教授会に報告されなければならない。

第七条 学部長会の決議は、三つ以上の学部の請求があるときは、これを再審議に付さなければならない。

2 前項の再審議の請求は、学部長会の決議のあつた日の翌日から二週間以内に、書面又は口頭をもつて、総長にこれを申し出でなければならない。

第八条 学部長会は、必要に応じて、大学院委員会と連絡をはかるため、学部大学院合同会を開くことができる。

第九条 学部長会に幹事一人を置き、教務部長をもつて、これに当てる。

附則

1 この規程は、昭和二十七年一月十六日から、これを施行する。

2 昭和二十一年九月十七日制定の「早稲田大学部科長会規程」(昭和二十四年六月学部長会議と改称)は、この規程施行の日から、これを廃止する。

3 本大学理事会が、この規程を変更するには、学部長会の決議を経ることを要する。

4 旧制学部の存続する間は、第一条の学部には、旧制学部を含むものとする。但し、同一人が、新制及び旧制の学部長を兼務する場合には、その議決権は、これを一箇とする。

 その後、工業高等学校の廃校に合せて、三十九年六月、第二条第三項の「体育部長、早稲田大学高等学院長、早稲田大学工業高等学校長」は「体育局長、学校長」と改められた。学部長会の機能は三十年代前後より活発化し、それまで単に陪席を許されていたに過ぎなかった教務主任も、この規程に拘らず発言を黙許されるに至った。こうして多少行き過ぎの面もあったけれども、学苑の民主的運営が、この面からも軌道に乗るようになったのである。

八 助手・副手制度

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 次に、助手・副手の制度は、この時期に面目を一新したのであった。

 学苑に助手制度が設けられたのは、第三巻一六六頁に既述したように、大正十五年七月、すなわち、大学令による早稲田大学発足後最初の高等学院入学者が学部を卒業した年のことであった。一学部三名以内を原則とし、任期は一年(再任可能)で無給、ただし大学院に籍を置く者は学費を免除された。法学部で初年度の助手に選任された野村平爾(のち教授)は、助手生活を次のように語っている。

第一回の助手を選ぶときには、教授会で相談して、成績の良さそうな者を呼んで、「おまえ学校に残って勉強する気があるか。ただし給料はやれないよ」というようなことを聞かれたんです。それでやってもいいというものを三、四人選んだということです。……法学部が「おまえは刑法をやれ」「おまえは民法をやれ」というふうに研究を命じたものです。多少こちらの希望もあったわけですけれども……。……最初は民法、刑法、商法、憲法の四つを三ヵ月ずつ指導され、その終わりに必ずレポートを提出させられました。たまたま商法に提出したレポートが「英国会社法に於ける目論見書制度」という論文になって『早稲田法学』(九巻、一九二九年)に載せられた。後になると汗顔のいたりのレポートなんだけど……。これは三ヵ月ほど英法の原書を読みながら書いたレポートですが、寺尾〔元彦〕先生が「ああこれはこれで結構だから『早稲田法学』に載せる」といってそのまま載せられてしまったのです。 (『民主主義法学に生きて』 二一―二三頁)

有給になったのは昭和十六年六月からである。昭和二十二年には助手の定員が文科系学部五名以内、理工学部十名以内と拡大され、二十四年には十一月十七日の助手規程改正により文科系第一・第二学部を通じて十名以内、教育学部五名以内、第一・第二理工学部は十五名以内が原則となった。助手が定員に達することは稀な学部もあったにも拘らず、その後も定員の拡大が行われたし、また待遇も改善されたので、教員養成に欠くべからざる制度となっている。

 戦前教務補助の名で学部により、また時代により置かれたことのあるのに近いものが、副手として新たに各学部に置かれるよう理事会が考慮するに至ったのは、新制早稲田大学発足後間もない昭和二十四年六月二日であった。九月八日には、各学部に五名(差し当り三名)以内の副手を当該学部・大学院生の中から委嘱して学生の出席点呼等の教務上の補助に当らせ、給与は月三千円程度を目標とすることを骨子とする「副手規程要綱」をまとめた。これを、前記の助手規程改正案とともに、学部長会議内に設けられた学部助手規程及び副手規程起草委員会に示して両規程案の作成を依頼し、委員会は十一月九日付で総長に答申した。理事会はその一部を修正した上で、同月十七日、新しい助手規程と副手規程とを決定した。この副手規程では定員を各学部十名以内と定めたが、この年十二月一日付で採用された副手は各学部三名ずつであった。なお、委員会の答申には実収三千円の副手手当の支給と大学院授業料の免除とが希望条項として添付されており、翌二十五年五月十八日の理事会は、臨時手当千円を支給し、授業料は徴収すると定めたが、同月三十一日の理事会でこれを改め、補給金として文科系七千五百円・理工系八千五百円を九回に分割支給して、授業料に振り替えるようにした(中途退任の場合は、その後の授業料は本人の負担となる)ので、委員会答申の希望条項の精神は活かされたのである。

九 奨学基金

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 新制早稲田大学発足三ヵ月前に設けられた早稲田大学奨学基金(四四一―四四二頁参照)は、大学からの補助金と寄附金とに基づき、第二学年生以上を対象に授業料相当額を支給し、日本育英会との重複受給を認めず、原則として当該年度限りとした。奨学生数と交付額とは第七十九表に掲げるように着実な歩みを続けたが、当該年度限りと謳われはしたものの、実際には、二年間継続して採用された者は三割、三年間継続して採用された者は二割に達している。

第七十九表 奨学金(昭和24―29年度)

(各年の『定時商議員会学事報告書』より作成)

 戦時中の昭和十八年十月に永井柳太郎を会長に戴いて創立された財団法人大日本育英会は、翌年二月の大日本育英法の公布により四月からは特殊法人となり、戦後、昭和二十八年八月の同法改正で日本育英会と改称したが、学苑生はそもそもの創立時より同会の恩恵を受けている。第一回貸与生に選ばれた昭和十八年十月文学部入学の大塚野百合は、奨学金のありがたさを次のように記している。「五人の子どもをかかえたつましい牧師の経済状態では、私の進学を支える余裕もないままに、早大に飛びこんだだけに、私の学問への情熱を支える物質的基礎はゆらいでいた。ところがさいわい、入学後、間もなく育英会が発足し、第一回の奨学生募集が発表された。それこそ救け船とばかりにさっそく応募した。たしか、女子の大学生で採用された最初ではなかったかと思う。当時の金額で七十円、毎月支給されることとなった。大学卒業生の初任給が七十円という時代であったので、これは相当な金額であった」(日本育英会『日本育英会十五年史』二八一頁)。しかし戦後インフレの進行に育英会の事業は追いつけず、「昭和二十二年十月を境にして、育英会が、創設以来たてまえとしてきた、必要にしてじゅうぶんな金額を貸与する方針を、維持できなくなった」(同書一〇七頁)。すなわち育英会の奨学金だけでは生活が成り立たず、極端な例であろうが、輸血協会に出入りして自分の血液を売っていたある奨学生は、「学校も新制は出欠がウルサイが、育英資金だけではたりないから、月二度六〇〇ccの給血(日本人は月三〇〇ccが限度という)は身体に参つて、思うように出席も出来ません」(『早稲田大学新聞』昭和二十五年一月二十一日号)と、苦境を訴えている。因にこの頃、都市勤労者の平均所得月額は一万三千円強、自宅通学者を除く大学生の生活費は四千円ないし六千円ほどであり、日本育英会奨学金は千八百円が上限であった。その後も日本育英会は一人当り貸与額の増加よりも奨学生数の増加に力を注ぎ、学苑でも、第七十九表に見られるように、その恩恵に浴する者の数は着実に伸びていった。

 学苑生が恩恵に与った奨学金は、ほかにも、県・市・町や東京都戦没者遺族や企業の各種育英団体の奨学金がある。これらは大きく地方公共団体と公益法人と営利法人とに分けられるが、給与・貸与の別も、金額も、採用条件も、千差万別である。実際に学苑生を採用したのは、二十五年度には山口県と石川県の二団体に過ぎなかった。

十 大浜総長の登場

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 三選された島田総長の任期は二十九年九月に終るので、次期総長を選ぶ総長選挙人会が同年九月二十二日に開かれた。このとき同年改訂の新校規は未だ文部大臣の認可を得ていなかったが、九月一日から施行を予定していたので、この選挙は新校規ならびにその付属規則である新総長選挙規則に従って行われた。そのため今回は選挙人の数が百四十三人(当日欠席六人、出席百三十七人)に膨れ上り、しかも、学内と学外の比率が従来の二対一が三対二に変っていた。この選挙に際し総長候補者として下馬評に上っていたのは、大浜、北沢、土岐善麿(明四一大文、昭二二―三一年文学部講師。日比谷図書館長、学士院賞受賞者。歌人としても一流の評価を得ていた)の三人であって、島田総長は、当日の総長選挙人会で「八年三箇月の間、不肖総長を勤めて参りましたが、先般来からもはつきり申し上げております通り、今回は新しい御立派な総長を選挙していただきたいのであります」と述べたように辞意が固く、今回は候補者中に含まれていなかった。二十九年九月二十二日付『早稲田大学新聞』は、前回同様、この三人の「総長候補者」としての抱負と意見とをトップ記事に掲げた。今度は大浜も、「島田総長がはつきり辞意を表明したので、校友の間から『やつてみろ』といわれた。僕も、島田総長が出ないならばやつてみようと思つている」と出馬の意向を示し、土岐も「もし選ばれれば……やつてみようという意志はあります」と述べている。北沢の発言にはこの種のものはないが、非常に具体的に「抱負」を語っている点、前回同様出馬の意志が明瞭に読み取れる。学生運動については「話合い」を強調する点で三人は一致しているが、前回同様大浜は「小児病的になるのはいけない」と条件を付している。また国庫補助の問題については、北沢が、あてにしない方がよい、私学は寄附で賄うのが本筋であるとの意見を開陳しているのに対して、大浜は、国庫補助を受けても私学の自主性は守られるとし、特に私学の理科系統にはもっと多額の補助をもらいたいものだという趣旨の発言をしている。一〇七一頁に既述したように、大浜は私立学校法立案の際に活躍した経験があり、自信を持っていたのである。また北沢が短期大学・医学部の創設、複数の高等学院の設置、教職員給与の増額、年金制度の充実等具体的・積極的な意見を述べているのに対し、大浜は「学内のことは……だれが総長になつても根本的には変らないし、財政も大体ワクが決まつていて、そのなかでやつていくのだから、そう変化はない。……ただ、雰囲気の問題として、官僚的な、落ち着きのない雰囲気か、民主的な朗かな雰囲気かというような差は出てくる」と漸進的な改革をほのめかすような発言をしている。土岐は内部事情に暗いゆえ、「現在の目的は大学を企業体として発展させることではないでしよう。……今後は『大学らしく』なるようつとめていかなければならないと思います」というように抽象的な理想を述べるにとどまり、その人柄のよさを示しているが、具体的な抱負は提示していない。

 さてこのような三候補を抱えて、総長選挙人会は石橋湛山を会長に選び、投票に入った。その結果は投票総数百三十七票(無効票・白票なし)で、得票者は大浜、土岐、北沢、久保田明光であったが、大浜信泉が八十五票を得て過半数を上回ったので、当選が確定した。大浜は「分に過ぎた大役と存じますが、多数の御支援でありますので、謹しんでお受け致します……。大隈侯建学の精神に従い早稲田大学が益々発展するよう努力致したいと存じます」と挨拶し、総長就任を受諾した。こうして島田から大浜への交替が行われたのである。ところで、この選挙人会の顔触れについて前掲の『早稲田大学新聞』は、学外選挙人数すなわち学外票が全体の四〇パーセントに達し総長選挙の鍵を握っていることと、学外選挙人は政界・財界の大物であることとを指摘し、学外票はまとまって動く可能性があるのではないか、総長の学校行政に学外票を持つ人々の影響が出てくるのではないかとの危惧を表明している。学外選挙人の票が、あまりに積極的で急進的な意見を持つと看做された北沢や、人格者ではあるが行政手腕に不安があると考えられた土岐を避けて、島田路線の延長上にあり、常識的で漸進的な、しかも学校行政に関してはヴェテランで優れた手腕を持つと評価された大浜へ集ったと考えるのは、必ずしも不当ではなかろう。

 退任した島田は次のような挨拶を『早稲田学報』(昭和二十九年十月発行第六四四号)に寄せた。

私が総長に就任したのは、昭和二十一年六月で、戦後の混乱はまさにその極に達していた頃であった。その当初は、あらゆる面において困難が伴い、各地校友会においても、校友の住所移動、名簿の紛失等により、全く潰滅の状態に瀕していた。まずこれらを戦前の状態に復活することが私の念願であった。それから足掛九年、全国校友のかぎりない母校愛に支えられて順調に発展していったことはいうまでもない。現在では、戦前をしのぐ盛況をもたらし、大阪、神戸にみられるごとく、支部以外の校友の集会所、ワセダ・クラブが設置されたことなどは、その証拠である。私も万難を排して各地校友会の招きにできるかぎり応じ、地方校友との接触を保ってきた。今までに訪れないのは、全国で四、五県を残すのみとなったほどである。かくして、校友と大学との緊密な協力のもとに、戦後の苦難期をのりこえ、今日の隆盛をみるに至ったことは、私のこの上もない喜びとするところである。大学自体にとっても、三分の一も失った戦災校舎の復興が最大の急務であったし、また二十四年の新制大学への切換え、二十六年の大学院の設置などは、私の在任期間中における重大な仕事であった。このたび、公選により大浜新総長が就任されたが、新総長を中心として、教職員、校友、学生一致団結して早稲田大学の伝統をまもり、より以上の発展を望むものである。終りにのぞみ、無事大任を果しえたことは、ひとえに全国校友各位の御支援の賜と存じ、ここに深く感謝する次第である。 (三頁)

 島田は終戦の翌年、最も困難な時期に総長に選ばれ、苦心経営に当り、新制早稲田工業高等学校、新制学部、新制高等学院、新制大学院、体育局等を新設し、また教旨をはじめ校規ならびに付属規則を改正して、新時代に即応する態勢を整えると同時に、理工学部木造校舎、高等学院校舎、工業高等学校校舎、大隈会館、共通教室、第一学生会館等を建設して、戦災を受けた学苑の復興に献身した。当時は交通事情が極端に悪く、旅館に泊まるにも米持参でなけれぱならず、入浴さえままならぬという状態であったが、島田総長は校友会に協力を求めるため、北は北海道から南は九州まで全国各地を東奔西走し、席の温まる間もなかったと、当時総長秘書であった福田英雄(昭九政)が述懐している(同誌昭和六十二年六月発行第九七三号四八頁)。また島田は、戦後次第に激しさを増し、政治色を帯びた学生運動に対しては、常に毅然たる態度で臨み、筋を通そうとした。しかし時にそのような当局の処置が、かえって騒ぎを拡大し、学生の犠牲を生む原因になったとの非難を蒙ることもなかったとは言えなかった。

 島田の努力で復興した学苑は二万五千の学生を擁するマンモス大学化し、入学志望者の激増とともに狭き門の嘆きが高まるとともに、多数の学生を抱えてその教育をいかに行うべきかについて反省し、新しい方向を切り開かなけれぱならなくなっていたし、教職員の待遇改善、研究室の整備、研究費の増額等も緊急を要する問題となってきた。学生運動への対応も、従来の一本調子の方法ではすまなくなってきた。島田の八年三ヵ月に及ぶ総長在職中の努力と功績とは勿論大なるものがあったが、今や新しい人物の登場と、新しい視野からの力強い施策が期待されていたのであり、そうした輿望を担って、ここに大浜新総長が登場したのであった。