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第八編 決戦態勢・終戦・戦後復興

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第十五章 文壇と早稲田

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一 継承と変革

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 「大正八年度の文芸界」を概観した芥川竜之介が、「新早稲田派」として視野にとどめたのは、広津和郎谷崎精二、相馬泰三、葛西善蔵ら、大正元年九月創刊の『奇蹟』に拠ったグループであり、加えて吉田絃二郎、加能作次郎、宇野浩二、加藤武雄、水守亀之助、須藤鐘一の六名だった。葛西のような聴講生を含めて、学苑卒業もしくは在学の時期で言うと、ほぼ明治末から大正初頭に亘る面々である。芥川は、同年度新進作家の雄、宇野浩二がこの派に新たな光彩を与えたのを特に注目したが、「蔵の中」による宇野のデビューに力のあった広津和郎は、「大正八年は宇野あたりを最後として、いわゆる大正期の作家と云われている人達が大体出揃つた年であつた」(『年月のあしおと』二六七頁)と回想し、無名の、若い世代の、しかしきわめて意欲的な胎動が始まっていたのを裏書きしている。

 水谷勝を編集兼発行人として『地平線』が創刊されたのは大正八年四月である。戸川貞雄、浜田広介、長谷部孝、岡田三郎ら、大正七年英文学科卒業組が同人として名を連ねた。この年学苑に入学し、毎月『地平線』を耽読したという浅見淵は、「涯なき路」をはじめとする岡田三郎の兵隊小説や、新鮮な筆触の中にも一脈の暗さをとどめた「監獄附近」などの好短篇を印象に残しているが、別に彼は、早稲田の場合、作家的才能を賭けて同人雑誌へ結集するという「伝統が『地平線』から始まっているように看取される」(『史伝早稲田文学』一二六頁)とも述べている。このグループの主要メンバーは同年九月『基調』を創刊、新たに、大正七年英文出身の仲間だった吉田甲子太郎、柏村次郎、大槻憲二、長谷川浩三らを加えて再出発したが、翌十月に出た『十三人』などとともに、早稲田派同人誌の歴史に一時期を画し、やがて大正・昭和の文学界に名を成す逸材を生むことになった。

 『十三人』は同人十三名に因んでの命名だが、『地平線』や『基調』の仲間より一年後の大正八年卒業組で、浅原六朗、柏通明、下村千秋、高辻秀宣、木内高音、近藤弥一、坂本義朗(義男)、堤寒三(幹蔵)、牧野信一、松原(松村)勝一、野村一意、宮広霊一、武藤直治が創刊時のメンバーである。その後二、三の出入りがあったが、編集発行人の下村を中心に、浅原や武藤らの執筆が目につく。作家として名を成すのは浅原や下村が早く、後年盛名を馳せた牧野信一は、あまり熱心な同人ではなかったらしく、第二号(大正八年十二月)に発表した「爪」が浅原の「鉄の扉」などとともに島崎藤村に認められ、激励されたのが、牧野を文壇に引き出す役割を果したのであった。姦通事件を扱った「ねぐら」(大九)を志賀直哉に褒められて自信を得た下村の場合と併せて、記憶にとどめられる。

 若い世代の登場を見る間に触れなければならないのは、『新青年』の創刊(大正九年一月)と森下雨村(岩太郎)の存在とである。『新青年』は博文館発行の商業雑誌だが、初代編集長森下は明治四十三年英文学科の卒業で、かなりの先輩になる。彼は読物に新機軸を出そうとして、クロフツの『樽』をはじめコリンズやフレッチャーらの翻訳をし、後には「深夜の冒険」(大十四)、『白骨の処女』(昭七)、「丹那殺人事件」(昭十)ほかの小説も書いたが、探偵小説を積極的に紹介して日本における発展を促した功績が大きい。特に、送られてきた江戸川乱歩平井太郎、大五大政)の「二銭銅貨」「一枚の切符」を認め、大正十二年四月と七月の『新青年』に掲載して、乱歩を中心とする探偵小説隆盛の道を拓いた。乱歩はその後、名探偵明智小五郎登場の「D坂の殺人事件」(大十四)ほかの話題作を相次いで発表し、職業作家としての地歩を固めた。昭和二年には自ら『新青年』の編集長となったが、雑誌は昭和二十五年七月まで続き、全四百冊に及んだ。この間の早稲田系執筆者としては岡田三郎、戸川貞雄、水守亀之助らの名が見られるが、誰よりも平林初之輔(大六英文)の存在が注目される。「民衆芸術の理論と実際」(大十)、「唯物史観と文学」(同)などでスタートし、左翼の理論家として名を成す平林は、探偵小説に対する造詣が深く、批評家としてその発展に貢献した。またユニークな実作者でもあり、探偵小説『平林初之輔集』(昭四)などを残した。

 『新青年』創刊当時の早稲田派の動静は、「初年兵江木の死」(大九)や「或兵卒の記録」(同)などで非人間的な軍隊の内側とその犠牲者の悲劇を描いた細田民樹(大四英文)や、「空骸」(大七)でデビューし、「死を恃んで行く女」(大八。のち『死を恃む女』)などで注目されつつあった細田源吉(大四英文)らを含めて、先輩達の活躍が目立つ。こうした状況の中で、大正九年四月、大学令による学制改革があり、高等学院の新設や新制文学部の誕生、高等予科の廃止(十一年)等、旧から新への移行期に、早稲田派の伝統を継承し、やがて大正・昭和の文壇に名を成す面々が、こもごも顔を出してくるのである。

二 蠢動、そして血戦の時代

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 浅見淵は「最後の高等予科」の中で次のように述べている。

高等予科の最後の学生は大正九年に入学した者である。僕は高等予科の二年のとき原級にとどまり、この連中と一緒になったのである。三好十郎、神部孝、衣巻省三、そういう連中がそのクラスにはいた。……おなじクラスに三年四年と神輿を下ろしている豪傑も相当いた。しかし、そんな連中も愈々その年かぎり高等予科が消えてなくなり、大学へすすまぬかぎり廃学せねばならぬとなると、徴兵関係やなにかでそう暢気をきめこんでおるわけにもいかなかった。学期試験になると、渋々でてきたわけであるが、そういう連中のなかで、僕の記憶にのこっている人物に横光利一がいる。……そんなとき、たいてい富ノ沢麟太郎と一緒だった。 (『浅見淵著作集』第三巻 一五九頁)

学制改革に伴う動きや雰囲気を伝えて興味深いが、そうした先輩達の中へ尾崎一雄が登場する。『文章世界』に投書し、加能作次郎や土岐善麿の選で入賞の経験を持つ尾崎は、法政大学在学中だったが改めて新設の早稲田高等学院に入学したのである。最も面白い時代であり、生涯を決めることになったという高等学院時代を経て、作家として立つのは後のことだが、回覧雑誌『極光』を出した同期生には、山崎剛平、山村太郎、岡沢秀虎、杉阪幸月、京口元吉らや、二学期に三高から編入した村田春海がいた。『極光』の仲間ではなかったが、村田に近い小宮山明敏も同期である。友田恭助(大七予科入学、九年中退)主宰の演劇朗読研究会での坪内逍遙の指導ぶりや、『極光』に対する片上伸の批評添削の熱心さを振り返って、尾崎は高等学院創設時の大学側の意気込みを語っている(『あの日この日』上三二頁)が、教授達の積極的な姿勢に刺戟されて若い才能が芽生え、翌大正十年併設された第二部(翌年、第二早稲田高等学院と改称)ともども、早稲田の文学の温床の観がある。その開花・結実の様子は後述するが、この年九月、大正九年英文学科卒業組の鈴木十郎、伊藤貴麿、近衛直麿、浜野英二らにより『象徴』が創刊された。先の『十三人』などに続き、十一谷義三郎らの『行路』をはじめ同人雑誌の増えつつあった時期だが、作家としては、都会的な風味の『カステラ』(大十三)などを残し、芥川竜之介の知遇を得ることになった伊藤の存在が記憶される。

 高等学院在学生の蠢動を促す季節が到来しつつあった。大正十年三月、高等学院(翌年より第一早稲田高等学院)『学友会雑誌』が創刊され、第一号には小説として杉阪幸月の「黒鯉の眼」、小宮山明敏の「ある未定稿」が載り、京口元吉が戯曲「三詩人」を寄せ、石田日生が「妙法とは何ぞや」、雑誌部委員中谷博が「西鶴の短篇から」という論文を書いた。当時肋膜炎のため帰郷していた尾崎一雄は、病床でこの号を読み、百首ほどをまとめて発表した同部委員都筑省吾(昭四国文)の短歌に何より驚いたという。『極光』の仲間の執筆に力を得た彼は、ひそかにライヴァル視していた小宮山の作品がさほどでないのを知り、柳純三というペンネームで第二号(大正十年七月)に「田川君の話」を寄せた。『極光』に発表して岡沢秀虎や片上伸らの評価を受けた作品で、一部を削り清書したものだった。『学友会雑誌』には雑誌部長山口剛や野々村戒三ら教授陣も稿を寄せたが、学院生の執筆者には、村山二一郎、佐藤政二郎、横山隆玄、実藤恵秀、安藤常次郎、大谷尊浄、酒枝義旗、倉野憲司、戸川行男、千種達夫、時子山常三郎、和田小次郎、小松芳喬、村田春海、佐伯孝夫ほかもいた。編纂部と改称したこの部の委員には稲垣達郎、笹野堅、森儁郎、水上潔らが名を連ねている。尾崎一雄もその一人であり、自身の「小品二つ」「憶ひ出したこと」「晃造と或年上の女」等に言及しつつ、応募原稿の不振、創作部門の不作を語っているが、「憶ひ出したこと」は文壇的処女作「二月の蜜蜂」の一部となり、「晃造と或年上の女」は、後年この時代のことを写して代表作の一となった『懶い春』(昭二十五)の「有力な酵母となった」と自認しているように、尾崎にとっては記念すべき作品であった。

 その尾崎が残念がって回想するのは、同期入学生の中で後に文壇に立った者が皆無であること、また如上の執筆仲間の多くが大学教授として名を成した事実についてである。これは彼が言うように、高等学院の発足に期待する学苑当局の姿勢に関係した現象かもしれない。尤も、成績優秀だった面々が学問の道を歩んだのは、尾崎も認めるように自然の結果であり、時代の需めるところであったと言うべきだろう。そしてそれは、決して早稲田における文芸の風の衰弱を意味しない。寧ろ尾崎の言う「(学院風の)アカデミズム」(『あの日この日』上五一頁)を育てる土壌を形成し、坪内逍遙からの伝統とも響き合う文芸風土や学問の特色を形作ったのである。

 大正十一年四月、平林初之輔、青野季吉、佐野文夫、市川正一、市川義雄らの『無産階級』が創刊された。前年、『種蒔く人』土崎版が出(二―四月)、更に東京版(十月)へと引き継がれてプロレタリア文学運動の歴史的な一歩が刻されていたが、そうした動きに呼応する旗上げである。

 一方、五月には横光利一らの『塔』が名乗りを挙げた。八月に第二号を出して終ったが、中山議秀(のち義秀)や富沢(のち富ノ沢)麟太郎、小島勗らが名を連ねている。横光は、高等予科で一度除籍され、大正七年に再入学して十年には専門部政治経済科に転じたが、この年再度除籍の処分を受けている。専ら下宿で小説修業に精を出していたようだ。この年横光は、既に兼光左馬の名で「踊見」(のち『父』)一篇を『時事新報』に送り、懸賞小説の選外二位(一等宇野千代、二等尾崎士郎)を得ており、富ノ沢や藤森淳三らと『街』を創刊(大正十年六月)し、「御身」を書き、出世作「日輪」の制作を始めていた。十二年『新小説』に発表された「日輪」は、私小説や心境小説の全盛期を迎えようとしていた大正文壇に、まさに期を画す歴史的所産となった。古代社会に舞台を設定し、耶馬台国の女王卑弥呼の争奪に関わって展開する凄絶な男の戦いは、既成のリアリズム文学を超えるロマンとして反響を呼んだ。ただ籍を置いただけと言っていい学生時代をひたすら小説修業に明け暮れて過ごした横光は、ここに、創刊(大正十二年一月)間もない『文芸春秋』五月号に発表した「蠅」などとともに、漸く独り立ちする時を迎えたのである。翌十三年五月、最初の創作集『御身』を金港堂から、そして『日輪』を春陽堂から刊行し、十月には川端康成、片岡鉄兵らと『文芸時代』を創刊して、いわゆる新感覚派としての表現革新運動を展開することになるわけだが、それは、言うところの「国語との不逞極る血戦時代」であった。

 『文芸時代』に先立ち大正十三年六月『文芸戦線』が創刊された。前年の関東大震災は、開放ムードの中での浮いた時代相に対する「天譴」だとの論(渋沢栄一)まで呼んで大きな社会不安をもたらした。『種蒔く人』が、亀戸署で虐殺された平沢計七ら社会主義者を哀悼する『別冊種蒔き雑記』(大正十三年一月)を出して終ったのも、世情を反映する同人間の動揺が原因だった。その動揺は無産階級解放への共同戦線を企図した『文芸戦線』にも及び、小牧近江と平林初之輔の対立等をはらんで十四年一月号を以て休刊を余儀なくされた。資金難が大きかったが、そうした低迷状態に活を入れることになったのが、平林に代る青野季吉の評論活動であり、葉山嘉樹らの創作活動だった。

 青野季吉(大四英文)は、メレジュコフスキー批判で好評を得た「心霊の滅亡」(大十一)以下の評論で認められたが、『文芸戦線』の復刊第二号(大正十四年七月)に発表した「調べた芸術」とその再論(大十五)等により「外在批評」の必要を訴え、文学の「社会主義的意識」への組織化を求めた。自然発生的なプロレタリア文学をマルクス主義に立つ「目的意識」を持った運動へと推し進める歴史的提言であった。当時、学苑には山本伊津雄(のち岩崎一)ら第一高等学院グループによる『戦闘文芸』(大正十三年七月創刊)があり、階級意識を高めるよう尖鋭な評論・創作活動を展開していたが、時代の青年の前衛的・左翼的思想の高揚は、加藤一夫の『原始』(大正十四年一月創刊)、金子洋文、村山知義らの『文党』(同年七月創刊)、『文芸市場』(同年十一月創刊)等々、相次いで同人誌を生んだ。山崎今朝弥主宰の『解放』(大正十四年十月創刊)も、石川三四郎、小川未明、神近市子、秋田雨雀、藤森成吉ほかを擁して意気盛んであった。こうした同人誌の面々と、林房雄、中野重治、鹿地亘、千田是也ら東京帝国大学の社会文芸研究会(のちマルクス主義芸術研究会と改称)のグループを糾合して、大正十四年十二月には日本プロレタリア文芸聯盟(のち日本プ・レタリア芸術聯盟と改称)が発足したが、そうした機運を促したのも青野季吉の提言であった。

 葉山嘉樹の高等予科在籍は、大正二年、数ヵ月に過ぎなかったらしい。除籍後、海員生活、鉄道管理局、学校、名古屋セメント会社、名古屋新聞等を転々とする間に労働争議に加わり、拘禁・検挙・懲役、そして妻の出奔という運命をたどった。大正十四年『文芸戦線』に発表した「淫売婦」、同じく翌年の「セメント樽の中の手紙」は、この間の経験に基づき、被搾取階級の悲惨な実態を人間的な怒りを基底に幻想的なタッチで彫り上げ、あるいは虐げられた労働者の運命をロマンティックな筆で写し取って、プロレタリア文学に画期的な芸術性を獲得した。やがて青野を介して刊行された『海に生くる人々』(大十五)を経て、彼は文戦派代表作家としての位置に立つ。

 時を同じうして黒島伝治の「銅貨二銭」(大十五。のち「二銭銅貨」)、「豚群」(同)などが『文芸戦線』誌上に発表された。黒島は大正八年四月高等予科に入学後、徴兵を受けて九年一月に退学、シベリアに派兵されて肺を病み、郷里小豆島での療養生活を経て再度上京していた。後に坪田譲治(大四英文)や同郷の壺井繁治(英文中退)らも参加することになる『潮流』(大正十四年五月創刊)に「電報」(大十四)を寄せて評価され、反戦的な「結核病室」(同。のち「隔離室」)を書いたりしていたが、貧しい農民の悲惨を描く筆が「銅貨二銭」に結実した。始末した、僅か二銭のためにいとし子を殺してしまうことになった母親の悔いが、時代の現実を伝える優れた農民小説を生んだ。やがて黒島は「雪のシベリア」(昭二)を書き、「橇」(同)、「渦巻ける烏の群」(昭三)、『武装せる市街』(昭五)など、シベリア出兵や済南事件に取材した戦争批判小説を発表するが、吉江喬松、中村星湖らによる農民文芸会の機関誌『農民』(昭和二年十月創刊)に参加した事実に窺われる如く、その実態を知る農民出の作家として、プロレタリア文学史上に貴重な足跡をとどめた。

三 同人雑誌の消長

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 大正十四年二月、逸見広(編集発行人)、井葉野篤三、加納幸雄、城谷敏夫、紺弓之進(近藤正夫)らの『朝』が、同四月には、尾崎一雄(編集発行人)、小宮山明敏、杉阪幸月、岡沢秀虎、村田春海、中村康敏、樋口正文、安藤常次郎、山村太郎、山崎剛平らの『主潮』が創刊された。前者には後に浅見淵が参加、後者では安藤が脱けて染谷進が加わった。六月には井上幸次郎、井上英三、大越長吉、奥村実、川島順平、田島清、安田専一、浅沼悦太郎、結城和夫らの『信天翁』が出た。いずれも第一、第二高等学院の一、二回生などが中心で、『学友会雑誌』の常連も少くない。

 前後して、早稲田以外のメンバーを主軸に出されていた同人雑誌には次のようなものがあった。

『葡萄園』(大正十二年九月)、『青銅時代』(大正十三年一月)、『橡』(大正十三年二月)、『山繭』(大正十三年十二月)、『青空』(大正十四年一月)、『辻馬車』(大正十四年三月)、『不同調』(大正十四年七月)、『文党』(大正十四年七月)、『鷲の巣』(大正十四年十月)、『朱門』(大正十四年十月)

右のほか、『新思潮』などを含めて、まさに同人雑誌の全盛期を思わせる賑やかさであり、若い才能の芽吹きは、明らかに時代の展開期を思わせる。大正十五年、早稲田には新たに『街』(四月)、『青磁』(五月)が生れ、十一月には『朝』と『主潮』が合流して『文芸城』が生い立った。同じ月、加藤憲治、川島順平、布上荘衛、千賀謹二らの『各人』が出ている。外側では、中野重治、室生犀星、窪川鶴次郎らの『驢馬』が、新居格、石川三四郎、萩原朔太郎らの『虚無思想』がそれぞれ四月に創刊されていた。

 『主潮』をリードしていた尾崎一雄はじめ、浅見淵が「死児を焼く二人」を読んで「作家的才能を買うに到った」(『史伝早稲田文学』一七〇頁)という『朝』の逸見広など、早稲田勢の評判はよかった。『文芸時代』大正十四年五月号の「四月諸雑誌創作評」で川端康成は、同人雑誌の中で「特に関心して、大いに推賞したしと思ふ作品」に小宮山明敏の「騎兵」、尾崎一雄の「二月の蜜蜂」、岡沢秀虎の「一人の記録」(以上『主潮』)、井葉野篤三の「豆狸」(『朝』)を掲げ、逸見広「没落への道」(『朝』)も、「右の作品程ではないが」として挙げられた中に発見される。

 『新潮』大正十五年十月号が、特集・新人号として編まれた。十一名が作品を寄せているが、浅見淵の「アルバム」(『朝』)、坪田勝の「晩秋の旋律」(『街』)、尾崎一雄の「早春の蜜蜂」(『主潮』)がその一郭を占めた。いずれも各同人誌からのものであり、同世代の文学志望者を大きく刺戟し羨望の的ともなったという。翌月、『街』に丹羽文雄の「秋」が載り、評判を呼んだ。『文芸城』のスタートがこの月だが、一方で、同じく日本プロレタリア芸術聯盟が成立している。大正十六年一月号として出された『新潮』の合評会は、「新人の観たる既成文壇及既成作家」というテーマで中村武羅夫が司会しているが、葉山嘉樹、林房雄、村山知義ら左翼陣営の発言が舟橋聖一、蔵原伸二郎、富沢有為男ら芸術派を圧していた。『女性』の新年特集号に「現代文学の諸相」を寄せた片上伸は、超個人主義、無産階級の文学にかかる岡沢秀虎(『主潮』)の評論活動を、特に「同人雑誌中の極めて稀な」ものとして赤木健介と並べて評価し、期待している。元号を改めた昭和二年二月の『不同調』(中村武羅夫主宰)がやはり新人号を試み十一作家を掲げたが、『鷲の巣』に属する井伏鱒二が「歪なる図案」で、『信天翁』の井上幸次郎が「朝鮮土産」で名を出している。文字通り多士済々、踵を接しての新人群の登場だが、急激な勢いで押し寄せるプロレタリア文学の潮流、激動期の時代思潮や経済不況の煽りをまともに受ける多難の日々でもあった。

 悩み多い日々であったことは、そのまま同人誌の消長に窺われる。『朝』出身の逸見広が、後の『村の倫理』(昭五)への展開を思わせる「地平に出でんとする者」や「廃村短篇集」などを書いた『文芸城』には、ほかに井葉野篤三、山崎剛平、城谷敏夫、紺弓之進、浅見淵、中村康敏らが小説を載せ、村田春海が詩を、岡沢秀虎が「共産主義文芸に就いて」などを発表したが、昭和二年九月に第三号を出して終った。小宮山明敏の随筆「病後」にも見られるように、病人が多かったこと、十五年春に卒業した仲間にまだ落ち着きがなかったこと、そして、尾崎一雄らのひどいスランプが理由だったようだ。休刊に至った背後には、文学部長吉江喬松から同人雑誌の合同問題が提案され、それぞれ経営に疲れていた連中がこれに期待をかけたという事情もあった。二ヵ月前、ちょうど芥川の死んだ七月に第二巻第一号と銘打って八ヵ月のブランクを埋めた『街』も、新たに牧野信一を加え、休刊していた理由を「同人の大部分が一層勉強するために、無意味な学校を止したり、其他今後益々いいものを書くための準備中に過ぎなかったんだ」(編集後記)と意気軒昻だが、吉江提案が簡単に実現しそうにもなかったので、改めて雑誌を続けることになったらしい。創刊号に載った坪田譲治の「トロイの木馬」が岸田国士に激賞されたこともあり、同人の努力はともかくも六号に及んだが、復刊号一冊が精一杯だった。書くために、実際、田畑修一郎、坪田譲治、寺崎浩、そして別の事情ではあったが火野葦平らが中退したが、これも難しい時代を生きる文学青年の覚悟を窺わせる。『文芸城』の終刊は、翌三年一月に「早稲田新人総合文芸雑誌」として創刊された『新正統派』への発展的解消という建前であったが、尾崎一雄によれば、「プロレタリア派にも走れず、新感覚派にも行けず」、「新」とはいい条、「何か敗残兵が無器用に孤塁を守る姿に似て、全然華々しさといふものが無かつた」(『あの日この日』上三六一頁)。そうした中で、逸見広が「村一番の偉い娘」「地獄極楽」などを書いて評価され、昭和四年三月の『文芸春秋』に「リクイエムに代へて」を発表する機縁を得たこと、丹羽文雄が「朗かな、ある最初」を認められ、後のことだがやはり『文芸春秋』に「鮎」(昭七)を寄せる契機を摑んだことが注目される。

 消長を繰り返しながらも、彼らが専ら同人誌に拠って懸命だったのは、一つに『早稲田文学』への不信が原因だった。明治三十九年一月、島村抱月を編集者として再興された、いわゆる第二次『早稲田文学』は、大正七年九月から本間久雄が編集を担当していた。本間は明治四十二年卒業と同時に『早稲田文学』同人となり、評論活動を開始、大正五年八月号の「民衆芸術の意義及び価値」で、エレン・ケイを通じていわゆる民衆芸術論の端緒を開くなど注目を浴びたが、プロレタリア文学や新感覚派の盛行する時代に、若い世代の熱望を反映し得るような成果を挙げることは期待できなかった。後に『明治文学研究』上・下二冊(昭和四年)にまとめられた特別号が、大正十四年三月の「混沌期の研究」から昭和二年六月の「自然主義前後研究号」に及んで七冊編まれ、その後の明治文学研究に資するところ大きいが、作家志望の、あるいは新時代の文学の担い手たろうとする若者には、いっこうに魅力のない雑誌であった。浅見淵は、山口剛や柳田泉などの篤学者に「ものを書かすようにした功」や発行元の東京堂を儲けさせることになった結果に触れながらも、「その代り、文学青年が『早稲田文学』に愛想を尽かしてすっかり離れて行」き、浅見だけでなく、級友の間でこの雑誌を手にしている者は全く見受けなかったと記している(『史伝早稲田文学』一五五頁)。結局、第二次『早稲田文学』は、本間の洋行を機に、昭和二年十二月を以て終刊となったが、その間、目につくものと言えば、中山議秀が、当時の代表作と見られている「合戦――愚話三編――」(大十五)のほか、「貧民回帰」(同)、「捕虜奪還」(昭二)、「街の恩人」(同)などを寄せていることくらいである。そして、伝統のある雑誌への文学青年の不満と注文は、数年後の昭和九年六月、谷崎精二を編集主幹として復刊される第三次『早稲田文学』に改めて活かされることになるが、その間に、同人誌で修業を重ねた面々が相次いで作家として名を成し、文壇における早稲田勢の存在を鮮明にしていった。その一人として、先ず牧野信一(大八英文)が挙げられる。

 早く『十三人』の同人として島崎藤村の激励を受けた牧野は、大正十三年八月、新進作家叢書第四〇篇として創作集『父を売る子』を公にし、父への特異な感情が、血につながる好悪の微妙な心理的陰影を伴って写し出されている、一連のいわゆる父親小説で文壇に地歩を得、比較的順調な執筆活動を続けたが、年来の飲酒癖やプロレタリア文学盛行の煽りを受けて、小田原の生家に身を寄せた。困窮の日々ではあったが、家郷の自然に憩いギリシア、ローマの古典などに親しむ中で転機を迎え、「村のストア派」(昭三)、「吊籠と月光」(昭五)などを発表して再度上京、昭和六年十月には季刊誌『文科』を創刊・主宰して、井伏鱒二、坪田譲治、嘉村礒多、小林秀雄、河上徹太郎、坂口安吾、三好達治、田畑修一郎、堀辰雄ほか気鋭多才の個性を糾合、最も充実した作家活動を展開した。「ゼーロン」(昭六)、「パラルダ物語」(同)など、伊藤整のいう「この時期の牧野信一の背骨をなす幻想的田園叙事詩風な快作」(『現代日本小説大系』44「解説」三七九頁)が相次ぎ、高い世評を博した。その後、「泉岳寺附近」(昭七)などを経て傑作とされる「鬼涙村」(昭九)を書き、幻想から現実への転移を窺わせもした。しかしこの間、酒量が増し、神経衰弱が昻じ、貧困と家庭不和、加えて痔疾に苦しむなど懊悩を深め、遂に昭和十一年三月二十四日、同じ小田原生れの北村透谷同様、「文学者の死について多くの問題をのこしながら」(『日本の近代文芸と早稲田大学』一五三頁)、実家の納戸で縊死した。前後して、作品集『西部劇通信』(昭五)、『鬼涙村』(昭十一)、『酒盗人』(同)、『心象風景』(昭十五)、『南風譜』(昭十六)ほかと『牧野信一全集』三巻(昭十二)がある。

 かつて『十三人』の同人仲間だった浅原六朗もまた、牧野と同じ時代を、蕩揺を重ねながら生きていた。大正八年英文学科第二部を卒業、実業之日本社に入り、『少女の友』の主筆を務め、鏡村と号して少女小説や童謡を書いたのち、『不同調』『十三人俱楽部』『近代生活』などに加わり、昭和五年四月結成の新興芸術派俱楽部の有力メンバーとして活躍した。「ある自殺者」(昭三)あたりから注目され、新興芸術派叢書に『女群行進』(昭五)が入った。例えば『ビルデイングと小便』(昭六)の序で、資本主義とマルキシズムで狂喚する都会の、めまぐるしく移り変る風俗の中で作品が生れたのを回顧している。昭和六年にはモダニズム文学に欠如している「文学の社会性」を主張し、七年七月には久野豊彦との共著『新社会派文学』を出したが、『混血児ジヨオヂ』(昭八)にその傾向が見られる。

 「ねぐら」を志賀直哉に認められて自信を得た下村千秋は、第一創作集『刑罰』(大十三)以後本格的な作家活動に入った。脊椎カリエスの妻との生活に取材した「彷徨」(昭二)、「炎天の下」(同)などを『中央公論』に発表後、プロレタリア文学運動の影響下で社会的諸矛盾への眼を深め、「ある私娼との経験」(昭三)、「浮浪者」(同)などを相次いで発表、ルンペン文学の最高峰とも言われた『天国の記録』(昭六)をはじめ、前後して『しかも彼等は行く』(昭五)、『暴風帯』(昭七)など多くの作品集や長篇を世に問うている。やや風俗を写すに流れたきらいもあり、文壇の主流には乗り切れなかったが、戦時中は農村青年相手の生活を続け、これらの体験をもとに、戦後、「原始人」(昭二十五)や「吾平といね子」(昭二十六)などを発表した。社会正義への眼は依然活きており、戦後の教育界に一矢を投じた「中学生」(昭二十七)が反響を呼んだ。ほかに、作品集として、戯曲をも含めた『遍路行』(昭六)や『彷徨』(昭十五)などがある。

 作品集にまとめられたものは残していないが、『十三人』後、『種蒔く人』や『文芸戦線』誌上で多く書き、初期のプロレタリア文学運動に貢献した武藤直治(大八英文)を逸することはできない。しかし昭和になると次第に創作活動から遠ざかり、『「夜明け前」の作者――島崎藤村論攷――』(昭十一)や『文学概論』(昭二十五)を残した。

 やはり『文芸戦線』で活躍し、横光利一や中山議秀らとも親しかった作家に小島勗がいる。大正十三年西洋哲学卒だが、在学中『塔』の創刊に加わり、十四年九月『早稲田文学』に「地平に現はれるもの」を発表した。関東大震災の日、動揺する囚人達に発砲し多くを殺した看守の暴虐を告発した作品だが、官権誹謗が問われて雑誌は発禁処分を受けた。戯曲「遙かなる眺望」(大十五)などにも反権力の姿勢を見せ、労農芸術家連盟や日本プロレタリア作家同盟に加わって活動を続けた。戯曲「群盗」(昭四)や、「上海での一日」(昭五)、「或る少年職工の殺人」(同)、「転戦十日間」(同)ほかがある。昭和八年に病没したが、妹キミは横光夫人である。別に『ケルンの鐘』(昭五)がある。

四 苦節を超えて

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 昭和三年二月、『文芸都市』が創刊された。『新思潮』『辻馬車』『文芸城』など各同人誌から集まった非左翼系新人の雑誌である。阿部知二、舟橋聖一、梶井基次郎らの東大系を中心に、早稲田系からは浅見淵、尾崎一雄、近藤正夫が創刊に加わり、次いで井伏鱒二、逸見広、井上幸次郎、井葉野篤三らが参加した。プロレタリア文学と新感覚派との間を縫う形のこの新人クラブは、後の新興芸術派結成の気運を醸成したが、井伏を除く早稲田系の六人は一年ほどで脱退している。寄合世帯の難しい雰囲気の中で、井上の無神経な言動などが東大系の反発を買ったらしい。

 脱退組は本拠の『新正統派』で修業を続けたが、井伏は残って『文芸都市』の有力メンバーとなった。早く同人誌『世紀』創刊号(大正十二年七月)に「幽閉」を書き、『鉄鎚』『陣痛時代』『鷲の巣』などの同人雑誌に関係したのち、昭和三年二月、先に田中貢太郎の俳誌『桂月』に発表した「鯉(随筆)」(大十五)が、水上滝太郎の推薦で『三田文学』に再掲載される頃から注目され始めた。『文芸都市』には慶応出の蔵原伸二郎に推されて「夜更けと梅の花」(原題「夜ふけと梅の花」。『鉄鎚』初出)を寄せて第二号から加わり、昭和四年一月から四月まで「谷間」を連載して好評を博し、五月、「幽閉」に加筆・発表した「山椒魚――童話――」が出世作となった。中退したこともあってか、学友青木南八らとの親交を保ちつつも、早稲田からは少し離れて創作活動をしてきた観がある。

 左翼文学全盛の蔭で井伏の文壇登場は遅れたが、処女作と目される「山椒魚」で、岩屋に閉じ込められてしまった山椒魚が、「ああ、寒いほど独りぼっちだ!」とすすり泣くくだりに明らかな如く、決定的な孤独感を写しながら、いかにもユーモラスで、ユニークな個性を思わせる。閉じ込めた蛙とのやりとりの中に、「それでは、もう駄目なやうか?」「もう駄目なやうだ」とあり、しかも蛙は、「今でもべつにお前のことをおこつてはゐないんだ」と言う。『井伏鱒二自選全集』第一巻(昭六十)では削除されて話題を呼んだ箇所だが、思わず誘われる笑いを禁じ難い。そしてまたその笑いが深いペーソスにつながっている。井伏文学の魅力であり、全作品を貫く特色である。井伏は『自選全集』の「覚え書」で、「後年になつて考へたが、外に出られない山椒魚はどうしても出られない運命に置かれてしまつたと覚悟した。『絶対』といふことを教へられたのだ。観念したのである」と述べている。しかし井伏自身は、遂に観念してしまうことのない作家である。例えば後年の佳作「へんろう宿」(昭十五)に見られるように、宿を守る五人の女がいずれも遍路の棄てていった嬰児だという、そうした庶民生活に人生流転の相を捉えながら、彼は諦めることをしない。人生を倫理的に裁断することを好まない井伏は、悟りに向かうことはあっても観念してしまうことはなかった。しばしば運命的な人生図を写しながら、いつもそこには、定めを超えて生きる人間がいた。

 「朽助のいる谷間」(昭四)、「屋根の上のサワン」(同)などの発表を重ねる中で評価を得、昭和五年四月には新興芸術派叢書の一として作品集『夜ふけと梅の花』を、七月に同じく『なつかしき現実』を刊行した。以後はほぼ順調な創作活動を続け、「丹下氏邸」「仕事部屋」「青ケ島大概記」「集金旅行」等を経て、『風来漂民奇譚 ジョン万次郎漂流記』(昭十二)で第六回直木賞を受けた。戦時下に特記すべき一つは太宰治を導き続けた功績である。十六年十一月陸軍の徴用を受け、マレーに向かう途次、太平洋戦争の勃発を知る。サイゴン、クアラルンプール、シンガポールほかを経て一年後に帰国したが、この間、自ら言う「記念品の一つ」に「南航大概記」があり、シンガポールの見たままを写した長篇「花の街」(昭十七)がある。十九年、山梨県甲運村に疎開したが、二十年七月の甲府空襲で更に広島県加茂村へ移る。終戦後へかけての「疎開日記」があるが、そこにはまだ原爆の記述は見られない。

 戦後井伏は早々に執筆活動を始めた。二十一年には、四月「二つの話」を『展望』に、九月には亀井勝一郎・浅見淵・滝井孝作らの同人誌『素直』に「追剝の話」を書き、七月『鶏肋集』、十月『まげもの』、十二月『佗助』などを出版した。翌年には、一月の「引越やつれ」「魚拓」ほかがあり、二十三年一月には「因ノ島」を発表している。総じて、彼の文学への姿勢、人間の生命を見据える眼が、基本的に戦争を超えてあったことを思わせる。しかもそのことは、その最大の戦争体験が、昭和四十一年の『黒い雨』に結実した事実とそのままにつながっている。そしてこの一作を得て、井伏は日本文学史に不朽の名をとどめることになったのである。

 高見順の『昭和文学盛衰史』によると、「早稲田出であるにもかかわらず、こうして三田派に近づいていた井伏鱒二は、今日なお早稲田派嫌いである」(第一分冊一五五頁)というが、やはり早稲田から遠かった一人に尾崎士郎(大九大政中退)がいる。中学時代から政治志望が強く、しかも大正五年学苑入学早々の父の死や翌年の兄の自殺で家が没落し、石橋湛山の計らいで東洋経済新報社に入社したのをはじめ、堺枯川の売文社、毎夕新聞社、東京毎日新聞社などでのアルバイトに追われた学生生活であった。六年の「早稲田騒動」では天野派の学生リーダー格を務めたが、その後、社会主義者加藤時次郎の「社会政策実行団」に加わって普選運動にたずさわり、取締り当局から「特別要視察人」としてマークされてもいた。言えば文学どころではなかったわけで、そうした仲間との縁も遠かったのである。

 その尾崎の文学への契機は、学苑除籍後、居候として世話してくれた高畠素之が熱心な正宗白鳥ファンであったこと、そしてたまたまそんな日々の中で『時事新報』の懸賞短篇小説に応募したことであった。大逆事件に取材し、尾崎洫作の名で投じた処女作「獄中より」がそれで、二等当選だった。藤村千代(後の宇野千代)の「脂粉の顔」に一点差で一等を奪われたのだが、幸運が舞い込んできた。改造社の山本実彦社長から、金は幾らでも出すから小説を書いてほしいとの申し出を受けたのである。「獄中より」以外に創作経験のなかった尾崎は、大いに苦しんだが、取敢えず同傾向の「獄中の暗影」(大十一)で責めをふさぎ、次いで長篇「低迷期の人々」に着手、『逃避行』(大十)として刊行、続けて、第二部『懐疑者の群』(同)が上梓された。こうして、思いもかけないデビューを果したが、必ずしも時流の迎えるところとはならず、失意の中で、宇野千代との恋、姦通事件が起こる。新人女流作家として注目を集めていた宇野とのことは当然大きく新聞紙上の話題になったが、夫藤村忠との協議離婚を済ませた千代と尾崎は東京府下荏原郡馬込村に新居を構えた。ともかくも安定した生活の中で創作活動も軌道に乗り、伊豆湯ケ島に滞留中の「『鶺鴒の巣』その他」(昭二)などに優れた感性を見せ、評価も高まった。しかしその後、徳田秋声に私淑する間に知った古賀清子との放浪が始まり、昭和五年八月には千代と正式に別れた。決定的声価を得たのは、「人生劇場(青春篇)」を世に問うてからである。『都新聞』(昭八)に連載、昭和十年三月、竹村書房から刊行された。川端康成が『読売新聞』で激賞したのをはじめ絶讃相次ぎ、映画化や劇化をも含めて尾崎はたちまち時代の寵児となった。「男らしく」生きることを教えられて育った青成瓢吉の情熱と正義感が織りなす青春絵巻は、「早稲田騒動」を取り込み、柳水亭の女給お袖との恋や、義理と人情を忘れぬ吉良常をからませて展開され、日本的心情に訴えて人気を博した。以下、「愛欲篇」ほか続篇は戦後に及んでいる。別にこの間、大逆事件に係わる「密柑の皮」(昭九)ほかがあり、それら彼の幅のある文学的資性を窺わせる短篇集『鶺鴒の巣』(昭十四)がいい。

 総じて尾崎士郎は、豪放な一面とデリケートな神経とを合せ持ち、作品の、適度な感傷性をはらんだ夢見る浪漫性と飄逸な味わいとが、その人間的魅力とともに読者を惹きつける。その後『空想部落』(昭十一)や歴史小説「篝火」(昭十四)などを書いたが、日中戦争に取材した「悲風千里」(昭十二)をはじめ、フィリピンでの見聞をまとめた『戦影日記』(昭十八)や「俘虜の残した記録を綜合集成した」『積乱雲』(昭十九)に及んで、戦時下の積極的な言動もまた「硬派」の作家と言われた尾崎の特性に由来する。そのため戦後戦争責任を問われて追放指定を受け、政治活動や執筆を制限された。「少年時代から大隈重信が好き」だったという彼は、後年、「学校騒動」などを収めた『早稲田大学』(昭二十八)を公にしたが、しかも、自身、ある意味において「早稲田の反逆児」であり「早大出身の不良学生である」(「凡例」)と語っているのが、またいかにも尾崎らしい。

 尾崎が「人生劇場(青春篇)」で売り出す前の低迷期にあった頃、横光利一は大きな転機を画しつつあって、昭和五年二月「鳥」を、九月「機械」を発表している。「三代名作全集」の『横光利一集』(昭十八)に付した「解説に代へて」の中で、「自らのスタイルの建設」に最も苦しんでいた時期、「唯物史観と自然主義の包囲陣を脱出する血路を見いだした」時期に右の二作ができたと述べている。それはまた、「心理主義すなはち人間主義といふ確信おのづから生じて来た」時でもあり、新感覚派文学運動を支えてきた感覚的手法から心理的手法への転機をも語るものであった。妻キミの死を「春は馬に乗つて」(大十五)で送った横光は、昭和二年二月、日向千代と結婚、五月には『文芸時代』を廃刊している。翌三年十一月には、中国での取材旅行を経て初の長篇「上海」第一篇を発表、六年十一月に完結したが、前年十一月にはまた、長篇「寝園」の連載(『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』)を始めていた。外界を写す「上海」と内側の心理に迫る「寝園」とが手法の推移を明白に伝えている。

 「上海」は、一九二五年の五・三〇事件へと渦巻く上海を舞台に、動乱の時代を生きる人間の種々相を写した意欲作である。社会的大変動の中に個と集団の運命を見据えた横光は、一転して、あるネーム・プレート工場に働く人々の幅輳する心理葛藤に焦点を絞り、「機械」に拘束される人間存在の不確かさを浮き彫りにする。プルーストなど伊藤整らが紹介した心理主義の手法を取り込んで、小林秀雄によれば、「全々新しい」「類例などは日本にも外国にもありはしない」「抜き差しならぬ横光利一」の世界を、「悲劇的」なまでの「誠実」を、描出した。横光は更にその新しい試みを「寝園」に展開した。有夫の奈奈江と幼なじみの梶との恋愛心理を軸に、不条理な人間関係や不透明な潜在心理が掘り起こされる。「機械」での工場の主人の無類の誠実が、ここでは奈奈江の夫仁羽の無垢の善良さとして写し上げられ、いずれもそれが他を逆照射する役割をも担っている。「機械」について小林は、「世人の語彙にはない言葉で書かれた倫理書だ」と言い、「この作品から倫理の匂ひをかがぬ人は楽書を読むに如かぬ」と述べたが、「寝園」はまた、心理主義即人間主義の観点からの倫理書であった。

 昭和九年九月、『紋章』を出版。第一回文芸懇話会賞を受賞したこの作品は、醬油の醸造特許をめぐる天才的発明家雁金八郎と斯界の権威山下博士らの抗争を軸に、名家の紋章を負う日本精神と自意識過剰の観念的知識人に見られるヨーロッパ精神の比照や、学閥と密着した官僚機構の剔抉など、意欲的な構想が注目される。最終的に勝利を得た戦う雁金の姿は、特許権の開放とともに、壊滅的な打撃を受けていた左翼陣営や多くの知識人に問題を提起し、話題を呼んだ。心理主義的な恋愛葛藤の描出とも合せて、時の動きに鋭敏な横光の野心が窺われるが、雁金を支える日本精神への傾斜など、彼の内側に醸されつつあった思想への批判が一方に出始める契機をもはらんでいた。そして日本とヨーロッパとの問題は、生涯をかけて書き始められた「旅愁」(『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』昭十二。以後、昭二十一に至るまで『文芸春秋』『文学界』『人間』に断続発表。未完)の、矢代と久慈という対立的な設定に引き継がれる。

 十一年二月二十日、横光は渡欧の途に着いた。その直後に二・二六事件が起こり、パリでは大罷業を経験するなど、この間の見聞を背後に、洋の東西に亘る思想的課題と真正面から取り組む形で、「旅愁」は構想された。人民戦線をめぐる左右の対立激化の中で、日本主義者矢代と西欧的合理主義者久慈、そして作家の東野や写真家の塩野らを交じえた論議が続くが、常識を超えるようなその設定に、思想小説とも言えるこの作品の性格が端的に示されている。合せて、矢代と宇佐美千鶴子との恋愛や久慈と早坂真紀子との同棲が、美しいブーローニュの森やチロルの氷河を写す中で描かれるが、思想小説としての展開は、帰国後の、古神道を信ずる矢代とカトリック信者千鶴子との結婚問題に係わってその色を深めていく。みそぎや言霊信仰への矢代の偏執は、論理を超えた神秘主義的な方向へと急傾斜しているが、そこには、ファッショ攻勢の強まる時代の影が明らかに読み取れる。それが豊かなロマンへの可能性を閉ざし、逆に混迷する横光像をイメージさせることにもなったのだが、苦渋を重ね、問題を残したまま、横光は昭和二十二年十二月三十日没した。戦争責任を追及される中での敗亡の姿を、僚友川端康成は、「君の骨もまた国破れて砕けたものである」と弔い、しかも、常に「開発者」であった横光を、近代化と伝統とのはざまに生きた「受難者」であり「先駆者」であると位置づけた。

 川端に送られた横光は、その十年あまり前、『富ノ沢麟太郎集』(昭十一)を編んでいる。富ノ沢(予科中退)は横光らと大正十年に『街』を出し、翌年には中山議秀や小島勗、中井繁一らと『塔』を創刊、これらに作品を発表したが、師事していた佐藤春夫の推輓で大正十三年『改造』に載った「流星」が文壇デビュー作である。ドイツ表現派の映画「カリガリ博士」(大十年本邦初映)の幻想的手法に衝撃を受け、谷崎潤一郎やホフマンやポーなどの怪奇的な作品に影響され、独自の心象風景を具現した異才だったが、十分な開花を見せぬまま大正十四年二月、二十六歳で終った。没後、「あめんちゃあ」と「純情一景」とが公にされた。横光の哀惜ゆえなしとしない夭折だった。

 富ノ沢や小島らとともに学生時代を横光と過ごした一人に中山義秀(はじめ議秀)がいる。大正十二年英文学科卒業後、三重県立津中学校に勤め、十五年、千葉の私立成田中学校に移って長く教職に在ったことから文壇には出遅れた。しかし、『塔』の編集兼発行人として創刊号に「穴」を発表したのをはじめ、「合戦――愚話三篇」(大十五)ほか、第二次『早稲田文学』末期では、寧ろ数少い書き手の一人だった。横光に推服し、その生涯で「ほとんど唯一の人物といっていいほど大きな影響をうけ」た(『私の文壇風月』二七頁)というが、昭和八年、三十三歳の時、二児を失い、兄の死に遭い、成田中学を解職され、妻が肺結核で倒れるといった苦難の中で作品集『雷光』(昭十一)を出し、「栄耀」(昭十三)を書き、「厚物咲」(同)が第七回芥川賞に選ばれるに及んで、漸く文壇に名を成した。第一回受賞者石川達三、第五回尾崎一雄、第六回火野葦平、いずれも中山の後輩であり、その文学的出発も概して中山より遅かった。

 「厚物咲」は、金鉱に手を出して失敗した二人の老人の、敗残の生を対照的に捉えた作品である。それはある意味で、敗北に追い込んだ時代文化への挑戦であり、労苦を生きてきた作家の孤独な自己確認でもあった。「碑」(昭十四)は、逆上した三男が母を斬殺し、すかさず長男がその仇を討ったという、中山の父方に伝わる事実に材を得て、剣に生涯をかけながら徒労に終った父祖の宿命を、不遇に絶望的だった自らのものとして写している。侍の心を引き継ぐ中で人生の無常を語り、それを止揚して生きる精神のありかを探り続けていたのである。「碑」で文壇的地位を確保した中山は、昭和十五年『文学界』に初の長篇「美しき囮」を連載した。南海第一の都会で女西郷とも評された母親とその美しい娘に材を得ているが、二十数年間の苦闘と屈辱の故郷を離れて上京する母子の将来に、なお幸福は予見できない。暗い人間の運命を見据える作者の眼に変りはない。執筆活動はほぼ順調に続き、『清風颯々』(昭十五)、『風霜』(昭十六)、『お花畑』(昭十八)、『生ける魂』(同)その他を出版した。十七年の真杉静枝との結婚(二十一年離婚)や海軍報道班員時代を挟んで、鎌倉文庫の創設に加わり、「酒屋」(昭二十一)、「華燭」(昭二十二)などから戦後の創作活動が始まる。「信夫の鷹」(昭二十三)ほかの時代小説や、二人の軍医を中心に戦争の悲惨さを告発した「テニヤンの末日」(同)などで存在を示した。師友であった横光利一の死が転機を画す一因となったが、その深いつながりは「台上の月」(昭三十七―三十八)に興味深く描かれた。不遇な明智光秀に色濃い自己投影が見られる「咲庵」(昭三十八―三十九)で野間文芸賞を受けたが、多くの戦国史記などを集めた『中山義秀自選歴史小説集』八巻(昭三十二)や『中山義秀全集』九巻(昭四十六―四十七)がある。

 中山と同年の仏文卒に和田伝がいる。神奈川県の大地主の家に生れ、大正十二年、処女作「山の奥へ」を『早稲田文学』に発表、同年秋から同誌の編集に係わり、十三年、吉江喬松、中村星湖、平林初之輔、犬田卯らの農民文芸会に加わって、相模平野に生きる農民を描き始めた。「最後の墓」(昭四)、「村の次男」(昭九)、「一町三反」(同)などがある。これら八篇を収めた第一創作集『平野の人々』(昭十一)の序で、吉江喬松が、「和田君のやうに農村に生れ、農村に身を置き、親しく農事に携はり、農人に伍して、その生活を生活しつつ、しかも相模平野の中に数百年その伝承を経験してゐる人々にとつてこそ、農民文芸なるものは文字通り身についたものでなければならぬ」と述べているが、和田文学の特質を言い得ている。「生きるために」軍隊を選ばねばならないような農民(「村の次男」)の土地への執念を描いて農民社会が抱える問題の根幹に迫る和田は、十二年十一月の『沃土』で第一回新潮社文学賞を受賞、十三年には島木健作らと農民文学懇話会を結成した。同年、農相有馬頼寧の配慮で北満の移民地を廻り、その成果として大陸開拓文芸『大日向村』(昭十四)を公にしたが、これには若い日の樫山欽四郎が助力している。ほかに、前後して『物置と納屋』(昭十二)、『螟虫と雀』(昭十三)、『五風十雨』(昭十四)、『家長』(同)、そして『平野の朝』(随筆を含む。昭十六)などがあるが、戦後は二十九年に日本農民文学会を結成して会長となり、全国篤農家の事蹟を『日本農人伝』五巻(昭三十)にまとめ、『鰯雲』(昭三十二)、『風の道』(昭三十六)や、自身の生きた明治・大正・昭和に亘る女地主を中心とする大作『門と倉』(昭四十七―四十九)を書いている。

 横光に近く、『文芸時代』の同人として新感覚派文学運動に挺身した中河与一(大一一英文中退)は、早くスケッチや短歌に親しみ、十一年に歌集『光る波』を出したが、新感覚的感性を窺わせる小説には、「刺繡せられた野菜」(大十三)、「氷る舞踏場」(大十四)、「海路歴程」(昭二)などがある。華麗な表現やエキゾチシズムは文字通りモダニズム文学の徴表であったが、短歌からの出発が示唆的であるように、その本質は寧ろ東洋的叙情にあり、マルキシズム文学に対し『形式主義芸術論』(昭五)を以て抗し、豊かなイマジネーションによる創造を期待する偶然文学論などの後に、恋愛小説「天の夕顔」(昭十三)にその結実を見せた。同時に反リアリズムの志向は、やがて日本浪曼派の一員として民族文化や全体主義を主唱する方向へと傾き、叙情的な体質の一面の弱さを見せることにもなった。

 伊藤貴麿(利雄、大九英文)も『文芸時代』同人だが、神戸福原遊廓の大店の出で、旧三高時代に樗牛会(高山樗牛全集編纂の会)の懸賞募集に当選したので、小説を志して早稲田へ転校した。信州出身の童話作家酒井朝彦、福岡生れの歌人泉甲二(北原白秋門下。歌集『白き秋』(昭二十二)ほかがある)らと同期で、『早稲田文学』の編集にたずさわる傍ら書いた『カステラ』(大十三)などで評価された。芥川竜之介の知遇を得たが、のち童話に転じ、中国童話の翻訳紹介にも力を尽した。高等予科時代、五十嵐力の作文指導で童話を書いた経験を持つ酒井が、個人誌『童話時代』に「門と詩人の話」(大十三。のち「ふるさとの門」)などを発表して認められていたが、同じ『象徴』時代の仲間の伊藤もその『童話文学』(昭和四年)に加わり、更に一緒に『児童文学』を創刊(昭和十年)したりしている。

五 ファシズムの下で――第三次『早稲田文学』時代

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 昭和初頭、世界的なファッショ攻勢の中で、文壇にもこれに呼応する動きが出てきた。その代表的な一人に直木三十五(植村宗一、明四四入学、英文学科から高等師範部に転じて中退)がいた。出版や映画を手がけていた彼が文学界へ登場し、大衆文学隆盛に貢献したのは、関東大震災以後のことである。『キング』創刊が大当りした事実に見られるように、文化の大衆化状況の中で大衆娯楽文学への欲求も高くなり、大正十四年には大衆作家の親睦を図る廿一日会もでき、翌年機関誌『大衆文芸』も発刊された。その一翼を担いながら直木も「由比根元大殺記」(昭三)や「南国太平記」(昭五―六)などで流行作家になると同時に、大衆文学論の構築をはじめ積極的な評論活動を続け、やがてこの陣営の中心的存在となった。純文学畑への挑戦は文壇の覇権争いの観があったが、事変直後の上海へ飛んで『日本の戦慄』(昭七)を書くなど、文壇右翼の闘将と目された。周囲が「さういふつもりなら、フアシスト位には、いつでもなつてやる」と自ら「フアシズム宣言」をして左翼に対し、昭和九年二月のその死はまさに斬り死にもたとえられた。ベルギー風のサンジカリズムに惹かれ、大杉栄の生き方に興味を持ち、テロリズムに陥り、というような閲歴を持ちながら、時代の資本主義やマルクス主義が農村を救い得ないとして国家的な社会新気運を醸成すべく直木と行を共にした三上於菟吉(明四三入学、英文中退)らを含めて、大衆文学の側からの照明を忘れてはならない。

 直木の死後四ヵ月、昭和九年六月に、第三次『早稲田文学』が創刊された。谷崎精二を編集主幹に迎え(戦時中逸見広)、編集に江間道助、逸見、岡沢秀虎、井上英三らが当り、浅見淵、尾崎一雄、青柳優、寺岡峰夫、宮内寒弥、野村尚吾らが加わった。戦後は井上友一郎、八木義徳、小沼丹、浜野健三郎、井上孝、小林達夫らが担ったが、稲垣達郎ら文学部の教授にも支えられて、二十四年三月(第一六巻第一号)まで百四十三冊が出た。創刊号には、吉江喬松の「レアリスム素論」、「日本リアリズム検討」として岡沢秀虎の「日本プロレタリヤ・リアリズム」と江間道助の「日本的リアリズム」が並び、植村清二が「直木三十五の歴史小説」を書き、林芙美子、鏑木清方、土方定一、秋田雨雀、青野季吉、千葉亀雄、窪田空穂、新庄嘉章ほか多彩なメンバーが名を連ねた。創作欄は、「今年の春」の正宗白鳥、「馬酔木」の尾崎一雄、「一町三反」の和田伝、「結婚まで」の逸見広、「彼と群衆と」の宇野浩二。第二号の「編輯後記」は、「売れた、売れた。創刊号は羽根が生えた様に飛んで行つた」と筆を起こして、有頂天な喜びを隠していないが、一つには、第二次の休刊以来、待望久しいものがあってのスタートだった事情がある。新たな早稲田派の時節到来を思わせる景況が、この第三次『早稲田文学』の創刊前後に見てとれる。

 昭和七年四月の『文芸春秋』に丹羽文雄の「鮎」が発表され好評だった。「そろそろ始めようか、と本気で考へ出した」時だったので、尾崎や浅見も「勇み立つた」。それが尾崎を編集発行人とする『小説』創刊(昭和八年)に弾みをつけた(『あの日この日』下一三七頁)。前年、金沢出身の山原松枝と結婚して尾崎は再出発の機を得た。無垢な明るい新妻松枝との生活が彼を囚われない場に引き出した。八年十一月、大宅壮一の『人物評論』に発表した「暢気眼鏡」が、金歯を売るというような、芳兵衛こと松枝との貧乏生活を写しながら、屈託のない安定した精神状態を反映して評判を呼んだ。「私の精神と肉体とは、ただ一つ、仕事に対する熱、その気持の張りで保つてゐる」と作中にあるが、「作家は霞を喰ふべし」として激賞してくれた「尾崎士郎の知遇に応へねばならぬ」という気持も手伝って、「われながら呆れるほどの精進ぶり」が続いた(『あの日この日』上二六七頁)。九年に入って、五月「芳兵衛」、六月「馬酔木」、八月「竹盗人」と「曾根君のおしやべり」、十月「世話やき」、十一月「擬態」と「灯火管制」を発表といった具合いである。十年には、四月、『早稲田文学』の編集委員になるとともに、六月、同誌に「父祖の地」を発表、十二月、丹羽や外村繁らと十月に創刊した『木靴』に「ヒヨトコ」を書き、十二年には、これらをまとめた第一創作集『暢気眼鏡』を友人山崎剛平の砂子屋書房から出した。七月、これが第五回芥川賞受賞作となり、長い放蕩雌伏の報われる日を迎えたわけだが、十一月、初期の作品を中心に『竹盗人』を編み、十二月、『おしやべり』を刊行、文壇での地歩を確立した。三島由紀夫は、「若い簡潔さに充ち、しかもどこかに大家のお坊っちゃんらしい濶達なところがあり、磊落放胆なところがある。だらしがないようでいて、浪曼派的自己破壊に陥らず、ストイックでどこかがきゅっと締っている」と、「男性的な作家」尾崎一雄を語り、「原質的日本人の姿がよみがえった稀な一例」として、その私小説の特質を解明した(『日本の文学』52「解説」五一七頁、五一九頁)。その後も、『続暢気眼鏡』(昭十三)、『浴室長期抗戦』(昭十四)、『夢ありし日』(昭十五)、『長い井戸』(昭十六)、『玄関風呂』(昭十七)等々、概ね順調な創作活動を重ねていたが、十九年八月、胃潰瘍による大吐血で瀕死の床に就き、終戦を挟んで無収入の苦しい療養生活が続いた。二十二年四月、苦労をかけた母タイの死に遭う。それを描いた「落梅」(昭二十二)を、水野忠夫、尾崎士郎との『風報』創刊号に発表した頃から、人間・生命の尊重を第一とする心境を深めた。「虫のいろいろ」(昭二十三)、「美しい墓地からの眺め」(同)などにそうした心境が読み取れるが、二十四年、また学生時代を振り返って「懶い春」を『風雪』に連載、晩年の活動へのワン・ステップを踏んだ。

 尾崎を奮起させた丹羽の「鮎」は、永井竜男の勧めで『文芸春秋』に載ったものだが、『朝日新聞』のコラム「豆戦艦」で取り上げた杉山平助の切り抜きが尾崎から送られてきたのを機に、丹羽は上京を決意し、『小説』『世紀』の同人となり、特に『世紀』では「海面」以下、最も意欲的に書いたが、九年、『改造』に「象形文字」、『中央公論』新人号に島木健作の「盲目」とともに「贅肉」を、そして「甲羅類」を『早稲田文学』に発表するに及び、注目すべき新人として声価を得た。

 「二十代の自分が、親の痴情をさばかねばならないなど、不幸なことだ」という一節が「鮎」にある。「贅肉」とともに、淫奔な生母を冷厳に写しえぐった作品が、文壇的処女作であり出世作となったのであり、後年丹羽の語るところによれば、「うらみ」にさえ思い「はらだたしく」もなる作品だが、「どうにもしようのない」宿縁のゆえに、「贅肉」以下のいわゆる「生母もの」を書き続けたのであった。一方、「甲羅類」や、前後する「象形文字」「海面」、そして「愛欲の位置」(昭十二)など一連の「マダムもの」を丹羽は書いたが、二つの作品系列を貫いて追求されているのは、文字通り、女性における「愛欲の位置」であった。第一創作集『鮎』(昭十)から『自分の鶏』(同)、『愛欲の位置』(昭十二)を経て、後年まで丹羽はこの課題を担っていくのだが、自らを甲羅の内側に置いて眺め写す形の手法が、問題の主体的深化を妨げ、「風俗作家」との論断を招くような傾向が暫く続いた。

 日中戦争の拡大に伴い、昭和十三年には従軍ペン部隊の一員として武漢に赴き、「従軍小説還らぬ中隊」を同年の『中央公論』に寄せた。戦時下の統制が強まり、恋愛や愛欲を描くことが難しくなると、「人生案内」(昭十四)、「隣人」(同)、「太宗寺附近」(同)など「市井事もの」と言われる方向へ筆を転ぜざるを得なかった。太平洋戦争に入って海軍報道班員の徴用を受ける。ソロモン群島のツラギ沖海戦で負傷するが、『中央公論』に寄せたこの従軍体験から生れた「海戦」(昭十七)で第二回中央公論賞受賞。しかし、同時に『改造』に発表した「報道班員の手記」は、翌年刊行の際、同じ報道班員を中傷したとの理由で発禁になった。終戦を境に『現代史』を書き、創生社版(昭二十一)の「まへがき」に、自身の問題として戦争責任を痛感すると記したが、「憑かれた人」のような創作活動で戦後が始まる。復員特攻隊員に焦点を当てた「哭壁」(昭二十二―二十三)に代表されるように、丹羽の眼は、混乱した世相や風俗を多面的に捉えるところへ向けられたが、そうした間に話題を呼んだのが「厭がらせの年齢」(昭二十二)である。窮迫した食糧事情の中で「ごはんを食べる化物」と恐れられ、衣類を切り刻むような女の老耄ぶりを活写して、反響は大きかった。家族制度の解体が進み、新しい家なり家族なりの倫理を確立し得ないでいた時代の、歴史的な意味を内包した作品として評価されるが、同時にそれは、老いた生母を写した「幸福」(昭二十三)などにも関連して、「生母もの」に通ずるものを見せている。「理想の夫」(昭二十二)が「マダムもの」の延長線上に在ることとともに、「鮎」以来基本的に変わらぬ丹羽の内実がそこに読み取れる。その丹羽が、風俗作家としての批判を越えて、親鸞に学び、煩悩成仏の新たな境地への転回を見せ始めるのは、『人間模様』(昭二十三)、『当世胸算用』(昭二十五)などを経て、二十六年に刊行された『爬虫類』あたりからである。

 『朝』に書いた「芸術以前」を「風鈴を争ふ」と改題補筆して昭和三年『創作月刊』に発表した逸見広は、翌年同じく「委ぬる者」を、また「望郷」を「死児を焼く二人」と改題・再発表し、室生犀星に認められ注目された。これらの作品は『村の倫理』(昭五)にまとめられたが、六年『文学党員』を創刊、犀星や、両尾崎、丹羽らの寄稿を得た。しかし雑誌は五号でつぶれ、逸見は印刷所などの未払金に苦しめられる。復刊『早稲田文学』の編集を手伝いながら、九年から翌年にかけて連載した「悪童」で、四歳から尋常科卒業までの貧しい生い立ちを中心に、酷薄な運命を生きる悪童達をヴィヴィッドに捉え、これが芥川賞候補作になった。十五年、新人文学叢書の一として『村一番の偉い娘』が出たが、「序」を寄せた谷崎精二は、「人生に於ける苦難の正しい認識から出発した」逸見文学の特色を、苦難を排して生き、「忠実な観察者、厳正な批判者」となった逸見その人の特色に重なるものと見ている。十八年、早稲田文学社が自宅に移され、以後一切が逸見に委ねられたが、創刊十周年を記念して編まれた『十年』に「昭和九年百姓日記」を収めたあと創作は減少したけれども、苦難の時期を二十四年二・三月合併号で廃刊になるまで『早稲田文学』を担い続けた功績は忘れられない。古稀に際し、ほぼその全容を伝える『逸見広選集』(昭四十四)を祝われた。

 それに「解説」を書いた浅見淵は、逸見とは、遅れて『朝』に加わって以来の仲間で、文学的には似たような出発をしている。『朝』に発表した処女作「山」では、K(神戸)港やR(六甲)山を背景に、南米通いの貨物船の事務長代理と遊廓の女との淡い交情を写しながら、いかにも神戸育ちらしい、さらっとした感触でまとめ上げ、東北福島出身の逸見とは好対照だと言える。大正十五年の『新潮』新人特集号に「アルバム」が載ったが、その後はプロレタリア文学に圧された感じで、『新正統派』『文芸都市』『文学党員』などに顔を出しながら目立った作品はなかった。尾崎一雄、丹羽文雄らと『小説』を出した頃から熱が入り、「コップ酒」(昭八)や「目醒時計」(昭九)などが好評を得た。これらの作品をまとめた第一創作集『目醒時計』(昭十二)は身辺に取材したものが多いが、洗練された浅見固有のエスプリやハイカラさが、いわゆる私小説臭を退けている。その後の小説集には『無国籍の女』(昭十四)、『手風琴』(昭十七)、『青い頭』(昭二十一)が、また随筆集に『灯火頰杖』(昭四十五)などがあるが、浅見の仕事として見逃せない一面は評論活動である。『早稲田文学』の編集や、同級だった山崎剛平の砂子屋書房で見せた出版プランなどにも片鱗が窺えるが、特に、外村繁の『鵜の物語』、仲町貞子の『梅の花』、尾崎一雄の『暢気眼鏡』、太宰治の『晩年』など、第一創作集シリーズの企画が果した役割は大きい。昭和十一年には自身の第一評論集『現代作家研究』を出し、『現代作家論』(昭十三)、『現代作家卅人論』(昭十五)への道をつけているが、実作者としての経験に裏づけられた作品の読みの確かさや、率直な印象を大事にしながら作家の魅力を見抜く眼は、ある意味で最後の批評家とも言われる所以であり、石原慎太郎の発見や五木寛之ほか若い才能の発掘が、文芸批評家浅見淵の名を高からしめている。同時代の作家・作品論を集めた『昭和の作家』(昭三十二)や、『昭和文壇側面史』(昭四十三)、『史伝早稲田文学』(昭四十九)など、いずれも時代の文学を知るに不可欠だが、ほかに『市井集』(昭十三)、『文学と大陸』(昭十七)、『蒙古の雲雀』(昭十八)などの随筆、紀行集や、『浅見淵著作集』三巻(昭四十九)がある。

 昭和十年、石川達三(昭三英文中退)の「蒼氓」(昭十)が第一回芥川賞を受賞した。夙に第二高等学院時代に書いた「寂しかつたイエスの死」(大十五)や「幸福」(昭二。『大阪朝日新聞』懸賞入選作)などがあるが、苦学を重ね、昭和六年、中山義秀らの『新早稲田文学』における同人活動を含め、文字通り苦節十年の結実である。三十一歳だった。昭和五年にブラジルのサン・パウロに渡った時の経験が生かされているが、不況にあえぐ時代相を背景に、移民会社の不正にメスを入れ、移民集団の悲惨と哀感を写して反響を呼んだ。「芸術的完成などは蹂躙してしまってもいいから直接にその社会的存在主義を求めよう」(「自作案内」)と、自己の行く道を確認した社会派作家の出発である。この時石川は、ゾラのルーゴン・マカール叢書に倣った蒼氓叢書をもくろんでいた。移民がその第一部で、湖底の村の人々を捉えた「日蔭の村」(昭十二)が第八部の文明の惨禍に当るという。しかも石川は問題をイデオロギーで括ることをしない。作品における作者の悲しみや憤りを支えるものは、「あくまで彼の正義感にもとづく強靱な常識にすぎなかった」として、傾向文学に恰好の材料をイデオロギー文学にしなかったことが作品の生命力の長さにもなっていると、中野好夫が言っている(「人と文学」『現代文学大系』48四七四頁)。「生きている兵隊」で戦場での兵隊をそのままに描き得ているのも、「強靱な常識」による対象化の結果である。しかしまたその「常識」のゆえに、戦争の非を本質的に抉る視点を持ち得なかったのも否定できない。南京占領に取材したこの作品は新聞紙法違反で起訴され有罪となったが、公判を待っての蟄居中に書き下ろした『結婚の生態』(昭十四)が、ガイドブック的な迎えられ方をもしてベスト・セラーになった。「母系家族」(昭十五)あたりを境に執筆量が急減したが、戦後、「望みなきに非ず」(昭二十二)などで再スタートを切り、旺盛な活動に入る。民主主義が擁護すべき人権問題を、戦中の横浜事件にかかる弾圧の歴史を通じて追ったものが、「風にそよぐ葦」(昭二十四―二十六)である。教育界の政治闘争を写した、後の「人間の壁」(昭三十二―三十四)をも合せて、依然社会派小説家、「調べた文学」と言われる面目は顕著であった。時勢に敏感な石川は、そうした社会問題を追尋する作品の一方で、その時代・社会に翻弄されて生きる人間の諸相に眼を向けている。『転落の詩集』(昭十四)などが早く、戦後では「望みなきにあらず」をはじめ、『神坂四郎の犯罪』(昭二十四)、『悪の愉しさ』(昭二十九)、『自分の穴の中で』(昭三十)、『四十八歳の抵抗』(昭三十一)等々がある。きわめて多い作品を総じて支えるものは、現実が生の拠点である限り観念の空転は許されないとの現実的立場であり、やがてそれは、無限定な自由を拒否し、『生きるための自由』(昭五十一)を主張する中で、自由な生を抑圧する壁を打破する道へとこの作家を誘っていった。

 石川が中村梧一郎(『星座』主宰。後の八雲書店主)らと出した『新早稲田文学』に、『芸術共和国』(昭和六年創刊。発行編集兼印刷人、中山義秀)の同人が合流する。『新早稲田文学』は昭和八年まで続くが、同人の一人、中島直人(英文中退)は、熊本からの移民の子として石川より一年早くハワイに生れ、『新科学的文芸』(昭六)、『木靴』(昭十)、『文学生活』(昭十一)などに関係しつつ、多く彼地に取材して書いている。それらをまとめた『ハワイ物語』(昭十一)を残して帰国し、サンフランシスコ郊外の日本人学校長を勤めたりしたが、十五年、交通事故に遭い、若くして逝った。同じく石川に近かった佐藤義美(昭五国文)は、早く『赤い鳥』や『金の星』ほかに童謡を投じ、詩作から出発した。童謡集の『雀の木』(昭七)、童話集『あるいた雪だるま』(昭二十九)など多くを出して、早大童話作家陣の一翼を担った。

 ひと口に戦争文学と言っても、それが内包するものは多様だが、火野葦平玉井勝則、大一二入学、英文中退)がその有力な担い手として概括されることは是非ない。昭和十二年七月、日中戦争勃発で召集された火野は杭州湾上陸作戦に参加、南京入城後、出征前『文学会議』に書いた「糞尿譚」による第六回芥川賞の伝達を杭州で受けたのを機に中支派遣軍報道部に転属となり、十三年五月の徐州会戦に従う。その記録が「徐州会戦従軍日記麦と兵隊」として『改造』に発表され、九月刊行の単行本が忽ち百万部を超すという反響を呼び、一躍有名作家となった。続いて「土と兵隊」を『文芸春秋』に、「花と兵隊」を『朝日新聞』(昭十三―十四)に発表、兵隊作家として位置づけられた。第三巻八九八―八九九頁に既述の如く、十四年十一月十六日、除隊になった火野を迎えて、大隈講堂の外には定刻前から学生が溢れた。吉江喬松は『戦争と平和』を例して「火野君の仕事は日本文学を世界に誇示する先駆をなしたものである」と紹介した。二十二日付『早稲田大学新聞』は「校歌に咽んだ火野軍曹」と伝えている。若松へ出向いた石川達三との右の直前の対談が『中央公論』に掲載されて、作家火野の運命を決定づけたと言っていい。

 石川との対談の中で火野は、「戦争文学専門のやうな立場から早く切り抜けたい……文学の本来といふものに立ち帰つて今までの戦争物と違つたものを書きたい」と意中を明らかにした。早く大正十四年に童話集『首を売る店』を自費出版し、『街』をはじめ、松下俊作らの『とらんしつと』や原田種夫らの『九州芸術』に詩を書き、詩集『山上軍艦』(昭十二)を出版し、「糞尿譚」で芥川賞を受けた事実に明らかな如く、火野は、もともと沖仲仕の仁俠の世界を生きてきた、戦争も政治も超えたところで人間を、庶民の素顔を捉えてきた作家なのである。国民的感動のうねりに捲き込まれた彼が、戦争協力者として指弾されるのは仕方がないとしても、国の無謀な歩みの中に身を投じて精一杯生きた、その意味で「悲しき兵隊」(昭二十)であった火野自身の怒りから眼を反らすわけにはいかない。「幻灯部屋」(昭十五)、「敵将軍」(昭十八)、『青春と泥濘』(昭二十四)など、なお戦争の呪縛からは逃れ難かったが、「花と竜」(昭二十七―二十八)に両親を描き、「革命前後」(昭三十四)に、いわば「兵隊作家」の去就を通じて厳しい自己剔抉を見せているところに、伏せられた自裁をも含めて、時代の犠牲者としての火野の運命が、改めて思い合される。幹部候補生として入隊した彼は、レーニンの訳書を読んでいて降等され、港湾労働者のために数千冊と言われる蔵書を売り払い、文学廃業を宣言して沖仲仕労働組合の結成に挺身し、上海事変に際し石炭積み下ろしの任を果しながら(自身、代表作の一という『魔の河』(昭三十二)に描かれる)赤色分子として留置され転向するというような閲歴を持っていることも、この、あまりに人間的な庶民作家を論ずる際に見落してはならないところである。

 火野とともに『街』から出発した面々が活躍し始めていた。遅れて参加した丹羽文雄が文壇的には先行したが、田畑修一郎(河野修蔵、大一一・一院入学、英文中退)が踵を接している。島根銀行益田支店長だった父が経営の失敗から自殺したので、河野家を出て旅館業を始めた後妻田畑キクの養子に迎えられた。経済的には豊かだったが家庭になじめず、昭和三年、養母の死後遺産を整理して上京、以来死の直前に帰郷したほか、帰っていない。こうした事情の中で身についた孤独癖やそれゆえの自己開放の思い、家郷への慕情と断絶感の交錯などを、田畑は清潔な文体に融解して独自の作品世界を作り上げた。昭和六年、小田嶽夫、蔵原伸二郎、緒方隆士らと『雄鶏』を創刊。その後も、改題された『麒麟』や『世紀』『木靴』などに加わったが、七年三月の『文科』に載った「鳥羽家の子供」、同十月『文芸春秋』に発表された「父母系」あたりで文壇に認められ、一時神経を病んで三宅島に滞在した折の、「南方」(昭十)、「三宅島通信」(同)、「石ころ路」(昭十一)などいわゆる三宅島もので注目された。第一創作集『鳥羽家の子供』(昭十三)が中山義秀の『厚物咲』と芥川賞を争って評判になったが、一連の作品に見られる深い憂鬱と孤独感は、田畑固有の自意識に裏づけられ、余人の捉え得ないものとして評価された。作品集は『乳牛』(昭十四)、『狐の子』(昭十五)と続くが、概して身辺に取材した私小説的傾向について、方法的には「形できめたくない」とし、「その持つ確かさと重味が僕の心を惹く」(『狐の子』後記)と語った。十六年『医師高間房一氏』を書き下ろしたが、続稿をも予定していたらしいこの長編には、田畑の断ち難い思郷の情とともに、丹念な描写を通じてその筆力の確かさが窺われる。そのほか、作品集『蜥蜴の歌』(昭十六)、長編童話『さかだち学校』(昭十七)、『ぼくの満州旅行記』(同)、紀行文学『出雲・石見』(昭十八)などがあるが、この紀行取材のための帰郷が、最初にして最後だった。しかも遺作となった『郷愁』(昭十九)に及んで、描き続けたのは、少年の日の郷里であり、やがて嫌い続けてきた養母の愛であった。十八年七月、田畑は新民話研究会の求めに応じて盛岡へ民話採集に出向き、盲腸炎の手術後急逝した。

 寺崎浩(大一二入学、仏文中退)は、『街』とは別に佐伯孝夫と詩誌『棕梠の葉』を出し、西条八十の指導を得て詩作を試るとともに、真船豊らと『戯曲』同人として一時期を共有してもいる。横光利一に師事し、「角」(昭八)あたりから文壇の人となり、「橢円の脈」(昭十)など、恋愛心理の襞を描く作品に特色を見せた。十一年、徳田秋声の次女喜代子と結婚。創作集『祝典』(昭十一)のほか、満州開拓の地を背景に、長く希求し夢見てきた素朴な愛の姿を『愛の出発』(昭十五)に描いた。作家の歩みを書いた『青の時』(昭四十)が、横光ほかの同時代人を伝えている。

 同じ『街』出身の中山省三郎(昭四露文)は詩や翻訳で活躍した。詩集『羊城新鈔』(昭十五)、『縹緲』(昭十七)などとともに、名訳と言われたツルゲーネフの『猟人日記』(昭八―九)ほか、プーシキンの『オネーギン』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』等がある。横瀬夜雨や長塚節など同郷の詩人についての仕事も残しており、『長塚節遺稿』(昭十七)を編み、『長塚節全集』(昭二十二―二十三)に好い解説がある。

 逸見らの『朝』の仲間で、その才能を期待されながら夭折した近藤正夫(筆名紺弓之進、大一四仏文)が、「夏」(大十四)、「花」(昭二)などを遺している。「無花果」(大十五)が昭和三十一年の『新潮』物故作家号に再録されて好評だった。同世代に林柾木(大一三仏文)がいる。浅見淵は、戦争中発表して評判の高かった「昔の人」の清冽な浪漫性を、ファーブルの『昆虫記』を読むような微妙な観察とともにその特色として認めている(『日本の近代文芸と早稲田大学』一七八頁)。大正九年入学、英文中退の衣巻省三は、「けしかけられた男」で第一回芥川賞を石川達三らと争う実績を残した。「いかにも神戸人らしいハイカラな作風」を、同じ神戸出身の浅見は認めている。一方、夙に稲垣達郎と雑誌『演劇』(昭和四―六年)を出し、同時期に早稲田の演劇を担った三好十郎や真船豊らとともに演劇青年の経験を持つ古志太郎(大一五国文)に、「帰郷」「村だより」などの農民小説がある。長篇『部落史』(昭十三)で芥川賞候補に挙げられた打木村治(保、昭三政)も農民作家として逸することができない。別に満蒙開拓に取材した長篇『光をつくる人々』(昭十四)、短篇集『般若』(昭十五)があり、戦後は少年文学の筆を執っている。

 三木蒐一(風間真一、昭七英文)は、『文学クオタリイ』(昭和七年創刊)、『文芸首都』(昭和八年創刊)、『早稲田文学』などを舞台に、「不況時代の世相風俗を捉えて新社会小説といった風な純文学作品をしきりに書いて」(『日本の近代文芸と早稲田大学』一八六頁)嘱望されたが、実業之日本社から博文館に転じて『講談雑誌』の編集に生きることになった。代表作「地下鉄伸公」の連作がある。評論家十返千鶴子(十返肇の妻)の兄である。

 三木が編集者として山本周五郎の大成に貢献したように、作家を志しつつも寧ろ裏方としての役割が大きかった保高徳蔵を忘れることはできない。明治四十四年に英文学科入学、直木三十五、青野季吉、宮島新三郎、西条八十らと世代を共にした。読売新聞記者や博文館の編集を経て大正十年七月の『早稲田文学』に「棄てられたお豊」を発表して創作活動に入ったが、生活難で続かなかった。自伝小説「泥濘」が竜胆寺雄の「放浪時代」とともに第一回の改造社懸賞小説に当選したが、やはり志を得ず、結局、新人発掘のための雑誌経営に専心することとなり、『文学クオタリイ』と『文芸首都』とを創刊、妻みさ子の協力を得て多くの作家を育てた。作品集には『孤独結婚』(昭十一)、『或る死或る生』(昭十七)ほかがあり、評論集『作家と文壇』(昭三十七)がその貴重なキャリアを伝えている。

 そうした先輩を超えて日の当たる場所に出た作家に、田岡典夫(大一五入学、中退)がいる。パリから帰って六代目菊五郎の俳優学校を卒業した変り種で、同郷(高知)の田中貢太郎主宰の『博浪沙』編集に従事しながら、「強情いちご」(昭十七)で第十六回直木賞を受けた。戦後の代表作に「権九郎旅日記」(昭二十四―二十六)などがある。

 田岡の二年後輩の山田克郎(克朗、昭一一商)は海洋小説に道を求め、戦前の代表作に長篇『日本海流』(昭十八)があり、戦後『文芸読物』に書いた「海の廃圜」(昭二十四)が第二十二回直木賞の受賞作となった。

 今官一は昭和二年高等学院入学、露文を中退したが、中学時代の教師福士幸次郎の影響を受け、中退後は横光利一に師事した。昭和八年、古谷綱武らと『海豹』を創刊、九年には太宰治らと『青い花』を出し、のち『日本浪曼派』に合流している。第一作品集『海鷗の章』(昭十五)を生んだ磨かれた感性と知的な凝視の眼とは、戦争中一等水兵として戦艦「長門」に配属された体験を写した『幻花行』(昭二十四)に生かされている。小説集『壁の花』(昭三十一)で第三十五回直木賞を得た。一日の大半を生計に傾ける中で、「おのが琴にあはせて、世はづれ者たちに歌はしめたる、わが深夜の歌」(あとがき)と自ら言う如く、内にひそめた思いが高雅なリズムを伴って形象されている。

 八年仏文卒の西川満は、卒業後台湾の鉱山主である生家に戻って『台湾日日新報』から著作の道に入り、詩集『亜片』(昭十二)で詩業功労賞、小説『赤嵌記』(昭十七)で台湾文化賞を受けるなど、台湾の文学振興に貢献し、邱永漢らの面倒を見てもいる。ほかに小説『梨花夫人』(昭十五)、詩集『華麗島頌歌』(同)などがある。多くの作家が戦争を挟んで内外に亘る特異な体験をしたが、湯浅克衛(猛、昭三入学、中退)もその一人である。「焰の記録」(昭十)が『改造』の懸賞当選作となって作家生活に入ったが、生家が朝鮮で果樹園を営んでいたことから、彼地に取材した作品が多い。第二次『現実』(昭和十一年創刊)から武田麟太郎の『人民文庫』(同年創刊)に加わり、「城門の街」(昭十一―十二)ほかを書き、別に、「移民」(昭十一)、「棗」(昭十二)、「先駆移民」(昭十三)などを発表した。朝鮮から満州開拓へ、時代の作家としての宿命を体現した観がある。

 いわゆる文芸復興期へ向けて昭和八年『文芸』が創刊され、志賀直哉の「『女の学校・ロベエル』を読む」が巻頭を飾ったが、「(新庄嘉章訳)に感心して、良い本程いいものはないと思つた」と書き起こし、「原文が読めればそれに越した事はないが新庄氏の訳も私はいいと思つた」と結んだので、新庄の名は一躍挙がった。春陽堂世界名作文庫の新庄訳は、あたかも、佐藤輝夫、根津憲三、小林竜雄、そして新庄ら早大の若手仏文学者を中心とする『仏蘭西文芸』の創刊(昭和八年四月)と時を同じうして出ている。更に翌五月には、野田誠三(野田本で有名な、後の野田書店主)を編集人とし、小田善一や村上菊一郎、小田仁(仁二郎)らが顔を揃えて『ヴァリエテ』が創刊された。フランス文学興隆期を思わせ、ある意味で戦争前の良き一時代を伝えてもいるが、そうした雰囲気を背景に、昭和八年、田村泰次郎(昭九仏文)や井上友一郎(昭一一仏文)の加わる『桜』が出た。同人代表格の坂口安吾ほか、北原武夫、菱山修三、真杉静枝、矢田津世子ら注目の新人が名を連ねて、「文学の新精神」(座談会)が語り合われているが、田村の積極的な文学活動はこのあと卒業を機に始まった。丹羽文雄が学んだ三重県立富田中学の校長を父親とする田村は、昭和四年、同中学から学苑第二高等学院に進むと、翌年には仲間を得て『東京派』を始め、小説や評論を書いている。仏文科で井上と相識り、伊藤整や上林暁、丸岡明らが参加していた中河与一の『新科学的』の同人にもなった。『詩と詩論』『文学』『三田文学』に亘って精力的に評論活動を展開したが、この理論構築、問題意識の体現を志向する点に、作家田村の特色が認められる。牧野信一が賞めた「選手」(昭九)や「日月譚工事」(同)、「夏」(同)等の小説とともに、『新潮』に「私小説とリアリズムとの遊離」(同)、「わが文学の主義主張――現代文学に関連して」(同)などを発表し、十年には『三田文学』で文芸時評を担当するまでになった。『人民文庫』時代には「大学」を連載し、また仲間との徳田秋声研究会が無届けだったことで検束されたりもしたが、十五年五月以降の戦争体験を含めて、観念を超える実体験、肉体による認識の場を獲得していく経緯がそこには見られる。昭和二十二年の「肉体の門」がその所産だが、性の開放に向う時代の享受は、「肉体作家」と言う矮小化を以てする向きがあった。常に肉体と思想との相剋を追う田村を知る作品として『春婦伝』(昭二十二)があり、「肉体が人間である」ほかを収めた『肉体の文学』(昭二十三)が、風俗作家に終らない所以を立証している。

 井上友一郎は大阪の人。棒術、体術の免許皆伝という祖父の影響が大きいとのことだが、中学時代は野球と小説に明け暮れ、何校も渡り歩いて早稲田に来た。同人誌『換気筒』に発表した「森林公園」(昭六)を川端康成に認められ、田村泰次郎をも知って小説家を決意する。「道化者」(昭九)が『経済往来』の採るところとなり、その才能は在学中から認められた。都新聞記者として戦争下の中国に出向き、「従軍日記」(昭十四)ほかを書いたが、ダンサーに取材した「残夢」(同)が丹羽文雄らに高く評価された。風俗を捉える眼に庶民感覚が生きており、筆力の確かさが窺われる。昭和十四年、坂口安吾、高木卓、平野謙、檀一雄らと『現代文学』を始め、「千利休」(昭十六)ほかを書いた。戦前では「竹夫人」(昭十八)、戦後では二十二年に丹羽、石川、田村らとともに『風雪』を出す傍ら、「ハイネの月」(昭二十二)、「美貌と白痴」(昭二十三)、「絶壁」(昭二十四)などを発表している。転校を重ねた中学時代の放埒な生活を描いた自伝的長篇『蝶になるまで』(昭二十四)は、若い日の井上を十二分に髣髴させると同時に、囚われない、対象化の確かさを見せている。巧みな会話の運びは大阪出の作者の独擅場で、人物や性格を浮彫りにし、庶民の哀歓をさり気なく写すことを成功させている。

 昭和八年、『早稲田文科』が創刊された。英文在学中の市川為雄、大滝信一、斎藤良輔、寺尾博(寺岡峰夫)、藤田秋六、前川修、宮内寒弥(池上子郎)、森田素夫らで始まり、野村尚吾(利尚)、露文の佐々三雄、独文の藤川徹至、国文の沢野久雄らが後に加わる。十年の卒業仲間になるが、中退組の石川利光も遅れて参加した。文芸復興の気運の中に真摯な文学を獲得すべく、既成文学に厳正な批判を下し同人誌に期待すると揚言している通り、素朴な誌名の下への意欲的な結集の実が認められる。小説では創刊号に「初愁」を、第四号に「霧(ある妾の娘の話)」(昭九)を寄せた宮内寒弥が先ず挙げられる。処女作「蜃気楼」(昭八)以来、父の任地樺太に取材したものが多い。「中央高地」(昭十)がチェーホフ曾遊の流刑地を捉えて芥川賞候補になった。北辺の荒寥たる風物と都会への想いとが、肉感的な叙情として形象化されたところに特色がある。自殺した実弟への鎮魂譜とも言うべき『からたちの花』(昭十七)や、従軍体験を書いた「憂鬱なる水兵」(昭二十一)、湘南地区の有閑マダムに材を得た諸作などがある。

 野村尚吾は『早稲田文学』編集を経て長く毎日新聞出版編集部に勤めた間の創作活動で、同人誌『泉』に発表した「岬の気」が第五回「文芸推薦」小説として昭和十七年『文芸』に載り、貝類研究の男とその妻や母親をめぐる複雑な心理描写のうまさが川端康成らに認められた。「旅情の華」(昭十七)が芥川賞候補になり、文壇に地歩を得た。短篇集『嫩葉の木立』(昭十五)があり、戦後には、丹羽文雄の『文学者』に書いた「白い面皮」(昭二十三)が横光賞候補に、「遠き岬」(昭二十五)と「花やあらむ」(昭三十五)がともに芥川賞候補に上った。伝記的な著作もあり、『伝記谷崎潤一郎』(昭四十七)で毎日出版文化賞を得た。

 佐々三雄は、連作私小説五編を収めた『献身』(昭十三)を遺して名がある。寧ろ「自己小説」と表現すべきだとして、その「自虐のリリシズム」「モラリストのリリシズム」を見た寺岡峰夫が、以後の文学活動の苦難を予見していたが、昭和二十二年、三十八歳で生涯を閉じた。太宰治の『晩年』や高見順の『故旧忘れ得べき』に比肩するに足る我らの哀しい青春文学であったと、平野謙は位置づけている。

 沢野久雄は、石川利光とともに、主たる執筆活動は戦後に属する。石川は戦前、幾つもの同人誌を経て、『文芸主潮』に「情意の純粋さ」(昭十七)、「美と実存」(昭十八)などの評論を書いていたが、発行を助けていた『文学者』に発表の「夜の貌」(昭二十五)が芥川賞候補になり、更に「春の草」(昭二十六)で、安部公房の「壁」とともに第二十五回芥川賞を受け、文壇の人となった。沢野は、都新聞記者から朝日新聞社に転じ、この間、召集されて終戦まで軍籍に身を置いていたため、戦後書き始めることになった。「晩歌」(昭二十四)が芥川賞候補となり、川端康成の知遇を得る機に恵まれたが、「道化の師」(昭二十五)、「夜の河」(昭二十七)あたりから文壇に迎えられた。その後、「被害者」(昭二十九―三十)、「火口湖」(昭三十三―三十四)、「風と木の対話」(昭三十四)ほかへと作品活動は続くが、京染屋の娘と妻子ある生物学者との恋を描いた「夜の河」の、襞に富んだタッチや、新聞記者特有の眼と調査で今日的課題を提示するところに個性を見せている。

 『早稲田文科』に「桃」以下続けて小説を発表した寺尾博(寺岡峰夫)は、『早稲田文学』の「一頁評論」(「能動的精神の思想について」)(昭十)、「純粋小説論の非通俗性」(同)あたりからの批評活動に寧ろその本領が認められる。引続き、「詩的精神に反抗する散文精神」(同)ほか時代が直面する問題への鋭い切り込みや、岩野泡鳴、滝井孝作、芹沢光治良、徳田秋声などの各論に、若い柔軟な感性と情熱的な論究を見せている。先輩青柳優を継ぐ存在として期待されながら、『文学求真』(昭十五)を遺すのみで昭和十八年に早逝した。

 市川為雄は『早稲田文科』初号から評論・作品評の筆を執って正しい文学の方向を探り、既成文学の批判を重ねたが、それらは『現代文学の理想』(昭十六)にまとめられた。終戦前、郷里に疎開し、以後は前橋市立工業短大などの教壇に立つ傍ら、群馬県を中心とする文化の振興や文学の研究に力を尽した。『現代文学の指標』(昭三十六)ほかがある。

 大正中期以降、早稲田出の批評家には平林初之輔、青野季吉、吉江喬松らがあり、実作者の側から正宗白鳥や宇野浩二の優れた批評活動が挙げられるが、その後は、浅見淵らを別にすると、江間道助(大九英文)や小宮山明敏(大一五露文)、そして青柳優(昭五英文)、岩上順一(昭二入学、英文中退)らに絞られ、輩出した小説家に比べると少い。

 江間道助は大正十年から文学部の講壇に立ち、ドイツ文学を担当する傍ら批評活動を始めた。「人格芸術の意義と使命」(大十)、「個性の要する時代」(同)あたりを初めとして注目すべき主張を展開し、「人格の芸術」「主張たる文学」「行動の文学」へと、基底をシラーの美学に置いた、ドイツ文学との対比で論究したところに特色があった。第三次『早稲田文学』の創刊とともに、編集同人でもあったその誌上を中心に新たな活動に入るが、それらをまとめたものに『前向き文学論』(昭十)がある。「日本的リアリズム」を論じては「自己周囲の描写」にとどまるその閉鎖性に触れつつ、しかも隠者的無常観から「行動者の無常観」へと発展することへの期待を提示した、そして私小説や心境小説を世界文学へと推し進めるべく方向づけた、骨太なその批評活動は、高く評価されてよい。

 小宮山明敏もまた、夭折を惜しまれた批評家だった。卒業後、高等学院の講師となったが喀血して退き、しかも病床にあって盛んに執筆を続けた。社会主義運動に身を投じ、ナップに加盟しているが、「形式主義文学論の史的意義」(昭四)その他、プロレタリア文学運動の理論的担い手として活躍した。『文学革命の前哨』(昭五)を通じて、その理論体系をたどることができるが、仲間として強くライヴァル視していた尾崎一雄は、後年の『懶い春』の中で、惜しむべきこの異才を高く評価して描いている。

 青柳優は、初め前衛的な詩作や小説を以て自然主義的な既成文学に対峙したが、同人誌『散文精神の内的解体である』や『世紀文学』『稲門文学』『文陣』などを経て、次第に評論へと移り、昭和十年の「浪漫主義の虚妄」あたりから意欲的に筆を執り、「中条百合子論」(昭十)、「武田麟太郎論」(昭十一)ほかの作家論をはじめ、「反動と知性の対立」(昭十二)、「文学社会化の根柢」(昭十三)などを相次いで発表した。問題の所在を見るに敏で進歩的であり、しかし論じては中庸公正、当を得た論調で評価された。『現実批評論』(昭十四)、『文学の真実』(昭十六)、『批評の精神』(昭十八)などを遺しているが、終戦の前年、四十一歳で没した。

 岩上順一は、学苑在学中からの左翼運動で検挙され、転向後職を変えながら、昭和十三年に東京外国語学校露語科に再入学後、「祖国と愛情」(昭十三)を発表した頃から俄然執筆が活発になり、ロシア・リアリズム理論を支えに『文学の饗宴』(昭十六)、『文学の主体』(昭十七)、『歴史文学論』(同)、『横光利一論』(同)などを刊行、戦後も新日本文学会の初代書記長を務める一方、旺盛な著作活動を続け、『「戦争と平和」論』(昭二十一)、『階級芸術論』(昭二十三)ほかを遺した。昭和十六年十二月、言論統制の厳しく進む中で、なお「知的世代の豊かな登場を予感する。批判的精神は決して地に堕ちてはゐないのだ」(『文学の主体』あとがき)と揚言し、戦争の時代と真向から対峙する姿勢を鮮明にした。

六 ろまんの残党

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 昭和十五年六月『新風』が発刊された。編集兼発行者丹羽文雄。経済的には中央公論社が全面的に担い、小林秀雄、林房雄らの『文学界』に対抗すべく丹羽、高見順、石川達三、伊藤整らにより創刊されたというが、執筆者二十六名中、早稲田関係者は丹羽、石川のほか、寺崎浩、田畑修一郎、井上友一郎、青柳優らが名を連ねた。「寄合世帯」とか「乗合船」とかの世評を受けながら、「共通な若さが有りさへすれば」ということで「同人三十余人」が集っていた(巻頭言)。いずれにしても丹羽を編集兼発行者としている事実から、時の文壇における早稲田勢力の位置を窺うことはできる。荒木巍、太宰治、南川潤と並んで寺崎が小説を書き、石川が長篇連載「感情架橋」の第一回を寄せ、田畑が伊藤整と往復書簡形式で「ロマネスク論議」をしている等のことも、その一端を示すものと見てよかろう。「新聞紙法の認可が殆ど許されない」情勢ゆえに当分隔月発行になると「編輯後記」が述べているが、この雑誌は、早々に軍部から中央公論社に圧力がかかり、結局一号だけで廃刊になってしまった。

 『新風』発行日から半月後、同じ月に、「ぐろりあ・そさえて」の伊藤長蔵を編集兼発行人として『文明評論』が創刊され、「事変と文学者」について保田与重郎が、「時代批評について」芳賀檀が書いているのが目につく。無論「日本浪漫派」のリーダー格だった二人だからだが、「本誌の最も特長とするところは、日本の国粋に立ち世界の規模で新文明を立案しようとした精神の支持によつてゐる点である」と明記した「編輯後記」と、二人が書いている内容とが、きわめて近い関係にあるのが明白だからである。「時代の影響やジャアナリズムの要求や、さうした種々な混濁を超えて新しい文学の道は発見される」と信じ、ただ「各自の文学を完成させて行く」ことをのみ目指すと巻頭言で述べた『新風』は、一号だけで潰されてしまった。見比べて、時に処する文学者の姿勢の歴然たる差異に、文字通り思い半ばに過ぎる。魂の自由を守って、作家が作家であろうとすることの難しい状況が迫っていた。

 そんな中で『黙示』(昭和九年創刊。第二次、昭和十三年創刊)の仲間が育ちつつあった。十一年仏文卒の多田裕計以外はすべて十三年の仏文出で、同人中、最も早く名を出したのは長見義三である。在学中「姫鱒」(昭九)を書き、アイヌに取材した「ほつちやれ魚族」(昭十)が「新鋭作品」として紹介され、卒業直後の十三年十二月には「母胎より塚穴へ」が「小樽新聞」の懸賞募集で入選した。選者の一人が谷崎精二だったことから、以後、師事することになる。北海道出身者としてアイヌを描いたものが多いが、亡びゆく部落の人々を写しながら、感傷をまじえぬ筆が爽やかである。『別れの表情』(昭十五)、『アイヌの学校』(昭十七)や自伝『白猿記』(昭五十二)がある。

 多田裕計は『長江デルタ』(昭十六)で第十三回芥川賞を受賞した。上海の中華映画社に勤めていた関係で、作品が現地の『大陸往来』に載ったため「現地文学」と言われ、「芥川賞海を渡る」と喧伝された。大陸侵攻の進む時代を背景に、「和平救国」を心する中国青年を捉えたことで時局便乗との批判もあったが、後に多田は、『アジアの砂』(昭三十一)の中で、時代を生きた苦衷を吐露している。戦後は「蛇師」(昭二十三)で大衆文芸懇話会賞受賞、ほかに「荒野の雲雀」(昭二十四)などを書く傍ら、句誌『れもん』を主宰、芭蕉研究にも注目される業績を挙げている。

 八木義徳の第十九回芥川賞受賞作「劉広福」(昭十九)も、奉天のガス工場に働くクーリーがモデルである。同国人の嘲侮の的になっている主人公を、誠実で信義に厚く、人間的に高く評価される人物として愛情深く描き上げた。室蘭中学時代に有島武郎の『生まれ出づる悩み』を読んで文学に惹かれ、左翼運動の嫌疑を逃れて満州に渡るなど、時代苦を経験し、孤独に沈湎しつつも失わなかった詩魂が、それを可能にしたと考えられる。しかも戦禍は自らのうちに深く及び、復員後、妻子が深川大空襲の犠牲になったのを知っての「母子鎮魂」(昭二十一)がある。「私のソーニャ」(昭二十三)に孤絶からの再生を希求し、「美しき晩年のために」(昭二十三)あたりで作家的地歩を得た。秀作とされた「鳥」(昭三十七)などに、実生活と芸術の乖離と融会に思索を深める姿が読み取れる。

 第二十三回芥川賞受賞作、辻亮一の「異邦人」(昭二十五)も、旧満州が舞台になっている。ただしこれは、敗戦の混乱時に妻を失い、就職先から抑留されて病院の雑役に従わされた辻自身の体験をそのままに写したもので、辻にとって戦争の惨を超克するに不可避のテーマだった。

 辻同様に、あるいはそれ以上に戦禍の痛手を受けたと見られるのが、中村八朗である。昭和十四年に応召、終戦でシンガポールの収容所に強制労働の二年間を過ごして、二十二年に復員した。その間の実態を『虜愁』(昭二十三)ほかにとどめているが、その後、『桑門の街』(昭二十四)に宗門の内部を剔り、更に『聖母の領域』『勲章家族』などに旺盛な筆力を見せた。何度も直木賞候補に上ったが、丹羽文雄主宰の『文学者』で果している役割も大きい。スマトラでの体験を生かした『マラッカの火』(昭二十九)があるが、独立運動への眼に、歴史を見通す姿勢が窺われる。

 昭和十八年九月、早稲田文学社が『十年』を編み二見書房から出している。代表の谷崎精二が、「手銭手弁当」で編集経営に当った第三次『早稲田文学』同人達の労苦を語っているが、その「跋」文の校正を終えた時、田畑修一郎の訃に接した。田畑は「泥と赤土」の一編を寄せていたが、文学部の教室や批評会で親しんできた面々への谷崎の感慨は大きい。井伏鱒二、中山義秀、浅見淵、尾崎一雄、逸見広、丹羽文雄、火野葦平、田畑修一郎、井上友一郎、長見義三、宮内寒弥、野村尚吾の十二名がそれぞれ書き下し短篇を寄せて成った一本だが、いずれもが、さまざまに苦闘の日々を重ねながら、この間の早稲田の文学を担い、文壇における勢力を守ってきた作家である。戦局漸くにして非なる時、寧ろ大方は戦場に惨を嘗めていて、寄せるに一編の筆執る余裕などあろう筈もなく、生命を賭した戦いの中にあった。文学を志し、ロマンを夢見ていた後続の青年達が、たまたま早熟の才を認められ、早く第一創作集『春服』(昭十五)を出していた北条誠(昭一五国文)や『風物語り』(昭十七)の小林達夫(昭一七独文)らを別として、戦後に活動の場を得ることにならざるを得なかったのも是非ない。

 昭和二十年八月、敗戦。大仏次郎、吉川英治らの「英霊に詫びる」が『朝日新聞』に載った。日本文学報国会、日本言論報国会が解散した。九月、「悲しき兵隊」を発表して火野葦平がペンを折った。焦土の中から文学の復興が始まる。十月の『文学』『文芸』の復刊をはじめ、各誌の創刊が相次いだ。十二月、『早稲田文学』も復刊し、「戦後文学に就て」谷崎精二、江間道助、浅見淵が語り合った。

 二十一年七月、『芸術』が創刊される。なお紙不足の当時としては、総合芸術雑誌にふさわしくかなり贅沢なものだが、新庄嘉章が編集人だったためもあろう、創刊号に名を連ねた執筆者の半数は、会津八一日夏耿之介、青野季吉、小口優、仁戸田六三郎、岩上順一、佐藤輝夫、根津憲三、飯田蛇笏ほかの学苑出身者で、創作欄には丹羽文雄が「愛慾」を、宮内寒弥が「憂鬱なる水兵」を寄せた。季刊第二号(同年十月)には稲垣達郎の「永井荷風」、中山省三郎の詩「はちす」ほかが発表され、編集人が荻野悌に替った第三号(昭和二十二年四月)に石川達三の「ろまんの残党」が載った。

悪い時代だつた。ひどい霜枯れの時代だつた。文学青年の純粋さを維持して行くには全く辛い季節だつた。官僚は国民を窒息させ軍部は国民を縛りあげた。伸びるべき思想は叩き潰され、あらゆる自由は葬り去られた。芸術の尊厳がどこに在つたらう。

戦争に敗けたということは、日本が、そして文学が敗けたということだ。だからこそ落ちぶれた「ろまんの残党」なのだという自覚に立って石川は、苦難に耐えた「昔の仲間たち」に呼びかける。「惨々たる焦土の国、人間の心の底までも焦土と化した荒廃の国のなかに在つて、私たちはいま(文学をやるよりほか仕様がない)ではないか」――それが石川を支えた心だった。思えば、これまでここに名をとどめてきたすべての者が、あるいは、その背後になお多くの個性が、石川と同じような心で、集まり、そして散じていたのである。

 榛葉英治(昭一一英文)が満州から引き揚げてきた。二十三年十二月、姦通をテーマに東北の女の性の問題を抉る「渦」を『文芸』に書き、横光賞の候補となる。当時としては最も先端的と言っていいテーマが話題を呼んだ。「淵」「流れ」と続く三部作や、「蔵王」(昭二十四)ほか、人間を支える肉体の意味を問い続ける作品が多いが、敗戦時の悲惨な満州を描いた『赤い雪』(昭三十三)で第三十九回直木賞を受けた。榛葉と同期の浜野健三郎も、終戦と同時に俘虜となり引き揚げてきた。陸軍の報道部員としてフィリピンに渡り、米軍の反攻作戦に捲き込まれ、生死の境を生きて還った体験を、『私版スサノオ記』(昭三十)に書いている。結城信一(昭一四英文)は、松島栄一(昭一五国史)らとの同人誌『ロゴス』に「鶯」(昭二十一)を、『象徴』に「流離」(同)、「復興祭」(昭二十二)などを書いているが、「秋祭」(昭二十三)が新人特集号に載り、「蛍草」(昭二十六)が芥川賞候補作として認められ、第三の新人として位置づけられた。第一創作集『春服』の出版記念会席上に召集令状が届いた北条誠は、満州を転戦中負傷して兵役を解かれた。戦後、川端康成に招かれて鎌倉文庫に勤めたが、「寒菊」(昭二十一)、「一年」(同)などで野間文芸奨励賞を受け、本格的な作家活動に入る。その後、アナウンサーだった姉の影響もあり、伊馬春部や北村寿夫らとのリレー劇「向う三軒両隣り」などのラジオ・ドラマで人気を博した。

 昭和二十三年の「文学界の回顧」で荒正人は、戦後文学と民主主義文学とに対立するものとして「早稲田派リアリズム」を挙げた。丹羽文雄、石川達三、井上友一郎、田村泰次郎、寺崎浩らのいわゆる風俗作家の一群が新聞小説、婦人雑誌、カストリ雑誌を支配することによって出版ジャーナリズムの中で一大天国を形成し、その余勢を駆って、丹羽の「哭壁」(昭二十二―二十三)や井上の「悪」(昭二十三)などは純文学の領域にまで進出してきていると言う。社交兼勉強の場として十五日会の存在が大きく、そこから『文学行動』に拠る有力な新人が輩出しているし、『風雪』『文学界』『新小説』『文芸首都』から『早稲田文学』に及んで、息のかかった発表舞台を積極的に確保することによりその勢力を保持していると見ている。戦後二年目あたりまでのアプレ・ゲール旋風が収まるとともに庶民の生活に根ざしたこの派の写実主義が再評価され始めたのは当然として、文学理論が全くなく、既に新世代からの自己批判の声も出ている。この一派がメイン・カレントを創るかどうか、いずれにしても、「早稲田派リアリズム」がロウ・ブラウ文学としての傾斜を見せ始めていることは見逃せないのではないか――それが荒の概括であり見通しだった。

 例えば『風雪』(昭和二十二―二十五年)は、北条誠や巌谷大四(昭一五英文)らと『辛巳』(昭和十七年)を出した小笠原貴雄(昭一五国史)が、丹羽以下の先輩を迎えて発行したものである。発行所の風雪社は、田村の『肉体の門』、丹羽の『厭がらせの年齢』、織田作之助の『妖婦』などを出版する実績を持つ。二十二年九月には、『風雪別輯第一号』を風雪同人作品集として出しており、火野「海抜四百尺」、小笠原「閉された門」、井上「彼岸」、田村「大行山の絵」の四篇を収めて丹羽が「後記」を書いている。すべて早稲田である。

 十五日会は二十三年四月の発足。丹羽の配慮で世界文化社から雑誌『十五日会』が刊行され、二十四年三月までに五冊が出た。これを継ぐ形で二十五年七月に同人誌『文学者』が創刊され、三十年十二月までに六十四冊。三十三年五月、第二次が再刊され、丹羽個人の資金で通巻二五六号に亘った。新人研鑽の場として用意されたこの雑誌からは、早稲田系の辻亮一、石川利光、菊村到のほか、近藤啓太郎、斯波四郎、河野多恵子、津村節子らが芥川賞を、そして、新田次郎、榛葉英治が直木賞を獲得したほか、各種文学賞の受賞が相次いだ。それらは多く後日のことに属するし、荒正人見るところの早稲田派の枠を大きく超えている。従って、批判的だった一派が「メイン・カレント」を成したとも言えない。「早稲田派リアリズム」が中村光夫の風俗小説批判の爼上に乗る側面を持っていたことは否定し難いが、しかし寧ろ、荒が見定めた「ロウ・ブラウ文学」の伝統を、いい意味で保持し続けたところに、講和条約後の新しい文学の時代を担う個性を多く生む因があったとも言える。その土壌を培った丹羽文雄の功績は大きく、それは、戦中・戦後の最も困難な時代を、「何もかも」面倒を見ながら、二十四年二・三月合併号の終刊まで第三次『早稲田文学』を担い続けた逸見広の努力とともに忘れられない。

 戦後、困窮の時代の『早稲田文学』は、小沼丹(昭一七英文)、林柾木(昭一三仏文)、井上孝(昭一六仏文)、そして稲垣達郎の尽力に負うところが多い。「昔の人」(昭十九)や昭和二十一年後半期の『日本小説代表作全集』に収められた「伉儷」などを書きながら、二十三年四月、戦禍の余燼の中で没した林を別として、小沼や井上の実作活動が世に認められるのはもう少し先のことだが、その間、『早稲田文学』の支柱としての貢献を見落としてはならない。

 昭和二十四年五月、第四次『早稲田文学』がスタートした。新制大学発足ひと月後、新たな時代へ向けてのスタッフとして、石川利光、浜野健三郎、八木義徳、野村尚吾、宮内寒弥らが起用され、正宗白鳥、青野季吉以下の大先輩が稿を寄せて後楯となった。かつて、第一次『早稲田文学』が休刊(明治三十一年十月)したあと、島村抱月主幹の第二次創刊(明治三十九年一月)までの間、復刊の許しを坪内逍遙に願い出た者は少くない。結局、伝統の看板は英・独留学を終えて早々の抱月に委ねられたのだが、責務を異にし、歴史的な役割に差はありながら、伝統の灯を守ろうとする文学の徒が跡切れることはなかった。しかし、未曾有の敗戦である。その余弊・混乱は底深く拡がっていた。インフレが激化し、衣食住のままならぬ中で、雑誌の経営は容易でなかった。再建への難路に杭を打ち込みながら、第四次以後の『早稲田文学』は、更に苦闘の歳月を歩み続けることになるのである。