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第八編 決戦態勢・終戦・戦後復興

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第十章 大山郁夫の帰国

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一 アメリカ亡命十五年半

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 敗戦直後から二十四年の新制大学発足までの間にあって、学苑に最も熱狂的な事態が見られたのは、二十二年十月、十五年半の長きに亘りアメリカに亡命していた大山郁夫の帰国を迎え、翌年四月、三たび学苑教授に招聘した前後であろう。学生達の熱望と学苑に漲ったそれを支持する雰囲気とは、敗戦後間もない我が国において、社会的にも注目に値する一事件であったと言ってよい。

 我が学苑が、創立以来、政治的にも社会的にも日本の近・現代史ときわめて密接な関連を持って発展してきたことは喋々する必要がないが、大山帰国問題も必ずしも私的なものではなく、公的な性格を持つものであった。大山帰国の可能性が具体的になってきた二十一年六月下旬は、学内では教育民主化の重要措置として作成中の「好ましからざる教育者」追放に関する「早稲田大学学部教員適格審査委員会規程」の成案ができ上り、審査準備が進められていた時期であった(本編第七章第三節参照)が、戦後における大山の再登場は、敗戦直後の民主主義の象徴というよりも、寧ろ、大山帰国前後に決定的となった冷戦時代に対処する我が国知識人の使命の具体的象徴であったように思われる。敗戦の年、昭和二十年年末に、政治経済学部教授会が大山の学苑復帰を決議した時点から、大山が帰国した時点までには、二年が経過しているのであるから、この二時点を直接結びつけるのは妥当でなく、国際関係、日本の政情の変化、学苑における教授陣と学生等々、さまざまな要因の構図の中で大山を捉えなくてはならないであろう。すなわち、大山帰国の時点においては、世界はあらゆる面で利害の相反する米ソ両国により二分され、世界史の進展は二つの全く相反するイデオロギーの衝突か協調かによって左右される微妙な国際関係の構図が現出していた。国内では、我が国最初の社会党を主軸とする片山哲内閣が社会・民主・国民協同三党の連立によって五ヵ月前に成立していたとはいうものの、その狐疑逡巡、一時を糊塗するを以て足れりとする施政のゆえに不人気となり、やがて平野力三農相問題で支持基盤の社会党自身が分裂するに至っていた。他方、学苑においては、如上三章に説述した如く、民主化への摸索と実行とが進められるとともに、学生運動も大きな高まりを見せていた最中だったのである。

 第五編第四章、第六編第十六章その他に既述した如く、大山郁夫は明治三十八年大学部政治経済学科を首席卒業、一年間の特待研究生を経て、翌三十九年六月より高等予科で英語を担当し、四十三年九月より大正三年十一月まで米欧に留学後、大正四年一月教授に任ぜられた。しかし「早稲田騒動」に際し、六年九月教授を辞任、大阪朝日新聞社に迎えられて操觚界に身を投じたが、十年四月、高田の懇請黙し難く学苑教授に復帰して、大学令下の政治経済学部の充実に身を挺した。これより「大山事件」で再び母校の教壇を去るまでの時期は、大山が新しい政治学の樹立を目指して精力的に研鑽に努めた時代であった。従来の国法学的政治学に徹底的な批判検討を加え、政治の科学的および実証主義的研究方法を提唱した『政治の社会的基礎』(大正十二年刊)と、そうした学問的立場から当時の政治問題を鋭い筆鋒を以て分析した『現代日本の政治過程』(大正十四年刊)とは、いずれもこの期間に大山が世に問うた代表的著作であった。しかし、学問研究に重点を置いて大正デモクラシーの推進に指導的役割を演じた大山は、やがて自己の使命感を尖鋭化し、顕在化させていった。大山にとって、「その使命感は、社会主義の理論を労働者階級に持ち込まなければならないとする革命的知識人の使命感とは異質であった。〔それは〕日本の現実に胎動する市民社会状況の意味に気付こうではないかとする、社会科学と社会運動を『並存』と『連続』の場で追求する新しい知識人の使命感」であって(高橋彦博「解題」『大山郁夫著作集』第六巻四七〇頁)、「大山事件」が起ったのはそれゆえであった。大山には、学問研究と実践行動とは必ずしも矛盾を孕むものではなく、両立し得ると考えられた。しかし、大正十五年十二月、いわゆる平の党員ではなく、労働農民党(労農党)の中央執行委員長という党首に就任したことが、問題をこじらせた。ここには、当時の社会科学研究会の学生をはじめとする学生運動の庇護者としての大山の苦渋が投影されたのであったが、学苑教授と政党党首との兼務は実際問題としてはきわめて困難であり、学内の大勢は、政治活動の自由という一般的原則を楯にしてそれが可能であると主張する大山への高田総長の憤りを是認する方向に傾き、「大山事件」は大山の教授退任という形で決着したのであった。

 さて、大山の学苑教授解職が昭和二年一月二十六日付で発令された後数年間の足跡は、労農党の「輝ける委員長」との呼称に相応しく目覚しいものであった。大山は労農党委員長として、昭和三年二月の普通選挙法による最初の衆議院議員選挙に香川県第二区から立候補したが、検挙を免れたのは候補者と選挙事務長だけというような官憲による選挙干渉の中で落選した。その直後、三月十五日に行われた日本共産党の全国的大検挙(「三・一五事件」)に関連して大山も千葉県成田で検束され、半日で釈放されたが、四月十日に労農党は解散命令を受けるに至った。大山らは直ちに新党結成に取り組み、十二月に新党創立大会を開催したものの、大会三日目の二十四日に大会は解散命令を受けて新党結成が禁止されたのみならず、新党組織準備会も解散させられ、大山は細迫兼光、河上肇らとともに一時検束された。翌四年三月の同志山本宣治の暗殺に象徴されるように非合法の地下運動に等しい形で行われた新党結成、すなわち労農党再建運動は、四月十六日の日本共産党に対する全国的大検挙(「四・一六事件」)の後も弱まりを見せることなく、十一月一日、二日には新労農党創立大会が開催され、大山は再び委員長に選ばれたとはいうものの、翌五年二月二十日の普通選挙第二回目の総選挙に十二名の候補者を立てた新労農党は、東京第五区より初当選した大山ただ一人が当選したに過ぎず、党の不振は明らかであった。加えて総選挙終了直後の二十四日、無産運動家の大検挙が行われ、新労農党をはじめとする左翼組織は壊滅に瀕した。大山は四月二十七日、第五十八議会本会議の演壇に初めて立って議会活動を展開したが、こうした新労農党に対して、当初から結成に反対していた日本共産党は、一九二八年(昭和三)モスクワで開催の第六回コミンテルン大会で決議された労農政党の組織化を誤りと認める見解を一段と強めて解消運動を進め、遂にその崩壊を導くに至った。そもそも新労農党の結成は、「四・一六事件」などにより大打撃を受けた日本共産党の再建まで合法的な独自の指導部を有する労農政党を再建すべきであるとの立場に立脚するものであったが、当の共産党系から強硬に反対を受け、大山らは裏切り者呼ばわりされ続け、やがて党内からも解消運動が起るに至り、遂に六年七月、新労農党は中間派の全国大衆党と右派の社会民衆党合同派と合同して全国労農大衆党となったのであった。この新党に対し大山は役職就任を拒否し、一兵卒としての参加を声明したが、新党のファッショ的性格を見抜いて責任ある地位から身を引き、無産階級運動の実践に身を投じた足掛け七年間の政治活動の幕を閉じたのである。戦後、日本共産党の谷口善太郎は、三十年十二月十八日に同志社大学で行われた大山郁夫追悼懇談会で挨拶した「大山先生と新労農党」の中で、次のように回顧している。

党〔日本共産党〕が、国民大衆から次第に孤立して行った時期、弾圧で組織が壊滅状態になったという時期に、党の組織とは無関係でおりながら、しかも、革命運動を進めるべく非常な誠意と努力をつくしておられた大山先生や河上先生が、せっぱつまって考えてやり出されたのが新労農党であったのであります。……〔これに対してコミンテルンの批判があり、〕この時河上先生を先頭とする労農党解消運動がおこったわけでありまして、プロレタリアの党は共産党だけであり、従って、労農党のごときはつくるべきでないということで、河上先生は先頭に立たれたわけであります。今から考えてみますと、この新労農党を、単純に裏切りだ、間違いだと批判するだけですむかどうか、もっと深く検討する必要があるのではないか。と申しますのは、この新労農党運動は前に申しましたとおり、当時の情勢の一応の反映でありまして、そこまで深く掘りさげませんと、その時代の正しい把握ができないからであります。……大山先生の新労農党運動も、今日もっと深く分析して考え直して見る必要がある。つまり私どもが正しい意味でのプロレタリア党を建設しておったならば、昭和五、六年の運動のあの苦しい時期に、仲間からは裏切りもののようにいわれ、敵からは全く弾圧の中心目標にされるような、あの苦しい立場に、大山先生などを追いこむこともなかったのではないか。そういう点について考えて見る必要があると思うのであります。

大山郁夫記念事業会編『大山先生の思い出』(『大山郁夫伝』附録) 一五―一六頁)

しかし、新労農党を反動的とのみ規定したのは誤りで、新労農党は評価されるべきであるとの見解は、戦前には生れることなく、大山は共産党系から裏切り者視されるのみならず、右翼の攻撃目標として身をさらし続けたのである。新労農党が解消し、無産政党が反動化する中で、二ヵ月後には「満州事変」が起り、日本はファシズムへの歩みを速めていった。

 政治活動の第一線から離れて約半年、昭和七年に入ると、周囲の人々により大山の外遊計画が具体化された。側近中の側近であった田部井健次は、「我々は、労農大衆党の成立後、大山先生に向つて切に外遊をすすめました。別段深い考へがあつたわけではないのですが、一度日本を離れて遠くから日本のプロレタリア運動を再検討し、且つ国際的状勢を組織的に研究することは、先生にとつても、我々にとつても甚だ有意義だ、と考へたからです。それに対して、大山先生も、我々の提案を快く受け入れられたので、我々は、着々、各般の準備を進め」た(『大山郁夫』五八頁)と記している。大山もまた、「世界の諸事情をもっとくわしく知り、それとの関連の下で日本の運動をもう一度科学的に研究してみたい」と漏らしていたという(北沢新次郎他監修『大山郁夫伝』二四八頁)。外遊先は若き日の留学地のアメリカと決まったが、外遊そのものの動機は必ずしも明らかではない。一説には、「右翼の襲撃計画を知ったので大山はアメリカへ逃れる決意をした。大山の生命が危険であったことは疑いがない」(高橋彦博編『大山郁夫年譜』四二頁)とも伝えられている。作家で無産運動に加わり、大山のアメリカ滞在中その留守宅を借りていた木村毅(大六大文)は、後年、次のように回顧している。

実はね、大山さんは僕がアメリカにやったんです。長谷川如是閑さんに頼まれてね。木村君、一寸会いたい、と言うんでね。行ったら、大山君をあのままにしておいたら日本で運動に行き詰まってしまうし、危なくもあるし、アメリカに出したいんだ……というんで〔すが〕、……行く前には非常に困っておって、アメリカへ行く費用が無かったですね。それで、佐藤観次郎君が『中央公論』の編集長で、僕の家へ原稿を頼みに来た時に、大山さんがこうこうだから『中央公論』で先に金を貸してくれんか、と言ったら、それは話してみようというので、嶋中〔雄作〕君が原稿を書くという話で〔大山を〕向うへやったら、チッとも書いてよこさん……。僕が保証人です。 (「座談会 大山郁夫と早稲田大学――『大山事件』他――」『早稲田大学史記要』昭和六十三年二月発行第二〇巻 一八九―一九〇頁)

 また、大山の子息で戦後学苑政治経済学部でドイツ語を教えた大山聡は、「渡米したのは向うの日系市民が呼び、期限は半年間のビザだった。父もそう思い、私もそう思っていた。そして、やがて、帰れば必ず捕まるだろうと思った」(昭和六十三年一月二十七日、現代政治経済研究所「大山郁夫研究グループ」例会における直話)と証言している。

 大山の渡米は、何度も外務省と折衝した結果、柳子夫人同伴を条件に漸く許可され、七年二月二十八日、丸之内会館で内輪の送別会が催された。会は「親しみのある集ひ」であったとはいえ、そこには「一抹の悲壮な空気が漂っていたことは否定し得ない事実であった」(久保田明光「歓迎会と送別会」『大山先生の思い出』三一―三二頁)という。

 大山郁夫・柳子夫妻は昭和七年三月十七日渡米の途に着いた。出発当日の厳しい警戒態勢と歓送の模様を『大山郁夫伝』は次のように伝えている。

外遊当日の東京駅頭がモノモノしい警戒だったことはいうまでもない。プラットホームには黒服の警官隊と見送りの数百名の旧労農党員、労働組合員、学生、婦人、知友たちで身動きもできない混雑である。その人波の間に何十本かの赤旗がつきたっている。ちょうど争議中の関東総評議会所属の印刷労働の争議団六十余名が、餞別の金はないが、と赤旗を先頭に高くかかげて見送りにきた。歌うことは一切禁止されたため、ただ「大山委員長万歳」の歓声だけが断続しておこる。大山はとうに労農党の委員長をやめているが、彼は労働者たちの胸にはこうして常に委員長として宿っているのだ。横浜の埠頭は、東京駅にもました厳重な警戒と見送りの赤旗の波だ。船室に夫妻が入ってからは、船内の通路の両側に警官が立ちならび、見送人はその間を縫って入る有様。船室はみやげの果物籠とお守り札とで一ぱいになった。最後まで船室に残ったのは、当時十五歳の一人息子聡と田部井健次ほか近親者と警備の労働者たちだけであった。いま別れて再び何日の日に会えるか、このまま永久の別れとなるかもしれない父母の傍に立っている聡の外套を着ていない姿を見た父は、自分の黒い冬外套をぬいで着せてやった。船はやがて「万歳」、「万歳」の歓呼に送られて岸壁をはなれた。午後二時である。 (二五〇頁)

大山は五十二歳、柳子は四十五歳、両人はもとより、当時は誰一人として、この渡米が十五年半もの長い亡命生活になろうとは予想していなかった。

 渡米後の大山の動静はおよそ一年半ほど日本では全く不明であった。「輝ける委員長」から「一兵卒」となった大山が追われるような形でアメリカに赴いてからは、故国との通信を断っていたからである。そもそも大山は、かつて留学中には柳子夫人に葉書をたくさん出したが、実践活動に入ってからは治安当局に証拠を残さないよう配慮して殆ど手紙を書かなかったと言われ、十五年半の在米中、子息の聡にすら一度しか手紙を出さなかった由である。木村毅の前掲の談話に見られるように、大山は『中央公論』特派員の肩書で渡米したにも拘らず、一年以上も原稿を金く送らなかったが、実はこの間、講演と視察とにアメリカ各地を遍歴していたのであり、特派員としての「準備期間」を養っていたのである。大山が沈黙を破り、自らの動向を突如伝えてきたのは八年六月であり、『中央公論』八月号で世人は初めてその通信に接したのである。同誌に「米国新大統領独裁権の確立へ――アメリカ政治通信――」と題して掲載された論文の冒頭に付された大山自身の弁明は、次の通りである。

『中央公論』編輯部諸兄。……一ケ年余の間たえず私の頭を悩まして来たものは、多分お察しでもあらう通り、私が約束の通信をスツカリ怠つてゐたといふ意識であつた。それは私にとつては已むを得ない事情から出たものだが、……この一ケ年余の期間があらゆる意味に於て今後の通信のための「準備期間」であつたと考へていただくことが出来るならば、私にとつてそれに過ぎた仕合はせはないであらう。……

私は……愈々「一学究」として所定の研究に着手する前に、先づ私の向後の研究の対象でもあれば私の研究室でもあるアメリカの社会生活の各方面の実況を出来るだけ私自身の眼を以て親しく見ておきたいと考へた。それで昨年中は、あらゆる機会を利用して東に西に旅程を延ばした。そして、流れ流れて十一月の初旬に及び、漸く旧学の地シカゴに辿り着いた。そこでは、私を待つてくれてゐた若干の新知旧知の友人たちが温き歓迎の手をさしのべ、心からの手厚き歓待をつくしてくれたので、私は予想外の快適な数週日を同市で送つた。

その間に私は、或る偶然の機縁から、シカゴの地続きの小都エヴァンストンにあるノースウェスターン大学のコールグローヴ〔K. W. Colegrove〕教授と、眤懇の間柄となり、更に同教授の紹介によつて他の多くの教授たちとも往復会合するやうになつて、真に久々振りに純学術的交際の雰囲気に浸ることを得た。篤学コールグローヴ教授は、尚ほその他にも様々の研究上の便宜を私に与へることに労を吝まなかつたが、何よりも殊に私に嬉しく感じられたことは、同教授の斡旋と、同様に親切なコーク図書館長の裁量とにより、私が近く落成の予定の同大学の新築図書館――外観内容共に完備せる――の一室を提供され、一期間自由に豊富な参考資料を渉猟閲覧することを許されたことである。しかしこの図書館の開館までにはまだ月余の余裕があつたので、私はその間に東部諸州を見て来ようと考へてシカゴを出発し、十二月の初旬に目指すニューヨークに着いた。そこでも私は、新旧の知友たちの異常な厚遇の下に、約二ケ月を愉快に、且つ有意義に過ごした。このニューヨークに於ける短き滞在期間はしかし、私にとつては極度に心忙しい期間であつた。……

さうした東奔西走の放浪生活は、唯さへ筆不精の私を、いやが上に筆不精にした。その結果、私は遂に「通信しない通信員」になつてしまつた。それに対して私は、心から諸兄にお詫びし、かつ今後は大に奮発してその償ひをつけるであらうことを誓ふ。 (本欄一〇九―一一一頁)

 この通信が寄稿された時の日本の状況は、第一次共産党事件のため学苑を去った共産党幹部の佐野学と鍋山貞親とが八年六月に劇的な転向声明を獄中で行い、その後の転向者の続出を招き、また、かつての同志河上肇も地下運動に入り、「たどりつきふりかへりみれば山川を越えては越えて来つるものかな」との一首に心情を託して日本共産党に入党し、やがて八年一月に検挙されて、鉄窓中の人となっていた頃である。こうした状況の外にあって、大山が特派員として在米中『中央公論』に寄せた論文は、これ以外には、昭和九年一月号、六月号、九月号、十月号に寄せた四編しかない。では、大山はアメリカで一体何をしていたのであろうか。

 在米十五年半の大山の動向がかなり詳しく明らかになったのは最近で、シカゴ大学極東図書館部長奥泉栄三郎がその調査結果を、シカゴで刊行されている日系紙『ミッドアメリカ・ガイド(Mid-America Guide)』の一九八五年七月号に寄稿した頃からである。

 「双眼鏡を手にして戦線を展望する地位」に身を置いた大山が、かつての留学地シカゴに入ったのは、前述の如く七年十一月初旬であった。そのヴィザはもともと六ヵ月期限のものであったから、シカゴ到着の頃には既にヴィザの延長問題が生じていた筈であり、以後、数十回に亘り延長手続を繰り返したに違いない。大山は一九二四年の移民法の適用を受けて、しかるべき職に就くのは不可能であったが、日本問題の研究者コールグローヴ教授と昵懇の間柄となったため、在米中の生活に大きな指針と活路とが見出されたのである。

 シカゴとは地続きのエヴァンストンに落ち着いた大山は、やがて、ノースウェスタン大学の政治学部研究嘱託となった。コールグローヴは以前大山に若干の費用を送って労農党関係の資料収集を依頼したことがあったが、大山はその依頼を果せなかったので、シカゴに到着後、かつて預かった金額を返却したところ、それが機縁となり、コールグローヴは大山にノースウェスタン大学で研究生活に入るよう勧めたのである。以後、大山の生活拠点はエヴァンストンの同大学になったが、ヴィザの問題をはじめ、身分的にも経済的にも生活は実に不安定であった。それにも拘らず、十六年近くもの在米生活をここで余儀なくされたのは、大山の出国後、加速度的に軍国主義化した日本の政治・社会状況が大山の帰国を困難にしたからであった。大山が日本を去って二年ほど後、大山が帰国したら逮捕すると軍部が言っているとの情報や、これと前後して、親友長谷川如是閑が一日だけ逮捕された事件などが、大山の知るところとなり、帰国の機会は一年また一年と空しく失われ、単なる在米ではなく、政治亡命の生活に入らざるを得なくなったのである。

 一九三三年(昭和八)六月のノースウェスタン大学の校友新聞(Northwestern University Alumni News)には、アメリカ亡命間もない頃の大山の姿を彷彿とさせるコールグローヴの貴重な証言が発見される。

この数ヵ月、毎朝、日本の一学者がノースウェスタン大学の構内を横切ってディアリング図書館へ通い、……ミシガン湖を見下ろす窓の側の小さな特別閲覧席に坐って、政治論文を一枚一枚書き進めている。……この静かな学者が書く原稿が、日本では多くの自由主義者によって貪るように読まれるものであるのを、エヴァンストンのキャンパスで知っている者はきわめて少い。彼が、現在大日本帝国を支配している軍閥に最も恐れられた政党の指導者であることに気付いている者も、きわめて少い。……一年前に、大山教授は日本の帝国議会の議員であり、小政党ながら果敢な活動を展開した労農党の党首であった。中国侵略を指令した軍国主義政策に抵抗したので、その党は警察により苛酷な弾圧を受け、ファシスト団体は党指導者の暗殺を企てた。……大山教授がアメリカへ亡命し、……私を訪ねて来られた際には、日本の新聞記事から、大声で激越な扇動演説を行う反抗一色の共産主義者を想像していた私は、大山が穏やかな語り口の、きわめて遠慮深い、あくまで礼儀正しい大学教授であり、アメリカやヨーロッパの政治思想を自国のそれと同じく自家薬籠中のものとしている大学教授であったので、一驚を喫するとともに、嬉しい感じを抱かされた。……しばしば、日本は厚顔無恥の軍国主義的政策を一致して支持している国家と考えられているが、それは正しくない。軍閥は、現在政権を掌握しているが、それだからとて、日本市民がすべて軍国主義者であるわけではない。大山教授の経歴は大日本帝国の平和主義運動に関する雄弁な証拠である。……大山教授は目下エヴァンストンに滞在して政治評論を執筆しているが、その評論は『中央公論』誌に発表されて、……日本の自由主義者を行動に駆り立てることになろう。大山教授の学識とその学識に対する学問的評価は、当地の社会科学者に同学の士として大山教授を歓迎させているのである。

 コールグローヴはこの年十一月頃から、日本憲政史についての調査を大山に依嘱したが、従来その実態は、せいぜい美濃部達吉の『憲法精義』の英訳程度のものと考えられていた。ところが、実は、長期に亘るきわめて詳細な調査や他の文献の翻訳作業などであり、美濃部の『憲法撮要』や市村光恵『帝国憲法論』や穂積八束『憲法提要』や清水澄『憲法編』に関する問合せをはじめとして、美濃部達吉の天皇機関説、松本重敏の緊急勅令に関する学説、狩猟法、艦船建造費問題、治安維持法等々多岐に亘る問題についても質問が行われ、大山は一つずつその都度回答を提出している。コールグローヴは自己の研究に対する助言や調査のみならず、また図書館の仕事も大山に依頼するようになり、十二月六日には、客員研究員(visitingscholar)として大山の名を大学広報(週刊)の郵便リストに載せるよう学長事務室に要請した。コールグローヴは第二次世界大戦終結後奇しくも来日し、GHQの一員として、特に日本国憲法草案作成に関与することになるのであるが、その際、右の如き大山の協力を得た日本憲政史の理解が活用されたことは、疑いない。

 ノースウェスタン大学なりコールグローヴ教授なりは大山に若干の謝礼を支払ったものの、その額は必ずしも十分ではなく、亡命当初は、シカゴで料理店を経営していた校友の山内務などの援助により辛うじて生計を維持したと考えられる。また、柳子夫人は亡命後間もなくシカゴで絵画を本格的に学び始め、八年に及んだが、最後の二年間は月謝免除の特典に浴し、やがてシカゴで、壁掛けや石膏などの装飾品の製造工場で装飾品に絵を描き入れる仕事に従事し、その収入が夫妻の生活を支持することになったという。

 昭和十二年六月十二日付『読売新聞』は、大山が当時東京帝国大学文学部三年に在学中の息子聡に、帰国の意志を表明した便りが届いた旨を報じているが、結局それは実現できなかった。柳子夫人はこの理由を次の如く、大山の没後に語っている。

帰国の意志があっても帰れませんでした。戦争になる少し前に、日本の陸軍の方から大山を帰せといってきたようです。アメリカの方では帰さないという。「私達のところへは、帰せといってきたが、アメリカ政府としては承諾しない」という連絡がありました。陸軍は大山の生命を保証するから帰せといってきたそうです。アメリカの方では、大山を何かの役に立てようという考えもあったらしいようです。 (『大山会々報』昭和四十一年八月発行第六号 六頁)

 大山は六ヵ月ごとに亡命生活設計を繰り返したのであり、長期的展望を以てアメリカにじっくりと腰を据えて研究できる状態ではなかった。昭和八年八月号の『中央公論』に寄せた通信の中で「『一学究』としての態度を持続」することを宣言はしたものの、「私は今さし当つて、手数のかかつた『研究論文』を発表しようとしてゐるものではない。さういふことが、そんなに手軽に出来るものでないことは、改めて断るまでもあるまい。私はまた、世間の注目の的になるやうな『一大論策』を試みようとしてゐるものでもない。さういふ野心は、今の私には毫末も持ち合はせがない」(本欄一一一頁)と付言したのであった。従って、大山にとり、学問的にはこの十六年弱の歳月は不毛であったと言わなければならない。学問研究者としても、政党政治家としても、大山の社会的活躍は昭和七年で停止してしまったと言ってよい。アメリカ亡命三年後の昭和十年六月上旬、政治学者矢部貞治がエヴァンストンに大山を訪問した際の回想に、「私が先生の『政治の社会的基礎』という著作のことに論及したら、先生は、長い間そんな書物を書いたことすら忘れていたといわれました」(『大山先生の思い出』四一頁)と記されているように、もはや学究的生活は大山には無縁と言ってよいのであった。

 しかも、情報ルートが皆無に等しい状態の中で、現実の日本の政界事情が大山の耳に達するにはあまりにも障害が多過ぎた。在米中の大山は、少くとも敗戦の時点まで、終始「危険人物」視されていて、大山の友人や門下生の側近者ですら手紙を出すのを自己規制しなければならなかった。矢部は大山訪問記を『日本評論』(昭和十年十月号)に載せて大山の亡命生活の動静を慎重な筆致で伝えているが、これに関して矢部自身、後年、「大山先生の話された内容をこの雑誌にくわしく書くことを差し控えたのは、当時の日本のファッショ的風潮を慮ってのことだったと思います。私が〔ごく僅か〕書いただけでも、帰国後右翼と文部省から圧迫を受けたくらいですから、先生のお考えを詳しく書くことは、先生のためにも遠慮したのだと思います」(『大山先生の思い出』四〇頁)と述懐しているように、大山をめぐる状況はきわめて厳しかったのである。また、かつて「大山事件」が起った大正十五年度に政治経済学部で大山の「政治学」の受講者であった名誉教授小松芳喬は、講師時代に留学より帰国した際のエビソードを次のように伝えている。

忘れられないのは、昭和十四年一月、一年半のイギリス留学を終えて、秩父丸でアメリカ経由横浜に帰国した時、乗込んできた特高に、大山先生を訪問しなかったかとしつこく聞かれたことである。先生をお訪ねしようとは全く考えてもいなかった私なので、治安当局の神経質さには今さらながら一驚を喫したものであった。

(丸山真男他『大山郁夫〔評伝・回想〕』 一三三―一三四頁)

 やがて大山のもとには誰も寄りつかなくなり、大山は日本社会とは完全に没交渉の形で孤立を余儀なくされたと言ってよい。昭和十一年五月二十八日にアメリカ遠征中の学苑野球部一行が、招待会に出席した大山夫妻に会った外は、僅かに会う機会を得た者があっても、それは勿論「秘密の訪問」であった。その意味で、十四年夏に後年の日本債券信用銀行名誉会長の勝田竜夫が父主計の勧めでエヴァンストンに大山夫妻を訪ねたり、十五年八月十六日に横浜港を出航してアメリカに留学した心理学者南博らの大山訪問時の回想は貴重で、南は次のように語っている。

シカゴの郊外には、国内の政治的圧力を避けて亡命しておられた大山郁夫先生ご夫妻を訪ねた。大山夫人は、ぼくの伯母、桑田勝子の女学校以来の親友で、この訪問も、そのことを伯母に聞いてから、思い立ったのである。もちろん、伯母から聞いた以外、だれにもそのことはいわなかったから、秘密の訪問だった。当時、日本人は、大山先生のお宅にだれも寄りつかない時世だったので、先生は不意の訪問を大変よろこばれた。確かノース・ウェスタン大学の図書館で、日本関係の部門に、籍を置いておられたと思うが、午前中にうかがったところ、昼食をご馳走になり、夕方五時過ぎまでお邪魔した。先生は、日本軍国主義を弾劾する熱弁を、ただ一人の聞き手であるぼくに対してふるわれた。その合間合間に、奥様は、勝子伯母の近況からはじまって、日本の生活を懐かしむお話をされた。五時過ぎになって、ぼくがニューヨーク行きの列車に、ぎりぎり間に合うまでお話をうかがい、帰ろうとすると、先生は、どうしてもぼくを送って行くといわれて、一緒に歩かれた。まだ九月だというのに涼しかったのだろう、今でも、先生が着ておられた薄いベージュ色のカーディガンが目に残っている。

(『学者渡世 心理学とわたくし』 六二―六三頁)

 このように、日本社会から完全に没交渉の中に身を委ねる形で亡命生活を送っていくうちに、一九四一年(昭和十六)十二月八日、日米開戦を迎えた。

二 日米開戦から日本敗戦前後までの大山の周辺

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 アメリカは対日戦、そして来るべき日本占領に向けて、日本語および多方面に亘る日本研究専門の学校を設立していた。開戦直前の一九四一年六月、海軍はカリフォルニア大学バークレー校に日本語学校を設立し(翌年、教師を勤めていた日系人の強制収容に伴い、コロラド大学に移る)、十一月には陸軍がサンフランシスコに日本語学校を設置した(翌年、ミネソタ州のキャンプ・サヴェッジへ移る)。戦後、アメリカにおける日本研究の黄金時代を現出させたドナルド・キーンやエドワード・G・サイデンステッカーはこの海軍日本語学校の、ハーバート・パッシンは陸軍日本語学校の出身者でもある。また、これらに加えて、一九四二年には海軍軍政学校がニューヨークのコロンビア大学とニュージャージー州のプリンストン大学とに、陸軍軍政学校がヴァージニア大学に設置され、既に学歴なり社会歴なりを持つ学生達は、そこで六週間の基礎訓練を受けた後、シカゴ、ハーヴァード、ミシガン、ノースウェスタン、スタンフォード、エールの各大学に設けられている六ヵ月の民政官養成学校(Civil Affairs TrainingSchool)に送られることになっていた。これらの学校では全授業時間数の六割近くを日本語修得に充てていたと言われ、当然のことながら日本語資料や日本認識に対する需要も高まった。日本語や日本関係論を教えていた教授陣の中には、強制収容所から転任してきた人々を含む多くの日系人の名前が見られるが、大山の名は発見できない。このことに関連して柳子夫人は、「戦争がはじまってから、コールグローヴ教授を通じて、『日本国民に降伏をすすめる放送をしろ』という話をもってきたり、日本語を教えてくれないかなどという話もありました。大山は、放送なんか絶対しない、といって断りました」(『大山会々報』第六号六頁)と、アメリカ側の画策に対して大山が頑なまでに一線を画した態度を保ち続けていたことを証言している。このように、大山の亡命生活、それも特に日米開戦後の姿勢の中に、できる限り自己を戦争とは無縁のところに置くという考え方が終始存在したことが看取される。こうした姿勢が最も顕著な形で現れたのは、日本の敗戦を射程距離に収めたアメリカ政府筋が、中国にいた日本人反戦主義者とともに、大山らを中心とした海外日本人革命政府の樹立を画策した時であったと言ってよい。

 この海外日本人革命政府の樹立計画に携わった鹿地亘は、その経緯を次のように記している。

ちょうど一九四四年の末、鎮遠の収容所が重慶に向って死の行進をはじめたころ、鹿地は頼家橋で米国国務省の秘書官ジョン・エマーソンの訪問をうけ、彼の希望によって、池田、山川、岸本、沢村らの研究室員とともに、ようやくさし迫ってくる米軍の本土上陸作戦に際し、いかに双方のいわれない犠牲を少くするかについて意見を交換する座談会を催した。鹿地たちは二つの意見をエマーソンに提した。そのひとつは、右のためには、連合国はその作戦目的が日本軍国主義の打倒ならびにその復活を将来にわたって不可能ならしめることにあるのであって、日本の独立と平和で民主的な再建は保証されるということを、一日も早くあきらかにする、もうひとつは、それには海外の反戦日本人すべてが一体に団結し、連合国と協力し、連合国もこれに支援を与えて、反ファシズム連合の実を示す、というのであった。エマーソンの問いに、鹿地は海外のすべての日本人とは、主として延安の岡野進〔野坂参三〕らのグループ、米国の大山郁夫その他、それに重慶の反戦グループであると答え、これらの三つのグループの代表が共同の綱領の下に戦後の準備をすすめるため、米国側の援助を得て、適当な地点で代表者会談をもつことが望ましいと要望した。エマーソンは尽力を約束した。彼は近くワシントンに帰るので、そのまえに延安を訪れ、岡野に会って意向をただしたいといって紹介状をもとめ、また大山郁夫あてに鹿地の手紙をとどけることを申し出た。鹿地は岡野への紹介状ならびに大山への手紙を書いた。まもなく延安の訪問から帰ってきたエマーソンが、岡野は重慶の提案に全く賛成である旨を報らせてきた。 (『日本兵士の反戦運動』下巻 三六二―三六三頁)

 そして、亡命中の大山に対し、エマーソンは行動を開始する。このエマーソンとは、当時重慶のアメリカ大使館に一等書記官として赴任し、一九四四年十月に延安に行って中国共産党首脳と会見した極東問題専門家ジョン・ケネス・エマーソンで、戦後一九四五年(昭和二十)にGHQ政治顧問として来日、翌年には国務省の日本問題部長代理となり、その後一九六二年(昭和三十七)より六六年(昭和四十一)までE・O・ライシャワー駐日アメリカ大使の下で駐日公使を勤めた有数の知日家であった。エマーソンは当時アメリカの戦時情報局(OWI)、次いで陸軍省に勤務して、日本占領を想定して進められていた軍事用語の日米辞典や日常会話手引書の作成に従事していた石垣綾子に、この計画への協力を要請した。エマーソンに石垣を紹介したのは、石垣が戦時情報局のアジア・セクションで働いていた時の上司アッカーであった。石垣がアッカーと一緒にエマーソンに会ったのは、ニューヨークの「都レストラン」において一九四五年の「多分、三月に入って間もな」い頃であり、その模様を石垣は次のように記している。

都レストランに着くと、ワシントンから出てきたエマーソンは夫人同伴で私たちを待っていた。……紹介されたエマーソンは若々しく、きびきびしており、真面目な表情で熱心に話し始める様子は誠実な人柄を思わせ好感を抱いた。「戦後の日本の民主化を実現させるために、是非とも力を貸していただきたいのです。軍部につながるすべての旧勢力を一掃し、民間の進歩的な分子を結集する必要があります」と切り出して、民主日本の再建はアジアに恒久の平和をもたらす有力な手段であり、国務省もこの案を受けいれる準備をしている。ついては在米日本人のグループを組織してくれまいか。この企画は延安で会った岡野進(野坂参三)にも相談して同意を得ている、と協力を求めた。……エマーソンのプランは、相談を持ちかけた延安の岡野進と、アメリカに亡命している大山郁夫、そして長谷川如是閑の三人を柱にして民主化を進め、この政策を背後から支えるために、中国の反戦兵士、アメリカにいるリベラルな日本人の協力を得たいというのであった。

(『我が愛 流れと足跡』 一六九―一七〇頁)

 石垣は大山とは、実は二十年ほど前からの旧知の間柄であった。石垣(旧姓田中)綾子は、学苑文学部の最も早い女子聴講生の一人で、大正十三年から十五年まで英文科に在籍する傍ら、大山の授業をも欠かさず聴講しただけでなく、学苑の学生を中心とする学生運動に加わり、やがて土曜日ごとに行われたという大山宅での学生による社会科学の研究会にも出席し、また、大山らの政治研究会に鈴木茂三郎の勧めで参加し、奥むめをらの手助けもした経歴を持つ、大山の教え子の一人であった。大正十三年七月二日付『早稲田大学新聞』に投稿した「婦人と奴隷制度」と題する論文は出色と言うべく、学生間で注目された存在であったと推察される。石垣は「大山事件」直前の大正十五年八月に外交官の姉夫婦と渡米して、ニューヨークで多数の進歩的知識人や芸術家と交わり、昭和四年に日本の治安当局からもマークされていたプロレタリア画家の石垣栄太郎と結婚後、日米開戦前からアメリカ各地で日本の軍国主義批判の講演を行うなど、反戦活動を展開していた。その石垣が、奇しくも二十年ぶりに旧師の大山にエマーソンの意向を伝える役割を演ずることになったわけである。石垣は、この交渉に際しては「私は直接大山先生に会うことはせず、手紙によって折衝したのであり、エマーソンはその後、恐らく大山先生に直接折衝したでしょう」と、昭和六十一年三月二十一日にインタヴューに答えて語ったが、石垣の書状に対する大山からの返信は二週間ほど後、一九四五年三月中に届いたというように記憶している。戦後、アメリカのいわゆる「赤狩り旋風」で昭和二十六年に追放同然に帰国した際、その書簡を紛失した由であるが、内容は次のようなものであったという。

あなた方の民主グループ組織には双手をあげて賛成する。しかし、アメリカの援助を受けてことを進めても、ひとたびアメリカの政策が変更すればお仕着せの民主政治はひとたまりもなく吹き飛ばされてしまう。日本の民主化は日本人の手で押しすすめなくてはならない。敗戦の日本に、勝ち誇る占領軍と共に乗りこむことはきっぱりおことわりする。私はあくまで個人として日本の土を踏み、新しい祖国建設のために尽くすつもりである。 (『我が愛 流れと足跡』 一七〇頁)

 ここに厳然と窺われるのは、敵国アメリカ在住の亡命者としての大山の見識と毅然とした姿勢とである。しかし、大山からの承諾の返事を確信して、期待をこめて封を切った石垣には、その文面は失望以外の何物でもなく、戦争の暗い夜が明け、再生日本が目睫の間に迫っているのに、大山がなぜエマーソンの誠実な申し出を蹴ったのか、最初のうちは理解できなかったという。しかし、石垣はやがて、「何度も読み返し思いめぐらしているうちに、大山郁夫の言葉は私の考えの単純さを浮かび上がらせ、深く心に突きささってくる」(同書一七一頁)のを覚えるに至り、これから僅か半月ほど後の四月十二日のローズヴェルト大統領の急逝によりそれが実証されたのを、「この死を境に、反ローズベルトの勢力は、待ってましたとばかりに頭をもたげる。大山教授の危惧は、こんなに早く現実のものになろうとしている。エマーソンをはじめとする中国革命に心を寄せる声は、あれよあれよという間に影響力を失ってゆく。……大統領の死後、国務省の政策の変更で彼からの連絡は途絶え」た(同書一七三―一七四頁)と述懐している。他方、中国にいた鹿地亘は、「大山からは後日になって、中国での反戦運動には敬意を表するけれども、彼個人は病気静養のため、役を買うのは遠慮したいと、エマーソンを介して伝えてきた」(『日本兵士の反戦運動』下巻三六三頁)と記している。大山らを中心に想定された海外日本人革命政府の樹立計画は、尻切れトンボとなって終息し、その五ヵ月後の八月十五日に、大山は亡命地で日本の敗戦を迎えたのであった。

 戦争は終結したが、大山の亡命生活は直ちに終止符を打つには至らず、帰国が実現したのは敗戦から二年以上も後であった。大山自身には早くから帰国の意志があったが、亡命中アメリカ政府に対し毅然として一線を画していたため、政府筋のコネを頼って帰国の方途を講じることは不可能であった。更に、依頼されていた美濃部達吉の憲法関係著作の翻訳が終了していないことも、帰国の即時実現には障碍であった。

 しかし、大山と祖国との通信は敗戦一ヵ月半後、実に十数年ぶりに、UP通信を通じて行われた。十月七日付『毎日新聞』には、十月三日発のシカゴ特電(UP特約)として、大山の手記が掲載された。

私は故国の同胞が戦ひの苦難を堪へてゐる間、自分が故国を遠く離れてゐたことについて深く遺憾に思つてゐる。しかし私もまたこの土地で故国の同胞と全く同じやうに避くべからざる精神的苦悶のすべての瞬間を経験してきた。……今や独立を約束されている朝鮮をはじめ中国その他のアジヤの全国民に対して、今後日本は営々として善隣の感情を開拓せねばならないが、同時にまた全世界との真実の友情、完全な信頼を克ち得るために最善を尽さねばならない。……過去において私が旧労農党の陣営から戦争準備に反対であつたことを追想して、私は日本の現状について非常に心を痛めてゐる。それ故現在日本の憲法に関係したある翻訳の仕事に忙殺されてゐるが、将来これが完成した日には、私は日本の回復と再建に何かの方法で微力を尽すことが出来るであらう。来るべき世界平和機構よ万蔵! 再生せる日本万歳! 目覚めたる日本の大衆万歳!

(『大山郁夫全集』第五巻 三八五―三八六頁)

 この「やがて再建に微力を尽さん」との熱い思いをこめた大山のメッセージ、特に末尾の「目覚めたる日本の大衆万歳!」との呼び掛けは、二十年前の「輝ける委員長」時代がそのまま十五年戦争期を飛び越えて、直結した形で発せられている。この報道により、大山の健在ぶりのみならず、「戦後」に向き合う大山のきわめて積極的な意欲と姿勢とが、国内の人々の看取するところとなった。大山はこれに続いて翌二十一年一月七日付『毎日新聞』に「故国の知識人に与ふ」を、更に五月二十三日、二十四日付の『民報』と雑誌『世界文化』五月号に「再建日本と世界文化」を寄稿した。特に後者において大山は、「日本は今や憲法を書き改めようとしてゐる。憲法改正は、新しい普通選挙制度のもとに数千万の男女が始めて参加する総選挙の後に開かれる議会で行はれると発表されてゐる。かうした事情のもとにあつて、議会外の国民大衆も直接的な関心をもつて議会内のその代表と協力し新憲法の明文中に明確な字句で、主権在民の原則的規定要件を挿入することが切望される。これこそ日本がいかなる国際協力或ひは国内改革に乗り出すのにも、絶対欠くべからざる第一歩である」(『大山郁夫全集』第五巻三九一頁)と明確に断じ、戦後日本の根幹を成す「主権在民」の獲得を、シカゴの地から真っ先に強く世人に訴えたのである。

 国内ではGHQにより次々と矢継ぎ早に占領政策が推進され、十月四日には、天皇に関する自由討議、政治犯の釈放、思想警察の全廃、内相・特高警察全員の罷免、統制法規の廃止などを内容とする政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書が発せられ、十月三十日には、教育関係の軍国主義者・超国家主義者の追放とその調査機構の設置が指令された。他方十月一日には政治犯約五百人が釈放され、当日開催された自由戦士出獄歓迎人民大会で、十八年間の獄中生活から解放された徳田球一や志賀義雄らの日本共産党員は「人民に与ふ」を声明して、戦後における同党の再建を進め、更に、翌二十一年一月十二日には、大山とともに約一年以前、アメリカ国務省筋により画策された海外日本人革命政府の代表者に擬せられた野坂参三(岡野進)が中国の延安から帰国し、二十六日には日比谷公園で三万人を集めた帰国歓迎大会で民主戦線の結成を呼び掛けて日本の政界に復帰するなど、戦前の軍国主義の下で呻吟していた進歩陣営では、堰を切って一斉に行動が開始された。こうした中で我が学苑は、敗戦四ヵ月後の二十年十二月二十一日、政治経済学部教授会の名において大山の学苑復帰、すなわち教授招聘を決議したのであった。

 前述の如く、大山の帰国はこれより二年近くも遅れるのであるが、その帰国に熱い思いと期待とを寄せたのが、大山の門下生のみにとどまらず、大山を直接には何ら知らない筈の学生達であったのは注目に値する。彼らは、大山が「輝ける委員長」として大活躍していた頃に生れた世代で、大山渡米の時期には未だ幼児の域を出ていなかった。それにも拘らず、大山帰国促進運動は彼ら学生の熱烈な主導下に展開されたのであった。学生の間には「輝ける委員長」としての大山の存在が語り継がれ、ある種の「神話」と化し、敗戦後にあって、何ら手垢にまみれていないと感じられる大山が新生日本の象徴の如く景仰されたと言ってよかろう。『早稲田大学新聞』昭和二十一年五月十五日号に門下生市村今朝蔵は、大山の人となりを学生に伝えるとともに、「先生を再び迎へることが出来るその日は、新興日本の本当の出発の日である」と、その帰国を意義づけた。敗戦後間もない頃の一般紙は二頁建で、紙面の制約により大山の動向は全くと言ってよいほど報道されず、漸く帰国直前に僅かながら散見されるようになるが、当時、一般紙に比べ遙かに詳しく報道したのが、『早稲田大学新聞』であった。例えば昭和二十一年六月一日付同紙は、次のように報じた。

総長選挙へ種々な論議が沸騰するにつれて、遠くアメリカに渡つた嘗ての社会主義の大先輩、大山郁夫先生の復帰が一部で強く要望されてゐる折、真偽不明の消息がボツボツ伝へられてゐたが、この程A・P、U・Pの記者を通じ大要左の確報を得た。「氏の現在の心境から見て、政治的なポストとして帰国する事は恐らく不可能である。しかしながら大学総長として次代の青年の教育に捧げるといふ意味で招聘する時は、充分帰国の意志が有るとの事であり、重いと伝へられる病気は大した事はない。」

 それより前、二十一年二月頃には大山帰国促進会が発足し、次いで帰校準備会が生れた。当時この運動の推進的役割を果した蜷川譲(昭二三政)は、この経緯を次のように記している。

終戦から六カ月後の昭和二一年二月に、コールグローブ教授がマッカーサー元帥の日本憲法問題顧問として来日した折に、大山は同教授に託してかつての旧友たちに十数年ぶりの手紙を送った。その顕著な反応として弁護士大泉信を中心に大山郁夫帰国促進会ができた。それを知った早大学生自治委員会の有志は、東大赤門前の大泉宅を訪れ、帰国促進も当然だが、学生の気持から言えば帰校促進であってほしい旨を伝えた。温顔で東北なまりの大泉氏は「そんでは帰校促進運動でしゅな」となまりながら「一緒にやりましょう。大山先生も喜ぶでしょう」とつけ加えた。 (『大山郁夫〔評伝・回想〕』 五三頁)

 この後、大山郁夫帰校促進準備会は六月一日に声明を発表するとともに、六月十四日午後、大隈講堂で講演会を開催して、「大山先生とはどんな人か」「なぜ大山先生を迎えねばならないのか」との疑問に答えた。その際聴衆に与えられた多大の感銘を、蜷川譲は、

戦後、早大の大隈講堂は、外部の諸団体にも解放され、いろいろな民主的な大会が行われたが、なかでも河上肇追悼演説会は、多くの学生に多大の感銘をあたえた。その数カ月後、同じ会場で大山郁夫帰校促進大会が開かれたのである。舞台裏に残された河上さんの大画像を拝借してO君が見事に修正して大山像をつくりあげ、それを正面に飾った。その下で学生の絶叫にまじって大山門下の浅沼稲次郎、長島又男、戸叶武、市村今朝蔵、松尾隆、菅田清治郎、鈴木茂三郎らが熱弁をふるった。かつての西の河上、東の大山と讃えられた学園になることを望んだ、講堂を埋めた学生の決議文は、翌日、日本の憲法顧問として来日していた、大山先生の友人、コールグローブ教授を通じて渡された。 (同書 五七―五八頁)

と伝えている。大山郁夫帰校促進準備会はこの日の大会で大山郁夫帰校促進会と改称し、大会に結集した学生により大山招聘の決議文が採択された。翌十五日大山郁夫帰校促進会の蜷川譲・笹原欽次郎・橋本進は、促進大会の名で決議した大山に対するメッセージを届けるために、通訳を伴ってGHQ本部六階一一六番室に赴いた。ここには、メッセージを託するに最も確実で適切な人物と言うべきコールグローヴが、GHQの憲法改正顧問として来日中だったのである。笹原の記すところによれば、コールグローヴは彼らを歓待し、「大山教授は、もうすつかり向ふで仕事は切りをつけ、何時でも引揚げられる様にして居られるし、私の方の大学の方でもすぐ帰られることには何の支障もありません。大山教授へのお手紙は飛行便でやりますから四、五日中にはお手許に届くでせう。間違ひなく着く様尽力しませう」(『早稲田大学新聞』昭和二十一年七月一日号)と約束してくれたという。その十日ほど後の七月一日付大泉信宛書簡に、六月十四日の帰校促進大会での決議文に言及して、大山が次のように記しているのが、同年九月二十日号の『早稲田大学新聞』に報じられている。

早稲田大学政経学部学生の総代蜷川君外五名署名の涙の出るやうな決議文を受取り、再読三読、深く感銘させられてゐます、それ等の諸君にも、私に代つて御挨拶下されば幸甚です。交通の便さへ与へられれば、私達両人の帰国も、ほとんど目睫の間にあるやうに感じます。

次いで同紙は、大山帰国後、学苑復帰の意志を表明した場合の学苑の対応について、「大山氏の帰国後の問題に関しては、昨年の教授会において隔意なく相談して帰結を得た……。大山氏が帰国されたなら私は誰よりも先に大山氏に会ふ責任と必要を感じてゐる」との久保田明光政治経済学部長の談話を伝え、また、九月十七日に総長就任式を終えたばかりの島田総長の「大山先生を教授として学園に迎へるかどうかは、政経学部教授会の意思を尊重したい。私個人としては、先生とは学問的には関係がなかつたが、父の知人として接触が多かつたので、先生が帰へられるならば、喜んで御迎へしたい」との談話も、同日号に掲げている。

 明けて二十二年二月六日午後一時より大山郁夫帰校促進会主催の歓迎準備大会が大隈講堂で開催された。大山から鈴木茂三郎や息子の大山聡に対して、三月頃帰国予定との朗報がもたらされたため、急遽行われることになったのであるが、この大会では、大山帰国の際、全学的基盤に立った歓迎大会の開催準備を早急に進めていくことが決議された。しかし、三月を過ぎても大山の帰国は実現することなく、やがて学苑は七月三十日の定時理事会において「大山郁夫氏ニ関スル件」を協議し、「名誉教授トシテ待遇スル意向デ取進ムコトトス」と未だ㊙扱いながら決定したが、漸く夏季休暇に入ると、八月七日発UPI毎日特電として、帰国準備を進めている大山が東京帰還は来る九月五日の予定である旨シカゴにおいて述べ、更に、帰国後の方針について次のように語ったと報じられた。

私は早稲田大学の教職復帰の招請をうけており私も再び教壇に帰りたいつもりだが、最終的な決定は日本に帰つてからしたいと思う。政界に直ちに入る気持ちはない。何れかの政党に加はる前にはまずよく情勢をみきわめて研究したいと思う。もしその上で適当な政党が見当らなかつたら新政党を結成することになるかも知れない。しかし何れにせよ情勢をしつかりとみきわめないではどんな方向をとるかはいえない。 (『早稲田大学新聞』昭和二十二年八月二十一日号)

 すなわち、大山は学苑で研究生活に戻ることを希望しながら、将来政党活動に復帰する意志と可能性をも否定していないのである。しかし、その後、九月十九日サンフランシスコ出帆予定と伝えられた大山は、都合により出帆延期となり、次期出帆は未定との報(同紙昭和二十二年九月十一日・二十一日合併号)が流れ、学生達をまたまた落胆させたが、九月下旬頃になると、市村今朝蔵、平野力三、高津正道、浅沼稲次郎、大泉信らの門下生により、文京区本郷の大泉宅気付で大山郁夫後援会が設立され、大山が帰国後十分に活動できるための基金を一口五百円として多方面から募集を開始した。

 このように大山の帰国が延び延びになったのはなぜであろうか。この頃になると、船便だけが帰国遅延の唯一の理由ではなかったように思われる。大山は、帰国直前までエヴァンストンに閑居を続けたわけではなく、この前後アメリカ各地で講演会に臨み、二十二年七月十四日には、日米民主協会主催の講演会で「亡命十六年、祖国に還るに臨みて新日本を語る」と題して熱弁を揮う(『ハワイタイムス』一九四七年七月十四日号)ためにハワイへ往復するなど、かなり精力的に行動していたことが、当時の在米日系新聞の記事から推測される。こうした大山の行動のマネージャー役を勤めたのが、一九四六年十一月創立のシカゴ日系団体連合評議会日本難民救済委員会委員長であった向山照男であり、向山は大山の帰国前後、終始行動を共にしていた。二人の関係は、大山がこの難民救済委員会の顧問であったことから生じたものと見られる。シカゴの邦字雑誌『日系文化』創刊号(一九四八年)口絵写真に見られる如く、七月二十七日にはシカゴで日系人により大山郁夫氏送別晩餐会が開かれるなど、大山の出発準備が進められる中に、昭和二十二年八月八日付『サン写真新聞』は在米中の大山夫妻の近況を示す写真九葉を掲げて、大山夫妻が八月八日サンフランシスコを出帆し帰国の予定であると伝えた。

三 昭和二十二年十月二十三日

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 大山の帰国が現実のものとなり、その日程が具体化するにつれ、国内でもその動静が報道され始めた。「早稲田騒動」後の一時期在社するなど大山と密接な関係のあった『朝日新聞』は、アメリカ出発後の大山について断片的ながらも追跡・記載している。先ず、「大山郁夫氏桑港出発」との見出しで、「いくたびか帰朝をうわさされながら実現をみなかつた大山郁夫氏はいよいよ十日夫人同伴でアメリカン・プレジデント・ライン会社のマリン・スワロー号で横浜に向け出発した」とのAP特電を伝えた(昭和二十二年十月十三日号)のに続いて、十月二十三日号には、「大山氏は二十四日朝七時ごろ横浜着のマリン・スワロー号で帰着の予定だが、上陸後野毛山の石河横浜市長公舎で記者団と会見、帰国第一声を放つたのち自動車で東京戸塚の自宅に向うが、途中高田馬場駅前で早稲田の学生に挨拶する予定」との記事とともに、三十一日には各団体代表者、友人、門下生のみで歓迎懇談会が上野精養軒に開かれ、次いで、十一月十五日には日比谷音楽堂で国民的な歓迎大会が行われる予定である旨を報じた。大山の乗船着岸は朝七時頃と伝えられ、関係者は前日より横浜港につめかけたが、マリン・スワロー号は予定よりも早く二十三日夜九時に横浜港に入港し、大山にとっては勿論、関係者にとっても、喜びは一日早く到来した。

 昭和二十二年十月二十三日深夜の横浜港は、忽ちのうちに歓迎歓呼の渦に包まれ、興奮の坩堝と化した。十一月一日付『早稲田大学新聞』は、二十三日深夜の大山帰国と翌日の一部始終を「踏みしめる祖国の土/埠頭を圧する歓呼の叫び」の見出しで、次のように伝えている。

全学生及び人民大衆待望の大山先生は、亡命十六年に終止符を打ち二十三日夜横浜埠頭に帰朝の第一歩を印した。昭和七年警察テロと軍閥の圧迫をうけ太平洋を渡つて以来ここに十六年、歴史の変転は永年にわたつて我国を支配していた軍国主義を押し流し自由な民主主義の時代となつた。かつて大山先生の同志として活躍した人々がいまや政界の指導者として民主日本の先頭に立つている事を思へば先生の感慨は如何なるものがあろうか。晩秋の横浜埠頭には学生代表、社会党代議士、新聞記者など数百名が先生の下船を今や遅しと待ちかまへていた。一号岸壁に大山先生を乗せたマリンスワロー号がその巨体を横づけにするや、待ち迎えた歓迎陣の中から歓呼がおこつた。時に十一時二十分。茶のダブルに緑のネクタイをのぞかせ黒鞄を抱えた大山先生が静かにタラップを降りてくる。続いてえび茶のスーツにコートを抱えた夫人が福本氏に支えられながら先生に従う。カメラマンのフラッシュが一斉に明るく光を放つ。クランクの音が夜気を圧して響いてくる。ハンケチを振る先生は満面にかくしきれぬ喜びを堪えながら久しぶりに日本の土を踏む。六十八とは見られない精力的な顔であるが、十六年の亡命生活にさすがに髪の毛は白い。労農党時代の同志糸川氏の令嬢野火子さんが花束をさし出す。野火子さんの名附け親は大山先生なのだ。歓迎の人波はくずれて、先生はもみくちやにされそうだ。社会党の代議士が人垣をつくつて殺到する新聞記者の矢継ぎ早の質問を阻止している。先生は山花代議士の案内で埠頭倉庫階上にのぼり、新聞記者団と共同会見する。記者団の質問に、「私の一番会いたいのは人民大衆諸君です」と答えるあたり、大山先生の面目躍如たるものがある。簡単な質問を終り、先生は再び山花氏の後から車にむかわれる。右には田部井、左に山花両氏がピッタリより添つて、大山先生は一歩々々と祖国の土を踏みしめて行く。通路の一隅に陣取つた学園歓迎会・自治会代表は先輩の社会党佐藤代議士の発声で、大山先生万歳を高唱する。日本ニュースのフラッシュは白昼のやうな明るさにする。大山先生を囲んだ一群は、交錯するフラッシュの光の中を泳ぐようにして歩きつづける。先生の乗る石河横浜市長の車は上陸第一夜の宿舎市長公舎へと向う。深夜の横浜市内は静寂そのもの。暗闇をついて車は二筋のヘッドライトを輝かせながら疾走する。市長公舎に着いた先生は休む暇もなく記者団と会見後、用意された日本間で久しぶりに令息聡氏を囲んで、心づくしのにぎりずしに舌づつみをうち緑茶の茶碗を手に包むようにして、「日本の茶はうまいね」と「祖国の味覚」に眼をほそめる。深更二時、先生は歴史的帰朝第一夜の夢路に入る。

明けて二十四日朝、公舎内は徹夜組の学園自治会代表、各新聞社記者などでごつたかへす。先生は早くも午前七時起床、鶏卵に味噌汁の簡単な朝食をとる。七時半トップを切つて学園代表吉村理事が大浜、久保田、丹尾の三氏と共に緊張した顔つきで入つてくる。大山先生はよく記憶されているらしく「ヤア君は吉村君ですね」といちいち丁寧に握手をつづける。つづいて参議院副議長松本治一郎氏が訪問し固い握手、九時玄関前に並んだ各労組代表に挨拶を終り、野毛山公園まで歩を運び、そこに集つた勤労者大衆への第一声を「私は大衆諸君の元気な顔を見て大変うれしい。今後の日本は我々大衆によつてのみ再建される」と、大衆を愛する熱情を披瀝されて後、万歳に応え大衆諸君万歳と自ら発声、大衆に深い感銘を与へた。大衆のインターナショナルの歌に送られながら先生を乗せた車は一路京浜国道を東京へ――自治会の車を先頭に十数台の自動車はフル・スピードで疾走する。同乗者の人の話によると先生は窓外に見られた京浜地帯の復興状況に祖国の力強い底力を感ぜられ、驚異の目を見張られたという。品川を左に折れ、目黒、新宿を通過、十時高田馬場へ到着。突然起るブラス・バンドの「都の西北」、先生の車に殺到する学生の群れ――高田馬場駅附近は突如として興奮のルツボと化してしまつた。

 こうして高田馬場駅前は熱狂的な歓迎集会場となり、大山は急拵えの演壇から、学苑学生に対して次のような第一声を放った。

いま、学生大衆諸君の歓迎をうけ、久々に校歌を聞き学生大衆諸君の非常な感激にみちた顔をみて、まず何よりも諸君に対する感謝の情が私を支配する。校歌をうたう声を聞く時過去が思い出される。当時、早稲田は自由の学園として学界の一部に名乗りをあげており、学生の学問の自由に対する熱誠は天をも焼かんばかりであつた。何故われわれがあれ程学問の自由ということをいつていたかというと、あの時代は藩閥官僚が学問の自由を蹂躙していたからだ。当時の学生にとつては学問の自由というものはなかつた。この時、自由のないところに自由を要求して、刃まで用意していた軍部に対して学生が立ち上つた。軍部は学園を乗つ取らんとしていたが、早稲田の学生は徒手空拳で戦つたのである。このことは当時の青年の胸に民主的精神の流れがあつたということを示すものである、早稲田の自由、日本の学生の自由は死ななかつた。かえつて民主的精神は反発的に燃えあがつたのである。早稲田の伝統は古いが、新しいものを求めるのが早稲田の精神である(拍手)。早稲田においては伝統は進歩と相総合されている。早稲田の学生こそ学界においてあらゆるものを創造する精力であり、また、あらねばならない。一九三一年の秋、満州事変が起つたその時、学問の自由も奪われた。私はアメリカにあつて、学問の自由の将来について心を傷めた。真理を求める熱誠は死なない。学問の自由を求める心は死なない。学問の自由はいつ圧迫されても起上る。私は横浜に上つて言論の表現が相当自由になつたことを認めた。しかし、自由の圧迫されているとき自由への情熱が燃え、圧迫が取り去られたときには自由への熱意が鈍る危険がある。われわれは圧迫が取り去られたときこそ警戒しなければならない。反動勢力はその姿を変えていまなお国内を横行している。今や反動勢力は国際的になつている。これに対する対抗もまた国際的でなければならない。……ここで、私が言わなければならないことは沢山あるが、このことを諸君に伝えるのが私の任務であらう。反動勢力が国際的勢力になつたのに対して、自由と真理を求める勢力も国際的にならねばならない。私は諸君と共に真理への道を進みたい(拍手)。 (『早稲田大学新聞』昭和二十二年十一月一日号)

 この歓迎集会に際して同紙が行った大山とのインタヴューの中で、「早稲田の教壇に立たれたら、まず第一に何を学生に御話しになろうと思われますか」との問いに対し、大山は、「学生の本分は真理の探求ということにあります。諸君の先輩達はあの軍閥と官僚との支配下にあつて、惨々たる悪戦苦闘のもとに真理探求の努力をつづけました。現在ではその軍閥も官僚も既に打倒されましたが、まだ真理の探求を妨げる勢力がなくなつてしまつたわけではありません。したがつて何らの闘争なしに真理の探求が行なえるというようなことは決して考えられないことです。諸君は諸君の先輩達と同じように如何なる苦難にも耐えて真理探求のための努力をつづけるべきだと思います。これが私が早稲田の学生諸君にまず第一に訴えたいことです」と答えている。

四 注目の的となった去就

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 一般紙の取り上げ方は、教授大山に対してよりは、かつて果敢に軍閥に抗し、「輝ける委員長」として一時代を画した進歩陣営の代表的政治家大山に焦点が合わされている。十月二十五日付『朝日新聞』は、高田馬場駅前で細長い歓迎の幟と学生達の間でもみくちゃになっている笑顔の大山の写真を大きく掲げ、記者会見の模様を国際政治、国内の政治情勢と絡めて報道している。その中で、記者団の「日本で最初に会いたいと思う人はだれですか」との問いに対し、「それは大衆を代表した新聞記者諸君だ」との、いかにも大山らしい発言が注目される。帰国後の大山がどのような発言をし、現下の日本の状況に対してどのような見解を示すのかは、当時の言論界や政界や労働界が最も注目していたところであるが、十月二十五日付『読売新聞』の羽中田、辻本両記者による大山の記者会見記事は、そうした注目に対する大山の見解を左の如く伝えている。

――帰つて来たことについて――

自分の国で自分の思ふことをやるために帰るべきところへ私は喜んで帰つて来た。印象は大衆の顔が元気で明るいことがまづうれしい。あちらでは敗戦国だの、栄養不良だのと絶えず聞いてゐただけに余計にうれしい。次に時代の変化が私をして浦島太郎のやうな心地にさせる。……少くとも警官の立会なしに私が日本で語れるといふことが驚くべきことだつた。

――現在あなたの考へを――

敗戦すなはち新らしい国家の建設だと思ひ私は決して気を落してゐない。いままで日本のやつたことは破壊的だつたが、これからは何をやつても建設的になるんだと思ふ。そして私たちもいままではただ国内の大衆の自由解放を目標に進んできたが、現在はもつと国際的な視野でものを見るべき段階に来てゐると思ふ。……

――あなたは何かアメリカから使命を持つて帰つたか――

使命は何ももたない。その代りお土産もない。……私はアメリカの進歩的な人たちと何一つ連絡はつけてゐないが、しかし連絡をつけられるやうにはして来た。……

――今後日本であなたはどうするか――

私の余生は大衆へのサービスに捧げたいと思つて帰つて来た。その方法としては学問的な政策の研究に入るか他の道を行くかはよく時局を観察してから考へるべきであるし、また留守居の人々の意見も聞かねばなるまい。私自身はアメリカの十六年間は私の生涯の空白の部分であると思ひ、十六年といふ時間を飛び越えて昔の仕事の続きを十六年前と同じ気持でこれからもやりたいとは思つてゐるが、情勢の変化といふこともあり、私の今後の政党的活動がかへつて日本のために有害であるかも知れない。要するによく観察しよく考へた上でといふことになる。

世人が最も関心を寄せていたのは大山の去就で、学苑すなわち学界復帰か、政界復帰かということであったが、大山自身、この時点では明確にはハラが固まっていなかったと言ってよい。十六年間の「生涯の空白」は、多方面に亘る正確な情報を何よりも必要としていたからである。

 さて、大山の帰国を迎えた学苑の対応はどうであったか。前述の如く、帰国第一夜を横浜市長公舎で明かした大山に二十四日朝七時半に真っ先に会見したのは、学苑を代表して歓迎に赴いた吉村正大浜信泉両理事、久保田明光政治経済学部長と丹尾磯之助庶務課長であった。学苑は、前日の定時理事会において「大山先生帰朝歓迎ニ関スル件」を吉村理事の担当として協議しており、これに基づく行動であった。大山は、八月七日発UPI毎日特電中に語っている如く、既に学苑から教授として復帰するよう非公式に招聘されていたのであり、学苑代表者達は帰国歓迎の辞とともに、改めて教授招聘の意向を大山に直接伝えたものと推察される。この時の模様を久保田は、「私は終戦の年の秋から選出されて政治経済学部長の職にあったので、先生が帰国された日も横浜の市長公舎で同僚吉村正教授と先生を迎え、十数年ぶりで先生の温かい手を握ったのであった」(『大山先生の思い出』三一頁)と回想している。次いで学苑は、大山が戸塚町の自宅に十五年半ぶりに帰宅した翌二十五日午前十時半、島田総長が吉村正常務理事を同道して大山宅を訪問し、帰国に対する歓迎の意を表明した。この会見で、島田は当然総長の立場から大山招聘の意向を言明したものと見られる。尤も、教員人事は本属各学部の決定事項であったから、具体的折衝は政治経済学部に委ねられていたのであり、学部として正式に教授就任を要請したのは十月三十一日で、「かねて早稲田大学政治経済学部教授会が終戦の年の暮、すなわち昭和二十年十二月二十一日に決議した決議をもって、……〔その日の朝〕戸叶武、田部井健次両君と一緒に……戸塚のお宅にお訪ねして、先生の大学復帰の御快諾を得」たと久保田は記している(同前)。

 帰国直後の大山は、歓迎会が相次いだからきわめて多忙であった。先ず、十月二十八日午後二時半、大隈講堂において大山郁夫先生歓迎大会が盛大に挙行された。これは最初、学生自治会主催として計画されたのであったが、大学からの申入れにより自治会と大学との共同主催という形になったのであった。会は学生司会の下に進められ、参集者は五千人に上り、入場し切れない学生が場外に溢れた。開会の辞に次いで島田総長と学生代表との歓迎の辞の後、大山は実に二十数年ぶりに学生達の前に立って一時間半に亘る講演を行った。

私はこの早稲田へ帰ると古巣へ帰つたような感じがする。本当の古巣であります。外国におるときは日本が古巣であつた。私はもちろん国際主義的世界精神によつて動いたつもりでおる。しかし日本を無視して生活をしようとは思つておらなかつた。……いかなる誘惑があつても私の貧しい一部屋を守つて十六年間、日本人たることを完うしていたのである。日本人として――。これは鎖国精神ではない。世界の平和に参加する日本の一人の人間として、そういう意識をもつて十六年間を過して来たのであります。それで古巣である日本へ帰りました。その古巣の中のさらに古巣はこの早稲田学園である。

(『早稲田大学新聞』昭和二十二年十一月十一日・二十一日合併号)

と述べてから、大山は、

早稲田精神とは理論と実践の統一ということであり、人民大衆の幸福のためにすべてを捧げるという精神である。早稲田大学の使命が今後の日本民主化、文化国家建設という役割に如何に大きな責任があるか、一にかかつて若い学生諸君の双肩にある。早稲田大学は社会科学の研鑽実践には過去に於て、大きな貢献をなしていることは万人の認むるところであるが、今後は理工科の担当すべき自然科学の面に於ても充分の研究を遂げ、世界の文化に貢献しなければならない。早稲田大学の進むべき道は世界に眼をひらいた道である。私は学生諸君と共に早稲田大学の学問の独立と自由の擁護に邁進したい。

(『早稲田大学彙報』昭和二十二年十一月二十日号)

と、学苑の進路を明らかにし、最後に、生涯を戦争勢力と闘い続けるとの決意を披瀝して降壇した。この会で学生達は「早稲田大学学生一同」の名により、在米中の大山を援助したコールグローヴ教授に対する「感謝決議文」を採択、同教授に送っている。閉会後大山が講堂を出ると、講堂に入り切れず待機していた数千の学生が詰め寄り、大山は忽ち身動きもできない拍手と歓呼の渦に包まれるに至った。次いで四時からは、大学主催の歓迎茶話会が図書館閲覧室で開かれた。教職員六十名、学生代表十五名が出席した本会は、大浜理事司会の下に進められ、北沢新次郎伊地知純正、大浜の順で、大山の思い出を中心とした歓迎のテーブル・スピーチが行われた。更に引続いて、本部会議室で、島田総長以下学苑の幹部少数による大山夫妻を囲む晩餐会が、途中三度の停電に見舞われほの暗い蠟燭の下で開かれた。大山の帰国歓迎会を学苑が各界に先駆けて大々的に行ったのは、大山が政治党派や労働団体によって「利用」されることへの危惧の念が存在したからでもあるのは事実であった。大学幹部の脳裏には、二十余年前の「大山事件」の二の舞だけは繰り返したくないとの思いがあったのである。大浜信泉は、後年、当時の大学側の思惑の一端を次のように回顧している。

大山さんが戦後日本に帰って来られた時、理事会を代表して横浜まで私が行っ〔て〕野毛山公園に〔ある〕市の施設で迎えたんです。その時に、松本治一郎がやって来ましてね、大山先生を今度は旧日本の葬儀委員長にするんだ、と激しいことを言っておったんですよ。これは、政界にまた引きずり込まれるかな、と思いましてね。浅沼稲次郎君もそこにおりまして、帰りの車の中で、絶対に大山先生を政界に出さんように自分達も努力するが、学校の人も努力してくれろ、我々も大山先生に、政界に出たら野垂れ死にするんだということを言っておいた、と言うんです。〔それから〕図書館のホールで学校主催でやった歓迎会で、私が学校を代表して、どうか今度は学校に専念していただきたい、自から政界に足を突っ込むのは止めて貰いたい、という直言みたいな挨拶をした訳だ。大山さん、笑って、頷いて……。

(『早稲田大学史記要』昭和六十三年三月発行第二〇巻 一八七―一八八頁)

なお、十月二十八日の歓迎晩餐会の終了後、大山は自宅で浅沼稲次郎、市村今朝蔵、植田清次、大泉信、小汀利得、田部井健次、戸叶里子、戸叶武、向山照男、山花秀雄らと今後の自己の行動について協議した。

 さて学苑は、右の経過で明らかなように、総長以下教職員、および、それ以上の熱心さを持つ学生により、全学を挙げてと称し得るほどに大山の学苑復帰を歓迎した。しかしそれは表面的であり、当時、活動的な学生に理解を示し人望を集めていた中谷博と松尾隆の両教授は、後年、大山死去の際の座談会で左の如く裏面史を語った。

中谷 松尾君、先生が帰るときに学生が非常に骨を折つたけれども、そのへんの消息をひとつ語つてくれないか。

松尾 あれは実際学校は学生に完全に引つぱられた形ですね。終戦後大山先生を呼び戻そうという運動が、学生の、しかも全く先生を見も知らぬ学生の間から起つてきたということが私は非常に大切だと思うのです。先輩やなんかにもいろいろ学生たちは呼びかけもしたようですが、ほんとうに運動を支援したということは非常に少なかつたことを残念ながら認めなくてはならないと思うんです。大隈講堂で呼び戻す運動の大会を開いたことがありますが、あのときも学校側は非常に冷淡だつたと思うんです。ごく少数の例外を除いては……。

中谷 その通りだな。

松尾 いろいろな方からときに親切な忠告を受けたこともありますが、一番痛かつたのは、中谷先生から言われたことです。君は一生懸命に大山先生を呼び戻す運動をやつているようだけれども、十六年もアメリカにいらしてすつかり老衰なすつていてこちらへ帰つて見えたとき学生たちが失望したら君は一体どうするんだと言われたことです。実際私自身もそう言われるとちよつと不安になつたんですが、いよいよ実際に帰つて見えて、ほんとうに元気なので、やつとこれで安心したという気持になつたわけです。はじめて高田馬場に迎えたときにほんとうに先生自身もお喜びになるし、学生自身も泣いて校歌を歌うという場面もありました。そのあとで大講堂で歓迎大会を開いたとき、学校側と学生側にいろいろすつたもんだがあつたが、結局学生側が中谷先生や吉村先生の顔をたてて無事あの大会をもつたことは、なんといつても大変な成功でした。大山先生もそのことを大変喜んでいられました。 (『早稲田大学新聞』昭和三十年十二月六日号)

 大山歓迎の主役は学生であった。なぜ、それまで見知らぬ存在であった大山を学生はかくも大歓迎したのであろうか。当時全学自治会委員長であった吉田嘉清が戦後の学生運動を回顧して後年記した次の一文は、恐らく、当時の学生達の熱狂的とも形容し得る大山歓迎の要因を最も集約的に言い表していると考えられるであろう。

敗戦、光の全くない暗い夜の後「いのち」あつて学園に帰つて来た学生たちが、形骸した大学の中で見たものは思想的廃墟のみであつた。「学問の自由のため」「軍国主義反対のため」闘つて亡命した大山郁夫教授の存在を知つたとき――「教えるとは希望を語ること、学ぶこととは誠を胸にきざむこと」――学生生活の真の存在意義を見出した思いであつた。学生が熱狂して先生を迎えたのに何の不思議があつたろう。……一九四七年十月二十四日午後、先生を高田馬場に迎えるや、南の広場・道路は数千の学生でうまり、いち早く駅前にある会社の二階にバルコニーをこしらえ「祝御帰還、今ぞかえらる懐しの母校へ大山先生」とかかげ、学生自治会の用意したマイクで疲れもみせず帰国第一声の有名な「国内外の反動勢力と闘おう」と演説された。この演説は、アメリカ帝国主義の軍隊を解放軍と考えていた学生には非常な教訓と、又反面、二・一スト以後占領軍に奴隷的言葉を用いていた日本国民に勇気を与えた。後に一九四九年九月先生がアメリカ占領軍政策違反にとわれ逮捕されるや、

ポツダム宣言を米軍の係官に諄々と説明し、断固弾圧をはねのけ釈放される程の元気であるから、火の様な熱さを学生に伝えた。帰国第一声が終ると数千の学生は興奮の中に整然と学生のブラスバンドを先頭に、先生御夫妻とスクラムを組んで戸塚のお宅までお送りした。学生は、先生の聞きしに勝る素晴しい視野の広い大演説に感動し、お宅を囲んで、解散後も「大山先生帰国万歳」と連呼して去りもやらなかつた。先生は何回も玄関に出て挨拶された。 (同紙同日号)

「思想的廃墟」の中にあった学生達に「希望」と「勇気」を与えたのが当時の大山の存在であった。それゆえ、大山の帰国は確かに「事件」であった。そして、何よりも当の学生一人一人の青春の歴史において、「暗い夜」が明けて初めて出会った平和と民主主義の思想的シンボルが大山であったと言ってよいであろう。

 学苑の歓迎会の後には政界や労働界主催の会合が続いた。十月三十一日には、午後二時から政界、労働団体、友人、門下生による歓迎懇談会が上野精養軒で開かれた。集る者二百六十名、社会党の校友浅沼稲次郎の司会で会は進行し、国会を代表して松岡駒吉衆議院議長、学苑から島田総長、社会党から加藤勘十が歓迎の辞を述べ、その他言論界、総同盟、産別、日農代表二十数名が順次歓迎の辞を呈した。大山はこの日、「言論の自由は認められても、なお根強い反動勢力が根をはつているので、これと大いに闘う」と挨拶し、四時過ぎ閉会した(『朝日新聞』昭和二十二年十一月一日号)。次いで十一月十五日午後一時から歓迎国民大会が日比谷音楽堂で開催された。これは労働、文化各団体の共同主催によるもので、「大山先輩の健康まことによろしく拝察する」との片山哲首相の言葉に続いて、徳田球一(共産党)、山花秀雄(総同盟)、管道(産別)、平野義太郎(文連)、野溝勝(日農)、櫛田ふき(婦人団体)らが歓迎の辞を述べた。大山はこの日、「政党政派を超越し、大衆とウデをくんで進みたい」と元気な声で抱負を披瀝した。参集者は約二千人で、当時としては珍しく数万円を投じた豪華な式場が人々の目を引いた(同紙昭和二十二年十一月十六日号)。また、十一月二十五日午後二時からは、朝日新聞社主催による帰朝第一回公開講演会が中央大学講堂で開かれた。大山は三千人の聴衆を前にして、「日本の再建と国際連合」と題し、約二時間熱弁を揮った(同紙昭和二十二年十一月二十六日号)。

 ところで、大山を迎えた学生の間には、「今日、先生の帰国に歓喜の双手を上げたある種の人々は、ついこの間まで、ベタ金の東条に同じ双手を上げて下ろしたばかりの人である」との辛辣なコメント付きで、「先生がこれから如何なる方向に行くかは、先生御自身の事であるが、学生はひたすらに先生が再び教壇に立たれ、早稲田再建の為に尽して下さらんことを、そして、安易に妥協せんとする青年学徒の指導に余生を棒げられんことを、お願いして止まない」(『早稲田大学新聞』昭和二十二年十一月一日号)との声が少くなかった。世論もまた、大山の帰国が今後の日本の民主化に役立ち、今後の日本に大きく貢献するのを期待することで一致していたと言ってよい。とは言うものの、木村毅の回想に「初めは左翼政治家達の歓迎会に出てね、大山さんは、政治はやらん、と言ったんですよ。加藤勘十君から痛撃を受けてね、政治をやらなければ日本に帰って来た意味がないじゃないか、と言われて、大分やっつけられた」(『早稲田大学史記要』第二〇巻一八八頁)とあるように、大山の帰国を当然ながら政界復帰と看倣す人々の存在は否定できず、各界よりの大山争奪戦が水面下で展開されていたことは間違いなかろう。

五 母校に錦

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 学内にあっては、大山の教授復帰が以下の手続で進められた。二十三年二月十二日の定時理事会は、政治経済学部教授会が二十年十二月二十一日に大山招聘を決めた決議に基づき、同学部から二十三年二月十日付で提出された大山に関する「教員新規嘱任申請書」を審議して、「大山郁夫氏ヲ政治経済学部教授ニ嘱任ノ件」を決議し、二月十八日の定時維持員会は総長からこの件に関する説明を受けて、これを可決したので、三月十五日人事委員会の決議を経て、四月一日付で政治経済学部教授に嘱任する旨が人事決裁原簿に三月二十一日記載され、辞令交付の手続が行われた。なお、この嘱任時の大山の担当科目と一週の時間数は「政治学研究 二時間」のみで、年俸は四万五千円(月三千七百五十円)と定められたが、当時の古参教授の年俸と比較すると、特別待遇であったことが明らかである。

 更に、四月七日付で専門部政治経済科からも「三年政治学研究(基本科目) 一週二時間」担当の教授依頼稟議が提出され、四月八日の定時理事会、次いで四月十五日の維持員会の決議を経て、四月十九日に、四月一日付で専門部政治経済科教授にも兼任として嘱任の手続が完了したので、大山の政治経済学部および専門部政治経済科教授嘱任が、五月二十日発行の『早稲田大学彙報』に他の諸教員の嘱任とともに公示された。三たび学苑の教壇に立つことになった大山の初講義は、五月十九日午前九時四十分専門部第三十五番教室で実施されたが、二十三年ぶりの議義再開ということで、他学部・科の学生も多数来聴し、マス・コミ各社のカメラマンのフラッシュを浴びて、時の人にふさわしい雰囲気が醸し出された。

 学苑復帰が実現した大山に対しては、大物教授であるだけに、また時代状況が状況であっただけに、学部当局はかなり細かい神経を使わざるを得なかった。二十四年秋以降第一政治経済学部教務主任に就任した小松芳喬は、後年、次のように当時を回想している。

終戦の年の暮、先生に早稲田にお帰りいただこうという議が、政治経済学部の教授会で満場一致で決定し、二十二年秋のご帰国後、翌年二月十八日に大学の手続を完了している。そこで二十三年春からは、政治経済学部と専門部政治経済科とで毎週二時間「政治学研究」を担当していただくことになった。しかしこの時代の大山先生は、早稲田で独占するどころか、主力を早稲田の授業に注いでいただくことさえ望むべくもなかった。学部でもそのことは十分承知していたから、先生は何から何まで特別扱いで、ゼミの担当もお願いしなかったし、煩瑣な雑事などはお耳に入れないよう心がけた。……在米中は誰かに担がれないよう細心の注意をお払いになったと伝えられているが、ご帰国後は渡米前と同じように、むしろ喜んでお担がれになり、学部の先輩たちはハラハラし通しだったように見受けられた。漸く学生運動も盛り上ってきた時代であったから、第二の「大山事件」でも勃発して先生の晩節に遺憾があってはとの懸念も皆無ではなかったが、先生もそこは十分ご承知であったらしく、杞憂に終ったのは幸であった。 (「大山先生の授業」『大山郁夫〔評伝・回想〕』 一三四―一三五頁)

 ところで、旧教授陣からの戦後の学苑復帰は大山のみにとどまらず、商学部に再び迎えられた佐野学も注目された一人であった。佐野は大正十年四月に学苑講師に就任したが、第一次共産党事件に連座して猪俣津南雄とともに大正十二年十月十四日付で解任され、以後日本共産党幹部として政治活動に専念したけれども、昭和八年六月に鍋山貞親とともに転向声明「共同被告同志に告ぐる書」を発表して政治的にも思想的にも多大の影響を与えた、かつては大山に勝るとも劣らない「時の人」の一人であった。佐野は学苑を離れた後、国内的のみならず、コミンテルン第六回大会に出席して片山潜とともに国際的にも活躍していたが、昭和四年六月上海で逮捕、日本に連行され、転向声明後も獄中にあって、十八年三月に満期出獄、保護観察下に置かれた。敗戦後二十一年八月に「天皇制の下での一国社会主義」を目指して労農前衛党を結成、その委員長として政治活動を再開するとともに学苑に復帰した。当時の商学部長伊地知純正は、佐野招聘の経緯について次のように記している。

昭和二十年の終戦の年に、わたくしは早稲田大学商学部の部長に選挙された。それで学部の先生の補充をする必要を感じた。新しい先生を物色するについて、最初にわたくしの頭に浮んだのは佐野学という名前であつた。早速佐野先生と交渉を始めた。先生はわたくしの御願を快く引き受けて下さつた。受諾の手紙の中で、わたくしが最も有難く感じた文句は、「自分は早稲田には恩義を感じている。また早稲田には少からぬ御迷惑を掛けている。だから自分は早稲田のために恩報じとして働きたい」という意味のものであつた。 (『国民評論』昭和二十八年六月発行第二一四号 四八頁)

この時実際に使者として佐野宅に赴いた中島正信は、

早大商学部教授会で満場一致先生を教授として迎えることに決定したのだから復校されるよう御願すると、意外に早大には種種迷惑をかけたから、帰るわけにはゆかないと言われて、なかなか御承諾が願えなかつた。これは大変と、一生懸命交渉を続けた結果、講師としてなら出講してもよいと言われた。仕方がないからそれで御願する以外ないと判断して、よろしくたのみますと言つて、そのことを伊地知学部長に報告すると、学部長は佐野君らしいねと言われ、そのうち教授になつてもらうと付け加えられた。 (同誌同号 四五―四六頁)

と回想している。佐野の学苑復帰は昭和二十一年十月であり、講師として社会思想史・文化講座を担当したが、教授就任は三年後の二十四年であった。

 京口元吉も五年ぶりに学苑に復帰した。第三巻一〇六〇―一〇六一頁に既述したように、京口の自由主義的講義内容が官憲の問題視するところとなり、辞職を余儀なくされて昭和十六年三月十一日付で学苑を去っていた。京口が文学部講師として再び教壇に立ったのは二十一年二月一日付であったが、その浪人時代、同じ受難者の津田左右吉から、「今に世に出るときが来るから、その準備に充分研究をして置くやうに」との鄭重な書簡が届き、励まされたという。同年五月京口は助教授となったが、「十六年三月ヨリ二十一年二月迄(五ヶ年間)ハ休職トシテ取扱フコトトナリ、退職手当ヲ返却」するとの手続が執られている。

 大山は、二十六年三月末日定年制度に基づき学苑を辞去するまで、教授として在任した。帰国・学苑復帰を以て大山の戦後社会における新活躍が開始したのであったが、以下にはその後の大山の足跡を学苑との関連において簡単に言及するにとどめたい。

 二十三年四月に学苑教授に復帰したとはいえ、大山は教授に専念するというよりは寧ろ学外の活動を積極的に展開し始めた。この年二月、徳田球一と野坂参三の意を体して、当時日本共産党の東海地方の責任者であった杉本文雄が同党への入党の意志を大山に打診したことがあったが、大山は受諾することなく、超党派の立場から平和擁護運動に邁進する姿勢を明らかにした。教授就任の四月には松阪市で講演し、八月には民主主義擁護同盟の第一回準備会にメッセージを送り、九月には埼玉県川越で、翌二十四年二月から三月にかけて十数日間は徳島県と高知県とで、講演を行った。テーマはいずれも世界平和と日本の民主化をめぐるもので、多くの聴衆を魅了した。学苑教授就任一年後の二十四年四月には、二十日から四日間、パリで五十九ヵ国の代表千五百名参加の平和擁護世界大会が開催され、大山はこれに招かれたが、参加が不可能だったため、同志とともに二十五、二十六の両日東京九段上の家政学院講堂で平和擁護大会を開催し、立命館大学総長末川博、評論家平野義太郎、中島健蔵ら六名とともに議長団に選ばれ、平和運動への各界からの積極的参加を熱心に呼び掛けた。他方、学内においても、学祖大隈の遺徳を偲び学苑建学の精神昻揚を期するため五月五日より十日間に亘り全学的に開催された第一回大隈記念祭の一環として大隈講堂で開かれた講演会で、大山は「私学の恩人大隈老侯」と題して熱弁を揮い、「大隈老侯の建てたこの早稲田には、伝統であるが故に破つてはならないことを強いられる伝統――伝統のための伝統は存在しない。敢えて伝統があるとするならば、それは伝統を破つて成長しようとする伝統がある」と述べ、大正十二年の軍事研究団事件、研究室蹂躙事件に伴う大学擁護運動を挙げ、学苑における自らのかつての体験を語り、「大学の独立、研究の自由を守る大隈精神は、脈々として今日に生きて、当時老侯の考えられなかつた方向にまでも発展している。……常に進歩の側に立つた大隈老侯――われわれに『大衆の中へ行け』と説かれた大隈老侯のことを思わないではいられないのである」(『早稲田大学新聞』昭和二十四年五月十一日号)と結んだ。六月に入ると、折から刊行中の『大山郁夫全集』全五巻が完結の運びとなったのに伴い、同月九日、大隈講堂において大山郁夫全集刊行完了記念講演会が科外講演部主催、同全集刊行会・早稲田大学新聞会・中央公論社後援で盛大に挙行されるなど、諸種の講演会に引っ張り凧であった。

 こうした中で六月二十八日に島田総長の任期満了に伴う総長選挙が行われたが、学生側では、これに先立ち、六月二十一日から二十三日まで開かれた第六回通常自治議会の二日目に、「学生世論に合致する大山教授を総長に推す」ことを絶対多数で可決するとともに、来る二十四日に大山宅を訪問して総長選挙に立候補するよう要請するとの緊急動議が提案・可決された。大山自身は自ら立候補することはなかったが、学内六十名、学外二十九名の計八十九名の選挙人の投票中には、大山に投じられた二票が存在したのであった。

 大山はこの頃、さまざまな団体とともに平和運動を推進していたが、九月十七日の中国研究所主催の講演会で行った講演中にマッカーサーを誹謗した箇所があるのが占領政策違反であるとして、同月二十七日に占領軍に召喚され警視庁に留置された。弁護活動が直ちに開始され、新聞も号外を発行し、内外の報道陣が警視庁に殺到したが、翌朝には釈放された。この時の大山留置事件はのちのちまで語り草となって、学苑側では、吉村正が述懐している次のようなエピソードに窺われるように、ハラハラし通しだったのである。

大山さんがMPに引つぱられたという情報が入つて、非常に心配していたら、間もなく出てこられたというので、私のところへ死んだ市村(今朝蔵)君がきて、「二人でしばらく自重してもらうようにしよう」というので、一緒に行つたですよ。そうして、二人で大山先生に会つて、「先生、ここしばらくでいいから自重してもらいたい」といつたところが、「いや、だめだ」つていうんだ。こういうふうにして出てきたときであるからなおさら演説をやらなければいかんというんだ。自分は連合軍に引つぱられて断頭台の露と消えたら、大山これほど本望なことはない。だから断じてやるというわけだ。二人は参つちやつたよ。

(『早稲田大学新聞』昭和三十年十二月六日号)

 教授復帰三年目に入った昭和二十五年四月二十二日、参議院議員会館第二会議室で大山郁夫後援会の発会式が行われた。これは参議院議員選挙への立候補を目指したもので、かねてより門下生の間で計画されていたが、この時期に至って、大山の思想に共鳴する学者グループが発起人となり結成に漕ぎ着けたのである。発起人には大阪市立大学長恒藤恭、立命館大学総長末川博、名古屋大学教授真下信一をはじめ、友人の長谷川如是閑や門下生の田部井健次らと、学苑からは吉村正中島正信、市村今朝蔵の三教授が名を連ねていた。大山はこの年六月四日実施の選挙に京都地方区より立候補した。全国区から立候補しなかったのは、政党、労働組合などの全国的組織と直接関係がなかったからであり、京都を選んだのは、支持基盤の民主統一戦線会議が最も成長著しかったのが同地方であったからである。結果は、二〇一、五三八票を獲得して当選し、大山は労農党代議士以来、再び国会議員中に名を連ねることになった。大山は現職の学苑教授であり、本来ならば教授と参議院議員の兼職は当然問題視されてしかるべき筈であったが、大山の場合は異例であり、黙認されるのが当然というような雰囲気が存在した。しかし、当選後ほどなく肝硬変に罹り、八月から翌二十六年九月まで一年余に亘って入院生活を余儀なくされた。従って、大山の授業は休講が続くうちに、東大病院入院中の二十六年三月末日を以て、定年制の定めにより教授を退任することになったのである。

 大山の退任は二十六年四月一日付で発令され、起伏に富んだ早稲田生活は終了した。しかし、大山はこの時病床にあったため、式典に類することは一切行われなかったが、大山自身は「ワセダ・マンとしての半世紀」と題する手記を『早稲田大学新聞』に寄稿して、次の如く学生に別れの言葉を伝えた。

私は本文の課題として「ワセダ・マンとしての半世紀」という表現を選んだ。それは無論、過去五十年に近き歳月にわたつて続けられた一個のワセダ・マンとしての私の公私の生活が今回、当大学の停年制の下に、私が教壇を離れると同時に、全然そのページを閉じようとしているということを意味するのではない。否、事実は全くそれと反対に、少くとも私自身は、私の生きている限り、今後なおいつまでも、ワセダ・マンとして終始しようと考えているだけではなく、今後の私の活動の上においてこそ、いつそう自由にワセダ・マンの本領を発揮したいとさえ考えているのだ。……とくに強調したく考えているのは、私が過去約半世紀間のいかなる瞬間にも、一個のワセダ・マンであるという自覚を失つたことがないという事実、さらにそれにつけ加えて、私はそれに無上のよろこびを感じてきたという事実にすぎないのだ。実際私は、ワセダ・マンであるということに一種の誇りをさえ感じていて、いま仮りに私の生活をスタートから再びやりなおす自由が与えられたとしても、私はやはりワセダ・マンとしてのコースにつく以外に途がないことを発見するであろう。 (昭和二十六年四月二十一日号)

 大山は「早稲田騒動」に、「軍事研究団事件」に、そして「大山事件」に際して、大学当局の眼からは常に厄介な存在であり、大学に迷惑を掛け続けた人物であったに違いなく、学長なり総長なりであった恩師高田早苗とは真正面からの衝突を繰り返したのであった。それにも拘らず、学苑創立以来の「ワセダ・マン」の権化と言うべき恩師高田を、大山は生涯敬愛し続け、「高田先生には情誼を尽さねばならない」と常々口にしていたとは、令息聡の語るところである。高田に対する大山の尊敬は何に原因するものであったろうか。ここには、さまざまな理由の一つとして、大山自身の回想「高田総長の想い出」に示された次の如きエピソードを紹介しておきたい。時は大正十二年、軍事研究団事件・研究室蹂躙事件の際である。

わたくしが軍教に反対して学生とともに闘っていた頃、沼予審判事一行が高田総長のもとへ学園研究室を捜査するための許可を求めにきた。その時高田総長は、背後にある国家権力を恐れてかのように、許可を与えてしまった。その総長の権力者に対する腰の弱さ――むろん総長には総長としての別の考えがあったのだが、それに察しが及ばなかった学生たちは大に憤激してますます軍教反対の闘志を燃やし一大デモンストレーションを決行することを決議した。これに対し総長はその成行きを恐れてか集会を中止させるべく、わたくしを大隈会館へ招いた。しかしわたくしは、今ここで反戦反軍の闘いを中止したなら久遠の理想に輝く早稲田の歴史が軍閥にふみにじられるという一大汚点を残すことになると思い、総長の制止も聞かず、ついに六月二十六日演説会を断行してしまった。その翌朝、突然わたくしのもとへ届けられたものは「君達の闘いは早稲田学園をファッショ的権力階級の蹂躙から完全に守り、輝かしい本学の伝統を保つことを可能ならしめた」という意外な高田総長の感謝状であった。「総長は憲政の初期に白刃の下をくぐってこられた方だけに筋金入りだ」と学生の憤激は感激と変っていった。それからというものは、教授は勿論、全学生が一致団結して早稲田を守るために闘ったものである。即ち大学擁護運動へと発展していったのである。 (『早稲田大学新聞』昭和二十七年十月二十八日号)

 ところで、大物中の大物であった大山の教授退任に際し、大山はなぜ名誉教授に推されなかったのであろうか。その実現に至らなかった経緯は次のようなものであった。

ご退任後、名誉教授との声が内外で聞かれたのは事実である。名誉教授の制度は大正四年に坪内先生を対象としてはじめて早稲田に設けられ、その規程もはなはだ漠然としたものであったが、昭和二十一年に、満二十五年(現在は二十年に短縮された)以上教授在職というはっきりとした条件が定められた。ところが大山先生の場合、前後を通算して十三年にしか達しない。仮に講師や留学生時代を含めてもなお数年不足する。教授在職二十五年未満でも功績の特に顕著なものは推薦できるという救済規定はないわけではないが、不足している年限は半年や一年ではない。いくら大山先生は例外中の例外とはいえ、評議員会の同意が必ずえられるという十分の見通しもないのに教授会で推薦するのは軽率であるとの考慮から、ついに見送られたのであった。 (小松芳喬「大山先生の授業」『大山郁夫〔評伝・回想〕』 一三五頁)

すなわち、当時の評議員会は大学当局に対して強い影響力を持ち、中には大山の政治的行動を快しとせぬ人々も一、二にとどまらなかったから、救済規定発動に対しては反対の声が挙げられる惧れもあり、その結果大山が晒し者となっては却って大山を傷つける結果になろうとの配慮から、政治経済学部では敢えて名誉教授推薦を発議しなかったものと察せられるのである。

 教壇を離れた大山は、やがて体調も回復し、参議院議員、平和擁護日本委員会会長として平和運動に挺身し続けた。二十八年には、七月にソ連を訪問して九日クレムリンで「スターリン国際平和賞」を受領し、二十日にはモロトフ外相との会談で日本人戦犯帰国を議題として日ソ交渉に先鞭をつけ、更に九月から十月にかけて中国を訪れて周恩来総理と会見し、十一月には戦後最初の日本人政治家として朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問して金日成首相と会談するなど、社会主義国と日本との橋渡しのため、超人的とも言うべき活発な活動を展開した。次いで三十年には、六月にヘルシンキでの世界平和大会に日本代表団団長として出席し、七月から八月にかけて再びソ連、中国を訪問し、帰国後直ちに六日の広島での原水爆禁止世界大会に出席するなど大活躍を演じたが、同年十一月三十日、脳血栓のため七十五年の生涯を閉じた。大山が最も愛した母校では、十二月八日大隈講堂で「大山郁夫平和葬」が行われた。