Top > 総索引年表 > 年表 明治四十年~四十五年

年表(明治四十年~四十五年)

ページ画像

和暦西暦月日事項
明治40年1907年1・26日清生命保険株式会社(社長前島密),創立総会開催〈②1118〉
1・30校友大会で大隈重信銅像建設を決議〈②228〉
3・30独逸語会,発会式挙行〈学報146・54,②544〉
3安部磯雄,野球部長退任し,高杉滝蔵就任〈②577〉
4・4維持員会,校長・学監を廃止し総長・学長を新設して大隈重信の総長就任と高田早苗の学長就任を決議,また7名の維持員を15名に増員するとともに,社団法人から財団法人への組織変更を決議〈②354-355〉
4・4日清印刷株式会社,創立総会開催〈学報147・61,②1115-1116〉
4・17大隈重信総長推戴式挙行〈②208,356〉
4・17浮田和民に高等師範部長兼大学部師範科長嘱任,中島半次郎が高等師範部兼大学部師範科教務主任退任し,中桐確太郎が就任(ただし,大学部師範科の設置は9月の予定)〈沿革,②394〉
4・20早稲田実業学校,早稲田中学校寄宿舎跡地の新校舎に移転し,この日の卒業証書授与式と兼ねて新校舎落成式を挙行〈学報147・61〉
49月より高等師範部を大学部師範科に昇格させる予定で,第三高等予科から師範科進学コースを分離独立させて1年半制の第五高等予科新設〈②386〉
4新聞研究会,『早稲田新聞』第1号発刊〈②534〉
5・6維持員会,定款を改正して会計監督を2名に増加し,市島謙吉のほかに田原栄を嘱任〈②356〉
5・25大隈重信銅像建設資金募集に着手〈②229〉
6・11伊藤正,副幹事辞任し,栗山精一就任〈沿革,②421〉
6・17野球部選手編『ベースボール』刊行
6・30庭球部選手編『ローンテニス』刊行
7・5大学部商科,最初の卒業生200人を送り出して早稲田大学商学士の学士号を授与〈記要22・111〉
7・11校外生のための夏期講習会,21日まで開催(通信教育におけるスクーリングの嚆矢)〈②487〉
9大学部師範科(国語漢文科,歴史地理科,英語科)発足(ただし第五高等予科修了生がまだいないので,在籍者は皆無)〈記要22・111〉
9清国政府の文教政策変更に伴い,清国留学生部は予科・師範科・特別予備科の新1年生受入を中止し,新たに3年制の普通科を発足〈②185-188〉
9文学科卒業生を対象に1年制の宗教研究科設置〈②389-390〉
9東京同仁医薬学校,牛込西五軒町の新校舎に移転〈②343〉
10・20大隈重信銅像(大礼服姿,小倉惣次郎作)除幕式,創立25周年記念式典挙行。校歌(相馬昌治作詞・東儀季治作曲)制定。大隈重信,大学敷地の所有地寄附を表明。理工科および医科を創設するために第二期基金を募集したい旨を表明〈②231,238,252-263〉。なお,この時より昭和16年まで創立記念日は10月20日と定められる〈③842〉
11東京同仁医薬学校,付属の早稲田同仁医院開設〈②343〉
12・25大隈重信撰『開国五十年史』上巻刊行(下巻は明治41年2月,附録は同年10月刊行)
この年頃以後 柔術部,柔道部と呼称〈②561〉
この年頃以後 遊泳部,水泳部と呼称〈②587〉
明治41年1908年1・13維持員会,第二期計画の大綱を決定〈②298〉
2・1維持員会,社団法人解散と財団法人設立を決議〈②357〉
2〔1?〕・18哲学会,第1回研究会開催〈②545,沿革〉
2穴八幡下の4,096坪(現文学部敷地)を購入,大隈重信寄附の大学敷地(6,876坪)と合せて登記(学苑初の所有地)〈②296,1008-1009〉
2第二期基金150万円の募集発表〈②1012〉
2栗山精一,寄宿舎長辞任し,工藤祐山就任〈②449〉
3・10社団法人解散と財団法人設立を文部省に出願〈②357〉
4・3大日本文明協会(会長大隈重信)設立〈②607〉
4大学部師範科を9月より文学科に編入することとし,師範科教務主任中桐確太郎退任〈②394〉。大学部師範科は1度も機能せず
4第五高等予科(理工科)発足〈②303-304〉
4講義録『高等国民教育』発刊〈②485〉
5・5第二期計画のことを知った皇室より3万円下賜の御沙汰書を得る〈②270-271,302-303〉
5・9文部省より財団法人設立の認可を得る〈②357〉
5・22財団法人設立の登記完了〈②357〉。維持員を終身維持員7名と有期維持員8名とに分ける〈②358〉
5栗山精一,副幹事退任し,東儀季治就任〈②421〉
5金子馬治,文学科の哲学科・和漢文学科・史学科教務主任嘱任,島村滝太郎,文学科の英文学科教務主任嘱任〈②394〉
7・12清国留学生部,第1回師範科卒業生(184人)を送り出す〈②189〉
7第五高等予科(師範科),最初で最後の修了生を出す〈記要24・112〉
9・19ワシントン大学野球チームを招聘(日本の野球界がアメリカの野球チームを招いた最初),第1回戦を行い,初めて入場料を徴収,また初めて選手合宿所を開設〈『早稲田大学野球部五十年史』84-5,86〉
9大学部文学科の英文学科を英文学科第一部と,師範科より編入した英語科を英文学科第二部,国語漢文科を和漢文学科,歴史地理科を史学科と改称して,第五高等予科(師範科)修了生を英文学科第二部,和漢文学科,史学科のいずれかに編入〈②386-388,記要24・112〉
9文学科に特殊研究科(哲学研究科,教育研究科,宗教研究科,文学研究科)設置〈②390,記要24・113-114〉
9阪田貞一,理工科長就任,牧野啓吾,理工科教務主任就任,また理工科商議員を設けて手島精一竹内明太郎阪田貞一田原栄嘱任〈②318〉。なお,商議員の制度が消滅するのは昭和初期
9清国留学生部,師範科卒業生のために本年度限り1年制の研究科(補修科)を設置するとともに,普通科の生徒募集を停止〈記要24・114,②189-90,192〉
11・10校友会幹事会,校友倶楽部設立委員会の設置,『早稲田学報』の早稲田学会より校友会への経営委譲,『早稲田学報』および校友会会員名簿の全校友への配送を決議〈②1109,学報166・70-72〉
11牛込鶴巻町に友愛学舎設立〈③262〉
12・19事務員に年末手当支給(ボーナス支給の嚆矢)〈②421〉
12大学部卒業生,プリンストン大学大学院への入学可能となる〈沿革,②393〉
明治42年1909年7・2維持員会,第二期計画において理工科優先・医科後回しを確認,また,学長を補佐する理事1名を置き市島謙吉を嘱任〈②349,361〉
7・3第五高等予科(理工科),最初の修了生を出す〈記要24・114〉
7・4市島謙吉,会計監督辞任し,三枝守富就任〈②361,維持〉
7・5高等師範部,最後の卒業式を挙行して廃止〈記要24・114〉
7・12清国留学生部,最後の師範科卒業生と研究科(補修科)卒業生を送り出す〈記要24・114,②190〉
7主として第五高等予科(理工科)用の教室棟,機械工学科実習工場竣工〈②294,314〉
8・31第一期計画の基金募集総決算〈②265-266〉
9・13大学部理工科(機械学科,電気学科)発足〈②309〉
9牧野啓吾死去に伴い,中村康之助,理工科教務主任就任〈②318,336-337〉
9講義録の修業年限を1年半に短縮〈沿革,②487〉
10・16維持員会,新聞研究科開設を決議〈記要24・115,②391〉
11機械工学科仮鋳物工場竣工〈②294〉
この年秋 競走部発足〈②588〉
この年晩秋 野球部OBの交友機関として稲門倶楽部組織〈『早稲田大学野球部五十年史』91,②578〉
この年 工藤祐山,寄宿舎長辞任し,本田信教就任〈②449〉
明治43年1910年1寄宿舎に起居する商科生,消費者組合を結成〈②448〉
2・5大学部法学科長兼専門部法律科長小山温,同教務主任坂本三郎退任し,中村進午,科長に嘱任。また,維持員会,前年に廃止した高等師範部を4月より復活させることを決議し,藤井健治郎を高等師範部教務主任に嘱任〈②394,維持〉
3・1大隈重信『国民読本』刊行〈②683〉
4高等師範部(第一部〈予科,国語漢文及歴史科,英語及歴史科〉と第二部〈数学科,理化学科〉に分かれ,本科の修業年限は第一部,第二部とも3年)を再び設置し,第一部の予科(4月より7月まで)および第二部(教員免許資格は付与されない)の2学科を開設〈記要24・115,②386-388〉
5・21校外教育部,発会式を挙行し,翌22日より1週間に亘って第1回講習会開催〈②497-501〉
5出版部,校外教育部と校内教育とを連結する月刊誌『早稲田講演』発刊(大正5年3月を以て廃刊)〈②476,1035〉
6・22野球部,ハワイ遠征に出発〈『早稲田大学野球部五十年史』94〉
6・25恩賜記念館起工〈②427-428〉
7・5清国留学生部,最初で最後の普通科卒業生を送り出すとともに廃止〈②191-192,記要24・116〉
9・2野球部,ハワイ遠征より帰国〈学報188・26〉
9・6機械工学科・電気工学科実験室・汽罐室竣工〈沿革,②294,315〉
9理工科の採鉱学科および建築学科開講〈②307,309〉
9予科修了生を迎えて高等師範部第一部本科(国語漢文及歴史科,英語及歴史科)開講〈記要24・117〉
9池袋の土地10,595坪を運動場用地として購入〈②296,1009〉
9高田馬場駅営業開始〈①994,②1130〉
11・26南極探検後援会(会長大隈重信),南極探検隊(隊長白瀬矗)隊員を大隈邸に招いて壮行会開催〈②615〉
11・28南極探検隊,芝浦出航〈②615〉
12・13「体育部規則」改正,水泳部公認,野球部長に安部磯雄,庭球部長兼野球部副部長に高杉滝蔵,端艇部長に塩沢昌貞,弓術部長に平沼淑郎,柔道部長に田原栄,剣道部長に副島義一,水泳部長に中村進午嘱任〈②558〉
明治44年1911年1本田信教,寄宿舎長辞任し,栗山精一就任〈②421,449〉
2・4中級技術者を養成するための夜間各種学校である付属早稲田工手学校の設置認可を東京府に申請〈②330〉
2・21東儀季治,副幹事退任し,前田多蔵就任〈沿革,②421〉
3・16早稲田工手学校の設置認可〈②330〉
3・18心理学会,第1例会開催〈学報195・21〉
3・28野球部,シカゴ大学に招かれて第2回アメリカ遠征に出発〈『早稲田大学野球部五十年史』102,②578〉
3・29修業年限2年半(半年ごとの5期に分け,1・2・3期を予科,4・5期を本科とする)の早稲田工手学校(校長徳永重康),機械科・電工科・採鉱冶金科・建築科の第1期および第2期の授業を開始〈②330-331〉
4大学部商科への入学資格を商業学校卒業生にも与えるため,第四高等予科(商科)を第一部と第二部とに分けて商業学校卒業生を第二部に収容〈②392〉
4総合雑誌『新日本』(主宰大隈重信)創刊(大正7年12月を以て廃刊)〈③121〉
5・7早稲田工手学校開校式挙行〈②331〉
5・12恩賜記念館竣工〈②427-428〉
5・30理事を2名ないし3名置くことができるように校規を改正して高田早苗天野為之市島謙吉の3名を選任,また,教授会議の構成員を兼ねる講師を教授と称することとし,更に学科長制を全面採用して大学部政治経済学科長兼専門部政治経済科長に塩沢昌貞,大学部商科長に田中穂積,大学部文学科長に金子馬治,高等師範部長に藤井健治郎嘱任〈②361,365,393-394〉
5『国民教育青年講習録』(大隈重信監修)発刊〈沿革,②683〉
6友愛学舎,弁天町に移転〈③262〉
7・5大学部文学科の英文学科第二部と和漢文学科と史学科,最初の卒業生を出す〈記要22・117〉
8・17野球部,第2回アメリカ遠征より帰国〈学報199・18〉
8・21早稲田工手学校,第3期を開始するとともに土木科新設〈②334〉
9大学部法学科,新1年生より独法科と英法科との2分科制を採用〈②391-392〉
9寄宿舎の収容定員を160人と半減〈②448,1149〉
10・8早明野球定期戦開始〈『早稲田大学野球部五十年史』104,②1070〉
10早稲田工手学校の教職員・生徒間の親睦機関である稲友会設立(のち卒業生をも包摂)〈②336〉
11・4政治学会発足〈沿革,②523,③165〉
11・20運動場として借用してきたキャンパス北側の土地5,401坪を購入〈維持,②296,559,1009〉
11製図教室および採鉱学科実験室竣工〈②294-295〉
12・19OBに現役を加えた稲門・三田野球戦を10月から11月にかけて行ったのを機に野球部が慶応野球部に早慶戦復活を申し入れたが峻拒されたので,慶応との絶縁決議書を公表〈②578〉
12理工科教務主任,理工科経営主任と改称し中村康之助嘱任,また各科に学科主任を置き,機械工学科主任に中川常蔵,電気工学科主任に牧野賢吾,採鉱学科主任に小池佐太郎,建築学科主任に佐藤功一を嘱任〈②319,337〉
この年 東京同仁医薬学校および付属同仁医院廃止〈②348-349〉
この年 稲門艇友会設立〈②584-585〉
この年 心理学会発足〈③165〉
明治45年1912年1・27日清協会,支那協会と改称〈学報205・19,②531〉
1・31維持員会,教旨起草委員会の設置を決議〈②682〉
1・31栗山精一,寄宿舎長退任し,矢沢千太郎就任〈維持,②449〉
3・2教職員の親睦を目的とする温交会発足(昭和12年解散)〈②679〉
3理工科各科に顧問を置き,機械工学科顧問に阪田貞一,電気工学科顧問に浅野応輔,建築学科顧問に辰野金吾,採鉱学科顧問に渡辺渡を嘱任〈②319,338-339〉
5・17皇太子,早稲田大学行啓〈②632〉
6機械工学科・電気工学科実験室・汽罐室増築工事竣工〈②294〉
7・5大学部理工科の機械学科と電気学科は最初の卒業生(合計37人)を送り出し,工学士の称号を授与(科名はこの頃より機械工学科,電気工学科と呼ばれたが,正式に呼称が変るのは大正2年2月の規則改正による)〈記要22・117〉