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法人略史および歴代役員

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二 社団法人時代

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 学苑は明治三十一年十月に社団法人となった。これは、同年七月の明治民法施行と深く関連している。この明治民法と同時に施行された民法施行法(明治三十一年六月二十一日公布、法律第十一号)には、「民法施行前ヨリ独立ノ財産ヲ有スル社団又ハ財団ニシテ民法第三十四条ニ掲ケタル目的ヲ有スルモノハ之ヲ法人トス」(第十九条)とある。条文中の民法第三十四条とは、「祭祀、宗教、慈善、学術、技芸、其他公益ニ関スル社団又ハ財団ニシテ営利ヲ目的トセサルモノハ主務官庁ノ許可ヲ得テ之ヲ法人ト為スコトヲ得」のことである。更に、「法人ノ代表者ハ民法第三十七条又ハ三十九条ニ掲ケタル事項其他社員又ハ寄附者カ定メタル事項ヲ記載シタル書面ヲ作リ民法施行ノ日ヨリ三ケ月内ニ之ヲ主務官庁ニ差出タシ、其認可ヲ請フコトヲ要ス」(民法施行法第十九条)と定められた。民法第三十七条は、社団法人の設立者に、(一)目的、(二)名称、(三)事務所、(四)資産に関する規定、(五)理事の任免に関する規定、(六)社員たる資格の得喪に関する規定を記載した「定款」を作ることを、また、第三十九条は財団法人の設立者に、前記(一)から(五)の事項を記載した「寄附行為」の作成を義務づけている。これらの規定に基づき学苑は、十月十五日、社団法人の設立認可願を東京府知事に提出し、その認可を得たのち、十二月十二日に社団法人(社員大隈英麿高田早苗鳩山和夫天野為之坪内雄蔵市島謙吉)の登記を済ませた。

 この時、慶応義塾や和仏法律学校(法政大学の前身)は財団法人となった。社団法人は人すなわち「社員」を基本的構成要素としており、一方、財団法人は基金すなわち「財産」を基本的構成要素としている。財団法人であるためには、事業継続のために必要な一定の財産を有していることが要求された。当時、学苑の敷地や校舎の多くは大隈家から借用しており、学苑固有の財産と言えるものはきわめて僅かであった。従って、財団法人として申請したくても、その要件を満たせなかったのである。

 社団法人の申請および登記に際しては、学校の組織・運営を規定した「定款」、いわゆる「校規」が必要であり、学苑でも明治三十一年に作成された筈であるが、これは発見されていない。そのため社団法人発足時の学苑の組織と運営の仕組みについて直接知ることはできないが、民法で設置を義務づけられた理事、社員会(社員六名で構成)、および民法には規定はないものの私塾時代から継続された評議員会があった。それぞれの機能は明確ではないが、理事は校長と称して校務を管掌し、社員会は予算と決算を審議し、評議員会は学科課程の改正、学費の改定、規約の制定などを協議し決定するという従来の重要な機能を引き継いだと推測される。その評議員会には校友会が選出した在京卒業生も出席したことは前述したが、三十三年からは地方校友会も評議員を選出している。この年二月には大学部開設を射程に入れて定款を改正し、学監一名を設けて校長を補佐しつつ校務を監督させ、民法で「一人又ハ数人ノ監事ヲ置クコトヲ得」とされた監事を置き、会計監督と称して財務監査を行わせた。また職務章程を制定して、幹事(事務長に相当)・寄宿舎長・図書館長の職掌を定めた。これらの改組は規模の増大と大学組織への変更に対処するための措置であった。

 明治三十五年九月を期して東京専門学校を早稲田大学と改称することは、三十三年七月十一日、総勢四十九名中約半数の評議員が大隈邸に集まって開催された評議員会で決せられた。勿論、大学を名乗って設備や講師陣を充実するためには巨額の費用を要する。翌三十四年一月十七日の社員会は大学開設のための費用を校友はじめ一般の寄附に仰ぐことを決め、募金趣意書を作成するとともに、評議員はもとより多数の学苑関係者が全国を駆け巡った。次節で述べるように、これは学苑最初の募金運動であり、全国に散在する校友の尽力には計り知れないものがあった。恐らくこれを契機に首脳陣は校友の果す役割の重要性をあらためて痛感したに違いなく、爾後の学苑経営において校友とのパイプを維持し、かつ太くするという課題を負うことになったのである。

 大学改称一年後の三十六年十二月の定款改正で、維持員会および評議員会という、今日の大学経営組織の原型となる二機関が生れた。これは、評議員会が六十名余で構成されるようになったため、協議機関としては大所帯になりすぎ円滑な議事運営に支障を来すようになったこと、また、前記の校友とのパイプを太くする課題に応えると同時に彼らの直接参加の許容範囲を限定しようとしたことが、理由として考えられる。従来は恐らく大隈の了承を得た上で任命されたと推測される二名の理事は、次段で述べる維持員会において、過半数の同意により維持員中から選任されることとなった。二名のうち一名を校長、他の一名を学監と称するのは従前通りであるが、任期を三年と定められた両者は総会の決議に基づき校務を管理する。定員一名ないし二名の監事は、従来通り会計監督と称して会計監査を職務とし、任期は二年で、やはり維持員会において、過半数の同意により維持員中から選任される。

 新たに設けられた維持員とは社団法人早稲田大学の「社員」の呼称で、定員五ないし十名の維持員は全員終身であり、従来は社員会と呼んだ維持員会において、学苑に関する重要事項を協議し、過半数の同意によって議決することとなった。このように、私塾時代の評議員会、また初期社団法人時代の社員会および評議員会の機能を継承・合体した維持員会は小ぢんまりした組織ながら、学校経営に最も重要な機能を果すところの最高議決機関であった。

 こうした性格を持つ維持員および維持員会の新設に伴い、旧来の大所帯の評議員および評議員会は大学経営に対して間接的な役割を演ずるものへと変えられた。すなわち、評議員には、創立者大隈重信ならびに維持員が学苑の基金寄附者および関係者の中から推薦した三十名と、中央校友会の選挙により在京校友の中から選ばれた二十名との合計五十名のほか、五十名以上の会員を有する地方校友会が選挙により選任した若干名(最初は四名であったが、その後増加していく)が嘱任され、任期はすべて二年であった。評議員に学苑の教職員が加わることがあっても、その中核を成すのは寧ろ校友である。私塾時代および初期社団法人時代の評議員会と名称こそ同じでも役割が異り、学苑の重要事項を決議する権限がなくなった。評議員会は決議を経て維持員会に意見を提出することができるものの、校長および学監より学事と会計の報告を受け、それを承認することが主要な機能となり、いわば学苑の近況を社会に伝えるパイプ役として期待されたのである。

 この三十六年の法人組織変更に連動してもう一つ見られた大きな変化は、教授会議の発足である。これは法人運営とは直接の関係がないが、学苑の最高意思決定機関の構成員の範囲が狭められた結果、教学の現場の意見を広く吸い上げる必要から設けられたものと思われる。校長と学監によって全講師中から選ばれた「教授」により構成される教授会議は、「教授の方針、教則の改正等、凡て教務に関する重要の事項」を議定し、全学の教学に関連する件を担当するとされた。教授会議は欧米の大学機構に倣って設けられたものであったが、発足後暫くの間は実質的には機能しなかったと言われている。しかし、教学を担う人々の要望や意見が大学経営に直接反映される制度的保証の発端とはなったのである。因に、この会議のメンバーに任じられた期間(教授会議の呼称が教授会と改められた明治四十年の翌年に三年と定められた)のみ当該講師は「教授」と呼ばれたのであるが、今日のように教員の身分を示す言葉としての教授と講師とに分化したのは明治四十四年である。教授会のその後については一一一頁に述べる。

 なお、三十六年十二月の新陣容は、校長鳩山和夫、学監高田早苗、会計監督市島謙吉、維持員は鳩山和夫高田早苗天野為之坪内雄蔵市島謙吉大隈信常田原栄の七名、評議員は五十四名であったが、教授会議員の定数は特に設けられていなかった。